★ 明日もきっと、ずっと ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-2251 オファー日2008-03-07(金) 21:34
オファーPC 斑目 漆(cxcb8636) ムービースター 男 17歳 陰陽寮直属御庭番衆
ゲストPC1 リゲイル・ジブリール(crxf2442) ムービーファン 女 15歳 お嬢様
<ノベル>

 真っ暗、だった。
 明かりを消した居室。眼を開けているのか閉じているのか、それすらも判然としない。闇の底にぽっかりと浮かび上がる狐面の下で漆は独り静寂に沈む。
 もう夜半を過ぎた頃だろうか。明日はあの『穴』の調査に出発することになる。だが今夜は恐らく眠れまい。皮膚がはがれて剥き出しの神経が空気にさらされているかのように、五感がぴりぴりと音を立てて逆立っているのだ。
 なぁんも変わらん。不意にそんなことを呟いてみる。
 何も変わらない。眼を開けようが開けまいが。夜が明けようが明けまいが。漆はずっと、闇の中にいる。
 そんな内心の呟きに呼応したのだろうか。不意に、がたりという物音が静寂を震わせた。
 小さな箪笥の上に立てておいたはずの写真立てが闇の中に転がっていた。何かの拍子に落下してしまったらしい。
 のろのろと起き上って写真立てを拾い上げ、フレームの中の写真にちらりと目を落とす。
 眩しかった。
 どこまでも続く青い空。視界いっぱいに咲き乱れる大輪の黄色い花。その真ん中で無防備に、やや照れ臭そうに笑う漆と、向日葵にも劣らぬ笑みを咲かせる一人の少女。この黄色い花は向日葵というのだと彼女が言っていた。
 (花言葉……ちゅうのがあるんやったか)
 少女が教えてくれた向日葵の花言葉を思い出した漆の唇が笑みの形に歪んだ。
 「――嘘やん」
 喉を痙攣させ、写真を握ったままくつくつと笑う。
 「あるわけないやんか、そんなもん。なぁお嬢、そやろ? なぁ?」
 漆はただ低く笑った。静寂を震わせながら笑い続けた。すべての感情を狐面の下に押し隠して。
 この写真を撮ったのは死の兵団が銀幕市を襲う前で、少女に恋人が出来る前――確か、去年の夏のことだ。



 原因などもはやお互いに忘れていたかも知れない。始まりはそれほど些細な事であったのだから。
 「それ、何?」
 あえて言うならば、銀幕ベイサイドホテルの一室で漆がそう問いかけたのが発端だったのであろう。だが漆にしてみれば、リゲイル・ジブリールが熱心に読んでいる雑誌が気になっただけだった。更にいえばリゲイルとは知り合ってまだ間がなく、何か会話のきっかけがあれば良いと思ったまでのことで、特に他意はなかったのだ。
 「あ、う、うん。あのね」
 ぱっと声を上げて答えるリゲイルの声や表情もどこか大袈裟だ。知り合ったばかりの相手と打ち解けるために努めて明るく振る舞おうという意識がそうさせるのであろう。
 「これね、本みたいだけど『雑誌』っていうの。本とは少し違ってね、なんて言ったらいいのかな――」
 「いや。『雑誌』は知っとるけど」
 漆は『雑誌』が何であるかを懸命に説明しようとするリゲイルの言葉を苦笑で遮った。確かに漆のいた世界に雑誌はなかったが、対策課で仕入れた基礎知識のおかげでこの世界の『常識』はある程度身についている。
 「そっか。そうよね」
 自分に言い聞かせるように肯いてリゲイルは小さく笑う。狐面を額に押し上げた漆も適度な愛想で微笑み返した。
 何となく、そこで会話が途切れた。やや気まずい沈黙が二人の間に満ちる。知り合ったばかりでは無理もないのかも知れない。
 「あのね」
 「あのな」
 どうにか沈黙を打破しようと口を開けば今度は互いの声が重なってしまう。そしてまたぎごちない微苦笑を交わし、互いに「お先にどうぞ」と譲り合うのだった。
 じゃあレディファーストね、と冗談めかした前置きをしてリゲイルが口を開く。
 「これね、『戦隊もの』っていうの」
 リゲイルは見開きのグラビアページを漆の目の前に差し出してみせた。赤やら黄色やら青やら、頭のてっぺんから爪先まで鮮やかな色で覆われた特撮ヒーローたちがめいめいにポーズを取っている。馴染みのないビビッドな色合いとエキセントリックなデザインのボディスーツは漆の目にはやや奇異に映った。
 「でね、レッドがリーダーなの」
 「れっど」
 「うん。赤のこと、レッドっていうの」
 白い指が動き、ページのど真ん中でポーズを決める全身赤の人物を指し示す。
 「ね? 漆くんと同じ色」
 その後でリゲイルは漆の赤いマフラーを指した。「赤は正義の味方のしるしなのよ」
 大粒の瞳がきらきらと輝きを放ちながら、まるで本物のヒーローを見つけるかのように漆を見上げている。漆は正義の味方に違いないと、リゲイルは初めて出会った時からそう言い続けているのだ。漆が赤いマフラーを身に着けているという、ただそれだけの理由で。
 「それ、そんなおもろいん?」
 くすぐったさを隠すように漆はひとつ肩を揺すって話題を変える。
 「うん。今度映画にもなるの。来年の春くらいに公開なんだって」
 にこにこと笑うリゲイルの前で、わずかに、しかしはっきりと漆の表情がこわばった。映画。幾度となく耳にしたその単語が、魚の小骨のように漆の喉に引っかかる。
 「公開初日には舞台挨拶もあるの。一緒に行かない?」
 「さぁ……どないやろなぁ」
 漆はゆるりと首を傾け、額に引っかけた面をさりげなく下ろして顔を覆った。
 「よう知らんけど、ようけ人がおるんやろ、そういう場所。人が集まる場所にのこのこ出て行かんほうがええんちゃうの? 誰に狙われるか分からんで」
 「えー? 大丈夫よ、漆くんがついてるんだから」
 と笑うりげいるの顔はあまりに無警戒で、漆に全幅の信頼を寄せている様子が容易に読み取れる。しかし漆は「ん」と曖昧に返事をし、面の下でややむずがゆそうに唇を歪ませるのだった。
 「そう言われてもなぁ。俺もなぁ、万能やないからなぁ。人がようけおる場所で守り切れるかどうかは分からんで」
 「大丈夫だってば。正義の味方は無敵だもん」
 「なんでそう言い切れるん? 知りおうたばっかの相手に」
 ひとつ息をつき、やれやれとでもいった風情で漆は軽く頭を振る。
 「お嬢は人を疑うことを知らんからな。そんなんやからこの前みたいなことになんねんで? ちぃとは気をつけや」
 その瞬間、リゲイルの顔からすうっと笑みが引いた。
 「……そんな言い方しなくてもいいじゃない」
 代わりに明らかな不快の色が顔の上に広がっていく。あ、と漆が後悔した時は遅かった。
 「この前、漆くんに迷惑かけちゃったことは悪いと思ってるよ。けどわたしだって普通に外に出たいよ? いろんな所に行ったりしたいのよ?」
 大富豪の娘であるリゲイルを狙う輩は多い。漆と出会ったあの日もリゲイルを誘拐しようとする一味がこの部屋まで侵入してきた。漆の機転で大事には至らなかったものの、漆がいなければどうなっていたか分からないのだ。
 リゲイルは無邪気で、無警戒過ぎる。あの日、出会ったばかりの漆をいきなり部屋に招き入れたことからしてそうだ。リゲイル曰く、赤い色を身に着けているのだから絶対に悪者ではないと思ったそうだが……。漆にしてみればそんな純粋さが心配であることもまた事実である。
 「外に出たらあかんとは言わんよ。ただ、わざわざ危険な場所にやな……」
 「平気よ。わたしを守るための護衛役でしょ?」
 「そらそうやけど。普段からもちっと心がけてもらわんとこっちもかなわんわ。無警戒すぎるねん、お嬢は」
 「いいじゃない、別に。最初から人を疑ってかかるよりよっぽどましよ」
 リゲイルは腕を組んでぷいとそっぽを向いてしまう。「会う人みんなを頭から疑うのもどうかと思うよ。そりゃあ漆くんは忍者っていう役どころだから、簡単には人を信用できないっていう設定なんだろうけどさ」
 なぜかは分からない。
 だが、口の中が急激に渇くのを感じて漆はこくりと唾液を飲み下した。
 役どころ。
 設定。
 (何やねん、それ)
 肢体がどんよりと重くなったような錯覚にさえ捉われる。かといってリゲイルが悪意を持ってその言葉を口にしたわけではないことは承知していた。この世界の住人にとって、映画はごくごく身近で、当たり前のものなのだから。だからこそ漆はただ沈黙を押し殺すしかない。
 「あ……どうしたの?」
 漆の様子に気付いたのだろう。リゲイルははたと我に返ったように首をかしげ、無表情な狐面を覗き込んだ。漆は「いや」と曖昧に答えて顎を引く。
 「ご、ごめんね。わたし、何か悪いこと言っちゃった?」
 「別に。なんで?」
 漆の声音は相変わらず穏やかだったが、リゲイルはわずかに顔をこわばらせた。先程までとは違う種類の気まずさが下りてきたことに気付いたからだった。



 「雨、降るのかな」
 重苦しい色の空を見上げ、リゲイルは思わず呟く。
 「ほなやめよか?」
 隣を歩く漆は相変わらず狐面をかぶっていて、その表情はうかがえない。それでもその声音に抑揚がないことを読み取ったリゲイルはやや無理に笑ってみせる。
 「ううん。行こ。行きたい」
 ね、と殊更に明るく言い、リゲイルは白いワンピースの裾を翻して漆の手を引いた。漆は浅く肯いて手を引かれるままに歩き出す。
 ちょっと外に出てみないか。そう言い出したのはどちらだっただろう。気まずい沈黙に耐えかねて、気分を変えたいという気になったのは二人とも同じだったのかも知れない。
 「暑いね」
 「暑いちゅうか、蒸し暑いな」
 「曇ってるからかな。すっきり晴れてくれたらいいのに」
 「そうやね」
 相手の機嫌を探るようにぽつぽつと言葉を交わしながら人通りにまぎれていく。土曜の昼下がり。泣き出しそうな色の空など関係ないとでも言いたげに、大通りは若者や学校帰りの学生で賑わいを見せていた。
 「漆くん、あれ」
 カフェのオープンテラスやアクセサリーの露店を冷やかした後、リゲイルが不意に漆の腕を引いた。彼女の視線を追って目を上げると、クレープを出す店が看板を構えていた。
 「食べていい?」
 大粒の青い瞳が遠慮がちに漆を見上げている。現金を持たぬリゲイルはカードしか持っていないが、普段はそれすら所持していない。そんな彼女が街角でクレープを買えるかどうかは甚だ疑問であるが、リゲイルも漆ももちろんそんなことは知らない。
 「俺に聞かんでもええやん。食べたいなら食べたらええよ」
 漆が軽く苦笑いして肯いて見せると、リゲイルの顔にぱっと笑みが咲いた。
 「漆くんも一緒に食べるでしょ?」
 「いや、俺は」
 「いいの、食べるの。定番なの」
 「定番?」
 「お休みの日には友達どうしてクレープをかじりながら街を歩くのよ」
 「何やそれ」
 「いいの! ね、早く」
 二人でクレープを食べることはどうやら決定事項らしい。漆が意見を差し挟んだところで無駄であろう。結局リゲイルの力説に押し切られた形で、漆は手を引かれるままに歩き出す。
 (振り回されとるんかな)
 内心でそうぼやきつつもそれを決して不快には思っていない己に気付き、漆はわずかに驚く。そして、そんなことに驚いている己がおかしくて、またひとつくすりと笑みを漏らすのだった。
 「どれがいい?」
 はぐれてしまわぬようにとしっかり手を繋ぎ、人波の間をすり抜けるようにしながらリゲイルは漆を振り返る。先程のいさかいによる気まずさをどうにか払拭しようとしているのだろう、彼女はやや大袈裟なまでにはしゃいでいるように見えた。
 「どれ、て言われても」
 「そっか、クレープなんて食べたことないよね。んーとね、とにかくたくさんあるんだ。生クリームとかカスタードがたっぷり入ってて、中にチョコとかフルーツが挟まってて……」
 チョコバナナ、レアチーズ、ストロベリー、トロピカルフルーツ。リゲイルがすらすらとそらんじる異世界の呪文のような言葉を聞きながら人の間を縫って進んでいく。
 正直なところ、この暑さにも人ごみにも閉口気味だ。リゲイルが懸命に説明しようとしているクレープの味も今ひとつピンと来ない。だが、今この刻(とき)は、漆が経験したことのない種類の時間であることは確かだった。ひどく緩やかで、穏やかで、温かに流れゆく時間。その心地よさに戸惑い、驚き、しかしそれを決して拒絶はしない己がここにいる。
 だからというわけではないのだろう。いるともいないとも知れぬ神とやらが、かりそめの安息の中にある漆に現実を思い出させんとしたわけではないのだろう。
 だが、この人通りの中にあって、その文字はやけにはっきりと漆の視界に飛び込んできたのだ。
 『陰陽師 蘆屋道満』。
 通りに面したレンタルビデオショップ。何ということのないそのショウウインドウに、『陰陽師 蘆屋道満』のDVDシリーズが陳列されていた。
 握った手がするりと離れた。「あ」というリゲイルの声は漆には届かない。漆は人の間を音もなくすり抜け、吸い寄せられるように店先に歩み寄る。
 「漆くん? ねえ――」
 途絶えることのない人波が二人を隔てていく。漆の名を呼ぶリゲイルの声もどこか遠い。漆はただ首を傾け、蘆屋道満の姿が写ったDVDジャケットを凝視する。
 これは、何だ。
 知っている。
 よく知っている。
 だけど、分からない。
 分からない。
 シリタク、ナイ。
 体の奥底から何かがざわざわと湧き上がる。正体は分からない。だが、それはとても良くないものであるような気がした。
 かすかな息苦しさを覚えて小さく息を吸った、その時。
 暴力的なエンジン音と、波紋のようなどよめきが漆の背を打った。
 「漆く――」
 中途半端に途切れたリゲイルの悲鳴。漆が弾かれたように振り返った時には、リゲイルを抱えた不審な男たちが黒のセダンに乗り込んで走り去ろうとしているところであった。
 「お嬢!」
 セダンのタイヤが凶暴に軋む。獰悪な排気音とともに車体が飛び出し、群衆が悲鳴を上げて雪崩を起こす。漆はリゲイルの名を叫んだ。体が勝手に動いていた。ホテルの部屋でのいさかいも先程まで全身を支配していた得体の知れぬ感情も忘れ、必死で車に追い縋っていた。しかし混乱に陥った群衆が壁となり、思うように動けない。
 (何のための護衛役や!)
 DVDに気を取られたりしなければ。リゲイルのそばを離れたりしなければ。しかしいくら悔やんでも始まらない。漆は激しく舌打ちし、足元の影の中へと飛び込んだ。



 何が起こったのかわからなかった。何かに気を取られたらしい漆がそばを離れ、それを見計らったように黒い車が歩道に突っ込んできて……。気が付いたら、見知らぬ男たちの手によって車内に引きずり込まれていた。
 リゲイルはご丁寧に口をガムテープで塞がれ、両の手首をベルトで拘束された状態で後部座席に転がされている。ちらりと目を上げると、すぐ隣に座っている黒いスーツの男がぎろりとリゲイルを見下ろした。同じような服装の男が運転席に一人、助手席に一人。助手席の男が手の中でがちゃがちゃとさせているのは――やけに黒光りする拳銃であった。
 (わたし、誘拐されたのかな?)
 さすがのリゲイルも容易に事態を察することができた。それでも、恐怖らしい恐怖は湧かなかった。
 信じていた。妙な確信があったのだ。きっと正義の味方が助けに来てくれると。
 「誰か追って来てるか?」
 助手席の男が後方を気にしながら尋ねる。後部座席の男が体をねじって振り返り、「いや」と首を横に振った。
 「合流場所は?」
 「手筈通りだ。まずは市外へ出る」
 男たちのやり取りはごくごく短かったが、リゲイルはかすかに息を呑んだ。
 ムービースターは銀幕市にかかった魔法によって生み出された。魔法の効果が一切及ばぬ市外へ出ることはできない。もし一歩でも市の境界を踏み越えてしまったら、漆はどうなる――?
 「騒ぐな」
 無意識のうちに漆の名を呼ぼうとしていたらしい。ガムテープの下で言葉にならぬ声を上げるリゲイルの頬に不意に氷のようなものがあてがわれた。それが大型のアーミーナイフであることを知り、見開かれたリゲイルの瞳に初めて恐怖が満ちる。
 運転席の男が鈍い音を立てて素早くギアを入れ換えた。シートの上でリゲイルの体ががくんと跳ね、セダンは更にスピードを増す。
 (漆くん……助けて。でも、来ちゃ駄目!)
 回転数を上げるエンジンの振動を感じながら、リゲイルは矛盾するふたつの願いを内心で懸命に叫び続けた。



 車は猛スピードで郊外を奔る。
 市外へ向かうという男たちの言葉に間違いはないらしい。いつしか市街地は途切れ、のどかな緑色の風景が広がる。青々とした夏草たちが何物にも邪魔されずにめいめい天へ向かって伸びている様子は何とも清々しいが、それを楽しむ余裕は今のリゲイルにはない。
 「何ですか、ありゃあ」
 運転席の男が軽く舌打ちする。後部座席の男も眉根を寄せた。視界の前方いっぱいに広大な向日葵畑が開けていたのだ。
 「構うな。突っ切れ」
 ここを抜ければすぐ市外に出るはずだという助手席の男の言葉に従い、セダンは唸りを上げて向日葵畑に飛び込んだ。
 黄色、緑、黄色、黄色。鮮やかな色彩が目まぐるしく後ろへと流れていく。向日葵たちはバンパーにへし折られ、タイヤの下敷きになり、排気ガスに汚されて、疾駆するセダンの前に成す術もなく蹂躙されていく。
 漆はもう間に合わないかも知れない。後部座席の男が常に後方を確認していたが、追跡者が現れた様子はなかった。
 きっと来ないほうが漆のためなのだ。もし市外に出てしまったらどうなるか分からないんのだから。そう思いつつも、リゲイルは身を切られるような悲しみに唇を噛む。漆が来てくれないのは自分に愛想を尽かしたからではないのかと。初めて友達ができたと思ったのに、漆のほうはもはや自分のことなどなんとも思っていないのではないかと。
 あの時、何が漆の気に障ったのか、いまだによく分からない。だが映画の中での彼の役柄に触れた時から様子がおかしくなったことだけは分かる。このまま二度と会えなくなるのだろうか。後悔や謝罪の気持ちすら伝えられなくなるのだろうか。
 (嫌……そんなの嫌!)
 瑠璃色の瞳から涙が溢れたその時、聞き覚えのある声が、もう二度と聞くことはないかも知れないと思っていた声が不意に耳朶を打った。
 ――お嬢。
 リゲイルははっとして頭を持ち上げた。空耳だろうか。
 (お嬢。遅れて済まん)
 だが、今度ははっきりと――りげいるの耳にしか届かない程度の小さな声であったが――その声が聞こえた。慌てて視線をめぐらせると、運転席のシートの影の中にちらりと狐の面がのぞいた。
 漆だ。
 リゲイルの瞳にぱっと喜色が満ちた。いつの間に車内に潜んでいたのか、どうやってここに現れたのか、そんなことはどうでも良い。漆はきっと忍びの力を使ってここに来てくれたのだ。軽く面を持ち上げた漆の唇が「騒ぐな」と動くのを読み取り、リゲイルは小さく肯いて知らんぷりを決め込む。
 その刹那。
 運転席の男が悲鳴を上げた。
 手、手、手。数え切れぬほどの手が、向日葵畑に唐突に生えたのだ。
 漆の仕業だとリゲイルにはすぐに分かった。だがそんなことなど知らぬ男たちは恐慌状態に陥る。無数の腕が、車の影の中から這い出した上半身が、ずるずるとうごめきながら瞬時にフロントガラスを覆い尽くす。と次の瞬間、防弾使用のフロントガラスが真っ白に変じた。恐怖に駆られた助手席の男がろくに狙いも定めずに発砲したのだ。しかしその時には不気味な腕も上半身も煙のように消え失せていた。
 「しっかりしろ!」
 後部座席から飛ぶ上ずった怒号。運転席の男は突如として眼前に展開されたハードなアクションシーンに動揺し、ハンドルさばきも覚束ない。車体が甲高い悲鳴を上げながらドリフトを始める。その振動で、先ほどの発砲によって蜘蛛の巣状に亀裂が入ったフロントガラスがとうとう砕け散った。ガラスは雨となり、鋭利なきらめきを放ちながら容赦なく車内に降り注ぐ。フレームだけになった運転席に狐面を着けた漆の分身体がぬっと顔を突き出し、必死に車体を立て直そうとしていた男は悲鳴を上げてハンドルを手放した。
 戒められていた両手が不意に軽くなった。両手を縛っていたベルトを漆が断ち切ったのだ。と思った瞬間、シートの影の中から飛び出した漆がリゲイルの体を抱き抱えていた。
「しっかり掴まりぃ!」
 言われて、わけも分からず漆の胸にしがみつく。後部座席の男がナイフを繰り出しかけた。漆は右の手甲でそれを跳ね上げる。さらに男の顔を踏み台にして体に勢いを乗せ、リゲイルを抱えたままドアを破って車外へ飛び出した。
 空の青と向日葵の黄色の間で、赤いマフラーが奇妙にゆったりとした軌跡をえがいた。
 痛みなど感じなかった。落下する二人を向日葵たちがふんわりと受け止めてくれた。セダンがクラッシュしたらしい衝撃音が遠くで聞こえたが、二人の耳には届いていなかったかも知れない。
 「……う、ん」
 漆の腕の中でリゲイルははっと我に返る。リゲイルの下敷きになる形で背中から落下した漆はぴくりとも動かない。リゲイルは慌てて起き上がり、口にガムテープが貼られたままになっていることも忘れて懸命に漆の肩を揺り動かした。だが狐面は無表情に沈黙を保ち続ける。
 (……嘘)
 長い睫毛が震えた。見開かれた瞳に涙が満ち、目尻に溢れて頬を伝う。嘘だ。これは絶対に嘘だ、漆が死ぬわけがない。だって、だって、漆は――
 リゲイルの下で、不意に狐面が「くくく」と笑った。え、と思った時には漆の手が伸びて来て、リゲイルの口を塞ぐガムテープを剥がし取っていた。
 「死んだふりや」
 軽く持ち上げてみせた狐面の下からいたずらっぽい瞳がのぞく。「ひどい顔やね」
 リゲイルの白い顔は土埃と涙で汚れ、おまけにガムテープを剥がされた跡が赤く残り、せっかくの美少女が台無しになっていた。
 「……何、それ」
 くしゃ、とリゲイルは泣き顔のまま笑った。漆も寝転んだままくすりと噴き出す。どちらからともなく、笑った。地平線を埋め尽くす向日葵に囲まれて、二人はひとしきり笑い合った。
 「ありがとう。絶対来てくれるって思ってた」
 「正義の味方も台無しや。俺が目を離さんかったら怖い思いなんぞさせずに済んだんに。影を伝ってどうにか追いかけてんけどなぁ……遅れて済まん」
 「ううん。ヒーローはいつもクライマックスのおいしい場面で颯爽と登場するの」
 「何や、それ」
 向日葵畑に並んで寝転び、ぽつぽつと言葉を交わす。空はいつの間にかきれいに晴れ渡っていた。真っ青な空と黄色い向日葵が二人を包み込むように覗き込んでいる。 
 「晴れたね」
 「晴れたな」
 「やっぱり、晴れがいいね」
 「ああ」
 どちらからともなく顔を見合わせる。息がかかりそうなほど近くに互いの顔があった。照れ隠しに笑ってみせたのは漆か、リゲイルか。
 「さっきはごめんな」
 「さっきはごめんなさい」
 期せずして声が重なり、互いに目をぱちくりさせる。それが何だか可笑しくて、二人はまた同時に噴き出し、転げるように笑い合う。
 「ねえ」
 リゲイルが不意に上半身を起こし、名案を思い付いたとでもいうように顔を輝かせた。
 「写真撮ろうよ、写真」
 「写真?」
 「うん、記念写真。いいでしょ?」
 仲直りの記念にとせがむリゲイルだが、仲直りは単なる口実にすぎない。本当は、初めてできた友達との形ある思い出が欲しかった。
 「よう分からんけど……確か、カメラちゅうもんがないんとあかんちゃうの?」
 「カメラなら多分車にあるよ」
 「車?」
 「さっきの人たちの車。デジカメくらい持ってるんじゃないかな。ねえ、分身の人に頼んで探して来てもらお」
 「盗みはあかんやろ」
 「ちがーう。ちょっと借りるだけ」
 やがて、大破したセダンに向かった漆の分身体がデジカメを携えて戻ってくる。黒いスーツの三人組は車内でだらしなく伸びていたが、彼らの持ち物であったらしいデジカメはどうにか使える状態にあるようだ。
 分身体にデジカメの使い方を丁寧にレクチャーした後でリゲイルは漆の隣に並ぶ。
 「なんや緊張するわ」
 写真というものを撮ったことがない漆は苦笑を漏らしながら面を着け直す。だがリゲイルが「駄目だよ」と言ってそれを制した。
 「記念写真なんだからちゃんと顔が写るようにしないと」
 そして、狐面を外そうと背伸びする。漆は「分かった、分かった」と言いながらリゲイルの慎重に合わせて軽く膝を曲げた。面を額の上にうまく乗せようとするリゲイルにされるがままになりながら、今度は漆がリゲイルの頬に触れた。
 「ほれ、お嬢も。記念写真なんやからきれいにしとかなあかんよ」
 土埃で汚れた顔を赤いマフラーで丁寧に拭ってやる。リゲイルもまた、くすぐったそうに笑いながらされるがままになった。
 「じゃ、いい?」
 「ほな、ええか?」
 身なりを整え、肯き合ってカメラの前に立った。それを確認した漆の分身体が器用にカメラを構える。と、不意にリゲイルが漆の右腕を取った。両腕で抱え込まれるように右腕を引かれ、漆の上体がわずかにかしぐ。眼をぱちくりさせてリゲイルを見下ろすと無邪気な笑みがこちらを見上げていて、漆は照れ臭そうに笑いながらカメラに向き直るしかなかった。
 「はい、チーズ」
 分身体はリゲイルに教わった決まり文句を忠実に復唱し、シャッターを押した。
 「何や、これ」
 デジカメを受け取り、二人一緒にモニターを覗き込んで画像を確認する。漆は思わずまた苦笑いした。青い空、黄色い向日葵、白いワンピースの美少女という絵画のような構図。その中で、リゲイルに腕を取られた漆がややよろめくようにして写っている。狐面を額の上に乗せた漆の笑顔は驚くほど無邪気で、少年と呼ぶにふさわしいようなあどけないものであったのだ。
 「うん、いい。漆くん、可愛い」
 「可愛い? 俺が?」
 「うん。可愛い」
 漆の傍らでリゲイルは幸せそうに笑った。漆が初めて歳相応の笑顔を見せてくれたことが、言いようもなく嬉しかった。
 「ああ……にしても、ええ天気やなぁ」
 照れ隠しであろう。漆はわざとらしく話題を変えてすいとその場を離れてしまう。そのわざとらしいしぐさがおかしくて、リゲイルはまた笑った。
 「うん。いい天気だね」
 そして再び漆の隣に並ぶ。「明日も晴れるかな。ずーっとずーっと晴れだといいな」
 「おお。ずーっと晴れや」
 漆はいつかのようにリゲイルの頭を撫でてやりながら、向日葵の中で人なつっこく笑ってみせた。



 永遠など存在しないことくらい、知っている。
 それでもリゲイルは願った。こんな時間がずっと続けば良いと。絶えることのない川の流れのように、さらさら、さらさらと、この穏やかな日々が続けば良いと。そう願わずにはいられなかった。
 だから、この写真を撮った後に向日葵の花言葉を知った時は心が震えた。きっと運命なのだと、そう力説する自分の隣で困ったように笑っていた漆の顔を今でもはっきり覚えている。
 リゲイルにとって、漆は友達以上に近しい存在になっていた。漆は家族だった。歳こそ近いが、父親のように慕っていた。
 (漆くん……)
 そして今。あのムービーキラーを倒したという報に接したリゲイルは、ホテルの居室で独りフォトスタンドを握り締める。この写真の中でだけは、二人の時間はあの夏のままで止まっている。
 漆のこんな笑顔を最後に見たのはいつだっただろう。いや、漆が心からの笑顔を見せてくれたことが何度あっただろうか。
 フォトスタンドを握る手が震え、手首のブレスレットがしゃらりと音を立てる。リゲイルの目と同じ色をしたコーン・フラワー・カラーのサファイアが埋め込まれたシルバーのブレスレット。チェーンひとつひとつが銀粘土製で向日葵の花の意匠が彫り込まれたそれは、手先が器用な漆の手作りで、漆からの最初で最期のバースデープレゼントだ。
 魔法が解ければ漆は元の世界に還ってしまう運命だった。だが、そんなことはきっとずっと先の話で、それまでは一緒にいられるのだと思っていたし、そう願っていた。
 ぱた。
 リゲイルの笑顔の上に、涙がこぼれる。
 ぱたた。
 漆の笑顔が、涙で濡れる。
 ぱたた、た。
 どこまでも続く青空が、咲き誇る向日葵が、次々と涙でにじんでいく。
あの時、リゲイルの声は漆を止められなかった。リゲイルが伸ばした手は漆には届かなかった。だが、あのいびつなムービーキラーが遺したフィルムにこの写真の画像が焼きつけられていたことを知った時、ほんの少しだけ救われたような気がした。漆の心にも自分の存在が深く刻まれていたのだと、そう確信することができたから。
 だけど。
 だけど。
 リゲイルの膝ががくりと折れた。リゲイルは泣いた。写真をきつくきつく胸に抱き締めて、ただただ涙を流し続けた。
 
 向日葵の花言葉は『いつもあなたを見ている』、あるいは『ずっとあなたのそばにいる』。

 「漆、くん」
 彼の名を呼びながら泣きじゃくるリゲイルを、物言わぬバッキーだけが不思議そうに見つめていた。



 (了)



クリエイターコメント大変お待たせいたしました。期限ぎりぎりの提出になってしまい、申し訳ありません。
そしてオファーありがとうございました。大事な思い出の書き手として選んで頂けたこと、本当に、本当に嬉しいです。

他愛ないやり取りのひとつひとつが穏やかな思い出として残るような、そんな雰囲気を目指しました。
会話のひとつひとつ、共有したものひとつひとつがいとおしくなるような…。
もしそんなふうに感じて頂けたなら幸いです。

花言葉はライターの独断です。
今回の物語にこれ以上ないほどぴったりだと思ったので。
『ずっと一緒』。実現し難いと分かっていても、望まずにはいられないですものね。

後日拙ブログにて御礼のコメントを掲載させて頂きます。よろしければご覧になってみてください。
今後ゲームに登場することがあろうとなかろうと、私は、斑目様のことは絶対に忘れません。
斑目様は、私に取ってとても大きな存在ですから。
公開日時2008-04-06(日) 11:20
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