「パパ!」
何が起きたかわからなかった。 突如として奇妙な浮遊感に包まれ、次いで光の球に呑まれて放逐される。 気付けば自分の体は0世界空域を漂っていた。 まわりには同じ状況のロストナンバー達が多数浮かんでいる。 背後に迫るのはロストレイル蟹座車両、戦場に似合わしく切迫した予祝の命の声が甲高く響く。 何を言ってるかわからない、光の膜壁に遮られて聞こえない。 ううん、聞こえないのは目の前の光景に完全に意識を奪われてるから? そっと手を触れた光の膜、シャボン玉のように脆く薄く見えるのに柔靭な弾力があってどんなに暴れても破れも割れもしない。
閉じ込められた。 出られない。
「パパ!」
どうして?
眼前に滞空するのは轟々と燃え盛るノエル叢雲。 世界樹旅団が持てる技術の粋を集め建造したバイキング船型巨大戦艦、それ単体でイグシストに匹敵すると畏れられた船舶が燃えている。
どす黒く煤けた空に火の粉舞う黙示録の情景。 手を伸ばせば届きそうなのに届かない。
どうして? パニックで真っ白になった脳裡に疑問が泡立つ。 どうして?やっと会えたのに、ゼシの事わかってくれたのに、ちゃんとお名前言えたのに。
どうして?
手にはまだ先刻のぬくもりと感触が残っている。 自分をしっかりと抱擁する手の感触をはっきりと覚えているのに、こうしている今も物凄い速度で遠ざかる船舶は、いくら行かないで行っちゃやだと駄々をこねても止まる気配がない。
シャボン玉をぶつ、殴る、くりかえし平手で叩く。 叩きながら崩れ落ちるように縋りついて、もう見えなくなってしまったノエル叢雲へと呼びかける。
その船を操る人物へ
「う……」
なんで?どうして? せっかく会えたのにどうして行っちゃうの、ゼシまだなんにも言ってない、大事なこと云えてない、言いたいことが沢山ありすぎて胸が押し塞がって喉にひっかかって出てきてくれなかったの
おうちに帰る前にやることがあるってパパは言った。 それが終わったら、ずっとずっと一緒にいてくれる? ずっとずっと一緒だって約束してくれる? もうひとりぼっちにしないって約束してくれる?
パパは約束を破ったりしないもん。
優しい魔法使いさんや優しい郵便屋さんがそう言ってくれた、ゼシのパパは本当は優しい人だって、だから諦めちゃだめだって背中を押してくれた。
だから
ポシェットの紐をぎゅっと握る。 本当はパパの写真、ちゃんと持ってる。 ママと一緒に撮った結婚式の写真、ふたりともおめかしして幸せそうに笑ってる。 おそろいの指輪を嵌めたママとパパ、世界でいちばん幸せそうな花嫁さんとお婿さん。 でも、世界でいちばん幸せなひとがふたりいるなんておかしいわ。 ゼシが前にそう言ったら、孤児院の先生がこう言ったの。
『ちがうわゼシカ。もしひとりだったら世界でいちばんしあわせにはなれないのよ』 『世界でいちばんしわせになりたかったら、自分のことを一番好きでいてくれるひとと一緒になるの。いちばんといちばんがくっつくから、世界で一番幸せになれるのよ』
まだ小さくて難しい単語がよくわからないゼシカの為に、先生は一つ一つ言葉を選びながらそう教えてくれた。
ターミナルで、ヴォロスで、ブルーインブルーで、インヤンガイで、モフトピアで、他の世界で。 行きかう人にパパを知りませんかと声をかけては邪魔にされて断られて、それでもへたっぴな似顔絵をしまわなかったのは、これがゼシのパパだからよ。
これが、この人が。 ゼシが心の中でずっとずっと思い描いていた、世界のはてまで追いかけた、たった一人のパパだから。
パパに会いたい気持ちとパパが大好きだという気持ちをありったけこめて、照れたように笑う写真の男の人を、真っ白な画用紙に描き写した。 クレヨンで肌や髪を塗りながら、まっすぐに心を入れた。
現実を切り取る写真より、人の心を通した絵の方が伝わる事がたくさんあると信じて。 一種の願掛け。 託したのは希望と憧憬。
漸く会えたと思ったのに。
「パパ……」
ママの形見の結婚指輪をぎゅっと握りしめ、臍の緒で繋がれた胎児のように小さく丸くなる。
やりたいことって何? それはゼシより大事なこと? 今、どうしてもやらなきゃいけないこと?
唇をきっと引き結び後から後からこみ上げる嗚咽を噛み殺すも、堪えきれず俯きしゃくりあげる。
なんで言えなかったのかな。 本屋さんに連れてってもらった絵本の中ではちゃんと言えたのに、何度も練習したのに。
「一緒におうちに帰ろう」
たったそれだけ。
「寂しいのも哀しいのも、これでおしまい」
頬を手挟んで、まっすぐ目を見て微笑んで、もう大丈夫だよと言ってあげたかった。 パパが悪い事したの、知ってる。 ゼシ、少しでもパパの事知りたくて、いっぱいお勉強してたくさん報告書を読んだの。 ナラゴニアが攻めてきて、パパがどこにいるのかわかって、パパがなにをしたのか聞いたの。
ブルーインブルーの偉い人に針を刺してファージに変えた。 世界司書さんを死なせた。 世界計を壊した。
謝っても許してもらえるかどうかわからない。 でも、どうせなにしても許してもらえないから謝らないのっておかしいわよね。 許してもらえなくても、償えなくても、やっぱり謝らなきゃいけないの。
だからゼシ、一緒に謝ってあげるつもりだった。 パパが怖くて一人で謝りに行けないなら、ついてってあげるつもりだったの。 叱られてる間じゅうぎゅっと手を握っててあげるつもりだったの。 もしちゃんとごめんなさいが言えたら、世界中のひとが他に誰も許さなくっても、ゼシカだけはよくできましたって頭をなでてあげるつもりだったの。
でも、待ちくたびれちゃった。
「パパ……」
またおいてけぼり。
「さみしいよ」
どうして連れてってくれなかったの? ゼシはそんなに邪魔だった?
もうおねえさんなのに。 いい子にしてるのに。 邪魔なんてしないのに。
「ばか……」
呟く。 刹那、堰を切ったように荒れ狂う激情が溢れ出す。 脳裡をぐるぐると巡るパパの顔、写真で見たまんまの少し困ったような笑顔に向かって思いつく限りの悪口をぶちまける。
「パパのばかばか、嫌いっ、だいっきらい!泣き虫弱虫自分勝手意気地なし、うそつき!!」
脳裡に浮かぶ顔が申し訳なさそうに歪んで胸が痛む、でもやめない、哀しそうなパパの顔に向かって震える声をぶつける。
「うそつき、うそばっかりついて!うんとうんとさみしかったのよ、とっても怖かったのよ、すっごく怖かったのにごめんなさいももらってない、皆にも言ってないでしょ、ママだってきっと天国でかんかんよ、どうしてすぐ迷子になるの大人のくせに、ゼシだって帰り道くらいわかるわよ!」
こんなに怒ったのは生まれて初めてかもしれない。 怒っているのに涙が止まらないのは何故だろう。 胸が苦しくて、叫んでも叫んでもつっかえがとれなくて、指が食い込むほど握り締めた指輪を熱を持つ額にあてがい、深く息を吸いこみー
誰かに呼ばれた気がして顔を上げた。
大粒の涙で潤んだ瞳が捉えたのは雲間から射し込む一条の光……
天使の階梯。
次第に広がる雲の切れ間から、濁り渦巻く瘴気を掃き清めるように光のかけらが降り注ぐ。
ゼンマイや針やネジ、不可思議に透き通った無数の機械部品が、仄かに発光しながら0世界へと降り注ぐ。
きらきらと、きらきらと。
歌のように。 レクイエムのように。
「……きれい……」
怒りも哀しみも忘れ、光の球越しの神秘的な情景に見とれる。 透明な球面に両手を添え、清浄な光充ち渡る遙か天の高みを仰ぎ、魅入られたように唇を動かす。
『Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are.
Up above the world so high, Like a diamond in the sky……』
きらめくエーテルを無垢に澄んだ青い瞳に映し、忘我の境地で途切れ途切れに口ずさむのは、孤児院で教わった童謡……『きらきら星』、冒頭の一節。
『Twinkle, twinkle, little star』
きらきら光る お空の星よ
『How I wonder what you are. Up above the world so high, Like a diamond in the sky……』
瞬きしては みんなを見てる……
羊水の揺り籠でまどろみながら聴いた母の子守歌と、ふくらみはじめたお腹をこの上なく愛おしげになでる男の人の手のぬくもりを思い出す。
遠い遠い記憶。 大事な記憶。
障壁を擦り抜けゼシカのもとへ届いた光の欠片が髪に触れて霧散する寸前、だれかに頭をなでられた気がした。
『Twinkle, twinkle, little star. How I wonder what you are……』
今にもかき消えそうな歌声を紡ぐ合間にも小刻みに唇が震え、すべらかな頬を伝い落ちた涙が足元で弾け散る。
『Like a diamond in the sky……』
聞いたことがある。 ダイヤモンドは灰からできてる。 大事な人が死んだら、その人を燃やした灰を固めてダイヤモンドを作ってもらうんだって。 その人を永遠に忘れない為に。
睫毛の先に宿った涙のせいで視界が淡く滲む。 虚空へとさしのべた手に豊穣な慈雨を受け、頬に彫り込まれた涙の跡を優しく慰撫するよう濡らされながら、ゆっくりと祈るように目を閉じる。
この天翔ける光の雨も、だれかの灰でできてるのかもしれない。
END |