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<ノベル>
些細な喧嘩がいつも以上にエスカレートしたことや、その相手のシュウ・アルガのことが頭から抜け落ちる。
ベアトリクス・ルヴェンガルドはマンションを見上げた。
「空き部屋は沢山ありますので、気が済むまでゆっくりしていってください」
案内人の邑瀬はのんびりと言う。
ダウンタウン北に建つ、タワーブロック銀幕。入居当時は高級な物件だったが、今はかなり値下がりしている。
「こちらへどうぞ、陛下」
うやうやしく導かれて、ベアトリクスはエレベーターに乗った。内臓を揺さぶられるような不快感に襲われる。
到着した最上階には廊下がなく、空間を置いた先に玄関ドアがあった。『海見』と刻印されたプレートが、無愛想に添えられている。
「管理人さんはこちらにお住まいです。困ったことがあったら駆け込んでください」
説明して、邑瀬はチャイムを鳴らす。
ベアトリクスの気後れや後悔を、許さないとはねのける機械音がした。思わず身をすくませる。
じきに現れたのは、三十をいくばくか越えた女だった。
「……何?」
「海見さん、待望の入居者です。こちらは――」
「余はルヴェンガルド帝国百八十七代皇帝ベアトリクスである」
呼びにくければ、と続けようとして口ごもった。
海見の目は、雄弁に彼女を侮蔑していた。面と向かって罵倒するわけではない。ただ、ベアトリクスに向けられる眼差しが、痛いほどの感情を宿している。
「ムラセ……」
困惑して仲介者を見上げたが、彼は適当な笑みを返すばかりだった。
「ベアトリクスさんは、皇帝たる者が誰かの庇護下に甘んじているわけにはいかないと。気高い志のもと、まずは生活から独り立ちを始めることになさいました」
「そうである。余はもう幼い子供とは違うのだからな。ひとりで暮らすことだってできるのだ」
御年八歳の、幼女皇帝は胸を張る。未来の為政者にふさわしい威厳は、しかし管理人にはあっさり無視された。
「一四〇七号室、隣を使えば。一般用だけど、埋まる予定なんて全然ないから」
海見は邑瀬と話している。ベアトリクスを無視している。新しい入居者で、同じ建物で暮らす人物で、何かがあったら助け合う存在なのに。
ベアトリクスはうさぎのぬいぐるみの形をしたリュックサックを抱きしめ、居心地の悪さに耐えた。
支配者たる者、悪意にさらされることもある。泰然と構えることすら出来ずに、何が皇帝か。
――けれど、隣人に無視されるのはとてもつらい。
萩堂天袮(しゅうどうあまね)は立ち尽くす。
夜の訪れを知らせる風に、生臭さが混ざっていた。
たまたま通りがかっただけだった。この裏道を使えば時間の短縮になるから、と。
市全体が殺伐とした空気に包まれていても、明確な理由なく自分が襲われることはない――と、どこかで過信していたのかもしれない。
理不尽な加害者と遭遇すれば、自分という個の持つ意味は無に帰してしまうのに。
「こんばんはこんばんはこんばん、わ」
血塗れた銀の櫂を握りなおし、長い金髪の男が挨拶をした。天祢に背を向けたままだ。
多量の血痕と、あちこちに散らばった被害者の欠片。
けれど死体はなく、代わりにプレミアフィルムが落ちている。
「黙っていてくれる? 『人間』は殺しちゃ駄目だって、言われてるんだ」
彼は振り返ってにぃまりと笑った。
バッキーのグーリィが、耳を伏せて相手を威嚇する。天祢は改造スタンガンに手をやったが、ふとしたことを思い出した。
「Be happy」
右手の、指を三本広げて形を作る。途端に犯人の顔が和らいだ。彼も血塗れた手を同じ形にする。
「Be happy.……仲間でよかった」
気安い安堵の表情に、ざわりとした不快感を覚える。
当初から、実体化と表裏一体でアンチ思想はあった。それが近頃、大規模に組織立ったという噂も聞いた。
天祢はごくありきたりな普通の人間で、どちらの側に与するつもりもない。
けれど、第三者でいられない場面に遭遇したら。――用心のつもりで仲間内の合図を聞いておいたのが、命を救った。
とても不愉快な認識をされてしまったが。
「じゃあね、またね、カラタチさんによろしく」
フィルムを拾い、彼は何事もなかったかのように去ろうとする。
すれ違う時に。
「一度、」
天祢は声を発した。
「ん?」
「一度、聞いてみたかったんです。あなた達はそれでいいんですか?」
実体化した人達と一緒にいると、彼らの言い分がわからない。スターだけを差別する理由が。確かに現実にはありえないような超常能力の持ち主もいるが、人として付き合う上で何の障害にもならない。
泣いて笑い、怒って喜ぶ。どこに違いがあって、集団はスターを廃そうとするのだろうか。
真剣な顔で、彼は答えた。
「だって、僕らムービースターは罪の子だもの。生まれてきたことが間違いだもの。さらなる罪を重ねる前に裁かれなきゃいけないでしょ。けど、裁くために人の手が汚れたらいけないから、僕が殺すんだ」
天祢は目を伏せた。
「そういう考え、なのですね」
幸せの形は人によって違うから、彼らがそれでいいと決めているのなら口出しをすることはない。どんなに歪んだ論理でも、己の正義を貫く相手に、横槍を入れるつもりはない。
同時に、共感したくもない。
「殺して殺して殺してね、嘘がなくなれば夢が覚めて、朝が来れば――銀幕市の一日がまた始まるんだ。きっとそうなんだ。僕は夜明け前に死ぬんだけど」
笑った。
その無邪気さは、虫唾が走るほど醜悪だった。
「またね。海見さんと合流したいんだけど……居場所、知らない?」
「いいえ」
そう、と呟いて櫂の男は去っていった。
天祢は得た情報を反芻する。
右手をあの形にして、『Be happy』と言う。それが仲間の合図だ。カラタチ、ウミ。それらが集団内の人物。特に『カラタチ』は重要なウェイトを占めているような口ぶりだった。
対象の内側――銀幕市にいる限り、完全なる傍観者ではいられない。
もしも巻き込まれるなら、あがく。
非力だと自負しているが、諦めはしない。
「こんばんはー?」
依頼を終えて帰る途中だった。通りで男に声をかけられた。宝珠神威(ほうじゅかむい)は笑顔を返す。うっとりするほどハンサムな顔立ちは、こういう時に武器になる。
二十歳そこそこの男からは、同類の匂いがした。
仕事として暗殺も請け負っているから、わかる。人を殺したことがある人と、そうでない人の違いが。
男は間違いなく前者だった。さらに言うなら、殺すことに慣れている手合い。
「ねーねー、何してるの? 名前聞いてもいい?」
なれなれしく近寄ってきた男を、神威は微笑んで制する。
「何をしているのかと聞かれれば、見ての通りです。人に名前を聞く時は、先に名乗ってください」
「僕はフィンチ。あなたはー?」
どこかで聞いた名だ、と感じたと同時に思い出す。スター排除を目的とした過激集団の、走狗だ。
蛇の道は蛇だから、神威は多くのことを知っている。公的機関が尻尾を掴んですらいない集団の、おおよその輪郭ぐらいは。
好奇心がうずくままに、尋ねてみる。
「フィンチさん、なぜスターを殺すのですか?」
言ってから、唐突さを繕うように右手の指三本をあの形にする。Be happy?と、故意に語尾を跳ね上げた合言葉も忘れずに。
目元をひくりと痙攣させたのは一瞬、フィンチは駄々っ子のように唇を尖らせた。
「ずるいー。君、まだ名前を答えてくれてない」
「答える、なんて約束していませんよ。理由を教えてくれるのなら、名乗ってあげてもいいですね」
「小悪魔め……! 今度こそ、約束だからね。やーくーそーくー。理由を言ったら名前を教えてね」
「いいですよ」
きっと、くだらないのだろう。おかしみは求めない。知的好奇心が満ちればいい。
そう思って答えを待ったが、彼はなかなか言おうとしなかった。神威の肩越しに向こうを見ている。
やがて呟いたのは、どうでもいい内容だった。
「でも、名前を知らないままでいいやって思ったら、答えなくてもいいんだ」
ぞわぞわ、ぞわぞわりと夜が闇に食われていく。
何もなくなった世界に一つだけ、巨大な金の鳥籠が存在していた。
神威はそれに捕らわれていた。
目にもあやな線条細工のブランコに座り、フィンチがにこにこと笑っている。
神威も相変わらずのにこやかな笑顔を向ける。
誰が殺されようが何をされようが、どうでもいい。――自分の身に火の粉が降りかからない限りは。
被りそうなら、火の始末をするだけだ。
逃げるなら、出会い頭に行動しなければ間に合わなかった。どうでもいい相手から逃げる必要などないから、相手が仕掛けてきたなら必然、迎え撃つという結論に至る。
「弾弾弾弾弾弾弾弾弾弾弾弾!」
矢継ぎ早に言霊を紡いで、銃弾を生む。
逆さまに降り注ぐ鉄の雨を避け、敵はブランコから飛び降りた。対空中の相手を追撃する。
「弾だ――」
神威は息を止めた。
着弾音は高く澄み、血飛沫の代わりに硝子片が舞う。
闇の色を変えるほどの粉塵が、鳥籠に満ちた。目や肌がちくちくと刺激される。
なのに、着地した相手は高笑いしている。理屈は考えない。『そういう敵なのだから』。
「神威さん、死んで?」
フィンチが銀の櫂をふりかぶった。神威は飛び退く。
息を詰めたままでは、動きに精彩を欠く。ハンカチを取り出し、口元に当てると一気に逃げた。それでも吸い込んでしまったようで、喉が痛い。
「スパイスのー、ミックスブレンド。声が出せないと言霊が使えないんだよね?」
楽しそうな笑い声が追ってくる。
神威は対抗するための言霊を繰り返した。小さく小さく、多く多く。
ぶゅんと、銀の櫂が彼女に迫る。
「殺されてね。宝珠、神威さん」
呼ばれて。
神威は立ち止まり、振り返り、笑った。
なんと生温い封じ方だと、嘲るようににっこりと。
「水。水水雨雨雨――」
湿って重みを増した粉塵は、もう空気と遊ばない。そして降り注ぐ水滴が、喉を刺激するものすべて洗い流してくれる。
隣家のチャイムを鳴らしても、応答がない。
何度か試して諦めて、ベアトリクスはエレベーターに乗った。
三基のうち、稼働しているのは一基だけだ。住人が減ったからだと邑瀬は説明していた。
数字上のことは知らないが、銀幕市の人口が増えているのを感じている。なのに――用意された住処がどうしてがらんとしているのだろう。
仮の宿でも、雨露をしのぐ場所が必要だろうに。
簡単な答えがありそうなのに、わからない。
軽やかな音がしてドアが開く。無意識に進んで、すぐに足を止めた。目の前には玄関ホールが広がっている。
「あ……」
振り返れば、階数表示は一階だ。
ボタンを押し間違えたらしい。本当は海見のところへ行こうと思っていたのに。
行って、話そうと思っていたのに。――何を、かは自分でもわからないけど、とにかく。
ベアトリクスは、なかなか動けないでいる。
下宿先では、廊下ですれ違ったら挨拶をした。時には話が弾んで部屋になだれ込むこともあった。美味しい食べ物は配って歩いた。そんな気安い空気が、このマンションでは死滅している。
かろうじて隣人は知っているが、他は不明だ。もしどこかの部屋で殺人があっても、知らない人は普通の日々を過ごし続けるだろう。ずっと。
「…………」
ベアトリクスはマンションを飛び出した。
見上げた建物は、得体の知れない化け物のように映った。
「ええ……伝えておきます。それでは失礼します」
オファー内容の詳細を聞き終わると、天祢は携帯電話を切った。
条件はあまり良くないが――来栖が気に入りそうな仕事だった。請けたらきっと、その仕事だけに集中してしまうだろう。だから返答期日ぎりぎりまで黙っておくことにする。
携帯を畳んで帰路につく、途中で。
「ウミ!」
忘れかけていた名前が耳に飛び込んできた。
勢いよく振り返ると、地味な女と豪奢な巻き毛の少女が話していた。少女――ベアトリクス・ルヴェンガルドと直接の面識はないが、来栖を通じて知ってはいる。
二人は深刻そうに話していた。
天祢は逡巡して、女の顔を記憶しておくに留める。
スターに敵対するつもりはないが、不特定多数の相手と対立したくもない。夢から覚めた後も、彼らはここで暮らしていく。戦って、決着がついても――生活はまだ続く。いつかムービースターがいなくなったとしても、天祢は銀幕市にいる。残ったわだかまりが、残った者に受け継がれたら。なんとも住み心地の悪い場所になるだろう。
「フィンチのロケーションエリアは、鳥籠。対象を限られた空間に閉じ込めるの」
ぼそぼそと海見が説明している。天祢はメール受信を装って、携帯を取り出すと端に寄った。
近くで、フィンチがスターを狩っているらしい内容が聞き取れた。当然のことながら、ベアトリクスは何故、と尋ねる。
海見の答えは、フィンチとは異なっていた。
「銀幕市を捨てられないから」
「スターが気に入らぬのなら、引っ越せばよいではないか」
「簡単に言うけどね。目を逸らしたって、あんたたちが横行してる現実は変わらないの。あんたたちが大切なものを奪っていくから、『みんな』で力を合わせて戦ってるの」
「人間を殺して守るのは、間違っておる」
「人間じゃない」
「我らも人間である」
「人間じゃない」
「――『人間』でないと言うなら、そちらのような輩は犬畜生以下であろう!」
ベアトリクスが叫んだ。天祢は思わずそちらを見た。街灯の加減か、彼女は泣き出しそうな表情をしている。
海見がどぎつい言葉を吐き捨て、ベアトリクスは真剣に怒りを返す。口論する二人に、好奇の視線が投げかけられる――が、その程度だ。
天祢もまた、割って入るつもりはない。相手が間違っていると決めつけている今、お互いの距離は縮まらない。広がる一方だ。
『ウミ』の顔も覚えたし、主張も聞いた。知ることと、深入りすることは似ている。全容がわかったら、第三者には戻れない。
引き上げようと、携帯をぱちんと閉じる。同時に路地から破裂音がして、大量の水があふれた。
洪水さながらの質量が通り過ぎると、通りに残ったのは五人だけだった。
逃げるタイミングを見失った天祢。
召喚した精霊で、身を守ったベアトリクスと守られた海見。
ずぶ濡れでも笑みを浮かべ続ける宝珠神威と、その足元に転がるフィンチ。
「好戦的な方ですねー。まぁ、運動できなかったので良い機会です」
感想を漏らして、神威は犬のように頭を振った。
目立った怪我はない。フィンチを見ればずたぼろで、二人の戦力差がはっきりとわかる。
神威は一瞬、待った。誰かのリアクションを。
けれど何もなかったので、去っていった。
「あ……!」
その背中を、遅まきながらベアトリクスが追いかける。
天祢も家へ向かうことにした。
人が死んで生まれて殺された時、そこにある光景すべてが記録されるわけではない。
けれど、誰かがその人を覚えている。
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クリエイターコメント | だいぶお時間をいただいて、ようやくお届けにあがりました。 ろくでもない悪党のろくでもない主張、鼻で笑っていただければ幸いです。 突き放したような描写が強調されていますが、それは記録者の視点が悪意に満ちているからです。
PCの主義から著しく逸脱するような表現がありましたら、修正しますのでお申し付けください。 参加してくださった方はもちろん、読んでくださった方にもお礼を。 |
公開日時 | 2008-05-15(木) 19:10 |
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