ターミナルの『夜』―― 夜は、あったほうがいい。ターミナル全体が、安らいだ眠りにつける気がする。 ずっと、そう思っていたのだけれど。 今日は、なかなか眠れない。 なぜだろう。 記憶の海に沈んだはずの、『あのこと』を思い出すからか。 セピア色の風景の中の、『あのひと』を思い出すからか。 何度目かの寝返りを打ったあと、あきらめて外の空気を吸うことにした。 この店の前を通りがかる気になったのは、今が営業時間外だと知っていたからだ。 今なら、おせっかいなギャルソンに、強引に店内に引っ張り込まれることも、待ってましたとばかりに、親しげに話しかけてくる黒衣の司書に困惑することもない。 くつろぐための場所なのだとは、わかっている。 だが、あまりにもにぎやかで、くったくのない笑顔があふれる場には、長居しづらいときもある。 かまわないでほしい。 放っておいてほしい。 そんなときもある。 日中、さんざめく笑い声が絶えなかったカフェは、蒼い夜に包まれた今、まったく違う様相を見せている。 ガラスと鉄骨でできた建物は、緑を閉じ込めた氷の城のような、冷ややかさ。 窓越しに見えるのは、たったひとつ灯されたテーブルランプと、グラスを手に、ひとり何ごとかを考えている店長のすがた。 ほのかな灯りが照らし出すのは、営業時の緊張を解いて普段着になった、素の横顔だ。 声をかけるでもなく、扉の前に立つ。 店長がふと、顔を上げた。
【副題】Magenta ―不可視の審判― 今宵の空は、秘密めかした春の夜が演じられている――ように見えるのは、いささか穿ち過ぎだろうか。 思うさま湾曲した三日月は、死神が振りかざす冷酷な鎌の切っ先にも似て、街路を彩る花水木の可憐な薄紅を蒼ざめさせる。 ふいと姿を消した気まぐれなセクタン、ザウエルを、気まぐれに探していたムジカ・アンジェロが、クリスタル・パレスの前で気まぐれに立ち止まったのと、店長がグラスを片手に席を立ち、扉を開けたのは、ほぼ同時だった。 「……なるほど。ムジカさまでしたか」 ムジカと視線が合うなり、店長は大きく頷いた。これで気が済んだとばかりに、あっさり、扉を閉めようとする。 「納得いたしました。散策のお邪魔をして申し訳ありません。では、良い夜を」 「おいおい」 ムジカはさらりと腕を伸ばし、扉を押さえた。 「何がどう、納得なのかな?」 「さきほどから、音楽が聞こえてきたような気がしておりまして。シューベルトの『魔王』のようでもあり、あるいは、荘厳な聖歌でもあるような」 「『魔王』と聖歌は相容れないと思うが」 「ムジカさまの内なる音楽を、私の空耳がそうとらえたということです」 「だったら、気まぐれで落ち着きのないセクタンが、今どこにいるかも感知できるかい? 横に肥えたマゼンタ色のセクタンなんだが」 「さあ、そこまでは私には。マゼンタは『見えざる色』だそうですから」 「たしかに、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、そう言ったらしいけれども」 虹の七色は赤・橙・黄・緑・青・藍・紫であるのだが、端と端の色、赤と紫を繋ぐ色は、虹の光のプリズム内にはない。その色こそが赤紫――マゼンタだ。ゲーテはそれを「見えざる色」と表現した。 「はたしてそれが、セクタンの性格にまで適用できるものかどうか」 「気まぐれなのは、天使の名を持つ旅人に属しているからかもしれませんしね」 「それをいうならあんただって、癒しを司る大天使の名前を持っているだろう?」 「名前負けですよ。せめて、どなたかの癒しになれれば良いのですが、なかなか難しいですね」 「お互い、天使ではないからね」 他愛のない世間話のような、それでいて、無味無臭の猛毒をひとしずく、クリスタルの小瓶に閉じ込めたようなやりとりは、そこで終わった。 ムジカは微笑を崩さずに、扉を押さえていた手を放す。そして、風を受け流す若木さながらに歩き去る。 それではまた、とも言わずに。 店長も、よろしければ営業時間内にお越しを、と言うでもなく、夜に溶ける長身を見送るだけだ。 † † † ムジカは、そのまま帰路に着く。 懐におさめていた写真を取り出し、静謐なまなざしを落としながら。 想いびとの記憶が焼きつけられてでもいるかのように、丁重に指先に挟まれた写真には、黒く焦げた焼け跡があった。 うすら寒い“死”を感じさせるそれは、ある写真家の作品だ。 とても近しく感じる男だが、親友という表現も相棒という表現もそぐわない。そのありようは、共犯者と呼ぶのが一番しっくりくる相手である。 彼の眼は、それ自体が無情なレンズのように、冷酷な客観で裏打ちされている。彼が隣に在るだけで、ムジカはひどく落ち着く自分を自覚する。それは情緒や感傷をそぎ落とした諦観に近い。 不意に―― ほのかな水の匂いが、鼻腔に広がる。 女の吐息のような湿り気が、珊瑚色に染めた髪を濡らして絡みつく。 ようやくムジカは、自分が今、水路にかかる橋のうえを通り過ぎようとしていることに気づいた。 水路が張り巡らされた閑静な区画は、壱番世界が夏の盛りの季節には水遊びの場となっていた。はじけるような明るい笑顔と、輝く飛沫と、じゃれてはしゃぎあう声がよく似合う一角だ。 だが、この水路の全貌を知るものはいないだろう。誰が作ったのか、どこに繋がっているのか、暗渠の中に何が潜んでいるのか。 世界図書館は、聞かれてもいないことを自ら開示はしない。 たとえ聞かれたとしても、不都合なことには答えない。 アーカイヴ遺跡を調べるものがいなければ、チャイ=ブレの存在さえもおぼろげであったように。 ジェロームポリスの一件以来、ムジカは、世界図書館に虞を抱いている。 果たして、あの作戦に参加した何人がアンドレイ・ロウへの非道を知っていただろう? 無知の恐怖に震えるものや、自らの残酷な優しさを自覚するものがいなかったとは、思いたくないけれど。 (ベンジャミン・エルトダウンは、リタイアして正解だった) だが、自分が他世界への再帰属を望んでいるかと問われれば、迷わず首を横に振る。 戻るなら壱番世界――弟の生きた世界へ戻りたい。 水面に映りこんだ月は反転し、魔女の笑みをかたちづくる。 あでやかに紅を引いた唇がほころぶ。 甘やかな秘めごとめいて囁いてくるのは 獣皮を切り裂いて骨をまさぐり、関節に差し込んで筋を断つ、ハンティングナイフを思わせる非情な提案。 黒く焦げた写真には、ごくわずかに、人の形をうっすら残した部分があった。 そっと口づけてから、写真に火をともす。 ゆらり、と、燃え上がるさまに、炎上する都市が重なった。塵となって、水路の流れに消えて行く。 彼のことは、決して嫌いではなかった。 それどころか、好意さえ抱いていた。 遥か水平線を焦がして沈む太陽。豊かな生物相と恐ろしい海魔。荒くれ男たちの怒号。嵐の海に翻る海賊旗。血と硝煙と陰謀の海を、鮮やかに潮風が吹き抜ける、あの世界。 しかし―― “海原に、皇帝など必要ない” 自由を謳う王こそが、相応しい。 塵となった写真はさらさらと、水路の流れに消えて行く。 「おやすみ、好い旅を」 それは、旅人であるがゆえの、別れのことば。
このライターへメールを送る