「んー。疲れたぁ。ウィリアムにお茶を入れてもらおう」 アリッサは大きく伸びをした。 例によって例のごとく、他愛もないイタズラの罰として、リベルから命じられたロストレイル全12車両の車内清掃を、予定よりも早く終えた帰り道である。 床面、座席、窓ガラス、天井、カーテン、ダストボックス、洗面所、化粧室はもちろん、コンパートメントのリネン類のセットとベッドメイキングと、ついでに厨房のクリーニングまでこなしてきた。清掃中に見つけた整備点検が必要な部位は、所定の係に連絡済だ。 毎度のことなので、アリッサの列車清掃スキルと設備点検スキルは格段に向上している。そのうち、格納武器の保守管理すら可能になるかもしれない。 特に意識もしないまま、アリッサ・ベイフルックは、館長職とイタズラっ娘を両立しつつあった。「いたいたー、アリッサぁ!」 冒険の熱をはらんだ潮風が吹き抜けたような気がして、アリッサは立ち止まる。 人懐っこく爽快で、しかし決してひとところに留まりはせず、なにものにも束縛されないその声の主は、案の定、日和坂綾だった。「綾」「いやぁ、アリッサなら、そろそろ掃除終わるんじゃないかなって思って、ちょっと張ってたんだよね〜。見つけられてラッキー」 綾は嬉しそうに笑う。その笑顔は、かつて彼女のチェンバーで親しい友人たちとともに、楽しげなイベントを開催していたときと同じ、屈託のないものだ。「――元気?」 愚問だなと思いながらも、アリッサは問う。 こう聞かれたなら、綾ならどう答えるか、わかっているのに。 「もっちろん! 私はいつも元気だよ。んもー、アリッサったら、ヤダなぁ」「うん。……そうだったね」 綾はまだ、何も語らない。 ジェロームポリスの虜囚となっていた間、いったい何があったのか。 軍艦都市が崩壊する中、なぜ綾があんなにも逆上し、ジェロームへの殺意に我を忘れていたのかを。「私に何か、用があるのね?」「用っていうか、相談っていうか」 綾は茶目っ気たっぷりに、人差し指を口に当てる。「ちょっとだけ、お茶しない? ターミナルのいろんなお店で新作ケーキ見かけて、試してみたかったし――アリッサにお願いしたいコトもあってさ」 † † † 少し考え込んでから、アリッサはいったんその場を離れた。「ちょっと待ってね、エヴァおばさまに許可もらってくるから」 と言い残して。(レディ・カリスのお許しをもらわなきゃなんないようなコトかなぁ?) 首を捻った綾は、だが、さほど待たされることはなかった。アリッサはすぐに駆け戻ってきて、世界図書館の隠し扉の向こうにあるチェンバーへ、綾を案内したからである。「ここって……」 それは、以前、ロストナンバーたちが思い思いのビーチリゾートを楽しんだ、「海と砂浜」のチェンバーだった。 館長代理時代のアリッサは、所有者のレディ・カリスに無断でここを開放した。そして後日、《赤の城》に呼び出されることとなった、いわくつきの場所だ。 その一角には、海上に張り出すように造られたデッキと建物がある。水上ヴィラにも似たそこでは、当時、臨時のカフェが運営された。 ゆったりとしたラタンチェアと、木製のローテーブル。床面はガラス張りのため、まるで海の只中でお茶を飲んでいるような感覚――「どうぞ」 すでにウィリアムは、テーブルのうえに、ガラスのティーセットをセットしていた。 銀のトレイには、いちごのチョコカスタードタルト、びわのムース、メロンとレッドグローブとオレンジが花のように散りばめられたプチケーキなどが並べられている。 綾が腰をおろすと同時に、光を取り込んで輝くカップに、鮮やかな青のハーブティーが注がれた。「『ブルーインブルー』っていう、ブレンドティーなんだって。壱番世界製なんだけどね」 ――『青』をよく、見ておきなさい。この海の色は、フェルメール・ブルー。 レディ・カリスは、プライベートビーチ立ち入り許可の言葉にかえて、アリッサにこう言ったっという。 誠実さ、慎重さ、忍耐強さ。 青は、心を冷静にさせる色よ。 † † †「私、館長だから、綾の気持ちも、みんなの気持ちも、尊重したいって思う。私が判断できることで、私が責任を取ってかまわないことなら、できるだけ聞きとどけたい」 ――だけど。 聞けるお願いと、聞けないお願いがあるよ? 青に惹かれたフェルメールは、17世紀当時、金よりも高価だった瑠璃(ラピスラズリ)を材料とした絵の具を惜しげもなく用い、美しい絵を描いた。「天空の破片」とまで呼ばれた貴重な石は、「真珠の耳飾りの少女」の青いターバンを印象的に彩っている。 青。青。青。 この青が席巻する荒々しい世界に魅入られた少女と、属する組織が抱える矛盾を引き受けなければならない少女は、箱庭の海のヴィラで今、向かい合う。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>日和坂綾(crvw8100)アリッサ・ベイフルック(cczt6339)=========
「それにしても綾。そのワンピース、すごく似合うね」 「そうかな? ……ユウも、そう言ってくれたケド」 少し照れくさそうに、綾は微笑む。 つばの広い帽子をかぶり、ふわりとしたナチュラルリネンのワンピースに、ハイヒールの爽やかなサンダル。トレードマークだった赤ジャージを、綾はもう着ないつもりのようだ。 こうしてみると、普通の――ごく普通の、傷つきやすい女の子に見える。 実際、傷つきやすく、そして……、不器用なのだろう。他者なり家族なりのちょっとした言葉や誤解に思い悩み、困惑し絶望し、しかしその誤解がどこから生じているのか、どうすれば相互理解が可能になり、気持ちをつなぐことができるのか、そういった穏やかな関係性を長期に渡って構築していくスキルを、まだ綾は持たない。 ひとの気持ちを読み取るのが苦手ゆえに、綾はつねに戦闘的であったのだから。 「いやーん、おいしそー! 私、全部味見した~い。お腹減るとグデグデになりそうだしっ」 並べられたスイーツから、まずはいちごのチョコカスタードタルトを選び取り、ぱくりとひとくち。 「エンエンにも味見させたげる♪」 大胆にまっぷたつにした半分を、惜しげもなく綾は差し出す。フォックスフォームのセクタンはその大きさにつぶらな眼を見開いたが、素直にもぐもぐとケーキのかたまりを平らげた。 「アリッサって毎日、こんなにケーキ食べてるの?」 「毎日じゃないけど、たまにはね。ひとつだけだと淋しいじゃない?」 「よく太らないね」 「ふふっ、鍛えてるもの」 「まさか、皆に隠れてシャドウボクシング……、してる体型には見えないケドっ?」 「リベルやエヴァおばさまにしょっちゅうお仕置きされてたら、太ってるヒマないよ」 「そっか。でもこのお茶、食欲減退しそうな色だねぇ……。はっ、これは噂に聞く色素ダイエット併用っ?!」 「ちがうちがう。ロマンと演出だってば。……ウィリアムが地味に落ち込むから、そこにツッコむのは許してあげて」 「あああ、ゴメンなさいウィリアムさん。フツーの紅茶ください!」 「お口に合わなかったようで」 とはいえウィリアムは、多少は想定内だったらしく、すでに用意していたダージリンを新しいティーカップに注いだのだった。 † † † びわのムースを愛しげに食べ終えて、綾はほぅ、と息をつく。 「これでもう、ケーキ食べられなくても満足かなぁ」 その言葉の持つ意味に、アリッサは身構える。 「……ゴメンねエンエン。ホルダーに入ってくれる?」 やさしく、やさしく、セクタンを撫でたあとで、綾は命じた。エンエンは不思議そうに小首を傾げたが、すぐにおとなしくパスホルダーに収納される。 そして綾は、そのパスホルダーを、アリッサに差し出した。 「誰に返すかわかんなかったからさ、パスの返却アリッサにお願いしようかなって? ギアも、もう入ってる」 「綾」 「ブルーインブルーにきちんと向き合って生きるだけなら、パスなんて要らない。人生いつ死ぬかなんて誰にもわからない。消えるのも死ぬのも一緒だもの。だからパスなんて要らない」 「綾。待って。ちょっと待って」 「ここに居る間は他の人がわかってくれるし……。少しだけズルもさせて貰うよ。往復チケット買ったんだ。英語の参考書見ながら、一生懸命単語カード作ったし」 「綾、あのね」 「これを向こうでチケットが効いてるうちに全部記入し直せばバッチリじゃん? そしたらチケットは破って捨てる。いやぁ、受験の数倍勉強しちゃったよ」 「……綾。何が……、いいたいの?」 その言葉だけを聞くなら支離滅裂だ。まったく筋が通らない。 「わからないかな?」 「わからないわ。綾の言ってること、ちっとも理解できない」 アリッサはゆるゆると首を横に振るが、綾は語調を変えなかった。 「そう。でももう、決めたから」 綾は、その結論に至った経緯と理由を「相手が理解しやすいように」語りはしない。だからとても説明不足に聞こえるし、誤解もされやすい。 しかし、綾が言葉にするときは、それは揺るぎない決定事項だ。他者の理解を得るために経緯を説明する、ということをしないのは「説明したところで結論は変わらない」からだ。 筋が通らなくても、気持ちは伝わる。 そういうことだ。 ……そういう、ことなのだ。 パスホルダーを世界図書館に返却する、ということは、再帰属の希望がかなわない場合、消失の運命を自ら受け入れるということなのだろう。 往復チケット購入云々は、個人旅行の場合はナレッジキューブでチケットを購入するため、片道切符では販売してもらえないだろう、というほどの意味合いだろうか。 そして単語カード云々は、チケットがあるうちに現地の言葉を覚えたいがために、英語の教科書を参考にし、ブルーインブルーの単語帳を作ってみた、ということであろうか。 しかしそれはアリッサの推測だ。当たっていても外れていても、綾の意志だけは変わらない。 だが。 「あのね。ツーリストなら、パス返上は本人が望むならすぐ受け入れられるけど、コンダクターはできない決まりなの」 「どうして?」 「ちょっと気の遠くなるような手続きが必要で……。それに、危険だったりもするの」 「じゃあ、私は……」 「再帰属しないかぎり、コンダクターとしての宿命からは逃れられない。だけど、けじめとしてそうしたいっていう気持ちだけは受け取る。パスは私が預るわ。館長ではなく、お友だちとして」 「どうして? アリッサ。ねぇ……、どうして?」 ――どうして私は、再帰属することができないの? できなかったの? 言外の問いを、アリッサは感じ取る。 「……綾。私は綾が、どんなにブルーインブルーに帰属したいと願っていたか、よくわかってる。でもね、再帰属というのは求めるだけではかなわないの。やみくもに求めるだけでは、悲劇しかおこらない」 受け取ったパスホルダーに視線を落とし、アリッサは声を絞り出す。 「その世界のことわりから、あるいは、その世界に暮らす住人から認められ、求められること。その世界とのたしかな『絆』がなければだめなの。たとえばだけど、ヴォロスに再帰属したメリンダさんが、ダスティングルの領主夫人となったように」 「……絆」 「ブルーインブルーに本当に向き合いたいと思うなら、目を逸らさないで。宰相フォンスだって、元はロストナンバーだった。彼がなぜ、再帰属が可能だったのか、よく考えてみて」 「私は――失敗しちゃったのかな?」 「ううん。今すぐではないけれど、いつか必ず、正式に再帰属できるときがくる。逃亡者でもお尋ね者でもなく、堂々と胸を張ってブルーインブルーの住人として暮らすことができる日が必ず。そう、信じてる」 「だったら……、希望はある、のかも」 ようやく綾の口元に、明るい笑みが蘇った。 ――去年の、海神祭のときにね。 司書のひとりが地元のひとから聞いたんだけれど、ロトパレスに小さな教会があるんですって。 そこでは、海賊たちの戦闘に巻き込まれて、身寄りがなくなってしまった子どもを引き取って、成人するまで育てているそうなの。 ジェロームポリスからもたくさんの子どもたちが避難したはずだから、シスターの人手が足りないんじゃないかな? ――えー? ガラじゃないよ〜、シスターなんて。 ごく、他愛ない雑談としてアリッサは言い、 ごく、他愛ないことのように、綾は笑いとばす。 「まずメイリウムに行って、言葉に慣れたらアトラタに行こうかなって。変装するし、看板も背負わないからダイジョブだよ」 † † † バイバイ、アリッサ。 そう言い残し、海のチェンバーから退出した綾を、アリッサは追いかける。 「待って、綾。あのね、私ね、ずっと、ずっと、綾のチェンバーに行きたかったの」 だが、綾は立ち止まらない。まっすぐに、ホームへ向かうだけだ。 「楽しそうなイベントにも参加したかったの。もっともっと、綾やみんなと遊びたかったの。冒険にもたくさん、行きたかったの」 その背に、なおもアリッサは呼びかける。 ぽろぽろと溢れる涙をぬぐいもせずに。 「他の人はわかってくれるって、いったよね? だけど綾は、全然わかってない。ちっともわかってない。みんな、我慢してるの。本当に言いたいことを我慢してるんだよ。それは全部ぜんぶ、綾の気持ちを察してのことなんだよ」 ――行かないで……! かつて日和坂綾と交流のあった、すべてのロストナンバーが言いたかったであろうことを、アリッサは、叫んだ。 叫び続けた。 † † † 発車のベルが鳴る。 ブルーインブルー行きの、ロストレイルが走り出す。 綾は振り返らずに乗り込み、アリッサはホームを駆け、そして、 「あ、そうだ。言い忘れてたんだけど」 ふっと立ち止まり、イタズラっぽく笑う。 「セクタン置いていくことって、できないんだからねーーー!」 「えええ?」 綾は座席を振り返る。 そこにはすでに、フォックスフォームのセクタンがちょこんと腰掛け、隣の席を前脚でぺちぺち叩いていた。 ……まあ座れ、ということらしい。 † † † ラピスラズリより得られた群青色は、最上の青として聖母マリアに捧げられた。 フェルメール・ブルーは別名を、 ――マドンナ・ブルーという。
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