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<ノベル>
あれは今から少し前。随分前の様な気がするのは、この銀幕市に騒動が起き過ぎているからだろうか。
斑目・漆は遠い目をして、河川敷のサイクリング・ロードから夕暮れを見つめる。面をつけているから本当に遠い目をしているかは判らないが、なんとなく、雰囲気がそう見せる。男は背中で語るもの。
確か、杵間神社で秋祭りが行われる少し前。
今の時節ほど肌寒い季節ではなかった。街行く人々のコートがもう少し薄手だった。漆が元々いた所よりは大分過ごしやすい。寒いのには変わりないけれど。
赤いマフラーが、寒風に靡く。
あの日を思い出す。
銀幕市に着てからの、一番熱い戦いを繰り広げた、あの、秋の日の事を―
漆は銀幕市に来てから、少し古めの木造アパートに住んでいる。
一人で暮らすには十分な広さだし、ぼろぼろというにも程遠いし、他の住民や管理人も感じの悪い者ではなかった。管理人は少し歳をとっているので、たまについでではあるが、買出しなどをする。そうするととても喜ぶし煮物を分けてもらったりするので、結構ありがたい。
その日、運命の日と言っても差し支えの無いあの日。
学校も休みで、他の用事も特に無く。漆は最近、というより銀幕市に着てから知った洋裁に取りかかる。元々針仕事は好きだし手先の器用さと記憶力にかけては自信がある。
綺羅星学園に編入して入った手芸部でもメキメキと頭角を表し、今まで地方予選が精一杯だった部を一気に全国区レベルまで押し上げた。
ちなみにクラスの女子がクリアできないと匙を投げた家庭科の課題もたまに引き受けている。お礼に、と昼食を奢ってくれたり数Uのレポートを見せてくれたりと、なかなか有り難い。
最近はレース編みとビーズ細工に凝っている。複雑な模様は難しいが、満足に値する出来に仕上げた時の達成感はとても心地よい。
部から借りてきた雑誌をめくり、柄を吟味する。
近々祭りがある様で、個人で出店して参加できるらしい。そこでちょっとした装飾品の店でも出してみたら?と薦められ、折角なので参加することにした。
出店するとなると、粗末なものは並べられない。いつもとは違う気合いと緊張が体を駆け巡る。
クラスメイトにどんな装飾品がいいか尋ね、バッキーを象ったビーズストラップをちまちま作る。一つ作り上げるまでは大変だった。何しろビーズ雑誌に載っていないから自分で構成するしかない。
もしかしたら載っているかもしれないが、見つけられなかった。
教えて貰った手芸専門店には様々な色と形のビーズが揃っていたので、バッキーのほぼ全種類を作成する事ができた。気に入る形になるまでは時間がかかったが、一つ出来れば後の作業はスムーズだった。
「あ〜、ちょお休憩せな。肩痛ぅなってもた」
軽く肩をコキコキと解す。
ふと時計を見れば、開始してから大分時間が経っていた。
この時計と言うものは今一まだ馴染めない。漆の地元ではこれほど精密な時計は無かった。漏刻を置き、多数の役人を付けて時間を測り、鐘をついて時を知らせていた。そしてその鐘の音が時間の基準となり、それを基に時香盤というものにに点火して時間を測っていたのだ。香の燃える速さが時刻を表していた。
こんなに細かく時間を区切ってどうするのか、はっきり言って理解に悩む。確かにあればあったで便利だが。
少し冷めた茶に口をつける。その温度が心地よい。
そんな時、木造の古びたドアをリズミカルとは言い難い調子で誰かが叩く。瞬間体を緊張が走り抜けるが、すぐに警戒を解く。この気配は馴染み……という程ではないが、同じアパートの住民だった。
「どうも、何用ですのん?」
半分だけ、ドアを開けて来訪者を確認する。半分だけだが、相手に警戒心を悟られない様にするのは忘れない。
「いや、ただの回覧板。お前でここは最後だから、後は宜しく〜」
気楽に回覧板を漆に押しつけ、近所の青年は直ぐに去っていく。
おおきに、とその背中に礼をいい、中を確認しつつ室内に戻る。
町内会の清掃活動のお知らせが挟まっていた。隣人の言う通り、このアパートのサインは漆以外埋まっている。次のお宅は、本田さんのお宅である。
本田さんのお宅、というより本田家はちょっとご町内では有名である。特にお金持ちと言うわけではない極普通の概観をした一軒家なのだが、何が有名って、息子が高級ホテルの総料理長だったりしてるからである。
確かに犬も居たはずだ。漆はどちらかと言えば猫の方が好きなので、大して興味は無かったが、結構恐れられているらしい。
犬に対して恐怖心の無い17歳が、大きいからと言うだけで怖がっているのもなんだかばからしい。それに実際怖くは無い。
……もしかしたら、隣人は本田さん家の犬が怖くて漆を最後にしたのかもしれない。
銀幕ふれあい通り。名前は可愛くて少しレトロな感じがして、昔ながらの商店街と言う雰囲気が漂う。名前だけは。
その一画に鎮座する、『スーパーまるぎん』。
実態は無国籍な品揃えの豊富さと良心的な価格で、奥様方だけでなくお客様全てのハートを鷲掴みにしている。まるぎんのタイムセールは、実質戦場である。割引率はそれほど高くは無いのだが、何しろ食料品全品に対して発動されるのである。
客達は、そこに全神経を集中させて戦いに挑む。何を買うかを決めておかねば、30分だけしかないのですぐにタイムオーバーとなってしまうし、他の客に押し出されて戦利品は0となる。
漆は全てを決めていた。
狙うはただ一点、限定カニクリームコロッケ3点セット。セットと言っても、3つ揃って一つの袋に入っている。外はサクサク、中はとろっとろ。
普通ならばタネのほぐしカニ身はカニ缶を使う。缶ものを侮ってはいけない。しかしやはりカニ缶なのである。なんてまるぎんでは、期間限定で最高級ズワイガニを丸々使ってタネを作る一品だ。
カニの風味を全く殺さず、なのにホワイトソースの滑らかさがばっちりとマッチしている。タネにはカニの他にムキエビをペースト状にしたものも入っていて、たまらない食感を演出している。
そしてじつはこれ、お買得品のチラシには載っていない。ならば何故漆がその情報を知っているのか。
今のご時勢、インターネットなのだ。銀幕市について少しばかりした頃、調べ物をしていたときに、レビューサイトに行きついた。そこで目にした記事があまりにも大絶賛だったので、興味を惹かれたのだ。
情報収集には慣れている。主の下にいた頃とは勝手が違うが、しかし基盤は同じだ。
そして決行の日が今日。
漆のアパートから銀幕ふれあい通り、そしてまるぎんはそう遠くはない。少し急げば10分も掛からずに着く。
気温もまだ冷えてはいない、むしろ快適に過ごしやすい、初夏とは違う心地良い温度だった。
薄手のパーカとトレーナーを纏い、動きやすい履きなれたジーンズとスニーカー、そして財布をはじめ、色んな物が入っているウェストポーチを確認する。
準備は万端。
何とはなしにニヤリと笑い、玄関口でつま先をトントンと叩き靴の感触を慣れたものにする。
時刻は、午前10時10分を示していた。
「やー、楽勝やったわー」
ほくほくとした、という言葉がピッタリの笑顔で、漆はまるぎんの自動ドアをくぐる。
時刻は10時33分。
見事に限定カニクリームコロッケをゲットしたのだ。
最初から狙いを定めておけば、後は造作もないことだった。何せ相手はごく一般人ばかり。対して漆には忍びとして鍛えた瞬発力と集中力、視野の広さがある。
スタートダッシュをしようと、周りを押し退けるようなマナー違反はせず、低身を保ち一気にお惣菜コーナーまで駆け抜ける。そして陳列されたばかりのカニクリームコロッケの袋を一つ、さっとカゴの中にイン。
そこから後はもっと楽だった。人ごみを避けて大人しくレジに並べばいいだけだ。
信じられないことに、カニクリームコロッケ3つの値段は380円。信じられないほどのお手頃価格。帰り際にふとまた惣菜コーナーを覗くと、もう売り切れていた。
コロッケの温かさを感じながら、ご機嫌で帰路を行く。
浮き足立っている所為か、行きよりも早く大分早くアパートへと辿り着く。
鍵を開けて玄関に入った時、靴箱の上に置きっぱなしにしてしまっていた回覧板に気付く。
「あちゃあ……すっかり忘れてもうてた……どないしょ」
回覧板を回すことは大事だ。しかしその順序はもっと大事だ。
カニクリームコロッケである。
今食べたい。しかし責任を持って回覧板を本田さんのお宅に回さなければならない。
部屋に置いておくか? いや万が一にでも賊が進入してコロッケを奪われたら何とする。機会はまたあるとか、そういう問題ではない。
行く前に持っていかなかったのを悔い、漆はコロッケを胸に抱いたまま回覧板を手に取った。
―それが、彼の運命を大きく変える事になるなんて、この時は誰も気づかなかった。
勿論過言。
本田家までは歩いて数分のところだった。この辺は番地が飛び飛びなので、町内が少し入り組んでいる。
インターフォンを押して伝える時間すら惜しい。些か無礼かもしれないが、ポストに回覧板を入れて、そのまま立ち去ろうとした時。
門扉の後ろから一頭の犬が漆を見つめていた。
体高は70センチ程だろうか。あまり体毛は長くなく、だがそれが引き締まった肉体を寄り美しく頼もしく見せている。身体も大きいし威圧感を与えるが、その大きな漆黒の瞳がどこか愛らしさを演出している。
漆は知らなかったが、その犬はグレーハウンドという犬種で、速さは「閃光」、優雅さは「燕」、賢さは「ソロモン王」とまで賛美されている。ドッグ・ショーやレース向きの犬種だが、勿論家庭犬としても、温和で従順、闘争心は強いが人に対しては穏やかな所が愛されている。
だがしかし。
本田さんちのグレーハウンドは少々違う。
だが本田家の名誉のために記しておくが、決して放置と言う名の放任ではない。事実本田家の、特に長男に対しては極めて従順且つ懐いているし、それほどではないにしろ、本田家の住民のいう事はちゃんと聞いている。 だが、本来狩猟犬であるグレーハウンドの狩猟本能を色濃く残しているのか、動く小さいものを見ると無条件で追い掛け回し吼えまくる。その図体の大きさから、余程の犬好きでない限り、みんな本田家のグレーハウンド−ペスを恐れる。そして畏怖を込めてみんなこう呼ぶのだ。
ペス殿、と。
漆はこんなに間近でペス殿と邂逅したのは始めてである。前を通るたびに何度か見かけて事があるが、お互いがお互いに興味がないので、存在を認識している程度の間柄だ。むしろペス殿にとって、本田家長男以外は特に興味が無いので、それすらないのかも知れない。
暫くじっと見つめあう。
ペス殿の鼻がひくひくと動く。
漆は本能的に悟った。
ーこいつ、危険や!
さっと漆が門扉から離れるが早いか、ペス殿がざざざっと門扉から離れる。なんや、と思った時には既に遅く、ペス殿は驚異的なスピードで駆け、その勢いを利用し門扉を飛び越える。
「な、なんやと!?」
その飛び越える様はむしろ優雅とさえいえた。
更には漆の胸元に抱かれていた筈の、カニクリームコロッケにまで手を出した!(実際には口だけど)
「くッ!!」
何とか身体を捻り、ペス殿から距離を取る。
しかし。
数メートルの距離を確保には成功したが、ペス殿の口には、カニクリームコロッケが、一つ。
漆を警戒しながらも、ペス殿は悠々とカニクリームコロッケを食べている。ほんの数口で体内に吸収されてしまった。味わった様子もなく、だがペロリと舌なめずりをし、また漆を睨む……いや、残り二つのコロッケに狙いを定める。
「……ふん。ヒトを舐めんのも、大概にせえ」
学校やアパートでは決して見せない、仕事時の様な鋭い目付きで漆はペス殿を見やる。
「…げ、ペス殿!?」
誰か、通りすがりの小学生の声を合図に、漆とペス殿は道を駆け抜ける。
銀幕ふれあい通りに向かって。
グレーハウンドは多くある犬種の中で最速を誇り、時速60kmで走ることが出来る。漆は身体能力が優れているとはいえ人間であるので、いくらなんでもそこまで早く走れない。走る事が出来たらもはや人類ではない。エイトなマンか奥歯に加速装置を内蔵しない限り不可能だ。
だが漆は小回りが利く。トップスピードで走っていたとしても、脇道にそれたり上に飛んだりする事が出来る。
「きゃあぁぁぁぁぁ!!ちょ、なにぃぃ!?」
「ペス殿、本田さん家のペス殿だぁぁ!」
商店街は一気に騒然とする。いや、もともと騒然としているのだが、駆け抜ける2陣の風にただただ恐れをなしている。
店々のシャッターがガシャガシャと下ろされる。
漆が金物屋の旦那をうっかり踏んでしまったついでにフライパンをペス殿に向かった放り投げる。しかしペス殿ぱくっと咥えてぺっと無造作に道端へ捨てる。
ペス殿ががっと飛び掛るのを漆は無駄の無い動きで交わし、勢い余ったペス殿はドラッグストアの特売トイレットペーパーに突っ込んで山を崩す。
にやり、とお互いの実力(?)を認めたのか、おたがい不適に笑い、逃げ遅れた八百屋・やおぎん のご主人がペス殿の肉球に思い切り潰され、金物屋の旦那さんが漆に踏み台にされた。
その勢いを活かし、二人は跳躍する。
ざっと降り立った場所は、タバコ屋の屋根。
ペス殿は無駄も隙も一切ない構えで漆と対峙している。ペス殿が身軽な分、漆はコロッケを死守せねばならないというハンデがある。
漆はそっとコロッケを抱きしめる。残りは二つ。お昼ご飯のおかずにしては少ないが、元々昼食をとるという習慣がなかったので、丁度いい量なのだ。
まだ味は判らないが、漂う香りとペス殿のあの執着心とを併せみて、相当な芳醇な味をしているに違いない。
じり、とおたがい僅かに動く。
わぅ、わうわうわうっ!
ペス殿が威勢よく吼え、漆に飛び掛る。
「!?」
その瞬発力の良さは、少々漆の予測範囲を超えていた。はっとなり避けた時、決してしてはいけない過ちを犯してしまった。
まるで、スローモーションの様だった。
ペス殿はかわしたが、その拍子にぽろ、とコロッケが一つ袋から零れ落ちそうになったのである。二人の視線がコロッケに釘付けになる。
そして意識の共有。 「落としては崩れて台無しになってしまう……!!」
コロッケへの愛と執念が、漆の限界を超えさせた。
滑り易いはずの瓦の上にも拘らず、ぐっと踏ん張りそしてコロッケの方向へと跳ねる。
ペス殿が気づいた時にはもう遅く、コロッケの一つは漆が咥えていた。
「……っ!? こ、これは……なんちゅう……っ!」
衝撃が漆の全身を駆け抜ける。
さっくりとした表面の食感、いまだ暖かいカニクリーム。とろとろしているのに、外に出ない上品さ。ホワイトソースのほのかな甘みとカニの味、そして隠し味的なエビペーストが素晴らしいマッチングを魅せる。これはもう人間業ではない。神の成したもう御業である。
「この風味……さくさくの食感……!半端なやい、半端やないで……ッ!」
思わずはふはふと食らい付く。食べ物に関して特別こだわりは無かったはずだ。銀幕市に連れてこられてからというもの、色んな料理を目にする事が多くなったし、食べる事もある。興味もでてきた。だが未だかつてこれほどの衝撃を受けた事は無い。
脂っこいものはあまり口に入れる事は無かったが、これからは考えを改めざるを得ない。勿論、まるぎん限定カニクリームコロッケは別物としても、だ。
これはますますペス殿に渡すわけには行かない。
残り一つ、これこそ昼食のおかずにするのだ。純白に輝く新米と昨夜作ったわかめの味噌汁、その3点で幸せな食卓を作り上げねばならない!
じっくりと味わい、そして最期の咀嚼から嚥下。口腔から喉と食道を通り抜け、胃の中を終着地点と定める。
ぐい、と乱暴に口元を拭うと、衣が手の甲に付着する。それを軽く振ってペス殿を見る。
残りは一つ。
漆は何をしても死守する。勿論傷つける発想は無い、負かせばいいだけの話だ。いくら銀幕市最強と名高いペス殿といえ、結局は犬。ソロモン王の如き賢さを誇ると言っても、人間ほど器用に物事はこなせまい。
「あ、お巡りさん、こっちこっち!」
下から、住民の声が聞えてきた。
どうもあまりの暴れぷり(?) に通報されたらしい。逮捕なんてされないだろうが、ここでペス殿との勝負が付かないのは宜しくない。
それはペス殿も同じ様で、付いて来い、と言わんばかりにくいっと首を別方向へ向け、そのまま軽やかに駆け出した。
向かった先は―
サイクリング・ロードのある、河川敷。
サイクリング・ロードでは、他の通行人の迷惑になってしまう。
心地良い気温の休日なのに、土手には誰もいなかった。普段であれば親子連れや河原で遊ぶ子供が大勢いるというのに。
ざぁぁぁぁっ、と川の方向から風が強く流れてくる。
漆の赤いマフラーが風になびく。
おたがい一歩も動かない。
長い、長い沈黙が辺りを支配する。
カロンと、空き缶が風に流され落ちていた石に当たる。
それが合図になったようで、がっと二人は空中で交差する!
軽やかな着地の後、にやりと笑ってペス殿は漆を見やる。
「くっ」
腕をやられたらしい漆は、左上腕部を押さえながら口惜しそうに呟くが、ペス殿に振り返り―にやり、と笑い、パーカの中からコロッケを取り出す。
…わぅっ!?
ペス殿は驚愕した。いや、犬だから勿論表情なんて読めないが、間違いなく、ペス殿は驚愕していた。
無事コロッケを奪ったはずなのに、口には、自分の口にはコロッケではなく。
チ キ ン カ ツ
だったのである。
チキンカツもおいしい。とっても美味しい。さっぱりしているのに栄養価は高いし、大葉とか挟んで作ると更に味が広がりたまらない一品だ。
しかしペス殿はまだまだお若いので、そんなヘルシーメニューはお望みではない。
肉汁たっぷりの物がお気に入りなのだ。でも勿体無いので食べる。美味しかったのがなんか悔しい。
ていうか、一体何処から取り出した斑目・漆。
だって家だとパパとママがあたしの為とか言ってあたしが欲しがるものなんて、滅多にくれないんだもん!
とはペス殿の切なる響き。愛情があるのは判るが、でもそれなら欲しいものくれたっていいじゃない!
「…甘い。甘いでペス殿。その程度で俺を出し抜くなんて、納屋橋饅頭より甘いで!!」
―何故漆が納屋橋饅頭を知っているのかは別として。
漆とて無傷ではなかった。いや漆自身は無傷なのだが、コロッケを入れていた袋が少し破れかけている。爪で引っかかれたらしい。
一人と一頭は再び合間見える。
次は一瞬の油断も許されない。漆はコロッケの袋を抱く手に力を込める。勿論潰さない程度に。
じり、とゆっくりと、だが確実に間合いを詰めていく。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!誰か、誰か助けてぇぇぇっ!」
絹を裂くような悲鳴が河川敷に響く。
二人は思わずはっとして声の方向を見やる。そこには。
若い女性が足首を押さえて座り込んでいて、土手をバギーが単独で滑っている。赤ん坊を乗せたまま。
うっかり転んでバギーが土手を滑ったのだろう。足首を抑えているからきっと捻ったか何かしたのだ。
あ、と思った時には二人とも体が動いていた。より近い方にいたペス殿が早く辿り着くかもしれない。
しかしバギーは土手の途中で出っ張っていた石にぶつかったのか、鈍い音を立てて空中に舞い上がる!そして赤ん坊もバギーから投げ出された。
だが。
赤ん坊の襟首を意図も簡単にペス殿が咥えた!
しかし無理に跳躍した所為か体勢が悪く、このままでは地面に激突してしまう。
―いけない……ッ!
ペス殿がそう身の危険を感じた時、誰かがペス殿の身体を受け止め、そのまま音もなく土手に着地する。
言うまでも無く、斑目・漆が抱きとめたのだった。
女性は幸い大した怪我でもなく、暫くしたら足の痛みも消えたようで、赤ん坊を抱きしめつつ涙を流しながら漆とペス殿に感謝の言葉を何度も何度も言った。
それほどの事はしてへんよ、と漆が言い、ペス殿もその言葉に興味は無さそうにかりかりと首の後ろを書いていたが、このお礼は必ずさせて下さい、と女性は強引に押し切った。
二人とも印象が強いし、どうも近所のヒトらしく、ペス殿の事は知っていたようだ。
何度も何度も頭を下げて女性は立ち去り、暖かい午後の日差しの中、漆とペス殿は取り残された。
「……なかなかやるやないの」
…くぅん。わふっ。(ふん、あんたもね。なかなかやるじゃない)
言葉は通じずとも、思いが通ずる所はある様で。視線を合わせてにやりと笑う。
「……せや。半分こ、しょか」
最後の1つのカニクリームコロッケ。さしものコロッケも、大分冷めてしまっていたが激闘を讃えあうには構わないだろう。なにより友情の証なのだ。
漆が器用に二つに割る。中身が零れず、さっくりと。ペス殿の口の高さにあわせてコロッケを差し出す。心なしかペス殿も嬉しそうだ。尻尾がほんの少しだけ左右に振られている。
「男同士の友情の証、ちゅうやつやね」
……
…………
………………
重たい沈黙。あまりにも一瞬だったが、空気に銀幕市名物重力波が含まれた。
……ばく。
ペス殿が漆の手ごとコロッケに食らいつく。今は勿論仕事や対策課からの依頼を受けているわけでもないので、手甲はつけていない。つまり生手。むきだし。
「痛ーーーーーーー!!?? な、なにすんねん、この駄犬!!!」
しかしペス殿はなさない。その目が怒りに燃えている。
だってペス殿、時には涙の出ちゃう、女の子だもん。
どうも漆は全く気付かなかったらしい。まあ、ペス殿に興味がなかったから仕方ないかもしれないのだが。
結局、二人はまた場所を移して闘った。それこそ、日が暮れて、本田さん達がペス殿を探しに来るまで続いた。
―あの激戦以来、漆とペス殿は、目が合う度外で会う度に一戦を交えているらしい。
勝敗は未だに付かず、ずっとドローのままだ。
そして心に誓うことはおたがい同じ。
―いつか絶対ぎゃふんと言わせてやる。
銀幕市は今日も熱い。そして明日も明後日も。
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クリエイターコメント | 二度目まして。お届けが遅くなって大変申し訳ございませんでした。
また斑目さんとお会いできて嬉しいです!相変わらず似非関西弁になっているのが申し訳なく……。でもとっても楽しかったです、エヘ。 いつかペス殿と決着は付くのでしょうか!?
これからの斑目さんのご活躍を心から祈りつつ。 少しでも楽しんで頂ければ、何よりの幸せです。
この度はご発注頂き、ありがとうございました! |
公開日時 | 2007-12-31(月) 18:40 |
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