人は誰しも悩みを抱えている。人の数だけ悩みがあれば、中には他人に理解してもらえない悩みもある。舞原絵奈の抱えている悩みも、そういう類いの一つだった。 カフェでテーブルに突っ伏し、絵奈は大きなため息をつく。 新しい服、ほしいなぁ。 年頃の少女にとってごく自然な思い。それを妨げる原因は、彼女の豊かな胸元にある。 絵奈は体格はこそ標準的ながら、胸だけはEカップというアンバランスなボリュームを誇っていた。 絵奈はそれをうとましく思っていた。重くて邪魔だし、ゆれたりぶつかったりして痛い思いをする事もある。行儀の悪い今の姿勢だって、テーブルに胸を乗せておけば多少は肩が軽くなる、という生々しい理由があるのだ。 先日、発明家の友人に「胸を小さくする機械とか薬ってないですか?」と軽い気持ちで相談したところ、なぜか彼女は激怒した。合理性を旨とするはずの友人の豹変ぶりに絵奈は戸惑った。 胸なんて大きくても、いいことなんか何もない。 実体験に基づいて絵奈はそう言っているのに、周りの友人たちは贅沢だの自慢だの嫌味だのと言って、まともに取り合ってくれない。 この件に関して、絵奈は孤立無援だった。 「落とし物よ」 そんなことを考えていたから、軽く肩を叩かれるまで、絵奈はそれが自分にかけられた声だと気づかなかった。 はっと気づいて顔を上げると、黒いメイド服姿の女性が困ったような顔で立っていた。 「ハイユさん? 落とし物って……?」 「こーれ」 絵奈の目の前に、ハイユ・ティップラルは何か小さなものを差し出して見せる。 よく見るとボタンだった。 絵奈の心臓が驚きで跳ね上がる。あわててシャツの前を確認すると、ボタンは全部付いていた。ハイユがげらげら笑い出す。 「違ったか。でもシャツのボタンが飛ぶって巨乳あるあるよねー」 「笑い事じゃないですよ」 絵奈は顔を真っ赤にしてむくれた。ハイユは勝手に絵奈の向かいの席に座り、 「で? なんでそんな暗い顔してるん?」 そう聞かれて絵奈は、ハイユさんなら分かってくれるかもしれない、と思った。着崩されたメイド服の胸元は、絵奈よりもさらに上の推定Fカップ。色々な面で大人だし、何かいいアドバイスをくれるかも。 「……ショッピングに行ったんですけど、好きなデザインでサイズの合う服が見つからなくて」 「お姉さんその話詳しく聞きたいな。どこのサイズが合わなかったの?」 ハイユが不吉に目を輝かせた。 「き、聞かなくてもわかるじゃないですか!」 「分からないから聞いてるのよ?」 絵奈は渋々、小声で答える。 「……胸、回り、です……」 好色そうな笑みを浮かべたハイユが何か言う前に、絵奈は急いで聞いた。 「あの、ハイユさんは服のサイズで困ったりしないですか?」 「胸で? ん~、あたしこのメイド服しか着ないからな。きついっちゃきついけど、そのへんは慣れで」 「そうですか……」 あまり実になる話は聞けないようだ。それどころか、放っておくとセクハラの集中砲火を受けかねない。 絵奈がそんな事をこっそり考えていると、ハイユがふと思い出したように言った。 「そうだ。絵奈ちゃんがボタン飛ばしたから忘れてたけど」 「飛ばしてないです!」 「セクハリングが楽しくて忘れかけたけど、絵奈ちゃんには別の用事があったんだ」 そう言ってハイユはノートを取り出す。開いたページには「巨乳専門店」というメモと簡単な地図が描いてある。隣には派手な看板の写真が貼ってあった。 「え、えっちなお店はだめですよ!?」 「あたしも最初そっちかと思ったけど違った。服屋。ほら」 ハイユの指さした写真をよく見ると、看板にはこう書いてあった。 胸が大きすぎて困っている女の子のための店 ~胸元ゆったりのシャツ、Eカップ以上のブラ、豊富に取り揃え~ 「この前看板見て写メっといたんよ。行ってみない?」 ごめんなさい。さっきまでハイユさんを疑っていました。最初からそれを言ってくれればよかったのに。 「行きたいです、このお店!」 ここならきっといい服に会える。 目を輝かせた絵奈に、ハイユは笑顔でうなずいた。
トラムに乗って数駅を過ぎ、二人は画廊街へ着いた。写真にあった看板は遠くからでもよく目立っていたので、建物の前まで行ってみる。看板は出ていなかった。 「ここですよね?」 「そうだね」 ハイユは無造作にドアを開け、店に入って行った。絵奈も後に続く。 店内にはマネキンが二十体ほど並んでいた。一様に胸の大きいアンバランスな体型をしている。服装はまちまちであるが、どれも胸元には余裕があるようだ。 「あ、これ、いいなあ」 絵奈は思わず、その一つに歩み寄った。ショッピングに行って買うのを断念したワンピースに、色やスカートのラインがよく似ている。 これだとちょっとスカート短いかな。 そんな事を考えながらスカートのすそをつまんだ瞬間、絵奈はめまいを感じた。 「困ります、お客様」 頭上から声が響いてくる。反射的に上を向いた絵奈は、そこが青空になっているのに気づいた。 「え?」 周りを見回すと、そこは背の低い草に覆われた丘の上だった。空には大きな雲が流れ、涼しい風が草や木立を揺らしてさらさらと音を立てている。 「当店の決まりには従っていただきますので」 先ほどと同じ声が聞こえた。絵奈は困惑するしかない。 「当店の品は私が精魂を込めて作ったものばかり。お求めいただく以上はベストパフォーマンスで着ていただきたいのです」 「はあ」 「ですからお客様には、その服を着るにふさわしい状況をシミュレートしていただきます。今回であれば夏の高原。その空間でお客様が服にふさわしい振る舞いをしていただけたなら、その服は無料にて差し上げます」 服? 涼しいのもそのはず、絵奈はマネキンが着ていたあのワンピースを着ていた。 「なっ、何なんですかこれ!?」 「反応遅いよ」 頭上から今度はハイユの声がする。 「要はアドリブでうまいこと言えばゲームクリアなんでしょ?」 「ゲームではなくシミュレートですが……。ともあれルールはご理解いただけましたね? それでは開始いたします」 絵奈のご理解がまったく行き届かない中、最初の声が告げた。 「○○ーっ」 草原の向こうの林の入り口で、誰か若い男性が手を振っている。どうやら絵奈を呼んでいるらしい。 絵奈はとりあえず彼のところに行ってみようと思った。草原をすたすたと歩き始める。 「アウトです」 頭上の声がそう告げる。めまいを覚えたと思ったら絵奈は元の店内にいた。 「残念ながらこちらはお譲りできません」 初めて顔を見る店主はやせた長身の女性だった。 「あの……、どこが悪かったんでしょうか?」 「人形の体型とご自分の体型を元にお考えください」 裁定の基準が分からず絵奈が問うと、店主は無表情にそう言ったきりむっつりと黙りこんだ。 「ああ、そういうことか」 ハイユは何かを思いついたらしい。絵奈が聞き直すより早く、ハイユはワンピースに触れていた。 真っ白だった壁の額縁に、草原にワンピース姿で立つハイユが映る。 「○○ーっ」 絵奈が聞いたものと同じ男性の声。ハイユはそちらを向き、両手を横に振りながら笑顔で走り出した。スキップのように一歩一歩と高く足を上げるたび、胸がたわみ揺れる。 男性のところまで走り着くと、ハイユは息を切らせて見せた。うつむくことで乳房が重そうに垂れ下がる。 ほう、と店主が息をつく。額縁の中は再び真っ白になり、その前にハイユが現れた。 「どうよ?」 「恐れ入りました」 店主が深々と頭を下げる。マネキンから服を脱がせてたたみ、 「どうそお持ち帰りください」 「いいよいいよ、別に」 ハイユはそう言ってから、絵奈に向き直った。 「要するに、巨乳用の服なんだから巨乳を活かせ、ってこと。胸が揺れたりたわんだり谷間が見えたりすればいいんよ」 「左様でございます」 店主が仰々しくうなずく。 「えええ!?」 だから巨乳専門店なのか。頭の隅で冷静な思考がそう告げたが、絵奈の意識はそれどころではなかった。無意識に胸をかばう。 「嫌ですよ、そんな恥ずかしいこと!」 「いけるいける。絵奈ちゃんなら素でいける」 ハイユは適当な口調でそう言い、絵奈をビキニ水着のマネキンへと突き飛ばした。 絵奈は日の照りつける砂浜にビキニ姿で立っていた。 「こっ、この水着いらないですから!」 真っ赤になって絵奈は叫ぶ。 ハイユの舌打ちが聞こえたが、店主はその反応を「着る資格なし」と判断したらしく、無事に店内には戻れた。 「じゃあ、どれにすんのよ?」 筋違いの不満そうな声を受けながら、絵奈は店内を見回す。 「なお、当然ながら同じ行動・演出を複数回お使いいただくことはできません」 店主が補足する。ハイユの真似をしてごまかすことはできないらしい。 気になる服もないではなかったが、その数だけ胸を強調したアドリブを演じなければいけないのかと思うと、悟りを開いたかのような諦念が湧いてきた。 「やっぱりいいです」 それだけ言い残して、絵奈はふらふらと店を出た。 店の中の空気がよどんでいたせいか、外の風が心地いい。気分を変えようと、絵奈は胸を張って大きく伸びをした。 ぽん、と胸で何かがはじける感触。その嫌な感触には憶えがあった。 「それでいいのよ」 背後からハイユの声がした。 「伸びをしてボタンが飛ぶ演出ならきっと店主も合格にしてくれるって」 「本当にもういいですから! そんなことよりボタン……!」 「そうね。ほら、ボタン付けてあげるから脱いで」 「できるわけないじゃないですか!」 絵奈は涙目になりながら必死で胸元を抑える。ハイユは面倒そうに息をつき、 「冗談よ。ほら、店の中なら替えのボタンも糸も針もあるでしょ」 ハイユに手を引かれ、絵奈は渋々、店内に戻った。 店主が、先ほどとは打って変わった笑顔で立っていた。 「先ほどの一幕、当店のボタンと糸と針を提供するにふさわしいものでございました」 「見て……たんですか?」 「拝見しておりました」 顔が青ざめたのか紅潮したのか、もう絵奈には分からなかった。
気がついたときには、絵奈は新しいボタンを付けた状態でハイユとトラムに乗っていた。 年頃の少女の悩みは何一つ解決していなかった。 新しい服、ほしいなぁ。 ボタンだけが新しい着慣れたシャツを見降ろし、絵奈はため息をついた。 |