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<ノベル>
春日井 公彦(カスガイ キミヒコ)は、箒で床を掃除する。公彦の経営する理容院が閉店する時間である事もあり、辺りは既に暗い。
「あ」
公彦は、箒を持つ手を止める。床に、何かが落ちているのを見つけたのだ。
手で拾い上げれば、それはボールペンの蓋だった。客が落としていったものだろうと思いながら、公彦は蓋を見つめる。
(確か、これはあのお客さんの)
公彦の脳裏に、老人の顔が浮かぶ。ここら辺に、玩具屋があるかと尋ねられ、場所を教えたことを思い出す。その際、老人は場所をメモに取っていた筈だ。
「その時、落としたんだな」
そそっかしいな、と小さく笑うが、その笑みはすぐに消える。
老人が玩具屋の場所を知りたがったのは、孫へのプレゼントを買う為だった事も、同時に思い出したからだ。
『孫が、小学校に入学するんだよ』
老人はそう言って、優しそうに笑った。
『ついこの間まで、立ったばかり、歩いたばかりだった気がするんじゃが……年月が経つのは早いねぇ』
愛しそうに話す彼の言葉に、公彦は「そうですねぇ」と頷きながら、髪を切っていた。よくも腕が震えなかったものだ、と今ならば思う。その時は、目の前の頭に集中できていたのだろうとも。
公彦がプレゼントを買ってやりたいと思う娘は、もう、どこにもいないのだ。
笑ったわ、と妻に言われ、公彦は娘を覗き込む。真赤な顔をした娘の表情は、よく分からなかった。
「笑ったのか? 本当に?」
生まれたばかりの赤ん坊は、まだ表情が無い。だから、笑ったかどうかも分からない。だが、妻が余りにも嬉しそうに言うものだから、公彦も最終的には「そうだな」と頷く事にした。
すると、娘が笑った。いや、笑ったような表情をしただけかもしれない。それでも、公彦には十分だった。
「……笑ったぞ」
「だから、さっきから言っているじゃない」
「違う、笑ったんだ。俺を見て、この子は笑ったんだ!」
心が明るくなるような笑顔だった。だから、名前を決める時に一番に浮かんだ。
ひかり、という名を。
公彦は娘の笑顔がもっと見たくて、いないいないばあを試みる。が、返って来たのは笑顔ではなく泣き声。
「ど、どうしたんだ? 何故泣くんだ?」
おろおろとする公彦に、妻は笑ってみていた。公彦は慌てて妻に助けを求めたが、妻は「自分のせいでしょ」と言って笑って返した。
どうしていいか分からず、公彦は娘を抱き上げた。抱き上げて、あやして、何度も「大丈夫大丈夫だよー」と声をかけて。大人より高い体温を抱きしめ、小さな体の何処にあるのかと圧倒される泣き声におろおろしながら。
徐々に収まる声に、少しだけほっとしたりして。妻も「あらあら」と笑ったりして。
甘く、優しく、暖かな……幸せな日々が、永遠に続くと思っていた。
公彦は、思い出す。
妻と結婚式を挙げた、幸せで包まれた日を。
明るく笑う娘が生まれた、輝かしい日を。
たまに喧嘩したり、やっぱり仲良くなったり、確実に大きく成長する娘を愛しく思ったり。そんな、日々。
永遠と思っていた日々が打ち砕かれたのは、33歳のときだった。娘は、3歳。
その日、妻は病気治療のため、手術を受けていた。妻に付き添う為、公彦は娘を父に預けた。
クリスマスだった。街中華やかに彩られ、すれ違う人が皆楽しそうにしていて、今年はどんなプレゼントがもらえるんだろうと、娘も楽しみにしていた。
公彦だって、何をあげようかと悩んでいた。手術が終わった妻と相談しなければ、なんて思っていた。
しかし、プレゼントを買う必要は何処にも無くなった。たった一本の、電話によって。
「残念ですが、お父様と娘さんは」
電話によって呼び出された妻の居るところとは別の病院で、公彦はそう告げられた。
――残念ですが。
医師の言葉が、無機質に公彦の耳に響いた。
「お父様が運転されていた車に、対向車線を走っていた大型トラックがスリップして突っ込んだのです」
――残念デスガ。
「お父様に非はありません。トラックの運転手が、スピードを出しすぎていたのです」
医者と警察が、交互に説明をする。
車の後部座席には、ケーキの箱があったという。大きなホールケーキが入った箱が。折角のクリスマスだから、ケーキでも買いに行こうかと言う話になったのかもしれない。
『おじいちゃん、ママ、いつ帰ってくるかなぁ』
『なぁに、すぐに帰ってくるさ』
『でも、クリスマスなのに』
『うーん……そういや、クリスマスだもんなぁ』
『今年は、クリスマスできないのかなぁ』
『そんな事はないさ。そうだ、じいちゃんとクリスマスするか。ケーキ買ってきて』
『ケーキ? ひかり、ケーキ、好き!』
『よし、じゃあ行くか』
容易に想像できる二人の会話に、公彦は目頭が熱くなるのを堪えられなかった。
楽しそうな二人。妻が入院中で寂しそうにしているからと、父は娘を喜ばせてやろうと思ったに違いない。
とびきり喜ばせようと、奮発して大きなものにしたりして。
――ザンネンデスガ……。
公彦は、その場に泣き崩れた。
警察も医者も、何も言わない。ただ俯いて、公彦を見ている。警察の手には、くしゃくしゃになった大きなケーキの箱がある。
くしゃくしゃになったケーキ。くしゃくしゃになったクリスマス。くしゃくしゃになった、あの、幸せな日々。
「ああああああああああ!!!!」
大声で叫ぶ公彦の前には、白い布が被せられた大小の体が、並んでいた。
手術後、目を覚ました妻の第一声は「ひかりは?」だった。
公彦は覚悟を決め、告げる。残酷な事実を。
妻は、叫んだ。手術後とは思えぬほど大きな声で、病院中の人が駆けつけるのではないかと思えるほど。
叫んで、泣いて。何度も「嘘」と「ひかり」と「いや」を繰り返して。
「もう産めない、もう産めないのよぉ!」
手術は、卵巣摘出手術。妻の体は、子どもの産めぬ体となってしまっていた。
だからこそ、失くした物が大きすぎた。居たはずの子どもがいなくなり、これからも子どもは望めぬ。
もう二度と、子は存在できないから。
そうして、妻は手術の影響で入院していた病院を退院する頃、別の病院へと入院する事になる。
「娘は、ひかりはどこ?」
泣きながら尋ねる妻は、精神病院の部屋へと入っていった。公彦はそれを見送り、失意のまま銀幕市へと訪れた。父が経営していた理髪店を継ぐためだった。
公彦は、ボールペンの蓋を強く握り締めすぎていた事に気付き、手を緩める。
銀幕市に来てから暫くして、親友夫婦を亡くした。入院中だった妻も、ハザードで命を落とした。沢山のものを、公彦は失ってしまった。
何度、このまま忘れられたら、と思っただろう。妻のように精神を患えばよかったのか、とも。だが、それを公彦は良しとしない。
「忘れてしまったら、一体誰がお前を覚えておくというんだ?」
小さく公彦は呟く。脳裏に浮かぶのは、娘の顔。公彦を見て、笑った顔。光が差したかのように、ぱあっと明るくなるような、あの笑顔。
公彦は蓋をレジの近くに置く。忘れ物をしたと気づいた老人が、取りに来るかもしれない。また明日も父と同じように店を開け、父と同じ職業をこなす公彦の元へと。
小さくため息をついた公彦の近くに、とてとてとバッキーが近づいてきた。公彦はバッキーを抱き上げ、微笑む。
「俺を心配したのか?」
バッキーは何も言わない。きょとんと、公彦を見ているだけだ。
公彦はバッキーを肩に乗せて「OPEN」になっている看板を「CLOSE」へと変える。そして、綺麗に掃除した店内を見渡し、小さく「よし」と頷いた。
「これで、明日の準備は万全だ。明日も頑張ろうな、ひかり」
公彦はそう言って肩に居るバッキーを優しくなで、理容院の電気を消した。
同じように訪れるであろう、明日のために。
<未来への光を胸に抱き・了>
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クリエイターコメント | お待たせしました、こんにちは。この度はオファーを頂きまして、有難うございます。 過去の話を踏まえ、前を向いていくというイメージで書かせていただきました。途中、目頭が熱くなりました。なんという人生ですか……。 少しでも気に入ってくださると嬉しいです。ご意見・ご感想等、心よりお待ちしております。 それでは、またお会いできるその時まで。 |
公開日時 | 2009-05-09(土) 19:50 |
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