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<ノベル>
梅雨入りしたと発表されてすぐにもかかわらず、空は青く澄み渡っている。日差しは温かいが、湿度があまりないせいで過ごしやすい陽気だ。
桐生清華は、学校が午前中で終わりだったのもあり、パニックシネマでポップコーンを買い、それを片手に、街を散策していた。
空を見上げると、雲がゆるやかに流れ、口の中にもじんわりとポップコーンの味が広がる。ささやかだけれど、幸せな時。それを、ゆっくりと味わっていると――
突然の衝撃が来た。
清華が静かに顔をあげると、周囲にはポップコーンが散乱し、目の前には自分と同じように尻餅をついている少女がいた。どうやら、ぶつかってしまったらしい。
「あの、ごめんなさい! ボーっとしてて!」
少女は、頭を何度も下げて謝る。清華は笑顔で首を左右に振ると、ゆっくりと立ち上がり、スカートの裾を直し、手を払ってから右手を差し出した。少女は少し躊躇ってから、その手を握る。
「ありがとう」
「いえ。……わたしで良ければ手伝いましょうか?」
「え?」
そう言って目を瞬かせる少女に向かい、清華はもう一度微笑む。
「何だか、大変そうに見えるから。……わたしの勘違いだったら申し訳ないんですけど」
それを聞き、少女はもう一度「ありがとう」と言い、そして話し始めた。
■ ■ ■
(どうしたんだろう? あの子)
取島カラスが感じたのは、些細な違和感だった。それは無視しようと思えば無視できたであろうし、日常の中に簡単に埋もれてしまうような類のものだったかもしれない。
その少女は、まるで異国の地で迷子になったかのように頼りなげだった。何かに悩むように、躊躇うように、虚空を見ては視線を彷徨わせている。でも、それはもしかしたら、思い人に告白する前だからかもしれない。それとも本当に、ただ道に迷っただけかもしれない。
けれども、カラスの直感は告げていた。彼女をひとりにしてはいけないと。
気がつけば、カラスは静かに歩き始めていた。
■ ■ ■
マリアという少女がいた。
彼女は、美しく透き通った眼差しで、闇を見据えていた。
そして、交わした約束は、果たすことが出来なかった。
だからかもしれない。同じ名を耳にした時に、興味を持ったのは。
来栖香介は、ここのところ、よく耳にするようになったその名を手繰り寄せるかのように街をうろついていた。記憶を失う人々と、マリアという存在との関連性は分からない。ただ、会ってみたいと思った。それだけだ。
香介は、気まぐれな足の赴くままに任せる。
■ ■ ■
シャノン・ヴォルムスは、綺羅星ビバリーヒルズに程近いところにあるビルから出ると、軽く息をついた。今回は護衛の仕事だったが、特に何事もなく終えることが出来た。ほとんど休む間もなかったが、それは良くあることだ。
「シャノンさーん!」
これから酒でも飲みに行こうかと歩き出した途端、聞き覚えのある声に呼び止められ、振り返る。そこには、駆け寄ってくる沙羅の姿と、その後ろを静かに歩いてついてくる清華の姿があった。
「シャノンさん、お願い。助けて欲しいの」
すがるように言う沙羅に、前にも同じようなことがあったと思いつつも、シャノンはつい、内容も聞かずに頷いてしまう。清華の方を窺うと、彼女はどこか、遠くを見ていた。
「成る程。目撃情報や、具体的にどこに現れるかが分かれば良いのだが……」
沙羅から詳しい話を聞き、シャノンはあごに手をやる。
「わたしは、地道に歩き回って情報集めをするのが良いと思います」
清華は、静かな声でそう言う。彼女の知る『便利屋』は、そうやって情報を集めていた。それを聞き、シャノンは曖昧に頷く。
「確かに情報が少ない以上、そうすることが良いとは思うが、虱潰しに……では時間がかかりすぎてしまう。何か目星でもつけられればな」
「久川の感じだと、あまり時間がないと思います」
沙羅の言葉に、しばし沈黙が流れる。再び口を開いたのは清華だった。
「そもそも、久川さんは、どこでマリアと接触したのでしょうか? 二宮さんは聞いてない?」
「えっ……ご、ごめん……」
「ううん、気にしないで。……接触した場所も何も分からないのだったら……」
「一番情報がありそうなのは、自宅か」
そこで、沙羅に視線が集まる。彼女は自信がなさそうに首をすくめた。
「学校で聞けば教えてくれる……かも……」
「とにかく行ってみましょう」
「そうだな」
三人は、沙羅の案内で、彼女たちの学校へと向かった。
■ ■ ■
カラスは、頼りげのない足取りで歩く少女から一定の距離を置き、でも見失わないようについていく。少女は、時々立ち止まり、ぼんやりとショーウィンドウを眺めたり、通り行く人を見ていたりしていたが、確かにどこかには向かっているように思えた。
そして、幾度も角を曲がり、細い路地を通った後、少女は小さなマンションの中に入っていった。カラスもそっと後を追う。マンションのポストを確認すると、二階に『占い マリア』と書かれた札が入っている。そこで、カラスの記憶が繋がった。
最近良く耳にする『マリア』という名前。
様子のおかしい少女。
カラスは、急いで少女の後を追い、階段を上る。そしてドアを開け、中に飛び込んだ。室内は、これといって特徴のないオフィスのようになっていて、ソファーに座っていた少女が、おびえた顔でこちらを見ている。
「俺は、君に危害を加えたりはしない。ただ、君が思いつめた感じで、ここの表札がマリアだったから――」
見ず知らずの少女を尾行してきたのだから、怪しいことこの上ないが、とにかく害を与える気はないことを分かってもらおうと、カラスは早口でまくし立てる。すると、少女が奇妙な表情を浮かべた。
「もしかして、二ノ宮が――?」
彼女が口にした名字に該当する少女を、カラスは知っている。そして、よく見れば目の前の少女の制服にも見覚えがある。
いずれにしろ、これを利用しない手はない。
「ああ、実はそうなんだ」
「ひどいよ。ペラペラ喋るなんて……でもいいや。もう、全部マリアに忘れさせてもらうんだから……」
少女の言葉は、とても投げやりだった。
まるで、他人の話をしているみたいに。
しかし、カラスの中では、噂が確実なものとなった。やはり、記憶喪失事件にはマリアという存在がかかわっており、そして、目の前の少女も、記憶を消されようとしているのだ。彼女自身の意思によって。
「君は……辛い思い出だからと消してもらって、それでいいの? 大事な人たちのことや思い出を、全て忘れて本当に幸せ?」
「うるさい! もう、ほっといてよ!」
少女はこちらを向きもせず、言葉を放り投げた。
そして、カラスは鈍い衝撃を後頭部に感じ、今さらながら気づいた。
部屋の中に、少女しかいなかったことに。
そして、意識が暗転する。
■ ■ ■
「いらっしゃいませ。どのようなご相談ですか?」
金髪のショートへアに、鳶色の目。雰囲気作りはする気がないのか、もしくはその方が怪しさがなくて受けるのかもしれない、黒のカットソーにジーンズという服装。
「マリアというのはあんたか?」
香介は、女の前に腰を下ろすと、そう切り出した。
女は、眉根ひとつ動かさないで答える。
「はい」
その言葉に、かすかな違和感を感じながらも、香介は続ける。
「何故、人の記憶を消す?」
「その方が、苦しんでいるからです。そして、その方が望んだからです」
記憶を消して欲しいと望む者の気持ちが、香介には理解できなかった。もし記憶を失えば、自分は今の『来栖香介』ではなくなる。そもそも自分が『自分』であるという感覚すら希薄で、それを繋ぎとめておくために、どんなに厭わしいことでも刻み込んでおきたいのに、それを失いたいとは思わなかった。
けれども、それを放棄したいという人々もいるのだ。理解は出来なくても、否定するつもりはなかった。そして、マリアはマリアなりの正義を持って、それを行っている。
「あんたを守ってやってもいい」
香介の言葉に、マリアは訝しげな表情をする。
「あんたの存在を嗅ぎ付けて、あんたをどうにかしたいと思っている連中がいるってことだ」
その情報を、ふとしたことで耳にした。容貌からするに、恐らく香介の想像に間違いはないだろう。だから、マリアを守ろうという気が起きたのかもしれない。
香介は、自嘲気味に笑うと、窓の外を見やった。
■ ■ ■
「何だか泥棒に入ったみたいで気がとがめるなぁ……」
「非常時だから仕方ないです」
久川の部屋を調べながらぼやいた沙羅に、清華が答える。その間も、手は休めない。
あの後、学校で久川の住所を聞いた三人は、久川の自宅を訪れ、手が離せない久川から忘れ物を探してきて欲しいと頼まれた、ということにして、今に至る。いったい何の手が離せないのかなどと聞かれれば答えようがないのだが、久川の母は、意外にもすんなりと家に上げてくれた。シャノンはその間、近所に聞き込みに回っている。
清華が本棚を調べていた時、隙間から何かが落ちる。
拾い上げると、それは写真だった。写っているのは、中学生くらいの少女が二人。恐らく、久川とユミという幼馴染だろう。写真には破った後があり、それをセロハンテープで補修してあった。そこに、久川の葛藤が伺える。清華には、それがまた腹立たしかった。久川が生きてきた証はこの小さな部屋にですらたくさん残っていて、それは、決して簡単に消せるものではないのだ。そして、今はいない親友の記憶を、自分が苦しいから消すなどというのは、清華には許せることではなかった。自分自身も失った友人や、犯した罪の記憶に苦しんでいることもあり、抱いた怒りは大きくなる。
視線を部屋の隅にある小さなテーブルに向けると、二人分の紅茶とクッキーが置いてある。それは、久川の母親が持ってきたものだった。友達が家に来るなんて久しぶりだ、と彼女は嬉しそうに言った。その母親のことも、久川は簡単に忘れ去ろうとしている。
何気なく、写真を裏返してみる。
そこには、走り書きのように、文字と番号が記されていた。
■ ■ ■
清華たちが久川の部屋を調べている間、シャノンはこの近辺で聞き込みをすることにした。
どう考えても、久川の友人として、少女たちの中に自分が混じっているのは無理があったし、それならば、ただ待っているよりも少しでも情報を集めたほうが良い。
けれども、今のところ結果は芳しくなかった。次はどちらへ向かおうかと考えていた時、シャノンは背後に視線を感じ、振り返る。そこには、白い猫を抱いた老婆が立っていた。彼女は、こちらを険しい表情で見ている。
「お前たち、あの子のこと、こそこそ嗅ぎまわって何するつもりだ?」
老婆の言葉を理解するのに、少し時間がかかった。
「『あの子』とは、久川のことだろうか?」
シャノンがそう言うと、老婆は頷いた。猫がにゃあ、と鳴いて腕から滑り降り、近くの日陰に行って座る。
「誤解しないで欲しい。俺たちは彼女をどうこうするつもりはない。ただ……」
「あの子は優しい子だ。こんな婆あのことも気遣ってくれる。だから、あの子が決めたことの邪魔をするな」
シャノンの言葉をさえぎり、老婆は強い口調で言った。
――彼女は、知っているのだ。
「貴女は、それが正しいことだと思うのか? 本当に彼女にとって良いことだと」
「思わねぇさ!」
老婆の体は、小さく震えていた。それは怒りからか、悲しみからか、それとも悔しいからなのか、シャノンには分からなかった。
「でも、あの子の苦しんでる姿を見ると、かわいそうでかわいそうで、楽にしてやりてぇと思うんだ。死ぬわけじゃなし、人生やり直して楽しく暮らせるならいいじゃねぇか!」
確かに、それも一理あるのかもしれない。シャノン自身も、迷いはあった。久川の人生は久川のものだ。そして、記憶を消すことを久川自身が選んだのなら、それを止める権利は誰にもない。
「でも、良く考えるべきだと俺は思う。忘れ去る他にも、手段はあるはずだ」
老婆は、ただ黙って立っている。シャノンは、言葉を続けた。
「ご婦人、貴女はどうしたい? 今ならまだ間に合うはずだ。彼女の選択とは別に、彼女の友人として、貴女はどうしたい?」
シャノンは真っ直ぐに老婆の目を見る。
しばしの沈黙が訪れた。
そして彼女は両手で顔を覆い、静かに泣き崩れた。
■ ■ ■
気がつくと、カラスは不思議な空間にいた。
まるで水の中にいるかのように、方向や自分の位置が定まらない。上だと思っていたところが次には下になり、前だと思っていた方向が、後ろになる。目を凝らしてみたが、ぼんやりとした明かりが見えるだけで、遠くまでは見えない。
後頭部に鈍い痛みを感じ、手をやろうとして、自分が後ろ手に縛られていることに気づいた。あの時、後ろから何者かに殴られ、気を失っている間に、ここに連れて来られたらしい。迂闊だったとは思うが、後悔してもどうしようもない。
足は自由だったので、とりあえずカラスは立ち上がると、歩いてみることにした。しかし、足下がおぼつかない上に、一向に進んでいる気配がない。どうしたものかと考えあぐねていると、遠くの方で、何かが舞っているのが目に留まった。
(鳥……?)
それは、小さな鳥のように見えた。
何とかあそこまでいけないだろうか――そう思った途端、目の前に白い鳥が飛んでいた。カラスは突然のことに戸惑う。その間に、白い鳥は逃げていく。
もう一度思った。白い鳥を追いたいと。
すると、次の瞬間には目の前に再び、白い鳥の姿があった。
そこで確信を得たカラスは、手を縛っている縄を解きたいと思った。だが、それは効果をもたらさなかった。
しばし考える。
この空間は何だろう。そして、作られたものだとしたら誰が作ったのだろう。
その答えは、ひとつしかなかった。危険はあるかもしれないが、それは最初から承知の上だ。
そう意を決すると、カラスは強く念じた。
■ ■ ■
マンションの前には、見知った顔の男がいた。
「来栖、何故ここにいる? 手伝ってくれる気はなさそうだが」
「雪辱戦ってヤツ? ――オレたちの間には、また『マリア』がいる」
問いかけるシャノンに、香介はそう言って口の端に笑みを浮かべ、答える。
「ふざけるな」
あの時の記憶が、苦い光景となってシャノンの中に広がる。
「ふざけてなんかいねぇさ。ただ、約束しただけだ」
対峙する二人の空気を破るように、階段を下りてくる音が聞こえた。やがて、金髪の女が現れる。
「何であんたが出てくる?」
香介の言葉に、女は瞳を前方に向けたまま、呟く。
「私だって、守りたい約束があるもの」
「あなたが、マリアですか?」
清華が尋ねると、女は静かに答えた。
「そうよ」
「どうして人の記憶を消したりしてるんですか? どうやって記憶を消すんですか? 記憶を消された後の人はどうなるんですか?」
「その人が苦しんでいて、その人が望むから消すのよ」
矢継ぎ早な清華の質問に、有無を言わせぬような答えが返ってくる。
「確かに、貴様が言うように決めるのは自分自身だ。辛い記憶をなくしたいという思いも分からないでもない。ただ、それでは何も変わらないだろう?」
正しいか正しくないかは分からなかった。幸せな記憶だけで過ごせるのなら、それも良いのかもしれない。でも、辛い記憶も、大切な人との絆のひとつだと、シャノンは思う。
「変わるわ」
けれども、マリアはきっぱりと断言した。シャノンには、何故かそれが奇妙に感じた。
「へぇ。意外だな、シャノン。オレには記憶を消したいなんて思うヤツが理解できねぇが。――あの時と逆だな」
「立場は同じだ」
香介に言葉を返しながらも、本当に立場が『同じ』なのか自信はなかった。でも、今やれることをするだけだ。
香介はシャノンとの間合いを計り始める。シャノンは後ろにいる少女二人を下がらせようと振り向いた。そこには、緊張した面持ちの沙羅と、不敵な笑みを浮かべている清華の姿があった。
「はっ!」
気合とともに、マリアが地を蹴って動く。そのまま放たれた右手の突きをシャノンは首を捻ってかわし、左足でマリアの腹を弾く。マリアは後ろに飛んで勢いを殺した。そのまま軽やかに着地する。明らかに訓練された動きだ。
シャノンはマリアを見据えると、油断なく構えた。
マリアに続きシャノンへと向かおうとした香介は、嫌な予感を覚え、上半身を反らせた。今まで喉仏があった場所を、鈍色のものが通り過ぎる。
「ふふっ。流石くるたんだね」
カチカチカチ、と音をさせながら、左手にカッターナイフを持った清華が、ニヤリ、と笑みを浮かべる。
「はっ。気色悪ぃ名前で呼ぶんじゃねぇよっ」
そう言いながら香介は、近くに倒れていた小さな自転車を、清華に向かって投げ、そしてそれに隠れるようにして、一気に間合いを詰めた。清華のカッターナイフにより、目の前で自転車は紙のようにバラバラになるが、香介はそれに次々と拳を当て、清華に叩きつけようとする。清華はやむなく身を引いたが、幾つかの残骸が肌を掠め、血の跡を作った。
「痛いじゃないか、くるたん」
「そりゃあんたがバラバラにしたのが悪ぃんだよ、カッター殺人鬼」
軽口を叩きながらも、お互いに気は緩めない。
「くるたんと戦える日が来るとは、ファン冥利に尽きるね」
「変態だな」
そして、どちらからともなく仕掛ける。
素早くマリアとの距離を縮め、シャノンは足払いをかける。それを余裕でかわしたマリアだが、本命の回し蹴りには対処できなかった。もろに喰らい、バランスを崩す。しかし、片足で何とか堪えると、次の瞬間には拳を繰り出してくる。シャノンはその腕をつかむと、彼女自身の勢いを利用して後方へと投げた。背中を強く打ち、マリアはくぐもった悲鳴を上げる。
その時、光がほとばしった。
■ ■ ■
「あなたが、マリアですね?」
カラスが問いかけると、女は微笑んだ。
「はい」
「その子の記憶は、もう消してしまったのですか?」
カラスの視線の先には、少女が赤子のように丸くなって眠っていた。
「いいえ」
「記憶を消すのを、やめてもらえませんか?」
そこで、マリアは少し不思議そうな顔をした。
「なぜですか?」
カラスは、しばし考え、口を開いた。
「それなら、その子と話をさせてください」
するとマリアは頷き、細い指先を少女の額に当てた。少女は幾度かまぶたを震わせた後、目を開ける。そして、カラスを見ると、驚いたような顔をし、目を伏せた。
「自己紹介がまだだったね。俺は取島カラス。君は?」
「……久川」
久川は、小さな声で言う。
「久川さん、俺はね、ある時期の記憶がないんだ」
「え……?」
それを聞き、久川は小さく声を上げた。
「でも、いずれその記憶と向き合う時が来ると思う。それがどんなに辛いものであっても、向き合って、乗り越えなくちゃならないと思ってる。それは俺のもので、俺の責任だから。……君がどんな辛い思いをしてきたのか俺にはわからないし、君の選ぶ道を非難するつもりもない。でも俺は、大事な人たちの記憶が消えてしまう方が辛いし、忘れたくないと思っている。君には、忘れたいような思い出もあるかもしれない。でも、忘れたくないような思い出もあるはずだと思う」
カラスが話している間、久川は、ただうつむいていた。
長い沈黙の後、動いたのはマリアだった。
「どうやら、私は知らなければならないようですね」
その言葉とともに、世界が開けた。
「マリア、何故出てきたのです!? お戻りください!」
光が収まり、階段から姿を現した水色のドレスを纏った黒髪の女を目にし、マリアは悲痛な声を上げた。
「ジュリ、もう良いのです。私は知らなければいけません」
そう言って、マリアと呼ばれた女は、長いまつげを瞬かせ、憂いげに微笑む。その後ろには、カラスと久川がいた。
シャノンの感じた違和感はこれだった。どうしても戦っていた女が、話に聞く『マリア』だとは思えなかったのだ。思わず香介の方を見たが、彼は小さく肩を竦めただけだった。
しばらくの間、マリアはただ立っていた。吹いてきた風に揺られ、長い黒髪がほっそりとした体に纏わりつく。
そして、彼女は悲しそうに言葉を紡いだ。
「……私は、間違っていたのですね」
「マリア、そんなことはありません! お願いですからお戻りください!」
金髪のマリア――ジュリは、涙を流しながら懇願した。
「ジュリ、勝手なことをしてごめんなさい。でも、もう戻れないのよ。それは、あなたも知っているはず」
「どうして、こんなことをしているんですか?」
清華は、『本物』のマリアに、先ほどと同じ質問をする。マリアは、静かに話し始めた。
「私のいた世界は、人々の『記憶』で成り立っていました。楽しい記憶は花となり、水となり、光となりました。悲しい記憶も土となり、風となり、宵闇となりました」
マリアは、遠い表情をした。
「この世界に降り立った時、私には何が出来るのだろうと考えました。この世界に来た以上、きっと私にしか出来ない何かがあるのではないかと思いました。そしてジュリに、悩んでいる人々がたくさんいることを聞きました。それならば、助けてあげられないかと思ったのです。……でも、それは間違いでした。私は、自分のことしか考えていませんでした」
そこで、マリアは隣にいた久川の頬にそっと触れる。
「あなたはどうしたい? あなたが決めてください」
皆が見守る中、久川は小さな声で言った。
「あたし、忘れたくない。ユミのことも、お母さんのことも、みんなのことも……」
そうして泣きじゃくる久川の背中を、カラスが優しく叩く。
それからマリアは、うずくまっているジュリの側まで近寄ると、顔をそっと両手で包み、穏やかに言った。
「ジュリ、今までありがとう。どうか幸せな人生を送ってね」
「マリア……」
ジュリの頬を、涙がとめどなく伝う。
「それじゃあ、まるで死ぬみたいな言い方じゃねぇか」
抱き合う二人を見て、香介がぽつりと言う。マリアは顔を上げると、静かに頷いた。
「私は『繭』の中から出れば、生きることはかないません。そして『繭』は『記憶』を養分にする木のようなもの。皆さんに記憶をお返しすれば、全てが逆流し、流れ出してしまう」
「何だよ、それ……」
また、守ってやれなかった。
微笑むマリアを見て、どこか疲れに似た感情が胸をよぎる。
そして、どうしてジュリがあれだけ確信を持って行動できたのかがわかった。
彼女は、マリアをただ守りたかったのだ。
誰も、何も言えなかった。
マリアの体が、淡い光を放ち出す。
皆が見守る中、彼女はさらさらと風に流れ、やがて消えた。
■ ■ ■
その後、久川はしばらく落ち込んでたみたいだけど、少しずつ元気を取り戻してる。人の心の傷なんて、外からじゃ分からないけど、あたしに色々悩みを打ち明けてくれるってことは、少なくとも前よりは無理してないんだと思う。
他の記憶をなくした人たちにも、一斉に記憶が戻ったみたいだけど、噂では、多くの人が前よりも前向きに考えるようになったり、本音を言ったり、疲れたら休んだり、人の助けを借りるようになったりしてるんだって。
それを聞くと、マリアに記憶を消されたのも、何か意味があったんじゃないかって思う。
それから、ニュースでやってたんだけど、街のあちこちで、新種の花が咲いてるのが見つかったんだって。あたしも見たけど、水色の、綺麗な花だったよ。
マリアが言っていた言葉をね、時々考えるんだ。
あたしも、この世界に来た以上、あたしにしか出来ない何かがあるんじゃないかって。
でもね、そんな大したことは出来そうにない。
だけど、梢や美月があたしに大切な時間をくれるように、カラスさんや桐生やシャノンさんや来栖さんがあたしに素敵な思い出をくれるように、マリアやジュリがあたしに貴重なことを教えてくれるように、もしかしたらあたしも何かを、誰かにあげられているのかもしれない。
もしあたしにそれが出来ているなら、きっと、みんな誰かに、たくさんのものをあげられているのだと思う。
それはきっと、その人にしか出来ないことなんだ。
それじゃ、今回の話はこれでおしまい。
良かったら、また思い出してやってね。
サラ
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クリエイターコメント | こんにちは。鴇家楽士です。 お待たせ致しました。ノベルをお届けします。
皆さんからいただいた素敵なプレイングを出来る限り活かそうと頑張ってみたのですが、少しでもお気に召していただければ嬉しいです。
それでは、ありがとうございました! またご縁がありましたら、宜しくお願い致します。 |
公開日時 | 2008-06-07(土) 00:20 |
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