ターミナルの『夜』—— 夜は、あったほうがいい。ターミナル全体が、安らいだ眠りにつける気がする。 ずっと、そう思っていたのだけれど。 今日は、なかなか眠れない。 なぜだろう。 記憶の海に沈んだはずの、『あのこと』を思い出すからか。 セピア色の風景の中の、『あのひと』を思い出すからか。 何度目かの寝返りを打ったあと、あきらめて外の空気を吸うことにした。 この店の前を通りがかる気になったのは、今が営業時間外だと知っていたからだ。 今なら、おせっかいなギャルソンに、強引に店内に引っ張り込まれることも、待ってましたとばかりに、親しげに話しかけてくる黒衣の司書に困惑することもない。 くつろぐための場所なのだとは、わかっている。 だが、あまりにもにぎやかで、くったくのない笑顔があふれる場には、長居しづらいときもある。 かまわないでほしい。 放っておいてほしい。 そんなときもある。 日中、さんざめく笑い声が絶えなかったカフェは、蒼い夜に包まれた今、まったく違う様相を見せている。 ガラスと鉄骨でできた建物は、緑を閉じ込めた氷の城のような、冷ややかさ。 窓越しに見えるのは、たったひとつ灯されたテーブルランプと、グラスを手に、ひとり何ごとかを考えている店長のすがた。 ほのかな灯りが照らし出すのは、営業時の緊張を解いて普段着になった、素の横顔だ。 声をかけるでもなく、扉の前に立つ。 店長がふと、顔を上げた。
【副題】Fenice ―不死鳥― つくられた夜を彩る、架空の星空。魔女の笑みのような下弦の月は、壱番世界で見るよりも鮮やかな弧を描いている。 しん、と、冷えた空気を暖めるように、少女の歌声が響く。 Catarì,Catarì, pecche' me dice sti parole amare? pecche' me parle,e 'o core me turmiente, Catarì? カタリ、ねえカタリ。 なぜきみは、そんな残酷なことを言うの? なぜぼくの心を、苦しめる言い方をするの。 カタリー? Core 'grato――つれない心、あるいは、うす情け。 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノが口ずさんでいたのは、有名なイタリアの歌曲である。「カタリ」とは「カテリーナ」の愛称で、愛するカテリーナに捨てられた青年の悲哀と苦悩を切々と訴える内容であった。 曲の選択に、意図があったわけではない。 ――なつかしい故郷の夢を見た。両親がまだ、存命だったころの。 ものさびしく、寝付けないままに散策していたら、いつの間にかここにいた。以前、この店で、ギャルソンと故郷の話をしたことを思い出したからかもしれない。 迷宮のような街並みと、月明かりに浮かぶこの建物が、入り組んだ街路を抜けて至るヴェネツィアのオペラハウスを彷彿とさせ、知らず知らず、歌っていたのだった。 「これは……、ジュリエッタさま?」 扉が開き、ラファエルが顔を覗かせる。 「店長殿も起きてらしたのかえ? すまぬ、誰もいないと思って。耳に障ったら申し訳ない」 「とんでもない。きれいな歌声でしたので、どなただろうかと……」 「つい先刻、両親とともにオペラを観たときの夢を見てのう。わたくしはまだ幼くて、舞台のことはわからないままに、それでも、華やかで、しあわせで……」 ジュリエッタは、少し照れくさそうに目を伏せる。 「そのときのオペラ館の周りの風景が、このカフェの光景と似ておった……それだけのことじゃ」 「散策のお邪魔でなければ、お飲物でもいかがですか? うら若いお嬢さんを、真夜中にお引き止めするのは失礼かもしれませんが」 「店長殿は紳士であられるゆえ、信頼しておる。……では、心が落ち着くハーブティーなど、所望してもよろしいか?」 席についたジュリエッタの前に、ブレンドハーブティー入りのティーポットと暖められたティーカップ、そして、クリスタルの砂時計が置かれた。ラベンダー色の砂が落ち切ったら、飲みごろであるらしい。 「穏やかな気持ちになり、また、眠りにつきやすくなる配合にしたつもりですが、お気に召しますかどうか」 頃合いをみて注がれたティーカップを渡され、ひとくち、飲んでみる。 スペアミントの甘くすがすがしい香りが、口いっぱいに広がった。次いでカモミールとパッションフラワーが、春の野にいるような安らぎを伝える。甘酸っぱさを加味しているのは、オレンジピールとりんごのドライチップだろうか。 「……フルーティで優しい味わいじゃな」 「それはよかった。……ところで、先ほどの歌は、哀切な歌詞のようでしたが」 安堵の息をついた店長は、気がかりなことでも問うように声を落とす。 「ジュリエッタさまは、恋の悩みでもおありなのですか?」 「いやいや。たまたま口をついて出てきただけのこと。内容はたしかに、愛する女性に別れを告げられた殿御が、そのつらさ苦しさを臆面もなくぶつけているのじゃが。イタリア歌曲のこととて、振られた殿御の未練すら情熱的なのじゃ」 「そう……、ですか。振られた男の……」 店長は、何やら痛いところを直撃されたように胃のあたりを押さえる。 「どうなさった、店長殿?」 「いいえ、なんでも」 「あまり歌われない2番が、いっそう濃いシチュエーションでな。失恋のあまりのつらさにこの青年は教会に行き、神父様に告解するのじゃ。ぼくはあの人のために死にそうです、信じられないくらいに苦しいんです苦しいんですぼくは苦しいんですと、それはもう身も世もなく」 「それは、その……、お気の毒に……」 「じゃが、神父様はこう仰った。『彼女の心のままに』と。……これ、店長殿?」 顔色がみるみる青ざめていく店長に、ジュリエッタは驚いて言葉を切る。恋に恋する16歳の乙女は、思いっきり地雷を踏んでいることに、まだ気づいていない。 「申し訳ありません、少し席を外してもよろしいでしょうか? 胃薬を飲んでまいりますので」 いったん2階の自室へ引き上げた店長は、ほどなくして戻ってきた。 やや顔色が回復した様子に、ジュリエッタは薄々、何ごとかを察した。ハーブティーをもうひとくち飲んで、カップを置く。 「わたくしには、まだ、このような恋の経験はないが……。誰も、間違っておらぬのではないかのう?」 「この青年によく似た男の話を、聞いてくださいますか?」 自分用に淹れた珈琲の湯気が立ち上るさまを、ラファエルは見つめる。 「『トリ』が暮らすとある王国に、侯爵領を賜った財務官がおりまして。彼は王宮に勤める侍女と恋仲になり、結婚の約束をしたのですが、式の前日、彼女は出奔したのです」 「それは、なにゆえじゃ?」 「詳しい理由は、未だにわかりません。置手紙には『あなたはわたしを護るだけで、わたしに護らせてくれなかった』とありました」 「何か誤解をしただけで、いつか戻ってくるのではないかえ?」 「その可能性はないと思います。彼女は『ヒト』の帝国に身を寄せて、皇太子の側室になりましたので。『トリ』の象徴である翼を、自ら切り落として」 「さようなことが……」 わたくしは何ともいえぬが、と、ジュリエッタは白い両手を組み合わせ、ため息をついた。 「のう、店長殿。『彼女の心のままに』と助言した神父の言葉は残酷じゃ。しかし、神父は『忘れろ』とは言っておらぬ。これは、励ましであるのかもしれぬのう」 「励まし、ですか」 「破れた恋を思い出に変えて、また新たな恋に歩めるように。時は心を変えさせるほど残酷であるが、また新たな一歩となるものじゃと――どうされた、また胃痛かえ? 何か悪いことを言ってしもうたか?」 気遣うジュリエッタに、ラファエルは微笑んで首を横に振る。 「いいえ、なんと申しましょうか、それこそ神父さまに諭されたような心境で。ジュリエッタさまのような若いかたと、このような話をすることになろうとは思いもよらず」 「わたくしも得がたい時を過ごさせてもらった。ハーブティーも美味しかった。礼を言う」 そろそろおいとまするとしよう、と、ジュリエッタは立ち上がる。 「眠れそうですか?」 「おそらくは」 見送るラファエルを振り返り、ジュリエッタは言った。 「ファニーチェ劇場というのじゃ。わたくしの故郷のオペラハウスは」 「ファニーチェ……。フェニックスですね」 「さよう。火災で2度も全焼しながら、その都度再建された建物じゃ。ゆえに『不死鳥』の名を冠する」 それ以上のことは告げず、少女は軽やかに歩き出す。 下弦の月の笑みがわずかに和らいだ――ように見えた。
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