オープニング

「朱昏へ、水の宝珠をかえしにゆこうとおもう」
 荒れた理がひとまず収束を見せたなら、頃合かとおもってな。
 図書館にて預かる者が、おれにゆだねるは認可できぬと拒めば、それまでだが。
「水の宝珠は玖郎の手で持ち込まれた物だ。当人が返すのが妥当だろう」


「だって」
「いいんじゃないかな」
「灯緒がそう云うなら平気ですねえ」
「多分ね」


 身動ぎもせず立った儘淡淡と考えを述べる鳥妖と対照的に腰掛ける半妖――なのか否か最早判然とせぬが――の会話を隅っこの卓で窺い乍ら、雀斑顔と斑猫は、毎度の如く無責任な遣り取りを交わしつつ二人を眺めていた。併し――

 ――かなうならばその足で、かの地に根付くもよいとおもっている。


「えっ」
「おや」


 続く鳥妖――玖郎の言に指物二人も驚かずには居られなかった。
「そうか。……傷は?」
「大事ない。……おまえは、如何する」
「俺……は。危険視されていても可笑しく無いが……」
 世界司書の視線を知ってか知らずか、推定半妖の雪深終は視線を落とし、幾許かの逡巡を滲ませ乍らも「叶うなら、帰属したいと願っている」と応えた。
「とは云えこの辺の判断は図書館や龍王に任せるしかないだろうな」


「だ、だって!」
「…………いいんじゃないかな?」
「ええー!? でもでもでも、」
「こう云う事は本人達の気持ちひとつだからね」
「ウウウ……」


 等といった割と如何でも良い問答を繰り広げる自主休憩中の司書二人を尻目に、玖郎と終は再帰属に当たって今後の居場所を如何すべきかについて、既に具体的な打ち合わせを始めていた。

「コンルカムイに居て良さそうなら、そうしたい。人里で暮らすのは矢張り少し違うと感じるし……」
「いずれ大河以西ならばよかろう。退魔機関を擁す東は、より慎重にあたらねばならぬゆえ」
「其れもそうか。……玖郎はどうする」
「縄張をかまえる地か? おぼろげに、西以北と考えていた。おれとて東で六角に追われるは避けたい」
「玖郎らしいな。そう遠くない場所だと、俺も気持ちが楽だ」
「おまえの希望へ副うに不都合はない。コンルカムイ自体は玄武と言うヌシがいる以上、縄張とするは憚られるが」
「実際、如何なんだろうか。……ああ、良くしてくれた神夷の人達にも伺いたい処だ」

「――玖郎さんと終さんが朱昏の山神様になるのです? めでたいのですー」

「む」
「ゼロ?」
「なのですー」
 不意に、真っ白な少女――シーアールシーゼロが終の真向いの席から身を乗り出す。相変わらず何時から其処に居たのかまるで判らぬが、今や其の事も含め、誰もが馴染みつつあるように思える。
「ゼロは聴いた事があるのです。壱番世界には『追いコン』と呼ばれる戦慄の儀式があるそうなのです」
「おいこん?」
「戦慄……?」
 思い思いに頸を傾げ、或は訝しむ二人に、ゼロは「なんと」と両手を広げて宇宙的恐怖を語り出した。
「先輩方の門出を後輩達が笑顔で祝福し乍ら追い回した挙句叩き出すらしいのです!」
「…………。……春の節も近しいゆえか」
「それは」
 豆撒きでは。
「だが、格を以てかたちづくるひとの世で、より上位のものを追いたてるなど……厄祓いかと思うたが、もしや謀反の類――位を簒奪するための儀か? ならばひとが戦慄くも寿ぐも理解できる」
「いや……待て玖郎、」
 何か違う気がする――そう云おうか云うまいか、
「うんとね……大体合ってるような気がするのです?」
 終が僅かに戸惑う間を別に狙ったのでもあるまいが、取り敢えずゼロは其れとは逆のいい加減な応答をした。何故か疑問系で。
「玖郎さんと終さんは殊朱昏に関してゼロ達の先輩なのです。三人でお二人を0世界から朱昏に追い出してめでたしめでたしなのですー」
「三人なのか?」
「三人なのです」

「聞いたぞ」
「中々興味深い趣向でありますな」

「沼淵か」
「碧も」
 ゼロの言葉を裏付ける様にして姿をみせたのは、玖郎と終とは異なる意味合いで通ずる、併し乍ら互いには殆ど接点の無い二人の軍人だった。
「すぐ其処でばったり会ったのです」
 けれど、まるで示し合わせたかの様に。

 レタルチャペカムイを巡って幾度も彼の地へ渡った者達が、一堂に会した。


  ※ ※ ※


「沼淵。その……傷は、未だ?」
「ん? まあな」
 終の視線は尚吊られた沼淵の右腕に注がれる。
 或る意味で終とは最も懸け離れた主義思想を擁くこの男の怪我は、外ならぬ終を庇って負った物だ。其の行動の真意は今を以て不明な儘だが――。
「貴殿等を叩き出すには些か骨が折れそうだが……何、某には未だ足もあります故」
「……口も減らないみたいだな」
「其の通り。判っているじゃないか」
「当り前だ」
 憎まれ口を叩き合い乍ら、併し双方は笑みも含まぬ癖に愉しげですらあった。
「――玖郎殿は如何かな?」
 それはそれ、とばかり、沼淵は今一人の縁深き妖を見遣る。
「見た処壮健の様だが」
「翼は治った。これで野でも生きてゆける」
「何よりであります」
「……かたじけない」
 淡淡として多分に人間味に欠けた――当然と云えば当然なのだが――短い会話は、併し玖郎の、若干乍ら色彩を帯びた謝辞を以て結ばれた。

「雪深、確認しておきたいことがある」
 ひと段落したとみたか、今度は碧が徐に口を開く。
「以前、神夷の里に逗留しただろう。ソヤの躯については何か話さなかったか」
「いや……そう云えば、何も。余り長居しなかった所為もあるが」
「そうか……あの時霊峰の奥深くで見た屍蝋は、敵の女そのものだった。だが、あの媼のきょうだいだと聞いた」
 闘いを終えた戦士は流儀に則って等しく弔う――其れが碧と、碧の同胞の慣わしだった。そして碧は、只のヒトで在り乍ら自分を恐れなかった神夷の民を気に入っても居た。だから、彼等が、ソヤの骸がある事実を知ったなら如何するのか、気にしていたのだ。
「むくろはむくろだ。弔いの場があるならば、そこに還せばいい」
 だが、ヒトは如何思うか。碧には其の判断がつかぬ。だから終に訊いたのだ。
「……ああ、ひとは儀礼にのっとり、死者を弔うがつねであったな」
 ひとと交わり乍ら其の在り様に屡首を傾げる玖郎にとって、近しい立場である碧の疑問は共感し得る。そして、屍蝋と化したソヤの躯の元に赴くと云う事は、「一時白虎が拠点とした地、この身でたしかめるもよかろう」
 即ち彼の廃村を訪ねる事に外ならぬ。玖郎は促す様に終へ顔を向けた。
「そう、だな。放っておくのも……――あの洞に往くなら、先ず里に寄ってソヤの妹に遺体の件を伝えておこうか」
 終としても、せめて神夷の民の感性に準じた扱いくらいはと想う。序に、
 ――あれも在るだろうか。
 レタルチャペの過去を追体験した後、既に手元から失われていた簪。女妖が心無い事をして居なければ、状況的にも洞に残されている可能性が高いと終は想った。
「其の話で思い出したが、其の後彼奴は何も?」
 単に動向を気にしてか終を慮ってか、沼淵がそんな事を訊いて来た。
「……そうか、未だ雪深の中に居るんだったな」
 碧の眼差しに僅か剣呑な光が宿る。
 併し、雪深終の体内に流れたレタルチャペカムイは、あれ以来全く以て大人しい処か何の動きも見せず、当の終でさえ本当に居るのか如何か判別出来ぬと謂う。
「とりあえず今は落ち着いているし、俺自身は別に構わないのだけれども……朱昏の摂理から見て、どういう状態なんだ、とは思わなくもない」
 だから、そんな暢気な返事を返す事しか出来なかった。
「レタルチャペカムイさんもソヤさんも槐さんも今はきっと蓬莱なのです。安寧のうちにいるのですー」
「だといいが、な」
 ソヤと槐は兎も角、レタルチャペが如何在るか――ゼロの云う通りならば何の憂いも無いが、朱昏――と云うより屍蝋の元へ往くなら、相応に気を引締めねばならないのかも知れない。沼淵は碧に只の一瞥同様の動きで目配せすると、碧も矢張り只一瞥を以て応えた。

「君達往っちゃうんですかあああ?」

 やがて頓狂な女が虎猫を伴い、無駄に哀しげな表情で近づいて来たので、碧は一歩引いて彼等の会話を眺めていた。
 碧としては――否、懼らく沼淵もゼロもだが――彼等の再帰属に水を差すつもりは基本的に無い。何故なら――口にこそ出さないが、少なからず二人の再帰属に興味を擁いているからだ。
 故郷以外の地に定住し、懼らく其処で骨を埋める等彼女には凡そ考え難い。故郷に対しては自分でも理解に苦しむ程の執着がある。故に玖郎と終が何を想って朱昏を第二の故郷と定めたのか、如何なる想いが真理数を燈らせたのか、実に不思議であり、仄かに言葉に出来ぬ感情が滲んだ。
「……?」
 気がつけば玖郎も輪を外れ、碧の隣で皆の和気藹々とする様を眺め――否、只向いているだけで、見ては居ないのかも知れない。
「――」
 碧は聲を掛けようかとの気紛れが湧いた己に少し驚き、結局は呑み込んだ。


  ※ ※ ※


「…………」
 ガラが意味不明な言い分で終を引き留め困らせ乍ら、灯緒は適当な事を投げっ放しにごちるだけ。沼淵が駄目押しをして、ゼロが膨らませ――彼等の輪を見詰め、又再帰属を控え、今想うは郷里の事。
 ――……時が、経ちすぎた。
 玖郎が故郷で得、覚醒を以て起き去る事を余儀無くされた幾つかのものが、最早喪われたであろうと推し量れる程には。

 故、決めたのだ。

 ――おれは賭する。



 とりもどすより、築きあげることに――。



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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。

<参加予定者>
玖郎(cfmr9797)
雪深 終(cdwh7983)
ヌマブチ(cwem1401)
碧(cyab3196)
シーアールシー ゼロ(czzf6499)

※このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。
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品目企画シナリオ 管理番号3223
クリエイター藤たくみ(wcrn6728)
クリエイターコメントリクエストありがとうございました。藤たくみです。
前にもこんな事ありましたっけね。お顔ぶれ的にそんなOPにしてみました。

さてさて、玖郎様と雪深終様におかれましてはいよいよ再帰属となります。

今回は、OPとノベルの間に『神夷の里でソヤの妹に屍蝋の事を伝え、屍蝋の回収を望まれている』状態からプレイングを書いて頂ければと思います。
よって、基本的な流れとしては『屍蝋のある廃鉱(菊絵の故郷の廃村)』→『神夷並びに霊峰コンルカムイ』という順序で構成される見込みです。


●廃村
相変わらず無人ですが、霊の類はほとんど居ません。
現在は廃鉱も朱が薄れており、沼淵様が入っても平気……かも知れません。

●神夷の里
雪深終様以外の方はおよそ一年ぶりになりますか。もちろん歓迎されます。
レタルチャペカムイの脅威が無くなった事は把握しているようです。

●霊峰コンルカムイ
様子は変わりなさそうですが、玄武や凍て蝶の気配がありません……。

●玖郎様、雪深終様
ご意向通り、玖郎様は世界図書館から灯緒さん経由で水の宝珠を預かっている状態でのスタートとなります。よしなにどうぞ。
終様は簪とレタルチャペの事、自由にプレイングを組み立ててみて下さい。
他、お二人とも住まいのイメージがあればその指定、再帰属への心構え、お見送りの方ひとりひとりへの想いも是非。

●沼淵様、碧様、シーアールシーゼロ様
帰属されるお二人やレタルチャペカムイ、神夷の民やご自身への想い、そしてやりたい事、なんでも書いてみて下さいね。コースはこちらで決めてありますが、お三方はかなり自由な立ち居地です。色々と期待しております!


それでは、皆様のご参加お待ちいたしております。

参加者
玖郎(cfmr9797)ツーリスト 男 30歳 天狗(あまきつね)
雪深 終(cdwh7983)ツーリスト 男 20歳 雪女半妖
シーアールシー ゼロ(czzf6499)ツーリスト 女 8歳 まどろむこと
ヌマブチ(cwem1401)ツーリスト 男 32歳 軍人
碧(cyab3196)ツーリスト 女 21歳 准士官

ノベル

 傍観者は想う。
 ヒトの――否、個の有り様と云うべきか。
 一度は肩を並べた雪深終、敵とした白虎の二者には情けを以って、併し不意を打たれて眠らされ――密かに根に持ち続けているのだが、其れは一時留め置くとして。
 沼淵とゼロは、此の地の戦を終えて尚、奇しくも行く先を同とした。
 一羽は……如何やら己と似た心性をヒトに対して抱き。
 そんな彼等の大きく異なる有り様はどうだ。
 にも係らず、此れに挙げし内二つもの魂が、新たに還る場所を得たと謂う――故、碧は想わずには居られなかった。

 ――自分が立ち居得たこの<朱昏>とは何と大きな事か。

 唯ひとつの世界で斯うなのだ。
 ならば其れが無限と呼ぶに足る程の数多連なる螺旋――世界群とは。

 途方も埒も無い、けれど圧倒されて然るべき事象の数々と受け皿に馳せる想いを募らせたのは、洞の中を往く誰ひとりとして口を開かなかった所為か。
 だからと云うのでも無いが、そして平時ならば先ず無い事だが、碧は己の両隣を歩く隻腕の軍人に、或は半妖を称す者に、横目で語り掛けた。
「気分が悪くなったら云え。朱は薄いが長時間触れればどうなるか判らない」
 彼の二人がとうに身に染みている事を敢えて云う。
 案の定、沼淵と終は「心得ている」「何故俺迄」等と口を開きかけたが、
「遠慮するな。――何、混乱したヒト二人位なら容易に担げる」
 先に碧がそう云うと彼等は足を留め、怪訝な視線を互いに向けているのを、翅が察知した。
「冗談だ」
 尚も凛とした張りのある声で、淡々と表情も変えずに掬ぶ言葉。
「…………」
「……………………」
「最も人間臭い奴等だと思ってな」
 この麗人にしては稀少な、それこそ人間臭い気紛れを彼等が窺えたかどうか。

「ここは報告書で読んだだけなのですー」
 其の少し後ろ、朱みがかる中に在っても一切染まらぬ――下手をすると姿かたちに反して最もヒトから懸け離れた――純白の少女、ゼロが、長い髪と寝巻きの様な服をふわふわくるくると靡かせ、物珍しげに洞内をきょろきょろと見廻す。
 ゼロのみならず、沼淵と玖郎も実際に訪れるのは初となる。
「じき着く頃だ」
「む――」
 だが、最前列で朱の澱みと流れを翅で読み続け乍ら、麗人が告げた事の意味を識らぬ者は無く――最後尾に居る玖郎が其れを殊更理解したのは、存在として相容れぬ氣を敏く感じた故。終の中にすら未だ認められぬあれの気配が、此処には色濃く遺っているが故。
 それに――夥しい数の、ひとの骸。この先にある総て。
 程無く辿り着いた空間。頭蓋が敷き詰められ、併しこうも死が集い乍ら亡者の念ひとつ見当らぬ、奇妙な程寂かな場所。
 其の、奥には。

 ――終が得た白虎の記憶より察するならば。

「あれは洞に封じられし間に、宿主のこころと同化している」
 髑髏の座に凭れ眠る、天敵と同じ姿の美しい屍蝋を前に、玖郎は想う。
 鳥妖の目に『ひと』として映った理の守護神は如何にして『ひと』と化したのか。己が宿主の魂、或は身が死した時期とは重ならず、由が判らぬ。
「絶望し狂い長き時を経れば、混濁するものであろうか」
「自身とも重なる、唯一つの大切な記憶と繋がるしか無かった、孤独の淵……か」
 終が玖郎の疑義に相槌を打つ。其れは双方が解其の物であると示す。
 朱は情。情が満ちるこの地で、情を振うソヤの中へ、ソヤの情と共に宿り続けた。挙句鎖され、情の外に縋る者の無い中で新たな命を宿し――ならば或る意味で白虎はソヤであり、ソヤは白虎だったとも云える。

 二人の遣り取りは、沼淵の脳裏に酷く味気の無い疑問を浮かべる。
 彼女達の抱いた強烈な渇望とは如何なる情なのか。
 今も――レタルチャペの思念を幾度目の当りにしても、それに負けぬ程の強い想いを以って彼女と対峙した者達と共に在っても――沼淵には判らない侭。

 折しも鳥妖が通ずる事に触れる。
「白虎が依代とした蝶の娘は五情の水――哀に突出していたと思える」
 あれはそれをものともせなんだか、或いは……――と。
 併し、と終が拾う。
「何れこの場の朱が薄まっているのなら、強かった情も同様なのだろう」
 此処に染み込み、篭っていた情――朱が引いた今、これはソヤの骸でしか無い。
「つまり白虎さんに安寧が訪れたのです?」
「そう――願いたいな」
 ゼロの信条でもある『安寧』と云う言葉が、なんだかしっくり来る。
 終は幾度も間近で見た女傑の髪に飾られた、ずっと前に無くした簪を見据え――虫とも花ともつかぬ不思議な意匠の其れが、今は何処か違う何かに想えた。

 ――未来……いや、今現在の己である気がする。

 骸同然と考えていた其れは、矢張り骸によく馴染んでいた。そして思い出す。
 遠き南の黄泉に旅立った骨董品屋の友人、彼がこの簪を見た折の言葉を。

『造りは江戸時代後期の物にも似ていますね』

 まるであの時から、終が朱昏に落ち着く日を予言していたかの様な。沼淵辺りに云わせれば、此れもまた掌の上かと鼻を鳴らすのだろうか。
「……? 何だ?」
「気にするな」
 いつの間にか彼を見て笑っていたのだろう、軍人は怪訝そうな目を向ける。帽子に隠れてさえ片眉を吊り上げたのが分かる。より当てつけるのでもないけれど、其の男が更に身構えそうな言を、終は敢えて声に出した。
「レタルチャペ……平気か? ソヤと一緒に帰るぞ」
 あれから何度呼び掛けてみても応えの無い、併し確かに己の内に在る筈の獣は、

 ――か、える?

 やっとの事、其の存在を幽かに示した。
「――。噫。帰ろう」
 終が静かに、少しだけ嬉しそうに、ぽつりと云った。

「…………」
 沼淵は白虎の新たな宿主を油断無く眺めていたが、やがてつばを下げて三白眼を際立たせるのみだった。


「道中はゼロにお任せなのです」
 一行が死蝋を外へ運び出すと、ゼロが胸に手を当てて宣言したかと想えば、次の瞬間には岩山を越えんばかりに巨大化していた。
 そしてソヤの死蝋をひょいと持ち上げてポケットに放り込み、元の背丈に戻る。何者をも壊さず傷つけぬ彼女が持ち歩く以上、運搬の安全性は間違い無い。


  ※ ※ ※


「……其れで善いのか。貴女は」
 終が真向いで孫――イメラに支えられ乍ら座す老婆に呻く様に訊ねれば、彼女は「構いません」と罅割れ萎んだ聲を発した。
 ソヤの骸を巡っての問答である。
 一行は、当然土地の慣習に則った埋葬が行われるものと考えていたし、事前に訪ねた折は其の方向に話が進んでいたのだが……実際に屍蝋を回収し持ち込んだ処、遺族たる老婆が、突如此れを覆したのだ。
 曰く、生前の姿を留めているのなら、其の事に意味がある。
 だから、態々其れを崩すよりは保った方が好い、いっそコンルカムイの氷で鎖して人の手が届かぬ様に貰えないか――と、こういう訳である。
「判った」
 終のみならず、元より神夷の民の意向に沿う気で居た一行が遺族、其れも実の妹の意思を尊ばぬ訳にもゆかず――斯くして、奇しくもソヤの埋葬は、霊峰コンルカムイに持ち越しとなった。
「俺もコンルカムイを拠点とする心算だが……其れで善ければ」
「本当か!?」
 過剰な喜色を示すイメラに終は、
「此処の仕来りを学びたい、色々教えてくれ。――暫くはコタンの世話になる機会が多そうだし……穀類を預けておく。少しでも足しになれば」
 当座の糧秣として持参――ゼロのポケットで運んで貰ったのだが――した米等を示し、少し気恥ずかしそうに笑った。
「そんな気遣いは無用だ、これから宜しく頼む!」
「此方こそ。不慣れな事でも出来る限り手伝うから。……それと、」
 若者から再度老婆に視線を移す。
「前に借りたマキリは……まだ貸り続けていてもいいのだろうか」
 気の所為か、以前より小さく見えるのは老衰の為か。

「勿論です。ソヤも……レタルチャペカムイも、同じ気持ちでしょう――」


 里で一泊する事にした旅人達は、戸外へと思い思いに出掛ける。
 碧は広場で囲いに入れられた熊の周囲で何事か雑事に精を出して居る中に、嘗て同道した狩人の姿を認め、壮健そうな様子に和む。
「……?」
 其の、少し脇、以前赴いた林道の傍の木に巨大な鳥影がふたつ宿る。玖郎と、未だ日も高いと云うのに極端に大きな梟が並び、何事か語らっている様だった。
 碧が其方に歩み寄ると、狗鷲の怪は「席を外す」とでも云いたげに梟を一度だけ向き、一度だけ翼をはためかせて地へ下りた。
「あれは?」
「この『里の神』だ。今後逢う機も多かろう故、挨拶をしていた」
 成る程、と想う。海には海、山には山、空には空――何れ同じ領域に住まう者同士の付き合い方が在る。これから先、玖郎はこの地に落ち着くのだから。
 同時に、此方への出立前云いかけて結局は口にしなかった事を再度想い、純粋な興味に幾許かの親近を織り交ぜて。
 ヒトならぬ麗人は等しくヒトならぬ鳥妖に問う。
「お前は何故、故郷に戻らず此処を選ぶ」
 鳥妖は――そう見えるだけなのか判然とせぬが――思案気に間を置き、語る。
「我が種にとり、ここは更地だ。競合する同族の不在もさることながら、相剋の妖を捕食するならいがない」
 さりとて油断はせぬが――先ず挙げられたのは生命存在としての実利的な面だ。玖郎は妖、だが其の暮らし向きと性業は寧ろ人並の知恵を得た鳥獣の其れ。
 さりとて彼にも独自の情はあろう。然も無くば此度の帰属も起こり得ぬ。なれば……未だ外に、理由がある筈。だから碧は相槌も打たず、只待った。
「……既に」
「?」
「奪われたが明白である郷里の縄張にかわり、帰化をいどむ価値はある」
 端的な、併し多くを窺い知る事の出来る由は、やや聲を落として告げられた。鳥獣に等しくば真に然り。故――碧には委細知るべくも無いが――例えば彼に守るべき家族が在ったのだとして、懼らくはもう生きては――。
「……そうか」
 改めて何を云う事も無い。又云えた義理でもあるまい。
 彼なりの浅からぬ葛藤を経たからこそ決められたのだろうから。
 さっと木立が揺れる、空を切り裂く音無き音、守護者に相応しい巨大に開かれた両翼が、碧にも挨拶をする様に二人の頭上をくるりと舞い、奥山へと発った。
 美しい――と碧は素直にそう想う。
「あれとは獲物が被らぬ。縄張争いにはなるまいが」
 新たな朋を見送り乍ら玖郎が云った。
「……神夷の民は、おれが里より女をとりし折もよきカムイと目するのか」
 碧に似通った部分を感じて、或は女と見て問うて居るのか、其れとも独りごちているだけか、玖郎は多くの鳥が見せる仕草と同じに首を傾げた。
「……さあな。『レラカムイ』に後ろ指を差すものは、居ないだろうが」
 少し、とぼけておきたくなって、ワッカワシカムイは様子見がてら茶化し気味に所感を述べた。無論解消されず筈も無く、レラカムイは尚思い悩んでいる。
「農耕をせねば、代価は雪害より護ることか……」
 そういう事か――ヒトと神は持ちつ持たれつ支え合うのが神夷の慣わしだ。先程コンルカムイが彼等の暮らしを手伝うと云って居たのを気にしているのかも知れない。
「西国とどちらが易かろう」
「西国に御住まいということは、菊絵さんとも会う機会があるのです?」
 其処に喜々と割り込んできたのはレタルカムイ。例の如くいつの間にか二人の間に立っていた。
「……まみえたとて、あれも白虎が類ならば生きた心地はせぬであろうが」
「あれは母親とは違う。とって食ったりはしないだろう」
「なのです。菊絵さんは……えっとね、どちらかと云えば終さんと大体同じなのです」
 うまい事を云うと、碧は感心した。
 確かに二者に対する印象も、立場も、奇妙な程似通っている。
「だからね、玖郎さんとも直ぐに仲良しなのです。たぶん」
「そうだな……たぶん」
 白髪と銀髪が和やかに、少々いい加減に風に靡く中、赤褐色の翼を擁く男の首は、暫しの間傾いだ侭だった。

 そして、三つの影の内の最も小さなものだけが、またいつの間にか消えた。

「『たーみなる』名物の謎団子なのです。どうぞなのですー」
 と思えば、いつの間にかゼロは広場の真ん中で作業をしていた男性に、なにやら食物を差し出していた。
「お、こりゃどうも――ってお前はあの時の!」
「ああ! お久しぶりなのです!」
 ゼロ自身意識して居なかった(らしい)のだが、偶然にも其の人物は、一年前にも自らが食した謎団子の餌食(?)になった事のある、あの男だった。
「ひ、久しぶりだな。じゃ、俺はこれで、」
「待って下さいなのです」
「う」
「今回は一味違うのです。あれから苦心して改良に改良を重ね、なんと! 少しだけ美味の出る確率を向上する事に成功したのです!」
 逃げようとした男の前にいつの間にか立っていたゼロは、胸を張って謎団子――と云うか偶然と云うかきっとゼロの気紛れか何かですあま型に成型された併し飽く迄謎団子と呼称して憚らない窮めて得体の知れない戦慄の健康食品――を強気に売り込んだ。
「いや、今はちょっと腹が」
「減っているのです? 丁度好いのです。さあどうぞなのです」
「う……」
「さあ」
「うううう……」
「さあさあ! なのですー」
 ゼロは男性の安寧を心より願い乍ら確実に其の安寧を乱しつつ、ついには彼をすあまの犠牲にした。だが、男性の健康は保障された。

 尚、確率検証当時、偶然にも被験者には運命捜査系のツーリストが多かった為美味の頻度が上がっていたに過ぎず、実際は従来品と変わり無い事が後ほど判明するのだが、其れはまた別の話。


 ――凡そ一年振りになるか。

 軍人は未だ白い息を規則正しく揺らし、改めて里の様子を眺める。誰もが素朴な暮らしを営む、記憶の中のそれと印象に齟齬が無いのは実に結構――なのだろうと上辺で想う。
 嘗て沼淵は多くの民と此の里を秤に掛け、場合に拠っては切り捨てる事も辞さぬつもりでいた。そうしなかったのは只単に状況が変わった為で、つまり結果に過ぎない。
 あの時――少なくともあの瞬間の己に取り得る選択肢の中では最上だった筈だ。
 偶々、ゼロに供された団子らしき胡乱な食物を口にした途端身を捩って苦悶する男の滑稽な様に目が留まる。沼淵の横を子供達が「こんにちはっ」と元気に駆け抜けていった。広場で熊送りの支度をする人々が談笑している。

 ――……本当か?

 平和其の物の光景を前に、彼等の犠牲を必然とした嘗ての判断に疑念が生じた。

 ――もっと善い手があったのでは?

 ならば最善手はなんだ。当時の状況、己を含む白虎を取り巻く者達――策を弄する者にとり、場に在る総ての者が盤上の駒足り得る。其の点に於いては敵だろうと味方だろうと中立だろうと違いは無く、そして全体の利害の一致点さえ見出せば、捨てる物は自ずと定まる物だ。
 だが、幾度想定し直し思考を重ねてみても、良案が浮かばぬ。


 沼淵は、穐原城外にて白虎と対峙した際、彼と交わした怒鳴り合いを、其の問いを思い出す。

『ならば貴方に取って朱昏の人々とは何だ!』

 犠牲云々の選択とは異なり、此方の解は考える迄も無かった。
 皮肉な事だ。
 そして、其の解こそがきっと、朱昏の真理数を得た妖二人と得られぬ己との埋められぬ差なのだと――。
「――此処に居たのか」
 不意に聲を掛けられた。最前の思考にて反芻したのと同じ不器用な、併し今は鷹揚でいくらか親しげな調子で。
 ぎし、ぎし、と積もる朱を踏む雪靴の音が近付き、
「……また食わせてるな」
 やがて複雑な面持ちでゼロ達を見遣る青年が隣に立つ。
 沼淵は「ああ」と頷き、其の頭上に浮かぶ真理数を、この微笑ましい日常に随分と馴染む新たな『朱昏の民』を、順に一瞥する。
 思考が尚留まらぬは彼にも浅からず係わる事案故か。

 沼淵にとっての朱昏の民とは、即ち『守るべき無辜の民』であり、同時に其れは取り立てて何の感慨も湧かない――謂わばどうでもいい、赤の他人だった。

「何か考え事か」
 軍人の無口を、半妖は気遣いげに見る。
「――否。君には関係の無い事だ」
「……『君』?」
 意外そうな聲は流し、嘘を遺して垂らし放しの左の袖と裾を翻す。
 背中に視線を感じ乍ら、人ならぬ彼等に未だ遠く及ばぬ己が人間性を鼻で笑う。
 其の事を悟られぬ様にする為だった。

 ――そう云えば、あの男。

 ふと、もう一人の再帰属者――槐の、半端な顔が思い出された。
 あれは自らの命を捨てたが、朱昏の摂理すら図った彼の望みは無事結実した。
 白虎は沼淵等の働きに拠って沈静化し――其の最中行く認可の坊主が捲き込まれはしたものの――自身は再帰属を果たしてから死んだ。
 或は白虎ごと連れて行くつもりだったのかも知れないが、終と菊絵の顛末をみるに、其方は其方で丸く納まっているのだから問題無かろう。
 総てを盤上に納め、自身は解き放たれ――今頃は儀莱で宜しくやっているのか。

 ――いい気な物だ。

 沼淵はもう一度、鼻を鳴らした。


  ※ ※ ※


 朱く染まり、朱く濡れ、朱く光り、朱く氷る。何もかも、見渡す限りの朱い情――けれど、身も心も歩みも言葉も何もかもが真っ白なゼロは、そんな霊峰と殆ど同じ大きさになって、空路を往く玖郎以外の全員とソヤの骸を宝珠の座に運ぶ。

 翌日、比較的朝の早い神夷の民の多くが未だ目覚めぬ中。
 旅人達は早々にコンルカムイへと出立していた。
 ソヤの埋葬を兼ねる手前、本来ならばイメラと老婆を伴うべきだったが、彼等は飽く迄霊峰を侵さぬという仕来りを全うする心算の様で、同席を辞退した。

「此処でいいか」
 碧は風穴の最深部の、宝珠の座の後ろに屍蝋をそう、と凭れ掛ける。永らく髑髏の座に在った所為か、姿勢が崩れる事は無かった。
 次いで陰陽珠を握り締める玖郎が、前へ進み出る。
 終が其れに続き、前方へ手を翳す。
「――、」
 玖郎が座の上に、ゆっくりと宝珠を載せるとじんわり朱色を帯びる、終の手元から周囲に凍氣が広がり、其れは徐々に前方へ、座の後ろの屍蝋の側へ掬ばれてゆく――始めは疎らだったびきり、ぱきりと乾いた音が次第に小刻みに重なり、遂にはすっかりソヤが氷浸けとなった。
「ゼロには祈ることしか出来ないのですー。なのでお祈りするのですー」
 何処で覚えて来たのかゼロが両手を合わせると、皆、思い思いの方法で、五十年もの昔に非業の死を遂げた女傑の、魂の安寧を祈り始めた。

 碧は只瞑目する。此の地の探訪に始まる一年が思い出される。
 聞き及ぶソヤの末路を浮かべ、せめて忘れ形見である菊絵の幸をと祈り、願う。

 沼淵にとっては、縁無き女に特別想いを馳せる事等在り得ず、矢張り其の姿は嘗ての敵其の儘である。そも、死者への正当な情等皆目判らぬ。
 故、飽く迄軍の規範通りに判を押した様な形ばかりの冥福を、胸中で言葉にした。
 慣れたものだ――そんな己に呆れ乍ら。

 ゼロや終にしてみれば――玖郎もだが――ソヤは既に記憶が失われていたとは云え直に言葉を交わしており、死者とみるには些か不思議なものがある。
 とは云え、儀莱に在るならば「冥福」を祈る事に間違いは無く、ゼロは澱みなく安寧を願う。終もそれに倣う。

 やがて誰ともなく祈りを終えた頃、玖郎の聲が響いた。
「宝珠を安置し理が再構築されたなら、玄武も蝶も再び凝るかと思うたが」
 霊峰に踏み込んでみても、風穴の座を訪れても、宝珠を置いても。
 起きた事と云えば水理が肌に感ずる程増して、終が其れに己が氣を乗せ氷をつくった事くらいである。
 相変わらず水の守護者は姿をみせぬ。凍て蝶の燐すら窺えぬ。
 玖郎と終は示し合わせた様に互いを見て、困惑していた。
「玄武さんがいないということは、終さんがここを守護するのです?」
「まさか。…………俺が?」
 ゼロが畏れ多い事を云ったので即座に否定してみたが、併し。
「違うのか。そうなるものとばかり思っていたが」
「何を今更。『コンルカムイ』が聞いて呆れる」
 碧がしれっと云ってのける。沼淵が煽り溜め息する。
「先のことは判らぬが、あたら理を持ち出されぬよう護る者は必要ぞ」
「玖郎まで……」
 共に帰属する、併し居は別に構える鳥妖が駄目押しに云った。

 終としては、この地を護る事自体は元より考えていたが、仲間達の言には戸惑いを隠せなかった。
 何しろ彼は、一歩間違えば朱昏に大きな災厄を齎していたかも知れないのだから――其れが許されるのだとしたら、本当に畏れ多かった。
 併し、一方で実感もあった。

 俺は漸く何者かになれるのだと。きっと、この先の繋がりによって――。


「えっとね、お二人ともおめでとうなのですー」
 風穴を出ると、日はすっかり昇っていた。
 だからなのか、ゼロの祝言は殊更明るく高山に響き渡った。
 唐突な様で当然の其れは、同時に別れの時を告げる言葉でもあった。

 ひゅ――と吹いた風は、既に柔らかい。春が近いのか。

「これからどうする」
 終が皆へ投げ掛けた。
「北極星号に乗る」
 沼淵が答え、同道する碧も頷き、ゼロは「なのです」と片手を上げる。
 ばたばたと風に流れる左袖は旗揚げの様にも見えた。
「故郷への帰属を含め、未だ己では解せぬ事ばかり。零世界で煩悶に暮れるぐらいならば、せめて某は見識を広める事に努める心算だ」
 彼等は未だ旅人、次なる旅に赴くのみか。
 だが――
「おまえが量る己がいのち、知己が量る重さも同じと思うな」
 玖郎は玖郎なりに沼淵の身を、自ら危機的状況に飛び込む其の在り方を案じていた。故、云わずにはいられなかった。
「……痛み入る。玖郎殿も壮健で」
 沼淵は知己とされた事を噛み締める様に、或は処遇に窮する様に、返礼した。そして、誤魔化してでもいるのか、じろりと終に視線を戻す。
「人に構っている暇があるならば今後の住処について悩みでも巡らせておけ。一度経験したが、氷穴で直に寝起きするのは余り勧めんぞ」
 軍人の憎まれ口に、半妖はむっとするも、すぐに口元を綻ばせた。
 尚、沼淵は語る。
「――妖として帰属すれば人に害為す事もあろう」
 これ迄極端に少なかった口数の埋め合わせでもする様に。
「それ自体はただの事象だ。それを含め、この世界は君達を受け入れた」
 自身の想いに近しい軍人の言葉を、其れを受ける二人を、碧はじっと観る。
「なれど朱昏に無用の影響を齎すようならば容赦はしない。……道化娘と虎猫の予言の目をかいくぐるは厳しいぞ」
「噫……」
「肝に銘じよう」
 別々の口が、忠言を素直に受けた。
 沼淵の云っている事は全く其の通りだと、碧は想った。
 仮令自身に其の心算が無くとも、過ぎたる力は周囲が仇とするものだ。
 嘗てはソヤもそうだったのかも知れない。
 これから玖郎がそうなるのかも知れない。

 ――あいつは強かった。

 レタルチャペの様に。碧自身がそうであった様に――。
「……そう云えば。碧、洞では済まなかった」
 思索を重ねていた麗人に、突然終がそんな事を云った。酷く不足しており他者には何の事か判らぬ言動を、併し碧は即座に理解し、ほんの幽か、笑う。
「拳を交えたのは、悪くなかったぞ」
 名と同色の瞳で、終を――其の奥底に宿る神性を見据え。
「次は無いがな」
 私が勝つ――つまりはそう云う意を込めて、ほつりと云った。
「……『望むところ』、だそうだ」
「……なんだ、やっぱり居るんじゃないか」
 少し意外な応えに、碧は少し驚く。
「あと――其の翅……綺麗だと」
 其れはどちらの言葉なのか――と想ったが、終は気恥ずかしそうに目を逸らすだけで結局明らかにしない。ぎこちなくて、少しくすぐったい。まるで菊絵と話している様だ。
「当然だ」
 だが、悪い気はしなかった。
「ひとに近しい熱もつおまえは、ひとの熱をうけられよう」
 そんな碧を、玖郎迄もが、まるでヒトの如くに云った。故郷では只の化け物でしか無かった彼女をヒト扱いする妖達を、旅人を、碧は快く想う。
「玖郎さん」
 ゼロは玖郎――と云うよりは其の身を包む翼を物欲しげに見上げる。
「えっとね、翼をもふもふさせてくださいなのですー」
「……? 構わぬが」
 そうする事の意味を図りかねる鳥妖に、謎存在はぼふっと顔を埋めるなり全く説明になっていない説明をする。
「もふもふもふもふうんとね、もふもふはふわもこ即ち大いなる安寧に通ずるとても素晴らしいものなのですもふもふ」
 いちいちもふもふと声に出してはもふもふと幸福感に包まれもふもふし続けもふもふに身も心も委ね兎に角もふもふする。全く以ってもふもふである事この上無くけしからんぐらいもふもふである。もふもふ。
「…………」
 玖郎は不慣れな事態に如何する事も出来ず、取り敢えず気の向く侭にさせた。
「……これで『追いコン』は完了なのです。めでたいのです」
 しがみ付いて顔が隠れた少女の声は、にも係らず聞き取り易い。
「でも、別れの時は寂しいのですー」
「――そうか」
 子供が甘える様な――事実そうなのだが――ゼロの物云いに、鳥妖は僅か俯いた。

 ――……龍王よりも揺るがぬ存在に、おれが言うべきことなどなかろう。

 そう想って居たのだが。

 二人の様を眺める女の銀髪が、さらさらと風に流れる。沸き立つ心地好くも何かが欠ける不思議な感慨は、其の端整な口を上下させる。
「お前達は此処を選んだ。私達は違う先を選ぶ」
 だが其の事にどれ程の差異があろう。
「どちらも変わらない筈だ」
 だから碧は、仮令これが今生の別れだとしても、彼等の存在を認め続ける。
「皆の願いが叶う様に願っている」
 万感の想いを込めて、終が云った。
「特にゼロの、」
「早速危険思想だな。撃つぞ貴様」
「……え? いや、安寧は一つではないから」
「総ての世界がもふもふだと拙いのです?」
「おれには判じ得ぬ」
「少なくとも自分は困るが」
「某とて願い下げだ」
「でも、ヌマブチ」
 皆が口々に好き勝手述べる中、終はずっと想っていた事を漸う投げ掛けた。
「戦争など無いほうがいい。……そうは思わないか」
「――……これで別れだ」
 沼淵が目もくれず踵を返す。碧は視線のみ寄越し、ゼロはぱっと玖郎から離れて此方を向いた侭何度も小さな手を振って、彼に続いた。
「精々平凡に生きて平凡に死ね」
 高山に男の聲がよく響き渡った。
 突き放した、けれど紛れも無い達者を願う言の葉。
「偶に話が聞ければ嬉しい――自由な旅の!」
 終は負けじと聲を張り上げた。玖郎は無言で見送る。
「冗談では無い。二度と会わない事を祈る」
 下り坂で見えなくなる直前、軍服の右肩から無骨な手がひらひら揺れていた。

「……世話になった。礼を云う」
 姿が見えなくなる頃、玖郎がぽつり、云った。


「往ったな……」
「うむ」
「これからは俺も神妖の類とも上手く遣っていく必要があるんだろうな。……玖郎の方が感覚として判るだろうから、力を借りる事が多いかも知れない」
 引き上げた三人の姿がすっかり見えなくなっても尚其方を見乍ら、終は「そうだ」と思い出した様に傍らの糧秣を指し示す。
「いつかの鳥達への礼が未だだっただろう。持って往ってくれ」
「忝い」
「礼を云いたいのは……と云うより、この先も礼を云う事になるのは、懼らく俺だ」
「帰化しても長き付き合いとなりそうだ」
「違い無い。また宜しく頼む」
「……うむ」
 玖郎が崖淵に立ち、雄々しい翼を広げて。終の側に顔を向けた。
「子が生まれし折はしらせよう」
「……え? ……そう、だな」
 終は一瞬きょとんとしたが、直ぐに其の意味を理解したのか、如何にか頷く。
「おまえならば、ふれまわることはあるまい。……見にくるとよい」
 知り合って以来終が初めて触れる、玖郎が初めてみせる、優しさの滲む声だ。
「楽しみにしている」
 だから、終も優しく応える。
「然らば、また参会の折に」
「噫、また――」
 コンルカムイが別れの挨拶を終えるより先に、レラカムイは崖から飛び降りていた。気流に委ね、滑空してはばたき、直ぐに安定する――風に、乗る。

『…………』
 終の傍らに真っ白い獣が行儀好く座し、宿主共々玖郎を、そして下山して遠い点となった三人の旅人を、只見送っていた。




 朱昏の空は未だ寒く、高い。だが、風が新芽と花の匂いを運ぶ。新たな木氣に高揚感と安らぎを覚えた。既に眼下より朱氷は失せ、針葉の森が広がる。
 西国最北の村は、手を伸ばせば届きそうな程近く。
 其の遥か向こうに広がる山々と、大地と――凡てが新しき郷里の一部。
 僅かに散った古い羽が便りの如く風に舞う。歓迎とばかり雀の群が傍を過った。嬉しく想い、より羽ばたく。少し、はしゃいでいるのだろうか。……誰に咎められようものか、構いはすまい。
 もっと迅くとも好い、なれど慌てずとも善い。未だ始まったばかりだ。

 ――我が種は増えよう、この地でゆるやかに。

 住むに手頃な山野は無いか、里に近しければ尚。
 皆が売り込みに風へ押寄せる。戸惑いかけたが、選ぶは易く。
 風を通じ五氣に訊かば道は自ずと定まるもの。無駄な物等ひとつも無き故。

 ――移り、変わり、つないでゆくだろう。

 故、情の力満ちし此の世に天狗が迷う事は無い。
 朱――否、薄紅の花弁がひとひら、擦れ違う。
 丘の上、林に囲われた黒く朽ちかけた広大な邸に、櫻の古木が咲いていて。
 玖郎の口元が幾分か和らいだ。

 ――生く術を、尊し記憶を、いのちを。




 遠い遠い空の彼方に雄々しき狗鷲を見出して。
 何故だか其れがこの地の平安の象徴の様に思えて。

「皆様がずっと安寧の内にありますようになのですー」

 まどろみの少女は、総ての安寧を、密やかに、永久に祈った――。


(了)

クリエイターコメント最後の最後までお待たせしてしまい申し訳ございませんでした。
北の台地より、再帰属とそのお見送りの一部始終をお届け致します。

皆様の冒険模様を描く機会を得られた事、心より嬉しく思います。
語りたい事が山ほどあったように想うのですが、その多くはいつものようにノベルに散りばめております。
今はお二人の新たなる門出と、以後も旅を続けられるお三方の道行きに幸多き事を願い、朱昏は西北の展開をここにむすびます。


本当に長い間のお付き合い、どうもありがとうございました!
公開日時2014-03-31(月) 21:40

 

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