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<ノベル>
1
「ほい、次ー」
ずらりと並んだ男たちの背中を次から次へと流してやっているかいがいしい少年がひとり。
知っているものなら知っている、それはタヌキ少年・太助の、人間の少年形態である。
居並ぶ男たちはむろんノーマン小隊の面々だ。
「な、なんか照れちゃうね、こういうの」
というスコット上等兵の背中にも、ボディソープを泡立てた浴用タオルを滑らせる。
「友達なら背中流すくらいやっだろー」
「ともだち――か」
『もりの湯』のおやじも、友達とは多少ニュアンスは違ったかもしれないが、ノーマン小隊の良き理解者であったはずだ。
そこは銀幕市内某所のとあるスーパー銭湯。
ここではノーマン小隊も入場を拒まれることはなかった。もっとも太助は、ムービースターである以前に動物なので、少年の姿での入浴となった次第だ。
まわりを見回せば、耳が尖っていたり髷を結っていたりする者の姿も見られるので、ここはとりあえずムービースター入浴禁止というわけではないらしい。
それだけに――、『もりの湯』の一件はなにか釈然としないのだ。
ジェフリー・ノーマンは、洗い椅子に腰をおろして、むっつりとした表情のまま、備え付けのT字剃刀でヒゲを剃っていた。
「最近の『もりの湯』に変わったことなかった? 客が減ってきてたとかさ」
「いいや、別に」
「テレビで、燃料が値上がりして大変だって言ってたぞ。銭湯も苦しいんじゃないかな」
「そうかもしれないけど……だったらなおさら、僕たちを追い出すなんてヘンじゃない。小隊だけで30人くらいいるから、ひとり380円として……」
スコットの言うのももっともだが、太助は、あるいは、小隊とは関係のないところに、おやじの態度の変化の理由があるのではないかと考えていたのだ。
そんなことを話しながらも、太助は横目で、スーパー銭湯を楽しむ小隊員の様子を観察する。
心の中のチェックリストに印をつけていった。
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[レ]湯船に浸かる前にはかかり湯をする
[レ]泡は落としてから湯船に入る(勝手に泡風呂にしない)
[レ]浴用タオルは湯船に浸けない
[レ]上がる時はある程度体を拭いてから脱衣場に出る
==========
今のところ、「外国人がよくやる銭湯での失敗」らしきものはなさそうだ。
「あっ!」
「な、なに?」
「あれか! 『洗い場で洗濯物をしない』って知ってっか!?」
「知ってるよ! ……とにかく、僕らに落ち度はないってば!」
「なんでもいんだよ。なにか小さなことでも手がかりになるかもしれない。そうだ、入浴が禁止される前の日は?」
「え、前の日……? そうだな……。うーん、別にいつもと変わらなかったような……。おじさんは、番台で新聞を……あれ?」
スコットは首を傾げた。
「そうだ。あの日は新聞じゃなくて……本を読んでたな。いっつも新聞だから、珍しいな、って思ったんだ――」
「シット!」
低く、ノーマン少尉が舌打ちをした。
手元をあやまったのか、顎が小さく切れて、血がにじむ。
眉根が、ぎゅっと寄せられ、ぴくぴくと、そのこめかみがふるえた。
「あぁ。だ、だめだ」
スコットが、観念したように、天を仰いだ。
「全員、整列!!」
荒い場のタイルの上に仁王立ち。
スパーン、と音と飛沫を立てて、濡れタオルを肩に。
いついかなるときも、上官の号令があれば、身体が反応してしまう――それが軍人というものだ。
スコット上等兵も例外でなく、急に立ち上がったので、太助はすってんころりんと、尻もちをついてしまい、思わず、ぴょこんとタヌキ耳が出てしまった。
「あ、いけね」
太助が耳を戻そうとしている間に、小隊員は緊急出動の命令をかけられ、どやどやと浴場から出て行ってしまうのだった。
「イライラし過ぎは体によくないぞ!」
しかし、建物を出たところで、かれらを出迎えたのは、風轟だ。
「スーパー銭湯もいいが、温泉はどうだ? ついこの間、ワシが杵間山で掘り当てた湯があるんじゃ。なに、遠慮はいらんぞ、こうやって、ひとっとびだからのぅ!」
羽団扇をひと扇ぎすれば、たちまち巻き起こるつむじ風。
少尉と小隊員の野太い悲鳴と怒号を連れて、風は銀幕市の空高く昇ってゆく。
「それで小隊は、風轟さんが連れてっちゃったんですね」
「連れってたというか、さらったって感じ?」
天狗のしわざで神隠し、とはまさにあのことであったろう。
そこはところ変わって『対策課』。植村が、ドライヤーでタヌキに戻った太助を乾かしてやっている。
「それで太助。『もりの湯』が少尉たちを拒む理由はわかったのかの」
ゆきが訊ねた。
『ジェノサイドヒル』を訪れたおり、今度の事情を聞いたゆきだったが、彼女にとってもそれはまったく他人事ではなかった。『もりの湯』ではないが、やはり彼女も――そして同じアパートに住まう妖怪ムービースターの一団も――銭湯を利用する身の上だったからである。
「わかんね。なんだかなあ。俺みたいな動物系スターならわかるんだけどなぁ。ほら、今換毛期だし、毎日もさって抜けるから」
そう言う傍から、植村のドライヤーにあおられて、タヌキの毛が『対策課』のフロアに舞う。
「…………でもそれを言うならノーマン少尉も結構毛深いですよね?」
ファイルから顔をあげて、ふいに、ルーファス・シュミットが発言する。
「そ、それが理由!?」
「むう、そんな事情があったのかのぅ」
「いやいやいや、少尉はムービースターだから毛深いわけじゃないでしょう」
驚く太助とゆきに、つっこむ植村。
強いて言うなら白人だから毛深いのであり、それに同程度に毛深い人間は黄色人種にだっているだろう。というか、毛深いとかたぶん関係ない。
「冗談ですよ。ふむ。好き好んで毎日、熱いお湯に入りに行かなくてもいいと思いますけどね。私、お風呂はぬるめが好きなのですよね」
涼しげに言ってパタリとファイルを閉じるルーファス。
「ちなみにうちのバスタブは猫足です」
「聞いてません」
「……さて、ここ最近の周辺地域での事件ファイルをあたってみたわけですが」
ようやく本題だ。
くい、と眼鏡の位置を正して、ルーファスは続けた。
「とりたててムービースターがらみの深刻な事件は起きていませんね。ムービーハザード事件についても同様です。ここに記録されている以外にも、特に心当たりはありませんね、植村さん?」
「そうですね」
「で、あれば、たとえば『近所でムービースターが事件を起こしたので』、保安のために処置を行ったというわけではなさそうです。もっとも、これは近所に限定した話ですので、市全域で言うなら、いろいろと事件はあるわけですし……なんらかの理由でおじさんが心境の変化に至った経緯があるはずです」
「そうじゃの。やはり、会いに行ってみるのが早道かと思うのじゃ」
ゆきが言った。
その稚い横顔に、かすかに差す翳り。できれば誰も傷つかぬ、円満な解決を見てほしい。だがその願いがかなえられるものか、言い知れぬ不安が、ゆきの心をとらえて離さないのだった。
さてその頃、風轟とノーマン小隊は。
「ほれほれ、まあ一杯」
「む……」
山中の温泉で、湯に浮かべた盆に日本酒の熱燗とお猪口を並べ、いい気分でいっぱいやっていた。
正確には、有無を言わさず温泉に放り込まれ、とりあえず酒をすすめられて懐柔されていたのだった。
ノーマン少尉はあいかわらず厳めしい顔つきは変わらなかったが、それでも、酒が入ってだいぶ気持ちがゆるんだか、そのうえ温泉に浸けられて湯あたりでもしたのか、さっきまでの覇気はすっかり抜けて、ぼんやりと岩にもたれかかっている。
「……おぬし、ちょとこい」
様子を見計らって、風轟の太い腕が、ぐい、とスコット上等兵の首を巻き込み、岩影へ連れていく。
「で、本当に、心当たりはなんじゃな?」
「いやそれは間違いないですって」
温泉に浸かりながら天狗にヘッドロックを決められるという稀有な体験をしつつ、スコットは悲鳴のような声を上げた。
「そうか。……嫌な言い方をするが許してくれよ。『ムービースターお断り』というが、それは遠回しに言っただけで、お前さんたちだけを拒否したのではないのか?」
「……! そ、それは……たぶん違うと思うけど……他のムービースターの客は見たことないから……」
「ワシもそうではなかろうと思うておるよ。じゃが心配なんじゃなあ。なにか今度のことは……放っていけん。ワシらムービースターと銀幕市民の間に、深い溝を作りそうな……そんな気がするのじゃ」
「……」
やがて、風轟は、頷くと、ざばん、と湯から立ち上がった。
「よしわかった。あとはワシに任せて、おぬしらは心ゆくまで温泉を楽しむがいいぞ!」
ばさり――、と翼のはばたく音がしたかと思うと、次の瞬間には、山伏装束の風轟が杵間山の空に舞っている。
「いや、あの……」
そしてノーマン小隊は、山奥の、獣道とて通じていない野天温泉に、取り残されているのだった。
2
ちりりん、と風鈴が鳴る。
『もりの湯』から歩いて行ける距離に、その家はあった。
いかにも築年数の経っている、古い日本家屋の香りを残した一戸建てである。表札には「森野」とあった。
クーラーはないのか、あるけど動いていないのか、縁側がすべて開け放たれ、午後のなまぬるい風を取り入れているばかり。
『もりの湯』の主人たるおやじは、初老の、いかにも頑固そうな顔つきをした、ゴマ塩頭の男だった。
短パンにランニングといった格好のまま、うちわ片手に来客の対面に座る。
細君らしき女性が、氷を入れたグラスに麦茶を入れて、出してくれた。
「お忙しいところすみません。わたくし、『ムービースターと銀幕市民の友好を深める会』のウエムラといいます。こちらはムラセ」
ルーファス・シュミットが、まるで口から出まかせを言った。ムラセと紹介されたのは風轟である。
「……」
おやじは胡乱な目で、連れの少年少女を見遣る。
「あ。かれらはたまたま同行している近所の子どもたちです。ところで、これ、もしよかったら」
「そ、それは!」
どこからともなくルーファスの出した包みに、ゆきが声をあげた。
ゆきがノーマン少尉の怒りをなだめるために用意していた水ようかんではないか。
「いえいえ、そんな大したものではありません。ああ、奥さん、どうぞお構いなく。別に今切って出していただけなくても結構ですから。ええ、甘いものは大好物です。時にご主人」
出された麦茶で口元を湿らせると、ルーファスは言った。
「お宅の銭湯ではムービースターの入浴を禁止されていますね」
なんという直球。
しかし、ルーファスの告げたあやしい団体名を聞けば、おのずとその用件は知れようというものだ。
「……そうだな」
「ムービースターに、なにか嫌な目に遭わされたことがおありですか?」
「そういうわけじゃねぇんだ」
「ノーマン小隊をご存じですよね」
「ああ、アメリカの軍隊な」
「なにかご迷惑をおかけしたでしょうか?」
「……そういうわけじゃ――ねぇんだよ」
おやじは言った。
彼が寡黙な人物であることは察しがついている。ならばこそ、ルーファスはイエスかノーで答えられるように質問をしていた。
だがそれにしたって、彼の物言いは歯切れが悪い。
「スターの入浴禁止は、ご自身で決められた?」
「ああ」
「他のお客さんから要望がありましたか?」
「いいや」
「先日、突然、決められたそうですが、以前から予定されていたんですか?」
「違う」
「では急に思い立たれたのですね」
「……ああ」
「突然、ムービースターがお嫌いになったのですか?」
「……」
「ルーファス」
ゆきが、横合いからルーファスの手をぎゅっと握った。
ルーファスの態度は慇懃で決して高圧的ではなかった。しかしゆきには、次第にそれがひどく酷なものに思えてきたのだ。彼は任務を果たそうとしているだけなのに。それを確かめたいと、自分でも思っていたはずなのに、だ。
そう感じた理由は、主人にあった。
黙り込んだ男の表情は、終始、変わらなかったが……そこに目には見えない苦痛のようなものが浮かんでいるように感じられた。
じっとりと、額の皺に汗がにじみはじめているのは、暑さのせいだけか?
「……嫌い、なんじゃねぇんだ……」
絞り出すように、彼は言った。
「ただ………………恐ろしいんだ」
「え?」
ぽかん、と、太助が思わず声をあげた。
「怖い、と――?」
これはルーファスにも予想外だったらしい。眼鏡の奥で、紫色の瞳が見開かれる。
「……そりゃたしかに、少尉はこわもてだけど……でも……」
「でも!」
たまらず、ゆきは叫んだ。
「別に何もなかったんじゃろ? 何もないのに、どうしてそんな……急に――」
「アタシもねぇ」
水ようかんがひときれずつ乗った小皿が、テーブルの上に並べられていく。
夫人が、いつのまにかそこにいて、まるで夫を代弁するように語った。
「そんなことないだろうって、頭ではわかってるんですよ」
「そ、そうじゃろう……?」
「でもねぇ」
おっとりと、夫人は続ける。
「やっぱり怖くて……不安になっちゃうんですよねぇ。だってほら……ああいうのを読むとねぇ」
「『読む』」
風轟の目が、すっと細められた。
「読んだとは何の話だ。銀幕ジャーナルか?」
「いいえ。雑誌じゃあありませんよ。本です。お客さんの忘れものだったんですかねぇ。アタシが先に見つけたんです。番台に座ってると退屈な時もありますでしょ? あれを読んで……すっかり怖くなっちゃったんですよ……それで……不安なんです」
かれらは息を呑んだ。
夏の日の蒸し暑さも、みじんも感じなくなっていた。
むしろ、ぞくぞくするような奇怪な冷気が背中を這い上ってきているようだ。
夫人の目には、まぎれもない恐怖の色があった。
「そんなはずはない……って思うんですよぉ。もっとひどいことを書いてある記事だってありますでしょ、週刊誌やなんかの――それを読んでもなんとも思いませんでしたし……それなのに……あの『本』を読んでから……アタシ、なんだか怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖」
「やめねぇか!」
主人が、低い声で、一喝した。
しん、と茶の間に沈黙が落ち――、ちりりん、と場違いな風鈴の声がひとつ。
「……その『本』とやらは」
「捨てた」
「そうか……」
風轟は、あたってほしくなかった悪い予測が的中したと言わんばかりの、苦々しい表情を浮かべていた。
「ムービースターの入浴禁止を解除してはいただけないのですね?」
ルーファスの問いに、応えは、ない。
「……あいつらはもともと銭湯なんかにゃ行かん異国人だ」
最後に、呟くように風轟は言うのだった。
「それが立派な銭湯の客になれたのは……おやじさんのおかげなんじゃがな……」
3
解決の糸口は、まったくもって見えなかった。
森野家をあとにした4人は、誰も何も言おうとはしなかった。
だが……結末は、思わぬ形で、降ってきたのである。
次の日の夜のことだ。
前日、杵間山の奥に神隠しにあったノーマン小隊は、その後、一昼夜、山間をさまよい歩き(風轟いわく「おう、しまった、すっかり忘れておったわい!」)、ようやく下山がかなったのは、次の日の深夜近くであった。
泥まみれ、汗まみれになって、軍人たちはとぼとぼと力ない帰路につく。
気がつくと、行軍はちょうど『もりの湯』の前に差し掛かろうというところであった。
「あ――」
スコット上等兵が声をあげたのは、『もりの湯』のおやじが、のれんを片付けようとしているところに出くわしたからだ。店じまいの時刻なのだろう。
「……」
主人が、小隊を見た。
ノーマン少尉が憤怒のままに突っ込んでいくのではと隊員は恐れたが、上官はただフン、と鼻を鳴らしただけで、ほとんど無視するように、風呂屋の前を通り過ぎようとした。
そのときだ。
「――くか?」
きわめて低い、小さな呟きだったので、聞き取れたものはいなかった。
「……?」
おやじは、視線を下に落としたまま、その言葉を繰り返した。
「……入っていくか? ……泥だらけじゃねぇか」
「…………ムービースターは禁止じゃなかったのか」
少尉が問い返す。
「……そうだがもう看板だし……他の客……いねぇから……」
そんなわけで、久方ぶりに、小隊員は入浴がかなったのである。
貸切状態の浴場で、汗を流し、泥を落とし、広い湯船――といっても体格のいい男たちが揃って入ると芋洗い状態になる――で温かい湯に浸かった。
「よかったですね、少尉……きっと『対策課』の方がとりなしてくれたんですよ」
スコットが言ったが、ノーマンは湯に浸かりながらも腕組みをし、仏頂面で宙を睨んでいた。
無人の洗い場を、主人は、デッキブラシで床掃除を始めている。
誰か、気づいたものがいただろうか。
ブラシを握るその手が汗でぬめり、かすかにふるえてさえいたことを。
そして何かに耐えるように、その表情は苦しそうで。
あ――、と思った時には遅かった。
石鹸を踏むなど、銭湯のおやじにはあるまじき失敗だ。
★ ★ ★
「そ、それで……!?」
「転んで骨折されたそうです」
植村の話す後日談に、ゆきと太助は揃って消沈した様子だった。
「怪我の具合は酷いのかのぅ」
「なにぶんお歳でしたからね。でも、動けないだけで、気持ちはお元気のようですよ。しばらく、自宅療養されるとか」
「それならいいのじゃが……」
「でも、いいニュースもあるんです」
植村は続けた。
「ご主人は動けませんし、奥さんが自宅で介助されますから、しばらく銭湯は営業できないだろうと思われていたのですが、市外でやはり銭湯を営んでいる親戚の方が、手伝って下さるそうで、『もりの湯』は営業できるそうなんです。その親戚の方は、以前から銀幕市にご興味がおありで、ムービースターの入浴も認めて下さると」
「そうなのか。それはよかったけど……いつかは、おじさんがまた店をやるようになるだろ?」
そうなったら元の木阿弥では、という太助の問いに、植村は笑顔を返す。
「それがですねえ……ご主人と奥さん、ずいぶん、気持ちを変えられたみたいで。一時的に考えが凝り固まってヘンなことをしてしまったけど、よく考えたらやっぱり自分たちが間違っていた――、って。これはたぶん皆さんのおかげですよ。ああ、小隊の人たちもお見舞いに行ったらしいですけど、すっかり気のいいご夫婦に戻られていたそうです」
ゆきと太助は顔を見合わせる。
本当ならそれは朗報に違いない。
ではいったい、あの時の主人が見せた言い知れぬ不安、夫人が見せた恐怖は何だったのか。
まるで真夏の寝苦しい夜に見た悪夢のように……目を覚ませばかげろうのように消えてしまったのだろうか。
ちりりん、と鳴った風鈴の音を思い出す。
ああ、それでも――、悪夢が去ったのなら、それを今は歓迎しようではないか。
煙突の上から、風轟は下界を見下ろす。
客たちが、『もりの湯』に次々と吸い込まれていく。
さっきからしばらく、そこでそうやって観察していたが、なにもおかしな出来事は起こっていないようだ。不審な気配もない。
「ふむ」
翼を広げて、天狗は煙突から空中へと一歩を踏み出す。
次の瞬間、人間の姿になった風轟が、温泉マークのついたのれんの前に降り立っていた。
「せっかくだ、ひと風呂浴びていくかの……おっ」
――と、そこで、ルーファスに出くわす。
「おや。これはどうも」
「なんだ、風呂に入りにきたのか?」
ルーファスは、いつもの、ヨーロッパの貴族を思わせるレトロな仕立ての衣裳のまま、しかし、小脇に洗面器を抱えていた。洗面器の中ではマイ石鹸箱があって、歩くたびにカタカタ音を立てている。
「ノーマン少尉があんなにお気に入りだというお風呂に、私も入ってみたくなりまして」
そんな台詞に、風轟は豪快な大笑い。
そうかそうか、なら行くか。背中くらい流してやるぞ――いえ、せっかくですけど、わたし、そういうのはちょっと……。
……そんなやりとりをまじえつつ、風轟は強引にルーファスと肩を組み、のれんの向こうに消えてゆくのだった。
(了)
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クリエイターコメント | これはギャグなのか、そうでないのか、微妙なノベルになってしまいましたです。 ある意味、銀幕市の現状を反映しているといえばそうなのですが……。
銭湯にはどこかノスタルジックなイメージがあると思います。 そんな雰囲気を残しつつ、夏の銀幕市の情景の中で、みなさんのやりとりや気持ちを描くことに、すこし気をつけてみました。楽しんでいただけましたらさいわいです。
ではまた、銀幕市のどこかでお会いしましょう。 |
公開日時 | 2008-07-28(月) 19:30 |
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