オープニング

 雨師が住まうチェンバーは、基本的には常に雨が降っている。その日も常と変わらず、霧のように細かな雨が降っていた。
 開かれた雨戸の内にある板敷きの縁側、その中に広がる畳敷きの部屋。板張りの廊下を進めば雨師が気まぐれに軒を開き用いている畳敷きの和室がもうひとつ。いずれにせよ、家具類や調度品は最低限のものしか置かれていない、見目にもこざっぱりとした作りがなされていた。
 雨師は台所と縁側に沿う和室との間を忙しなく動き回り、和室に置かれたテーブルに酒や茶、酒肴や握り飯や――色々な食事のしたくを整えていく。そのしたくをあらかた終えると、雨師はチェンバーの表の木戸にさげてある木板を外し、違う木板をさげた。それから軒先に浅黄色の暖簾をかけて、再びいそいそと長屋の中へ戻って行った。


 ――冒険ニテ見聞シタ怪異ナル小咄、奇異ナル小咄、他、萬ノ小咄ノ蒐集ヲシテオリマス。代価トシテ、茶湯ヤ甘味、酒肴ヤ飯ナド御用意シテオリマス


 静かな雨とやわらかな夜風に揺れる木板に記されていたのは、そんな一文。
 

 ◇


 多くのロストナンバーたちがあらゆる世界への帰属を果たした。
 ロストレイル13号は出立し、一年という歳月を経た後、無事に0世界への帰還を果たした。もちろんワールズエンド・ステーションの発見も見事に果たしてのそれは、凱旋と喩えても良いものだろう。
 ターミナルに残った者たちはターミナルの有り様の指針となるものを話し合い、定めた。長い間ファミリーたちの手にのみ預けられてきた司法やあらゆるものが、ロストナンバーたち自身の話し合いによって決議されたのだ。
 むろん、それは易しいばかりのことではないだろう。皆が選択した新たな道は、また新たな問題を生み出していくのかもしれない。けれどロストナンバーたちはきっと、これから先も自分たちの手で、声で、自分たちが選択していく道を定めていくのだ。

 ――さておき、その一年という歳月の間にあらゆる冒険に挑んできたのは、何も13号の乗客たちばかりではない。ターミナルに残ったロストナンバーたちもまた、それまでと変わらずに様々な依頼を請け、こなしてきたのだ。
 そうしてそれはまた、帰属を果たしたものたちも同じこと。帰属を果たした先で過ごす歳月は彼らにとっての新たな冒険であることに変わりはないのだから。


 ◇


 そうしてさらに歳月は遠く長く過ぎた。13号が帰還を果たした時よりさらに数十年の歳月が流れたのだ。その間もターミナルでは変わらず様々な冒険が繰り広げられた。己の選んだ世界へ、あるいは出自世界を見つけ、帰属を果たしたものも少なくはない。

 それでも、雨師が住まうチェンバーには大きな変化は見られない。数十という歳月を経てもなお、雨が降り、薄闇に沈む夜の中、静かな風が吹くばかりの場所なのだ。

 雨師がさげた木板は、チェンバーの前を通るロストナンバーたちの目に触れるのだろう。中にはふらりと立ち寄り、自身が見たもの、聞いたもの。そういった冒険譚の一幕を話し聞かせてくれるものもいるかもしれない。
 ――雨師は知己のロストナンバーが旅先で集めてきた話をまとめた冊子を広げる。そこには帰属していったものたちが送る日々の様子が記されていた。帰属を果たしたものたちがそれぞれにどういった時を過ごしているのか。……そんな一幕が、物語として冊子に記されているのだ。
 
 浅黄色の暖簾が客足を招くように風に揺れる。
 その招きに誘われてか、暖簾下の木戸を開くものが訪れた。
 



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<ご案内>
このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。

プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。
このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。

例:
・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。
・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。
・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。
・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。
※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます

相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。
帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。

なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。

!重要な注意!
このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。

「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。

複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。

シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。
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品目エピローグシナリオ 管理番号3254
クリエイター櫻井文規(wogu2578)
クリエイターコメント当シナリオにお目を通していただき、ありがとうございます。
さて、これがわたし櫻井文規がロストレイルという場で書かせていただく、正真正銘最後のシナリオOPとなります。
参加を考慮していただく皆様方にお願いするのは以下の通りとなっております。

【1】
どうぞお好きなように、皆様方が経験なさってきた冒険の物語を捏造し、お聞かせください。
その後、皆様はどのような場所に赴き、どのような体験をなさっておいでなのでしょう。どのようなものを見、どのようなものを聞き、どのような物語を紡いでいらしたのでしょう。

それはむろん、13号での旅路の中で経験したものであるかもしれません。13号に乗車されずとも冒険は数多く経験なさったはずです。むしろ13号が帰着を果たした後にこそ、幅広い冒険を重ねてきたことでしょう。
こういった場所に行った。こういったものを見た。こういった経験をした。そんなお話を、どうぞ妄想のままに創造なさってください。
全力で書かせていただきます。

【2】
13号の帰着より以前に帰属を果たされた方。また、その後どこかに帰属を果たされた方。たくさんいらっしゃると思います。
帰属された先ではどのようなものをご覧になっていますか? きっとお幸せにお過ごしでいらっしゃることと思います。
どうぞそのお話の一端を、わたしにお聞かせください。全力で書かせていただきます。

むろん、ファンタジー、ホラー、洋風和風、問いません。
OP中ではあえて「数十年がたった」という表現とさせていただいております。よって、百という単位は超えていないものとさせていただきます。

それでは、皆様方のお話を聞かせていただけるのを楽しみに、ご参加、お待ちしております。

参加者
坂上 健(czzp3547)コンダクター 男 18歳 覚醒時:武器ヲタク高校生、現在:警察官
メルヒオール(cadf8794)ツーリスト 男 27歳 元・呪われ先生
死の魔女(cfvb1404)ツーリスト 女 13歳 魔女
業塵(ctna3382)ツーリスト 男 38歳 物の怪
ロウ ユエ(cfmp6626)ツーリスト 男 23歳 レジスタンス
ヒイラギ(caeb2678)ツーリスト 男 25歳 傭兵(兼殺し屋)
ユーウォン(cxtf9831)ツーリスト 男 40歳 運び屋(お届け屋)
鍛丸(csxu8904)コンダクター 男 10歳 子供剣士
村山 静夫(csrr3904)ツーリスト 男 36歳 ギャング
ナウラ(cfsd8718)ツーリスト その他 17歳 正義の味方
チェガル フランチェスカ(cbnu9790)ツーリスト 女 18歳 獣竜人の冒険者
バルタザール・クラウディオ(cmhz3387)ツーリスト 男 42歳 「黄昏の城」の主
七夏(cdst7984)ツーリスト 女 23歳 手芸屋店長
森山 天童(craf2831)ツーリスト 男 32歳 鞍馬の黒天狗
ホワイトガーデン(cxwu6820)ツーリスト 女 14歳 作家

ノベル

§ ユーウォン §

「ふうー」
 小さな息を吐きながら小雨の中を歩き進み、もはや馴染みといっても過言ではないほどの数を訪れて来た浅葱色の暖簾をくぐり入る。それから三和土に続く畳の上に上がる前、ユーウォンはいつも店主が姿を見せるのを待って足を止めるのだ。
「ユーウォンさん」
 わずかな間の後に部屋の奥の襖から現れたのは、このチェンバーの店主である雨師だ。雨師は眼鏡の奥の温和な双眸をゆるりと細め、手にしてきた手ぬぐいをユーウォンに向けて差し伸べる。
「ありがとう」
 やはり手慣れた調子で礼を述べ、用意された手ぬぐいで軽く雨を払ってから部屋に上がった。
 ぼうやりと灯された行灯が柔らかな光を放ち、畳敷きの部屋を照らしている。
「お久しぶり、雨師さん」
「お久しぶりですね。お元気でしたか?」
「うん、おれはいつも通りだよ」
 そんな会話も手慣れたものだ。
 ワールズエンド・ステーションが見つかり、大勢のロストナンバーたちがあちらこちらに帰属していった。が、もちろん、中には帰属という終結を望むことなく、長く続く旅路につき続けることを選択するものもいる。ユーウォンもその内のひとり。帰属することよりも、ロストレイル号が向かう世界が少しずつ広がっていく今、色々な世界を旅して回ることの方が一層強い興味を惹くのだ。そうしてその旅路での話を心待ちにしている男――雨師がいる。話をすればその礼にと言って美味い菓子や料理をふるまってくれもする。ユーウォンにとっては得することばかりなのだ。
 通された畳の間を過ぎて板張りの廊下を歩く。その間もユーウォンは雨師に向けて声をかけていた。雨師は奥にある台所に向かってしまったが、話し続けていれば声は届く。――ユーウォンはこのチェンバーの常連も常連になっていた。構造や距離感もすべて把握出来ている。
「おれ、今回はこの間帰属した人への届け物に行ってきたんだ。ついでにいろいろ見て回ってきちゃったよ」
「ほう、それはまたお話が楽しみですね。でも少し忙しくしすぎてはいませんか?」
 台所から雨師の声だけが返ってくる。ユーウォンは板張りの廊下を進み、開かれた雨戸と縁側を眺めることの出来る和室へ入って腰をおろした。
「うん、おかげさんで忙しくしてるよ。有望な情報がありそうな世界の探索もしてるし、新しいロストナンバーの保護とかもしてるし」
「そうですか」
「雨師さんはなんか依頼請けてないの?」
「私ですか? 私も時どきは仕入れがてら壱番世界ですとかにね」
 雨師は、言いながら盆にちょっとした焼き魚定食のような品々を揃えて姿を見せる。味噌汁に小鉢がふたつ、メインの焼き魚は少し大きめの干物だ。ユーウォンがすんすんと鼻を鳴らすと、雨師は微笑みながらテーブルに並べていく。
「0世界もなんだか騒がしいですしね」
「そうなんだよね。だから帰ってくるたびに、その間に何があったのかとかも聞いて回らなきゃだしさ」
 忙しいと言いながら、ユーウォンは常と変わらずのんびりと、それでいてどこか楽しげに声を弾ませた。それもいつものことだ。どれほどの歳月を経ても、ユーウォンは何も変わらない。
 並べた品々を美味そうに食べるユーウォンを見つめ、雨師も常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。
 開け放たれた雨戸の向こうでは糸のような雨が降っている。雨は庭木の枝葉をぱたぱたと叩き鳴らしていた。そんな風景もまた、今も昔も、そうしてたぶんこれから先も変わらないのだろう。
「そうそう、おれこの間シュミテンに行ったんだけどさ」
 すっかり食べ終えた食器を前にきちんとごちそうさまを告げた後、自分で食べた食器を台所へ下げておくのも、もう勝手知ったる場所だからこそ。
「シュミテン? 輪廻回廊シュミテンですか?」
「うん、そう。おれもう何度か行ってんだけど、あそこも面白いよ。壱番世界で見た曼荼羅? みたいな感じでさ」
「そのようですね。一度は行ってみたいな」
「うん。で、さ。その辺からなんだと思うんだけど、なーんかヘンなんだよ」
「ヘン?」
 食後の茶を淹れながら、雨師はユーウォンの顔を見る。ユーウォンは何度かうなずいた後、意味ありげに首を傾いでみせた。
「最近、なんかがおれについてきてるんだよね」
「……何か? とは?」
「分かんないんだよ」
「分からない?」
「うん。だってさ、目に見えるわけじゃないし、いつもは隠れてるみたいで、おれもそうだけど誰も見たことがないんだもん」
 そう言って再び首を傾げたユーウォンの顔を見つめた後、雨師はゆっくりと視線をユーウォンの横や後ろに移ろわせる。確かに何の姿もない。もちろん、ユーウォンが戯れや嘘を言うような性格をしているわけではないことも、雨師はよく知っている。
 雨師の視線が再び自分に向いたのを確かめると、ユーウォンは再び話を続けた。
「で、誰もいないときなんか、たまーにだけど話しかけてきたりもするんだよ。あんまり小さい声だから、何て言ってるのかも聞き取れないんだけどさ。でもそいつが怒ってるとかそういうのは何となく分かるんだよ」
「怒ってるんですか?」
「うん」
 ユーウォンは湯のみを口に運び、数拍の間を置く。
「なんか文句言ってんのは分かるんだよね。木がギシギシ鳴るみたいな音でさ、何かやたらぶつぶつ言ってんだけど、でもおれ聞き取れないしさ。そうすると怒っちゃうんだよ。それでやたら馴れ馴れしくしてくるし」
「シュミテンから何か連れて来てしまったんでしょうか」
「そうかなあって思って、迷子かもしれないし、ターミナルの窓口まで行ってみるんだけど、係りの人の前だとだんまりしちゃうし、絶対出て来ないしさ」
 それは困りましたねと息を吐いた雨師に、ユーウォンは少し考えてからかぶりを振った。
「おれ、考えたんだけどさ。何で怒ってんのかなって。で、もしかしてお腹すいてんじゃないかなって思って」
「……お腹が、ですか?」
「うん。訳の分かんないこと言って怒るやつはさ、食べて寝ればわりと大人しくなるしさ」
 ユーウォンの言葉に、雨師は「なるほど」と笑みを浮かべる。なるほど、とてもユーウォンらしい思い付きだ。けれど当のユーウォンは雨師が思ったことなど知るよしもない。
「で、コンダクターのひとに訊いて白い団子とか山盛りのメシとかもやってみたんだけど、ぜんぜんダメなんだよね」
「ほう」
「あ、そうだ、それもあって、おれ雨師さんとこに来たんだった」
「は?」
 思いがけない言葉。雨師は思わず目を瞬いた。
「雨師さんとこのご馳走なら食べる気にもなるんじゃないかって思ってさ。悪いヤツじゃないみたいだし。消失しちゃう前に何とかしてやりたいからさ」
 そう言って湯のみの中身を一息に干し、まっすぐに雨師を捉えるユーウォンに、雨師はわずかな間を置いた後に微笑み、うなずく。
「なるほど、それは光栄です。ちょうど野菜の炊き合わせもありますし、まずは精進料理でも試してみましょうか」
 ユーウォンについてきているものが、果たしてどんな食事を好むのかも分からない。もろもろ作り試してみるのも良いだろう。
「うん、おれも何か手伝うよ」
 ユーウォンはそう言いながら立ち上がり、台所に向かう雨師の後を追って再び板張りの廊下を歩き出す。雨はぱたぱたと降り続く。変わることのない雨の夜のチェンバーの風景を横目に見ながら。




§ 鍛丸 §

 今年は例年よりも一層深い雪が降り、山は厚い白で覆われた。けれどどれほどに深く積もった雪であっても、春が来ればやがてゆっくりと融けていくものだ。
 ロストレイル13号が様々な冒険を経て確固たる結果と共に0世界への帰還を果たしてから、もう五十年ほどの歳月を経ている。その歳月の中、多くの旅客が出身世界や他の世界への帰属を果たしていった。鍛丸も幾度となくそれを送り出し、幾度となく別れを重ね続けている。帰属を果たせば留まっていた時の流れが再び流れ始めることにもなるのだ。それはつまり、親交のあったものが帰属先で天寿を迎えるという決着にも繋がることになる。
 帰属を果たしただけならばその先を訪ねれば顔を合わせることも出来る。けれど相手が天寿を全うし彼岸に渡ってしまった後は、もう二度と対面することもなくなってしまうのだ。
 けれど、冬が終われば春が訪なうのと同じに、別れがあれば必ず新しい出会いもある。新しく見つかった世界群の先々でも新しい旅客は保護されているのだ。そういった新しい旅人たちを連れて依頼をこなすということも、もはや一度や二度の経験ではない。

 鍛丸は壱番世界の日本、とある地方の山深くに位置する一軒の古民家を訪れていた。13号が旅立つ前、まだ新規の世界群の発見の欠片もなかった時から度々、機を得ては訪れていた場所だ。
 眼下に広がる風景は五十年という歳月の中で瞬く間に変わっていった。山林も開拓されて公園や住宅地になり、田畑もほとんどが跡形もなく拓かれてしまっている。
 けれど鍛丸が訪れている古民家は、その持ち主の強い意向のゆえもあったのだろう。未だ拓かれることもなく、田畑も山林も変わらず茂り広がって、四季ごとに鮮やかな色を粧して見せるのだ。
 新しい旅客を数人連れて訪れた古民家は、融けかけた雪の中、春より未だ遠くあるような冷たい風に吹かれている。まずは雪をかいて周りを片付けた。綻び始めの白梅がほのかに芳しい風を吹き流す。
 古民家の持ち主も歳月を経た今は歳をとり、もうろくに身を動かすこともままならない状態だ。対していつまでも歳をとらず幼い見目を保ったままでいる鍛丸を、覚醒したわけでもない壱番世界の住人である男は、果たしてどのような目で見ているのか。――そんなことを思えば、出自の里での追憶が胸をよぎる。
 もはや二百年は前のこと。鍛丸自身も壱番世界の出自であるが、追憶の中にある里はダムが建設され、水の底に沈み、目覚めぬ眠りの中にある。当然ながら鍛丸を知るものがいるわけもない。
 ――見たか。あの男子はいつまで経っても童のままじゃ。
 異形を指差す容赦ない言葉の数々は、どれだけの歳月を経ても消えることはない。
 けれど、古民家の持ち主は鍛丸と顔を合わせるたび、皺枯れた顔に嬉しそうな笑みをいっぱいにたたえ、どこか懐かしそうに言うのだ。――またお会い出来てよかった、鍛丸さん。
 その言葉もおそらく、もう遠からず聞くことはなくなるのだろう。人は本来遅かれ早かれ、因が何であれ、いずれ必ず死を迎えるものだ。卒寿を間近に迎えた齢を考えれば、むしろその夭逝は文字通りの往生と称するに相応しいものとなるだろう。
 齢を重ね、古民家や山の手入れに歩くのも億劫だと笑う男の要請を聞いて、フリーチケットを使い男を訪ねる機会も増えてきた。時にはただ何ということのない、話し相手を務めるためだけに呼ばれることもある。
 もっとも、壱番世界に足を運ぶこと自体は嫌いではない。こうして古民家の手入れをするのも、男の話し相手をするのも楽しくかけがえのないひとときだと思う。――それに、時おりは出自の里があった跡地も訪ねている。
 ――たとえ鬼でも貴方は貴方
 懐かしい女の夢幻を見せてくれた桜は、歳月を経ても毎春必ず霞のように美しい花を咲かせている。夢幻の内に見た女と交わした淡い口約束めいた言葉のやり取りは、今も変わらず確かなかたちをもって続いているのだ。
 あの辺りにも雪はまだ残っているのだろうか。何しろダムを作るほどの山深い場所に咲く桜なのだ、おそらくはまだ頑なに残る根雪の中で、蕾すらもまだ夢の中にあるだろう。――けれど、そろそろまたあの地を訪ねてみるのもいい。古民家のあるじである男の天寿を送るのと同じに、桜にもまたいつか必ず天寿の尽きる日は訪れるのだろうから、それを見届け送ってやるのが、もしかすると、旅客として覚醒し老いというものから放逐された己に与えられた宿命なのかもしれないのだから。
 
 連れ立って来た旅客たちが雪で遊ぶ無邪気な声が響く。その声が耳に触れ、ふと我を戻した鍛丸は、彼らの姿を見つめゆるゆると頬を緩めてみせた。
 そういえば、この古民家を訪れる回数が増えてきたせいもあるのだろうが、少なからずの人目に触れる機会も増えてきているらしい。旧い家には妖怪の類が住み着くこともある、というのは、昔も今も変わらぬ謂れであるようだ。
 座敷わらしが住み着いたのではと、まことしやかに交し合うものも、集落には少なくないと、あるじである男は年老いた顔に笑みをのせる。座敷わらしが仲間の妖怪を招き、こっそりと宴会を広げることもあるのだ、と。そんな噂が広がっているのだという。
 ――鬼じゃ
 そう蔑まれ畏れられていた頃に比べれば、座敷わらしとは、また。――ずいぶんと可愛らしいものになったものだ。考えて、鍛丸は再びやわらかな笑みを浮かべる。
 あまり騒ぐでないぞ、と、軽く注意を投げてから、鍛丸は縁側に戻り腰を落とす。
 仰ぎ見る空は春の目覚めを迎えたばかりの小川の水に似た色を浮かべていた。のんびりとした温もりをたたえた太陽が、流れていく雲の端で小さなあくびをしているように揺らめく。風は流れ、梅の香が山裾を撫でながら降りていった。
 拓かれたとは言え、眼下に見下ろす住宅地のそこここで春の色彩は確かに花を咲かせている。もう少しすれば根雪も融けて、この一帯にもやわらかな色が咲くのだろう。
 
 鍛丸さん、これなあに?
 稚い声が鍛丸を呼ぶ。見れば、覚醒を迎えたばかりの少女が鍛丸を待っていた。足を向け、示されたそれを検める。そうして目をすがめ、その傍に腰をかがめた。
 福寿草じゃのう
 フクジュソウ?
 鍛丸の応えに少女は首をかしげる。鍛丸は笑ってうなずいた。
 春を報せる花じゃよ
 ふぅん
 うなずき、少女もまた鍛丸に倣って腰をかがめる。
 かわいいお花だね
 そうじゃの
 春になればもっとお花咲くかな
 もちろんじゃ。紅やら黄色やら、忙しないぐらいじゃよ
 ふぅん。楽しみだね
 そうじゃのう
 交し合う言葉は何と言うことのないものだ。でも、確かに心がやわらかな温もりで満たされていく。
 春じゃのう

 ――そう。
 壱番世界を流れる時間が留まることは決してない。流れ続けていく中で、まちも人も移ろい姿を変えていく。けれどどれほどの変移を迎えても季節は移ろい、花は咲く。毎年毎年留まることなく緑は茂り、蝉が鳴き、稲穂は頭を垂れて実りをもたらし、やがて山里は雪に眠る。そうして再び春が訪れ、変わることなく桜は開くのだ。
 そんな当たり前のことが何よりも愛しく、何よりも嬉しい。その流れを見届け続けることこそが、鍛丸に与えられたものなのだろう。いつかどこかで訪れるかもしれない死というものを迎えるまで、鍛丸はこうして変わり続けていく、変わらない懐かしい世界を見守ろうと思うのだ。

 今年も桜は美しかろうのう

 呟いた声は、流れる風にのってゆっくりと空へのぼっていく。


§ ロウ ユエ ・ ヒイラギ §

 13号の帰還、そうしてワールズエンド・ステーションの発見。その成果は大きく、新しい世界の発見報告がぞくぞくと続くようになっていた。
 あるいは、いずれ遠からず、自分たちの出自世界も発見されるかもしれない。もしもそれが達成されれば、ヒイラギが仕える主たるロウ ユエはきっと郷里への帰属を願い出ることだろう。そうなったときに自分が取るべき選択はただひとつ。主と共にあり続けることだけだ。
 けれども自分たちが不在であった期間の間に、夜都がどれだけ勢力の拡大をはかっているのかを知る術はない。戦況はさらに苛烈を増しているかもしれないのだ。その中に再び降り立つということが、それだけの危険を内包したものであるのか。――想像に難くないものだった。
 ゆえに、ヒイラギは独断で、万が一の際に世界図書館へ助力を要請するための下準備を整えておいた。方々との渡りをつけるため、内情を包み隠した甘言で話を進める手段も厭わない。すべては主のため。――主の無事の確約を、少しでも色濃いものにするために。

 そうして、五年の歳月が過ぎ、ロウ ユエとヒイラギの出自世界の位置が確認された。――ふたりがロストナンバーとしての覚醒を得てから、既に長い時間が過ぎている。帰属云々の準備を整えるよりも、郷里が置かれている戦況がどうなっているのかを把握するのが優先だった。
 
 郷里を離れてから、十年はゆうに過ぎている。十年も経れば戦況は大きく変わるだろう。場合によっては終結し、新たな治世が布かれているかもしれない。あらゆる最悪の事態と、それに対する手段とを想定しながら、まずはユエが立ち上げた組織――夜都国の領域内に点在し身を潜める対抗組織の生存者の捜索を始めた。
 ふたりがロストナンバーとして覚醒し、郷里を離れていた間も、当然のように戦は続いていたようだ。戦火が刻む痕跡はあちこちで見かけられた。その深さを見れば、戦がどれほど苛烈なものであったのか、容易に知れる。
 方々を巡る。その中で、かつて敵対していた妖魔や魔族、幻獣といった高い知能を携えたものたち――人外と称されていたものたちより、人外に等しいほどの脅威を持つに至っていた動植物の数が上回り目立つようになっていたのを知る。人々は未だ生活に安寧を見出せずにいた。 
 ユエとヒイラギの郷里では、人や動植物のすべてが異能と呼ばれるものを有している。異能の種類によっては何であれ脅威になり得るのだが、加えてそこに知能を足せば、対象はたちどころに討伐を要するものになってしまうのだ。
 否。知能があれば交渉が届くかもしれない。知能があれば少なくとも意思の疎通を可能とするかもしれないのだ。それを思えば、意思の疎通が届かない相手は、ただひたすらに厄介な相手だと言っても過言ではない。
 むろん、他国との領土をめぐる問題が終結していたわけではない。
 ユエが生まれた小国が夜都によって占領されてしまったように、大きさの差異こそあれど、領土をめぐる競り合いは今なお続いていたのだ。

「ユエ!」
 
 組織の生き残りとの再会を果たしたのは、ふたりが郷里の地を踏んでから二日後のこと。覚醒前は同年であった男は、今ではすっかり壮年と呼ぶに相応しい齢となっていた。
「長い間すまなかった。――早速ですまないが、現況の説明をしてくれないか」
 淡々とした口ぶりで放つユエを見て、男はひどく困惑しているようだった。何しろ長く行方知れずになっていたユエとヒイラギが、揃って再び姿を見せているのだ。ましてその見目は失踪前とまるで違わない若さを保っている。
「すみません。詳細は後ほど改めてお話します。今はまず状態の立てなおしを優先しましょう」
 ヒイラギが口を挟む。男は困惑の後にしばしの思案を重ね、それからわずかにかぶりを振って、現況の説明を始めた。
 組織は数年の間に夜都との戦で人数的にも戦力的にも甚大な被害を得た。むろん、夜都側にも相応の傷は与えたつもりだが、夜都によって奪取された領土の奪還までには遠く及ばず。加えて動植物の更なる脅威化が進み、最近では散り散りになってしまった仲間たちの行方探索や、夜都の領土内から逃げのびてきた者たちの保護等が活動の中心であるという。
「しかし、このままでは我々にとって分が悪くなるばかりだな」
 言って、ユエは周りに集う組織の面々を確かめた。
「優先して成すべきは夜都からの国土奪還だ」
「し、しかし、向こうには稀少鉱石が」
 異能を行使すればそれに応じて心身が消耗する。その消耗を肩代わりする鉱石が発見されたのが、ユエが出生した小国だったのだ。そのために小国は夜都によって襲撃されて奪われた。鉱石を独占した夜都はたちどころに勢力を増し、小国を足がかりに周辺国を次々と陥落していったのだ。
「俺とヒイラギが中心となる」
 ユエは男たちが口にする不安に対し、薄い笑みを浮かべヒイラギを見る。
 既に帰属の手配を済ませ、もはやロストナンバーとしての能力制御から解放されているユエ。一方のヒイラギは未だ帰属の手配をしていない。
「俺はもうギアの制御を受けない。能力はフルで使っていく。おまえにはまだギアもある。能力の制限はあるだろうが、ギアの効力はこの世界では大きく期待出来るだろう」
「……しかし、能力をフルに使用すれば、その分の負荷が反ってもきますでしょう」
「問題あるか」
「大問題です。もしもその身に何かがあれば、」
「問題などひとつもない」
 ヒイラギの言葉を遮って、ユエは再び組織の面々を見渡した。
「君たちには補佐を願いたい。他国での生存者保護はむろんのこと、まずは足がかりとなる場を作ろう」
「奪還……」
 誰かが呟く。それに大きく首肯して、ユエは満面の笑みを浮かべた。
「何ひとつ心配はいらない。本当に長い間迷惑をかけた。その分の埋め合わせもしていくつもりだ。――さあ、始めよう。俺たちの世界を奪還するんだ」
 ユエの声が響く。しばしの沈黙の後、場はたちまちに勇壮な声で満たされていった。

 そこからの流れは比較的に速かった。
 組織の隠れ家から一番近い位置にあった小さな国の奪還。瀬川と湖沼を有したその国の大地は肥沃で、ゆえに動植物たちも多く住んでいた。が、かれらはなぜか攻撃的ではなく、穏やかで危険性の低い種ばかりだった。後にそれはこの国の水質や水流の清らかさが要因ではないかと言われるようになるのだが、それはまだ先のこと。
 水源とそれに伴う糧を手にした人々は、国の奪還を達成したという事実もあいまってか、俄然勢いを強めていた。
 ヒイラギが手配した世界図書館からの派遣要員の力も大きく関わったのだろう。――もっとも図書館からの助力に対して、ユエはあまり好意的ではないようだったが。

 そうした中で、覚醒前に引き取り養子として育てていたユエの子どもたちとの再会も果たしていった。子どもたちは散り散りになった組織の者たちが救助し、保護していたのだ。
 子どもたち――とは言え、その中の数人はユエが不在となっていた間に成人を果たしてしまっていたが、ともあれ再会を喜び、その後の情報を交し合って、離れていた間の溝を埋めていく。言葉を交わせば溝は瞬く間に埋まっていった。
 ――いずれは己の後継とするのを目的のひとつとして育ててもいる。子どもたちがそれを知ればどう反応をよこすだろう。
 そのためにも、今は領土の奪還が最優先だ。子どもたちの頭を順に撫でてやりながら、ユエは改めて心中深く誓うのだった。

 他国からの移民を快く受け入れて保護し、あらゆる意味で戦闘に不向きな者たちには土地の開拓を任せた。糧を得るためには荒れ果てた土地を耕作していかなくてはならない。異能を持ち対抗する動植物たちを圧し、これを糧としていかなくては人は生きていけないのだ。人には知能がある。ゆえに、圧した生命を糧として収めたならば、それに対する感謝の念も忘れずに蒔いていかなくてはならない。
 そうして緩やかに、けれども確実に、生態系は荒廃する前のかたちを取り戻し始めた。

 領土奪還は着実に進んでいく。
「ユエ様」
 ユエが密かに行っている術が何であるのか、ヒイラギは知っていた。
 禁呪とも言うべき手段。印と呼ばれるそれは、己の血肉を食んだものを強制的に己の末端と化してしまうものだ。
 捉えた夜都や動植物に己の血肉を与え、結果、ユエの意思の通りに動くものへと作りかえていく。それを使って敵方に混乱を与え、その隙をついて確実に制圧していくというやり方だ。
「ヒイラギか」
 一見、常と代わり映えのない姿を保つユエだが、ヒイラギの目にはユエの憔悴がありありと見て取れる。
「そろそろ世界図書館からの助力を帰らせろ。これ以上の助力は不要だ」
「出来かねます」
「やれ」
「世界図書館からの助力があればこその勝利でもあります。私はユエ様、あなたの無事が第一最優先だと思っています」
 頑なに首を振るヒイラギに、ユエは小さな舌打ちをした。ヒイラギは聞こえないふりをして言葉を続ける。
「この世界の特徴を思えば、今後も世界図書館との繋がりは継続していくべきだと思います」
 ヒイラギの言葉に、ユエが再び舌打ちをした。

 ユエが郷里に帰属してから一年あまり。人々はついに夜都を追いやり、領土の大半を――稀少鉱石を抱える小国も含めた大地を奪還した。これまでは異能を湯水のように使い続けていた人外たちも、源としていた鉱石が無くては威力を弱めていくより他に術はないだろう。
 むろん、人外の威力を削いだところで、動植物たちの脅威性までが無くなったわけではない。それに対抗していくための努力も、今後は継続していく必要がある。

 世界のあちらこちらで居住区域や耕作のための作業が行われている。かつては国ごとに引かれていた線も、今は主張も弱く、影響は小さい。もっともすべての国が安定化してしまえば、その後はまた線を引いた領分が生じてくるのだろうが。

 建て直した城の中、ユエは外界を眺めながら重々しいため息をひとつ落としていた。
 いずれは自分にも死が訪れる。そうでなくとも、いつの日か再び他国が攻め入って来ないとも限らないのだ。――何しろ抱えている鉱石は、人外にとってのみならず、幅広いものたちにとって強い魅力を有しているのだから。
 それに対するため、己が持つ異能を養子たちのいずれかに継承しようと思っていた。再会した子どもたちが独自の学習で異能混合に関する技術や知識を得ていると知ったとき、ユエは世界の安定を迎えた後、密かにそれを済ませようと考えていたのだ。
 ――が、
「ユエ様」
 ドアを開き入ってきたヒイラギが深々と一礼する。
 ユエはヒイラギの顔を見つめ、再び重々しい息をひとつ吐いた。
 ヒイラギは、世界図書館の力も借りて、ユエが子どもたちに継承の儀を執るのを阻んだのだ。
 ユエの心臓を子どもたちに食わせる。そうする事でユエの異能は継承され、子どもたちが次代の統治者となるのだ。――なるはずだったのだ。しかも、
「おはようございます、ユエ様。本日の体調確認をさせていただきに参りました」
 整った相貌にやわらかな笑みをのせて、ヒイラギはユエの視線の冷たさにもめげることなくそう告げた。

 領土奪還を完了した後、異能を使いすぎたユエはそのまま倒れて昏睡状態に陥った。とは言え稀少鉱石が放つ効力もあってか、昏睡期間は一月弱と比較的に短い間で済んだのだが。

「……おまえもあのまま0世界に戻れば良かったんだ」
 ため息まじりに落とすユエの言葉に、ヒイラギは満面の笑みでかぶりを振る。
「私は常にユエ様と共にあります」
 間を置かずに返された言葉。ユエはずるずると椅子から落ちていく。
「心配しすぎなんだ、おまえたちは」
「これでも控え気味にしているつもりなのですが」
「フラっと出掛けるだけでも誰かしらついて来る」
「当然です」
 椅子から滑り落ちたユエの傍に膝をつき、ヒイラギは朗々とした笑みを浮かべた。
 ユエは諦めたように息をつき、高く円い空を仰ぐ。涼やかな風が流れていった。



§ メルヒオール・死の魔女 §

 メルヒオールが、オートマタの少女イーリスと共に0世界を後にする。
 自分以外の少女がメルヒオールの傍にあるのを、そうして共にメルヒオールの出自世界へ帰属していくのを見送るのが、ツラくないわけがない。ともすればそのまま永別に繋がってしまうかもしれない現実を、笑顔のままで送り出せるわけもない。
 それでも、死の魔女は満面の笑みで手を振った。車窓の中からこちらを見ているメルヒオールの表情は常と変わらぬものだった。いや、もしかしたら少しだけ手を振り返してくれたかもしれない。――しょうじきを言えば、メルヒオールを乗せたロストレイル号を送り出すときのことは、あまり記憶に残っていないのだ。
 帰属の意思を告げられたとき、魔女の紅い双眸はわずかに波を打ったかもしれない。生気の宿らぬ瞳、屍の淀んだ眼光が、その刹那確かに色濃く心の揺らぎを映しただろう。
 ――先生と離れたいわけがない。ずっとずっと一緒にいたい。
 巡る心を抱きながら、フリルを施した帽子でそっと目許を隠した。握った拳の中、いつか繋いだ小指がかすかな温もりを探る。
 ――けれど、自分には先生の帰属を止めることは出来ない。
 だから。

「メルヒオール先生、どうかお元気で。先生から教わった事を私は一生忘れは致しませんわ」
 沸き立つ心を振り切るように顔を上げ、魔女はメルヒオールの顔を真っ直ぐに見上げたのだ。もちろん、その顔には満面の笑みをのせていた。 
「……ああ」
 対するメルヒオールは常と変わらず、どこか眠たげな目でうなずいた。そこには惜別の情もない。
「……おまえも元気でな」
「ええ」
 声を聞くたびに心が震えた。何度メルヒオールの手を掴んで止めたいと思ったかも知れない。そのたびに強く拳を握り、体温のない冷えた指に、あの日の温もりを思い浮かべながら笑った。そうして、思い出したような素振りで言葉を続ける。
「この指輪、お返ししますわ」
 言いながら差し伸べたそれは、メルヒオールから預かっていた指輪だった。郷里の教え子たちからもらったものだという。石の魔女の呪詛を享けたとき共に石化し、力に任せ外そうとした際に壊してしまった品だった。それをわすれもの屋に持ち込み、無事に修復してもらったものだと言っていた。
 メルヒオールには、忘れえぬ郷里の記憶の一郭を担うものに違いない。そんな大切なものを死の魔女に預けたのは、少なからず、魔女に対しての信頼があるということの確たる証明にもなるだろう。だからこそ、魔女もまた、預かった指輪を大切にしていたのだ。
「私は死者、先生は生者、私達の道は決して交わる事は無い……」
 メルヒオールは逡巡していたようにも見えた。死の魔女に預けた指輪、それが今、再び自分の手の中に戻されようとしているのだ。そこに含められた魔女の意図は、如何なるものであるのか。――想像も出来なかった。
 魔女は真っ直ぐメルヒオールを見つめる。
「流す涙や痛む心が存在しないこの身がこれ程恨めしいと思った事はないのですわ。先生、どうか私の事を忘れないで欲しいのですわ」
 一息に告げてみた。それは死の魔女の胸の内にある、ごまかしようのない本心。
 メルヒオールは死の魔女を見る。
 身丈の差異も、見目の差異も大きな隔たりをもつ少女。少女が自分に少なからずの好意を寄せていることも、薄くではあるが察しているような気もする。
 ――一緒についていく、と。そう主張するのではないかと、心のどこかで思っていた。けれど予想に反し、魔女は郷里に帰属していく自分を笑顔で送り出そうとしている。
 永別、という文字が脳裏をかすめた。
 帰属していく自分には時の流れが再び訪れる。流れのない0世界に住まうものたちとの時間は確実に違うものへと変容していくのだ。――そうでなくとも、自分はもう二度と0世界に立つことはない。
 ――魔女がメルヒオールを訪ねてこない限り、もう二度と会うこともないのだ。
 しかし、死の魔女は常と変わらぬ――それ以上に朗々とした笑みを浮かべ、自分をまっすぐに仰ぎ見ている。ならば自分がとるべきは、常と変わらぬ応対であるべきなのではないか。
「そうだな。……たまには思い出すかもしれないな」
 言いながら左腕で頭を掻いた。石の魔女との対峙も終決し、右腕ももう自由を得ているのだが、左腕が先行して動くのはもはや癖なのだろう。
 魔女が笑う。ロストレイル号が出立の合図を報せる。魔女は笑っている。その笑顔に背を向けて列車に乗り込む。席に座り、窓の外を見る。魔女が笑っている。大きく手を振っている。口許が何かを紡いでいる。言葉は聞こえない。メルヒオールも小さく手を振った。
 遠くなっていく0世界のターミナル。小さくなっていく死の魔女の姿。

 少女はうずくまり、両手で顔を覆った。
 涙は、それでも少女の頬を伝わない。

 ◇

 郷里に帰属した後も、メルヒオールは何とか元いた魔法学校に、非常勤というかたちでではあるが、教職として就くことも出来た。
 郷里を離れていた間に、かつての生徒たちは齢を重ね、学校を卒業していた。ヌマシュカは優秀な成績を保ったまま巣立っていったようだ。その頑強なまでの主席さは、後続する生徒たちの目標として掲げられているとかいないとか。シュアもルカラはある日突然失踪したメルヒオールをひどく気にかけていたらしい。双子のアルスとクルスはその後順調に成長して背も伸びたようだが、未だに見目の区別はつけにくい。
 失踪していたメルヒオールが帰還――それも可愛らしい少女を連れて。それは卒業していった生徒たちや現教え子たちのあらゆる好奇や野次を寄せるには充分すぎるものだった。
 前と変わらず、与えられた塔にこもり研究を重ねていたメルヒオールだが、前よりも塔に足を寄せる生徒が増えていく中、連れ立ってきたイーリスの口うるささもあいまって、前よりも賑やかになってしまっている。――しかも集っている生徒の大半が女生徒なのだ。さすがに、これには閉口するばかり。
 それでも、やるべきことは文字通り山積みだ。教職としての勤めはむろんのこと、今はイーリスのメンテナンスや維持も進めている。不在にしていた間の情報や知識を調べ、それを元にしたさらなる探究も、0世界に在していた間に重ねてきた研究の確認もしなければならない。毎日が瞬く間に過ぎていった。

 ――せんせ

 声がした。目を開く。塔の中、机に突っ伏したままに眠ってしまっていたらしい。以前は研究に没頭するあまり寝食を忘れてしまうということも珍しくはなかったが、今はイーリスがいる。十年近い歳月を共に過ごしてきた機械仕掛けの少女が、口うるさくメルヒオールの健康を気遣ってくれるのだ。
 そんな中で、こうして居眠りをしてしまうのも珍しい。そういえばイーリスの姿も、いつも誰かしら姿を見せる生徒もいない。
 ゆっくりと身を起こし、耳に触れた声を脳裏に浮かべる。
 ――笑って送り出してくれた少女。
 遠くなりつつある記憶の中、今なお鮮やかに浮かぶ少女の姿。

 ◇

 メルヒオールを送り出した後、死の魔女はひとり、ターミナルの隅で無為な日々を送っていた。
 時間はゆっくりと、けれども確実に、メルヒオールと自分との間にある差異を拡げていくのだろう。メルヒオールの手が、見知らぬ女性や――イーリスに触れているのを想像すれば、それだけでも心が大きく乱されていく。その上、メルヒオールは齢を重ね、死の魔女のあずかり知らぬ間に死を迎えてしまうかもしれないのだ。
 メルヒオールがもう二度と手の届かない場所に行ってしまうのを想像する。
 死を司る魔女になってしまった自分。覚醒とは関わりなく、死というものから離れてしまった自分。メルヒオールと自分を隔てるもの、それは世界の違いや時間の流れだけではない。――確たる差異がそこにある。その差異を伏せなければ、たぶん自分は本当にもう二度とメルヒオールに会うことはなくなってしまうかもしれない。
 その考えに至った瞬間、死の魔女は嘆きに耽るのをやめた。どうしてもどうしても、どうしてももう一度会いたい。同じ時間の上で、同じ生を携えたものとして。
 少女を突き動かすきっかけとなるための理由は、ただそれだけで事足りるものだった。

 ◇

 メルヒオールが郷里に帰属してから十数年の歳月が過ぎた。メルヒオールを取り巻くのは相変わらず研究に没頭する日々。新旧問わず教え子たちが塔を訪ねて来るのも、イーリスが傍にいるのも、まるで何一つとして変わらないものだった。むろん、齢は重ねている。メルヒオールも壮年期に至り、風貌も幾ばくかの変化を迎えてはいたが。
 
 学校での講義を終えて塔に戻ってきたメルヒオールは、小さな息をひとつ吐きながら席についた。イーリスはお茶の用意のためにと席を外し、部屋の中には自分ひとりきり、広がるのは静寂だ。
 ――が、メルヒオールは、部屋の中に小さな、けれども確かな違和感がひとつあるのを感じた。――誰かの気配がそこにある。机を立ち、部屋を見渡す。そうしてほどなく、彼の目は部屋の一郭に向けられたまま動きを止めた。
 そこにいたのはひとりの少女。学校の生徒ではない。
 蜂蜜色の長い髪は艶やかで上質な絹糸のように揺れている。咲き始めたばかりの無垢な花の色を浮かべた唇にはやわらかな笑みがあった。薄っすらと紅をさす頬は瑞々しい蜜桃の色を浮かべ、瞬きする双眸は力強い生を彷彿とさせるレッドベリルの色で染められている。
 少女は真っ直ぐにメルヒオールを見つめていた。唇が幾度か動き、やがて感極まったような声を振り絞る。
「先生」
「……おまえ」
 メルヒオールは目を見張った。視線の先、決して忘れえぬ記憶の中に住んでいた少女が立っている。――否、その姿は記憶の中の少女のそれとわずかに違うもの。
 死の魔女と呼ばれていた少女は、いま、メルヒオールの前で、自らに死の呪いをかける前の姿をしていた。つまり、それは少女の生前の姿なのだ。
「おまえ、なんで」
 何故ここにいるのか。――そうではない。その姿は、なぜ
 メルヒオールの言葉の先を察したように少女は笑う。
「お久し振りです、先生。私の事を憶えていらっしゃいますか?」
 問う。そうして静かに応えを待った。メルヒオールは落ち着きなく目を瞬かせている。それが応えのように思えた。少女は再び笑みを落とす。
「私、先生と別れた後、いろんな世界を渡り歩きましたの。先々に魔導があれば、それに関する言語や学術や学問を研究しましたわ。すごい数の本を読み漁りましたの。頭の中がパンパンですわ。でも、おかげで、私、私のギアの解読に成功しましたの」
 朗々と語る少女に、メルヒオールはようやく落ち着きを戻して口を開けた。
「おまえのギア……確か”死の書”だったか」
「ええ。私にも読めないものでしたわ。私にも誰にも読めない書物なんて、ギアとしてどうなんでしょう」
「解読、したのか」
「ええ」
 少女は強く首肯する。
「そこには死者再生の秘術に関するものもありましたわ」
 言いながら、少女はかつりと足を進めた。少しだけふたりの距離が近くなる。
「それを実行して、自分の身体を蘇生しましたの」
 距離がもうひとつ近くなった。
「蘇生……」
「ええ。それで、死者再生の秘術と引き換えに、私は「死の魔女」の名前を失いましたわ。……先生、」
 距離が少しずつ近くなる。ふたりは、もう手を伸ばせば届くであろう距離にあった。
 少女の頬が紅で染まる。生を湛えた双眸がメルヒオールの目を仰ぐ。唇がゆっくりと開いた。
「私の名前を憶えていらっしゃいますか?」
 そう言った少女の声には、期待と不安がない交ぜとなった色が滲んでいる。
 メルヒオールは、今やもうすぐ目の前にいる少女を見る。迷いなく自分の目を見つめているその視線を受けながら、わずかな間を置いた。
 死の魔女を忘れたことはなかった。時が経てば薄らいでいくのだろうと思いもしていたが、記憶が薄らぐことは決してなかった。
 かつて、ヴォロスで触れた細い指先。目を眇め、メルヒオールはゆっくりと確かめるように、忘れたことのない名前を口にする。
 少女の顔が一息に大きく花開いていくのが知れた。幸福で全身を満たし、細い腕でメルヒオールの身体を抱き包む。少女に抱きつかれた勢いでわずかにバランスを崩したメルヒオールの耳に、少女の声が再び触れた。
「愛しておりますわ、メルヒオール先生。逃れられぬ死の宿命よりも貴方の事を愛しておりますわ」
 言いながら持ち上げた紅い双眸からは大粒の涙がとめどなく溢れ、飽きることなく頬を濡らす。
 あの日、どうしても、どうあっても流すことの出来なかった感情の証。愛を口にしながら愛するものに触れれば、鼓動は確かに大きく高鳴り波を打つ。――これこそが生の証。
 涙を流し自分への愛を口にする少女――アニメートに抱きつかれ、メルヒオールは激しく動揺した。が、極力それを表に出さず、少女の細い肩を抱き返すでもなく、ただただ黙したまま、少女の声を聞くばかり。

 ――その直後に部屋に入ってきたイーリスが、見知らぬ少女がメルヒオールに抱きついているのを目にとめて大騒ぎに結びつくのだけれど。
 それはまた、別のお話。



§ 七夏 §

 カウベルが泣いている。
 渡されたハンカチでは間に合わず、ハンドタオルを用意してもらったぐらいの大号泣だ。時おり思い出したようにグラスを手にとっては、中で小さな波をうつシャンパンをあおって喉を潤すのも忘れない。
「カ、カウベルさん」
 カウベルの前であわあわと慌てているのは、真っ白なウェディングドレスに身を包んだ七夏だった。
 ツインテールに結い上げた紫色の髪は品よくくるくると巻かれ、生花を活かした髪飾りには質の良いレースと小さな宝石が散らされている。オフショルダーのシンプルなデザインで仕立てられたドレスは、この日のためにと特別にリリイが用意してくれたものだった。
 七夏の背に伸びる羽は蜻蛉目系のそれに似た、繊細な美しさを持っているもの。その羽が伸びやかであれるようにと配慮されたデザインは、透き通るように白い七夏の素肌をもさりげなく主張出来るようにもなっていた。
 そうしてその傍らには世界司書ヒルガブの姿。こちらもリリイが特別に仕立ててくれたスーツをまとい、長く伸びる銀髪は背できっちりとまとめ、常とは異なる印象を感じさせるものとなっている。
「大丈夫ですか?」
 ハラハラと心配する七夏の手を取りながら、カウベルはグスグスしながらもようやく口を開けた。
「だって、まさかあのヒルガブくんが結婚できるなんてぇ」
「あ、あのって何ですか!?」
 ヒルガブが白目をむく。カウベルはかまわずに続けた。
「でもでも、今日は爆発しろなんて言わないわよぉ、二人とも本当おめでとうぅううう」
「カウベルちゃん……」
 カウベルの祝辞で感激したのか、ヒルガブが静かに両手を広げる。カウベルとの抱擁のためだ。それを見たカウベルの涙腺は再び決壊した。そうしてそのまま、ヒルガブではなく七夏の腕の中に飛び込んで、驚く七夏を強く抱きしめ熱い抱擁を交わしてから、再び握手を掴んでぶんぶんと握手をする。

 13号が帰還してから半年後。
 かねてから交際を重ねてきていた七夏と世界司書ヒルガブは、0世界の一郭にあるカフェを借りて、そこで小さな結婚式を挙げた。――とは言え、内々によるパーティー形式のものだ。
 リリイが仕立てたドレスとスーツ、甘露丸が腕によりをかけて用意したスイーツの数々。列席したのはふたりが親しくしている面々。この日の天候は図書館側のはからいで気持ちいいほどの青天だった。小さくささやかな。それでも温かく、穏やかな。――そんな結婚式を迎えることが出来たのだ。
 ひとしきり列席者たちとの語らいを終えた後、ふたりはカフェの庭の隅に置かれたベンチの上にいた。
 シャンパンを口に運びながら一息ついているヒルガブの横顔を見上げる。七夏の視線に気付いたヒルガブが七夏に顔を向けた。やわらかな笑みがそこにある。
「ねぇ、ヒルガブさん」
「はい」
「……ひとつ、お願いしてもいいかしら」
「なんでもどうぞ」
 うなずき、ヒルガブは七夏の髪に触れた。七夏はくすぐったく目を細める。
「これからは、ヒルガブ、って呼んでもいい……?」
 意を決めて口にしてみた言葉だった。けれども気恥ずかしさが一杯で、告げた声はとても小さなものになってしまった。けれど、ヒルガブは小さな笑みをこぼす。そうして七夏の頬に触れ、「もちろん」と一言だけを返して七夏の頬に唇を寄せたのだった。

 挙式から二年が過ぎる。
 七夏は相変わらず0世界の一郭にある店を切り盛りしていた。依頼も請けて世界のあちこちを巡りまわる。ワールズエンド・ステーションが発見されてから、新しい世界が続々と発見されているのだ。帰属していくものも少なくはない。
 ヒルガブは相変わらず七夏が冒険で赴く先にあるものを心配したりもする。が、七夏は、依頼をこなし、旅先で見つけた織物や新しい糸や技術を手にして帰ってくるのを幾度も確認してもらう中で、寄せられる心配を少しでもやわらげていければと思ってもいるのだ。
 そうしてその傍らで、クゥ・レーヌ在する医務室に通い、クゥから治療に関する様々な知識も学んでいた。――自分が得意とする裁縫の技術を基盤に、縫合やその他の技術としてレベルアップしていけないものかと考えたのだ。
 この先、いつまた想像以上の惨事に立ち会わないとも限らない。そんな時、自分の力が何らかの形で少しでも誰かの役に立てたなら。――そんな願いをもこめて。

 インヤンガイでの依頼も変わらず請けた。
 昔――ヒルガブと出会う前のことだ。
 インヤンガイで幼い兄妹と接したことがある。薄汚れた世界で、コソ泥の真似事を重ねつつ、ようやく日々の糧を得ることが出来ていた兄妹。
 思えば、あの時から、自分の手が縫いとめることが出来るのは布だけではないことを証明したいと思っていた。
 もっとも、あの兄妹は七夏の能力を目の当たりにして、恐怖に引きつり、化け物を見るような目で逃げ去って行ったのだ。その行く先が気になるとは言っても、ふたりの前に姿をさらすことは出来ない。ただ遠くからふたりの無事を検め、遠くからふたりの安寧を見守り続けることしか出来ないのだけれど。

 そんな生活を重ねる中、13号の帰還から数十年の歳月が過ぎた。
 0世界の様子は昔も今も大きく変わることはない。新しい世界は継続して発見され続け、ロストナンバーたちは様々な岐路に立たされている。
 けれども、どれほどの歳月が過ぎていっても、決して変わることのないものも確かにあるのだ。――否、歳月を経ていく中で一層強く確かなものになっていくものはあるのかもしれない。

 七夏がヒルガブと共に暮らす部屋。
 挙式した頃に新しく揃えた家具は、使い込まれていく中で随分と古くなってしまった。幾度か部屋も変えてきたが、ヒルガブが思い切って購入した一軒家は庭も広めで日当たりも良く、風の通りもいい、心地よい立地の中にあった。部屋も広めに作られていて、のびのびと過ごすことが出来る環境となっていたのだ。
 クゥの元へ通い続け、あらゆる技術や知識を学び、色々な世界を巡ってはその先々でもあらゆる知識を身につけてきた。その中で身につけた最たるものが、ひとの魂や繋がりを”仮縫い”するというものだった。
 高い技術と、代価として払わなくてはならないものも付随するものではあるのだけれど、その魔法じみた技術は、時に冒険者たちを支える確かな力ともなっている。

「おかえり、七夏」
 
 依頼を終えて帰宅した七夏が自宅のドアを開けると、そこにヒルガブの姿があった。挙式のときのように背中で髪をまとめ、仕事の際に着ているものとは違う、カンドゥーラに似た服を身につけている。
「ただいま、ヒルガブ」
 七夏は眼前に立つ夫に飛びつき、抱きついた。ヒルガブも無事に帰ってきた妻を抱きとめ、その頬に軽く接吻する。
「そろそろ帰って来るころかなと思ってね。お茶のしたくをしていたんだ」
「コーヒーじゃなくて?」
「七夏が植えたハーブが根付いたから、試しにブレンドしてみようかと思ってね」
「ハーブティー?」
「そう。一応味は確かめたけど、気に入るかどうかは分からないな」
 言葉を交わしあいながらリビングに向かう。
 大きな窓が開け放たれたベランダ。その向こうで風に揺れる草花たち。――郷里の森にいるような感覚を得られればと、ヒルガブが用意した自慢の庭だ。
 涼やかな風が流れこむ。ソファに座り、ハーブティーを口にする。その感想を交し合い、それから依頼で訪れた世界で見たものや聞いたものについての話をする。七夏が語る様々な風景の話を、ヒルガブは飽きもせず興味深く聞いている。 ヒルガブもまた、七夏が不在だった間の話をする。こなしてきた仕事の話、ターミナルで起きた大小さまざまな事件。そうやって離れていた時間を埋めていく。
 ハーブティーがすっかりからっぽになってしまった頃、七夏はヒルガブの胸に頭を寄せて、肩にかけられている腕に指を滑らせながら続けた。
「ねぇ、ヒルガブ」
「ん?」
「……私は貴方がいれば幸せよ」
「うん。私もきみがいてくれるから幸せだ」
 交し合い、互いの顔を見合わせながら笑いあう。
「ヒルガブは子どもが欲しいって思ったことはない? ……子どもが出来なくて寂しいって思ったことは?」
 問いかけた。
 七夏の髪を撫でていたヒルガブの指が止まる。七夏は小さくかぶりを振ってから微笑んだ。
「もしもいつか、司書もどこか別の世界へ帰属出来るようになったら、」
 それはもちろん、あてなどない、途方もなく薄い望みなのだろうけれども。
「家族、たくさん作りましょうね」
 言って、ヒルガブの唇に唇を重ねた。
  
 庭の緑が風に唄う。
 それは、懐かしいあの森で聴いた音にとてもよく似ている。



§ チェガル フランチェスカ ・ バルタザール §

  13号の帰還に続き、新規世界群が次々と見つかり、帰属や再帰属を果たしていくロストナンバーたちが数多く続いた、ある種のブームにも似た時から、数十年の歳月が過ぎた。
 0世界には相変わらず時の流れは無く、帰属ラッシュに沸いたのも遠い過去になっている今となっては、常と変わらぬ安穏とした変調のない空気に満ちているばかりだ。
 チェガル フランチェスカの出自世界が見つかったのは、13号の帰属から何年目のことだっただろう。当たり前のように帰属の日取りを訊ねてきたものもいたが、フランはあっさり首を横に振り続けてきた。
「だってさ、ロスナンやめたら歳取るんだよ? そんでババアになって死んじゃうんだよ? いやいやいやいや、ムリムリ、マジでムリ。怖すぎるって!」
 そんな風に言い続け、帰属していくツレたちを送りつつ、気がつけばフランの暮らしは13号の帰還の前後にほとんど関わりのないものとなっていた。
 そうして今、0世界の一郭、馴染みのカフェのテーブルで、フランは温くなりかけたココアを掻きまぜながら、大きなため息を吐いている。テーブルの向かいに座っているのはバルタザール・クラウディオ。重厚かつ品のあるデザインで仕立てたスーツ姿は、どこから見ても一分の隙もないほどの紳士然とした風格をかもしだしていた。
「君は、飽きもせずに続けるそのため息を聞かせるために、私をここに呼んだのかね?」
 透明なガラス製で作られたティーポットの中には、ダージリンが淡く波を打っている。それをカップに注ぎ入れながら、クラウディオは琥珀色の双眸をちらりと持ち上げ、フランを見据えた。
 対するフランはバルタザールの声を耳にすると、ボヘエエエという謎の声と共に深々としたため息を落とし、テーブルの上に突っ伏した。
「この間さぁ、前に帰属した友達の様子見に行ったんだけどさ」
 突っ伏したまま、視線だけを持ち上げてバルタザールの顔を仰ぐ。バルタザールはカップを口に運びつつ、何の興味も無さげな顔でフランの話を聞いていた。
「みんなさぁ、どんどん歳取ってくわけ。カルム君なんかボクより年下だったのに、今じゃオッサンだよ? もうさー、びっくりだわ。一昔前に流行った、オッサン受けの薄い本のネタが浮かんじゃうよ」
「一昔前とは」
「ええー? んと、そうだなぁ。どんぐらい? 壱番世界だと十年一昔って言うんじゃなかったっけ? あ、それだと一昔じゃないのかな。二昔? 三昔? ってかオッサン受けとかって根強くて廃れないから、もうそっちは現役ってことでいいや」
「……君は独り言を聞かせるために私をここへ呼んだのかね?」
「そんなんじゃないけどさぁ。わりともう皆帰属しちゃったりしたじゃん。皆年取っちゃって、シワシワになったりしてさ。髪も薄くなっちゃって白髪? とか生えちゃってさあ」
 まだ突っ伏したまま、フランはイヤイヤをするように首を振る。
「あー、やだやだ。歳取るのはイヤだねー。ん? あれ、歳取ってんのは向こうか」
「うむ」
 フランの言葉に首肯して、カップを静かにテーブルに戻しながら、バルタザールは口を開いた。
「私からすれば、君も帰属していったカルムたちも充分にまだまだ若いと思えるが」
「バルたんっていくつだっけ」
「さあな」
 にべも無い応え。フランはむうと頬を膨らませ、テーブルの上から顔を持ち上げてココアを飲む。やわらかな甘さが喉を過ぎて、心が小さく息をついた。
「変態仮面とかも残ってるし、皆がみんな帰属したわけじゃないし、寂しいっていうのとはちょっと違う感じもするんだけどさあ」 
 言いながら両手で頬杖を作り、カフェのガラス窓の向こう――どこか遠くを見つめながら、フランはまさに独り言のように口を開く。
「……取り残されてる感? みたいなのがさあ」

 0世界に留まり、旅を続けることを選んだロストナンバーは少なくない。あるいは新規に覚醒を果たし0世界に足を踏み入れるものもいる。見知った顔が減れば、その分の新たな出会いがあったりもするものだ。けれどそれでも、やはり、見知った顔が数字を得て0世界を後にしていくのを見送るのは寂しい。帰属先で歳を重ね老いていく姿を目の当たりにすれば、その向こうに永別という結末がチラつき浮かぶことだってある。
 時間は流れ、命もまた流れていく。時の流れから放逐されたまま、老いとの距離を離したままで永遠にも感じられる生活を送るのは悪くない。老いていくのは恐ろしい。ゆっくりと死に向かい歩き続けていかなければならない、その事実は耐え難いほどに怖ろしいものだ。
 それでも、心のどこかが自分がとった選択に小さな疑問を投げかける。

「……潮時なのかなぁ」
 遠くを見つめたままでぼそりと続けた。
 バルタザールは二杯目の紅茶を口に運びながら、黙したままフランの声に耳を寄せていた。が、ふと視線をカフェのガラス窓向こうに向けて、ゆっくりとした語調でフランに向けて言葉を紡ぐ。
「これはあくまでも私見なのだがね」
 口を開く。フランの視線がバルタザールへ寄せられた。
「吸血鬼である私が語るのも何やらおかしな話かもしれないが。――人は独りでいることに慣れはするが、独りになることに慣れることはない。もしも仮に慣れてしまえば、それはもはや人という枠に外れた、人とは違う生き物になるのだろう」
「人と違う生き物」
 バルタザールの言葉を小さく反芻するフラン。バルタザールの視線がガラス窓の向こうからフランの顔へと戻される。
「私から見れば君たちは皆等しく、まだまだ若い。君たちの話を聞いていると、時おりそんな若さが羨ましく思ってしまいそうになる」
 そう言って琥珀色の双眸を静かにすがめた。
「私が思うに、君の心の在りようは人のそれに近しいもののようだ」
「……バルたんの言ってること、よくわかんないな。つまり、どういうことさ」
 フランが問う。対し、バルタザールは小さく笑う。何か謀でも含んでいるかのような、決して優しい笑みとは描せないようなものだ。
「そんなことを思い悩む心の若さがあるうちは、せいぜい好きなようにすればいいだろうということだ」
 言って、バルタザールは再びガラス窓の外に目を向ける。フランはココアの残りをぐるぐるとかき混ぜながら小さなうめき声をこぼした。
「っていうかさあ」
「うむ」
 窓の外に目をやっているバルタザールを盗むように見上げる。バルタザールは外にある何かを見据えたままだ。
「愚痴にそんな達観めいた助言とかいらないんだけど」
「ならば聞き流せばいい。私が君の愚痴を聞き流しているのと同じようにな」
「うわーなにそれ、引くわー……この間壱番世界行ったときに見つけた、吸血鬼が主役のゲームの薄い本、ちょっとバルたんに似てね? って思ってちょっと興味あったのにさぁー。引くわー」
 不服を述べて再びテーブルにぱたりと突っ伏すフランに、数拍の間を置いた後にバルタザールの声が降ってくる。
「ところで、先ほどからあの位置に留まったままの男、あれは君の知己かね?」
「はぁー? 男ー? バルたんのこと見てんじゃないのー?」
 のらくら返しつつ顔を向けたフランは、しかしその直後、「げ」と小さな声を発した。
 フランの視線の先、男がひとり佇んでいる。俗にイケメンと称されるであろうレベルの、バルタザールと変わらないほどの齢だろうかと思しき見目をしている。
「知り合いかね?」
「あいつここまで来たんだ! マジキメぇ!」
「つまり知り合いなのだね」
「知り合いでもなんでもねえし! うわ、やべこっち来るし!」
 間を置かず、男はテーブル横のガラス横にまで近付き、腕を組んだ姿勢で、どう見てもフランに向けているだろうとしか思えない熱視線を送り出し始めた。その視線たるや、いずれ眼球内の液体が弾丸となって射出されるのではないかと思えるほどの力を備えている。
「……よくは分からないが、君に話があるようだし、場所を変えたほうがいいのではないのかな」
「ハァァ!? いやいやいや、なにそれシカトでいいって!」
 極力男を見ないように努めつつも、バルタザールの言に心からの異を唱えるフランだったが、バルタザールに示され、店内を見渡してから大きなため息を落とした。
 異様な空気をかもしだしている男の出現で、店内は軽くざわついていた。その影響もあるのだろう、客や店員の目が一様にフランとバルタザールに向けられているのだった。

 手早く会計を済ませて店外に出る。待ちわびていたように、男が仰々しい所作でフランを迎えた。我が最愛のナンチャラだの、花園がナンチャラだのという、ここで記録するのもおぞましいような言葉が次から次へと紡がれてフランにそそがれる。 
「キモモモモ!!!!」
 怖気で背筋を粟立てさせるフラン、そのすぐ前に片膝をつき、流れる水のごとくに尽きることのない求愛の言葉を述べ続ける男。ふたりから数歩分の距離を離した場所に立ち、他人事のような目で事の成り行きを見守るバルタザール。
「こいつ! こいつマジでキモすぎるんだって! 結婚とか! おまえと結婚とかするわけないから! うおおおおおどっか行け! おまえこそとっととどっかに帰属してボクの前からいなくなれよ!」
 うっとりとした目でフランを見上げ愛をうたい続ける男には、フランが喚く罵詈雑言もすべてが愛をささやく小鳥のうたにでも聴こえているかのようだ。呪詛による効力は期待出来ない。なぜなら相手はカオス属性だから。
 恭しくフランの手を取り接吻しようとする男への憎悪のゲージも振り切れたのか。フランはついに怒りのアッパーを撃ち出した。雷撃を加算してのそれは男の顎を見事に捉え、男は壱番世界のアニメなどの悪役にありがちな吹っ飛び方でどこか遠くへと姿を消した。
「今のうち! 場所変えようバルたん!」
 言ってバルタザールを振り向く。バルタザールは壁に寄り掛かり腕を組んだ姿勢で成り行きを見ていたが、フランの言葉を聞くと小さな息をひとつこぼしてフランの後を追った。

 そうして場所を公園に変え、屋台で買ったジュースで喉と気持ちを落ち着かせながら、フランはそれでも忙しなく周りを見渡し、男の姿がないのを確認する。バルタザールはやはり他人事のような顔で、手近にあったベンチに腰を落としていた。
 ひとしきり周りを検め終えた後、それでもどこか警戒を解くことをせず、フランもまたバルタザールの隣に座る。
「あの変質者、元々ボクの獲物だったのに」
「ほう。ならば相思相愛というものではないのかね」
「違っ! あいつ、自分を殺しに来たボクに惚れたとか言って、うおおおおぞわぞわする」
「ほう」
「そんで、ボクを呼ぶためにいろんな事件とか起こすんだよ!? もーさー、マジ無理ってなるじゃん。そんでボク覚醒してここ来たじゃん? あいつからも解放された! って思うじゃん?」
「ほう」
「そしたらあいつ、二十年前? そんぐらい? そんぐらいに覚醒しちゃってさ! これは逃れられぬ運命だとか言って泣いてんの!」
「ほう」
「ひたすらずっとフラれ続けてんのに、未だに求婚し続けてくるとかホントまじキモ! 無理無理無理! 0世界で殺人が合法だってんならとっくに殺ってんだけどなあ。どうにかこう、合法的に、うまい感じに抹殺できないもんかなあ」
 昔は殺ったヤツもいるけどさ。
 ごにょごにょ言いながら足元をグリグリと踏みつけるフランに、それまで「ほう」としか応えていなかったバルタザールが口を開けた。
「で、それはつまり惚気というものかね?」
「ハァァァ!? おいィィ! これのどこが惚気だよ!」
 バルタザールの言にフランが荒ぶる。バルタザールは再び薄い笑みを浮かべた。
「冗談だ。しかし、二十年か。二十年間求婚し続けてくるならば、少なくとも気の迷いということもあるまいが。……君もよく耐える」
「でしょー!? ボクめっちゃ耐えてんだけど!」
「好きでもない相手に二十年も迫られ続けているとはね。私なら、途中でもう二度と会うことのないようにしてしまいそうだ」
「いや、ボクが覚醒する原因になったヤツだから、二十年以上になるんだけどね」
「ほう」
 笑みを浮かべながら首肯するバルタザールに、フランはしばし考えた後に弾かれたように顔を持ち上げた。
「あっ! でも別に吸血鬼が嫌いとか、そういうんじゃないからね! 元いた世界で敵国ってだけだったし、っていうかそういうの抜きにしても性格ぶっ飛んでてキモいから嫌いなんだけどさ」
「ほう。……ならば、私を恋人ということにして、相手の諦めを誘うという手もあるぞ」
「ふぁっ!?」
 思いがけない申し出に、フランは思わずバルタザールを見る。そこにあったのはフランを見据える琥珀色の双眸だった。そのまま、しばし視線が重なる。
「い、いやいや、バルたんはさー、なんか性格がお固すぎて束縛されそうって感じ?」
「ほう」
「だからバルたんとは友達止まりかなーみたいな感じ?」
「そうかね」
「うん。友達止まりでオナシャス!」
 言って、フランはベンチを立つ。そうして再び忙しなく周りを検めた後、バルタザールを振り向いて手を振った。
「じゃ、ボク、いい感じの依頼がないか見に行ってみるよ」
「ヤツとまだ鉢合わせになるかもしれぬぞ」
「そうしたらまたぶん殴って気絶させるから大丈夫!」
「そうか」
「うん。それじゃ、またねー!」
 そう言い残し、フランは公園を後にする。それからわずかの後、公園の向こうで雷撃が跳ね上がったのを見て、バルタザールは口角を吊り上げた。
 フランがどう言おうと、あの男の目にはバルタザールは恋敵として映っていたかもしれない。ならば、あるいは、これから先、男がバルタザールを襲撃して来ないとも言い切れないのだ。
 ――まあ、そうなったらそうなったで、どこぞのハンターにでも依頼することにしよう。
 そんなことをのんきに考えながら、バルタザールは空を見る。
 移ろうことのない0世界の空は、いつもと同じ顔をしていた。

  

§ ホワイトガーデン §

 ロストレイル13号が帰還し、ワールズエンド・ステーションの所在が確認された後、十年の歳月が過ぎた。その十年という歳月の間にも数々の世界の所在位置が判明し、ロストナンバーたちの中にも出自世界や他の世界への帰属を果たすものが続々と続いていた。
 ホワイトガーデンの出自世界が見つかったのも、そんな帰属ラッシュの中でのこと。見つかってすぐに帰属の意を決めたわけではなかった。覚醒を迎え、ずいぶんと時間は過ぎている。郷里に住んでいた知己はもう齢を重ねて大人になり、次の世代を育てているものだっているかもしれない。風景も変容しているかもしれないし、――つまり、帰属に際しての不安がまったく無かったというわけでは、決してないのだ。
 幾度か郷里に足を運び、懐かしい記憶を辿るようにしながら歩き巡った。
 ロストナンバーとして覚醒を迎えた後、十数年の歳月を経ている。郷里で過ごした十数年という歳月と等しいだけの時間が流れているのだ。そうして訪ね歩いた郷里の風景や人々は、やはり、ホワイトガーデンの記憶の中にあるそれとは逸したものとなっていた。知らない人々が闊歩する知らない街並み。建物も変わっている。それに連なるように、景色だって多少は変わっていた。
 ――けれど、そんな景色の中を歩き巡った後、ホワイトガーデンは決めたのだ。郷里への再帰属を果たすという結末を。
 
 森の中に小さな家を買い、広くはない畑を拓き、ハーブや花や野菜を育てる。その傍らで、日々の出来事を飽きもせず丁寧にしたためていく。0世界にいた時分にも日課としていたそれは、頭上にひらめく数字を取り戻してからも続けていた。
 もちろん、0世界にいた間に過ごした幾多の冒険に関する記載に比べれば、その内容はとても静かで地味なものになる。育てているハーブや花や野菜がどれぐらいに大きくなったとか、今日はとても強い雨が降ったとか、近くの町まで出掛けていって何を買ってきたか、等々。それでも、そんな毎日の暮らしも、ホワイトガーデンにとっては小さな変化の繰り返しだ。
 雨が降った後、空には大きな虹が架かる。清らかになった空気の中、畑の花やハーブや野菜たちは一層健やかに大きく育つ。季節が巡れば森の色も変わっていくし、――それに、ホワイトガーデン自身にも少しずつの変化がやってくるのだ。
 十四という齢で覚醒した後は、身体の成長も止まってしまったままだった。身長も体重も十四歳のときのまま。伸びをしても届かない場所にあるものを取るときには踏み台を使うこともたびたびあった。おかげで愛用の踏み台なるものもこっそりと出来てしまっていた。その踏み台は帰属した後も使っていたが、気がつけばそれを持ち出す回数も少しずつ減っていたのだ。
 いくつかの季節を送る中、鏡を覗くたび、そこに映る自分が少しずつの変化を帯びていく。背も伸びて身体のラインも成長し、体重だって増えていく。留まっていた時間が再び流れだしたのだから、身体にも変異があるのは当然のこと。
 気がつけば踏み台は不要なものとなっていた。手を伸ばせばある程度の位置には届くし、油断すれば体重だって予測を上回ってしまう。……そればかりは、さすがに悩みどころかもしれない。
 ともあれ、そんな些細な変化を重ねながら、時間はゆるやかに流れていくのだ。再帰属を果たし、新しい知己や繋がりも増えて広がり、交流の環も少しずつ広く深くなっていく。そんな積み重ねを続けながら、気がつけば出自世界への再帰属を果たしてから数年の歳月が過ぎていた。

 ――……さん

 ふと、声がしたような気がして目を覚ます。
 辺りはまだ暗い。眠りについてからまだ数時間ほどといったところだろうか。ぼうやりとする頭を撫でながら天井を見上げ、再び静かに目をつぶる。
 ――ガラさん?
 耳に触れたその声は、0世界で別れた世界司書のものだった。夢の中、久しぶりに彼女と戯れていたような気がする。
 
 0世界で過ごした時間は、もうどこか遠いものであるようにさえ感じられる。止まっていた流れの中に身を置き、日々少しずつの成長と変化を重ねていく今の自分こそが、きっと本来あるべき姿なのだろう。けれど。
 ツーリストとして0世界に身を置き、色々な世界群を旅してきたあの時間もまた、他に比べようのない大切なものだった。優しく穏やかなばかりの冒険ではなかった。容赦のない、苛烈な場面を目の当たりにしたこともある。それでも。
 まだ薄い眠りの中にあった瞼をこすり、ベッドを抜け出して部屋の隅に目を向けた。――そこに大切に飾ってあるのは、ふかふかの帽子と旅行鞄。別れるとき、あの司書がくれた宝物だ。
 またね、と告げて手を振った。いつかきっとまた会えると信じていれば、それはきっと必ず叶う。
 時おり思う。成長し、姿も少しずつ大人に近いものへ変わった自分は、0世界で出会った仲間たちの目に、どんなふうに映るのだろう。
 皆が皆、帰属を果たすわけではない。中には旅人のままであるのを選択するものだって少なくはない。齢の重ねを迎えることのないままのロストナンバーと、齢を重ね続けていく自分たち。時の流れは確たる境界の差異を刻み、きっと想像以上に容赦のない距離を開いていこうとするのかもしれない。
 けれど、それでも。
 心まで変わることがなければ、齢や見目の差異など瑣末な違いに過ぎないはずだ。共に重ねた記憶や思い出が変わるわけではないのだから。

 ベッドを抜け出し、机の上に置いていたノートを手に取る。ランプに火を灯し、椅子に腰を落として、かけがえのない大切な宝物を解き放つようにこっそりとページをめくった。
 ――いつか再び会う日まで
 そう綴った文字が最初のページに残されている。
 ホワイトガーデンは静かに笑い、澄んだ青の双眸をすがめた。
 再帰属を果たし、頭上に数字を取り戻せば、それ以降はもう二度とロストナンバーとなることはない。旅人のままであり続けるのを選択したものがホワイトガーデンを訪ねて来るのは例外にしても、基本的にはもう二度と顔を合わせることもないのだ。
 一抹の寂しさが胸をよぎる。けれどそれを払うようにかぶりを振って、綴られたその言葉に指先をあてる。じわりと感じる懐かしい温もり、耳を撫でる懐かしい声、笑いさざめきながらホワイトガーデンの名を呼び、大きく手を振り続ける仲間たちの姿。それは今も、きっとこれから先、どれだけの歳月を重ねていっても、忘れることのないかけがえのない思い出だ。
 静かに瞼を伏せる。それから再び瞼を開けて、手に取った羽ペンで記憶の中にある風景を綴る。
 それが長く続くひとつの物語としてのかたちを得て、ホワイトガーデンの住まう世界の中で静かな人気を博するものになるのは、それからもう少し先のこと。



§ 業塵 ・ 森山天童 §

 山野に囲まれた平野には、かつては広い田畑が広がっていたのであろうと思しき痕跡がわずかに残されていた。
 荒れてはいるが馬や人の往来は頻繁なのだろう。さらには、かつては田畑であったのであろう平野はひどく踏み荒らされ、無残な荒地となっていた。
 風にのり運ばれてくるかすかな気配。それは何かが焼ける臭いだ。遠く、人々の悲鳴にも似た音が聴こえている。
「ここが業塵さんのお国なんやねぇ」
 草履の底で砂利を踏みながら歩き進む業塵の背中に声をかけながら、森山天童は飄然とした表情で辺りを見渡していた。
 常と同じ、着流しの上に女物の小袖を羽織り、手には煙管を持って時おり思い出したように紫煙をたちのぼらせている。小袖に焚きつけた香木の芳香が風をはらみ流れていった。
 業塵は肩ごしに後ろを見やる。――覚えのない顔というわけではない。記憶が確かであるならば、ナラゴニアの露天で顔を合わせたことのある男であったはずだ。それでも、ただそれだけの縁故であったはず。しかし今、天童は確かに、業塵の帰属を見届けるため、ひと時みちゆきを同行しているのだ。
 山裾を撫でて流れる風はわずかに肌寒く、仰ぐ空にあるのは春に覚めたばかりの小川に似た色を湛えている。ならば筋雲は川面にたつ白波のそれか。風は業塵の結い上げた髪を梳いて流れ、飄然としたまま業塵の後に続く天童が羽織る小袖をひいらりと流していった。遠く、再び悲鳴にも似たものが響き渡る。

 ロストレイル13号が朗報と共に0世界への凱旋を果たした後、二十年の歳月を経て、業塵の出自である世界の位置が発見された。それに伴い、業塵は郷里への再帰属という選択を取った。諸般の手続きはとんとんと進み、そうして晴れて再び郷里――日ノ本の地を踏んでいる。
 鞍沢はとうの昔に滅んでいる。蝕んでいた朝廷、その頂に座していた帝もまた自らの因果の許に死している。それから長い歳月を経た今、日ノ本は亡国と化すための一途を歩み出しているかもしれない。頂を喪えば新たな頂に立たんとするものたちが現れ、目指す場所を同一とするものたちが集えば戦火が生じるは道理。戦火が生じれば骸は再び渦を描いて積み上がり、骸が山と積み上がればそこに瘴気が生じるのもまた道理なのだ。
 恐怖や呪詛、狂乱。あらゆる感情がない交ぜとなって天を染めれば、そこに更なる脅威を呼び招いてしまうのもまた道理――しかる後に世は己が招いた滅亡に向かい歩むのだ。
 
 天童は風を鼻先に捉える。踏みしめる砂利で出来た街道に敷かれた土や石を、そこここで焼かれた痕跡を色濃く残す藁の束を捉える。その端々に残る残滓は確かに”人を逸したもの”の気配だ。
 口の端に笑みが浮かぶ。隠すように煙管を運んだ。

 かつて鞍沢の地と呼ばれたその場所に、かつての領主天野守久が在していた居城がある。――そう、その城は周り一帯を焼いた戦火に巻かれることもなく、その姿を確たるものとしたままに保ち続けていたのだ。
 跳ね橋を渡り、城内へと進む。城内に人の気配は無く、けれど庭木や縁石や瓦、細部に至るまで丁寧な手入れが届いている。
「またえらい立派なお城に住んどったんやねえ」
 天童が言う。業塵が落ち窪み隈のついた眼で天童を一瞥する、ただそれだけだ。しかし天童は一向に気にとめるでもなく、やはり飄然としたまま、業塵の後について天守閣の間へとたどり着いた。
 開け放たれたままの格子窓。障子を梳いて通る陽光は鈍く、ぼうやりとした影を畳に落とす。
 上座に向かいどっかりと腰を落とした業塵は深々とした息を吐き、窓から外を眺める天童に目を向けた。
「……おまえもこの地に留まるのか」
 訊ねる。
 天童は天守閣から臨める荒野を眺めながら煙管をふかし、けれどもふるふるとかぶりを振ってから振り向いた。
「わいはどこにも留まったりせぇへんよ」
「旅を続けるというか」
「せやね」
 間を置かずに返される応え。耳にとめ、業塵の口許に小さな笑みが滲んだ。
「その割に随分安穏としておるようだが」
「列車が発つまで時間もある事やしね。せっかくやし、物見遊山がてらゆうのも悪うないやろなあって思いましてなあ」
 欄干を背に、後ろ手に身をもたれかけた姿勢で頬を緩める天童を見据え、業塵が浮かべる笑みがゆるゆると色濃いものとなっていく。
「お前もなかなかに面面白そうな奴だ」
「そうやろか。――おや、業塵はんの知り合いやないん?」
 言いながら示した天童の指の先、すらりと開かれた襖の奥で、板張りの廊下の上で膝を揃え手をつき深々と頭を垂れる年寄りと童の姿があった。
「留守居、大儀であった」
 業塵が声をかける。年寄りと童は揃って応と口にして、業塵の呼びかけに従い顔を上げた。
 齢六十ほどの見目の痩せた男、その隣には齢十にも満たぬであろう童がいる。
 年寄りが先んじて城主の帰還への祝を述べ、童がそれに続いて祝を述べる。続きふたりが語ったのは日ノ本に関する現況の報せ。――いわく、日ノ本には今、夜刀神というものが在しているのだという。
 夜刀神とは蛇体に頭角をいだいたもの。郡家の周辺に群棲するものであったというが、戦火における瘴気を受けて力を増したか、昨今では有する力も強大なものと化し、人々だけでなくあらゆるものを脅かしているのだというのだ。
「あれやろ。目にしたもんは一族郎党もろとも滅ぶとか言われてるやつやな」
 天童が口を挟む。老人が天童を一瞥してから首肯した。
「なれば、儂の為すべきは知れておる」
 言って、廊下に控えるふたりに向けて指示を向ける。
「蟷螂、蛇と狐に遣いを出せ。夜刀の神征伐に参じてやろうぞ」
 蟷螂と呼ばれた老人は再び低く頭を垂れると、即座に場を離れて気配を消した。残された童は蟷螂が消えていった方と業塵の顔を交互に見つめ、わずかに慌てたような風を見せる。
「蜂よ。そなたも蟷螂に同行せよ」
 業塵が言う。童は弾かれたように頭を垂れて、蟷螂を追うようにしながら姿を消した。
 郷里を離れ0世界に身を置いていた間、業塵を家来扱いしてきた子どもがいた。――アルウィン。 
 もはや道は違えた。顔を合わせる事も、二度とないのかもしれない。それでも、アルウィンを思えば自然と口許がほころぶ。
「さっきの童、誰ぞ、知り合いにでも似とるん?」
 天童が問う。業塵は口の端に笑みを浮かべただけで、応えの言葉は返さなかった。

 かつては帝が住んでいた都。今は夜刀神の棲家と化していた。
 畏れや恐れという強い感情は、そのまま向けた相手の力と成り果てる。夜刀神に対し挑む化生は後を絶たず、けれどもその総てがことごとく夜刀神に吸い込まれていくばかりだった。
 蟷螂と蜂に呼ばれた蛇と狐は、あたかも業塵から声がかかるのを初めから知ってでもいたかのような顔で、すぐさま業塵の前に膝をついた。揃って業塵の帰還を祝し、それから当然のように、夜刀神に戦を挑むための支度は整い済みであると告げた。
 万端整い済みの流れに、天童が感嘆の声をあげる。一方の業塵は、蛇と狐が浮かべるドヤ顔を目にとめ、わずかに不快な色を浮かべて見せたりしたが。
 ともあれ、夜刀神との戦が始まったのは、業塵が郷里に帰属した半日後の事だった。

「あれれ、わい、そんな物騒な事するために来たんやないんやけどなあ」
 言いながら小袖を舞わせ、踊るように葉団扇を揮うのは、鞍馬の黒天狗と称される天童だ。
 広げた両翼は闇よりも黒く、穢れの象徴と揶揄されていたそれは、宵闇に染まる紅の空を覆い包む夜の訪れを彷彿とさせる。転じて降り注ぐ羽は逃れ得ぬ弓矢のように、地を這う夜刀神たちの全身を貫通していった。全身の至る箇所に穴を穿たれた蛇神は、天を舞う黒い天狗に呪詛を投げながら次々と滅していく。
 けれど、呪詛が天童の身に届く事はないのだ。
「呪いならとうの昔から負うとるんよ。堪忍な」
 言って、葉団扇で口許を覆い隠す。
 風を受けゆらゆらと舞う小袖は天衣のそれにも似て、焚きつけられた香木は、毒蛾が撒く燐粉のように夜刀神たちの自由を楔していった。

 夜刀神との一戦を交えるために集い来たのは、何も化生に属するものばかりではなかった。人間もそれぞれの手に得物を携え、殺され奪われたものたちの仇を討つために奮い立っている。
 天童が業塵を見送るために足を寄せたのは、あるいは仏の計らいであったのか。
 遠目に、黒天狗が蛇神の群れの一角を滅し続けているのが見える。手を貸すまでもなく、その力の大きさは確たるものであるだろう。
 折烏帽子の下、窪んだ眼光をわずかに細め、業塵は天狗を検めていた視線を眼前向こうに並ぶ夜刀神の姿へ向けた。
 トラベルギアとは異なる扇を前方に向ける。それを合図として、控えていた化生と人間による軍勢が一斉に鬨の声をあげた。
 怒気と憾みを織り交ぜた咆哮が地を揺るがす。間を置かず広げた扇の中から舞い立つは数も知れぬ羽蟲の群れ。羽蟲は空を覆い、暮れを待たずに世界は闇に包まれた。――否、闇は夜刀神の群を飛び交って視界を奪い、その機を狙い定めていた軍勢が押し波のごとくに迫って行ったのだ。
 軍勢の先頭を走りながら業塵は思う。
 今となっては盟友であったようにも思える相手、守久。それが愛し、守った国。懐かしい人々が送っていた穏やかな時間。それに等しい時間を、これから先に生まれ来るものたちは送っていくに違いないのだ。むろん、世は波乱に満ちている。なべて世は事も無しというものではないのだ。そうしてそれゆえに世界は面白い。
「……お前如きにくれてやるものか」
 呟いた声は咆哮に飲まれていく。
 落ち窪んだ眼光に、今は確かな閃きが宿っていた。

 夜刀神を都から圧倒し、海上戦にまで運んだのは、それから数日を経た後の事。それからさらに数日の後、軍勢はついに夜刀神を滅ぼすに至った。むろん軍勢側には数え切れないほどの骸が積まれたが、それでも諦念を抱く事なく圧し続けたが末の勝利だった。
 化生と人間との間にはある種の繋がりこそ生じはしたが、結局は住まう世界の異なるもの同士。散り散りになり、やがてはそれぞれの住処へと戻っていった。

「ほな、わいもそろそろ戻りますわ」
 天童はやはり安穏とした風のまま、業塵から預かったギアやパスといった一式を確認してうなずいた。
「いやぁ、おかげさんで羽伸ばさせていただきましたしな。業塵はんの見送りに来て正解でしたわ」
 飄然と言いながら葉団扇で口許を隠す。その奥でくつくつと喉を鳴らすような声がした。
 業塵はうっそりとした眼光を天童に向けた後、
「大儀であった」
 一言だけを告げて踵を返す。
「ほな、お達者で」
 背中を追うように声がした。その声に引かれ、わずかに足を止めて振り返る。
 けれど、そこにはもう天童の姿はなくなっていた。ただ淡く漂う香木の匂いばかりが漂っていた。



§ ナウラ ・ 村山静夫 and §

 それは、果たしてどのような摂理に基づいた奇跡であったのだろうか。
 否、その理は恐らく調べていけばいずれ判然とするものではあるのだろう。けれどその理に関する謎の解明は、今この場ではまるで優先度の高いものではないのだ。
 
 日本皇国皇都東城――村山静夫とナウラの郷里だ。出自世界の在り処が発見された後、ふたりは揃って郷里への帰属を申し出た。
 ロストレイル号はふたりの降車を確認すると、再びゆっくりと滑り出し、やがてその大きな姿は空気の中に溶けいるようにして消えていく。その行く先を見送った後、ナウラはくるりと振り向いた。そこには共に帰属を果たした村山の姿があるはずで、ふたりはこれよりしばし行動を共に、選ぶべき道についての話を交わさねばならないのだ。
 けれど振り向いたナウラの目が村山の姿を見出すことはなかった。
 そこには新しいビルヂングの建設を予定された広い空き地があるばかり。有刺鉄線で囲われた空き地の中には工事現場らしいものが幾ばくか置かれているだけで、人の気配などまるで感じられない。見事に静まり返った空間があるばかりだ。
「む、村山!?」
 村山の名を呼ばわりながら周辺を走り回る。
 むろん、ナウラと村山は立ち位置を逸した者同士。郷里を同じくしているだけの身にすぎず、本来であるならば敵対しあう立場にあるのだ。それを思えば、村山が行方をくらますのにわざわざナウラに断りをいれる必要などあろうはずもない。
 ひとしきり辺りを駆け巡った後、ナウラはふらふらと腰を下ろした。電柱に背を預け、力なくうなだれる。
 ――そう、何を期待していたというのか。
 ぼうやりと考えながら視線を上げた。そうしてようやく、自分の周りにある郷里の風景に気がついたのだ。
 小さな違和。――そうだ、今しがた目にした広場には、もうビルヂングは建っていたはずだ。ビルジングとは名ばかりの、七階建てのものではあったが、それでも充分すぎるほどの迫力を纏うものだったはずだ。そうして、その完成が明和三十五年。――ナウラが東城に在していた年のことだった。
 慌てて身を起こし、改めて周りを見渡した。
 見覚えのある東城の風景。けれど何かが、どこかがわずかに、記憶のそれと違っている。
 煙草屋の前に無造作に置かれてあった新聞を取り、そこに記されていた日付を目にとめて驚愕した。
 ――明和三十三年
 ナウラが在していた明和三十五年より、二年も前の日付だったのだ。

 ナウラを離れた後、静夫は煉獄博士の元へ向かった。途中、どうしてだか自分たちが明和三十三年の東城に帰属していたのだと知った。静夫が在していたとき、東城は明和三十一年。
 軽い混乱こそしたが、――それは静夫にとり、さしたる問題ではなかった。
 裏路地に潜り、道端に転がる煙草の吸殻を拾い火を点けている男を捕まえ、新しい煙草を一本差し出して話しかければ、男はたちどころに機嫌よく饒舌になる。見るからに日雇いの肉体労働者といった風貌の男は、どうやらどこかの組の末端構成員でもあるらしい。
「煉獄博士のアジトを知らねぇか?」 
 訊ねた静夫に、男は初めの内こそ応えを渋ってみせた。が、静夫がポケットからウヰスキーの小瓶を差し出すと、男はたちどころに饒舌になって博士の居所に関する噂話を語り始めたのだった。
 男と別れ、静夫は得た情報を頼りに煉獄博士のアジトを目指す。情報とは言えどもそれはあくまでも噂話の域を抜けぬもの。露ほども信憑性のない、まるで当てにならないものなのだ。
 それでも、得られたそれは静夫にとって充分すぎるほどの情報だった。
 煉獄博士が潜伏しているらしいと噂されるその一帯には、静夫が在していた明和三十一年当時、博士に肩入れしていた怪しげなまじない屋が居を構えていたのだ。聞けば、まじない屋は今も商いを続け、今は胡散臭げな見世物小屋までやっているのだという。
 二年。
 如何なるカラクリで、明和三十三年の東城に辿り着いてしまったのかは分からない。けれど、いずれにせよたったの二年。あのまじない屋であれば博士の居所を正しく知ってもいるだろう。――あるいは、博士がまじない屋の居所に身を潜めているかもしれない。
 期待にも似た心を抱えながらまじない屋を訪れた静夫は、果たしてそこで、まじない屋の助手に化けて身を潜めていた煉獄博士との邂逅を得たのだった。

 それから歳月は過ぎ、明和三十五年。
 0世界から帰属を果たした二年前、途方に暮れながらも平沢特別探偵社に戻ったナウラは、探偵社の面々に半ば珍獣のように扱われもしたが、二年の歳月の間に溝は埋まり、今では何ということもなく業務をこなしている。
 その日々の中にあっても、ナウラは静夫を忘れない。その行方や動向に対する危惧――否、心配は、常に胸のどこかに抱えていた。
 探偵という業務に従事している立場を使い、その行方を探ってみたりもした。本音では少し焦りもあるのだろう。――ナウラの生命は、0世界という場を離れてしまえば限りなく薄弱としたものとなってしまう。それを解した上での帰属だった。東城では十年にも届かぬ内に生命活動は停止してしまうのだ。
 いつ止まるとも知れぬ己の生命。それが続く内に静夫を見つけ、再会を果たさねばならない。自分に出来ることをするために。
 けれどある日、静夫との再会は思わぬ場でもたらされるところとなる。――否、それはきっと、理解していた上でのものだったのだろう。

 煉獄博士が密かに独自の戦艦を造り上げたのだ。それを引っ提げて日本皇国の転覆をはかろうとしているのだという。その思想に賛同するものの数も少なくはない。むろん、かねてより要注意危険人物として名を知られていた博士であれば、皇国側が如何なる手をもって迎撃するか、想像に難くない話だ。
 ――戦火が生じる。
 静夫が煉獄博士と行動を共にしているという情報は、以前から伝え聞いていたものだった。
 煉獄博士が胸の内に抱える心情が如何なるものであるのか、ナウラには分からない。けれども国家の転覆をも目論むだけの何かがそこにはあるのだろう。けれど、ナウラが気にかけるべきは静夫の安否だけだ。ナウラは静夫を少なからず知っている。よもや、国家転覆に賛同するような思考に至るわけもない男だ。
「村山」
 静夫の名を口にする。
 世の流れは確かに不穏なものへと変わっていた。

 銃弾が飛び交う。時おり地を揺るがす振動を伴った爆音が響き、人々は蜘蛛の子を散らすような勢いで逃げ惑う。
「こっちです! こちらへ!」
 人々を安全な場所まで誘導しつつ、ナウラは騒動が生じている前線を目指して走っていた。人の波に逆らい進むのは難しい。幾度も波に流されながら、それでもナウラは懸命に向かう。
 皇国に対し反旗を翻さんとしている煉獄博士。その下に集ったゴロツキたちが、機を読むばかりでなかなか動こうとしない博士にシビれをきたしたのだ。博士や組織が下すより前に、自分たちの判断で先んじて荒事を起こしてしまった。
 どういう形であれ、ゴロツキの動きが引き金となって博士を動かさないとも限らない。ゆえに、博士が動くより先に事態を沈静化させなくてはならないのだ。
 ナウラは走る。目指す先に静夫がいる、奇妙な確信を抱きながら。

 煉獄博士と行動を共にするようにしてから、静夫は幾度となくあらゆる場面に立ち会ってきた。そのたびに、半ば難癖とも言えるような言を挟み込んでは、博士の作戦を延期させ続けていた。
 博士の開発が皇国を狙えば、そこに住まう人々――のみならず、下手をうてば人類が大きな被害を受けることにもなるだろう。その被害を最小限のものとして食い止めるべく、裏で手を回してはあらゆる工作を施してきたのだ。
 博士が静夫の工作に気がついていないわけはない。はなから信用されているとも思っていない。博士が抱える部下たちの中には、静夫の存在や行動に疑念を持つものも少なくはない。それでもそのすべてを欺き、彼らが打つ手の数手先まで読み通しては、ようやくここまでたどり着いたのだ。
 ――それが、よもや下っ端のゴロツキどもによってあえなく瓦解されるとは。
 唇を噛みながらアジトを抜け、銃撃戦が繰り広げられている路地の上に踏み出した。と、銃口が静夫にも向けられる。だが己に向かい飛んでくる弾道は腕を振るうことであらぬ場所へ方向を変えていった。
 ――ナウラが自分の居場所を探していたのも知っていた。だからこそ彼の前に現れることなく潜んでいたのだ。
 ならば、恐らく。
 静夫は弾道を落としながら走り続け、そうしてやがて裏路地の中でナウラの姿を見つけたのだった。

 博士の部下に取り囲まれているナウラ。路面には幾人か倒れ伏しているものもいる。ナウラが倒したのだろうが、当のナウラ本人も腕に傷を負っていた。
「村山!」
 ナウラの声が響く。その声で静夫に気がついた博士の部下たちが、静夫という加勢を喜んでいる。
「村山、おまえ、どこに行っていたんだ!」
 ナウラの声が続く。
 静夫はため息を落としかぶりを振った。
 ――やはり来たか
 厄介な場所に、厄介なときに。
 けれども心の奥底が小さな安堵の息をつく。
「戻ってこい、村山! 私はおまえを助けたいんだ!」
「……助けるだって?」
「ああ、そうだ。こっちへ来いよ、村山。いつかのように、一緒にやり直そう」
 言いながら手を差し伸べたナウラに、静夫は再び息をつく。
「おまえは何にも分かっちゃいねぇな」
 返した静夫の言葉に博士の部下たちが続き、取り囲むナウラに銃口を向けた。
 野卑たことをがなりながら引き金を弾いた男たち。ナウラの目が大きく開く。が、弾丸は瞬く間に弾道を変え、あちらこちらの壁を目掛けて飛んでいった。
「おまえが俺を助けるだって?」
 鼻を鳴らしながら笑う静夫がナウラのすぐ前にいた。身丈の差異も大きく、まとう気迫の差異も大きい。ナウラはしばし呆然としたまま静夫を見上げ、それからふわりと笑みを浮かべた。
「そうだ、私がおまえを」
 その刹那、数発の弾丸が空気を裂いた。

 事態の流れを理解出来ないでいるナウラの前で、静夫が崩れ落ちていく。その背や喉には幾つもの穴が穿たれ、噴き出す血脈は宙に霧を描いていた。
「村山」
 崩れ落ち倒れた静夫の傍に膝をつく。喉から溢れる血を止めようとして両手を当てるが、その流れを止めることは出来なかった。
「村山」
 名前を呼ぶ。ナウラの声に応えるように、静夫の腕がわずかに動いた。――ふたりを囲む男たちが次に放った弾丸は、男たちの身体と共に風刃によって刻まれた。
「村山?」
 ナウラが呼ぶ。静夫は動かした腕をそのまま力なく放りやり、喉の出血を止めようとしているナウラに笑みを見せた。――息がもれる。声はうまくかたちを成さない。
「……なぁ」
「なんだ。喋るな」
「おまえに頼みがあるんだが」
「喋るな。血が」
「無駄だ。……もう止まねぇよ。……なあ、」
 くそっ! ナウラは地面を殴りつけた。向けるあてのない感情の波が胸の中で渦をまく。
「なんだ!? 何でも聞いてやる。聞いてやるから、」
「おまえを……信じるからよ。……煉獄博士を、止めてやってくれよ」
「……何?」
 ナウラの眉が歪んだ。 
 今にも閉じてしまいそうになる瞼を懸命に開きながら、静夫は笑う。

 煉獄博士はかつて高名な医学博士だった。
 けれど正義をかざし行われた戦争は、正義を笠に着た殺戮や残虐な行為の積み重ねでしかなかった。
 人の命を助けたいと願い勉学を重ね、医学博士という権威にまでのぼりつめた彼。だが、彼が目にした現実は、彼の理想とするものとは遠く離れたものだったのだ。
 人間は滅ばなくてはならない。
 部下も、己自身をも抹殺し、地上からすべての人類を絶やすための計画、『人類完全抹殺』を企てたのは、そんな経緯を踏んだがゆえのものだった。
 けれど、博士は気がついたのだ。その計画が己が絶望したものと何一つ変わらないのだという事実に。
 けれど、その時にはもう後戻りの出来ない場所に立ってしまっていた。もはや収集のつかない場所にまで進んでしまっていたのだ。
 だから、

「おまえ、……正義の味方、なんだろ」
 言って、村山は笑みを浮かべる。
 遠のいていく意識、冷えていく身体。押し寄せる暗闇。――死というものの到来。
「分かった、聞いてやる。だから死ぬな! 死ぬなよ村山!」
 ナウラの声がむなしく響いた。
 応えなどない。静夫はもう事切れていた。遠くで銃撃の音がする。
「くそ! 村山ぁ!」
 もう一度、その名を呼んだ。
 ―-その時だ。

「……死んだか」

 ナウラの耳に、低く響く声が触れる。弾かれたように振り向いたナウラの目が捉えたのは、博士の部下やごろつき共ではなく、折烏帽子に直垂姿を合わせた出で立ちの男――業塵の姿だった。
 ナウラの目が大きく開く。
 まだロストナンバーであったころ、幾度か顔を合わせたことのある男だ。
「業、塵さん」
「左様」
 応え、業塵は死した静夫の傍らに膝を折る。痩せた手で静夫の喉に触れ、窪んで隈のついた眼を幾度か瞬かせた。
「不思議な縁よ。……よもや再びおまえたちと見える時が来ようとは」
 言って、ちろりとナウラを見る。
「……これも仏の導きゆえか」
 呟く。
 ナウラはただ唖然とした面持ちで業塵を見つめているばかりだ。業塵の口角がわずかに歪む。――笑みを浮かべたらしい。それから静夫の喉に触れていた手を、弾丸に撃ち抜かれた箇所を探るように巡らせた。
 そうして、わずかな間を置いた後。――静夫の身体がわずかに動き、次いで激しく咳き込んだのだ。
「む、村山!?」
 驚愕したナウラの声が静夫を呼んだ。静夫は応えるように小さく呻き、それからゆっくりと上体を起こす。
「……俺は」
 何故、と、問う。
「村山! 良かった!」
 ナウラは安堵に泣き崩れる。そのナウラを検めた後、静夫は視線を業塵に向けた。
「……死に臨む覚悟を定めていたか」
 業塵が問う。
「かもしれねぇな」
 静夫が返す。業塵の口がさらに色濃い笑みを浮かべた。
「して、その覚悟を台無しにされ、今は如何なる心情か」
 業塵が問う。静夫は舌打ちをしてから応えを述べた。
「……あん時の借り物の取立てか? 飴なら無ぇぞ旦那」
 言いながらニヤリと笑う。業塵も合わせてニヤリと笑んだ。
「また会うと申したじゃろう」
「……違ぇねえな」
 喉を鳴らしくつくつと笑うふたりに、 
「で、でも、なんで業塵さんがここに?」
 ナウラが訊ね、業塵はうっそりと眼をあげる。
「儂が在していた日ノ本は、数百の歳月を経た後に大日本皇国として名を改めた」
「……?」
 ナウラは首を傾げ、わずかな間の後に静夫がくつくつと笑った。
「なるほど、――そういう繋がりだったのか」
「左様」
 くつくつと喉を鳴らし笑うふたりの横で、ナウラばかりが首を傾げ続けていた。

 それからさらに月日は流れ、――ナウラと静夫が帰属を果たした後、十年。
 その日は朝からその年初めの雪が降り始めていた。
 底冷えのする空気、けれども灯されたストーブの中でくべられた薪が、小さく爆ぜる音を鳴らしながら、ふうわりとした温もりを放って部屋の隅々までを暖めている。
 敷かれた布団の上に横たわるナウラは、周りを囲む面々を順番に確かめてからやわらかな笑顔を浮かべた。
 見目の変化はまるでない。けれども約定されていた活動限界の時。その日が訪れて、ナウラの生命は静かに眠りの瞬間を迎えようとしているのだ。
 ナウラの周りには探偵社の面々と、この数年でついに和解するに至った父の姿がある。それに並び、やはり見目の変化などまるでない村山と業塵の姿もあった。
 ゆっくりと訪れる死は、夢路に惹かれうとうととまどろむ時の感覚によく似ているような気がする。恐怖など欠片もない。まどろむ意識の中、周りを囲む面々に向けて穏やかな笑みを見せるだけ。
「アルウィンが世話になったな。礼を言う」
 変わらず窪んだ眼をすがめ、業塵が言う。ナウラは夢を見ているかのようにふわりと笑った。――今にも業塵の背からアルウィンが飛び出して来そうな気がする。
「そうだな。……またアルウィンさんと遊びたいな」
 応えたナウラの髪をくしゃりと撫でて、業塵は小さな笑みを浮かべた。
 次いで、探偵社の面々に背を押されたか、静夫が半歩を進めてナウラの前に立つ。
「村山」
 ナウラの声が静夫を呼んだ。静夫はむうと小さく呻き、それから浅い息を吐く。
「……おまえはよくやった。俺が保証する。……それと、後の事は心配するな。ガラじゃねぇが、こっからは俺がおまえの代わりに、その、なんだ。正義の味方とやらになって、平沢たちに協力しよう」
「……そうか。よかった。……なぁ、村山」
「なんだ」
「お前に会えて良かった」
 ささやくように落とす声。ナウラの意識が遠くなっていく。
 静夫は指を伸ばしてナウラの頬に触れた。
「……大した奴だよ。俺を見張ってくれて有難うな」
 ナウラは笑う。頬に触れる静夫の指に手を伸べ、ゆっくりゆっくり目を閉じる。「幸せだった。ずっと、幸せだった。……有難う。……さようなら」
「ナウラ」
 静夫が呼ぶ。
 応えるように、ナウラの手が滑り落ちた。
「……ありがとうな」
 呟く静夫の後ろ、業塵が静かに手を合わせていた。
 その視線の先に、ナウラの魂を導く仏の姿があったが、それが見えているのは業塵ただひとりきり。

 雪を降らせる空を目がけ、空砲がひとつ放たれた。
 空砲を撃った銃を下ろしながら、ただただひたすらに空を仰ぎ見ている静夫の慟哭は、声になることもなく静かに降り続ける。
 長い間そうしてひとりナウラの死を悼み続けていた静夫に、積もり始めた雪を踏みつけながら近付いた業塵が声をかけたのは、辺りが薄い夜の闇に覆われ始めたころだった。
「良い雪じゃ」
 まるで無数の白い鳥が飛び交っているような。
「……だが、雪は身を冷やす。おまえが風邪でもひけば、小僧は向こうで怒りもするであろう」
 静夫の応えがないのを気にするでもなく、業塵はゆっくりと歩みを進めた。
「されど、雪を愛でながらの酒はまた格別よ」
 じわりじわりと近付いて、静夫の顔が見えぬ辺りで歩みを止める。降る雪が辺りを覆い、静夫の表情をも包み隠していた。
「……酒だ」
「左様。小僧の供養じゃ」
 間を置かずに応える業塵をちらりと一瞥した後、静夫は再び空を見る。
 ――ナウラとの記憶が鮮やかに浮かぶ。
 静夫を助けに来たと叫んだあの声は、静夫の耳に今も強く残っていた。
 ――そうだ、もう二度と、何にも絶望したりはしない。諦めもしない。そう思う心こそが、ナウラが刻み付けていった生命の証なのだろう。  
 忘れない限り、ナウラはいつまでもここにいる。忘れたりしない。いつまでもここにいればいい。
「おまえの奢りだ」
 言って振り向き、業塵に向かって歩き出す。業塵は喉を鳴らして低く笑った。

 ――後は任せろ、相棒。



§ 坂上 健 §

 雨が降っている。
 もう誰の来訪も無いだろうと判じ、店の軒先に提げた暖簾を下ろしに向かった雨師が目にしたのは、見知ったひとりの青年……正しくは、青年によく似た姿の男だった。
 男は店前に立ったまま、避けるでもなく雨に打たれている。
「健、さん?」
 雨師が問えば、男はゆっくりと頬をゆるめ、うなずいた。
「久しぶり。あんたは変わんねぇな」
 返された応えにわずかな驚きを見せた雨師は、次に返す言葉を模索しながら記憶を探る。
 坂上健はロストレイル13号の帰還より前に、正式な再帰属を果たすのに先行して、出自世界である壱番世界での生活をメインに据えていた。噂には聞いたことがあった。13号が出発した年、壱番世界が三月を迎えたころに、健はトラベルギアとノートをアリッサに預け、セクタンだけを連れて――すなわちパスだけを手に、壱番世界を住処として定めたのだ。その際、自警団に関連する諸々も一式不備なく揃えてアリッサに渡したのだと言う。
「そうなんだよ。そんで俺、その年の四月に警察学校に入ってさ」
 雨師が用意した手拭いで雨滴を拭きながら、雨師の案内のままに家の中に入り、通された和室に腰を落とす。身長は元より高い方だったはずだが、体躯は少しばかり逞しくなっているようにも見えた。
「そこから半年してから地域部に配属されたんだ。俺、警察になりたくてさ。だからすげえ頑張ったよ」
 何はともあれ、冷えた身体のままにしておくわけにもいかない。雨師は簡単な茶菓子と熱めのほうじ茶を用意してテーブルに並べた。
 ――そう、坂上健は壱番世界への帰属を果たしているのだ。そうして、ロストナンバーでなくなったものはもう二度と旅客になることはない。これは確固たる事実のはずだ。
 ならば、今、雨師の前で屈託ない笑みを浮かべながら茶菓子を口に運んでいる青年は――紛うことなく”坂上健”であろうはずの青年は、果たして何者なのか。
 しばしの惑いの後、雨師ははたりと気がついた。そうしてゆるゆると頬をゆるめると、健の傍で丁寧に膝を折りなおし、彼が語る話にうなずきながら耳を寄せることにした。

「そんなだから、俺、ロストナンバー止めちまったから、全然こっちのこと知らないんだよな……最近どうよ、彼女出来たか」
 湯のみをテーブルに置きながら、健はニヤリと頬をあげた。雨師は小さく苦笑いしながらかぶりを振る。
「最近っていう話だと、そういう方は……」
「マジで!? 雨師、あんたあれか!? KIRINだったりすんの!?」
「いや、そういうわけでは」
 苦笑する雨師の肩を叩きながら、健は「大丈夫だよ、気にすんなって!」と笑う。それから再び畳の上に腰を戻すと、得意気に腕を組んで声を高めた。
「俺はばっちり結婚したぜ?」
「ほう、それは初耳です」
「だろ? 再帰属してから五年後にな」
「それは良かった」
 微笑みうなずく雨師を見据え、健は気恥ずかしそうに笑いながらうつむく。それからすぐに持ち上げたその顔は、たった今までの健のそれよりも齢を重ねた、三十代と思しき見目のそれへと変容していた。
「再帰属してから五年でカミさんと結婚してな。……しょうじき、ポッポがいなくなって寂しかったけど、その分もカミさん大事にしたよ」
 そう言って笑う健の顔には、家庭をもった男に特有の逞しさが備わっている。雨師は目の前で変化していく健の風貌に驚くこともなく、ただ静かにうなずき、笑う。
「ああ、そうだ。親バカだって笑うかもしれねえけど、見る? これカミさんと息子と娘。カミさんに似たんだなー、もう出来が良くて可愛くて可愛くて」
 言いながら懐から取り出した数枚の写真には、ふたりの子どもが写されていた。そうしてその傍らには優しげに笑う綺麗な女の姿がある。渡された写真を一枚一枚大事に眺め、そこに写る幸福を絵に描いたような家族の姿に目を細ませた。
「幸せそうじゃないですか」
「おう、幸せだぜ」
 間を置かずに応える健の声に笑みをこぼす。
「奥さんもお子さんたちもお元気で?」
 何ということのない質問だった。けれど、雨師がそう訊ねつつ写真を健の手に返すと、健の笑い声がわずかに止み、流れが止まる。弾かれたように健の顔を検めた。――そこにいたのは髪は白く薄くなり、皺枯れた顔に穏やかな笑みをのせた老人だった。
 色素は薄くなり、落ち窪んだ双眸は、けれどもやわらかな春の陽射しを思わせるようなものだ。その眼差しが真っ直ぐに雨師の視線を捉えている。――知らず、背筋を張りなおし、膝を揃え直した姿勢で向き合った。
「カミさんな。カミさんは一昨年の春にポックリ逝っちまってな。子どもらも今じゃもういい年だ。孫も多くてな、ちっとも静かにしちゃくれねえんだよ」
 言いながらふわりと微笑む老人――健に、雨師もまた頬をゆるめて笑みを浮かべる。
「そうですか。お孫さんにも恵まれたんですね。それは羨ましい」
「カミさんとの約束も守ったしなあ」
「約束?」
「おう。儂はあいつの最期を看取ったよ。あいつも天寿を全うして、桜見ながら気持ちよさそうに眠りながら往生しおったわ」
「……そうですか」
 苦しみながら亡くなったんじゃなくて良かったですね。そう続けた雨師に笑いながら、健は小さく息を吸う。それからゆっくりと目を細め、長く続くため息をこぼしながら庭木に視線を向けた。
「儂は、いつだって誰かに頼りにされたかったんだ。……ここにいる時は誰からも頼られなくてなあ」
 言いながら苦笑いを浮かべる健の姿は、雨師の目の前で再び変容していく。もはや驚くこともなく、雨師はただ静かにかぶりを振る。
「そんなことはありません。健さんはいろいろな場所に行って手を差し伸べ続けてらしたじゃないですか。手を差し出されて笑いかけてもらっただけで、救われた方がどれほどいるか」
「カリス様にも振られたしさあ」
 深々とした息を吐き出す健は、再び二十代の青年の姿になっていた。両手を背に回し、胸を反るような姿勢で天井を仰ぎ、ため息をつく。
「あの方は、……そうそう簡単に口説き落とせるような方でもありませんでしょう」
 雨師も苦笑いを浮かべた。その顔を見つめ、健も再び大きく笑う。
「でもなあ、俺ほんと、助けたくて、助けられなくてさ。知り合いが何人もいなくなって、自分はほんとに無力なんだなって思ったよ。だからそのたびに、今度こそ助ける、今度こそ今度こそ、って。世界を善くしようって、いつも考えてたし、目指してたんだ」
 ひとしきり笑った後、健はふと真摯な表情を浮かべ、そう告げた。雨師はやはり深く首肯する。
「ええ。私は、健さんはとても立派に努めていらしたと思っています。見ても素知らぬ態度のまま、我関せずという態度を崩すことのない方々も多くいます。――私自身もそうなので、それに関してはお恥ずかしい。けれど、その中にあって、あなたはご自分の理想を少しも曲げずに走り続けていらした。……私は、健さんはとても立派な方だと、今も確信しています」
 雨師の言葉に、健はわずかに目を見開いた後、頬を少しばかり紅く染めて頭を掻いた。
「うん。……ありがとうな。俺は俺の選択を選択を後悔しない。俺は、世界を善くするための努力をした」
「ええ。そう思います」
 深くうなずいた雨師の目を真っ直ぐに見つめる。それからふと視線を持ち上げ、雨の降り続く薄闇の庭に向けて満面の笑みを浮かべた。その笑みのやわらかさに目を奪われて、雨師も肩ごしに庭を見る。
「悪い、俺、あんたに奢るって約束してたような気がするんだけどさ。カミさんが呼びに来たらしいんだ」
 忘れててごめんな。そう言って、いつもと同じ屈託ない笑みを満面にのせた。
「そんな約束もしていましたっけ。……でもこうしてわざわざ会いに来てくださったじゃないですか。――最期にこうしてお話してくださって、本当に」
 ありがとうございます。
 言いながら丁寧に手をつき、頭を下げる。
 肩を軽く叩きながら朗々と笑う健の声がする。
「じゃあな」
 
 わずかな間の後、雨師は顔を上げた。部屋のどこにも健の姿はない。振り向き、庭を見やる。その中にも健はいない。
 立ち上がり、庭に下りる。細かな雨が降っている。雨師の頬を撫でて流れる雨の雫を感じながらゆっくり静かに瞼を伏せた。
 
 降り続いていた雨がひっそりと止んでいったのは、それからわずかな後のこと。

クリエイターコメントこのたびは櫻井の最後のシナリオへのご参加、まことにありがとうございました。
お届けまで大変にお待たせいたしましたこと、初めにお詫びいたします。お待たせしましたぶんも、少しでも皆様方のお気に召しましたら幸いです。

本当は個別にコメントを、とも思ったのですが、思うところとか愛とかもろもろはすべて作中でぶつけさせていただいたつもりですので、あえての省略でもいいかなと思いました。

最後の一幕を書かせていただき、ありがとうございました。まだまだいろいろな場面を聞かせていただきたく思いますが、ひとまずはこれにて失礼します。
またいずれどこかでお会いしましたら、そのときにはまたぜひお声がけくださいませ。

本当にお世話になりました。ありがとうございます。どうぞお元気でいらしてください。
それでは、またのご縁、心よりお待ちしております。
公開日時2014-03-28(金) 23:30

 

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