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<ノベル>
■銀幕市■
「あーあ。なんであたしが行かなきゃなんないんだろ。あいつ、自分が行けないからってゆーりに押しつけてぇ、ったくぅ」
「あらあら。今回の調査は競争率が激しかったのよ? そんな大きな声でそんなこと言ったら、怒られちゃうかも」
「う? あ、あたし、今、声でかかった?」
「とってもね」
「あ、あはは、地声からしてでかいのにね。気をつけなくちゃ、ありがとー。……あれ、ティモにゃん、いつものでっかい鎌は?」
「今回はお留守番」
市民10名で構成された調査隊は、『穴』の監視所まで、市が用意したマイクロバスで移動していた。車内には悠里とティモネの笑い声があったが、空気は嫌に冴えていて、明るい声もどこかうつろに響きわたっている。ティモネの後ろの席に座る新倉アオイも、その会話に加わりたくはあったのだが、うまくきっかけをつかめなかった。
アオイはちらりと真横に目をやる。通路を挟んだ向こう側の席には、皇香月がいて、窓枠に肘をついていた。切れ長のつり目は窓の外に向けられているようだが、その実、ちらちらと前の座席――悠里が座っている席だ――を見ているのだった。迷惑そうな顔ではない。アオイが見るかぎりだと、香月も会話に加わって、この空気を跳ね除けたい気持ちでいる。
女性陣は前列に固まって座っていたが、残る男性6名はぱらぱらとまばらに散らばっていた。皆、無口だった。かと言って、全員が完全な沈黙を望んでいるわけではない。むしろ、悠里とティモネには、ずっと喋っていてほしかった。
車内に、東栄三郎とミダスの姿はない。表面的な点で言えば、東は誰よりも今回の調査に意欲的で、機材を抱えて一足先に現場に向かっているという話だった。ミダスは恐らく、移動にいちいち人間の乗り物など使わなくてもいいのだろう。
薄野鎮は出発前、ともに前回から引き続き調査に参加することになった吾妻宗主と、いつも通りの挨拶や、他愛もない天候の話をした。しかし、彼はバスに乗ってからずっと無言である。ぐにぐにと自分のバッキーを撫でまわしたり引っ張って伸ばしたりしていた。彼のバッキーは我慢強く、抗議の声も上げていない。
そんな鎮を一瞥してから、宗主はひとり、東とミダスについて考えをめぐらせた。というのも、出発の直前、東の姿が見えなかったのを機に、ミダスに密かに訊ねていたのだ。
アズマ研究所が開発したあやしげなメカの中には、プレミアフィルムを動力源にしているものがあるという。密やかに流出しているその情報の真偽を、いま東所長自らに問うわけにはいかない。だから、ミダスに訊ねたのだ。
〈魔法のフィルム〉を、科学に応用することはできるのか。
ミダスは、自分は全知全能ではないが、と断りを入れてから答えた。
『神の御力は、人の子の言う〈奇跡〉をもたらす。汝らがプレミアフイルムと呼ぶものは、云わば夢の力の結晶。人の子の生むものに、神の力が〈奇跡〉をもって作用したとしても、不可解ではない。但し、このミダスは前例を与り知らぬ。恐らくは、理の偶然と神の奇跡がもたらした結実であろう』
科学と神の力は相反するものだろう。神の力を研究して科学に応用しようなどとまじめに考える科学者は、世界中を探しても、東栄三郎くらいしかいないだろう。いたとしても、東と同じように認識されるだけだ。すなわち、マッドサイエンティストと。
今回は、市民から広く意見を集めた結果、アズマ研究所に協力を求めることになった。誰もが手放しで彼らを受け入れているわけではないが、とりあえず今回は信用し、期待するというのが市民の考えである。宗主も条件を理解した上で今回の調査に参加している以上、堂々と異議を唱えるわけにはいかない。
だから、こうして水面下で動き、東の動向を監視しているのだ。
神の奇跡。
宗主はひとり、心中でそのことばを転がし続ける。
バスは10人が思ったよりもずっと早く目的地に到着した。穴の周辺はフェンスで厳重に囲んである。金網の向こうに行くにはプレハブの監視小屋を経由するしかなかった。有志が小屋で見張っているかぎりは、誰も『穴』に近づけないが、常に監視の目があるわけではなかった。事実、小屋が無人のままという状態が何日か続いたときがあり、何者かがフェンスの中に忍びこんだ形跡も発見されている。
「俺も入院なんかしなければ、ここに来れたのに」
公開された監視記録を思い起こして、取島カラスが嘆息する。今は行動に支障が出ないほどまでには癒えているが、カラスが〈まだらの蜂〉討伐の際に負った傷は、けっして浅いものではなかった。しかし、たとえ傷が塞がっていなかったとしても、腕が一本なくなっていたとしても、カラスは今回の第二次調査に参加しただろう。
誰も彼を止めず、また、責めなかった。
「おお、来たか。ちょうど機材のセッティングが完了したところだ」
監視小屋の中は白衣の研究員とものものしい機材で埋めつくされ、足の踏み場もない状態だ。その中に東栄三郎がいた。彼の両手には、真新しいミミズ腫れや軽い火傷があった。
「準備がいいなら、早速行こっかぁ」
「!」
どこか軽いノリでドアを開ける真山壱の姿は、バッキーだった。
いや、ファングッズのコスチュームBを活用した姿だった。ちゃんと腹のポケットには自分のバッキーを入れている。それにしても、バスを降りるまで、彼はそんな姿をしていなかったはずなのだが。
全員の呆気に取られた表情を察して、壱は眉を吊り上げ、肩をすくめる。
「効果があるなら使わないと損だよ。って……僕だけなのかい、今回コスB使うのは」
「……まあ、なんつーか……効果は認めるけど、動きづらそうだからな」
月下部理晨は苦笑いで返す。コレクションの中で最も手になじむナイフと、ディレクターズカッターが彼の得物だった。
今回の調査で主力として選ばれたのはディレクターズカッターだ。研究所がストックしているグッズをすべて放出してくれていることもあり、ほぼ全員がスチルショットも携帯している。身ひとつで挑むのは、バッキーを持たないりんはおだけだ。
「慣れればそう悪いもんじゃないさ。行こう行こう、ミダスが待ってるよ、ほら」
壱が指し示した『穴』のふちには、果たして、黒いバラに囲まれた黄金のミダスが立ち尽くしているのだった。壱はドアを開け、さっさと先にプレハブを出て行く。
「あっ、待ってよ。研究所のすごい機械見たいのに……早いってばっ」
そして調査が本格的に始まる前に、早くも負傷者が出た。気がはやって穴まで走った悠里が、派手に転んだのだ。
■穴の中■
ぉぉぉぉぉぉぉ……
ぉぉぉぉぉぉぉ、
という冷たい音には耳を貸さず、一行は深淵の中に飛び降りる。
10人の調査員にはミダスの魔法がかけられたが、東は己の発明品を信じた。腰に巻いたベルトを操作すると、横からバーニアが伸びて、意外と静かな音を立てながらジェット噴射を出した。魔法によって自由落下の速度をゆるめられている10人と、そう変わらない速度で下っている。
「ねえ、3人は、前の調査にも参加したんでしょ。どんな感じだったの? ジャーナルじゃ、真っ暗で何にも見えなかったって話だったけど」
アオイが懐中電灯の光を、宗主と鎮とカラスに向ける。
「ほんとに何にも見えなかったよ。いくら時間が経っても、全然目が慣れなくて。まるで真っ黒いシーツかぶせられたみたいだった」
「うん、本当に」
「……でも……」
アオイが3人に問いただしたのも、その3人が戸惑っているのも、無理はなかった。
低い唸りで満ちた暗闇の中は、明かりで照らし、目をこらせば、土の壁をうかがうことができるのだ。黒いもやが、雲のように動いている様子もうかがえる。前回は、まるで皮膚に吸い付くような『黒』があるばかりで、何も見えなかったのに。
東は真剣な面持ちで、ゴーグルごしに闇の中を見つめている。暗視スコープの役割も果たしているのだろうか、彼はライトの類を使っていない。ゴーグルの表面には数式や図形が浮かび上がっている。悠里はそれを羨望の眼差しで見つめていた。自分が身を乗り出してしまっていることに気づいていない。
「博士ぇ、その機械で何かわかるの?」
「〈ネガティヴパワー〉の動きだ。……数値は揺らいでいるな。不整脈に似ている。しかし、確実に濃度を増しているな。降下を始めてから、あらゆる数値が上がる一方だ」
「えっ、すごい。ほんとにわかってるんだ。見たい。見せて!」
「あっ、こら! やめんか!」
半ば無邪気に悠里が手を伸ばすと、東はジェットを強く噴射し、大慌てで距離を取った。
「これは我輩が独自に編み出した暗号を表示しておるゆえ、素人のおぬしが見てもわからんぞっ」
「〈ネガティヴパワー〉? 初めて聞くけれど……博士、それって?」
りんはおが暗闇の中で首をかしげる。彼の声は、ひどく落ち着いていた。今にも微笑さえ含みそうなほどだ。
「ムービースターを希望的、肯定的なエネルギーの産物と考えるならば、それを反転させてしまう力は否定的、つまりネガティヴなエネルギーと言える。これまでは仮に『マイナスの魔法エネルギー』と呼んでおったがな、それでは論ずる際に面倒なので、〈ネガティヴパワー〉と名づけたのだ」
「あなたから、『希望』なんて言葉が出てくるなんてな」
足元に目を落としたまま、カラスがぽつりと小さくこぼす。
「……もう、ずいぶん降りてるような気がするんだけど。底も『門』も、全然見えてこないわ」
懐中電灯でまんべんなく照らしながら、香月が言う。理晨が腕時計に目をやった。某国の軍隊も採用しているモデルで、ストップウォッチ機能もついたものだ。
「降下を始めてから5分経過してるな」
「5分だと! この速度で計算すると、すでに我々は地下300メートルに到達しておることになる」
「300メートルって、そんなに深いの?」
「地獄に届きそうだね……」
「あっ!」
カラスが声を上げた。
たまたま彼の隣にいたアオイが、その声に導かれて、カラスが照らしていたところに自分の光を向ける。
視界や身体に絡みつくような黒いもやをかき分け、懐中電灯の光は、額縁のような『門』をおぼろげに照らし出す。歩みの速度で降りつづける彼らに、いびつな門は、まるで自ら近づいてきているようだった。
宗主と香月は『門』の周囲を照らしたが、地面は一向に見えてこない。薄汚れた額縁は、まるで闇の中に浮遊しているかのようだ。
「あった……! あれが!」
「! 待って、新倉さん!」
アオイが誰よりも先に出て、『門』に近づいた。それが本当に、あのムービーに刻まれていた『空』へつながっているかどうか、危険はあるのかないのか、何もわかっていない。鎮が注意して、すばやく手を伸ばした。
だが、それは、あっと言う間の出来事だった。
「きゃあッ!?」
アオイの悲鳴が響きわたり、彼女が持っていた懐中電灯の光が暴れる。羽音。得体の知れない鳴き声。黒い影が動いた。二つの星の光が、『門』が切り取ったいびつな四角形の中から、一瞬で彼らに迫ってきた。
鎮は伸ばしていた手を引っこめていなかった。
そのままアオイの腕を掴む。服と、温かい人体の感触が、確かに彼の手に伝わる。カラスもものも言わずに鎮を手伝った。
「新倉さん!」
「アオイ君!」
「痛い! こいつ! あたしの足、掴んでるッ! 離せっ、はーなーせーッ!」
アオイは怯えているだけではなかった。自由なほうの足で、黒い影をでたらめに蹴り続ける。どんな動物の鳴き声にも当てはまらない、異様な叫び声が、彼女の足元から聞こえてくる。もしかすると『門』の向こう側から聞こえてくるのか。
悠里はわけのわからない大声を上げながら、ティモネは今まで見せたことがないほどの必死の形相で、アオイの身体を引っ張る。宗主と理晨がディレクターズカッターのスイッチを入れた。暗闇の中ではまばゆい刃が、襲撃者の姿を照らし出す。
「……ああ……!」
ティモネが、カラスが、宗主が、目を見開いた。
こいつは。
こいつは、
〈まだらの蜂〉の体内から飛び出してきた、翼とヒレの化け物だ!
6 j5o #####111!! 6j5o#####!!
q@egoeq@t6mnqhueq@egoeq@d,d,d,d,d,d,d,d,d,g5aj5555555%%%%%%%111!!!
づばん! ばばん!
流星のような光が二条、無貌の影を撃ち抜いた。
壱と香月が、スチルショットを発射したのだ。影はたまらずアオイから離れたが、宗主たちの刃はかれを逃がさなかった。光の刃はぶさりと化物を貫いた。確かな手ごたえが、彼らに伝わる。
黒い化物は断末魔の叫びを上げて霧散し、辺りに漂う黒のもやの中にまぎれていった。
達成感もないままに、武器を下ろして、彼らは半ば呆然と息をつく。
ぅ ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
生ぬるい風が、『門』の向こう側から吹いてきていた。
「光は、向こうから来ていたよ」
りんはおが、冷静に『門』を指さした。
「この風もそう。違う世界、別の次元が、向こうにあるのは間違いなさそうだね」
「……行こう」
誰かが言った。
誰も、引き返すことなど考えていなかった。
■空の海の世界■
「ぅわっ!」
「ひゃっ!」
悠里とアオイが、驚いて声を上げる。
『門』をくぐった。
あの、いびつな四角形の中に、入った。
「空だ……」
「……海?」
『門』をくぐった次の瞬間には、11人が11人とも、倒れていた。それも……海の上、に。
そこには、空と海が広がっていた。恐らく、無限に、どこまでも。地面はなく、ただ、身体の下には海があった。呆気に取られながら、彼らは身体を起こす。水面に手と膝をつき、足で踏みしめて、立ち上がった。
身体が触れているところから波紋こそ広がるのだが、身体はいっこうに沈まないし、そもそも、濡れることさえなかった。悠里はぱさぱさと手を水面に叩きつけたが、手は水の中に入らず、飛沫も飛ばない。
辺りを見回し、慎重に、数歩ばかり進んでみる。
やはり、足は海面の上だ。
黄昏時に似た、中途半端な薄暗さと明るさの中ではあるが、懐中電灯は必要ない。ただ、総勢8匹のバッキーは落ち着かない様子だった。そわそわと首を動かしたり、ぎゅっと飼い主の服にしがみついたり、しきりに匂いを嗅いだりしている。
空は、太陽が今にも昇ろうとしているか、あるいは太陽が今しがた沈みかけたばかりのような、奇妙な薄紫色だ。目をこらせば、青いようにも見える。美しい空ではない。12色の絵の具をすべて混ぜ合わせて、水でといたかのようにくすんでいた。
子供が白い絵の具で描いたような、稚拙なかたちの雲が浮かんでいる。
子供がクレヨンで描いたかのような、稚拙でいびつな生き物らしきものが飛んでいる。あるいはただの浮遊物かもしれない。
ふらふらもがきながら、見ている者の不安を誘う動きだ。
水平線に目を向けると、海面からごつごつと飛び出しているものが見える。何を意味しているのかわからない、色もはっきりしない、前衛的なオブジェだ。
風が吹いているはずなのに、風の音はない。
海、もしくは巨大な湖であると思われるが、潮の香りも、水辺の匂いもない。
何より、この世界の光景は、ひどく精巧な書き割りのように無機質だ。それでいて、雲や、得体の知れない物体は、理不尽な絵画のようにバランスが悪い。
「……なんて地獄だ。寒気がするな」
理晨の台詞は皮肉だった。彼は肩をすくめて言ったが、濃い褐色の顔に恐怖はない。
「針山とか血の海とか煉獄とか、そういうわかりやすい地獄のほうがまだましだ」
「ネガティヴパワー、だっけ? その数値はどうなの、博士」
「『門』の外側とはまるで比較にならん! 計測限界値に届こうかという勢いだ。これではどんなに気合の入ったムービースターでも3分と正気を保てまい」
東は大仰な身振りと表情で言ったが、それは大げさな見解ではなさそうだった。彼のゴーグルに浮かぶデジタル数値が、半分文字化けを起こしている。
「……なんて、……なんて、寂しいところ……」
ティモネが呟いた。
うつろな空には太陽がない。それでも、いずこからか吹いてくる風は、哺乳類の息吹に似た生温かさを含んでいた。冷えきった『穴』の中とは違って、温度がある。それでも――風を浴びた肌は、粟立った。
「あのふたりは、ここに来たのかなあ。僕らは同じ『空』を見てるんだろうか。ねぇ?」
壱はサングラスゴーグルごしの空を見上げ、誰にともなく問いかける。
あの、ふたり。
恐らくはこの空の下、〈まだらの蜂〉と化してしまったふたりのムービースター。薄野鎮は口を閉ざして、目を伏せた。
「あ……」
足元を見た鎮は息を呑む。
「みんな、見て」
海面に膝をついて、彼は海中を指さした。
街だ。
映画をはじめとしたフィクションの中で、たびたび見かける滅亡の風景――。海の底に、都市が沈んでいる。
「嘘でしょ。あれ、パニックシネマだよ。あっちにあるのは広場、銀幕広場!」
悠里はぱしゃぱしゃと水面をつつきながらまくしたてる。彼女に指摘されて、他の者も、沈んだ都市に見覚えがあることに気づいていった。上空から銀幕市を見る機会はほとんどないため、よほど注視しなければ、そして銀幕市の地理や特徴をよく理解していなければ、その事実には気づかない。
手を伸ばしても届かず、行こうと思っても行けない。町を指さしていた悠里は知らず、水をかき分けようとしていた。
「思ってたとおりだわ……でも、思っていたものとちがう……。『穴』の向こうに、もうひとつ、銀幕市があるんじゃないかって……」
バッキーを抱きしめ、屈みこんで海中を見つめて、ティモネがぼんやりと呟いた。アオイはのろのろと立ち上がり、ディレクターズカッターの柄を握りしめる。手の感覚がない。まるでしびれているかのようだ。その上じっとりと汗ばんで、得物は手から滑り落ちそうだった。
「いったい、どうなってんの。なんなのよ、ここ。あ……あたしは、てっきり、映画の世界につながってるんじゃないかって、思ってたのに。ナンダカパワーをどーにかしたら、か、帰りたがってる『友達』を……みんな……助けられるんじゃないかって……」
「ここは、どこでもない。どうやら、俺の考えも間違っていたみたいだよ。ここには……『映画』すら、ない。何もない銀幕市だ。銀幕市ではない銀幕市。ここには俺たちのメタファーすら存在しない。もちろん、神もいないんだ」
不思議なほどおだやかな表情で、りんはおは言う。彼の言葉が意味することを、この場の誰が正しく理解できたか。恐らくりんはお自身だけだ。それでもよかった。空と海と海底の銀幕市の意味を、誰も知らないのだから。
ほ、
……は。
「悠里さん、立って!」
不意に、香月が悠里の腕を引っ張った。悠里は目を白黒させて、引っ張られるがまま立ち上がる。水の底から――沈んだ銀幕市から――あぶくのようなものが、浮き上がってきていた。
「ひッ、」
悠里が息を呑む。
あぶくは明らかに人の顔のかたちをしていた。
ゆらゆらと揺らぎ、歪んで、腐乱した死人の顔を象っていた。デスマスクは悠里が座りこんでいた海面に到達すると、湿った音を立てて弾けた。
ほっ、……は、は、 は、……ほ。
ほふっ、ほ、ふ、は、はふはふ、ほ、っ……。
沈んだ銀幕市から、様々なものが浮上してくる。死人の顔ばかりではない。鳥の羽、歯、注射器、手の甲の皮、牛の舌、ぶよぶよにふやけたコロッケの皮。色もはっきりとしたかたちも持たないもの。それは、一見すると、大小さまざまなあぶくだった。だが、目をこらせば、見えるのだ。あえて見ようとはとても思わない、汚らしく、忌まわしいものの姿が。
壱が、真剣な眼差しで海中を見つめ、スチルショットを構える。
影だ。
すう、と音も立てずに、11人の足元を影が覆う。
宗主ははっきりしない色の空を見た。空には、一行の頭上に影を落とすほど大きな生物の姿など見られない。
「ここには、何かいるね。空を飛んでるあの虫みたいな連中とは、まるでわけが違う『何か』だ」
「刺激しないように、したいものですけれど」
「もう刺激してるのかもしれないな。どうする?」
「ネガティヴパワーの観測データは充分に集まった。可能であれば、このゾーンの物質を持ち帰りたいところなのだが……」
少しばかり不服そうな東は、ざりざりと顎の無精髭を撫でた。宗主とカラスは彼の顔をじっと見つめる。東栄三郎が欲するものは、調査に来たからには至極当然のものだろうが、この男にそれを安易に与えていいものなのか。もっとも、宗主とカラスの思惑など、東は問題にもしていない様子だが。
一行の背後には、浮遊する四角形の枠がある。その向こうは漆黒。ゆらゆらと頼りないその四角形は、彼らがくぐってきた『門』であろうと思われた。今のところ、出入りは自由だ。空と海の存在を確認し、地獄でも夢の世界でもない空間の存在を知った。研究に役立てられるデータも採れた。ここに、もう用はなくなったのだ。帰れるうちに帰ったほうがいい。何かがいるのは確実だ。何も起こっていない今のうちに、帰ったほうがいい。
帰ったほうがいい。
今すぐに。
帰らなければ。
「……ふぉん」
突然、水平線を眺めていたりんはおが呟いた。
「ふぉん・るぅ?」
紫と水色の境界線に、ぽつんと人影が立っていたように――見えたのだ。それは、このただっ広い海原から突き出した、いくつもの前衛的なオブジェのひとつに過ぎないかもしれない。けれども、りんはおには、それが人影に見えて、……亡くした友人の姿に見えたのだ。ずっとずっと遠くに立つ影の、顔も手足もよく見えないのに。
そう、よく見えない。
友人を亡くしたときに、目を傷めてしまった。それから、ずっと眼鏡が必需品なのだ。
「……いや、そんな。ありえない。ふぉん・るぅは死んだ。もう、どこにもいない。いるとしたら、俺の記憶の中にしか……」
水平線の彼方から、さざなみが静かに歩み寄ってくる。
けれども、そう改めて認識したりんはおの視界から、もう、友人と思しき者の姿は消えてなくなっていた。
「りんさん、どうかしました?」
「いや、特に、なにも……」
「ずいぶん遠くを見てましたよ」
りんはおのそばに歩み寄ってきたティモネは、いつもどおりの微笑だった。
しかし、その微笑が、すぐに凍りついた。彼女の目は、はおの手首に釘付けになっていた。はおは彼女の表情と視線で、自分の手首に――いや、はめていた腕輪に、何が起きているかを知った。
チチチチチチ……、
ヂ、ッ!
それは、りんはおがあるムービースターから受け取った腕輪だった。彼は、ファングッズこそ携えていなかったが、それを身につけてきていた。頼もしい武器に変じてくれる死神の腕輪。それは、黒い、枝のようにねじくれた刃の塊になって、たちまちりんはおの手首を引き裂いた。
ティモネとりんはおが同時に声を上げ、反射的に出血を抑えこむ。
他の面々が何ごとかと振り向いた瞬間、悠里が奇妙な声を上げた。
「ぅ、ぇ、く、く、く、くび、ぁ……!」
チョーカー。
心優しいムービースターからもらった大切なチョーカー。
チョーカーではない。
青紫色の血管が浮かぶ、白い子供の指指指指、指をつないだ指。指が指切りをしながら、悠里の首を絞めている。
ものも言わずに理晨が駆け寄り、小振りなコンバットナイフを抜くと、指の鎖を断ち切った。悠里の首に刃はかすりもしなかった。理晨が崩れ落ちかける悠里を抱えこむ。ぱらぱらと、子供の手首と指が、悠里の首から落ちていった。
「今のチョーカーは!?」
「も、げほッ、もらったの。せっかくもらったのに。けほっ、くほッ!」
「ムービースターから? スターからもらったのか!?」
理晨の叫びを聞いて、宗主もわずかに顔色を変え、心中で贈り主に詫びながら、自分の首のチョーカーを引きちぎった。どうやら、危ないところだったようだ。チョーカーは無数の血まみれの羽根になって、ざわざわと宗主の手袋に絡みつく。防刃加工を施してある手袋だ。宗主の手には傷ひとつつかなかった。腕をするどく一振りすると、羽根は残らず海面に落ちた。
そして、沈んでいった。
りんはおの手首から落ちる血潮、刃のかけら、悠里の首を絞めた指――それらもすべて、海の中に飲みこまれていく。
場違いな、カメラのシャッター音が響いた。
アオイがデジカメ機能と録音機能に期待して持ってきた携帯電話が、ひとりでにシャッターを切ったのだ。アオイは恐る恐る携帯を手に取り、カメラがとらえたものを確認した。
「ッ!?」
目
目 眼
鼻
歯歯歯歯
言葉も出てこなかった。
びくりと反射的に跳ね上がった手が、携帯電話を取り落とす。
ざぽん、と塩辛い飛沫を上げて、携帯は海に落ちた。
「女の子……」
青褪めたアオイの唇が、そう呟く。
「女の子の顔だった……」
「だめ、だめ、だめよ、こんなのだめ、だめよ!」
「ティモネさーん、手を離して! 大丈夫! 手当てできるから、手を離して!」
壱がウエストバッグから手早く止血帯を取り出し、ティモネを制した。彼女はほとんど半狂乱になってりんはおの手首を掴んでいた。壱の指が、冷静に、なるべく優しく、ティモネの指をはおから引き剥がす。
「だめよ、もう死なせるわけにはいかないの! もうたくさんなのよ! 血、血はきらいッ、ぃやあああああアアア! もういやァアアア! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい役に立たなくて、ゆるしてお願いごめんなさいィヤアアアアアア!!」
「落ち着いて! ティモネ君、落ち着いてくれ!」
カラスはティモネを抱きしめるように取り押さえて、
それから、はっとした。
『娘』から、もらったものが。デイバッグの中に、入っている。
ぞっとしてバッグを見たとき、中から彼のバッキーがヘンな声を上げながら顔を出した。口に何かをくわえていた。それは平素なら、美しい香りを振りまく匂い袋だった。
今は、死臭を放つ血袋だった。
「黒羽、……それを……」
捨てたくない。
「捨てるんだ」
血の詰まった袋が、海の中に沈んでいく。
「なんだ! これは!」
ゴーグルをいじっていた東が素っ頓狂な声を上げる。
「生体反応!? いや違う! なんだこのエネルギーは! ネガティヴパワーか! 違うぞ! 神でもない! 諸君ッ、『何か』が来るぞォ!」
ぞ
■”THE THING”■
鋼鉄の半円だと思えば、それは鱗。
びっしりと、鱗。
四方八方に飛び出したヒレ。
ビルひとつを容易く、がぶりとひとくち。そんな大口。
鼻の穴かと思いきや、それは落ちくぼんだ目だった。
やけに細く長い尾は、ロープのように空を裂く。
海面を突き破り、杵間山ほどもあるものが、ざおおおおおおおおん、と空中に躍り出る。それが起こした水飛沫は、夕立のようにざあざあと、11人の頭上に降り注ぐ。涙よりも塩辛い、舌が縮むほどしょっぱい雨で、たちまち全員がずぶ濡れになった。
ぎゃエエエエエエエん!
ぎょえええええええン!
ぁぁぁハ――――――――ッッ!!
わ――――――ッッ!! わ――――――ッッ!!
わぁおおおお――――――――ッ!!
そう言っていた。
塩辛い涎を垂らしながら、身をくねらせ、真っ赤に染まった空の中、巨大な『何か』が。
そう言っていた。
「おいおい」
理晨が苦笑いをこぼす。
「エイブラムスの44口径でも、あいつにとっちゃガスガンだ」
「ディレクターズカッターも、爪楊枝だろうね」
「ヘタに手を出して怒らせてもまずい。さっさとおいとましましょうか」
壱はあざやかにコスチュームBを脱ぎ捨てる。彼の意見に、そのときは、全員が賛同していた。10人では、とても相手にできない。
しかし――
怪物の、顔の片側にしかついていないふたつの目は、ぎょとりと調査隊をとらえた。
あ・エエエエエエエエ!!
r@.er@.er@.er@.er@.es@behk111111!!
わ――――――――――――――ッッ!!
怪物の身体のあちこちで、無数の腫瘍が膨れ上がる。鱗の隙間からミンチ肉のようにはみ出す、赤黒いできもの。怪物にとってはニキビのような大きさでも、そのひとつひとつは、軽く人間大はあるだろう。大きなものだと、象ほどあるか。
ばちゅん、
腫瘍のひとつが、胸の悪くなるような音を立てて弾けた。
ぼぢゅ、ぶちゅ、じゅぶ、じゅぱぱぱぱ、
そして、その膿爛れた音の中から、黒い影が――
まるで数え切れないほどの――
あの、ヒレと翼を持つ黒い影――
あれだあれだあれだあいつだ、
奴が!
斑目漆と!
レナード・ラウを!
喰ったのだ!!
「こいつが!」
理晨がナイフを抜いた。
「こいつがスターを『裏返す』! ふざけるな! お前らに俺の友人の……弟の……命と心をくれてやってたまるか。お前らが! ムービーキラーを!」
3fffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffff111
3fffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffff111
3fff3fx@j3n\6666666666666666666666111!!!
地獄。
そこから先は、ごく普通の、地獄だった。
翼とヒレの怪物は、群れを成して調査隊に襲いかかってきた。数は、数は、とても数え切れない。千は超えているだろう。群れのボスは黒い蹂躙者を産み出しながら、悠々と空を泳いでいる。
しかし、『門』はすぐそこなのだ。
ディレクターズカッターのエネルギーが続くのは5分。
スチルショットは1発撃てば10分間使えない。
それでも、『門』はすぐそこだ。11人が5分だけでも生きのびれば、『門』の向こうに辿りつくことはできる。
「ミダスさん! 大変なことになった!」
鎮が珍しく大声を張り上げた。わざわざ叫ばなくとも、きっとミダスにはこの状況が見えているのだろうが、思わず叫んでしまっていた。
『把握している。「門」も閉じようとしている。尋常ならざる意志の力だ。その世界が汝等を逃がすまいとしている』
頼りなげに揺らめいていた『門』の向こう側から、凄まじい勢いで黒いイバラが伸びてきた。黒い棘だらけの茎や蔓は、がくがくと軋む『門』の枠に絡みつく。
『このミダスが接点を維持しよう』
バラの花が、ぼたぼたと落ちている。『門』は、まるで獣の顎だ。獣は顎をやっきになって閉じようとしている。イバラはちぎられる端から新たな蔓を伸ばして、耐えていた。
「どうやら、死神さんはあれで手一杯みたいだね」
「僕らまで帰れなくなるところだったなんて……」
呟いた鎮の眼前に、生温かい風が降りた。
黒い影だ。
顔もないのに、嘲笑いながら憎悪をぶつけてきているのが、わかるのだ。鎮は唇を噛むと、ディレクターズカッターを振り下ろした。
「焦らないで! 大丈夫! 先に行って! 行くのッ、行くのよッ!」
アオイと悠里とティモネの足はもつれている。彼女たちを守ったのは、香月だった。正確で冷徹な太刀筋で、群がる黒い翼を薙ぎ払う。
まるで、分厚い雲を切っているかのようだ。香月は、雲など切ったことはなかったが。
生き物を叩き切っている、という感触がない。その感触とこの状況のおかげで、香月は躊躇する必要がなかった。一閃で1匹、返す刀で2匹。腕は疲れない。刃に伝わる抵抗がほとんどないのだから。
最前線で道を切り開き、いち早くイバラが絡みついた『門』に辿り着いたのは、宗主と理晨だ。ふたりとも、動き方が素人ではない。しかし、ふたりとも『門』の向こうには戻らなかった。怪我をしたりんはおに、攻撃するすべを持たない悠里に手を貸して、先に『穴』の暗闇の中へと押し戻す。
最初に辿り着いたふたりが、最後まで残った。
ざあっ、と空と海の世界で吹き荒れていた黒い風の動きが変わる。
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空気が、空と海の彼方へ吸いこまれていく。宗主と理晨を、カラスと香月、鎮が、力一杯、向こうの世界から引きずりだした。
そのとき、『門』の向こうをまともに見てしまったのは、香月だった。
目。
怪物の、巨大すぎる眼球の中の、いびつな瞳孔が、香月を見つめ返した。
ぬめぬめとした眼球の中に映る皇香月は、喪服を着ていた。
「…………!」
総毛立つ。
香月は顔を引きつらせて、守り刀として携えてきた脇差を抜いた。
突き立てた。
凄まじい、恨みつらみのにじむような悲鳴が上がった。
それは人間の悲鳴にそっくりだった。
「こんなこともあろうかと、持ってきたものがある!」
どこかで聞いたような台詞を放ち、東がずっと持ち歩いていた金属製トランクを開けた。取り出したのは、5センチほどの厚みがあるディスク型の機械だった。
「それは!?」
「火薬を用いていない爆弾だ! 有体に言えばエネルギー製爆弾だ!」
「そんなものがあるなら、なんで今まで……」
「説明は後で聞くから、とりあえず起動してよ、博士。タイマー設定できるなら、5秒後くらいに」
「5秒だと!?」
「いいから早く」
壱に従って、東は爆弾だと主張する物体のスイッチを入れた。緑色のランプが点灯し、液晶にはどう見てもカウントダウンとしか思えない数値が表示される。壱が東の手からディスクを取った。
次の瞬間には、まるで、手品のように――壱の手の上から、物体は消えていた。
次の瞬間、木枠に絡みついていたイバラが霧散する。たちまち、11人を別世界に送りこんだ『門』は、ばぎゃん、と荒々しい音を立てて、見えない指にひねり潰された。枠の向こうから身を乗り出していた翼の怪物の身体が、無残に潰れた。
!!!
どこか遠くで、凄まじい爆発が、起きたらしい。
11人のいるところにまで、衝撃と爆音が伝わってきた。
悲鳴も。
恐ろしい怒りの咆哮も。
そして、静かになった。
■穴の中・2■
『……戻ったか。11人……確かに戻ったな』
「あ、あれ。ミダス……」
まだ肩で息をしながらも頭上に目をやったアオイが、素っ頓狂な声を上げた。
無理もない。空が見えるのだ。それも、思ったよりずっと近くに。穴のふちから覗きこんでいるミダスの姿も、何とか視認できる。確か、300メートル以上降下したのではなかったか。しかし、この様子だと、穴の底から地上まで、100メートルほどしかなさそうだ。
そもそも、底がある。
穴の底に、11人は座りこんだり、倒れこんだりしていた。
結局足は地面につかないまま、『門』をくぐったはずだったが。それに、穴の内部を暗闇に染めていた黒いもやも、ほとんど消えてなくなっている。
「み、見て……」
悠里が、自分たちを取り囲む壁の一部を指さした。
横穴が開いている。先ほどの爆発によって開いたものなのだろうか。
「あっちにもある」
カラスも、同様の穴を見つけた。
ぅぅぅぅぉぉぉぉぉぉ……、
ゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。
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「穴の奥はネガティヴパワーの濃度が高いようだな」
そう東が呟くや否や、複数の横穴から、あの翼の怪物が飛び出してきた。横穴に近づこうとしていた悠里が尻餅をつく。
鎮がスチルショットを構えた。ティモネが持ってきたものだ。ティモネは『門』をくぐってこちらに戻ってきた瞬間に気絶している。鎮は引金を引いた。
たちまち堕ちた翼の怪物は、しばらく耳障りな声を上げながらもがいていたが、やがて動きも止まると、身体はもやの中に溶けていった。
「……まだ、奴は生きてやがるんだ」
人が違ったと思えるほど、露骨な怒りをむき出しにして、カラスがそう吐き捨てた。ぉぁぁぁぁ、というどこからかの咆哮が、その言葉に呼応する。
「博士。さっきの爆弾の大きさと形に、見覚えがあるんだけどね」
静かに、宗主が口を開いた。
「あれは、最初で最後の試作品だ」
東が難しい顔で答える。
「我輩は莫迦ではない。おぬしらに歓迎されていないことなどはわかっておる。支部をこちらに設置してから、あれをエネルギー源とするプロジェクトは凍結したのだ」
「……」
「信じるか信じないかは、おぬしらの自由だがな」
「……もし、あのフウセンウナギのオバケを倒すなら、ムービースターの力も必要だ。博士、今回のデータを有効的に活用してほしいね」
「りんさんの怪我は大丈夫だ」
理晨の言葉に、東と話していた宗主が振り向く。
「運良く動脈はやられてなかったみたいだな。肉が抉れてるから、痕は残っちまうだろうけど。ずいぶん血が出てたから焦っちまったぜ。ここに来てから、あんまり血ィ見てなかったからかなァ。情けねえ」
「でも、真山さんが応急手当してくれなかったら、血が足りなくなっていたかもしれないよ。……あれ、真山さん!? ケガしたのかい!」
はおが話を振った壱は、大きな岩にもたれかかって、ぐったりしていた。全員の視線を浴びて、壱はひらひらのろのろと手を振ってみせる。
「いやー。大丈夫―。もンのすごく疲れた、それだけ」
「ティモネちゃん、目ぇ覚まさないよ……。もう帰ろうよ。みんな、病院行かなきゃ……」
悠里の声は、半分泣いていた。その手は、意識がないティモネの右手を握りしめている。
ティモネのバッキーが、ガードケージの格子を叩いている。出してくれ、と言っているようだ。アオイがケージを開けると、アオタケと名づけられたバッキーは、ティモネの身体の上によじのぼった。
ティモネが、ゆっくりと目を開ける。
「……アオタケ。……私に、ほんとうに、〈夢みる力〉は、……あるのかしら」
■銀幕市■
『穴』の向こうの世界が何だったのか。
そこに棲みついていたあの怪物が何なのか。
それはわからない。わからないままだ。これから、定義と意味を持たせなくてはならないのか。銀幕市の住民たちが。
プロジェクターが映し出す映像記録に、市長と植村、マルパスは息を呑む。
『あれは神の力を触媒として育ったもの。核となるのは人の子の意思と息吹に相違ない』
「あれが人間!?」
『生命とは言えぬ』
ミダスは続ける。
『歪みと否定の力は、あの意思体が纏い、或いは息吹として放っておる』
「……我々が、人の持つ希望であるならば。あれらは、〈絶望〉の産物だ」
マルパスが立ち上がり、スクリーンの前をゆっくりと歩く。
「〈ディスペアー〉。このまちの心と対峙せねばならない時が来た。絶望を封じこめるのか、それとも拭い去るのか。生きている市民の心に問わねばなるまい」
そのときだ、荒々しくドアを開けて、東栄三郎が会議室に入ってきたのは。
彼の目は真っ赤に充血している上に落ちくぼんでいたし、白髪もいつも以上に爆発していた。手の絆創膏の数も、調査前の倍になっている。
いや、それよりも、彼を構成する要素のひとつが、大きく様変わりしていて――
「フフははははは、78時間以上睡眠を取らなかったのは数年ぶりだ!」
「え、調査からずっと寝てなかったんですか!? 病院にも行かずに!?」
「病院だと! 護衛のおかげで無傷ですんだわ。それよりも、完成したのだぞ! 喜べ!」
なぜか東は右腕を高く掲げた。
いつもはめている謎のグローブが、今日は、金色になっている……。
「これはセキュアシステム改め、ゴールデングローブ――」
どうしてそこで緊張と興奮の糸が切れたのかはわからないが、東は突然前のめりに倒れた。開いた口を塞げないまま柊たちが駆け寄ると、東は独裁者の銅像のようなポーズのまま凄まじいいびきをかいていた。
「……目が覚めてから説明を聞かねばならないが、どうやら、不眠不休で研究開発を進めてくれたようだな」
マルパスは苦笑いでため息をつき、ゆっくりとスクリーンに目を戻す。
市民に嘲笑と敵意を向けながら、うつろな海から現れたもの。
暗黒の翼を無数に生み出す。
あまりにも巨大な顎。
マルパスは名づけた。
あれは、レヴィアタン。
向き合わねばならぬ〈ディスペアー〉。
〈了〉
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クリエイターコメント | 諸口正巳です。第二次調査はひとまず成功と言えるでしょうか。PC様の大切なものを落としたり、なくしたりする展開になりましたが、どうぞご容赦ください。 気合を入れすぎて少々疲れてしまいました。そのため、ノベルも若干疲れる展開になっております。 おなじみになりそうな暗号も含め、情報が詰めこまれておりますので、銀幕★輪舞曲の今後の怒涛の(?)展開に乗っかりたい方はお目を通してくださると幸いです。 追って、対策課から連絡があるでしょう。 それでは。 お疲れ様でした。 |
公開日時 | 2008-05-16(金) 19:00 |
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