★ ラストシーン ★



 6月13日。そろそろ日付が変わるだろうか。いや、まだ、あと1時間はあるだろうか。
 とにもかくにも、今日が最後の日、おしまいの日。
 あの戦いの日に、夢中になってリオネが命じた、魔法の終わり。人にも、ムービースターにも、魔法が消えゆく過程を体感することはできなかった。おだやかでありがちな、初夏の始まりの日々が続いている。銀幕市の人々が、どんなにどぎまぎしながら日々を過ごしても、世界はそ知らぬ顔なのだ――。そ知らぬ顔で、バランスを修復しようとしている。
 リオネは大人になってからずっと、眠っていない。睡眠も食事も必要ない存在になった。彼女は眠らず、ずっと、見ている。杵間山で。柊邸の跡地で。ベイサイドホテルがあった場所で。星砂海岸を歩きながら、綺羅星学園の校内をも見る。パニックシネマの屋上で、そして、銀幕市立中央病院の病室の中で。彼女は一箇所に留まったまま、あらゆる場所を同時に見ることができた。
 神というのは、そんなものだ。時間と距離さえ、神の前では夢とまぼろしのようなもの。
 ふいに、彼女の手元に、虹色に輝く小箱が現れた。
「……帰りましょう。さあ、あなたたちも、皆さんに……お別れを」
 神の手は、箱の蓋を開けた。



「柊君」
 ウイスキー入りのタンブラーグラスを置いて、マルパス・ダライェルは言った。
「私を演じた俳優は亡くなっているそうだな」
「ええ。3年……いえ、4年前になりますかね」
「ずっと疑問に思っていたことがある。答えの出ない疑問だがね。我々ムービースターは、死ねばどうなるのかということだ」
 椅子の背もたれに深く背を預けて、黒衣の総司令官はわずかに微笑んでいるように見えた。
「我々は生物ではない。魂があるのかどうかもさだかではない。東博士によると、未知のエネルギーの集合体だそうだ。しかし魂があると仮定するならば、フィルムになったとき、我々はどこに行くのだろうな。数々の宗教が存在を唱える『あの世』だろうか? それとも、まったくの無に還るのか? 映画の中に戻るということ、これはありえないと断言できる。我々は映画の中から抜け出してきたわけではないからだ。『スターフォウル』を観れば、私は変わらずあの映画とドラマの中にいる――」
「……」
「すまない。わかるはずもないな。人間でさえ、死後に自分がどうなるのかを知らないのだから。……酔ってしまったようだ。もう、飲むのはやめにしよう」
 マルパスは微笑んだまま、テーブルの上のタンブラーを見つめた。
「世話になったな、柊君」
「そんな! とんでもありません。お世話になったのは、私のほうです。あなたは私ばかりではなく、銀幕市のために力を尽くしてくれました。何の見返りも求めなかった。どうしてそこまでしてくれるのかわからないくらいに、あなたは……あなたがたは」
「我々はもともと、きみたちのために、きみたちによって、生まれてきたのだよ。きみたちがいなければ、我々も存在しなかった。ここには座っていないし、こうして酒も飲んでいない」
 そこでマルパスは、大きく息を吸って、大きなため息をついた。そして、いつもかぶっていた軍帽を脱ぎ、テーブルの上に置いた。
「また明日会おう。柊君」
「え?」
「おやすみ」
 そのとき、ホテルの廊下で、女の悲鳴じみた泣き声が上がった。柊は思わずドアのほうを見た。しばらく、もそもそと男女数人が話している気配があったが、すぐに静かになった。
 明日会おう。
 マルパスの言葉の真意を尋ねようと、柊が向かいの椅子に目を戻したとき――
 もう、そこに、マルパス・ダライェルはいなかった。
 テーブルの上には、あとふた口ぶんのウイスキーとロックアイスが入ったタンブラー。黒い軍帽。そして、一巻のプレミアフィルム。
「マルパス」
 電話が鳴った。
「マルパス、ありがとう」
 電話が鳴っている。
「ありがとう。今まで本当に。本当にありがとう。司令、本当に……」
 電話が鳴り続けていた。


 今日は、絶対に眠らない。
 魔法が終わる瞬間を、この目で見届けてやるのだ。ちゃんと記録にも残してやる。そう固く誓いながら、浦安映人は上着を着こんで、外でカメラを手に街中を歩き回っていた。6月13日が始まってから、ほとんど不眠不休だ。足はすっかり棒になっていて関節は言うことを聞いてくれないし、しっかり着込んだつもりだったのにまだ足りなかったらしい。それとも、今夜はとりわけ冷えるのか。寒くてたまらず、意識が朦朧とし始めていた。
 深夜の銀幕広場は、静まりかえっている。
 今日一日は、昼間の銀幕広場も静かだった気がした。誰もが息さえ殺しているようで。
 リオネは、今日が、終わりの日だと言っていたから。
 いつ終わりが来るのかわからないまま、びくびくしながら暮らすより、よかったのだろうか。けれど、事前に終わりを知らされていたとしても、結局みんな、緊張しながら、涙を流しながら、笑いながら、『いつもとは違う日』を過ごさねばならなかった。映人はいろんな仕事現場や、市役所対策課にも足を運んだ。今日が土日でなかったとしても、学校はサボっていただろう。同じ考えだった人も多いにちがいない。映人が映像におさめてきた人々は、みんな、どこかうわの空だった。
 どこか遠い国から、日本めがけて核が発射されました。ミサイルの到達は6月13日。防ぐ手立てはありません。それまで、心安らかな日々を。皆さん、さようなら。
 そう言われたときと、さほど変わらない一日だったのではないか。ムービースターは消え、ムービーハザードも消え、リオネとバッキーとタナトスの兵たちはいなくなる。
 映人は、寒さと疲れで震える手で、ビデオの録画を停めて、再生モードに切り替えた。
 今日一日で何十枚の記録メディアを使っただろう。このカードで最初に映したのは、悪役会事務所だった。つい数時間前の出来事のはずなのに、まるで何年も前の思い出のように感じられる。
『あーあ……。なんだか眠くなってきちゃったわ。ねえ親分、この事務所って寝るところないの?』
『そこのソファーくらいやな』
『ムードもへったくれもないじゃない』
 レディMと竹川導次だ。導次が言うソファーには、導次の取り巻きのチンピラがひとり、大またを広げて座って、口を開けて眠っている。
『オイ、ボウズ』
『は、はい!?』
『奥の金庫に極上のシャンパン入っとんのや。取ってきてくれんか。ボウズにも飲ましたるさかい』
『自分で持ってくればいいのに。それに彼、まだ未成年よ』
『かたいこと言うなや』
『わ、わかりました。えーと、金庫……』
『番号は0893や』
『はい。あ、あの』
『あ?』
『シャンパン取って戻ってきたら、その……もういないとか、そういうお約束はやめてくださいよ……』
 導次とレディMはきょとんとして、顔を見合わせて、……大笑いした。
『手下に飲まれんように金庫に隠しとった酒やぞ。飲むまで消えられるかい!』
 ははははは。あははははは……。
 映像がぼやけて、見えなくなった。映人は自分が涙を流していることにも気づかないで、泣いていた。ごしごしとカメラの液晶をこすりながら。液晶が汚れたわけではないのに。それがわかっているような気もするのに。
『あら、おいしい』
『おう、うまいな』
『ち、ちょっとキツイです……』
 そう、びくびくしながら金庫を開けて、シャンパンを持って戻っても、まだ導次とレディMはいたのだ。レディMが栓を抜き、グラスに注いで……。約束どおり、未成年の映人もご相伴に預かって……。
『もう行かなくちゃ。ごちそうさまぁ』
 レディMが、腰かけていた導次の机から降りる。
『え、どこへ?』
『行くのよ。じゃあね。また会いましょう』
 ウインクを残し、すたすたと、彼女は事務所を出て行く。確か事務所の横に、ぴかぴかのカワサキが停まっていたはずだ。あれは彼女のバイクだったのか。
『ま、待って……どこへ……』
 映人は慌てて彼女の後を追う。
 乱れる映像の中、導次が大きく紫煙を吐いている様子が、ほんの一瞬映っていた。そして、カメラは外へ。停められたバイクへ。
『レ、レディM?』
 バイクは停まっているけれど、そこに女スパイの姿はない。
『レディ――』
 座席の上に乗っていたフルフェイスのヘルメットを、映人は手に取った。どうしてそれを手に取ろうと思ったのか、記録された映像を見ている映人にもわからない。ただ、ヘルメットの下に、……フィルムがあったのだ。一巻のプレミアフィルムが。
『……!』
 息を呑む自分の音に、映人は息を呑む。映人は事務所の中に飛び込んだ。
 竹川導次も、いなくなっていた。ソファーで居眠りしていたチンピラも。
 デスクの上には、シャンパンが入ったグラスが3つ。灰皿に載せられた煙管。そして、プレミアフィルム。
 ここで自分は叫び声を上げて、泣き出すはずだ。映人はその絶叫を迎える覚悟をした。自分はどんな情けない声を上げたのだろう。それすら受け止めねばならないのだろうか。
 だが、動画がそこに到達する前に――いきなり、肩の上に乗っていた彼のバッキーが、地面に飛び降りたのだった。
「な、なんだよ。どうした、AD?」
 サニーデイのバッキーは、ふるりと濡れた犬のように身震いしてから、空を見た。
 映人もつられて、空を見る。
「うぉ……、えぇ……っ……?」
 空では、虹色の渦がきらめいていた。そして光り輝くパステルカラーの球体が、市内から空の渦に向かってのぼっていく。球体は空の渦に吸い込まれ、消えていくのだ。虹色の雨が、地上から空へ降っていくかのような光景だ。
「え……AD!」
 空へ飛んでいくパステルカラー。きれいな飴玉のようにも見えるその色は、バッキーなのだ。映人のバッキーも、ふわりとパステルブルーの光に包まれ、地面から浮き上がった。
「い、行っちまうのか?」
 こくり、とバッキーは頷いた。
 映人は手を伸ばした。どうにもならないことはわかっていた。笑ってお別れを言うことが、どんなに難しいかは、今わかった。ぼろぼろ涙を流しながら、何を言ったのか……。
 光の中で、バッキーはあのとぼけた顔のまま、短い右手を上げて、ふよふよ振った。

 バイバイ。
 それじゃ。
 さようなら。

 ぽひゅん、と少しばかり間の抜けた音を立てて、映人のバッキーも虹の渦に向かって飛んでいった。地上から見送るバッキーの姿は、見る見るうちに小さくなって、空を飛び回る無数の飴玉の中に混じってしまった。
「AD! ……みんな!」
 リオネだ、リオネの顔が見えた。一瞬、映人の目には、夢の女神の顔が見えた。女神は虹色の瞳から、銀色に光る涙をこぼして、かたちのいい唇を開いていた。

 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 私が魔法なんかをかけたから――
 皆が、流す必要のなかった涙を流している。
 ごめんなさい。
 本当に、今、ようやく、私は理解しました。
 私が、どんなにひどいことをしたか。
 ごめんなさい。
 皆が、悲しい涙を、よけいに流すはめになったのは、私のせい。
 皆が、悲しい別れの記憶を、よけいに残すはめになったのは、私のせい。
 私は、なんて恐ろしいことを――
 夢を与えるべき者が、一度見せた夢を奪っていくなんて――
 ごめんなさい。
 だからせめて、残していきます。残していかなければなりません。
 私が犯した過ちのすべてを……皆が、決して忘れることのないように……。
 私の罪は、皆が生きて記憶しているかぎり、ずっと地上に残ります。
 大人になること、すべてを見届けて涙を流すこと。
 この程度で、罪が償われたなんて思いたくない。
 私はずっとずっと、皆から罰を受けて、生きていきます。
 ごめんなさい。
 本当に、ひどいことをしたんです。
 ごめんなさい。

「ごめんなさい……」
 リオネは、泣きじゃくりながら箱の蓋を閉じた。箱の中には、飴玉のようなものがぎっしり詰まっていた。
 がくりと膝をついた夢の女神の背後に、死の神の尖兵が三柱、音もなく立つ。
『参りましょう』
 黄金のミダスが、静かに終わりを告げた。


 さようなら。


 杵間山からは、神獣の森が消える。この世のものではない獣のいななきが、霧笛のように尾を引いて消える。
 海上からは、ダイノランドが消える。太古の昔に滅びた恐竜は、果たしてあんな遠吠えをしていたのだろうか……。
 平成の日本の街にはそぐわない、神殿、美しい門、今にも殺人が起きそうな古い洋館、海賊船、不思議な小道具が並ぶ雑貨店、失われた文字による古書が詰まった書店、硝煙の匂いがする事務所が……消える。
 その場に人がいたのなら、ひらひらとレースのカーテンが風にはためくような、かすかな音を聞いただろう。そんなささやかな音を立て、魔法の場所は消えていく。


 さようなら。
 また、あした。


 机の上に、椅子の上に、大切な人のとなりに、床に。
 人が気づいたときには、フィルムがあった。
「さようなら……」
 誰かが、誰かに、別れを告げる。
「さようなら、    」



★ ★ ★


「――」

「――さようなら――」

 息を呑んで、彼女はまぶたを開ける。
 こんな……、こんな、真夜中に。
 もう一度目を閉じて、息を吸う。
 目じりから、押し出された涙がこぼれ落ちる。
 枕元に、銀色の髪の、若い女神が立っているのを見た。
「ありがとう。……ありがとう」
 うわ言のように、自然と出てきたお礼のことば。
 それを聞いて、女神は虹色の目を見張り、かぶりを振った。
 泣きながら。
 礼を言ってはいけないとでもいうように。
 礼など受け取れないとでもいいたげに。
「ほんとに、ありがとう」
 そして彼女は、また目を閉じる。
「さようなら……」

★ ★ ★


「……!」
 浦安映人は、飛び起きた。
 ひどい悪夢にうなされていたのか、跳ね除けた布団と身体の下にあるシーツが湿っている。手のひらも、額も、首筋も、汗びっしょりだ。
 いや、確かに、夢をみた。妙な夢だ。今日の今日にみた夢でなければ、ヘンな夢だと言って笑い飛ばせるような夢。

 マルパス、レディM、竹川導次、その他にも、無数の映画の登場人物が、現れては消えていく夢。彼らは仲間に、「どこに行っていたんだ」「探していたんだ」と問い詰められていた。彼らが必要だった肝心なときに、突然行方をくらませたらしい。敵が攻めてくる前夜、もしくは世界が明日破滅しそうだというとき、あるいは大事な計画を動かす号令を待っていたときに。
 彼らは微笑し、詫びてから、短く答える。
「銀幕市だ」と。
「銀幕市に行っていたんだ」と。

 呆然として、映人はあたりを見回した。自分の部屋だ。枕元の目覚まし時計は、午前9時を指していた。6月14日の、午前9時を。
 すべての終わりを見届けるまで、自分は家に帰らないつもりだったし、眠るつもりもなかった。だが、どこをどうやって帰ってきたのかもさだかではないのに、自分は自分のいつもの寝床で、ぐっすり数時間眠ったらしい。
 カーテンを開け、映人は窓の外を見る。
 自衛隊のトラックが何台も、ぞろぞろと通りを走っていくのが見えた。
 乗用車が、自転車が、通行人が、当たり前のように道を行く。
 取り立てて静かな朝でもない。普通の……普通の、朝。
 そしてようやく、映人は、両目が腫れていて、まともに開かないことに気がついた。
 泣けるくらいの『夢』は、もう、終わったのだ。
 何気なく目をやった卓上カレンダーに、赤い丸印がついていた。6月14日の日付が、ぐるぐると執拗に赤いペンで囲まれている。それは、何ヶ月も前に映人がつけた印だった。世界的な注目を浴びている大作映画が、今日、世界で同時に封切されるのだ。日本でも、確か渋谷あたりで盛大な上映会が行われる。旬の芸人やタレント、かわいいアイドルをゲストに迎えて。たくさんの人々に歓迎されながら。
 もちろん、ここ銀幕市でも、映画は観られる。
 消えてなくなってしまったのは魔法だけ。映画は、夢が始まる前から、夢が終わってもずっと、この銀幕市の中で生きている。

『また会いましょう』

 映人はその声を、思い出した。



――「エピローグ」(近日公開)へつづく――







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