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<ノベル>
黄昏が過ぎ、夜の帳が降りた公園内。続歌沙音はひとり、人気のない道を歩く。
小柄な彼女は、ただそれだけでよく中学生や高校生に間違えられる。だがどこにでもいる中高生ならばおそらく、目につくものを食材として吟味し、次に原価を計算して儲けを出すにはどの程度加工していくらで売りさばくかを計算したりはしないだろう。
ただし。
彼女にとってソレは、銀幕市に魔法が掛かる前から繰り返してきた、当たり前の日常だった。
繰り返される当たり前の流れの中に、彼女は今日もいるはずだった。
だが。
「なあ、教えてくれ」
ゆらり、ふらりと、影が動く。
「アンタがどっちか、教えてくれ……」
外灯の下に、ソレは姿を現した。
振り上げられたのは、バールだ。ホームセンターなどでよく見かける類の、ありふれたソレを武器にして、彼は歪な表情で歌沙音に問いかける。
「アンタは、どっちだ? 生きているのか、死んでいるのか、そこにいるのか、いないのか、人間なのか、人間じゃないのか、……どっちだ?」
明かりの乏しい暗がりの中で、ただ相手の瞳だけがいやに光って見えた。
「質問の意図がよく分からないんだけど」
歌沙音の表情は変わらない。恐怖に凍りついたのではなく、ただ平然と、そして冷然と男を見据える。
「どこからどう見ても、私は立派な“エキストラ”じゃないか」
「なら、その証拠を見せてくれ!」
振り下ろされるその一撃を横に飛ぶことで避け、言葉を続ける。
「バイトして、日銭を稼いで、毎日をやりくりしている一般人に対して、そういう態度はよくない。どっちもなにも、生きて動いて平凡な日々を送っている人間に一体どんな証拠が示せるって言うんだ。これ以上のものなんかないだろう。空も飛べないし、死んだら生き返らない、魔術だって使えないし、大体住民票でも戸籍でも用意するには役所はとっくにしまっている時間だから無理だ」
ずらずらと言葉をならべたて、男の次の一撃もかわし、そうして、きっぱりと言いきった。
「そもそも、アンタはどっちなんだ。人に聞く前に、まず自分のソレを証明して見せてくれないか」
「……自分の……」
男の視線が揺れる。揺らぐ。戸惑うように、動きが鈍る。
その隙をついて、歌沙音は全速力で公園をあとにした。
金にならないことだ、腹も膨れない、ならば今ここで一か八かの戦いを挑むつもりは彼女にはなかった。
*
存在とは、そこにあるということ。
ではそこにあるということは、何によって示されるのか?
*
幸福な日常の象徴とでも言うように、明り取りの窓からはあたたかな光が射しこんで来る。
ヴァイオリン・ケースを手に、朝霞須美は玄関で靴を履く。
時間の決まっているレッスンへ向かうため、自分で決めた時間に家を出る。
銀幕市に魔法が掛かった今も、ソレは変わらない。唯一変わったことと言えば、自分の肩にシトラスのバッキーがしがみついていることくらいだ。
「須美、ちょっと」
そんな彼女を、不安げな母親の声が呼び止める。
「しばらくレッスンはおやすみしてちょうだい」
「どうして?」
「無差別通り魔事件が横行しているでしょう? レッスンは夜遅くなるんだもの。お迎えにいければいいけど、パパは出張だし、万が一にでも何かあったらどうするの……」
母は眉をひそめる。それは親として正しい反応であり、当然の不安でもあった。
「わかったわ」
素直に頷いて見せながら、須美の中では、学校以外で日常の大半を占めるレッスンを休めることで生まれる時間をどう過ごすかに思考がスイッチしていた。
勉学、読書、自主レッスン、あるいはDVD鑑賞という手もある。
けれど、そのどれも選ばなかった。
古今東西のミステリーをこよなく愛する須美の興味は、いま、母親が遠ざけようとしている【通り魔殺人事件】そのものに向いてしまっている。
現在の銀幕市には様々な犯罪が横行しており、そのほとんどがこれまで映画や小説といった物語世界の中だけで繰り広げられていたものだ。ムービースターを狙ったアクロバティックかつ意匠を凝らした事件も多い。
銀幕ジャーナルで踊る記事のいくつかは、彼女の心を確実に捉えていた。
隣人たちによる犯罪、そして、隣人や自分達をも巻き込んだ犯罪の数々は、けして許容されるものではない代わりに、対策課を通じて民間人でも調査する権利が得られる。
できることなら自分も関わりたい、調査に赴いてみたいと、そんな思いを抱いていることは両親には秘密だ。
母の心配をきちんと受け止め、須美はレッスンを休む。けれど、行き先を変えて出かけることはする。日暮れまでには帰る、そして日が暮れた場合にはけしてひとりにならないことを約束して。
「……あの人のところにも、この事件の話は行っているかしら」
土曜日の麗らかな陽射しの中を、彼女はひとり、〈白亜の塔〉を目指して歩きだす。
やわらかな陽射しと頬に当たる風が心地良い海岸線で、吾妻宗主はひとり、車を止めてスケッチブックに風景を写していた。
大学の講義で出された美術の課題は、【心象風景としての世界】という、分かるような分からないような代物だったが、宗主にとって取り組む楽しさに変わりはない。
純白の紙面に走る鉛筆の軌跡は、モノクロでありながら風景以上のものを切り取り、あふれんばかりの色彩を描き出していた。遠くに望むダイノランドの陰影すらも思い出とともに写し取られる。
うたた寝に誘われたくなるほど穏やかで、そして充実した午後だった。
そこに、なめらかな電子音がするりと入りこむ。
ディスプレイに表示された名を確認し、宗主は不思議な昂揚感を覚えながら電話に出る。
「お久しぶりです、ドクター」
電話の向こうから、穏やかなアイサツが返ってくる。その声音から相手の微笑む姿すら見えるようだ。
「何かあったんですか? ……ああ、いえ、珍しいものですから、ええ……、……ああ、なるほど。ええ、話には聞いていましたが」
いつしか宗主の心は、目の間の景色ではなく、電話の向こう側からもたらされるものに引きつけられていた。
相手からもたらされたものは、好奇心を刺激する、とても興味深い誘いの言葉だった。
「分かりました。少し調べモノをしてから、そちらに向かいます。……ええ、もちろん、護衛もかねさせて頂きます」
話をしながらも手は動きを止めず、スケッチブックと広げられた画材たちを鞄に収め、車の助手席に座らせて、自身もまた運転席に乗り込んだ。
「その代わり……ええ、いえ、条件というほどのことじゃないんです。この間素敵なダイニングBarを見つけたもので、もしお時間があえばぜひお付き合いして頂きたく……、ええ、そうです」
交換条件を提示し、
「有難うございます。それでは後ほど」
その了承を受けるのとほぼ同時にエンジンが掛かる。
アウディの銀の車体が太陽光をきらめかせながら、市街地へと滑りだした。
天窓から降り注ぐ陽射しで芝生までが輝いて見える、そんな銀幕市立中央病院自慢の中央ラウンジで。
用件を終えたらしい精神科医は、持ち込んだ書物の横に携帯電話を置き、顔を上げ、そうしてにこやかに傍らに立つ彼女へと声をかけた。
「ようこそ、流鏑馬さん。こうしていらして下さったということは、あちらの案件は無事終えられたということでしょうか?」
やわらかな歓迎の言葉と問いを受けて、流鏑馬明日も会釈と言葉を返す。
「ええ、何とか決着がついたわ。あの時はありがとう、ドクター。あなたの示唆がなければもう少し時間がかかっていたと思う」
「少しでもお役に立てたのなら何よりです」
勧められるままに彼の向かいの椅子に座し、明日は抱えていた分厚い茶封筒を差し出した。
「今日はその後の捜査の状況と、それから通り魔事件について頼まれていた関連資料をもって来たわ」
「わざわざすみません。有難うございます」
「いえ。熊谷さんがあなたの対応に感動していたわ。今度はカウンセリングを受けに行くと言っていたから」
「ああ、このお話を持って来てくださった刑事さんですね」
捜査員たちの疲労は心身ともにピークに達しつつある。
いまの銀幕市では、少し前までなら考えもつかなかった事件が連日あふれ返っているのだ。対策課と連携を取りながらも、多忙な日々が続いていた。それに、例の通り魔だ。だからこそ、案件がひとつ減ったことは大きかった。
「それで、あたしもこっちの捜査に回してもらったのだけど……資料を読んでひとつ気になったことが。聞いてもらえるかしら」
自分の言葉を待ってくれる相手をまっすぐに見つめる。
「ええ、もちろん」
事件が起こるたび、あるいは何も起こらなくとも、ここに来ることがすでにひとつの日常となりつつあることを明日はあまり自覚していない。
しかし、彼と向き合い、彼と言葉を交わすことで、思考の矛盾点や為すべきことの糸口を掴むという有効性は身をもって知っている。
ソレは甘えではなく、信頼関係の構築だ。
「あなたは、『存在することに不信を抱かせたモノが何かを知るべきだ』と言った。それを聞いて、連想せずにはいられなかったことがあるの」
論理の飛躍でなければ良いと思いながら、積み重ねていく。
「関連性のない被害者。あり合わせの凶器。犯行は夜を選んでいるようだけれど、明確な時間のこだわりもないとしたら、“犯罪を美学として捉えていない”連続殺人犯が求めるものは……」
結論に至るその手前で明日の台詞は止まり、視線がドクターの肩を通り越した向こう側へと投げかけられる。
ガラス戸を抜けてやって来たのは、ひとりの少女だった。
仕立の良いワインレッドのワンピースに黒のコートを合わせた彼女は、二人のテーブルへと迷うことなくやってきた。
「おじゃまをしてしまったのならすみません」
そうして礼儀ただしく頭を下げる。
「はじめまして。朝霞須美と申します。今日はある事件のことでご意見を伺いたくて参りました」
「朝霞さんの名前は存じていますよ。主にヴァイオリニストとしてですが。こうして来ていただけて光栄ですね」
「私も、あの【ENDLESS RED】シリーズのドクターDに直接会えて光栄です」
須美はドクターにもう一度頭を下げ、それから明日の方へと視線を移した。
「ドクターの所にいけば、もしかしたらとは考えていました。流鏑馬刑事の活躍、ジャーナルでずっと追いかけています」
明日と変わらない、揺らぎのない瞳だ。
「あなたの行動原理は、私の中で理想のひとつです」
「あ、ありがとう」
思いがけない言葉を受けて、しかもそこに一切の社交辞令的な要素が含まれていないことを感じ取り、明日は一瞬それと分からないほどかすかに頬を赤くする。
「さて、少し時間はかかりますが、吾妻さんもこちらへいらっしゃるようです。よろしければ、研究室に場所を移しましょうか?」
腕時計を確認し、ドクターはふたりへと声をかける。一度広げた資料も茶封筒の中にしっかりとしまわれていた。
「分かったわ」
「では、そうさせて頂きます」
彼に連れられ、ラウンジをあとにする17歳と19歳の黒髪の少女。二人が並ぶさまはまるで、姉妹としてあつらえられた一対の人形のようにさえ見える。そこだけでひとつの完成された空間が出来上がっていた。
「それにしても」
ドクターの背を追いながら、須美は独り言のように小さく呟く。
「ドクターDに面会を求めるなら、外来の受付で問い合わせるよりも先にラウンジに行った方が早いというのは本当なのね」
ぽつりとこぼれた彼女の台詞に、思わす明日はごくわずかだが笑ってしまった。ソレは常日頃、自分もひそかに思っていることのひとつだったから。
対策課で自分の遭遇した事件が【連続通り魔殺人事件】として依頼対象となっていることを確認し、歌沙音は新たな情報が入っていないかを職員に問い合わせる。
解答を待つ間、ちらりと横目で、ビスクドールのような植物の鉢植えを捕らえ、観察する。
ベビーピンクの鮮やかな花を咲かせた少女植物は、果たして食用に適しているだろうか。色味的に火を通すレシピは向いていないかも知れない。だとしたらやはりサラダになるだろうか、ソレもいささか味気ないような気がするが……
「その人魚姫の攻撃力は凄まじいらしいから、調理対象に選ぶのはオススメできないかな」
「え」
まるで自分の思考を読んだかのような声に振り返れば、そこに思いがけない人物が立っていた。
「久しぶりだね、続さん」
宗主がにこやかに手を振る。
「あなたにここで会うとは思わなかった」
「俺も、かな。びっくりしたよ。しかも同じ事件に関わることになるのは、初めてじゃないかな?」
「こっちは一応被害者だからね、関わらないのも気持ち悪い」
「被害者?」
立派に、というと御幣があるかもしれないが、歌沙音もまた通り魔事件の『被害者』のひとりなのだ。
幸い、今もこうして日常生活を送っているけれど、自分と同じように襲われ、そのまま日常が途切れてしまった者たちがいたことを知った時、調査を決めた。
犯人が何を考えているのか知りたいと嘯きながら、周囲の制止を巧みにかわして、そうして対策課を訪れたという経緯を、「興味があったから」の一言に要約して宗主に告げた。
「なるほど、ね」
彼は多くを追求しない。代わりにやんわりとした微笑を浮かべて、首を傾げる。
「そういうことなら、ああ、これは俺からの提案なんだけど。ここで情報を待っているよりも、一緒にドクターDの所にお邪魔しないかな?」
「ドクターD? あの精神科医のところへか……」
この事件を知った時、考えなかったわけではない選択肢のひとつだ。まさかこうして誘われることになるとは思わなかったが。
「一度会ってみるのもいいかもしれない」
ようやく戻ってきた職員から、被害者のプレミアフィルムが貸し出されていることを聞き、歌沙音の行き先は確定した。
*
薄暗い部屋の片隅でうずくまり、男は、ただじっと同じ問いを自分の中で繰り返す。
存在するということはどういうことか。
生きているというのは、どういう状態までを言うのか。
人間は、どこまでがニンゲンなのか。
思考を巡らせても、いまだ答えはでない。
顔を上げた。
その視線の先、壁に掲げられたコルクボードの一角で、写真の中の彼女が眩しい笑顔を見せていた。
この写真を撮った時には、こんなことになるとは夢にも思っていなかった。
再び、男はうずくまり、立てた膝に腕を乗せ、そこに視線を埋めた。
彼女は笑っている。
写真の中で、平面の世界で、ずっとずっと笑っている。
*
資料管理室に備え付けられた映写機に、ドクターは対策課経由で明日が借りてきたプレミアフィルムをセットする。
これからここで映し出されるのは、被害者となったムービースターの、この銀幕市という舞台で綴られた記憶たちだ。突然日常を奪われた者たちの最期の姿、最期に見たモノ、最期に聞いたモノが差し出される。
「まずは流鏑馬さん、先程言いかけた言葉の続きを聞かせていただけますか?」
映写機を稼働させ、そして彼は、傍で資料を見やすいようにとテーブルに広げる明日へ問いかける。
「あなたが連想したという、その内容を」
作業の手は止めず、視線もまた手元に落としたまま、明日は問われたことに対し、言葉を返す。
「あたしは彼の【動機】は、“判別”じゃないかと思っているわ」
「判別、ですか」
「ええ。それも、フィルムに戻るかどうか、それだけを基準とした【存在の区別】よ」
「なるほど」
「だとしたら、犯人は自分のしていることを【殺人】だと理解していない可能性もあるということかしら……」
須美は明日の隣でこれまで起きた【通り魔事件】の資料を読み進めながら、ドクターの台詞を引き継ぐように呟いた。
「殺して確かめる、という意味において、これは立派に犯罪だわ。選ぶべき手段じゃない」
「そう、許されないです。でも、彼は許されると思っているのかもしれない。だからこんなにも次々と人の命を奪えるのかもしれない、そう思えてしまうんです」
愉快犯でもなく、殺人鬼でもなく、憎しみでもなく、誰でもいいから殺してしまえる心理状態とは一体どういうものなのだろうか。
「彼は自分の存在を脅かされるような何かがあった、と考えるのが自然でしょうか?」
「以前、自分の存在に怯えた男の事件に関わったわ。だけど、でも、その時とは感触が違う気がする」
明日は須美と言葉をかわし、資料を手にし、そうしていながら、自分の記憶の中を探る。
あの時の彼は、怯えていた。自分に、自分という存在の不確かさに、怯え、適応できず、受け入れられず、自分で自分を殺した。
ふと想像してみる。
自分が自分であることに確固たる自信が持てなくなった時、ヒトは何を拠り所とするのかを。
「ドクターなら、犯人をどうプロファイリングされますか?」
「……そうですね。流鏑馬さんの言う【判別のための殺人】、朝霞さんの言う【殺人だと理解していないかもしれないという可能性】は非常に興味深い要素だと思います」
精神科医は、すぅっと眼鏡の奥の目を細める。
「自分の存在が揺らぐとしたら何が考えられるのか、あるいは、存在への不信感は何によって煽られるのか。存在の境界を考えるのはいつも、己自身がそれと直面した時なのかもしれません」
フィルムの中で、被害者となった彼女は笑っていた。
その画面が、ごがっ、という鈍い音とともに唐突に揺れた。視界が回転し、ちょうどカメラマンが何かに足を取られて転倒したかのような画面の揺れだ。
草むらに『カメラ』は転がり、動かない。
「止めて」
「ええ、分かりました」
「いま、一瞬だけど、なにか映っていたわ……」
DVDのようにはいかないが、それでもドクターの手を借り、辛うじて明日は自分の引っ掛かった箇所まで映像を戻すことができた。
「……やっぱり……一瞬だけど、映っているわ……犯人のカオ……」
「そこで止めておいてくれるかな。ひとつ、確かめたいことがあるんだ」
資料室の扉が開き、光と声が同時に飛び込んできた。
振り返った先には、厳しいまなざしの少女と、彼女を案内されてきたと思しき白衣姿の研究員、そして宗主が立っていた。
「失礼、ひとまず挨拶は省かせてもらう。その画面、そのままで」
「分かったわ。どうぞ」
一歩引き、明日は彼女の為に場所を空ける。
「きみとははじめまして、だね。よろしく、吾妻宗主です」
「はじめまして、朝霞須美です」
明日と歌沙音がフィルム映像を巻き戻しては何度も見返す合間で、宗主はにこやかに須美へと会釈する。
「あなたも事件を?」
「護衛をかねてね」
手段を選ばない犯人なら、調査中に何らかのアクシデントがあってもおかしくないからと、そう告げて。
「短期間で次々と人が襲われているからね、状況を整理するためにも明日さんにいろいろ聴いてみようかと思って」
これまでの事件や、それに類似したものを検索するだけなら図書館でも間に合う。だが、それでも明日に期待し、かつここを訪れたのは、もう少し踏み込んだデータが欲しかったからだ。
「それなら、これになりますね。状況の詳細と比較について、かなり分かりやすくカテゴライズされています」
「ああ……、なるほど、すごい。……こんなにもたくさんの事件が起きてるんだ……」
「それからこれが、今回の事件のうち、現場と被害者の項目だけを寄り分けたものです」
「もしかして、この書類の分類をしてくれたのはきみ?」
「別にあなたに見せるためではなく、自分の整理のためです。そもそも分かりやすい資料を作成したのは流鏑馬刑事ですから」
「でも、助かるな。興味深い。ありがとう」
素っ気なく否定で返したのに、さらりと彼から礼を言われ、戸惑うように須美は視線を外す。
「できれば、現場も歩いてみようと思ってたんだ。どうやら犯人と思しき男の素性が判明するみたいだから、その間で何か新たな発見があるかもしれないし」
それを足掛かりにするつもりだと宗主は微笑み、そしてドクターへと視線を転じる。
「どう思われますか、ドクター?」
この研究室のファイルと思しきものを手にしていた彼は、かすかに首を傾げ、そして笑みで応える。
「そうですね。相手の心理を理解するために必要なもののひとつが、相手が何に執着しているのかを知ることです。事件現場の共通点から推測される事柄から、相手の内面に踏み込み、行動を予測することも可能になるでしょう」
情報を得るために現場検証を行うのは意義深いものであると、彼は肯定してくれる。あるいは、それを為すべきだと。
「“美しいロジックを組み立てるには、まずは正確なデータが必要だ”、ですね」
かつて映画の中で聞いた台詞を須美はそのままなぞり、そして宗主の方へと向き直る。
「私も確かめたいことがあるのですが、ご一緒させて頂いても? 被害者に関連はなくても、その状況からわかるものがあるかもしれませんから。彼が犯行に至ろうとした、そう、スイッチのようなものが」
「わかったよ、じゃあ一緒に。……あ、明日さんと続さんは……」
「この男で間違いない」
宗主の問いが言葉になるより先に、歌沙音の平坦な声がきっぱりと告げる。
「数日前に遭った。その時はバールを振り回していたが、外灯のおかげでカオははっきり見ている」
「そう。だとしたら、銀幕署まで付き合ってもらうことになるんだけど」
「構わないよ」
「ありがとう」
「……どうやらふたりはひとまず銀幕署、かな?」
確認するように二人を交互に見やる宗主に、歌沙音が頷き、明日がそれを補う形で言葉を返す。
「ええ。まずは署の方で男の身元を割り出す作業をするわ。そのあと、出来れば本人に事情聴取を行うつもり」
「そうか。分かった。ああ、でも捜査に出る時は十分気をつけて、なんて刑事さんに言うのは失礼かな。続さんも気をつけて。それじゃ」
「いえ、ありがとう」
須美と宗主が研究室から消える。
続いて、明日もまた歌沙音を伴ってそこを出ようとしたが――
「流鏑馬さん」
「なに?」
思いがけず呼び止められ、心持ち緊張気味にドクターを振り返る。
精神科医の瞳に、憂いの影が落ちている。
「あなたが展開しているロジックはおそらく、現時点において正解に最も近しいものでしょう。だからこそ、気を付けてください。この先で待ち受けているものに」
すべてを見透かすような彼の眼差しに、明日は直感的な危機感を抱く。抱いたからには、ソレに対処する心構えもできる。
「分かったわ」
ただ頷いて、そして歩き出す。
だが、今度は歌沙音が足を止める。ドクターを見、逡巡するように一度視線を逸らし、そして苦笑を浮かべた。
「挨拶が遅れた。はじめまして。一度、噂の主に会っておこうかと思って来てみたんだけど、この機会にひとつ、質問をしてもいいだろうか?」
「ええ、もちろん」
「あなたの考えが聞きたい。ムービースターとムービーファン、そしてエキストラと分類される者たちの間に境界はあるのか否か」
そこにいるのは、白衣をまとった精神科医だ。心理分析官という能力を与えられたムービースターであり、ムービースターであるがゆえに三度の実体化を果たした存在。
彼は二度死に、そして今ここにいる。
彼は二度死に、そして今もこうして医者として存在し続け、日常を送っている。
「あなたと私は同じものだろうか」
そこに差異はないと思いたい、そう告げる眼差しを、精神科医はやわらかく受け止め、微笑む。
「境界線というのは、どこに引かれるのかではなく、自分でどこに引くのかだと思いますよ、続さん。そして、ソレはとても主観的なものです」
では、わたしからもひとつ。そう言って、カウンセラーは歌沙音をやわらかく見つめた。
「続さん、あなたにとって〈世界〉は過酷なものですか?」
「……さあ、考えたこともないよ」
一瞬惑った、ソレすらも気づかせよう、どんな感情も表には出さずに平坦な声で返す。
「でも、少なくとも私は、誰かを殺すことで何かを確かめようと思ったことはない。起きてしまった悲劇の前で停滞し、嘆き、呪い続けるつもりもない。生きているモノは生きることが義務であり、責務だ」
「ならば、あなたにとって〈世界〉はけして〈敵〉ではない。一度は牙を剥き、深い傷を負わせたとしても」
彼は言う。深い海色の瞳で眼差しをこちらに向けて、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「これからあなたは、望むと望まざるとに関係なく、様々なものを突き付けられるかもしれない、選択を迫られるかもしれない、決断しなければいけない瞬間が来るかもしれない……」
けれど、と彼は続ける。
「あなたは〈世界が美しいこと〉を知っている方です。それは、あなたが思う以上にあなたを支えるでしょう」
だから大丈夫だと、よく分からないままにそう告げられる。
返すべき言葉は、あえて探さなかった。
焼きごてで刻印されたかのような自分の中の【炎の記憶】すらも、彼には見えていたのかもしれない。
だが、それについて確かめることも、自分からそれを打ち明けることも、そしてそれを乗り越えるための手助けを求めることもしないまま。
彼に送り出されるようにして、歌沙音は無言で先を行く明日を追いかけた。
*
日常。
普段という意味で、常日頃と訳され、辞書を調べたところでそれ以上の意味は見出せない。
けれど漠然とした感覚で、その存在の重要性や重大性について考えることがある。
*
銀幕署の一室を借りて、歌沙音は明日とともに、この数ヶ月間のムービースターがらみの事件を洗い直し、そこから一人の男を突き止めていた。
容疑者であり、そして、もとは目撃者という分類をなされていた男。
彼の名前は――【間山茂】という。
調書によると、一年前よりオフィス街にある中堅の建築会社で経理を担当。
とある殺人事件の目撃者であり、事件当時はかなりの錯乱状態だった。一時期入院していた経過あり。退院後は欠勤が続き、本人とは連絡がつかない状態だという。
「二ヶ月前にあった、ムービースターによる中年夫婦殺害事件の関係者だったのね。あたしは別の事件でほとんど関わっていないんだけど、先輩が詳細を教えてくれたわ」
明日から歌沙音の手に渡った写真の中の男は、ひどく精気に欠けた顔をこちらに向けていた。
「事件に巻き込まれることで、自分もまた箍が外れたとか、そういうケースなのか」
彼が巻き込まれた事件は、おそらく典型的なムービーハザードというべきだろう。
チェーンソーを持った殺人鬼が実体化し、付近の住民を恐怖に陥れた。すぐに対策課に通報したが、ある夫婦が一組、犠牲になってしまったという。
現場は文字通りの血の海だったという。
そしてそこに、青年がひとり、いた。全身血塗れになりながら呆然と庭に座り込んでいるのを、駆けつけた対策課の調査員に発見された。
ソレが、彼だ。
いま、斧を、金属バッドを、ナイフを、バールを振り回し、罪もない人々を殺してまわっている男が、彼なのだ。
「あなたがあそこに来てくれて良かった。でなければ、割り出しにはもっと時間が掛かったわ」
「まあ、タイミングの問題だね。自分が襲われた事件には興味がある、だからこういった結果を引き寄せることも必然なのかもしれないが」
ちなみに礼ならまず自分をあのタイミングで誘った吾妻宗主に言うべきじゃないか、と言い、そして歌沙音は視線を落とす。
「【存在】について考察しながら、ああやってプレミアフィルムを見るというのもどこかおかしな矛盾を含んでいるような気がする」
膨大な資料の代わりに、たった一巻のフィルムで割り出せることがある。それを想定してしまっている自分に戸惑わないといえば嘘になるだろう。
それでも、この違和感を抱いたまま、調査を進めるしかないのだ。
存在への不信感。
ソレがこの事件のカギを握る。
では、【存在する】とは一体なんだろうか。
自分はこの事件に関わることで、何を知ろうとしているのだろうか。
「……殺された夫婦はスターじゃなかった。殺人者はムービースターだった。事件はシンプルだ。人物相関図も。なのに、なぜ間山は、スターかどうかを【区別】するために殺人を犯さなくちゃいけないんだ……」
「どうも彼はもともとがここの住民だったみたい。だから、被害者の夫婦とも、幼い頃に家同士で交流があったらしいわ」
先程読んだばかりの報告書を反芻ながら、明日は自分の唇を指先でなぞる。
「けれど、でも、それで【存在することの意味】が揺らぐようには思えないわね……もっと劇的な何かがなくちゃおかしい気がする」
「その場にもうひとり、誰かいた可能性は? そいつの存在が大きなトリガーになったとしたら?」
「……もうひとり……なるほど、場合によっては、もしかすると……でも、そういった報告はされていないわ」
されていない。ではこの事件は無関係であり、彼の心を脅かした原因はもっと別の事件にあるのだろうか。
「交流関係はいま調べてもらっているところだから、そこから何かの線が浮かんでくるかもしれない。あるいは、宗主たちの方が先に辿り着くかもしれないわね」
男の身元が判明してすぐ、明日は宗主たちへ連絡を入れていた。
彼らは間山の入院していた施設をあたってみると言っていたから、そこでなにがしかの収穫が得られることを期待する。
「あたしたちはこのまま間山茂の自宅に向かいましょう。うまくいけば本人は捕まえられなくても、家の中を見ることはできるかも」
「管理人が話のわかるヤツなら文句はないんだけど」
そう言いつつ、もし【聞きわけのないタイプ】だったとしても、歌沙音は、さして心配はしていなかった。
長くヒトリで生きてきて、詐欺師とも山師とも山賊とも言われる叔父とやり合ってきた日々は伊達ではない。対人間であるならば、自分にとってはたいした障害にはならないとひそかに考えていた。
言葉というモノは、時に相手に致命的な一撃を与え、時に【魔法】をかけるのだから。
*
男はホームセンターで獲物を物色する。
ごく当たり前のカオで、日曜大工が趣味だという風を装って、そうして並ぶ金属の刃を眺めていく。
「……なんで、なんだ……」
楽しげな親子連れとすれ違った。
彼等はどちらなのだろう。幸せそうなその姿は、本物なのだろうか。
「なんでなんだ……」
ふつり、ふつりと、胸の中に沸き上がる、この感情が悲しみなのだろうか?
*
眩しいくらいの太陽はその威力を弱め、ゆるやかに西へと傾いていく。
あまり見通しが良いとは言えず、人通りもすでにまばらとなりつつある公園の中を、須美と宗主は並んで歩いた。
ふたりの間で交わされるのは、【間山茂】という人物の心理の変化とその考察だ。
「彼はごく普通の生活をしていた。東京の大学に進学するためにここを離れて、就職して、そうしてまた、最近になってここに戻って来たみたいだね」
悲劇のスイッチはどこで入ったのだろう。
「彼は事件に巻き込まれ、そこで決定的なことが起きた……そういうことになるけど……ソレがどんな形で精神活動に作用したのか」
事件が起きる前まで、彼は平凡な三十路間近の青年だった。その日常が破壊された可能性があるのが、二ヶ月前の殺人事件だ。
入院当時、彼がうわごとのように繰り返し繰り返し、女性の名前を呼び、『どうして』と呟いていたという。
かつて同室者だったという初老の男性は、その話をする間中、痛ましげな表情を浮かべていた。
「彼には交際していた彼女がいたという話だけど、どうも、見舞い客とかでその姿を見た人はいないみたいだね」
「可能性としては、『殺人鬼の被害者』として、その彼女も含まれていたことが考えられるかもしれない」
「被害者は中年夫婦だけだった、というのが正式記録だと明日さんは言ってたね」
「……遺体はそのご夫婦だけかもしれません、ですが……」
「なるほど、遺体として残らない被害者……あるいは、別の事件の被害者として処理されている可能性、ですね」
探偵役となったふたりの視点はそれぞれの感性によって情報を捉え、分析し、再構築しながら謎を解く鍵のカタチに変えていく。
宗主は須美とともに、彼が事件当時に運ばれたという病院をまず訪れていた。直接職員から話を聞くのは難しい。しかし、患者からならば。
患者と多く接点を持つ売店の職員の情報網とあわせれば、かなりの収穫が期待された。
そして、事実それは外れていなかったのだ。
「それにしても、よく思いつきましたね」
「医療関係はね、そこそこ内情が分かっているから」
ふわりと笑って、相手からの質問をかわすように今度は宗主が問いかける。
「俺からもひとついいかな?」
「なんですか」
「きみは確かムービーファンだったと記憶しているんだけど、どうしてバッキーを連れていないの?」
「それはあなたも同じだと思います。それがこの事件の性質を考えての行動だとしたら」
「じゃあ、俺たちは同じ推測の元に同じ選択をしたと考えていいかな?」
「おそらくは」
にこやかな銀の髪の青年と、冷ややかな黒の髪の少女は、互いの瞳の中にあるものを覗き合う。
わずかな沈黙。
だが、ソレはすぐに宗主によって破られる。
「護身用に何か用意して来ている?」
「親と約束した以上は身を守る義務が発生しますので、一応は」
鞄の中に忍ばせているのは、普段から使用している警報ブザーと、そして中央病院へ向かう前にホームセンターで購入したばかりのスタンガンだ。
囮になるつもりはない、けれど万が一には備える。
「感覚の話をしてもいいですか?」
「どうぞ」
「今回の事件、私には既存のフィルムから実体化したムービースターの犯行とは思えませんでした」
「それは、例えば殺人鬼が殺人鬼の設定のままに人を襲ったのではないということかな?」
「はい。すべての映画を見たわけではありません。でも、これほど美学の感じられない殺人者も珍しい気がしました。流鏑馬刑事もそのようなことを」
「明日さんも、か。確かに、もしムービースターだとしても、犯人はこの銀幕市で起きた何かで精神のバランスを崩したと考える方が妥当だろうね」
「後は確率の問題ですが」
まるでついでのように、須美は告げる。
「ドクターDが関わる事件で、犯人が元の映画から犯行動機を引き摺っている例はほとんどありません。彼が関わる時、ソレはほぼ間違いなく、この銀幕市だからこそ起こりうる犯罪がなされたといえます」
「なるほど。うん、どこかメタ・フィクション的発言なところも踏まえて面白い」
興味をそそられたように、宗主は彼女のロジックを吟味する。
「だから、その事件が何か知りたかったんです」
「彼はある殺人事件の目撃者となった。でも、本当にソレだけだろうか? それだけで、存在するということに不信を抱くとは思えない」
まだあるのだ。まだ、彼が殺人者へと転身してしまったスイッチがどこかに。
「そういえば、彼が関わってしまった事件はすぐにカタがついたみたいですね」
「こちらは正真正銘、映画の物語の延長線だったようだね。ムービースターの協力者も得られて、殺人鬼はその場でフィルムになった」
「それを見てしまったから、だから彼は壊れたのかしら」
そして、自分はちゃんと遺体として残るのか、ちゃんと人間なのか、疑心暗鬼に捕らわれたのか。それを疑いたくなるような事件も起きているのが今の銀幕市なら――ありえるかもしれない。
「……ムービースターは実存していると言えるのか否か、これはひとつの命題なのかもしれないよ」
「空間に投影されただけの存在なら、スクリーンの中にだけ存在する二次元的な距離を持っていたとしたら、きっとこんなふうにはならなかったでしょうね」
須美は自分の手を見る。ヴァイオリンを引き、書を繰り、DVDを操作し、日常を送るために欠かせない自分の両手は、果たして本当にそこに存在しているのか。
「病院で検査を受けたとして、その結果だけで自分が人間として存在しているという証明はなされないから」
「完全に日が暮れた……そろそろ、少し離れようか?」
「ええ」
太陽が西に沈みきり、辺りの闇が深くなる。外灯がなによりもまぶしい存在となる時間帯へと移行することで、普段は親子連れやカップルで賑わう公園もつかの間の休息にはいる。
須美は宗主と別れ、そしてひとり、園内を進む。一度、心配性の母親のために連絡を入れておくことも忘れない。これも自分の中の日常。
日常を日常として過ごしていると、そうアピールしてみせるのだ。
通り魔殺人事件の現場について、いくつかの共通点があることに気付いていた。
公園にしろ、街中にしろ、河原にしろ、普段は人が行きかい、人々の交流がなされる場所なのだ。ありふれた日常風景が描き出される、何の変哲もない場所。けれど、夜にはピタリと人の気配が途絶えてしまう場所。
被害者にある共通点は、『普通の人間』だ。
現場の共通点もまた、『普通の場所』である。
だとしたら、犯人の『好み』もおのずと割り出せるような気がした。
だから、賭けてみたのだ。
今日、この日に、このタイミングで。
そして。
「なあ、どっちなんだ?」
須美は、賭けに勝った。
*
ガラス戸の向こう側の景色。
チェーンソーを振りかざして、モンスターは彼女を殺した。
彼女は被害者のひとりとなってしまった。
自分は何もできなかった。
あの音が、あの光景が、まだ耳の奥と網膜にへばりついている。
*
スタンガンの青い火花が鮮やかに闇に散る。一瞬目を焼くような、その衝撃によって、須美は男からの最初の一撃を辛うじてかわす。
「逃げるなよ、逃げずに示してくれ。あんたはホンモノか? それともニセモノか? どっちなんだ、教えてくれ!」
鉈を握りしめ、ありきたりの、休日ならばどこにでもいそうなラフな格好をした男が須美に迫る。
「あなたが望む答えを、私は出せないわ」
「あんたは応える義務があるんだ! さあ、みせてくれ、どっちなのか、その普通のカオをしたあんたがちゃんと人間なのか、教えてくれ!」
間合いが狭まる。
再び振り上げられる刃物を、その腕を、いきなり背後から掴み上げあれた。
「むしろ、次はきみが僕たちの問いに応える番じゃないかな」
一度は公園のいずこかに姿を消したはずの宗主が、対刃物用ワイヤー入りのグローブを嵌め、音も立てずに男の背後にまわっていた。その口元に刷いた微笑はどこか愉しげなものだ。
鉈を掴んだまま、その外見からは想像もつかないような力強さで男を須美から引き剥がす。
「あんた、邪魔をするのか? 邪魔をするなら、まず、あんたから教えてくれよ」
狂気と激情に駆られて振り回される工具。
それを鮮やかに受け流す宗主の動きは、まるでどこかの演舞を眺めているかのように錯覚させる。
「どうして区別する必要があるのか、それをまず教えてもらいたいところなんだけど」
「必要性、だって?」
男の口元に歪な笑みが広がる。淀んだ色の瞳が宗主を追いかけ、鉈を振りぬく。軽やかにかわされるが、すぐに間合いを詰めにくる。
「怖くないのか、恐ろしくないのか、死んだらフィルムになっちまうなんて、そんなワケの分かんない存在が怖くないのか!」
まるでそれは慟哭だった。
血を吐きそうなほどの叫びを聞きながら、須美もまた問いを投げる。
「あなた、ソレとわかるムービーファンは襲っていないわね」
「判別の必要がなかったからさ。バッキーを連れてりゃ、ソイツはムービーファンだ。それだけで、もう証明されるだろ、人間だって」
「やっぱりそうだったのね……」
「だが、日常だ、日常に溶け込んでるやつらは危ないんだ!」
須美の安全を、宗主は全力で守る。言葉を交わすことはできても、間山は彼女に近付くことさえ許されないのだ。
宗主に守られながら、須美は思考をめぐらせる。自身の推理の正しさがひとつひとつ証明されていくのを確認しながら、彼女の手の中には通話状態の携帯は握られていた。
電話の向こう側にいる相手に、男の声が届くことを計算しながら。
「ああ、でも、そうか……この間知ったんだ。メカバッキーとかいうのもいるんだよな。そうだ、そんなもんもあるんだ、参ったな。どんどんどんどん、ニセモノとホンモノの境界が曖昧になっていく……」
忌々しげに、憎々しげに、彼は呟き、殺しに掛かってくる。
「日常が、全部嘘っぱちだったって、いきなり言われて怖くないのか! 全部だ、全部、嘘っぱちだって突きつけられるんだ! 殺人鬼さえ暴れなければ、きっとずっと、気づかなかったかもしれない。怖いだろ、怖いだろうって、なあ!」
「だからといって、ソレを確かめるためにヒトを殺すのは許される行為じゃないわ」
しかし、男の声に須美の台詞は掻き消される。
「怖くないのか、あんた達。ある日ふと目が醒めたら、自分はムービースターなんてモンになってるかもしれない。ある日ふと気付いたら、結婚を誓った恋人がムービースターなんてモンと入れ替わってるかもしれない」
武器を振り回し、思いのほか高い身体能力で攻撃を仕掛けて来る相手の、その言葉を受けて、ついに宗主は結論を導き出す。
「『彼女』がフィルムになったんだね? 殺人鬼に襲われたあの日、被害者は、夫婦だけじゃなかった、きみの恋人も」
その指摘に、男の目がギラリと光る。
「そうだ」
うっすらと怯えを含んだ笑みを浮かべて、男は頷く。
「目の前で、フィルムになったんだよ。死体の代わりにフィルムになって転がった」
優しい彼女が好きだった。愛していた。本当に心から彼女と過ごす日常を大切に思い、どこかで彼女との将来を夢見てすらいた。
彼女はそこにいた。ご飯を食べて、笑って、喋って、当たり前の日々と少しずつ共有していた。
なのに、どうして。
「いつのまに、アイツ、ムービースターなんて、わけわかんないもんになってたんだよ」
宗主ではなく、離れて立つ須美めがけて、男は鉈を振り投げた。
「見分け方を教えてくれよ……なあ、どこまでがホンモノで、どこからニセモノなんだ、殺して確かめるしかないだろ、なぁっ?」
とっさに伸ばした手は届かない。
須美は目を見開く。
手を傷つけるわけにはいかないのだ。ヴァイオリンを弾くこの両手を傷つけてはいけないと、身を守る本能より先にその想いがとっさに彼女の行動を制限し。
がき……っ
「あなたが望む答えは、その行為からじゃ得られないわ」
「あ」
凛と響く否定の言葉とともに、須美の前に黒い影が立っていた。
彼女の細い足が、回転して飛ぶ鉈を蹴り落とした瞬間を、その驚くほど正確に獲物を捕えた動きを視認したのは宗主だけだった。
「流鏑馬刑事」
「また増えたのか。どんどん増えていくな……さあ、あんたはどっちだ? フィルムに戻るのか、死体のまんまか、さあ、どっちなんだっ!」
声を張り上げるその男を、明日は真正面から見据え、一歩も引こうとしない。
「……実在への不信だというのなら、いまの私には少し、分かるかもしれない」
その後ろからやって来た歌沙音は、冷然とした眼差しをわずかに揺らめかせて。
「あんた、あの時の」
「だが」
ソレに続く台詞は辛辣な棘を含んでいた。
「あんたの不安や衝動で奪われるほど、誰かの日常は、幸せは、存在は、安くも軽くもない」
握りしめた拳が男に振り下ろされることはなかった。拳の代わりに言葉で断じる。
「あんたは別の方法を選ぶべきだった」
「あなたの部屋から、凶器が見つかったわ。そして、あるはずのないフィルムも……」
彼の部屋から、血にまみれたプレミアフィルムが見つかった。そこに映っていたのは、まぎれもない、彼の恋人と思しき『彼女』の、最期の瞬間だった。
「……携帯を通してあなたのロジックも、聞かせてもらったわ。けれど、でも、それはけして免罪符にはならない」
「そろそろ、終わりにしよう、ね」
ひどく静かな声音で、宗主は手刀を振り下ろす。男の、延髄を正確に捕らえて。
人間である以上、その一撃に抗うことはできない。
男は、間山は、ドサリと地面に倒れ伏した。
「間山茂、殺人容疑であなたを逮捕します」
宗主によって地面に転がった男の腕を取り、そして明日は、そこに銀色に輝く手錠をカチリと嵌める。
彼は苦しげに呻き、深い深い溜息と嗚咽を洩らし、最期まで抗う素振りを見せながらも意識を失った。
須美は鞄からハンカチを取り出し、男の傍らに跪く。
「これで終わった、のかしら……彼は、これからどうなるのかしら……」
それを彼の目にそっと押し当てた。繰り返される問いの中で頬を濡らしていた彼の涙を、拭うために。
「俺たちは彼の問いに、結局応えてはいないのかな?」
「そうかもしれない。だが、そんなカンタンに返せるような答えなら、こんなに苦しまなくても済むんじゃないかな」
宗主と歌沙音のやり取りを聞きながら、明日は地に落ちた自分の影を見やる。
「ずっと、考えてきたわ。ムービースターと呼ばれる人たちと自分との違い。事件が起こるたび、犯人や被害者たちと言葉を交わすたび、何度も考えた。……でも結局、辿り着く答えはいつも一緒だったの」
明日は、地に落ちた自分の影を見つめる。
「あたしは刑事だから、刑事として向き合う。ムービースターも同じ、罪を犯せば逮捕するし、警察としてできる限り対処するわ。でも、それ以上に、いつも感じる……犯罪者もスターも関係ない、誰かの命が失われるのは、とても、痛いわ……」
「……ああ、なるほど……そういう答えは悪くない」
歌沙音は頷き、目を細めた。
自分の中にある問い――ムービースターにとっての日常、ムービースターにとっての当たり前が、本当に自分と同じモノなのか、という問いを密かに胸の中で繰り返しながら。
鳴り響くパトカーのサイレンと回転する赤色灯の明かりが、落ちた沈黙を裂いて、こちらへと近付いていく。
これで、事件は終わったのだ。
哀しい余韻を引き摺りながらも、ひとつの決着を見せた。
*
ずっと考えてきた。
ずっとずっと、フィルムの中で笑う君を繰り返し見ながら、考えていた。
君は本当にそこにいたんだろうか。
君は本当に存在していたんだろうか。
君と過ごした時間は、ホンモノだったんだろうか……
胸が痛い。
コワイ。
君の亡骸に縋りつき、泣くことさえ許されないのに。
君はそこに、いたんだろうか。
僕はここに、ちゃんといるだろうか。
僕は、ホンモノの僕なのだろうか……?
*
あの事件の夜から数日後。
凍えるほどに冴えた薄氷色の空の下を、明日は歌沙音とともに歩いている。
間山の恋人の名前が判明し、彼女についてどうしても腑に落ちない点ができてしまった明日が行動を起こしたこの日。その後の経過を聞きに来た歌沙音と銀幕署の玄関で行き会ったのは、ある種、運命だったのかもしれない。
目的地へと向かう間、長くふたりは無言だった。
沈黙が破られたのは、目指すべき建物の看板が目の前に迫ってきてから。
最初に口を開いたのは、明日だった。
「間山はいま、精神鑑定を受けているわ。もしかすると治療が必要と判断されるかもしれない」
「そうか。担当はもしかしてドクターDだったりするのか?」
「おそらく。まだ決定ではないけれど、何度か面接はしているみたいね」
「彼はムービースターなのに?」
矛盾と言えば矛盾だろう。それを突く質問に、一瞬逡巡し、ソレからゆっくりと明日は言葉を選ぶ。
「ええ、それでも。……少なくとも今の間山には、『彼』のような『理解者』が必要なのかもしれないわ」
「……でも、だとしても……ムービースターとそうではない人間を判別するために犯行を重ねた、その男はこれからどうなるんだろうな……」
ぽつりと彼女の唇から洩れた言葉は、もしかすると独り言のつもりだったのかもしれない。
明日は隣の歌沙音を見やる。
事件を通して出会った彼女に、何故か自分に近しいものを感じていた。
それはおそらく、『喪失』の翳りだ。大切なものを失った『喪失感』を、彼女もまた纏っているような気がしてならない。
なによりあの時、犯人と対峙した歌沙音は、『実在への不信感を、いまの自分なら少し分かるかもしれない』と言ったのだ。
そこにどんな思いとどんな意味が込められていたのか、問うつもりはないけれど、心には引っ掛かっていた。
引っ掛かりながら、踏み込むことはしない。代わりに、空を仰ぐ。
表情の薄いふたりの淡々としたやり取りはそこで途切れ、前時代的な風貌を持つ個人病院――【遠野循環器病院】の看板を掲げたその建物の扉を、ふたりはともに並んでくぐった。
「本来なら、患者様のことは外部の方にはお答えできないことになっているのですが……」
あらかじめ連絡しておいたおかげだろう。明日と歌沙音を外来受付前で出迎えてくれた病院の看護部長は、ふたりをスタッフ用のカンファレンスルームへと案内してくれた。
白というよりはクリーム色といった風のほとんど色味のない部屋で、彼女たちは向き合い、重い空気を共有する。
「そうですね、まず結論から言わせていただくと、お問い合わせいただいた患者様はたしかにこの病院にかかっておりました」
間山が愛していたひとりの女性。
殺人鬼による中年夫婦殺害時からずっと行方不明であり、そして間山の部屋からプレミアフィルムという形で発見された彼女のカルテが、ここに存在していた。
ここまでは、予測済みだ。ここまでは、あらかじめ調べもついていた。ただ、問題はその先だった。
「彼女がご両親にこの病院で看取られてから、もう、五年になります」
「……え? 五年……、五年も前に……?」
「それは間違いない?」
「ええ、間違いありません。正確な日付までは思い出せませんが、ちょうど今くらいの季節に。もともと難しい病気で、何度もこちらで入退院を繰り返されてはおりました」
歌沙音も、そして明日も、彼女が亡くなっていたという事実を、にわかには受け入れられなかった。
殺人鬼によってではなく、抗いがたい病によって彼女の命は断たれていたなどと、それも、もう五年も昔に。
彼女は生活していたのだ。この街で、あの家で、日常を当たり前のように過ごしていた。
そして、間山がこの街に帰ってきたのが一年前。彼は、始まりがいつとは分からないけれど彼女と交際をしていたのだ。
二ヶ月前に彼女の両親が殺害されるという事件に遭遇する、その瞬間まで。
けれど、彼女は亡くなっていた。ずっとずっと以前に。
この矛盾を満たす条件を、歌沙音はひとつしか知らない。
他人の空似であるとか、双子の姉妹がいたとか、そういった現実的な可能性を検討するよりも早く思い至ってしまった解答。
「……まさか……」
恐れていた。今も恐れている。この事件に関わった時から、いや、ムービースターという存在が目の前に現れた時から。五年前に理不尽な炎ですべてを奪われたあの忌まわしき記憶とともに、この可能性に対し、凍るような不安が渦を巻いていた――
不意に携帯電話が着信を告げる。
歌沙音のものではない、明日の仕事用の電話だ。
看護部長が頷き、許可を得て彼女は電話に出る。
「……はい。……そう、ええ、いえ、わかりました……はい、有難うございます……では」
次第に表情が硬くなっていくそれを、歌沙音はいぶかしげに見やる。
「なに?」
「フィルムが見つかったそうよ」
なんの、とは歌沙音は聞かなかった。
一度言葉を切り、覚悟を決めるように大きく深呼吸をして、それからゆっくりと、明日は告げる。
「……彼女の『映画』――正確には、自主制作による記録映画が、あの殺害された夫婦の家、つまり彼女の実家で見つかったと」
そこには、彼女を主人公とした自主制作映画のフィルムがあった。家庭用DVDカメラで撮影されたのではない、どうみても玄人レベルの、れっきとした映画フィルムが。
「……実体化……していたのか……」
低く、静かに、まるで吐息より脆く消えるような声で、ついに歌沙音は答えを口にした。
その自主制作映画がいつ撮られたのかは分からない。本来はどういった意図で作成されたのかも分からない、けれど、でも、事実は事実なのだ。
彼女は感情を表に出さない。けれど、能面のように表情を失ったそこに、明日は衝撃と慄きと不安を感じとっていた。
心臓が痛い。呼吸を乱さないようにコントロールをしようとすると、余計に息苦しく、鼓動もリズムを崩す――歌沙音はまさにそんな状態だった。
「……ありえないことじゃないわ……そう、ありえないことじゃ、ない」
歌沙音が受けている衝撃には及ばなくとも、明日もまた、確かに大きな揺らぎに襲われていた。
「日常が、揺らぐ……そういう意味だったのね……」
今度こそ本当に、理解したのだ。
間山茂が捕らわれた恐怖の正体を、そして、ドクターDが示唆した『この事件の先に待ち受けているもの』の正体を、感覚で理解した。
間山は夫婦と幼い頃に家族ぐるみの交流があった。そこにはひとり娘がいて、彼は彼女との時間を過ごしていたのだ。
けれど、彼がこの街を離れている間に、幼馴染であるその彼女は病に倒れ――映画フィルムを媒介し、【ムービースター】として蘇っていた。自分の知らぬ間に、本当に、知らぬ間に。
「……こんなことが」
そして。
一度は失われたモノ、永遠に手が届かない存在になってしまったモノと、再びあいまみえることができるかもしれないという可能性を、恐ろしいと思ってしまった。
揺らぎ。
揺らぐ。
日常が大きく揺さぶられる感覚に、眩暈を覚える。
辿り着いてしまったこの答えに、だが、明日は自問する。歌沙音もまた自身に問い掛ける。
どこかで自分は予期していなかっただろうか、と。
『彼女』の本名を知った時、その苗字が殺害された中年夫婦と同じであると判明した時点から、こんなことになるかもしれないと、思っていなかったか。
「……貴重なお話を有難うございました」
「失礼」
深く頭を下げて、自ら面会を打ち切るように礼を言い、明日も、そして歌沙音も、見つけてしまった『答え』を抱え込みながら、病院を辞した。
存在するということ。
日常ということ。
当たり前だと思っていたモノの境界が揺らぐという大きな不安感の中で、ふたりは間山茂の言葉をいくどもいくども反芻した。
『見分け方を教えてくれよ……なあ、どこまでがホンモノで、どこからニセモノなんだ……』
END
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クリエイターコメント | はじめまして、こんにちは。 この度は【虚構の教戒】シリーズ第一弾にご参加くださり、まことに有難うございます。 今回は『存在の不信』というサブタイトルを連ね、【日常性】とその揺らぎをひとつのテーマとしております。 猟奇性は低いのですが、後味はけして良いとは言い難く。 ですが、謎が明かされる過程ともども、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
>吾妻宗主さま 二度目のシナリオご参加有難うございます。 魅惑的な交換条件とともに護衛を買って出てくださり、犯人の精神思考に興味があるとおっしゃられた結果、須美さまとご一緒にあのような犯人対峙シーンをご用意させて頂くことになりました。 きっとあの瞬間、美大生としての普段とはまた違った【生き生きとした愉しさ】が、宗主さまから滲み出ていたのではないかと思われます。
>朝霞須美さま 無差別というところについて着目してくださり、そこから展開する推理が非常に興味深かったです。 ですので少々危ない目に遭いつつ、宗主さまと共に、あのような謎解きシーンを用意させて頂きました。 ちなみに、ミステリーマニアという所にひそかにドキドキしておりました。『素人探偵』という言葉も存在も大変ロマンあふるるものかとv 日常風景ともども、少しでもイメージに近い描写となっていればと思います。
>流鏑馬明日さま 五度目のご参加、有難うございますv 【犯行動機】について明確な言葉をくださった明日さまの推理と鋭い読みに感服しつつ、歌沙音さまとともにあのような謎解きシーンをラストに配させて頂きました。 事件に対する刑事としての職業姿勢、相手がスターか否かに関係なく貫かれるスタンスは、そのままこれまで明日さまが積み重ねてきた信念の軌跡でもあると思っております。
>続歌沙音さま このシナリオにおいて、そして『存在するということ』に対して、非常に重要かつ魅力的なスタンスをお持ちでした。 もしかすると、今回のメンバーの中で最も精神的に辛い立場にいらしたのではないかと想像しながら、思考過程とプレイングとを合わせ、あのような冒頭とラストをご用意させて頂きました。 歌沙音さまが抱えている不安と生きることへの真摯な態度や強さを、多少なりとも表現できていればと思います。
それではまた、日常と非日常の境界が曖昧となりつつあるこの銀幕市のいずこかで、皆様とまたお会いすることができますように。 |
公開日時 | 2008-01-17(木) 22:00 |
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