★ 【選択を前に】 confrontation ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-7521 オファー日2009-05-02(土) 21:52
オファーPC Sora(czws2150) ムービースター 女 17歳 現代の歌姫
ゲストPC1 来栖 香介(cvrz6094) ムービーファン 男 21歳 音楽家
<ノベル>

 強引に喩えるなら、レヴィアタンは魚、ベヘモットはムカデだった。
 ならば今、銀幕市という箱庭を睥睨するマスティマは何に喩えられるべきなのだろう。虫一匹逃すまいと目を光らせるこの奇怪で冷酷な獄卒は。
 だが、あれが人の心の集まりであるというのなら、そもそも形あるものになぞらえようとすること自体が無意味であるのかも知れない。


 空を覆うあの巨大な絶望の目にその“箱”は映っていたのだろうか。
 そこはまさに箱であった。窓もなく、分厚い防音の扉と壁に四方を囲まれたそのスタジオは。
 ピアノ。レコーディングの機材。スコアを立てるためのスタンド。床に散らばる書きかけの五線譜。
 「……違う」
 「あ?」
 Soraが呟き、来栖香介はピアノを弾く手を止めた。途端に静寂が戻ってくる。
 「違う。ここはやっぱりさっきのほうが」
 淡い色のカーディガンを肩にかけたSoraはかすかに眉を顰め、静かに、しかしはっきりと異議を申し立てた。
 「そっか?」
 「お願い。今の所、もう一度」
 「ああ」
 来栖の伴奏でSoraが歌う。しかし少しすると不意に歌声が途切れた。ストップの合図だと言われるまでもなく察し、来栖も鍵盤の上から手を下ろした。
 「やっぱりさっきのほうがいいわ」
 脆弱にさえ見える容姿に反して、放たれる意見は強く、頑なだ。
 来栖は赤く染めた瞳をすいと細めた。
 「じゃあ、そうすりゃいい」
 目の前に広げられた五線譜をひょいと手に取って修正する。その無造作な手つきにSoraの眉が小さく吊り上がった。
 「……じゃあ、ってどういうこと?」
 いつもの調子で「あ?」と上げた視線が、熾火のような感情を孕んだSoraの双眸とかち合う。
 「じゃあ、ってどういう意味?」
 「前のほうがいいんだろ?」
 「ええ。確かにそう言ったけど」
 「じゃ、そうすりゃいいじゃねえか」
 何気なく放ったその言葉の何がどう決定的になったのか来栖には分からない。だが、目の前のSoraの唇がむずりと歪んだことだけははっきりと見てとれた。
 「真面目にやってよ」
 この華奢な体のどこにこんな声が隠れているのかと思うほど激しい言い方であった。
 「じゃあそうすればいいだなんて、投げやりな言い方しないで」
 「投げやりじゃねえよ。あんたがそうしたけりゃそうすりゃいいって言ってるだけで」
 「それが投げやりだって言ってるの。あたしがどうしたいかじゃなくて、貴方はどう思うのよ」
 「オレもそれでいいと思うぜ。っつーか、曲作りてえって言い出したのはあんただろ」
 「あたしは“一緒に”曲を作らせて欲しいって――」
 激情の吐露は唐突に途切れた。薄い体がわずかにかしぐ。ピアノに手をついて体を折り曲げ、Soraはひとしきり咳込んだ。痰の絡んだ湿った咳だ。思わず「無理すんな」と言いかけた来栖であったが、機先を制するように口を開いたのはSoraのほうだった。
 「……どうして」
 体を折ったまま来栖を睨み上げる目は濡れた膜に覆われている。咳込んだせいなのだろうと来栖はぼんやり考えた。
 「どうして、いつもいつも」
 途切れぬ咳の間から絶え絶えに押し出される言葉は悲痛で、壮絶ですらあった。
 「貴方、いつもそう。音楽を何だと思ってるの。どうしてそんな態度しか取れないの」
 「……何だそりゃ。関係ねえだろ、そんな話」
 「関係あるわよ。音楽だけじゃないわ、いつもいつもそんな態度じゃない。人生を何だと思ってるの?」
 不治の病に侵された少女の前で来栖は不快げに眉根を寄せた。
 「んなこと関係ねえだろ。曲を作りてえとか言って、説教が目的か? めんどくせえ」
 「面倒くさいって、貴方――」
 激しい咳に阻まれて言葉は続かない。来栖は無造作に頭を掻いて立ち上がった。
 「休憩だ、休憩」
 「待って。話はまだ……っ」
 「うるせえ。そんなんじゃ歌うのも話すのも無理だろうが」
 伸ばされる白い手を無視して来栖は肩を揺すり、スタジオの扉を蹴り開けた。
 ――「一緒に曲を作らせてほしい」。来栖の前に突然現れたSoraがそう言ったのは、タナトス三将によって無情な選択がつきつけられた後であった。
 Soraは作詞と歌を担当。来栖は伴奏だが、時折作詞にも口を挟む。作曲は二人で。借りたスタジオにこもってああでもないこうでもないと言い合う日々が続いている。
 「……なんであんなにムキになるんだか」
 同じく音楽に携わる者として、音楽にかける本気や熱意というものがあることは分かる。だがSoraのあの感情はそれだけではないような気がしてならない。
 先程のあの曲のあの箇所はSoraの意見が優れていると来栖は思った。だから彼女の言う通りにしようとした、至極当たり前のことである。しかし、どうやら言い方を間違ったらしいことだけはおぼろげに理解できた。
 (何考えてんだかな)
 Soraの意図が今ひとつ見えない。人の感情にさして興味のない来栖だが、自分がSoraに無条件で好かれているわけではないことくらいは悟っている。そのSoraがなぜ一緒に曲を作りたいなどと言い出したのだろう。
 (……けど、オレにとっちゃいい機会だ)
 そう――やってみようと、やりたいと思ったからこそ来栖はSoraの申し出に応じたのだ。


 どうして。どうして。どうして。その問いばかりがどろどろと胸を渦巻いている。
 咳が徐々におさまっていく。体の中を剣山が這うような痛みが少しずつ引いていく。Soraはぺたりとその場に座り込んだ。
 (どうして……どうして)
 何に問うているのか、誰に問うているのか、Sora自身にも分からない。
 分からないというのなら、来栖に対する自身の感情が何であるのかもよく分からない。憎しみでもあるし、妬み嫉みでもあるし、羨望でもあるし、もしかすると親しみや祈りですらあるのかも知れなかった。
 何もかもが分からない。何もかもに苛立っている。何もかもがいびつな螺旋をえがき、この体を締め上げていくかのよう。
 歌はSoraの全てであり、根源だった。どうあがいても死ぬしかないSoraが、自身の存在の証を世界に刻みつけるための唯一の手段だった。だがそれはフィクションの世界の出来事で、Soraは架空の物語のために作られた人物で、映画の中でSoraが作り、歌っていたのも来栖香介という音楽家が手がけた仕事のうちのひとつにすぎなかった。
 Soraはどうやっても来栖香介の呪縛から逃れることができない。来栖はSoraが欲しいものをすべて持っている。しかしあの気まぐれな音楽家はそんなことなど気にも留めず、いつだって不機嫌な顔をしている。
 だったらどうして自分はここに来た。どうして一緒に曲を作らせて欲しいなどと来栖に頼んだ?
 「………………」
 何かを求めるように痩せた指を震わせ、伸ばす。よすがのように縋りついたのはひんやりとしたピアノの鍵盤。
 次の瞬間、不協和音が猛り狂った。
 痩せた手をめちゃくちゃに鍵盤に叩きつける。その度に歪んだ音響が耳をつんざく。弾いているのではない、奏でているのではない、音を鳴らしているのですらないその所業は、激烈な憤怒のようにも、悲痛な慟哭のようにも、魂の底からの絶叫であるようにも見えた。
 「このままじゃ、何も……!」
 食いしばった歯の間から蚊の鳴くような声が漏れる。
 何をしに来た。何をしている。こんなことをしに来たのか。
 「違う、違う、違う……っ」
 こんなことがしたかったのではない。決着をつけに来たのだ。映画の中では死を恐れぬために歌に賭けた。それをもう一度この場所で、自分を試すために。
 ずっと死を恐れていた。明日の朝起きたら動けなくなっているかも知れない、死んでいるかも知れない。常に自らの生の終わりを意識しながら生きてきたし、それは今でも変わらない。おまけにこの銀幕市では魔法という不確定要素も加わった。明日になったら解けてしまうかも知れぬほど不安定な、それでいて決して逃れ得ぬ理不尽な代物が。
 結局、自分の存在を自分でどうすることもできないのは映画の中でもこの街でも同じなのだ。
 自分が消えることは今も怖い。この先もきっとそうだろう。だが、中央病院で眠り続ける少女の将来や、自分の代わりになるかもしれない命を背負って生きることも怖くて堪らない。もしかすると、自分の死よりもずっと。
 何もかもが怖い。このままでは何も選べない、何もできない。だから選ぶ前に、選ぶために、来栖香介と決着を。自分の底に執拗にこびりつくこの感情に結論を。
 ――無為に消えていくのは、嫌だ。
 和音の嵐がやみ、荒い息遣いの音だけが呆然と取り残される。破れてしまいそうなほどきつく噛み締めた唇がわずかに震えた。
 泣きはしない。泣くものか。来栖香介の前で涙など見せてたまるものか。
 「何やってんだよ」
 その瞬間、タイミングを見計らったかのように来栖がスタジオに戻ってきた。
 「音楽家が楽器に八つ当たりすんじゃねえ」
 「……あ」
 音楽家。来栖の声で放たれたその一言に、感情の波がすうと引いて行く。
 「コイツはオレたちの音を奏でてくれるためのもんだ。だろ?」
 来栖が小指の先で押した高音域のGはひどく透き通った音を奏でた。
 その響きが、言葉少なにこちらを見つめる赤い視線が、Soraの心と頭をほんの少しだけクリアにする。


 淡々とリミットが迫る中で曲作りが続く。進んでは戻り、戻っては進み……。並べられた五線譜が徐々に黒い記号で埋められていく。
 Soraが来栖の伴奏を止めることもあった。来栖が待ったをかけて口を出すこともあった。もちろん意見がぶつかることもあった。それでもSoraの表情はほんの少し柔らかくなっていたし、どこか清々しいようにさえ見えていた。
 「あんた、時々歌ってるそうだな」
 「え?」
 「広場とか道端とかでさ。噂、聞いたぜ」
 時折挟む休憩時間では決まって他愛のない会話が交わされた。
 「ええ。ほんの数曲だけど」
 「結構客も集まんだろ?」
 「お客っていうほどじゃ……」
 「だけど、あんたの歌を聴きに来てんだろ。たまたま通りかかっただけだとしても、あんたの歌声に興味持って足を止めてるわけだ。立派な客じゃねえか」
 「……そうね」
 銀幕市での音楽の思い出。今作っている曲についてのディスカッション。来栖の性格や生活態度についてSoraが文句を述べることもあった。さして目的もなく交わされる言葉は、詞や旋律と一緒にこの時間を編み上げていくかのよう。
 Soraが走り書きした旋律、生まれたてのそれに即興で来栖が伴奏をつける。その傍らでSoraが歌う。透明で高潔と評される歌声は来栖でさえも感心する。
 色素の薄い少女だ。日焼けというものにまるで縁のなさそうな色と質感の肌。茶色い髪に茶色い瞳。ひどく脆弱で、触れれば損なわれてしまいそうである。それでも華奢な喉から紡がれる歌声はこんなにも凛としている。真っ直ぐに背筋を伸ばして旋律を紡ぐSoraの横顔をちらりと横目で見上げた来栖は、眩しいものでも眺めるかのように目を細めた。
 事実、眩しかった。
 音楽を愛し、音楽に全てを賭けたSoraは、来栖が作った曲を、懸命に、命を燃やすように歌っていた。
 それは映画の中の出来事である筈だった。だが今、Soraという人間は来栖の目の前で確かに生き、ひたすらに、必死に音楽に立ち向かっている。
 ――心の底から自分の音楽を愛しているわけではないのに、来栖の意識は何をしていても音楽に向かってしまう。それは宿業という言葉ですら生ぬるい愛であり、呪いでもあった。
 そして、呪いである以上決して自分の自由にはならない。二律背反の音楽家はその決定的な矛盾ゆえに自らの音楽を愛し、厭う。
 それでも、向き合う時が今なのだと。一緒に曲を作りたいとSoraに告げられた時にすとんとそう思えた。自分の作った曲を自分とは全く違う姿勢で歌っているSoraを通して、逃げ続けていた音楽と向き合ってみようと。
 「止めて」
 というSoraの声が来栖の意識を引き戻した。歌姫の提案を聞き、肯いた音楽家は自己の見解も述べ、再び未完成の譜面と向き合う。そして五線譜の上にラフな姿で書きつけられた音楽を見つめながら漠然と考える。
 これほどまでに、こんなにも真正面から自分の音を注視したことがあっただろうか。
 「ねえ、どうかしら?」
 やがて黙考を解いたSoraが短く旋律を口ずさむ。新しく提示されたそれを来栖がリフレインし、音階をつけて片手でつま弾いた。
 「いいんじゃねえか。オレはさっきのよりこっちのほうがいいと思う」
 「そうね」
 二人の音が五線譜の上で重なり、広がって、少しずつ奥行きを持ち始める。


 アンサンブルは何日続いただろう。気が付くと、二人は選択までに与えられた猶予の大半をスタジオにこもって過ごしていた。
 完成したのは数曲で、CDに一枚だけ焼いた。ジャケットすらない裸のケースに収められたそれは今Soraの手の中にある。
 「貴方が持っていて」
 だが、Soraはそれを迷わず来栖に差し出すのだ。
 「一枚しかねえのに?」
 「だから、よ。ここに残しておきたいもの」
 この街に残る者に持っていてもらいたいのだと。そこにこめられたSoraの決意に気付いたのかどうか、来栖はひょいと眉を持ち上げただけだった。
 「……そっか。サンキュな」
 「え?」
 「あん? 何だよ」
 「“サンキュ”なんて……何だか、柄じゃないわ」
 Soraは笑った。あどけない少女そのものの表情でくすくすと笑った。ただおかしくて。この音楽家がこんなふうに礼を述べることがおかしくて。そして、笑う自分の前で不機嫌そうに唇を曲げた来栖の顔もおかしくて、Soraは金平糖のような笑い声を転がした。
 「悪かったな」
 CDを受け取った来栖は軽く舌打ちし、その様子がおかしくてSoraはまた笑う。
 実体化してからこんなふうに笑ったことがあっただろうか。この街で、来栖の前でこんなふうに笑える日が来るなどとは思わなかった。
 ……本当は分かっていた。きちんと知っていた。何もかもが偽物であったこと、自分が何も作っていないこと、それだけが許せなかったのだとSoraは気が付いていた。
 もしかすると“選択”すらも既に定まっていたのかも知れない。だからその前にこの儀式を済ませておきたかったのかも知れない。
 ――無為に消えていくのは、嫌だったから。
 「それじゃあ」
 だから、春の陽だまりのように明るくふんわりと微笑んで、小さく手さえ振って。
 面食らったようにぎごちなく手を振り返す来栖の姿にまた笑い、彼の元を去った。
 淡色のカーディガンを春風になびかせ、市役所に赴き、自らの意志を伝えるために。
 
 
 「……ん」
 かすかに身じろぎした来栖は“箱”の中で目を覚ました。
 ピアノ。レコーディングの機材。スコアを立てるためのスタンド。床に散らばる書きかけの五線譜。先程までそこにいた筈のSoraの姿だけが綺麗に掻き消えてしまったかのようだった。
 スタジオで寝入ってしまうのは何もこれが初めてではない。曲作りに没頭するあまりスタジオに泊まり込むなどということはざらにある。
 (……頭いてぇ。体いてぇ)
 頭がぼんやりしている。今ひとつ記憶がはっきりしないが、Soraと一緒に曲を作っていたことだけは確かに覚えている。
 しかし――居なくなる間際に彼女が見せたあのあどけない笑顔は。
 まるで浅い眠りに見た夢のよう。確かに見た筈なのに、どうしても実感が持てぬ曖昧な記憶。あの歌姫が自分の前であんなふうに笑うことなど有り得るのだろうか?
 ふと目を落とすとピアノの上に一枚のCDが置かれていた。装丁すらされていない、ただ透明なだけのケースに入ったCDが。
 ステレオにセットしたそれから流れ出したのは、来栖香介の音によく似た、しかし紛れもなくSoraと来栖が作り上げた音楽であった。


 天空に君臨する絶望の王は未だ沈黙を保っている。彼の者を形作る数多の顔が叫んでいるのは憎悪にも殺意にも、断末魔や怨嗟のようにも見えた。
 それでも今はこんなにも静かだ。この静けさの後に一体どんな嵐が訪れるのか、未だ誰も知りはしない。
 残酷な猶予にじりじりと心身を焦がされ、ある者は煩悶し、ある者は覚悟を定め、ある者は滂沱し……それぞれに審判の刻を待つ。


 (了)

クリエイターコメントご指名ありがとうございました。両PC様には初めまして、宮本ぽちでございます。
【選択の時】をテーマにした企画プラノベをお届けいたします。

…拝見した瞬間から難しそうだと感じていましたが、やはり難易度が高かったです。
辞退すべきかとも思ったのですが、是非書かせていただきたかったこともあり…慎重に慎重を期し、下書きを終えた後で恐る恐る受託させていただきました。

confrontation は「対決」「決着」の意味で選びました。
来栖様と、そしてご自身と向き合うSora様。音楽と向き合う来栖様…。そんな雰囲気です。
Sora様の選択は明記して良いものかどうか迷いましたので、ぼかしました。ラストの来栖様のシーンもその暗示です。

儚げな外見の奥底に秘めた強さや激しさ等を描写させていただいたつもりですが、いかがでしたでしょうか…(ぶるぶる)。
お気に召していただけることを願って。
公開日時2009-05-06(水) 18:50
感想メールはこちらから