「おまえたちにはブルーインブルーに行ってもらうぞ」 世界司書のひとり、シド・ビスタークが、集まったものたちを前に行き先を告げた。「ブルーインブルーがどんな世界かはもう知っているな? そう、世界のほとんどが海なんだ。人間は海の上の町に住んでいる。……ロストレイルはジャンクヘヴンという海上都市にある<駅>に着く。おまえたちに頼みたいのは、ジャンクヘヴンからよその町へ行く交易船……、その護衛だ」 海しかない世界と言ってもよいブルーインブルーで、海上都市同士を結ぶ交易は生命線である。 だがいつでも、航海には危険がつきまとう。 この世界の海には、海魔と称される凶悪な生物が棲むからだ。 シドの『導きの書』は、ジャンクヘヴンを出航した船が、途上なかばにて、海魔に遭遇することを予言した。 それは鮫か鯨の仲間のような、大きな図体の魚のように見えるらしい。実際に魚類かどうかはわからない。人ひとり丸呑にできそうな口の中に、びっしりと牙をはやしているが、それよりもまず目を引くのが、額からまっすぐ伸びた角である。ユニコーンのようなこの角は相当な強度があり、船底を突き破られるおそれもある。「襲われることはわかったんだが、あいにく、それがいつなのかまでは特定できなかった。すまんが『導きの書』も万能ではないんでね。おまえたちが船に乗り込む手筈は整っている。世界図書館がジャンクヘヴンの上層部とつながっているのは知っているか。その関係で、おまえたちは『遠い国から来た流れの傭兵』ということで通用するはずだ」 そう言って、シドは人数分のチケットを差し出した――。 ◆ ◆ ◆「あなたたちがギルドから紹介された人? よろしくお願いします。僕は副船長のニコルです。これが僕らの船――『海のライオン号』。見ての通りオンボロだけど、とりあえずこの航海の間くらいは保つから安心して」 港に赴いた旅人を出迎えたのは、まだ十代とおぼしき若者だった。 ブルーインブルーの強い日射しに日灼けした顔はまだ幼さを残し、笑えば皓い歯がこぼれる。 紹介された船は、なるほど、かなりの老兵のようだった。修理に修理を重ね、使いこまれているのが素人目にもわかる。今は帆をやすませ、出航のときを静かに待っている。その甲板に、ぬう、と大きな影が立った。「ニコル! なにをもたもたしてやがる。まだ積み込みが終わってねえんだぞ!」「すぐやるよ、父さん!」 胴間声に手をあげて応え、そして向き直って肩をすくめた。「あれが船長。父のダリオです。ああして怒ってばかりで……。昔はそうでもなかったんですけど」 すまなさそうに、ニコルは言った。「実は先日、船の乗組員が半分以上ヤメちゃったんです。情けない話ですが、お給料を払うことができなくて……。あ、みなさんの報酬はギルドから出ますよ。それはいいんですが、それでその……人手が足りないんで、船の仕事を手伝ってもらいたいんですよ……」 積荷は酒と、塩漬けの保存食だそうだ。 重そうな樽や木箱を、居残った乗組員らしい屈強な男たちが運んでいる。これを手伝うとなると重労働は必至だ。「船を動かすのは僕らがやりますが、道中もそれ以外のことは……力を貸してもらわないといけないと思います」 積み込みをしている中にはまだ年端もいかない少年少女や、赤ん坊を背負った中年の婦人の姿さえある。まさかと思って尋ねれば、ニコルの母と、その弟・妹たちだという。つまりこの船はニコルの一家が船主であるわけだ。「母さんのつくる食事だけは、保証しますよ。あとは快適な旅とはいかないけれど、よろしくお願いします」 ニコルの足元で――これも彼の家族で乗組員である猫が、にゃあ、と鳴いた。
1 「フッ……、海が俺を呼んでるぜ……」 係留杭に乗せた爪先はぴかぴかに磨きあげられていた。 スタッガー・リーはボルサリーノの位置を正して、ブルーインブルーの海が照り返す日差しの強さから目を守った。 「クソったれが、呼んでるのは俺だ!」 胴間声に背後から叱責され、 「はひっ!?」 ダークスーツの背中に定規をつっこまれたように直立する。 「さっさと詰まねぇと出航までに日が暮れちまうだろうがこのマヌケ!」 「す、すいません、今すぐ――」 リーがかしこまるも、船長は肩を怒らせてのっしのっしと歩き去っていく。 「よく怒鳴るな。血圧が上がるだろうに」 傍らで息をつくリュエール。 「また雷を落とされないうちに仕事を終わらせたほうがよさそうだ」 そう言ってリーを促す。 潮風が、リュエールの艶やかな黒髪を吹き流すのをおさえつつ、彼女は船長のあとを追った。 待ってくれ、と、リーが続く。はて、そういえば司書のところで話を聞いたときは女が1人に男が4人だったと思うが、来てみれば女が1人増えている。しかし、美人だし、まあいいか、などとぼんやりと考えながら。 あとの面々はすでに手伝いを始めていた。 「ここにあるのは全部運んじゃっていいの?」 「ああ、頼んだよ」 「重そうだな、手伝おう」 日和坂綾に真柴俊吾が声をかける。 「そういうわれも力仕事には向いてなさそうやけどな」 麻袋を肩に担いで、傍を過ぎながら晦が言った。 「確かに。でもこれも経験、かな。ここは初めてだけど興味深い。世界のほとんどが海だなんて――」 眼鏡の奥で、俊吾の目が微笑う。 「でもホントの仕事は荷物運びだけじゃないでしょ」 俊悟と木箱を運びながら、綾がそっと声を落として言った。 「そう。船内の様子が知れたら作戦を立てよう。この船……」 「思いのほか老体だしな」 リュエールが加わってきた。 「ずいぶんと年季が入っている。体当たりでもされたら危ないな」 世界司書は、ブルーインブルーの海に棲む脅威――海魔の出現を予言している。 一抹の不安をはらみながら、航海は始まろうとしていた。 見渡す限りは海、海、海。 ジャンクヘヴンを出航してほどなく、一同はどこまでも続く無限の水平線のただ中の客となった。 港では、古さはともかくそこそこ大きな船だと思ったが、外洋に出てしまうと海の広さに対してあまりに心許なく感じられる。それほどまでに、海の広がりは圧倒的なのだ。 「はー、まんずデッカい水溜りだなやーこりわ! アイダホにゃ海なかったもんなあー」 感嘆に思わずリーの訛りが出てしまうくらいだ。 「飲料水はどうしてるのだろう」 俊悟は興味深そうに、船のあちこちに目を遣っている。 「雨水を貯めただけで足りるものかな。濾過の技術が発達しているのか……?」 大きく張られた帆――つぎはぎだらけだった――が順風を受けていた。波も穏やかで、『海のライオン号』は白波を切り裂いて海面を滑るように走った。まずは順調な出だしと言ってもいいだろうか。 海鳥が舞う空は高く、白い雲が流れる。 気候はからりとしてほどよく暖かく、気持ちが良かった。 「先に言っとくけど! 料理は手伝えないよ! 食材が無駄になっちゃうからね」 綾が自信満々に(?)宣言している。 おかみさん――ニコルたちの母であるところの船長夫人は大柄な身体をゆすって笑った。 「正直なのはいいけど、お嫁の貰い手がいなくなるよ。ま、いいさ。そしたら甲板の掃除でもしてきとくれ」 「それなら平気、任せて!」 「アンタにゃちょっとこの子を頼んでもいいかい」 「……なに!?」 背負っていた赤ん坊を、晦に預ける。 「子守ィ? なんでわしがそんなこと――」 言いかけて、腕の中で赤ん坊がむずがると、半ば反射的に、腕をゆらして機嫌をとってしまう。 「うう、わしも掃除のほうが気ィが楽やけどなァ……頼むから泣いてくれるなよ」 赤ん坊はきょとんとした顔で晦を見上げて、あーあーとなにごとか言いながら、その服をひっぱるのだった。 にゃぁう、と声に目をやれば、足元で猫が晦を見上げている。 「……なんじゃい」 猫は、がんばれよ、と新入りに声をかける先輩よろしく、一鳴きしただけで、尻尾を立ててどこかへ歩いてゆくのだった。 おかみさんが厨房へ降りるのを見て、俊悟はあとを追った。 「料理を見学させてもらっても? ああ、もちろん、やることがあれば手伝いますよ」 「なんだい、そんなに珍しいもんじゃないよ」 船室への階段が軋む音に、豪快な笑い声が重なる。 「私も掃除を手伝おう」 と、リュエール。 綾は持参の水着(スクール水着だった!)に着替え、デッキブラシを手に甲板を駆けていた。腰に巻いたパレオが海風をはらむ。 「俺もやるぜ。NYじゃ掃除人(スイーパー)と呼ばれた俺だからな――って、うお!?」 リーも参戦するが、濡れた甲板でスッ転んでバケツをひっくりかえすお約束ぶり。どうやらドジと不運の神が、この男のうえにはつきまとっているらしいことに同行者は気づき始めていた。 「うへえ、俺の一張羅が」 せっかくのスーツがずぶ濡れだ。 「そんな格好でくるからだよ」 綾が笑った。 「あそこで風でも浴びてきたらどうだ? 暑いからすぐ乾くだろう」 リュエールが指したのはマストの上。 船員のひとりが風を読んでいるのが見える。 「いつ海魔があらわれるかもわからないしな」 「見張りだな。よし、俺の鷹の目に任せてくれ!」 そう言って、意外と軽快にマストを登っていったリーだったが……、下を見下ろしたとたん、降りられなくなって大騒ぎするのはその数分後のことだ――。 おかみさんが、大きな肉切り包丁で手際よく肉を切っていく。 肉は塩漬けの豚肉のようだった。 この塩漬け肉と、ジャガイモ、マメ類を合わせて煮込むというシンプルな料理が本日のメインデッシュのようである。それに固そうなパンが付く。 「この果物も?」 俊吾は樽いっぱいにオレンジが積まれているのに気づいた。 「ああ。値段もバカにならないんだけどねえ。果物がないと病気になっちまうからね」 おかみの言葉に、壊血病の危険は知られているのか、と内心で頷く。 てんてんてん……と奇妙な音に振り向けば、晦が、赤ん坊を背負い、手にしたでんでん太鼓で子どもをあやしているのだった。 「板についてるじゃないですか」 「ろくでもないわい」 うそぶくが、まんざらでもない様子の晦だ。 「こいつの飯の支度は?」 足元をうろうろする猫を指して、晦は訊いた。 「適当に残飯でもやっとくれ」 「だとよ」 「ニャア」 「……あのー、なにかこっちで……」 しばらく経つと、リーがやってきた。 どうもあちこちでへまばかりしてタライ回しにされてきたようだ。 「そうねぇ。じゃあそっちの兄さんを手伝っておくれ」 「包丁使えますか?」 「おっ、イモの皮むき? これならおらぁ大得意だ!」 俊吾から奪い取るようにして受け取った包丁を操る手さばきは素早く、ジャガイモの皮を剥くリーはまさに水を得た魚であった。 今度こそ本当に得意なものに出会えたらしい。 2 水平線に燃えるような夕日が沈む頃、鍋を叩き鳴らす音が夕飯だと告げる。 操船と見張りの当番を残して、あとのものは船室へ。 「ご飯ウマ!」 綾が感激の声をあげた。 「私ここんちの子になっちゃいたいかもぉ」 「まだたくさんあるから好きなだけお食べね」 「はーいっ」 「よ、よかったら、俺のオレンジやるよ」 「お、俺も!」 「えー、いいの~?」 綾は船乗りの男たちにかなりモテている。若い女の子が船に乗ることがあまりないのだろう。彼女の周囲に人だかりができていた。 「あ、父さん。もういいの?」 船長だけは、構わず、食事を終えるとさっさと立ってどこかへ行ってしまった。 「怒鳴り散らすか、むっつり黙り込んでるか、どっちかなんだから。ホントにねぇ」 おかみさんがぼやいた。 「すいませんね」 ニコルが肩をすくめるのへ、リュエールはかぶりを振った。 「船長となると気苦労もあるのだろう。……あまり頭に血を登らせてばかりなのは感心しないが。身体に悪い」 「ですよね。人が辞めちゃうのも、そのせいもあるし……、どうにかしてほしいんですけど」 「私はこの船、いい船だと思うよ? おうちっぽいもん」 綾が言った。 「……」 ニコルが、あいまいな笑みを浮かべる。 「あっ、こらこらコートをひっぱるな!?」 「おい、それはわしの飯じゃろうが!」 ニコルの弟妹たちが、リーにまとわりついている。 その傍らでは、赤ん坊を背負ったままの晦が、猫とご飯のとりあいをしていた。 「……もとは家族で船に乗ってたわけじゃないんです。人手が足りなくて仕方なく。前は、父さんと船員だけでやれてたんですけど。父さんとしては家族は海に出したくないみたいで、でもどうしようもないことに苛立ってるみたいなことはありますね」 「景気が悪くて?」 リュエールが問うた。 「それもあるけど……、海賊に襲われたことがあって。そのとき、父さんは、積荷は全部渡すから船員の命だけは助けてくれって土下座をしたそうなんです」 「いい人!」 綾の言葉に、ニコルは笑った。 「そう言ってくれますか? 今いる船員はそう思ってくれるけど、船乗りは勇敢が第一だと言われているから。こわもてだけど情けない船長だと思われたら、働き手が居着きません。脅しやすい船長の船はまた狙われる可能性だってあるわけだし」 「そんなのって……」 綾は納得しかねるようだった。 「……。そうか」 リュエールはただ静かに頷く。思うことはあれど、それはかれら家族の問題でしかない。 ――と、視線を転じると、俊吾が船員たちとカップ片手に話し込んでいる。 「それは何かな」 「あ、カードのやり方を教えてもらっていたんです」 「ほう、賭けか」 「それから……ワイン、飲みますか?」 「いいのか? 私は強いぞ」 リュエールは笑った。 日が落ちると、空は満天の星がきらめく。 波音と、ときおり夜風にまじる、船室から漏れる笑い騒ぐ声――。 旅人たちは夜間の襲撃に備え、交替で見張りに立ったが、その夜の航海は何事もなく、船は着々と航路を進めていた。 やがて朝日が水平線を染め、爽やかな海風が帆を膨らませる。 のどかと言ってもいい光景は緊張を忘れさせ、このまま世界司書の予言は間違いで終わるのではないかとさえ思われるほどだった。 「はあっ!? 船酔い~?」 「うううう、なんせ、オラ、船ははじめて……おええええええええ」 「昨日はなんともなかったじゃない!」 「なんかこう、一日経ったら気ィ張ってたのが解けたつうか、うぇえええええええ」 「……」 甲板の手摺にしがみつき、あいだから海上に頭を突き出したままのリーに、綾がだめだこりゃ、とため息をついた。 「戦力マイナス1みたいな感じだけど」 「仕方ないですよ。大丈夫ですか?」 俊吾は優しかった。 「おまえは平気か。昨日は――すこしやりすぎたかな」 リュエールが俊吾に声を掛ける。ちらりと横目で見れば、二日酔いの船員たちがへろへろしているのを船長にどやされているのが目に入った。 「僕は、セーブしてましたから。リュエールさんが本当に強いので驚きました」 強いと言うか、酔わないのである。リュエールは唇の端を吊り上げる。 「じゃあ、リーさんは、晦さんと荷物番を交替してあげてください。それなら楽だと思うから」 「す、すまねえ。……う、うぇっぷ」 「洗面器持ってったほうがいいよ! もう~、世話かかるなあ」 「わしはどうする」 晦が言った。 いつのまにか――、赤ん坊の居場所は彼の背中が定位置になっている。加えて今日はニコルの弟妹たちも晦の服の裾を掴んでいた。もちろん猫もいる。 その様子に、俊吾は微笑ましい表情を浮かべた。 「晦さんの役目はその子たちと居ることじゃないですか」 「……わしはこれでも――」 傭兵のつもりで船に乗ったのに子守扱いはいささか心外――のはずが、 「ねえ、なにして遊ぶ~?」 と子どもにせっつかれると、眉尻を下げてしまう晦だ。 「しょうがないのぅ……」 そんなふうに始まった新たな一日は、昨日と同じように平穏に過ぎていくかに思われた。 途中、甲板掃除にも飽きた綾が、 「ヒ~マ~! 身体がなまるぅ! 晦さん、手合わせしない?」 と言い出すくらいだった。 あいにく晦は赤ん坊のおしめを変えるのに忙しく、綾は猫と追いかけっこをはじめた。 リュエールはマストに上り、水平線を眺めながら、海風の心地よさに目を細めている。 俊吾は船員に天気について尋ねている。航海で心配なのは天候の急変だ。船乗りは空を読むのに長けているだろう。予想通り、天気の読み方のコツはいろいろあるらしいが、当面、崩れる気配はないらしい。 リーは倉庫で、死んだようにぐったりしていた。 そして――。 「……」 リュエールの表情が、真剣味をおびた。 視線を巡らす。 マストから見下ろす波間に――その影をみとめる。 「しっ」 同じ瞬間、晦は子どもらを制して、耳をそばだてる。 「……。母ちゃんのところへ行ってくれるか?」 「え~?」 「この子も連れてな」 赤ん坊を託すと、晦はすっくと立ち上がった。 猫も、甲板に立ち止まり、ぴんと尻尾を立てて海のほうを見た。 「……?」 その様子に、綾もつられて海のほうを見た、その時だった。 大きな水柱が立ち上がった。 3 どん、と、大きな音がしたのは、その尾鰭が海面を叩いたようだ。 「で、でか!」 どんな海魔か、司書に聞いていたはずだが、実際、目の当たりにするとその大きさは相当な迫力がある。 黒い落雷のようにマストからリュエールが降ってきて、甲板に降り立つ。 「皆を早く!」 黒い棒のようなトラベルギアを手に、リュエールが声を張った。 「船室に!」 俊吾が船乗りたちを誘導し、退避させていく。 子どもたちは晦に促されて真っ先に逃げ出していた。 「この子もお願い!」 綾が猫をひっつかんで、子どもたちのもとへ放り投げた。 にゃあう!と乱暴な扱いに抗議の声があがったようだが、そのときすでに綾は走り出している。 「いきなり体当たりじゃなくてよかったね!」 「ああ――、結界を張っておったからのう」 晦がにやりと笑った。 「え、そうなの!? 子どもと遊んでるだけじゃなかったんだ!」 「言うてくれるわ」 晦がすらりと、太刀を引き抜いた。 「せやけど、本気でかかってきたら――」 「わかってる。あれを仕留めるのは私たちの仕事だもんね!」 だん、と甲板を蹴り、手摺のうえに飛び上がる、綾。その安全靴が彼女のトラベルギアだ。 「叩き折ってあげるわ、その角を!」 ざん、と白波の中から突き上げてくる槍の穂先のような一角。 巨大魚はまっしぐらに船に向かってくる。 「エンエン!」 綾のセクタンが、火炎弾を発射する。 しかし海魔は怯む様子はない。 綾の傍ら、柵を乗り越えて、晦が飛び出した。あっ、と思う間もなく海に落下するが、その海面を走っていく。妖狐の神通力だ。 「うっそ、ずるーい!」 綾は思わず叫んでしまった。 海魔の半身が波間より立ち上がり、そのあぎとが晦を一呑みにせんと開かれる。その内側には鋭い歯列が幾重にも並んでいた。 激しく散る波しぶき。 がちん、と音を立てて閉じられた歯のあいだに晦はいなかった。 横跳びにそれを避け、切り替えして走り抜ける。 そしてむろん、そのとき彼の太刀は敵の鱗を斬り裂いていた。 「ここからじゃ遠いわ、リュエールさん、なんとかならない!?」 綾はセクタンに火炎弾を撃たせているが、それだけでは決定的なダメージにならない。リューエルを振り返ると、彼女は頷いた。 「いいだろう。……いくがいい、私の祝福とともに」 空中に光る文字のようなものが浮かび上がり、リュエールの加護が綾を包む。 海では、晦が波間を跳びながら怪魚と立ち回りを演じている。 そこへ向かって、綾が手摺を乗り越え、飛び込んだ。 「お、おい、あの姉ちゃん……!」 船長だった。 船室から飛び出してきた船長が綾が飛び込んだのを見て驚いたのだ。 「大丈夫。下がっていてください」 俊吾が彼を再び下がらせようとするが、 「船を――俺が守らないと」 彼はそう言うのだった。 一方、飛び出した綾の身体は、強い風に運ばれるように、重力に反して海魔を目指す。 「でやーーーーっ!」 真っ向から、角の中程あたりへその蹴りが炸裂する! 「っ!」 「……硬いな」 リュエールが強い目で敵を見据える。 一撃では折れなかったようだ。 「お、おい、平気か!?」 突然、弾丸のように降ってきた綾へ、晦が叫ぶ。 「この! このぉ!」 綾は角にしがみついて、がつん、がつんと蹴り続けていた。 甲板で、リュエールがトラベルギアを振るう。それが開店すると、宙空に輝く文字の軌跡が踊った。 しなり、唸る鞭のように、輝く文字の羅列が波間へと飛ぶ。海魔の角の、綾が蹴り続ける箇所へ光は集中していった。 「硬度を削いだ。今なら――」 「これで、どう!?」 綾の渾身の、蹴り……! 激しい音を立てて――海魔の一本角が、ぽっきりとまっぷたつに折れた! 「やっ……た……!?」 「おい!」 だが必然、その角にしがみついていた綾は支えを失うことになり、海面へ。 晦が身を翻し、彼女を追って波間に飛び込んだ。 「お、おい、こっちへくるぞ!」 船長が狼狽えた声を出す。 角を折られた怒りか痛みか、ひときわ獰猛そうな咆哮のようなものをあげ、怪魚が船に向かってつっこんでくる。船体を刺し貫く角は失われたとはいえ、あの巨体にぶつかられた老朽化した船体は無事では済むまい。 「船を動かしてください!」 俊吾が叫んだ。 「あいつは急な方向転換ができない」 いつのまにそんな観察をしていたのか――、感心する間もなく、船長が胴間声を張り上げる。 「面舵いっぱい、急げーーーーーー!!」 「「「「はい船長!」」」」 逃げ隠れていたはずの船員がわっと飛び出してきた。 巻き上げられる綱と、ぴんと張った帆――、海のライオン号が急速に動き始める。 間に合うか。 俊吾のトラベルギアから赤い光線がほとばしった。 その光が怪魚の目を射て怯ませなければ、ぎりぎり間に合わなかったかもしれない。だが――。 「!」 すんでのところで、船は体当たりを避けた。 しかし、わすかにかすったその衝撃で、激しく横揺れする。 「船長!」 傾いた甲板が波をかぶる。 足をとられた船長が、その傾斜を転げ落ちていった。 「うおおおお!?」 「危ない!」 転がってくる巨体を受け止めたのは、スタッガー・リーだった。 「お、おまえ、平気なのか」 「平気じゃないけど……俺だけ肝心な時に寝てるわけには……わ、わあああ」 その背中で、木の柵がついに折れた。 リーの身体が波間へと放り出されようとした瞬間、船長の手がそれを掴む。だが船長自身、甲板のへりにしがみついている不安定な状態なのだ。 「父さん!」 「船長!」 「父ちゃー―ーん」 「あんたッ!」 いくつもの声が重なった。 船員や子どもたちが船長を助けようと飛び出してきたのだ。 「危ない、船長は僕たちが助けますから、下がって!」 俊吾も飛び出す。 しかし子どもたちは聞き分ける様子はなかった。 「お、おめぇたち……! 船長……!」 なんとかしなくては。 リーは思った。 思ったが、宙吊りの状態で何ができる? ざばん、と波を割って、海魔があらわれた。 「ひいいっ!?」 さながら今の状態のリーは釣竿の先の餌のようではないか。 がちん!と海魔の歯がぎりぎりの場所で閉じられた。とっさにありったけの腹筋の力を振り絞ったので、下半身を食いちぎられるのは免れたが、ズボンのおしりの布をかじりとられてしまう。 「またくるぞ」 リュエールの――この期に及んではその冷静さが憎らしくさえ思える声。 「もう一度だけこらえられるか」 リーはがくがくと頷くしかない。 海の底で、巨体がうねる。次に海面に飛び出してきた瞬間を、リュエールが狙うつもりのようだ。 「リーさん、トラベルギアは!」 俊吾が叫んだ。 「あ、ああ、そうだった。くそ……役に立ってくれぇ」 ふるえる手で抜くコルトパイソン。 そして、再び、怪魚のあぎとが彼に向かって迫ってきた、その時! 「うおおおおお!」 リーは祈りをこめて銃爪を引いた。 「え――」 だが飛び出したのは。 「万国旗!?」 俊吾が信じられない、といった声を出した。まるで手品だ。 「ひー! また弾が変な物にー!? ぎゃあああああああ」 リーは覚悟した。 最後の最後まで、間の悪い人生だったなァ…… 「いや、それでいい」 「え」 海魔が身をよじる。 飛び出した連なる万国旗が、折れた角の根元にからまり、そして海魔の眼に張り付いてふさいだ。 「あの鱗に銃の弾丸は利かない。このほうが都合がいいというわけだ――」 リュエールのトラベルギアが輝く神聖文字の雨をふらせた。 それが海魔のうえで、爆ぜる、爆ぜる、爆ぜる! ざん、と大きな音をたてて、高くあがる水柱。リーが塩水を全身に浴びた。 「やっ……た」 俊吾は、海魔が腹を見せて浮かび上がってきたのを見た。すでに絶命している。 そしてその向こうで、折れた角を流木のようにしてしがみついている綾と晦が手を振っているのも。 * 長いような短いような航海は、終わった。 海のライオン号は無事、目的の町に着く。 「世話になったな……」 ぼそり、と最後に船長が言った。 「助かりました。それにあの角」 ニコルの視線の先で、船員たちが海魔の角を下ろしている。 「高く売れそうなんです」 「それはよかった。船の修理代にでもなれば」 俊吾の笑顔に、ニコルは頷く。 「なんか名残惜しいなァ」 綾が言った。 「またいつでもおいで」 おかみさんが応える。 「元気でな」 晦が、彼女の腕の中の赤ん坊の頬をぷにぷにと押した。だーだーとちいさな手が晦を掴もうと動く。 「お兄ちゃん、バイバーイ」 幼い子たちが、リーに挨拶する。 「ふっ、別に気をつかって俺のカッコイイ話を広めなくてもいいんだぞ。ブルーインブルーでも伝説になったら困るからな」 などと言ってはいるが、スーツの尻がつぎはぎになっているのでしまらない。 「さ、行くか」 リュエールがみなを促す。 旅人たちと船乗りは、港で別れた。 はるか別の世界への帰路につくかれらを、猫の瞳がじっと見送っていた。 (了)
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