★ 雨に追われて ★
クリエイター有秋在亜(wrdz9670)
管理番号621-7192 オファー日2009-03-27(金) 11:52
オファーPC コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
<ノベル>

 雨が、降っていた。
 何を飲み込んだのかというぐらい、雲はどんよりと重苦しく垂れこめている。その暗い灰色が支配する中、コレット・アイロニーはぱたぱたと薄く張った水たまりを叩くように道を駆けていた。
「トト、大丈夫? 窮屈じゃない?」
 濡れないようにと鞄に押し込めた真っ白なバッキーを気遣いつつ、コレットは緩い坂を下って行った。大学を出たときはぱらついていただけなのに……綺羅星学園の門をくぐった時のことを想い返して彼女は瞳を曇らせた。足元はすでに跳ね返った泥水で濡れている。かざした手も、雨を避けるのにはまったく役立っていなかった。
 いよいよ激しくなってきた雨に、突然目の前がほんのすこし、白く閃く。
「――きゃっ?!」
 稲光に一拍遅れた雷鳴に思わず足を止めたコレットは、あたりを見回した。このままこうして帰路を急ぐより、どこかで雨宿りをしたほうがよさそうだ。見渡せばちょうど、廃屋のようではあるが家が一軒建っていた。外壁に雨水なのか、何かの染みが見え、地面には雑草が生い茂っている。人の手が入らなくなっていくばくか経っているような佇まいではあるが、ともかくコレットは軒下に駆け込んだ。屋根はまだ無事らしく、雨の音が少しだけ遠くなる。鞄のふたのあたりで出ようともそもそ動いていたトトを出してやり、ぼんやりと地面を打ち続ける雨を見上げた。
 ――ぱたぱたぱた……
 単調に雨は落ち続ける。廃屋の壊れた雨樋から、とん、とん、とん、とんと一定の間隔で地面に雫が落ちていた。

 どれだけそうしていたのだろう。そんなに長くはなかったような気がする。ふいに後ろからそっと声をかけられて、コレットはそちらを振り向いた。
「お嬢さん、雨宿りしているのなら、中へ入りなさいな」
 それは年を重ねた柔らかさのある、女性の声だった。廃屋と思っていたその家の戸を押し開き、コレットの方を見ている。年のころは……初老といってもいいかもしれない。くすんだ髪をしたその女性は、家の中にコレットを招き入れた。風も避けられるし、折角の好意を無碍に断るのも気が引ける。そう思ってコレットは彼女の後について家に足を踏み入れた。
 あの……ありがとうございます。そう言って家の中を少し見回したコレットは、招かれるままに奥へ入るのを躊躇った。既視感が彼女の足を僅かにひっぱった。――銀幕市ではほとんど思い出すことのなかったあの家と、この家がそっくりだったのだ。
「狭いけど、どうぞその辺りの椅子にかけて頂戴」
 お茶を淹れてくるわね、と女性は言ってキッチンの方へ姿を消す。コレットはそちらを見て困惑した。キッチンの位置も一緒だ……この、椅子のつくりも。見上げた近い天井から下がる電灯も。……ずっと昔にコレットが両親と暮らしていた、あのみすぼらしい家にそっくりだった。
「どうして、このようなところで……?」
 すすめられた椅子に座り、そこから見える背中にコレットは問いかけた。
「あぁ……うちには昔、悪魔がいたから」
 何気なく女性は応えて、どうやら急須を傾けたようだった。とぽとぽと液体が注がれる音が聞こえてくる。彼女はそれを盆に載せてこちらに戻ってきた。
 悪魔がですかと呟くように繰り返す自分の声が遠い。……『悪魔』。何度となくこの家で言われてきた言葉が、じわじわと心の奥の記憶を呼び戻す。
「悪魔ばかり幸せそうに暮らしているのが許せないのよ……」
 彼女はそう言いながらことりとコレットの前にコップを置いた。声は静かだが、コップと机が小さく幾度もぶつかって、かたかたかたかたと細かな音を立てる。机でもないどこかを見つめる女性の目が、何も見ていないことに気付いたコレットは、突然息苦しさを覚えた。悪魔がいたから。その一言が、コレットの意識の奥から過去の彼女を取り戻しに現れる。ひんやりとした手に絡め取られるように、次々と降ってくる言葉が重く降り積もる。悪魔のくせに幸せそうに暮らして。許せない。ゴミのくせに――
「さあ、どうぞ」
 勧められたコップをそっと手元に寄せる。どろりと大儀そうに揺れた中身は、どこか粘着質に見える。わずかに濁った緑色の液体からは、顔を少し近付けただけでつんと鼻の奥を刺す劇臭がした。
 これは……これを飲んだら、いけない。
 生き物としての本能が、それを口にするのを躊躇わせる。コップを見つめるコレットに、向かいに座った女性から静かに声が掛けられた。
「飲めないの? 遠慮なんかしなくていいのよ」
「私……」
 飲めません、とコレットは消え入りそうな声で呟く。
「ほら、飲みなさい」
 女性の声が覆いかぶさるように響く。コレットが何も言えぬまま見やると、彼女は茫漠とこちらを見る目に涙と突き刺さるほどの憎しみを湛えていた。どうしてそんな目を向けるのかなどとは思わなかった。ああ……私がこれを、飲まないからなんだ。
「飲みなさい」
 コップに添えた手が震える。鈍重に中の液体が揺れた。劇物の匂いが、鼻をつく。
「飲んで、死になさい」
 口がうまく動かない。喉もうまく動かない。指先はすっかり冷えて白くなっている。でも飲みたくない。でも飲まなきゃ。だって、だって――
「死になさい」
 だって私が、悪魔だから。
「それを、飲みなさい」
 やだ。そんなこと言わないで、お母さん。
「飲んで、死んでちょうだい」
 私だけ、私だけこのまちでしあわせになったから……?
「死んで」
 ごめんなさい。ごめんなさいお母さん、だから――
「それを飲んで、死んで」
 ごめんなさい。飲むから。飲んで、いなくなるから。
 手元のコップを握り締めて、そっと持ち上げる。思った以上に軽いその液体が、たぷんと重い音を立てて揺れる。コップのふちに唇がつく。ごめんなさい。あと少し傾けなければ。ごめんなさい。これを飲むから、だから。コップの中を液体がゆったりと滑り落ちてくる。ごめんなさい。もうすこしすればきっととろりとした液体が口に滑り込むんだ。――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 軽い音を立てて、手から外れたコップが床に落ちた。中身が、じわりと広がっている。

 ――はっ、はっ、はぁっ、はっ。
 息をついて見下ろすと、手を叩いたものが見えた。白く、ほんの少しの何かしかつかめないような小さな小さな手。丸っこく愛らしい体躯。薄暗く、淀んだこの風景のなかで輝かんばかりの真っ白な塊。……それは、希望のかたち。

 *

 とん、とん、とん、とんと相変わらず雨樋は一定の間隔で雫を落とし続けている。手を叩かれた拍子に目が覚めたコレットは、ぺちぺちと彼女の手を叩いている真っ白なバッキーを見つけた。ここは……廃屋の裏、だ。壊れた雨樋が、ぽたぽたと雫を落としている。廃屋を見やると玄関の位置が違う。――家になど、入っていなかった、のだ。
「――トト」
 呼びかけられると、バッキーは顔を上げて鼻先をコレットの腕に小さく押しつけてきた。そのままきゅっと瞳を細めて小さな指先でしがみついてくる。あたたかいその生き物の名を呼んで抱き寄せ、そのままぎゅうっと抱きしめると、うずくまったコレットの腕の中でトトが優しく頬に前足を寄せてきた。
「……っ」
 その白い姿が、ふわりと輪郭を無くす。――目の奥が、ずきずきと痛んだ。あとからあとから涙があふれてくる。コレットはトトを抱き締めたまま、しばらくの間、小さくなっていた。


 ――雨の音はだんだんと静かになってきた。静かに見守るように、とん、ぱたん、とんと先ほどよりゆっくり、雨樋はリズムを奏でている。





クリエイターコメントこのたびはオファーありがとうございました。
頬を濡らすは涙か雨か。

お楽しみいただければ、幸いです。
公開日時2009-04-03(金) 18:40
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