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<ノベル>
キリトが誘拐された。
それは最初、ただの情報に過ぎなかった。
仕事は終わった。俺には関係のないことだ。
だが、それは水溜りに無造作に投げ込まれた小石のように、俺の心に波紋を作った。それは不安定な曲線を描きながらぶつかり合い、伝染し、揺らいでいった。
何故俺は、こんなにも動揺しているのだろう。
自分でも、その答えは解らなかった。
でも、解ることがひとつだけあった。
俺は――キリトを助けたい。
+++
「……と言う訳で、私たちが銀幕市を離れている間、この子の護衛を頼みたいのですよ」
久遠と名乗った紳士は、そう言うと、シャノンに微笑みかけた。人が良さそうな笑みだ。
一方、護衛される対象である少年は、にこりともしない。十二、三歳くらいだろうか。小柄で、すらりとしていて、何となく猫を思わせるような風貌をしていた。
今回の依頼は、対策課を通じず、シャノンに直接連絡を取るという形でなされた。それは、彼の能力を高く買っているという証拠だ。話を聞けば、何ということはない。久遠夫妻がしばらく銀幕市を離れる間、その息子の面倒を見れば良いということだった。
「ほら、霧人。挨拶をしなさい」
久遠がそう言うと、霧人と呼ばれた少年は、シャノンに向かって軽く頭を下げた。
「久遠霧人です。よろしくお願いします」
「シャノン・ヴォルムスだ。宜しく頼む」
シャノンはそう言って右手を差し出したが、霧人はそれを一瞥しただけだった。シャノンの右手は所在をなくし、ジャケットのポケットに突っ込まれる。
「無愛想な奴ですみません」
久遠は苦笑いしながら頭を下げる。
「いや、別に構わない」
シャノンはそう答えたが、霧人の言動に、何となく引っかかるものを感じていた。
+++
情報屋から聞いたところによると、キリトを攫ったのは、あの白いバンの男たちだった。どこぞの映画に出ていたヴィランズで、ジミーとマイクというらしい。金持ちの子供を誘拐して身代金を取る典型的な悪党のようだ。
俺としたことが迂闊だった。こんなことなら、あの時に無理矢理にでも捕まえて、警察なり、対策課なりに突き出しておくべきだった。
しかし、悔やんだところで起きてしまったことはどうしようもない。
俺は、ジャケットを手に取ると、部屋を出た。
+++
シャノンが連れてこられたのは、小奇麗なマンションの一室だった。
「意外ですか? 小さなマンションで」
霧人が、シャノンの心中を見透かしたかのように言う。
確かに、意外だった。悪くないマンションだとは思うが、資産家である久遠氏の住居としては、質素だと言える。
「でも、セキュリティはしっかりしているんです。立地も悪くない。父は、あまり華美に生活することを好みません」
「ふーん。立派だな」
そう言うとシャノンは、部屋の中央にあるソファに腰を下ろした。部屋は綺麗に片付いていて、あまり生活感がない。
「どうぞ」
しばらくすると、霧人が戻ってきて、目の前のテーブルにコーヒーを置いた。シャノンは礼を言い、カップに口をつける。良い香りが鼻腔をくすぐる。
「いくらもらうんですか?」
突然切り出された霧人の言葉を上手く飲み込めず、シャノンは目を瞬かせる。
「僕の護衛で、いくらもらうんですか?」
再び聞いてきた霧人に、シャノンはコーヒーをまた一口飲んでから答えた。
「企業秘密だ」
その言葉に、霧人は不満そうな表情を見せたが、またすぐに口を開く。
「僕は護衛される本人です。自分につけられた値段くらい、知る権利があると思います」
「依頼人はお前の父親だ。契約は、依頼人と俺の間で交わされた。大体、ガキがそんなこと気にせんでいい」
シャノンの言葉に、霧人は少しむっとしたような顔をしたが、「分かりました」と言って引き下がった。
(自分につけられた値段……か)
自室と思われる方に歩いていく霧人の後姿を見ながら、シャノンはカップをテーブルに置く。あの少年が、もし本気でそう思っているのなら、それは、とても哀しいことのように思う。
しばらくすると、霧人が戻ってきた。彼はそのまま玄関の方へと向かう。
「おい。どこに行くんだ?」
「夕飯の買い物に行くんです」
シャノンが尋ねると、霧人は振り向かずに答える。
「待て。俺も行く」
そう言うと、シャノンも玄関へと向かった。
マンションからさほど遠くないスーパーは、まだ夕食の準備には早いこともあってか、割と空いていた。慣れた感じで歩く霧人の後ろを、シャノンはショッピングカートを押しながらついていく。
「飯も、お前が作るのか?」
「ええ。あなたが作ってくれるなら、作らずに済みますけど。でも、それは依頼内容に入らないですよね?」
「ああ、まあ……な」
霧人の言葉に、シャノンは曖昧に返事をする。もし依頼内容に含まれていたとしても、家事全般が苦手な彼には、到底無理な要求だった。
「いつも、お前が作るのか?」
「いつもは母が作りますが、いない時は僕が作ります。自分で出来ることは自分でやるというのが、家の方針です」
「ふーん。ご立派なことで」
そう言ったシャノンの言葉は、半分皮肉だった。立派なことだとは思う。しかし、どこか押し付けがましさを感じる。
そんなことを考えていると、カートに、次々と野菜が入れられていく。
「ちょっと待て。これはダメだ」
そう言うとシャノンは、野菜を全部もとの棚に戻す。
「何するんですか!? 邪魔しないでください」
「俺は野菜は嫌いなんだよ」
「子供じゃないんですからわがまま言わないでくださいよ」
しばらく攻防を繰り返した結果、シャノンの分は、自分で野菜を選り分けるということで落ち着いた。
「さあ、食べようか。腹減った」
今日は塾があるとのことで、その送り迎えをした後、シャノンがそう言うと、霧人は目を瞬かせた。
「まだ食べてなかったんですか? 先に食べてって言ったのに」
「ああ。だって、お前が塾にいる間も、何かあったら困るだろ?」
「じゃあ、ずっと塾の前で待ってたんですか?」
霧人は少し驚いたように言う。自分が塾にいる間は、シャノンは家にいると思っていたからだ。
「ああ」
「そう……ですよね。仕事だから仕方ないですよね」
「まあ、それもあるが、お前が心配だからだな」
シャノンは「色々な意味で」、と心の中で付け加える。霧人は「今から支度しますね」とだけ言うと、キッチンに向かった。
「美味い」
シャノンは野菜を抜いたスープと、サラダをのけたポークソテーを口にし、褒めた。手料理を食べるなど久しぶりだったが、それを差し引いても、霧人の料理は上手かった。
「本当に?」
何故か自信なさげに尋ねてくる霧人に、シャノンは頷く。
「美味いって言われないのか?」
すると、霧人は視線を逸らし、小さく答える。
「だって、僕ひとりの時しか、作ったことないから……」
「これは、独り占めするにはもったいないと思うぞ」
その言葉には答えず、霧人は野菜がきちんと入っているスープを、慌てて一口啜った。
+++
辺りは、もう薄暗い。
俺は、ジミーとマイクが潜んでいるというアジトへと車を走らせる。
奴らの目的は身代金だろうから、キリトは、しばらくは無事だろう。しかし、キリトの恐怖は相当なはずだ。あの時の怯えた目を思い出す。
+++
校門から、次々と子供たちが出てくる。
笑顔ではしゃぎながら歩くものや、手を振り別れるもの、手をつないで歩くものなど、様々だ。
やがて、霧人の姿が見えてきた。彼は、今日も独りだった。
シャノンは、ゆっくりと霧人に近づくと、並んで歩き始める。最初は車での送迎を提案したのだが、霧人がそれを嫌がったために、徒歩になっている。
「学校、楽しいか?」
しばらく歩いたところでシャノンが聞くと、霧人は「別に」とだけ答える。
「お前、友達いないだろ」
シャノンがそういってくつくつと笑うと、霧人の顔色が変わった。
「そ――そんなこと、あんたに関係ないじゃないか! あんたに僕の何が分かるんだよ!」
今までに見せたことのない、感情を露にした姿。
それを見て、シャノンはニヤリと笑うと、霧人の頭をぽんぽん、と叩く。
「安心した」
「……え?」
霧人は戸惑い、声を上げる。
「それでいい。怒る時は怒ればいい。泣きたい時は泣け。お前がそうやって心を開けば、必ず、友達は出来る」
すると、霧人は視線を落とし、顔を赤らめると、逃げるように歩き出した。その後ろを、シャノンもついていく。
その時。
霧人の体が、宙に浮いた。
そして、そのまま近くに停まっていた白いバンに引き入れられていく。
シャノンは跳躍すると、霧人を連れた男の後ろから、足で足元をなぎ払う。バランスを崩した男は、思わず霧人を手放した。その隙を狙い、シャノンは霧人を奪い返す。
「大丈夫か」
シャノンが尋ねると、霧人は力なく頷く。
後ろを振り返ると、既に車は猛スピードで走り出していた。
「眠れないのか?」
深夜。シャノンの声に、霧人はピクリと肩を震わせた。
「ちょっと、トイレに……」
あの後、霧人は今までどおり振舞った。明らかに無理をしているのが分かったが、少年のプライドを傷つけてしまうような気がして、踏み込めなかった。けれども、立ち尽くし、次の言葉が継げないでいる姿を見て、シャノンは、思わず彼を抱きしめていた。
「無理をするな。いつもいい子でいる必要はない」
霧人は、堪えきれず、シャノンに力いっぱいしがみつき、大声を上げて泣いた。
+++
アジトは、杵間山に程近い雑木林の中にあった。辺りには闇が濃かったが、俺の目であれば、支障は全くない。音を立てないように慎重に歩く。
一応銃は持っているが、キリトのことを考えると、使えない。そして、相手は二人。くだらんヴィランズなどに、どうにかされるほどやわなつもりはないが、どちらかと戦っているうちに逃げられたり、キリトを盾にされたら厄介ではある。
木々に隠れて建つ、みすぼらしい小屋に近づく。周囲を回ってみるが、窓はない。俺はドアの側の壁に体をくっつけ、機会を窺った。
その時、話し声が聞こえた。耳を澄ましてみると、所々ではあるが、内容が聞き取れる。
「――す」
嫌な感触がした。耳に全神経を集中させる。
「――殺す」
今度は違う声が言った言葉が聞こえた。どうやら、手段を選んでいる暇はなさそうだ。
俺は、ドアの前に立つと、思い切り蹴った。派手な音を立て、ドアは吹き飛ぶ。それに続いて部屋の中に入り、急いで状況を確認する。右手奥に二人――ひとりはキリト、そして、そこからやや離れた位置にもうひとり。
スライディングするような形で、縛られているキリトと男の間に入り込み、距離を作る。そしてそのまま、キリトを背中で庇うようにして、暗がりを照らしていたランプを叩き壊す。周囲に、闇が充満する。
俺はすかさず近くにいる男に、ボディーブローを食らわせた。男は、身をよじり、悶える。すると、離れていた男が、ナイフを持って襲い掛かってきた。的確な動き――こいつらも、夜目が利くのか。ならば、下手な小細工など通用しない。俺はキリトを小屋の隅まで押しやると、そこから動かないようにと告げ、ナイフがこちらに届くよりも先に、足で男の顎を蹴り上げた。鈍い音がし、男は後ろに倒れこむ。
それと同時に、右手から腕が伸びてくる。上体を逸らし、かわすが、首に痛みが走った。避けていなければ、確実に喉を刺されていただろう。男が体勢を立て直す前に、俺は男の懐に入り込み、先ほどパンチを食らわせたのと同じ場所に、拳を叩き込む。男は、くぐもった呻きを漏らすと、そのまま崩れ落ちた。
結局、どっちがジミーで、どっちがマイクなのかは分からなかったが、二人が動かなくなったのを確認してから、俺はキリトに近寄ると、まずは猿轡を外した。キリトは、少し咳き込む。
「大丈夫か?」
手足に巻かれた紐を解きながら問うと、キリトは、泣きながら頷いた。
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隣で霧人が身を起こす気配を感じ、シャノンは目を覚ました。
顔を動かすと、霧人は、よろよろと元気なく歩いている。
「学校、行くのか?」
シャノンが尋ねると、霧人は小さく頷く。
「……行かなきゃ」
それを聞き、シャノンは身を起こし、霧人の側まで行く。
そして、そっと肩に手を置いた。
「行きたくないなら行かなくていい。俺が学校に連絡してやるから」
「でも、行かなきゃ……」
「昨日も言っただろ? いつもいい子でいる必要などない」
尚もそう言う霧人の目を見て、シャノンは続けた。すると、霧人はぽろぽろと大粒の涙を零す。
「だって、いい子でいなきゃ、僕がいる意味なんてない」
しゃくり上げる霧人を、シャノンは抱きしめる。
「お前の親が、そう言ったのか?」
すると、霧人は首を振った。
「そんなこと言わない。でも……分かるから」
子供は、とても敏感だ。大人たちの考えを、すぐに察してしまう。
「そうか。……でもキリト、お前がいい子でなくなるより、お前が苦しんでいることの方が、親父さんもお袋さんもずっと辛いはずだ。だから、わがままを言え。好きなだけ泣いたり笑ったりしろ。大人を困らせろ。――もっと自由に生きてくれ」
霧人は、ただ黙って、シャノンの肩に、顔を埋めた。
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「僕、きっとシャノンが助けに来てくれるって信じてた」
帰りの車中、少し落ち着いたキリトは、そう言って笑顔を見せた。それは、俺が初めて目にした、子供らしい、無邪気な笑顔だった。疲弊し、恐怖も残っているだろうに、何故か、初めて会った時よりも、輝いて見えた。
キリトを両親の元に送り届けると、二人とも安堵し、泣いて喜んだ。その家族の姿は、上手くは言えないが、良い感じだと思った。彼らの中で、何かが変わりつつある――そんな気がした。
俺がその場を後にしようとすると、キリトが俺の名前を呼びながら、駆け寄って来る。
「これ」
そう言ってキリトが手渡してきたのは、シルバーを基調に、いくつかの石が組み合わさっているブレスレットだった。
「幸運を呼ぶんだって。シャノンにあげる。駄々をこねて、父さんに買ってもらった記念品だよ」
「そうか。じゃあ、大切にしないとな」
俺はそう言って笑い、眩しい笑顔を見せるキリトの頭を軽く叩いた。
らしくなかったかもしれない。
帰り道、そんなことを考えながら、空を見上げたら、月が嗤っているように見えた。
でも、悪くない。
そう――悪くはない。
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クリエイターコメント | この度は、オファーをいただき、ありがとうございました。 お待たせ致しました。ノベルをお届けします。
今回、過去の話と現在の話を、同時進行といいますか、交互に展開した方が良いと感じましたので、そうさせていただいたのと、一人称でのご希望はいただいていなかったのですが、現在を一人称、過去を三人称で描かせていただきました。勝手に申し訳ありません。
それから、キリトくんの性格などで、結構悩んだのですが、最終的に見えてきたのはこの路線だったので、突き進んでみました。イメージと違っていたら、すみません……。
少しでも、楽しんでいただけることを祈ります。 ありがとうございました! |
公開日時 | 2007-07-29(日) 13:20 |
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