闘儀開催まで十日を切ったその日も、彼は鍛錬に精を出していた。 決して大柄ではないが、鍛え上げられ磨きぬかれた彼の肉体は、まるで生きた鋼のようだ。(此度も……ただ、己が最善を尽くすのみ) 十度繰り返したとしても、優勝への気概、気負いはない。油断も、慢心もない。単純に、己が持てる力の全てを出し尽くしたいという、純粋にして硬質なる願いだけが彼にはある。 不意に、あなた、と小さな声が呼び、彼はゆっくりと振り返った。 そこには、一昨年の優勝を期に妻となった美しい女がいて、困ったような、悲嘆に暮れるような表情で彼を見つめている。「どうした、ファティエ」「――ヘイワンさんが、たった今」 それだけで、すべてを察した。 脳裏をよぎる、猛獣のような鋭い眼差しに、胸の奥が激しく痛む。 眼の奥が、熱い。「そうか……」 彼は、天を仰いで瞑目した。「よもや、このようなかたちで別れを迎えようとは」 互いに、互いがいたからこそここまで来られたと言える、無二の友にして宿敵たる男だった。 彼が床に伏して半年、必ずや健やかさを取り戻し、再び同じ舞台に立つと信じて今日まで来たが、それはもはや叶わぬ願いとなった。「ならば……今年の闘儀は、『神』と奴、双方のために捧げねば」 ゆえに、尚更、何者にも負けられぬ。 己を打ち負かす者が現れるとすればそれはあの男だけだと、そう思って日々の鍛錬に励んできたのだから。「……見ていてくれ、ヘイワン」 空に向かってつぶやき、彼は拳を握り締める。 ――だが、彼は知らない。 その友が、妄執によって邪念に囚われ、我を見失って、狂気とともに牙を剥こうとしていることを。 * * * * *「奉神闘儀(ほうしんとうぎ)、という催しなのであります」 端的な物言いとともに、ヌマブチは一枚の書類をテーブルへと広げた。 そこには、インヤンガイのとある街区にて開催される武道会の概要が記されている。「へー……神さまに捧げる戦いなんだな。結構、歴史も古そう? おっ、優勝者には望みのままの豪華賞品だって!」 白い紙面を覗き込んで桐島 怜生が目を輝かせ、「え、じゃあ俺美味しいものがいいなー。甘いものだったらなおよし」 蓮見沢 理比古が、実はこの中で最年長だとは到底思えない、驚異の童顔をほころばせる。「賞品に関して言えば、『あれば嬉しい』程度でありますが……その辺りはどのような具合ですかな、贖ノ森殿」「祭の概要から言えば、優勝者の望む大抵のものは叶えられるようだ。この奉神闘儀においては、ともかく強き者同士の闘いを捧げることが目的だからな。褒美を出し惜しんでいては、よい人材も集まるまい」「なるほど、それは確かに。この祭の縁起など、お尋ねしてもよろしいか?」「ん、ああ。何百年も昔、辺り一帯を破戒し尽くさんとした凶暴な暴霊を斃すため、命がけで挑む覚悟を決めた若者が天に祈ったところ、光とともに顕れた『神』が剛力を与えてくれた……という伝承に由来しているようだな。暴霊が若者に退治されたとされる日に、街区一の猛者を決める戦いを催し、その闘いを奉納することで『神』に感謝する、という祭であるらしい」 ゆえに、強き者を選ぶための戦いは毎年白熱し、勝者は富も地位も名誉も思いのままであるといい、そのため遠方からわざわざやってきて参加するものも少なくないのだそうだ。「祭は近隣の街区でも有名でな、上流層にも愛好者は多いと聞く。優勝者の中には、上流層の見物客に見初められてその子女と婚姻を結んだものもいるらしいぞ。要するに、勝者となれば栄光は思いのまま、ということだろう」 籠いっぱいのドーナツをテーブルに置きながら、そんな風に贖ノ森 火城が言うと、褐色の指でドーナツをつまみ、「賞品か……その辺りは皆に任せてもいいけど、でも、お花があったら、見られるだけでも嬉しいかも」 純白の花嫁衣裳に身を包んだニコル・メイブがにっこり笑った。「ね、ホムラ、それでその闘いって、詳しくはどういう内容なの? 使っていいものとか、やっちゃいけないこととか、あるんじゃない?」「ああ、そうだったな」 ニコルの言葉にうなずき、司書は『導きの書』をぱらぱらとめくった。 曰く、 一。試合はトーナメント制で行われる。 二。刃物や飛び道具、特殊能力などの使用は認められていない。素手、木刀や木剣、木槍の使用は許される(これは、若者が棒術と体術でもって暴霊を斃したという伝承に由来するものであるらしい)。 三。意識を失って十秒経つか、降参すると敗北が決まる。 四。闘儀は円状の大きな石舞台で行われる。舞台から落ちて十秒経つと敗北である。 五。相手を殺害してはいけない。 六。『神』は純粋な力と力のぶつかり合いを好まれる。 ……と、いうのが奉神闘儀の概要であるそうだ。「六番目のそれはどういう意味でありますかな?」「奉納試合という性格を考えると、あまり小細工をするなということじゃないか?」「ふむ……つまり、武器を仕込むようなイカサマをしてまで勝とうとはするな、ということであるかな。――ばれなければイカサマではない、というのもまた真理ではあるが」 飛天 鴉刃が黄金の目を細めてつぶやくと、火城は軽く肩をすくめた。 薦めはしないが判断は任せる、ということらしい。「んで、えーと……この試合に参加して優勝してくればいいの? 内容的に手強いのも多そうだし、そんな簡単じゃなさそうだけど……」 怜生が書類をためつすがめつしながら言うと、火城はまた『導きの書』をめくり、うなずいた。「十年間優勝し続けている男がいる。かの若者の再来ではないかとすら言われている男だ。――彼を打ち負かして優勝の高みへ昇るのは、相当骨が折れるだろうな」「え、そんな強いんだ」「素手で虎をくびり殺す手練だそうだ」「虎を!? 何その猛獣解体ショー!?」「彼の他にも、恐るべき力を持ったトーナメント上位の常連が何人もいる。決して容易い道のりではなさそうだな。まあ、健闘を祈る」「さらっと締めくくったよ、この人……!」「……暴霊が出る、というのは」 驚愕の表情で裏拳を放つ怜生をチラと見やったのち、最後に口を開いたのは阮 緋だった。「募集要項の中に、闘儀の参加と暴霊の退治という文字を見たように思うのだが」 静かなその言葉に、小さなうなずきが返る。「十年間、準優勝し続けた……準優勝しか出来なかった男の妄執だ」「……何?」「『彼』は強かった。だが、『彼』よりもっと強い男がいた――『彼』の親友だ。『彼』は必死に鍛錬を重ね、心身を鍛えたが、どうしても優勝することが出来ないまま、先日、病で死んだ。その無念に何者かが邪気を吹き込み、『彼』を暴霊化させた……恐らく、決勝戦の辺りで、姿を現すだろう」 ただ、勝ちたい、優勝という高みへ上り詰めたいという強い思いだけで。「暴霊は周辺の邪念を取り込んで徐々に肥大化し、狂気にとらわれてゆく。『彼』は優勝への執念、勝利への執心だけで動いているつもりかもしれないが、心と行動は少しずつ歪んで行くだろう。――要するに、放っておけば数多くの被害が出る、ということだ」 いずれ『彼』は、親友たる男さえも――何故自分がここにいるかも忘れ、武人としての誇りも過去も失ってしまうだろう。強い執着のままに彼を殺し飲み込んで、あとは周辺を破壊しつくすのみ。「『彼』はヒトのかたちを? ヒトのかたちさえ留めていれば、例え大きくともそう難しくはなかろう……ヒトの動きは、我ら同属には読みやすく、防ぎ易い」「はじめは。だが、完全に狂気に飲まれてしまえば、いずれは」「……そうか。それは、憐れな話だ」 妄執の果てにヒトである己すら忘れ、帰る場所すら失ってさまよう魂を思ってか、緋が瞑目する。「じゃあ……助けてあげなくちゃ、その人」 手にしたドーナツを見つめつつ、理比古もぽつりとつぶやいた。「心が動けないって、苦しいもんね」 何か思うところがあるのか、困ったように笑う理比古に頷いてみせ、火城はチケットを六枚、取り出す。「祭を楽しんでくれても、己が実力を本気で試してくれても構わない。――ただ、そのついでに、強い無念のゆえに道を踏み外し、大切なものを見失おうとしている魂をひとつ、救ってもらえるとありがたい」 どうか、武運を。 司書は、そう言って、ロストナンバーたちを送り出したのだった。=========!注意!この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。ただし、参加締切までにご参加にならなかった場合、参加権は失われます。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、ライターの意向により参加がキャンセルになることがあります(チケットは返却されます)。その場合、参加枠数がひとつ減った状態での運営になり、予定者の中に参加できない方が発生することがあります。<参加予定者>ヌマブチ(cwem1401)桐島 怜生(cpyt4647)蓮見沢 理比古(cuup5491)飛天 鴉刃(cyfa4789)阮 緋(cxbc5799)ニコル・メイブ(cpwz8944)=========
1.雷鳴ひとつ ずるり。 彼は重たい足を動かした。 『アア……』 思うことはただひとつだけ。 あの男に勝利する、たったそれだけ。 気が狂いそうな焦燥が攻め立てる。 『お前、を、倒……、殺……?』 ああ、早く行かなくては。 行って、彼に勝利しなくては。 ――『彼』が言ったように。 勝利して、彼の血肉を、命を啜り、何もかも自分のものにしてしまわなくては。 強い執着、死してなお残る願いが、歪んだ方向に逸れ始めていることにも気づかず、重たい脚を引きずって、彼はまた進み続ける。 ――じき、雨になりそうだ。 石づくりの闘儀場上空は、分厚く黒い雲に覆われていた。 「雨が降り出したら参加者はびしょ濡れでありますな。戦い方もまた変わってきそうだ」 軍帽をずらし、ヌマブチは濃灰色の空を見上げる。 彼の言うとおり、闘儀場に屋根はない。 円形の、直径五十メートルばかりある石舞台――いったいどんな技術で加工しここへ据え付けたのか、場内に五つあるそれらには継ぎ目が一切ない――の上には、重苦しささえ感じさせる曇天が広がるばかりだ。 「ま、お客さんが濡れずに済むんならいいんじゃね? 濡れながら戦うってのも、鍛錬としちゃ大事だもんな」 しかしすごいお客さんの入りだなあ入場料がひとり幾らとして……などと何故か計算を始めている桐島 怜生は、無手の戦いを得意とする彼には珍しく、木刀を手にしている。 怜生の視線は、石舞台の向こう側に彫像の如くたたずむ、ひとりの男に注がれていた。 身長は170半ば、年の頃は三十代半ば。 マッシヴな、と表現出来るようなごつい体格ではないものの、他の参加者たちとは明らかに一線を画す、明らかに別格と判る雰囲気を漂わせた男だ。 「彼が前回の優勝者だっけ?」 こちらは素手の蓮見沢 理比古が、すっごい強そうだねと呟くと、 「ロンガン……字を当てれば龍巌、か。虎をくびり殺す武人とは……以前出会った、三本指で虎を殺す武道者とどちらが強いやら」 飛天 鴉刃が金の眼を細める。 理比古は頷き、ひとりだけまとう空気すら違う手練をこっそりと覗き見た。 「しかしまァ、ざっと見ただけでも猛者ぞろいの祭だな。さて……どう攻めるか」 鴉刃は拝借した木刀を軽く叩き、 「特殊能力や刃物が禁止と言われると辛いものがあるな……特に、もはや癖になっている飛行を使えぬ」 石舞台を見つめたまま、しばし黙り込んだ。 脳内でのシミュレーションに入ったのだ。 理比古はそれを邪魔しないように距離を取り、どんどん重々しさを増してゆく雲を見上げた。雲間に金の光が瞬くのは、雷雨が来るということか。 「ああ、雨の匂いが……」 風が冷ややかさを増し、水の匂いを孕む。 「かの伝説の日にも、光とともに神は降り、力を授けたと聴く。それはもしや、このような時だったのやもしれぬな」 阮 緋はどこか楽しげだ。 長い髪も、逸るようになびいている。 と、 ごぉお……んん。 遠方で、銅鑼の音を思わせる雷鳴が響いた。 空がちかちかと瞬き、もうひとつ、鐘の如くに空が鳴る。 「ああ、はじまりってこと?」 ニコル・メイブはくすっと笑った。 彼女は武器を手にしていない。 素手で戦うつもりでいる。 「神に捧げる……ね」 あの光る天の上に、『ソレ』がおわすのだろうか? 『ソレ』は苦しむものの願いを叶え、祈るものに手を差し伸べるのだろうか? 他愛ないことを考えつつ、ニコルは微笑む。 「オーケー、全力で行こう!」 宣誓めいたニコルの言葉と同時に、闘儀の開始を告げる大鐘が鳴り響く。 「まずは予選、でありますかな」 「暴霊が出現するまでは様子を見ざるを得まい。――せめて、八強辺りには入りたいものだが」 「俺はもちろん優勝を目指すぜ! ってことで、勝っても負けても恨みっこなし! ぃよっろしくぅ!」 「俺はまあ、ちょっと他にやりたいことがあるから、闘儀自体は無理せず出来る限り? あ、お手柔らかによろしくねー」 「私も、ドーナツとコーヒーに報いるだけの働きはしなくちゃね」 「暴霊のことは俺も気にかけておくつもりだ。ふむ……だが、何にせよ、彼が見て情けなく思うような戦いは出来ぬな。精々、励むとしようか」 そうして、戦いが始まる。 2.獰猛な円舞曲 聴くところによると、今回の闘儀参加者は百数十名にものぼったそうだ。 予選と称した乱戦で半数以上がふるい落とされ、本戦参加者が決定したところで対戦相手が組まれ、トーナメント戦が開始される。 盤上では、すでに闘儀が始まっている。 「まァ、予想通りといった展開であるかな」 ロストナンバー全員の姿をそこここに見出し、“素手で虎を殺す手練”が息ひとつ乱さずたたずむ姿を当然のように見ながら、鴉刃は指定された石舞台へと歩みを進める。 「さて……では、第一試合とゆくか」 すぐに、鴉刃の出番が来る。 大鐘が打ち鳴らされると、会場がどっと湧いた。 選手たちの高揚に加え、一万人を超える観客の興奮と期待が放つ熱気で周囲は暑いほどだ。 鴉刃が石舞台に上がったのと、隣の石舞台にニコルが上がるのとはほぼ同時だった。ふと動かした視線の先で目が合って、互いに鋭い眼で笑った。 それから、対戦相手と向き合う。 「――飛天 鴉刃、お相手仕る」 相手はまだ若い男だった。名はジウンといっただろうか。 合図とともに一礼し、無言で対峙する。 (なるほど……予選を勝ち残り、石舞台に立つとはこういうことか) 盤上にいる選手すべてに言えることだが、皆、よく練られた気をまとっている。 と、男が無言で動いた。 (速い) 一息に距離を詰める彼の手の中で、長めの木刀がくるりと踊り、次の瞬間には鴉刃めがけて突き込まれる。 鴉刃は身体をひねって避けながら木剣で受け止め、巧みに力をそらして流すと一歩踏み込み、掬い上げるような動作で急所めがけて打ち込んだ。が、カウンター攻撃を見越しての攻撃だったのだろう、それは紙一重で避けられてしまった。 「ふむ……初戦からこれでは、並の実力ではこの盤上には立ち続けられまいな」 お祭でありながら常に真剣勝負。 だからこそのこの凄味であり、観客の興奮なのかもしれない。 速度と重さの乗った打ち込みを受け流し、打ち返しながら状況を伺う。 剣での攻防だけと見せかけて、得物同士組み合った瞬間に、空いている手や尻尾での打撃を試みるもこれは読まれていたようだ。するりとかわされ、背後に周り込まれたが、鴉刃は慌てず騒がず前へ跳び込み、転がりながら身体を捻って向きを変えた。 すぐに体勢を立て直し、気配ひとつなく間合いへ飛び込んできた青年の、木刀の重い一撃を受け止める。 刀を弾き返し、今度は自分が踏み込んで、木剣と拳、更には尻尾まで用いて攻めにかかる。『うっかり』木刀を蹴飛ばしてタイミングや体勢を崩してやろうという目論見は、読まれていたか感づかれたか、鴉刃が視界に入れた瞬間計ったかのように引かれた所為で果たされなかったが、それを抜きにしてもふたりの戦いは高度で、見事だった。 「へえ……やりますね」 初めて言葉を発した青年が、邪気のない笑みを浮かべる。 「お前もな」 「ただ……お仕事は、後ろ暗い関係?」 「好きに想像するがよい」 鴉刃は軽く肩をすくめると木剣を構え直した。 試合はまだまだ続行中である。 「やれやれ……初戦からこれでは、先が思いやられる」 愚痴るように言いつつも、鴉刃の金眼は楽しげに細められている。 * * * * * 視界の隅に、一瞬の隙を突いた鴉刃が背の高い青年を打ち倒し、勝利を収める様が映り込む中、 ニコルが相手取っているのは二十代後半と思しき長身の女だ。 名をユイラという彼女は、今のニコルと同じく素手での参戦だった。 予選を軽々と通過して、しかもすでに初戦・第二戦と勝利しているというユイラを見れば、本当の強者に性別など実は関係ないのかもしれないと思わされる。 「アナタは、優勝したら何をお願いするの?」 攻撃に転ずる際の予備動作が同じ、複数の技を織り交ぜてのフェイントをものともせず、的確に防御の甘い部分を突いてくるユイラは、戦いやすいのと同時に厄介な相手でもあった。素手での組み合いは、得物を手にした相手と対峙するのとはまた別の困難さがある。 とはいえ、ニコルの戦い方に普段との違いは見受けられない。 「私? 私は……そんなにこだわりがあるわけじゃない、けど」 襟首を掴まれそのまま投げ技に移行されそうになったのを、焦るでも逃れようと足掻くでもなく、むしろその力に逆らわず、身体ごと押し込むように彼女に接近。わずかにバランスを崩させて、手の力が緩んだのを感じ取るや、するりと間合いから逃れる。 「綺麗な花を、たくさん見られたら、それだけで嬉しい」 朴訥な言葉に、ユイラが相好を崩す。 「素敵なお願いだわ。あたしは小さくて綺麗な家がほしいの。庭付きのね。そこで、花や野菜や果物を育てて暮らしたいのよ」 ユイラの願いもまた朴訥だ。 「そっか……だけど、どっちかしか叶わないんだよね」 「ええ、そうね」 無邪気に、にこやかに、ドライに言って、次の瞬間真っ向から組み合う。 その間にも、ニコルの優れた『視る』力は、ユイラの全身の動きを捉え、足捌き、踏み込み方、足の位置、呼び動作から次の動きを割り出してゆく。 「ん、力じゃ負ける、かな」 しばしの力比べの後、ユイラの脚を払い、彼女が身体をずらして避ける間に側面へ回り込み、背後を取る。 無論そのまま仕掛けさせてくれる相手でもなく、前方へと跳んだユイラは、着地と同時に向きを変え、驚異的な膝の力で一気に懐へ入り込んできた。固められた拳が防御の難しい急所へ突き込まれるのを側面からの円運動で払い、払われたことに対するカウンターを線運動で叩き落しつつ自分の間合いへと誘い込む。 拳、投げ技、そして蹴り技の連撃を、ほんのわずかに発動させた“切り札”で見極め、片手で拳を受け止めると反対の手で襟足を掴み、瞬時に脚を払ってバランスを崩させ、流れるような動きで地面へと転倒させる。 「!」 息を詰めつつも飛び起きようとするのを許さず、圧し掛かり腕を捕らえて関節を固める。身体全体を使って動きを封じたそれは見事に極まり、ユイラが全力でもがいてもびくともしない。 そのまま、ニコル自身も全身の力を駆使して押さえ込むこと一分と十七秒。 フッとユイラの身体から力が抜け、 「駄目だわ、降参」 白旗が掲げられる。 ニコルはにっこり笑って関節を開放し、不自由な体勢で無理な力を出したからか全身を汗に濡らして荒い息を吐く彼女に手を差し伸べて立ち上がらせた。 審判がニコルの勝利を告げ、会場が湧く中、 「また一からやり直しね……闘儀ってホント、猛者ばっかりで嫌になっちゃう。――次に会った時は、絶対に負けないんだから」 言いつつもどこか晴れ晴れとした笑顔を見せるユイラ。 「うん……私も負けないよ」 ニコルも笑顔で返す。 小一時間の休憩を経て、再度石舞台に上がったところ、目の前にいたのはヌマブチだった。 「あらら、当たっちゃった?」 「の、ようでありますな。さて、某の俄仕込み戦法がどこまで通用するか……?」 小首をかしげるヌマブチは、銃剣に尺の近い木槍を手にしている。 「うん、じゃあ、お互い恨みっこなしってことで?」 審判が試合の開始を告げる。 ニコルは深呼吸をひとつして身構えた。 身体は充分に温まり、休憩で“切り札”を使った疲れも癒えた。 勝利にも賞品にも執着はないが、戦いそのものを神に捧げる儀式だというのなら、やれるところまでやってみよう、と思う。 3.踊る道化 「ヌマブチさん、あれ、よかったの?」 理比古の問いに、ヌマブチはうっすら笑って頷いた。 「……某のような男が勝ってしまえば、それこそニコル殿への、ひいては神とやらへの冒涜となりましょう」 ヌマブチがこの祭に参加したのは、こういった状況下において自分がどのくらい動けるものなのかを計りたいという思いがあったからだ。 要するに彼にとってこの闘儀はひとつの機会に過ぎず、負けても死ぬ――殺されるわけでもない以上、失うものは何もなく、よってリスクがほぼ皆無であるがゆえに、勝敗には強いこだわりがない。 元々、戦場での生存の妨げになりかねない誇りや名誉への執着を厭っているのもあって、出発前にも再三口にしていた通り、ヌマブチはこの戦いに祭もしくは奉り以上の気持ちを持っていないのだ。 「ニコル、すっごい微妙な顔してたね」 「……試合自体は至極まっとうに戦ったぞ?」 「あーうん、見てたよ。最後の最後で手を抜いて敗北宣言したところも。第一戦見ても思ったけど、ヌマブチさんて殺すか殺されるかの世界の人なんだね。人体急所を的確に狙った無駄のない動きだけど、殺傷能力を持つ武器の使用が認められていないこういう場では決定打に欠けるっていうか」 「ふむ……的確な評価だ。某はどこまで行っても兵士なのでありますよ。ゆえに、心持と戦い方双方において、試合には向かぬのであります。このまま勝ち進んでロンガン殿と合間見えたとして、やはり勝つことは難しいでありましょうな」 ニコルと第二戦で当たったヌマブチは、彼女と渡り合った後、わざと隙を見せて追い詰められ、自ら負けを認めたのだ。殺るか殺られるかの世界でない以上、女性に手を上げる気はない、というのがヌマブチの主張であり生き方である。 無論、所詮は自己満足であり、相手の矜持を傷つける可能性のあることだと自覚してはいるが、 「ニコル殿には申し訳ないことをしたな」 「……でも、考えを変えるつもりはないんだよね、きっと」 「おや、よくご存知でありますな」 もっとも性質が悪いのは自分かもしれない、などと思う。 「相手を殺す、あるいは動きを封じることに重きを置いた戦法が身に沁みついているもので、こういった戦いは勝手が判らぬのでありますよ。――そういうアヤ殿こそ、闘儀そのものにはあまり執着がなかったようだが?」 「ん? ああ、うん、俺はどっちかって言うと暴霊のほうが気になってるから。俺の体力で勝ち抜き戦は厳しいってのもあるんだけど」 理比古は、抜群の動体視力、瞬発力と技巧を見せながらも、第二戦を勝利したところで棄権を申し出ていた。思うところあっての行動と気づいたヌマブチが声をかけ、同じ思惑と知って行動をともにしている。 早々に敗北したふたりは今、ヘイワンの自宅へと向かっていた。 「ロンガンさんと話をしてきたよ。彼は、ヘイワンさんを救いたいって言ってた。暴霊が現れたら、声をかけてもらうつもり」 理比古が暴霊を放っておけないと思ったのは、心が動けないまま変わり果てていく苦しみに共感したからだ。 「……勝ちたいとか、何かを掴みたいっていう気持ちは人間として自然なものだと思う」 強い願い、執着、それらを悪だと言い切ることは理比古には出来ない。 だからこそ、彼を暴霊に貶めた何者かに、気味の悪さと薄ら寒さを感じるのだ。 「判らないことばかりでありますな。このところ、ファージに関する胡乱な事件も頻発している。その関わりを考慮に入れつつ、出来る限り調べておくことも必要でありましょう」 要するに、ふたりは、敗北し自由の身になったのを利用し、ヘイワンが暴霊化した元凶について調べに来たのだった。 彼の家は、闘儀場から数kmの位置にあった。 庵のような簡素な家と、鍛錬にはもってこいであろう広い庭がある。 ヘイワンが没してからすでに十日ほどが経ち、そもそも人の生死に関する全般が軽い世界であるゆえか詣でるものもいない。 「なんだろ……肌寒い……?」 断りを入れてから内部に踏み込むと、背筋を氷片で撫でられるような感覚があり、理比古は眉をひそめる。 最期まで独り身を貫いたというヘイワンの住まいは掃除が行き届き、隅々まで整理整頓されていて、生前の生真面目さ、一途さを表すかのようだった。 「……暴霊の気配はないようでありますな。眠っているのか、彷徨っているのか……」 「うーん、特におかしなところもないみたい?」 彼が息を引き取った寝室、鍛錬した庭、友人たちと語らったであろう客間、そのどこにも、暴霊の気配は感じられない。 「あ、こっち、もしかしてお墓……」 庭を抜けた先の木陰に石碑を見出し、歩み寄ろうとして、理比古は息を呑んだ。 「アヤ殿、何か見つかったでありま、」 顔を覗かせたヌマブチも、唇を引き結んで沈黙する。 『ア……アァ――……』 墓石の前には、溜息のような、啜り泣きのような声を漏らし、背の高い影がたたずんでいる。 影は空を見上げているようだった。 影だとしか思えないのに、何故かそれが泣いているのが判って、 「ヘイワン、さん……?」 理比古が声をかけようとしたとたん、 『アア、ア、アアアアアア!』 影は苦悶の絶叫を上げて身をよじった。 ぎゅぶり。 気味の悪い音を立てて影が消える。 それと同時に、誰もいないはずの周囲から、 (今更遅いよ、もう戻れないって知ってるだろう?) (さあ、行っておいで。欲望の赴くまま、すべてを自分のものに) (ああ――それにしても、ヒトの絶望ほど美味なものはないね) (これで、また、僕は力を蓄えられる) (まだ……遊べる) 優越感に満ちた嘲りの言葉と、狂ったような哄笑が響いた。 「何者だ」 油断なく身構えながら周囲を伺うヌマブチの背後に、暗闇の色をした影が湧き上がる。 「ヌマブチさん、後ろ!」 影の中に見えたのは、 「今の……」 どこか高貴な面立ちをした、若い男の顔だった。 狂った愉悦にぎらぎらと輝く金の眼が、ふたりを見て細められ、そして消える。 生臭い、物理的な圧迫感さえ伴った風が吹いた。 途端、寒気も重苦しさも消え去り、あとには静寂が残るばかり。 「別の……暴霊、なのか……?」 ごおぉん、と、雷鳴が響いた。 「ともかく、闘儀場へ。恐らく、ヘイワン殿はそちらへ向かったのでありましょう」 顔を見合わせて頷き合い、ふたりは走り出す。 胸の奥に、もやもやとした疑念を抱きつつ。 4.求道者 「珂沙の白虎、阮亮道。お相手仕る」 緋はただ勝負を楽しみたいがためにここに来ていた。 戦いは緋の根本だ。 ゆえに、優勝にも賞品にもあまり興味はない。 己がどう戦うか、それのみに彼は意識を傾ける。 本日七人目になる対戦相手は、三十代前半と思しき大柄な男だった。 男はギエンと名乗り、合図と同時に大きな木刀を振りかざして突っ込んでくる。 「なるほど……ここまで来れば、誰も彼もが手練と見える」 巨体に似合わぬ俊敏さを讃え、緋は手の中で長い棒をくるりと回転させた。 「ふんッ!」 気合とともに振り下ろされる木刀を、タイミングを合わせて弾き、再度揮われるそれを受け流して間合いへ踏み込むと、軽やかな手付きで棒を打ち込み、隙をつくる。 手首を彩る腕輪型トラベルギア『封天』が高らかに鈴の音を響かせる中、軽やかに踏み込む緋の姿は演舞に没頭する舞い手のようにも見える。 木製の得物同士がぶつかり合い、どこか素朴な音を立てる。 男の一撃は重かったが、緋の君主のそれと比べれば紙と金ほどの差があった。 男の打ち込みは速かったが、緋の君主のそれと比べれば赤子の寝息と竜巻ほどの差があった。 「ふむ……」 先日、コロッセオで久々に剣を交えた君主の強さを思い、緋は誇らしげに笑む。 「――あれに比べれば、まだぬるい」 君主を讃えるように呟く。 突き入れられた木刀を弾き、勢いのあまり男がたたらを踏んだところへ飛び込み、無防備に曝け出された身体側面に一撃入れようとして違和感に気づいた。 ――男の左手の袖口に、銀の光を見たように思ったのだ。 それは、銀細工の類ではない、武骨で鋭い鋼の光だった。 意味を理解して、緋は小さく息を吐く。 「神に捧げるのであれば、その意に背く真似は許されまい」 棒を回転させ、速度を上げて右から左から打ち込み、男を翻弄する。 速度についていけず、男が舌打ちをする間に、素早くその袖口から暗器を抜き取り、審判に見えぬ位置で石舞台から投げ捨てると、 「無論、そなたもだ。小細工は無用――全身全霊で来るがよい」 猛々しく、そして楽しげに笑ってまた棒を構えた。 「くそ……ッ!」 男は忌々しげに歯噛みし、木刀を振りかぶるが、暗器の存在を見抜かれたことで動揺したのか隙だらけだった。 「その切っ先では、俺には届かぬ」 振り下ろされた木刀を弾き、中心から返した棒で手から叩き落して、踏み込むと同時に下から掬いあげ、男の顎を捉えて跳ね上げる。 「ぐがっ」 男はくぐもったうめき声を上げて吹っ飛び、ごろごろと盤上を転がった。 ダメージが大きかったのだろう、立ち上がれぬまま十がカウントされ、審判が緋の勝利を告げる。 観客が彼の強さを讃える中、 「次が、準々決勝……だったか?」 緋の目は、危なげなく勝利を収めた前優勝者へと向けられている。 「虎を殺す……か」 『白虎』の異名を持つ者として、かの武人には興味がある。 「是非、戦ってみたいものだ」 呟きとともに、緋は石舞台を後にする。 雨がいよいよ近いのか、水の匂いが濃くなっていた。 * * * * * 「姓は桐島、名は怜生。若輩者なれど、いざ尋常に勝負!」 試合は準決勝まで進んでいた。 この時点で残っているのは怜生、緋、鴉刃、そして前優勝者であるロンガン。 隣の石舞台では、決勝戦への切符を求めて緋と鴉刃が渡り合っている。 ふたりのわざの巧みさに舌を巻きつつも、気を散らしていては勝ち残れない、と怜生は目の前の男に意識を集中させる。 ――どこから見ても、隙がない。 天賦の才を持ちつつも、未だ発展途上の身である。やれるだけやるしかない。 審判が始まりを告げる中、 「ヘイワンさんの話、」 「――君の友人からも聞いている。武芸者というのは、業深いものだな」 問いには微苦笑が返った。 「親友だって聞きました」 「ああ。物心ついたころからの絶対的な友だ。そう尋ねるからには、君にもいそうだな」 「……はい」 ロンガンと暴霊が親友だと聞いて、怜生はずっと、自分と親友に置き換えて考えていた。 不器用だけどまっすぐな、我が身より大切な親友だ。 彼がいるから――彼がいつもの場所に立っていてくれるから、怜生は自由に行動出来るし、いつでも正しい位置に戻って来られるのだ。 「俺だったら耐えられないだろうなって」 十年間も負け続けた勝負を、負けたままで終わりにするなんてきっと耐えられない。一生を賭けてでも勝ちたかったであろうヘイワンの気持ちを思うといたたまれない。暴霊と化してでも勝ちたかったヘイワンには共感できる。 恐らくそれは、ロンガンも同じだったのだろう。 「我々は鏡だ……ゆえに、私は、絶対者であり続けねば。私を倒すものは、彼だけでなくてはならない」 重々しく告げ、ロンガンが身構える。 怜生は唇を引き結び、木刀を握り締めた。 (見ててくれよな、律。俺……お前に恥じるような戦いは、絶対にしねぇから) 怜生が木刀を用いて戦っているのは、そのためだ。 親友が得意な得物を手にすることで、親友と一緒に試合に臨む心積もりでいる。そしてそれは、彼に情けない姿を見せるわけにはいかないという戒めともなっているのだ。 「柳龍巌、推して参る」 名乗りとともに、ロンガンが地を蹴る。 それはまるで、撃ち放たれた弾丸のようだった。 「はっや……!」 驚愕し肝を冷やしつつも怜生に焦りはない。 最初から困難な闘いであることは承知の上だ。そこからどう勝機を手繰り寄せるか、闘いながら見極めるだけのことだ。 怜生は、自分がまだ創り上げられるさなかだということを理解している。 自分の弱さを、至らぬ部分を知っている。 ――それゆえに、だからこそ、怜生の可能性は無限に広がる。 不利であることなど歯牙にもかけず、怜生はひどく冷静だった。 岩をも砕きそうな拳の一撃を避け、左手で木刀の切っ先を突き込むと同時に右脚でロンガンの足元を払い、彼がわずかに退いて避けるその懐へとあえて飛び込む。 「ほう……」 目と目が合って、怜生の思惑を察したかロンガンが感嘆の笑みを浮かべる。 「巧くいくかどうかはさておきっ!」 怜生は木刀を真上へと投げ上げ、自由になった両手でロンガンの腕と襟足を掴んだ。振り払う暇を与えず脚を払い、全体重を傾けて彼を投げ飛ばす。 無手での戦いに特化した怜生だ。 彼の投げ技は綺麗に極まり、ロンガンは数メートルの距離を吹っ飛んだ。 が、 「俺が投げるのに合わせて跳んだだけ、かー」 ちょうど手元へと落下してきた木刀を掴み取り、追い討ちをかけるべく間合いへ飛び込もうとした怜生だったが、ロンガンが猫のような柔軟さ俊敏さでくるりと回転し、危なげなく着地したのを見て脇へ跳び、距離を取った。 今まさに怜生がいた空間を、ロンガンの拳が撫でて行く。 空気がたわむような重たい拳に背筋が寒くなった。 「調子に乗って突っ込んでたら危なかったな……」 「私としてはそれを期待していたんだがな。……天才とは、君のような者を言うのかもしれん」 「え、やだそんな褒めちゃ」 ぎりぎりの場での戦いを余儀なくされるとき、人は爆発的に成長するのかもしれない。 怜生の精神は、自分でも驚くほどに研ぎ澄まされていた。 「あなたに勝てるとか勝てないじゃなくて……俺が、俺に克てるか克てないか、なんだな」 負けるのではないか、勝てないのではないかという弱い心を突破して勝利を見据えること。 強靭な精神なしに、出来ることではない。 「もう一度、お願いします。俺は、強くならなきゃいけないんだ」 親友の笑顔を脳裏に思い描きながら、怜生が木刀を手に再度身構えると、彼を眩しげに見つめ、ロンガンは頷いた。 ――まさに、その時。 ごぉお……んんん。 一際大きな雷鳴が鳴り響き、生臭い風が吹き込む。 闘儀場全体が震えるほどの振動とともに、 「あれ、は……!?」 黒い、巨大なそれは、姿を現した。 ぶよぶよ、ぶよぶよと蠕動を繰り返しながら。 屋根のない闘儀場を覗き込み、濁った目を瞬かせる。 ――ぽつり。 雨粒が、滴り落ちてくる。 『それ』を目にした観客が悲鳴を上げて立ち上がり、一目散に逃げて行く。 伝播した恐怖によって、場内が騒然とするまで三分もかからない。 「暴霊……まさか、こんなに大きな……!?」 出現に備えてトラベルギアを装備し、警戒に当たっていたニコルがさすがに驚愕の声を上げる。 ヌマブチと理比古が会場へと駆け込んできたのもまさにこのタイミングだった。 すでに鴉刃と緋は戦いを中断し、トラベルギアを装備して迎撃体勢に入っている。 5.妄執王の凱旋 天から降る小さな水滴は徐々に大きくなり、いまや叩きつけられるそれは痛いほどだ。 だが、雨粒に殴打される痛みを云々するものは、この場にはいなかった。 参加者や観客の大半は雪崩を打って我先にと逃げ出し、残っているのは当事者たちと逃げ遅れた一般人だけだ。 『ロン……ガン……』 ごぼごぼと、水底の泡のような音を立てて暴霊が求める者の名を呼ぶ。 何故そんなにも歪んでしまったのか、おぞましく膨れ上がった暴霊は、黒い泥水が固まったような身体をぞろぞろと蠢かせ、闘儀場を破壊しながら中へと踏み込んで来る。 雨とともにばらばらと建材が降りしきる中、 『お前、ニ、勝……オマえヲ……倒……』 音韻の狂った、どこか物悲しい声で暴霊が呟く。 しかし、その目にロンガンが映っているかどうかも不明だ。 悲壮な顔で彼を呼ぶ友を、『彼』はちらりとも見ない。 「元凶の追求は、あとでいい」 暴霊を見据えるヌマブチの眼差しは、試合時のぼんくら具合からは想像もつかぬほど鋭く、厳しい。 「対暴霊となれば、こちらは殺し合い……某の本分であります」 じゃっ! 鞭のようにしなった暴霊の一部が、触手めいた動きで闘儀場内にいる人々を襲う。 ヌマブチはそれを、熟練の動きで回避するとともに銃剣で斬り払い、銃を構えると次々に撃った。弾丸に貫かれるたび、どぱっ、どぷっ、と音を立てて暴霊の身体が弾ける。 「物理攻撃は効くようでありますな」 事実を告げる口ぶりはひどく冷ややかでいっぺんの揺らぎも迷いもない。 「制約がないというのはやりやすくてよい」 鴉刃は、一対の魔力グローブ『闇霧』を装備し、数本の木刀を手に宙へと飛び上がった。 「とはいえ……弱点も判らぬ、か」 思案しつつ、上空から、ゆらゆらと揺れては鞭のような触手を繰り出す暴霊めがけて木刀を投擲する。 どぷん、と音を立てて暴霊の一部が弾け、全体が揺らぐのを確認し、 「怪しいと思う箇所を攻撃するしかないか」 会場中を飛び回り、ギアで斬撃を発生させて暴霊を斬り刻みつつ、得物を集めては投擲してまわる。眼下では、理比古と怜生が一般人を避難させ、今にも飛び出して行きそうなロンガンを押し留めている。 「死せる者が生ある者を脅かすようなことがあってはならぬ」 揮われる銃剣の切っ先が、巨大な暴霊を足元から削っていく。 ヌマブチの動きには躊躇いがなく、暴霊に斬りつける手付きには容赦もない。 『勝……殺、オマエ、ヲ……』 熱に浮かされたような暴霊の言葉と、溢れ出す泥のような触手を、 「世迷言とは言わぬ。だが……その様で叶う願いとは、思わぬことだ」 冷酷に、無慈悲に斬って捨てる。 「なるほど、それがヌマブチの本当の姿ってことなんだね」 ギアである二挺拳銃を手に、ニコルは暴霊を見上げる。 一般人の避難が完了したことを視界の隅で確認し、 「暴霊とはいえ元達人……安い相手じゃない」 表情を引き締めると、 「武人の誇りとか興味ないけど」 心なしか少し縮んだような気のする暴霊の足元へ飛び込み、至近距離から発砲する。ばつん、と音を立てて身体を弾けさせ、ぶるぶると震える暴霊めがけて殴打と発砲を繰り返し、 「――勝ちたいって気持ちは、痛いぐらい判るよ」 故郷での己を思って、ニコルはかすかに笑った。 「でもさ……ここで暴れてもいいのは格闘家だけなの。――知ってるでしょ? ヘイワン」 襲い来る鞭を円運動で弾き、拳銃による殴打で粉砕し、踏み込んで発砲する。 「勝ちたいなら、判るでしょ。そのままじゃ駄目だって」 無邪気ですらあるニコルの言葉に、暴霊が唐突に震えた。 苦悩するかのように身体を震わせた後、また、触手を溢れさせる。 「闘儀を見守るだけでは足りぬのか!」 その触手を豪快に斬り払ったのは緋の青龍偃月刀だった。 目の前を塞ぐ触手を力任せに薙ぎ払うと、 「奴はそなたのために戦うと言ったのだ。その想いをそなた自身が踏み躙るのか。――想いを捧げられるそなたが暴霊になってどうする!」 トラベルギアを打ち鳴らし、風と雷を巻き起こす。 「目を醒ませ、ヘイワン!」 名を呼ぶごとに、暴霊は震えた。 「俺はそなたを、我を忘れた暴霊ではなく、誇り高い武人として死なせてやりたいのだ。――ロンガンが、同じことを願っているように!」 天に向かって手を伸ばし、ギアを鳴らす。 じぁん、と猛々しく鈴が響き、風馬が空を奔った。 雲間を裂いて、雷光が暴霊へと降る。 暴霊はまたすこし小さくなった。 その胴体の真ん中を、 「神は光とともに降りる……ってか」 怜生の放った氣砲が貫く。 「いい加減判れよ、ヘイワン! あんたが反対の立場だったとしたらどうする! 無二の親友と、そんな風に終わることが、あんたの望みなのか!」 氣砲や氣矢を次々に撃ち放ち、暴霊を削りながら、怜生はヘイワンに呼びかけ続けた。 怜生もまた、緋と同じことを望んでいたからだ。 「俺は嫌だ! あんたとロンガンさんのそんな終わりは、見たくない!」 拳に氣を纏わせ、力任せに叩きつける。 ごばっ、と、暴霊は大きく抉れた。 しかし、弾け飛んだかに見えた暴霊の一部が、黒々とした矢となって怜生を襲う。 「ぅおわッ!?」 大半は拳で叩き落したものの、弾ききれなかった矢にあわや貫かれそうになったとき、 「思い出して……」 静かな声とともに、青い火が周囲を包み込み、矢をすべて灼き尽くした。 「アヤさん」 小太刀を手にした理比古は、ギアの力で熾した火をまとわりつかせつつ、最初の半分以下に縮んだ暴霊を穏やかな目で見上げる。 ゆるりと揺らめいた火が、暴霊の足元を舐めてゆく。 「あなたが勝ちたかったのは、何故? 本当は、何に勝ちたかったの」 広範囲での発動は、体力のない彼には相当な負担のようで、理比古の額にはじっとりと汗が滲んでいたが、彼は我が身の疲弊を気にすることなく浄化の火を燃やし続けた。 雨でも消えぬ青い火に飲み込まれ、 『ロン、ガン……俺、勝ちた……殺、違う……俺は、……』 暴霊からもれる声に人間味が宿る。 汚泥のような影の中に、背の高い男の姿が見える。 鴉刃がギアの斬撃で残った影をそぎ落としてゆく中、 「……あれが、本来のヘイワン殿でありますかな」 ヌマブチが、彼にまとわりつく最後の影を斬り払うと、ばしゃん、と水風船が割れるような音がして、唐突に暴霊が破裂した。 「む……!?」 上空にいた鴉刃は、飛び散った飛沫を避けようとしてバランスを崩す。墜落しそうになったところを、汗だくの理比古に抱き留められる。 「あ、奇しくもお姫様抱っこが実現したね」 「……は、恥ずかしいから早くおろしてくれ……!」 じたばたと足掻く鴉刃と、明るく笑う理比古の傍らを、ゆっくりとした足取りで歩み行くのはロンガンだ。 「黒王」 彼の視線の先には、もうほとんど輪郭を失いつつ、怜生に支えられて身を起こすヘイワンの姿がある。 その眼差しには、理性が宿っていた。 彼は――戻ってきた、のだ。 『すまぬ。不甲斐ない俺を許せ』 詫びるヘイワンに手を差し伸べ、ロンガンはしっかりとその手を取る。 「言うな。私がお前の立場でも、そうなっていた」 万感の想いのこもったそれに、ヘイワンは目を閉じて頷き、微笑んだ。 『俺を再び人に戻してくれたこと、巡り合わせてくれたことに、感謝する』 そして、ゆっくりと消えてゆく。 それは完全なる別れだったが、どこか安堵を含んでいた。 手向けとばかりに緋が封天を打ち鳴らし、 「さよなら、ヘイワン。来世では、勝てるといいね」 ニコルは会場を飾る花を見つけてきて撒いた。 怜生がロンガンと悼みを共有し、肩を叩き合う傍らで、ヌマブチは先ほどまでヘイワンのいた場所に向かって合掌する。 生者同士の殺し合いに芯から浸かり切っている身だ。 せめて、死者への礼は忘れないように、というのが、ヌマブチが『こちら側』に踏みとどまるための心がけでもあった。 「しかし、あの、暴霊……」 合掌しつつ、ヘイワンの家で見た何者かを思い起こす。 呟きを聞きつけて、全力で恥ずかしがる鴉刃をお姫様抱っこから解放した理比古がヌマブチの傍らに立つ。 「あれで終わりって感じじゃなかったね。それに、これまでにも、何かあったような」 ヌマブチは頷き、 「ああ……となると、また、何かあるやもしれん。気には留めておくべきでしょうな」 あの時吹いた生臭い風を思い出して、顔をしかめた。 ――雨は、いつの間にか上がったようだ。 こうして、幾つかの謎を残しつつ、事件は終わる。 後日、ロンガンの呼びかけで、中断を余儀なくされた闘儀が再度開催された。 無論のこと旅人たちにも声がかかったが、その再戦における勝者が誰であったかは、それぞれの想像にお任せする。
このライターへメールを送る