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<ノベル>
夜。
その場に四人が集っていた。小さな扉の前に。
この場所自体が、非常に奥まった位置にあり、なかなか凝視する機会は少ないだろうが、よくよく見れば、その美しい艶を持った扉に、どこかギリシャのレリーフを髣髴とさせる、シャープでありながら優美な彫刻が施されていることが判るはずだ。
森と、花と、鳥を模したそれは、神秘的に静謐で美しかった。
扉の右端には、よほど注意して見なければ判らないほど小さく、『女王の庭園』という名が刻まれている。
「……銀二さん、大丈夫でしょうか……」
その扉を見上げたまま、田町結衣がぽつりとつぶやいた。茶色の双眸には、心配そうな光が揺れている。
それを見て、ブラックウッドが優しげに微笑んだ。
「なに、彼なら問題ない。強い男だからね。私たちは彼が望んだように、なすべきことをなすだけでいいと思うよ」
「はい、ブラックウッドさん。そうですよね、頑張りましょうね」
「そうだね、特に、かの女性のためにも」
女殺しと称するのが相応しい、ブラックウッドの笑顔に、結衣は思わず赤くなる。たかだか十六年しか生きていない初心(うぶ)な少女が、百戦錬磨の美壮年に敵うはずもない。
「……ブラックウッドさんって」
「うん?」
「どうしてそんなに素敵なんですか?」
率直すぎる言葉がこぼれると、周囲からかすかな笑い声が上がった。
ブラックウッドの微笑が深くなる。
いつも洒脱な伊達男は、今宵もごくごく自然に洗練された衣装を着こなしていた。黒のトレンチコートに中折れ帽。首には白いマフラーが無造作に引っ掛けられ、いいアクセントになっている。コートの下の衣装は、ブランド物ではないもののセンスのいい三つ揃えのスーツだ。
かっちりした中にも、理知的でありながら大人の色香を漂わせる、まさにレディキラー、マダムキラーの本領発揮と言うべきいでたちである。これでは、同性ですら時によろめくかもしれない。
「そういう結衣君も素敵だよ。……ああ、今は光君、だったかな」
「えっ、そ、そそそ、そんなこと……ッ」
全開の笑顔を向けられて、結衣は首まで真赤になった。
彼女の今回の出で立ちは、明るめの茶色で統一されたベストにシャツ、ズボン、ブレザー、トレンチコートという小洒落たものだ。髪はハンチング帽の中に結い上げ、乾くと色の変わるワックスで茶色に染めてある。某有名ブランドのチェックのマフラーが、そこにアクセントを与えている。
可愛らしい少年といった印象で、結衣自身は必要なら声を変えてもらおうと思っていたが、外見年齢的に必要はないかもしれない。
「さて、じゃあ行きましょうか。早く、銀二さんの気懸かりをなくしてあげたいですしね」
言ったのは薄野鎮だ。
やさしげな、女性的な印象の青年は、その細身に、艶のある黒のシャツと、ブランド物の黒のスーツに黄色のネクタイを合わせた衣装をまとっている。衣装に合わせて髪形もオールバックに固め、眼鏡もはずしてコンタクトレンズを入れている。
人を選ぶ色を使っているが、これがかっちりと見事にはまっていて、夜を闊歩する人種特有の、どこか気だるい色香を漂わせると同時に、それでいて知的美人とでも称するのが相応しいだろう出で立ちだった。
「……だな。これ以上被害を増やすわけにもいかねぇし?」
鎮の言葉に重ねて、おどけたように肩をすくめつつも、鋭くも真摯な眼で扉を見つめるのは浦瀬レックスだ。現在、田町結衣の家に厄介になっているムービースターである。
イタリアンブランドの軽快なスーツを洒脱に着崩し、その上からコートを羽織って、ところどころにアクセサリを装っている。耳朶には漆黒のリングピアス、首元にはリングを通してあるネックレス、手首にはシンプルデザインのブレスレット。更に手にはサングラス、髪型はオールバック。
若い娘たちが騒ぎそうな、俗に言うイケメンというやつだろう。
「皆、とっても素敵です」
結衣がにっこり笑うと、同行の男たちはめいめいに肩をすくめてみせた。
ブラックウッドが扉に手をかける。
「行こうか」
「判りました。……穏便に済むことを祈っていますよ」
「そうだね、薄野君。私としても、レディに手荒な真似などという無粋はしたくないからねぇ」
大人の魅力満載でブラックウッドは微笑み、そして小さなドアノブをまわした。
そして、華やかな戦場へと足を踏み入れる。
武力を伴わない戦場ではあれ、それは確実に、他者の安全をかけた戦いなのだった。
ひどく衰弱した、意識不明の状態で、八之銀二が発見されたのが二日前のことだ。
彼は、精気と呼ばれる生き物としての根源的なエネルギーを大量に失っており、辛うじて命に別状はなかったものの、今もまだ意識が戻らず、病院のベッドに磔(はりつけ)になったままだ。
すでに数十人の被害が出ているこの件だが、銀二のそれは群を抜いてひどく、対策課も本腰を入れて調査を始めることとなったのだが、銀二が倒れていたときに持っていたという小さな、精密なテープレコーダーが病院から届くと、それを元に依頼が行われた。
それを受けて集ったのが今回の四人である。
どこかでそれを聞きつけた銀二は、正式な依頼が行われる前に、自ら身体を張って情報収集に乗り出したのだ。強面に似合わぬ、情の深い、真面目な男だ。被害が出るのも、憎しみの連鎖が続くのも、我慢がならなかったのだろう。
――そして、恐らくは、返り討ちに遭った。
洒落たバーに潜む美しい何者か、男という性を憎む人ならぬ存在に。
レディMからの情報でバーの位置を突き止めると、四人は、事前に少し話し合ったあと潜入を決めた。
そこに巣食う存在の、憎しみや敵意を浄化させる。
それを目的に、それぞれがそれぞれに動き始めるのだ。
事実、すでに何がしかの手を打っている者もいた。それが成功し巧く働くのか、吉と出るか凶と出るかは、まさに神のみぞ知る、というレベルでしかなかったが。
足を踏み入れると、そこは、シックでしっとりと落ち着いた、それでいてどこか妖艶な印象の部屋だった。落とされた照明と、黒を基調に整えられたインテリアが、そこで繰り広げられる、洗練された大人の時間を物語る。
あちこちに、テラコッタの小さな植木鉢があって、やさしい緑で空間を和ませてくれる。
小ぢんまりとまとまったそこには、椅子が五つしかない。
そもそも、少人数で……時にひとりで、ゆっくりと飲みに来るようなバーなのだろう。
だからこそ、寄せられる情報が少なかったのだと言える。
「……いらっしゃいませ。あら……今宵は、ずいぶんたくさん」
小さなカウンターの向こう側で、グラスを磨いていた女が、長い髪を揺らして艶然と微笑んだ。
美しい、としか表現出来ない女だった。
年の頃は、三十代前半から後半といったところだろうか。もっと若いようにも見えたし、もっと年経ているようにも思えた。何にせよ彼女は、若々しい瑞々しさと、巧みに年を重ねたものだけが持ち得る妖艶な色香の双方を、完璧に具えた女性だった。
豊かな長い髪は内側から輝くようなブルネット。肌は繊細優美な陶器のような白。完璧な流線型を描くアーモンド・アイズは翠の光沢を持った黒真珠のようで、ふっくらとした唇は薔薇の花びらのようだ。女性にしては長身の、ほっそりとしていながらめりはりの利いた肢体は妖艶の一言に尽きる。
黒い、シンプルな、余計な装飾の一切ないドレスに身を包んでいるが、四人がそこから受けた印象は、夜に咲き誇る大輪の赤薔薇、だった。
「ようこそ。歓迎するわ……どうぞ、くつろいでいって。ああ、コートはそちらに。ここは充分温かいわ」
細くしなやかな、白くたおやかな指先、桜貝のような爪が、優雅な手つきで衣装かけとスツールを交互に指し示す。
「あ、あの……お邪魔します」
どぎまぎと視線をそらし、頬を赤くして、コートを衣装かけに預けた結衣が中へ踏み込むと、女の、光沢のある、翠がかった目が細められた。
「あら、可愛いお客様ね。どなたかしら、こんな小さな紳士に、悪い遊びを教えるのは」
金の鈴を震わせるかのような、軽やかな笑い声がこぼれる。
声もまた美しい女だった。
「お邪魔します。仲間同士で飲み明かそうと思ってね」
鎮は特に動じるでもなく左端のスツールに腰かけ、差し出された熱いお絞りでゆったりと手を拭いた。その手つきを、女が見つめている。
鎮の隣に、結衣をエスコートするかのように並んだレックスが腰かけ、次に結衣が席につく。
ブラックウッドだけは、静かな微笑を浮かべたきり、黙ったままで、ひとつ席を空けて右端のスツールに腰かけた。
「ふふ、不思議なまちね、銀幕市は。何もかもが違う人々が、こうして親愛の情を交わすのだから」
女はカウンターの後ろにある棚からいくつかのビンを取り出すと、四つのグラスを準備し、ビンの中身を何種類か注いでくるくるとかき混ぜ、白い優美な指でそれを四人の前に置いた。
それぞれに色の違う飲み物に、不思議そうな顔をした結衣が女主人を見上げると、
「……この世界には未成年という考え方があるのでしょう。わたしはまだここに来て日も浅いけれど、人の年を見間違えるほど昏(くら)くもないわ。そちらのおふたりさんには、ノンアルコールのカクテルをお出ししたから」
ゆったりとした微笑とともにそんな答えが返った。
結衣とレックスが顔を見合わせ、苦笑する。
この世界には、ここに来て、という物言いから、彼女がムービースターであることが察せられた。隠そうとはしていないのだろう。
「気遣いどうもありがとう。お姐さん……いや、ママって呼んだ方がいいのかな、名前は? 何て呼んだらいい? ああ……オレはレクシオル、レクシオル・リマン・シファマーレっていうんだ」
レックスが準備しておいた――というよりは、平素では使うこともその必要もない――名前を口にすると、女はにっこりと笑った。
「そうね、ここでは薔子(しょうこ)と名乗っているわ。よろしく、レクシオルくん」
「くんはやめてくれよ、お姐さん。オレはそんな子供じゃないぜ」
「あら……そう? ふふふ」
金の顫音(せんおん)を響かせて、薔子と名乗った美しい女は笑い、それからやはりどこまでも優雅な手つきでチーズやナッツ、そしてスタッフド・オリーブが載せられた小さな皿をひとりひとりの前に置いた。
多少の癖はあるものの、華やかとでも言うべき芳香が立ちのぼる。匂いと形状からしてウォッシュ・チーズと白かびチーズのようだ。
「これもご縁なら、せっかくですもの、他の皆さんのお名前も訊いていいかしら? ねえ、小さな紳士さま?」
「えと、あの、わた……っじゃなくて、僕ですか。光といいます、よろしく、薔子さん。ええと、じゃああの、これいただきますねっ」
あわあわと応えた結衣が、目の前に置かれた流麗なグラスを手に取り、口をつける。それから、ぱっと目を輝かせた。
「あ、美味しい!」
「サンドリヨン(シンデレラのフランス名)というのよ。レモン、オレンジ、パイナップルのジュースで作ってあるノンアルコール・カクテルなの。お気に召したなら嬉しいわ。本物のカクテルは、もう少し大人になってから、ね」
「あ、は、はいっ、ありがとうございます!」
鮮やかなオレンジ色の液体が入ったグラス、パイナップルの皮付き果実でデコレートされたそれを手に、結衣が心の底からの笑顔を見せる。
隣のレックスは、兄の目で結衣を見つつ、目の前に置かれたグラスを手に取った。
「……ん、シャーリー・テンプルか。いい材料使ってんのかな、普通のより美味いや」
「そうよ、とてもいい生姜を使った、本当のジンジャーエールなの。よくご存知ね」
「ああ……うん、飲食関係は、結構」
レックスが長い指でチーズをつまむ。
その隣の鎮は、アルコール度数の高い酒をベースにしたカクテルを舐めながら、スタッフド・オリーブをつまんでいた。黄色い花を彷彿とさせるそれは、カクテルの中でも最高のアルコール度数を誇るアカシアだ。
薔子の視線が向けられると、かすかに笑って目礼する。
「薄野、と言います。……こんなところで自己紹介することになるとは思わなかったけど」
「そうね、わたしも思わなかった。くつろいでいってね、薄野さん。強いお酒でよかったかしら?」
「ええ、大丈夫だと思います、ありがとう」
どういたしまして、と優雅に微笑み、最後に薔子は、舌が痺れるようなドライ・マティーニのグラスを、洗練された動作で口元へ運ぶブラックウッドへ目をやった。
黒真珠の双眸が、不可解な光を帯びる。
「あなたは、どうやら、見かけ通りの方ではないようね」
ご同輩かしら、という彼女のつぶやきは、あまりにもかすかすぎて、ブラックウッドの耳にしか入らなかったが、何にせよそれは、どこか冷たい敵意を含んでいた。
それと同時に、わずかな孤独と、哀しみを、ブラックウッドは感じることが出来た。
長き時を生きてきた吸血鬼の長老は、どこか物憂げな――それが譬(たと)えようもなくよく似合っている――表情で、やはり見事に整った黄金のアーモンド・アイズを細め、グラスを掲げる仕草をしてみせた。
「そう見えるかね、マダム」
「ええ。お名前を訊いてもよろしいかしら?」
「記号としてのそれでよろしければ、ブラックウッドと」
「――そう。黒い樹、ね」
ブラックウッドの名乗りに、薔子の表情がわずかな翳りを含む。
彼女の気懸かりが、そこに含まれているのかもしれない。
「何か、マダムを不快にさせる名だったかね」
「いいえ、逆よ」
「ほう」
「わたしは森や緑が大好きなの。とても素敵なお名前ね」
「それは、どうも」
ブラックウッドが微笑むと、薔子もまた微笑んだ。
それは追究を許さない断絶を含んでいたが、確かに美しかった。
薔子はそれから、四人をぐるりと見渡し、また、誰もが蕩かされそうな美しい笑みを、艶やかな美貌に浮かべて言った。
「さあ、では、ゆっくりなさって。出会いは一期一会とも言うわ、どうぞ今のこの時を、思いのままに楽しんで」
そのまま、ゆるりとした時間が流れる。
嵐の前の静けさのように。
一時間ほど、他愛ない話をしたころだろうか。
薔子は聞き上手で、同時に話し上手だった。様々な話題に、もっとも相応しい応えを口にし、金の顫音のように軽やかなあの笑い声で、周囲の雰囲気を華やがせた。
緩やかに、時間は流れた。
だが……皆がすでに気づいていた。
その、黒真珠のごとき眼が、言葉や表情ほどには楽しんでおらず、決して心から笑ってはいないことに。
女の目は、常に、どこか冷ややかな光を宿していた。深い哀しみとともに。
同時に彼女は、他者が自らにそれを問うことを言外に禁じていた。それはかすかだったが、態度の端々に現れ、厳しい、誇り高い拒絶を高らかに謳っている。
ピンと伸びた背筋、指先の仕草ひとつひとつから、彼女が誇り高い、高貴な女なのだという事実が透けて見える。
そこに今回の事件の根があることは明白だったが、ヘタに踏み込んで更にややこしくしてはいけないと、誰もが様子を伺っていた。――銀二のことを誰もが思い出していた。
そんな中、痺れを切らしたのか、それともこのままでは埒があかないと思ったのか、
「あのっ、薔子さん」
声を上げたのは結衣だ。
悩んでいる間、延々とピスタチオの殻と薄皮を剥いていた彼女の手元は、少々おかしなことになっている。
「どうしたの、光くん」
薔子が首をかしげた。
結衣は一瞬躊躇したが、すぐにぎゅっと拳を握り締めると、
「わ……僕には、何故か、薔子さんがすごく哀しんでいるように見えるんです。あの、何か、辛いことがあったなら、是非お話を聞かせてくださいっ」
身を乗り出すようにして一息に言い切る。言い切らなくては、途切れてしまいそうだったからだ。
「あら……そうかしら。別に、何もないわよ」
くすりと笑った薔子が、やはり笑わぬ眼差しで結衣を見下ろす。
そこに冷ややかな断絶を感じ、言葉に詰まった結衣がそうですか、と諦めるより早く、
「本当にそうですか? 僕にも、あなたが何かの屈託を抱えているように見えるのですが」
静かに言葉を重ねたのは鎮だ。
手に携帯電話があり、指先がボタンをプッシュしているのを見ると、誰かとメールのやり取りでもしているらしい。
薔子の、柳刃のように整った眉が、ほんのわずかに動く。
「そうだぜ、ここにこうして来たのも縁ってヤツなんだ、話を聞かせてくれよ」
更に言葉を重ねたレックスが、陽気で魅力的なウィンクとともに、「な?」と首を傾げると、薔子は口元に微笑をたたえたまま沈黙した。そして何かを考えている。
奇妙な沈黙が落ちた。
ブラックウッドだけは、会話には参加せず、沈痛ささえ含んだ物憂げな眼差しで薔子を見つめながら、時折グラスを傾けている。
「――……そう」
ややあって、薔子が静かに――穏やかに微笑んだとき、誰もがうまくいったと思った。
彼女もまた、救いを求めていたのだろう、と。
だが。
「対策課が動いたのね」
そう、彼女がつぶやくや否や、薔子の雰囲気が変わった。
ざわざわざわざわっ。
風にざわめく木々のような音がする。
「薔子さ、……ッ!?」
ほんの一瞬、まぶしい光が輝き、誰もが目を瞑った。
――次に目を開くと、そこにはもはや、『女王の庭園』の形跡はなかった。
ふと気づくと、彼らは四方を、深い、神秘的な森に囲まれており、やわらかな草の中に佇んでいた。
森はエメラルド、翡翠、サファイアのような、色鮮やかな『あお』をたたえ、森の上空、天から差し込む黄金の光によってやわらかく輝くその空間は、薔子と同じく美しかった。
森は深く、静かで、ひんやりしていた。
「ここは、一体……」
周囲を見渡しながら訝るレックスに、――否、レックスではなく、結衣にも、鎮にも、ブラックウッドにも、するすると伸びた木々の枝が、まるで蛇のように絡みつき、
「な、……ッ!?」
それぞれの身体を縛める。
もがいてみても、それは植物とは思えぬ強靭さで、彼らの動きを完全に封じていた。
「おかしいと思ったのよ。どうしてわざわざあなたたちのような人種が、とね。対策課の依頼があったと仮定すれば、何もかもがぴたりと当てはまる。――では、わたくしは正真正銘、人に仇なす存在ということね。わたくしを退治に来たの?」
薔子が、つい先刻まで薔子だったものが、どこか晴れやかですらある表情でそうつぶやいた。その姿が、徐々に変わってゆく。
「ち、違うんです薔子さん、私、っじゃなくて僕たちは、本当に……!」
結衣が必死に自分の思いを伝えようとする中、
「――……いいわ、お話してあげましょう」
冷ややかな殺意を含んで、女は言った。
「あなたたちの命と引き換えに」
その言葉に、ざわり、と、また森がざわめく。
厳しい断絶を孕んで。
自分の領域に取り込まれ、木々に身体を縛められた四人の人間たちを見つめつつ、彼女は二日前のことを思い出していた。
今にして思えば、彼もまた、この四人と同じ目的のためにここに来たのだろう。
入ってきたその男は、たくましい巨躯を白いスーツに包み、鋭い目つきで店内を睥睨した。大柄で強面の彼は、この銀幕市の、現代という時代の人間と同じ出で立ちをしていたが、しかし、同胞たちとは一線を画す、明らかに戦い慣れた者の雰囲気を持った男だった。
そのあまりの鋭さに怯えたか、店内にいたふたりの男が、勘定を支払うやそそくさと出てゆく。
しかし、彼女が気を悪くすることはなかった。
貧弱な勤め人ふたりより、この男の方が『美味しそう』だったからだ。
彼女は美しい笑みを作り、男へ一礼する。
男はにこりともせずにスツールへと腰かけた。
――ただ、楽しく酒を飲みに来た、という雰囲気ではなかった。
「今日は冷えるな」
「ええ……そうね。でも、ここは温かいでしょう?」
「そんな冷えた瞳で見られては、外でも中でも変わらんさ」
男の言葉は、ここに来た客が、今までに一度も口にしたことのない類いのものだった。
琥珀色の酒を氷の入ったグラスに注ぎ、彼の目の前に置きながら、彼女は男を詰るような目で睨んでみせる。
「あら、ご挨拶ですこと。わたしはそんなに冷たい女に見える?」
「そうでなくて、何故わざわざこんなことを言うと思う」
「まあ……ひどい方。わたしほど情の深い女はいないのよ、ご存じないの?」
「知らんよ、残念ながら。今の俺に判るのは、あんたの目が凍り付いていることだけだからな」
「読心術でもお使いなの、あなたは? そんな風に、決めつけないでくださらないかしら」
「ふむ……ならば聞こう。一体何をそんなに恨む? その憎悪はどこから来る? 人か? 男か? それとも……己自身か?」
静かではあるが挑発的な物言いが重ねられる。踏み込まれたくない領域に、話をはぐらかそうと言葉を紡ぐ彼女などお構いなしで、男の目は、真直ぐに、鋭く彼女を射抜いていた。
厳しく、真摯で、一直線に届く視線。
彼女の胸の奥で、ざわりと何かがざわめく。
「……!」
それは、目もくらむほどの、爆発的な怒りを伴っていた。
彼女と、彼女の愛する一族に、苦い懊悩を舐めさせた、人間、男という生き物への怒りだった。
お門違いであることなど、彼女は頓着しない。
ここは彼女の領域、彼女が支配する女王の庭園だ。彼女の怒り、彼女の意志は、すなわちこの場の真理でもあるのだ。
「――黙りなさい」
口調を変え、雰囲気を変えて彼女は断じる。
いつもなら、もう少し様子を見てから『食事』に取りかかるのだが、今回は別だ。
ざわざわざわ。
彼女の周囲で、彼女の一部たる空間がざわめく。
彼女は今や元の姿を取り戻し、その周囲は、銀幕市ではなくなっていた。女王の庭園と名づけられた小さなバーは、まさに支配者の立つところと変わり、すでに異界へと変化していた。
それは明らかに異様な光景だったのに、男は微動だにせず、彼女を見つめていた。強面の、普通の銀幕市民とは明らかに一線を画す雰囲気を持つ男だったが、しかし、その目は静かで、理性的で、誠実な光を宿していた。
彼に罪はないのだと、魂の根本で理解している。
だが、今更怒りを抑えることは出来なかった。
それほど深く刻まれた憎悪だった。
「わたくしから愛する娘たちを、森を奪った人間ども。あの、身勝手で傲慢な、恥を知らぬ、あまりにも昏い男という生き物。わたくしは憎み続けましょう、ここに在る限り。それだけが、喪われたあの子たちへのわたくしの弔い」
ざわざわざわざわ。
『それ』が男を取り囲み、包み込む。
そして、彼から、生き物としての命のエネルギーを奪ってゆく。
彼女の怒りが大きい分、『それ』らも常に増してたくさんのエネルギーを吸い取ったが、しかし、男は取り乱すことも、逃げようともがくこともなく、ただ静かに『それ』に飲み込まれた。沈痛な眼差しのまま。
すべてを甘受するがごとくにそれを受けたのは、彼が初めてだった。
「馬鹿な男。何故、わざわざ、苦しみに来たのかしら」
『それ』らが引き、世界が元の銀幕市へ戻ったあと、意識を失って倒れる男を、戯れに抱き起こし、その頬に指を這わせる。
生命の根幹を侵され、ひんやりと体温を落とした身体は、ぐったりと力を失って青褪めている。時折漏れる呻き声は、苦痛に満ちて、低い。
――後悔がないわけではない。
罪を理解出来ないわけでもない。
きっと、いずれ――そう遠くなく、彼女はまちの人々から追われ、狩られることとなるだろう、故郷と同じように。今の彼女は、明らかに、人に害なすムービーハザードだ。
それでも、愛する存在を、守るべき領域を、――自らの価値すら失った彼女にとっては、今、こうして憎悪を晴らすことだけが、生きる意味を見出す唯一の手段なのだ。
虚しい手段と理解してはいても。
「改めて名乗りましょう、戯れに。――手向けに。わたくしの名はレーギーナ。レーギーナ・シルワ・デウス=ロサ。神の森を統べる女王にして、森の娘たちの守り手」
誰もが言葉もなく彼女を見上げていた。
森の一部、触手めいた木の枝に絡みつかれ、動きを封じられているという理由でではなく、誰もが身動きひとつ出来なかった。
それが彼女の、本来の姿なのだろう。
ブルネットは太陽の光のようなまぶしいブロンドに、黒真珠の双眸は森の奥に息づく木々そのものの翠に変化していた。背中の半ばまでだった髪は地面に届きそうなほど長くなり、耳は長く尖っている。
「エルフ……?」
ファンタジー映画が好きな結衣が、思い当たる種族名に、木の枝に絡みつかれたままぽつりと――呆然とつぶやくと、森の女王はその美貌をわずかな笑みのかたちにしてみせた。
顔のかたちが変わったわけでもないのに、薔子からレーギーナに変わった彼女は、神々しいほどの、現実味を欠いてすらいるほどの、思わず震えが来るような美しさをたたえている。
世の中の、どんな女よりも彼女は美しかった。女という性を超越した美しさを持っていた。
「そうね、わたくしの娘たちを、そう呼ぶ者もいたわ。でも、もうそれも昔のこと。森の娘はもういない。何故か判る?」
静かに歩み寄ったレーギーナが、木々に絡みつかれて窮屈そうにしている結衣の頬に、そっと白い繊指を添える。
一瞬、びくりと震えた結衣は、困惑した顔で首を横に振った。
「判りません。でも、その人たちに何かひどいことが起きて、もういなくなってしまったんだってことは判ります。その人たちは、しょ……レーギーナさんのお子さんなんですか。それで、あなたは、男の人を憎んでいるんですか」
わたくしから愛する娘たちを、森を奪った人間ども。
テープレコーダーの中の彼女の声は、陰々と……切々と、そう憎しみと哀しみを込めてつぶやいていた。
そこに、すべての発端がある。
「いいえ、わたくしの生んだ娘ではないわ。森の娘は、森の神性が産んだ神の子供たち。永遠の命を生き、森の恩寵とともにある、祝福された娘たち。わたくしはそれを守るためにあった森の化身」
あった。と、彼女は言った。
「過去形ですか……なら、娘さんたちは亡くなったんですか。恐らく、原因は人間の男……?」
こんな場面でも冷静なのは鎮の声だ。彼は、木々に自由を奪われ、生命の危機にさらされている自分を理解していたが、それでも何故か、レーギーナを恐れる気持ちにはなれずにいたのだ。
レーギーナの翠瞳が、ほんの一瞬、何かを悼むような光を宿す。
「――――そうよ」
「何故?」
「わたくしたちの暮らす楽園に、あの男たちが踏み込んできたのはもう千五百年も昔のこと。神代の森へ迷い込んだ人間の若者を、娘のひとりが助けてしまったことが始まりよ」
娘と若者は恋に落ち、将来を約束しあった。
その準備に人間の町へと戻った若者が、この世のものとも思えぬ美しい娘たちに助けられたと、隣人たちに話したことが始まりだった。
若者はただ何の悪意もなく、自分を助けてくれた美しい存在のことを口にしただけだったのだろう。ほんの少し、そんな美しい娘と結婚できる自分を、自慢したいという気持ちもあったかもしれない。
だがそれは信じられ――若者は、森の娘たちにしか織れぬ、美しい布を使った服をまとって帰ったから――、噂となり、やがて、時の権力者の耳にも入ることとなる。
彼女の世界において、森の娘、エルフとは、女性しか存在しない種族だった。それも、人間の女など及びもつかないような、輝くような美貌の持ち主たちだったのだ。
それが、森の娘たちの、そして神の森の不幸の始まりだった。
「あんなひどいことを、笑いながらやってのけるのね、人間は」
初め、武装して森に踏み込んできた男たちを、可愛い娘たちを蹂躙せんと訪れた闖入者たちを、レーギーナは完膚なきまでに叩き潰した。森の女王には、それだけの力があったから。
他者から精気を奪うこの能力も、それらの日々の中で培われた力だ。
そんなことが、十回も二十回も、百回も繰り返されると、神の森には森の娘を守る女王がいる、という風評があちこちで立った。
それで諦めてくれればよかったものを、人々は――男たちは、愚弄されたままではいられぬと、更なる武力を投じてきたのだ。二百人ほどしか存在しない森の娘を捕らえるために、千人もの兵士が送り込まれたこともあった。
そして千五百年前のあの日、業を煮やした人間たちは、神の森に火を放ち、燃え上がる森の混乱に乗じて、森の娘たちを襲撃し、そして連れ去ったのだ。そこで連れ去られた娘は、百人にのぼった。
森の娘と将来を誓い合ったあの若者は、同胞たちの凶行を止めようと立ちはだかり、そして兵士たちに殺されたという。それを嘆いた娘もまた、兵士の刃に自ら飛び込み、命を断った。
「……わたくしは無力だったわ。何ひとつ、できなかった」
レーギーナが残りの娘たちを守ることしか出来ずにいるうちに、連れ去られた娘たちはあちこちの権力者にばらばらに連れてゆかれ、また、この世のものとも思えぬ美貌の持ち主として珍重され、高値で売りさばかれた。
「森の娘は、あの楽園でならば永遠に生きることが出来るけれど、この森を、森の化身たるわたくしの傍を離れては長く生きられないの。きっと、数年もしないうちに死んでしまったでしょう」
それは、永遠を生きる彼女たちにとってはまばたきよりも短い時間だ。
焼け焦げた森の一角に、身を潜めるように残った娘たちも、それから数度に渡って繰り返された襲撃でそのほとんどが連れ去られ、失われた。
娘のひとりを心底愛した、とある国の若き国王だけが、彼女に大きな森を与え、そこにふたりで住んだと聞くが、それももう千数百年も昔のことだ。もうこの世にはいないだろう。
「百代(ももよ)の時を、森の娘たちと生きてきたわ。でも、あの穏やかな時間は、人間の、男たちの傲慢さによって、わずか数十年で喪われた。最後に残っていた七人の娘たちとも、彼らの『狩り』に遭ってはぐれたきりよ。――これで判ったでしょう、わたくしがどうして男を憎むのか」
女という性ならば、こんな無体が行われることはなかった。
だからレーギーナは、人間の女を憎みはしない。彼女らは時に、森の娘たちを匿い、助けてくれさえした。
だからレーギーナは女を襲わない。必要とあらば、手すら差し伸べるだろう。返すべき恩を、返すだけのことだが。
「けれど、男は嫌い。この世界に実体化してもそう。彼らは傲慢で、頑迷で、自分のことしか考えないわ。雄という本能がそうさせるのかしらね、彼らはどうしてああも支配したがるのかしら」
溜め息とともに彼女の話は終わる。
桜貝の指先が、ツイと木々を指し示すと、四人を締め付ける力が強くなった。誰もが思わず呻いたが、しかし、誰もそのことを責めも、拒絶も、恐怖の声も上げなかった。
「……そんな……」
結衣が震える声をこぼす。
彼女は、大きな目に涙をいっぱい溜めていた。
話を聞いて、いても立ってもいられなくなり、少年の出で立ちをしてここに来た。
結衣は平凡な、とは言い切れない環境にいるものの、彼女の思考はごくごく普通の少女のものだ。結衣が持っているのは、平和な国、平和な時代の少女の考え方であり価値観だ。
兄代わりのムービースターが出来たものの、それは今でも変わらない。
そんな彼女にとって、レーギーナの話は衝撃的だった。
そんな世界もあるのだと、一見華やかな、美しいものばかりで構成されていそうな幻想の世界にも、そんな生々しい、身勝手で非情な欲望が存在するのだと、そのためにレーギーナは愛する娘たちと悲痛な別れをする羽目になったのだと、そう思うとやりきれなくなる。
同時に、レーギーナの悲嘆の深さを思い知る。
俯いてしまった結衣を、慈悲すら覗く微笑とともに見下ろし、レーギーナは彼女から遠ざかった。そして、木々の牢獄につなぎとめられた、四人の犠牲者たちを睥睨する。
「対策課が動き出したのなら、今のように生温い復讐を繰り返していても埒があかないわね。なら……わたくしはもう、後ろを振り返ることは止めましょう。毒婦として、魔女として、ムービーハザードとしての己を全うしましょう。魔として狩られるその瞬間まで」
悲壮なまでに誇り高く、きっぱりと言い切ったレーギーナを、泣き出しそうな目で結衣が見つめる。何を言ったところで無駄なのではないかと思いつつ、しかし、声を上げずにはいられない。
「でもっ……だけどっ! そんなの、哀しすぎます! そんなの、レーギーナさんの所為じゃないのにっ!」
悲鳴のようなそれに返ったのは、悲哀を含んだやさしい微笑だった。
「ええ……そうね、そうかもしれないわ、お嬢さん」
「え……」
「わたくしに判らぬとお思い? ヒトが百回生を繰り返すだけの時間を生きてきた、このわたくしに。最初から、気づいていたわ。だからこそ、対策課の動きに気づいたというのもあるのよ」
男装が初めから見抜かれていたことに、結衣は驚きを隠せなかったが、それが長く生きるということなのかもしれない。
「あなたたちはわたくしを救いに来てくれたのね。今なら判るわ。でも……ごめんなさい」
「レーギーナさんっ」
「わたくしのためにここへ来てくれたあなたたちを、こんなかたちで巻き込むわたくしを許して」
一瞬、苦悩に瞑目したレーギーナだったが、すぐに、吹っ切るように目を開き、最初の犠牲者となるべき四人を交互に見つめた。白い繊手が空を滑ると、ざわざわとざわめいた森の木々が、彼らに向かって距離を詰めてくる。
徐々に圧迫感を増してゆくそれに、か弱い少女である結衣が小さな悲鳴を上げた。
「きゃ……ッ」
「結衣! くそっ、やめろ、結衣に手を出すなよ!」
レックスが歯噛みし、拳を握り締めた。
身体を締め付ける木々は、少しずつ、しかし確実に力を強めてくる。
身体から何かが抜け出しているかのような錯覚があるのは、すでにレーギーナが『食事』を始めているからだろうか。何にせよ、あまり心地いい感覚ではなかった。
いよいよ差し迫った危険の中、それでもなかなか動じていない風情で、
「あーもう、間に合わないじゃないか、これじゃ。いったい何をやってるんだ、彼は……」
鎮が、手の中に握り締めたままの携帯電話を気にしつつ、ぼそりとこぼす。
周囲の状況を確認したいとは思うが、ここまで雁字搦めにされていては不可能だ。
その横で、黙ったまま木々に縛められていたブラックウッドが、黄金の双眸に深い悲哀をたたえて口を開いた。木々に絡みつかれ、身動きひとつ叶わなくとも、彼の彼らしい美が損なわれることはなかった。
「あなたはそれでいいのかね、薔薇の君」
その呼びかけに、レーギーナの柳眉がぴくりと動く。
「何を言うの」
「レーギーナ・シルワ・デウスとは、神の森の女王の意味だろう? ならば、ロサはあなたの本来の名ではないかと思ってね」
「――……それが、どうかした?」
「ロサとは、薔薇だ。もう一度問おう……薔薇の君。あなたは、それでいいのかね」
ブラックウッドの物言いは、真摯で、率直だった。
黄金の目が、美しく哀しい女王を、真直ぐに見つめている。
「私にも、多少ながらあなたの気持ちが理解出来るよ。私は、吸血鬼の一族を導く者。追われ狩られる苦しみは判る」
「……そう。道理で、只者でない雰囲気を持っていると思ったわ」
「それは、光栄だ」
ブラックウッドがどこかもの憂げなのは、彼女の姿に己の過去を重ねているからだ。
彼の恋愛遍歴は華やかだ。彼は、常に他者を愛することで生きてきた男だが、それでその魂が満たされたことは殆どない。彼が覚える血の渇きは、魂の渇きでもある。その渇きが満たされぬまま、今に至っている。
「己を愛せぬ者が、他者を愛せるかね。何故そうまで己を責める? 何故哀しみと向き合おうとしない? 森の娘たちは、あなたが苦悩に涙し、罪に手を染めることなど望んではいないだろうに」
「偉そうな、ことを……!」
レーギーナの白い手が震える。
それを、ブラックウッドは、静かな、漣(さざなみ)ひとつ立たない心で見つめていた。
――冷たい墓の下で千年の孤独に耐えた。他人を憎むより己の弱さを戒めて生きてきた。愛することで、ほんの少し、苦悩は癒された。けれど、一歩間違えれば、彼女のように他者を憎んでいたかも知れない。
だから、ブラックウッドには、彼女の憎しみが他人事とは思えない。
「森の娘たちは、あなたに救われるななどとは言いはしないよ、薔薇の君」
それは、恐らく、真実であっただろうと思う。
道に迷った見知らぬ存在を屈託なく助け、愛することの出来る森の娘が、彼女らを守りきれなかったからといって、女王たるレーギーナを恨んでいたとは思えない。
むしろ、自分たちがいなくなっても生きてほしいと、絶望しないでほしいと思っていたはずだ。自分たちを愛してくれた存在の、揺るがぬ幸いを願っていたはずだ。
――それを受け入れられないのは、きっと、レーギーナ自身が、激しく自分を責めているからなのだろう。
「黙りなさい!」
ブラックウッドの言葉は、レーギーナの逆鱗に触れたようだった。
レーギーナの厳しい拒絶、厳しい断絶とともに、木々が四人を拘束する力を強めた。
バッキーを飼っているという以外はごくごく普通の人間である結衣が小さく悲鳴を上げ、さすがに鎮も息を詰める。今やそれは、呼吸を妨げられるほどにきつくなっていた。
「あなたたちにわたくしの何が判るというの。森の娘たちはわたくしのすべてだった。あの子たちを守るためだけにわたくしが存在していたの。それを失った今、わたくしを縛るものは何もないのよ」
エメラルドの双眸が、耐え難い哀しみと憎悪を含んでゆれる。
その憎悪は、あるいは、彼女の娘たちを不幸に追いやった男たちよりへ、というよりは、ただ、無力な自分に向けられたものであったかもしれない。
「もういいわ、無為なおしゃべりにももう飽きた。わたくしは魔になりきりましょう、あなたたちを初めの犠牲として」
言ったレーギーナが両手を広げると、森の木々が、葉が、それに同意するかのようにざわざわとざわめいた。
そして、同じ系統の能力を持つがゆえに、精力を奪う類いの力には耐性のあるブラックウッド以外の身体から、はっきりとした脱力感、苦痛すら伴うそれとともに、致命的に大切な何かが抜け出してゆく。
結衣の、鎮の顔がさっと青褪めた。
悲鳴を堪えるように食いしばった歯の隙間から、弱々しい呼気が漏れる。
「くっそ……!」
レックスはぎりぎりと歯噛みをする。
――森の女王を憐れに思う。
救えるものなら救ってやりたいと思う、心の底から。
だが、結衣の、妹分の安全がかかるとなれば話は別だ。
身体からエネルギーが吸い取られてゆくのが判ったが、彼は強力なミュータントだ。それほど簡単に、すべてを奪い尽くされはしない。
あとで結衣に罵られる覚悟を決め、レックスは身体に力を込めた。
そして、叫ぶ。
「もうやめろ、こんなことは!」
レーギーナが微笑む。
断絶を込めて。
だが、レックスは怯まない。
「こっちに来て、心から喜びを味わったことがあるか? 自分とあからさまに向き合ったことはあるか? 何故自分を閉ざす。何故、弱い自分を拒む! 受け入れろよ、女王様! あんたの娘たちだって、それを望んでいるはずだ!」
鋭い言葉とともに、レックスは自分の周囲に強烈な風を創り出した。不可解な、刺青のような痣が、彼の身体に浮かび上がる。
ゴウッ、という轟音とともに、叩きつけられるように渦巻いたそれは、彼や結衣、同行者たちを縛めていた鞭のような枝を散り散りに吹き飛ばし、彼らを自由にした。
しかし、なおも自分たちを捕えようとする枝に眼差しを厳しくしたレックスは、
「何があったって、結衣に手は出させねぇ!」
その言葉とともに、レーギーナ目がけて風の刃を撃ち放つ。
「レックス、駄目……ッ!」
息を飲んだ結衣がレックスを制止するが、風の刃はすでに、レーギーナを切り裂かんと殺到するところだった。
――本当は、レックスは、避けるだろうと思っていたのだ、彼女が。
森が、彼女を守るだろうとも思っていたのだ。
断じて、傷つけてやろうと放った力ではなかった。牽制の意味をこめての攻撃だった。
ただ、彼女が彼女の娘たちを守りたかったように、彼もまた、『家族』を守りたかっただけなのだ。
しかし。
自分目がけて飛来する強い力に、澄んだ双眸を向けた彼女は、
「!? れ……!」
無垢なほどやわらかく微笑み、そして、目を閉じた。
――それをこそ望んでいたのだと、言わんばかりに。
結衣は思わず目を瞑った。
レックスが、自分を守るためにそれをしたのだと判っていたから、彼を責めることも出来なかった。
哀しい、恐ろしい結末を脳裏に思い描きながら目をあけた結衣は、
「……何故……」
呆然とつぶやく、森の女王の姿を目にすることとなった。
結衣は、安堵の溜め息を吐くと同時に、
「ぶ……ブラックウッドさん……」
女王を守った男の名を小さく呼んだ。
レーギーナの前に立ちはだかり、風の刃をすべて受けたブラックウッドは、死人ゆえに血を流すわけではなかったが、ずたずたに切り裂かれた黒い衣装と、乱れた髪とが、痛々しい印象を与えている。
もっとも、それはどこか妖艶でもあった。
予期せぬ出来事に硬直するレーギーナの手を、ブラックウッドが恭しく取った。それから、敬意と親愛の情を込めてその場にひざまずき、偽りのない真摯な眼差しで彼女を見上げる。
「貴女の心が血を流していることが、私に判らぬとでもお思いかね。だとすれば、見くびられたものだ」
言葉とは裏腹に、その声は優しかった。
ブラックウッドが、まさに貴婦人にするような恭しさで、彼女の手の甲に口づけると、
「何故、わたくしを」
震える声が再度問いかける。
ブラックウッドは首を横に振った。
それが彼の選択、彼の示し得た十全の善意だった。
「答えが必要かね」
「……」
「私はあなたに苦しんでほしくなどないのだ、気高い女王よ」
「いいえ……わたくしは女王などではないわ。守るべき民を守れなかった、無力で愚かなただの魔よ。だから、早く」
だから早く、なんだったのか、彼女がその次を口にすることはなかった。
三十分が過ぎ、徐々にロケーションエリアが晴れてゆく中、ピリリッ、と、不相応なほどに明るい電子音が響いたのだ。
「え?」
「なんだ、ケータイか?」
きょろきょろと周囲を見渡す結衣とレックスの背後で、鎮が携帯電話の画面を開いている。
そして、にっこりと笑った。
「レーギーナさん。まだ、絶望するのは早いってことを、証明しましょう」
言った鎮が、携帯電話の通話ボタンを押し、ブラックウッドに目配せをする。
ブラックウッドは頷き、貴婦人をエスコートする手つきで、レーギーナの繊手を取った。
眉をひそめた彼女を誘って、すでにすっかりバーへと戻った空間を歩いてゆく。出口に向かって。
その後ろに鎮が続き、何があったのか判らない風情で顔を見合わせた結衣とレックスも、その『何か』を確かめるべく、三人のあとを追う。
何にせよ、もう大丈夫だ、という気はしていた。
外へ出た瞬間、レーギーナが息を飲んだのが判った。
同時に、悲鳴のような歓喜の声がいくつも上がる。
「レジィさま!」
「お姐さま……ッ!」
「ご無事だったのね、よかった!」
上がった声は、どれもが、この世のものとも思えぬほど美しかった。
そこには七人の娘たちがいた。
顔立ちは様々だったが、七人が七人とも、蜂蜜のような黄金の髪と、エメラルドのような鮮やかな翠の目、そして尖った耳を持っていた。
娘たちは、この世の女とは思えぬほど、たおやかで美しかった。
森の女王が、半ば呆然と娘たちに近づくと、涙混じりに名を呼んだ娘たちが彼女を取り囲む。
「リーリウム、イーリス、ニュンパエア、マグノーリア。ラウルス、サリクス、クエルクス。お前たち、無事だったの……」
ひとりひとりの名を呼び、頬や手に触れて、レーギーナが言うと、リーリウムと呼ばれた乙女が背後を指差してみせた。
「はい、こちらへ実体化して以降、私たちはずっと森にいたんです。だって私たち、レジィさまがいなくては何も出来ないんですもの。そしたら、彼が、呼びに来てくれて、ここまで連れてきてくれました。レジィさまに会わせてくれるって」
リーリウムの繊指が指す先には、疲労困憊といった風情の唯瑞貴の姿がある。葉っぱや木の枝を、髪や身体にまといつかせて、オルトロスの身体にもたれてぐったりしていた彼だが、片手を挙げた鎮が、
「ご苦労さま、唯瑞貴さん。ぐっじょぶ!」
言いつつ、ぐっと親指を立ててみせると、苦笑とともに同じ仕草をした。
「……苦労させられた。杵間山全域を走り回った」
「うん、だろうと思った。ハラハラしたよ、本当に。でも、唯瑞貴さんにしかできなかっただろうね」
「褒め言葉と受け取っておくか」
飄々とした会話を交わすふたりに、もはや敵意をすっかり失ったレーギーナが問いかける。
「……どういうことなのか、お尋ねしてもいいかしら」
鎮は肩をすくめた。
「いや、うん、半分は勘、かな。半分は希望。死んだはずの登場人物でも実体化するでしょう、ここ。だから、もしかしたら、って。それで、唯瑞貴さんとオルトロス君に、銀二さんの服についていた匂いとよく似た匂いの人を探してくれって頼んでみたんだ」
「……勘、だったの」
「うん、だって、そうでないとあなたを本当に退治しなくちゃいけなくなるでしょう。僕は、それは嫌だなぁと思って」
「薄野君にそれを聞いたときは突拍子もない、と思ったけれどね。本当によかった、あなたがまた愛する娘たちと出会えて」
「っていうか唯瑞貴さん、ちょっと遅すぎだよ。こっちは危うくスプラッタシーンが展開されるところだったんだよ?」
「……それはすまん。あなたに借りたケイタイデンワというやつの使い方がいまいち判らなくて苦労していた」
「うわ、そっちかよ!」
ファンタジー映画系のムービースターはそういうとこ弱いよね、と笑ったあと、鎮はいたずらっぽく笑ってレーギーナを見遣った。
「ねえ、もうこれでいいことにしませんか」
「……え?」
「あなたの可愛い娘たちを無茶苦茶にしたのも男だけど、助けたのも男だよ。僕も、ブラックウッドさんも、レックスさんも、銀二さんも、唯瑞貴さんも。僕たちがいなければ、レーギーナさんは娘さんたちと再会できなかったし、娘さんたちも危険にさらされてたかもしれないよね」
「……」
「男って確かに身勝手で、どうしようもない生き物だけど、全部が全部そうじゃないって、もう判ったんじゃないかな」
冗談めかした、しかし、有無を言わせぬ物言いに、鎮の思惑を理解して、森の女王が苦笑する。彼は、憎しみを消すのではなく、これ以上彼女が男という生き物を憎めなくしようとしたのだ。
そしてそれは、果たされた。
森の娘たちが帰って来た以上、彼女は、復讐よりも先に、女王としての己を全うするしかないのだ。
その責務は、しかし、光と希望と幸福に満ちていた。
娘たちがこうしていてくれれば、レーギーナは、これ以上自分を責めることなく、前を向いて生きることが出来るだろう。
「……ええ」
レーギーナは頷く。
その身体を、森の娘たちが抱き締めた。
「ひどい目に遭わせてしまった皆さんには、後日お詫びに行くわ。対策課にも、きちんと謝罪しに行きましょう。罪を償う必要があるのなら、喜んで」
娘たちに埋もれながらきっぱりと言うレーギーナに、鎮はブラックウッド、結衣、レックス、唯瑞貴の順番に顔を見合わせ、それから肩をすくめた。
「多分、大丈夫だと思うな。だってレーギーナさん、誰も殺してないでしょう。謝りに行けば、きっと皆許してくれるよ。だってここは銀幕市だからね」
「私もそう思います、レーギーナさん! 絶対大丈夫ですよ! あ、ほらレックス! ちゃんと謝っておきなさいよ!」
「う……わぁってるよ。その……すまねぇ。つい、カッとなって」
「あなたとあなたの娘たちが、末永く幸いであるように祈るよ、薔薇の君」
口々にかけられる言葉に、レーギーナはほんの一瞬瞑目し、
「……ありがとう。人間の善意に感謝します」
すべての負を吹っ切るがごとく、まるで大輪の薔薇が開くかのような、心の底と誰もが判るだろう、晴れやかで華やかな笑みを咲かせた。周囲がにおい立つような、胸に迫る笑みだった。
その美しさに、――否、それよりも、ただ本当の幸せを取り戻した彼女の姿に、四人もまた裏表のない顔で笑う。
そして胸を撫で下ろすのだ。
哀しみに囚われていた美しい女王が、身食いの悲嘆に食い尽くされることなく、光ある未来に向かって踏み出せたことに。
レーギーナが、七人の美しい乙女を伴って、八之銀二の病室を訪れたのは次の日のことだった。
いまだ意識が戻らず、友人や病院関係者をやきもきさせていた彼に、七人の娘たちがしなやかな繊手を添え、
「……あなたの善意に感謝します」
「どうか、森の娘の祝福をお受けになって」
「森の力が、あなたを癒しますように」
彼女らの言葉とともに、その、まだ血の気を失ったままの両頬を、白い手で包み込んだレーギーナが、彼の額にそっと口づけると、
「ん……?」
唐突過ぎるほど唐突に銀二は目を明けた。
森の娘たちが歓声を上げ、レーギーナは微笑む。
来るなというメッセージを完全に無視して見舞いに来ていた四人も、安堵の溜め息をついたあと、無茶ばかりする義侠の男に向かうと、腹いせを込めて見舞いの果物を投げつけた。
林檎やオレンジやバナナが宙を飛び、
「痛ッ!」
地味に顔面を直撃された銀二が顔を押さえて呻く。
――明るい笑い声が弾けた。
やがて顔を上げた銀二が、強面に満足げな色彩を載せて頷くと、同じ事件を共有したものとしての感慨を含んで四人も頷き返し、レーギーナと森の娘たちは深々とお辞儀をした。
とても明るい、ひどく日差しがやさしい日の午後のことだった。
そしてこれ以降、銀幕市には、この世のものとも思えぬ美しい娘たちがウェイトレスを勤める、美しい庭園を髣髴とさせるカフェがオープンし、オーナーでありお茶を淹れる名人でもある絶世の美女ともども、地域に愛されることとなる。
そのカフェの名は、楽園、といった。
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クリエイターコメント | こんにちは。 またしてもぎりぎりとなってしまいましたが、『女の矜持、男の意気地』をお届けいたします。
PC様のご参加と素敵なプレイングに感謝するとともに、その結末を見届けてくださった皆様に深く御礼申し上げます。
参加者の皆様の温かい思い、真摯なお言葉のお陰で、森の女王はなんとか『こちら側』にとどまることが出来ました。以降、また、どこかでお会いすることもあるかもしれません。
彼女の思いが、これを読んでくださった皆さんの心に、少しでも何か残せれば幸いです。
それでは、また、次なるシナリオでお会いしましょう。皆様、よいお年をお迎えくださいませ。 |
公開日時 | 2006-12-30(土) 00:10 |
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