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[56] 喪失の記憶
マスカダイン・F・ 羽空 (cntd1431) 2013-03-07(木) 23:00
どんな理由だったか、自分はよく遠く離れたその家に預けられていて、
幼少期、誰よりも共にいた記憶があるのは、祖母の顔だった。



自分が家に行くと、古びた平屋の玄関で迎える祖母は 満面に破顔して、
おいで、おいで、と、自分の頭をくしゃくしゃと撫でる。

窓の外はただ静かな緑が広がり、
人の喧噪より 鳥のさえずりや木の葉の揺れる音の方が多い。
二人きりで居るには幾分広過ぎる家だった。


祖母は大きなちゃぶ台の 真ん中の席に自分を座らせ、
どこからか甘いモノを  盆に山盛りのせて、目の前に置く。
いくらでもたべていいと言われ、それがおいしくて
夢のようにうれしかった。

幸福そうにお菓子をほおばる姿を注視する
慣れない視線がはずかしくて、
小さい自分は、俯き、口の中の甘さに夢中で噛ぶりつくばかりだった。


祖母は離れて暮らす母のことを大切に思っていた。 孫がいるというだけで、 もしくは家に小さな子どもがいるというだけで 嬉しかったのだろう。

お前は母親に似ているよ、と言われた事があった。
あまり周りには言われないことを言ってもらえて、嬉しかった。
祖母の目の奥は、深い海の緑をしていた。
祖母は、 かわいい、かわいいといって、自分の赤茶の頭をくしゃくしゃと撫でる。

祖母は常ににこにこと笑顔を絶やさなかった。
祖母はなんどでもご飯をくれた。
祖母は子供の自分と、いつまでも子供のように遊んでくれた。
祖母はよく自分を 母や祖父の名前で呼んだ。
好きな人と同じ名前で呼んでもらえることは、嬉しかった。



どんな理由だったか、ケガをして帰ったことがあった。
自分の身体を湿す重い液体などどうでもよかったが、
祖母は、かわいそうだ、かわいそうだといって、 まるで自分の事のように泣いた。
何が悲しいのかしばらく分からず、自分は訝しげな目で見るしかなかったが
赤い髪をぐしゃぐしゃと撫で、縋るように身体を慈しむ
シワの刻まれた手が 怪我なんかよりもうんと痛々しくて、
こんなに悲しませてしまうなら、 人の前で泣いたりしてはいけないと思った。
誰かの前で泣くのはよそう。
大切な人の前で泣くのはよそう。



家の中の、奥の一番静かな部屋の、
黒い箱の中の写真に手を合せる事が、祖母の毎日の日課だった。
写真の中で笑う男性は、  —「お爺ちゃん」とそう呼ぶにははばかるような、
祖母のその顔に刻まれた皺に対して 不釣り合いに若い。

煙い匂いの中、 真似をして手を合わせると
祖母はえらい、えらいといって また頭を撫でる。
それにまた気恥かしく、身を堅ばらせ、自分は口を喰いしばる。

—死んだ人間に想いを馳せる意味は解らない。
—ただ、その瞬間、腰の曲がった小さな祖母は静謐な聖職者のようになるのだ。
その姿が、少し寂しく、少し誇らしく、幽かに怖ろしくて、


どうしてお祈りするの?

そう言うと、祖母の祖父との昔話はいくらの時間でも続いた。
時代がかった単語を交えた話は、何を意味しているのか解らないことばかりだったが
にこにこと笑って話し続ける祖母の顔がただ嬉しくて、
自分はそれを遠い場所の素敵な御伽話のように聞きながら、
うつらうつらと、祖母の膝の上で眠るのだった。


いつからか、 どこかでこう思っていた。
いつかどこにも居場所がなくなっても、ボクには帰れる場所がある。




祖母が亡くなったのは、自分がまだ義務教育に上がらないうちである。


今現在覚えた言葉で言うと、 孤独死だった。



訪れた慣れた家のさいごの記憶は、人垣と喧噪に包まれた姿。

いつものちゃぶ台の周りは知らない人達で埋まっている。
慣れない匂いが強く立ち込め、お菓子の場所は分からない。よその家になってしまったようだ。


大人達の話す話はお金や難しい事ばかりで理解出来なかったが、
やがてこの家が壊される、というのだけはわかった。


親戚達の目はいつもどうり居心地が悪く、人目の群れから避けて、逃げるように
奥の部屋へと向かう。


馴染んだ空気に包まれ喧噪が遠くへ滲む。
いつもの、黒い扉のある部屋だった。

木の葉の揺れる音や鳥のさえずり、こんな日まで窓の外は不躾に静かだ。

いつもの部屋、
いつもの家の中、使う主を失った
置いていかれた物たちが 寂しそうに鎮座している。

ほのかに残るいつもの煙い香りが落ち着いた。

その中に一人、座り込む。


祖母のいつも座っていた場所には、白い箱が置かれている。
ソレは、明かりのない暗い部屋で発光しているかのように 不自然に存在していた。


—死んだ人間に想いを馳せる意味は解らない
—だってただのモノじゃないか



音のない部屋、時が止まった部屋。


写真の中では男性が笑っている。


黒い扉の前で物言わぬ白い箱が、届かぬ日差しに灰色に照らされている。


置いていかれた物達。


音を失くした部屋。


時が止まった部屋。


写真の中では男性が笑っている。


置いていかれた物達。


音を失くした部屋。


時が止まった部屋。


写真の中では男性が笑っている。


置いていかれた物達。


時が止まった部屋。


写真の中で笑うだけの男。


黒い扉。


物言わぬ白い箱。


時が止まった部屋。


写真。


笑顔。


時が止まった部屋。


時が止まった部屋。


部屋。


物。


自分。


物。


黒。


灰色。


白。


箱。


箱、


黒い扉の前で物言わぬ白い箱が、届かぬ日差しに灰色に照らされている


ふと思った。
ボクがいない間、祖母はずっとこの家でこうして過ごしていたのだろうか。



黒い扉、笑顔。灰色の日差し、物言わぬ白い箱、時が止まった部屋、
置いていかれた物達、時が止まった部屋。笑顔。たくさんのお菓子、笑顔。頭に触れる微細い手、終わらない話、膝の上で眠ったこと、笑顔
たくさんのお菓子、小さな背中、しわくちゃの手と、涙、 笑顔



言い忘れた事がある。
言い忘れた事がたくさんある。


突き立てられるように感情が堰を切り、
祖母の入ったその箱へと立ち上がり駆け寄った。
話しの下手な自分には、言うべき言葉が出てこない。


神様のつかいに貰ったお婆ちゃんの名前はややこしくなってしまって
難しくって今の自分にはもう呼ぶことができない。
だから、 せめて、

解き方のわからない結び目を力づくで必死で解いて、
滑稽な形の壷の蓋をしがみつくように開けた。

今まで人を支えていた細い柱は、しろくて、嘘のように軽くて、花のようにもろくて、手を伸ばし掴むと


幼い自分のわずかな力でぱきりと砕けた。



それがとても白くて、 灰色に照らされていたので、





それが一番最初の記憶で、

永い事、忘れていた話だ。

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