ターミナルの片隅の、静かな通りの更に奥に、それはある。 彩音茶房(アヤオトサボウ)『エル・エウレカ』。 異世界産の風変わりな植物と、不可思議な鉱物に飾られ――埋め尽くされた、と表現しても間違いではないだろう――、造られた、どこか日本庭園に似たデザインのカフェである。 庭の片隅には泉があって、なんとも芳醇な、それでいて清らかな水の香りを立ち昇らせているのだが、その清冽な泉の水からは、時折、サファイアのような色をした美しい蝶が現れて、飛び立ってゆく。「ん、おや……いらっしゃい。といっても、私は店員ではないが」 自ら輝く、透き通った紫色のホタルブクロを思わせる幻想的な植物のアーチをくぐって中へ入ると、前述の植物や置石にぐるりと囲まれるかたちで、黒く光る籐で編んだ椅子と丸テーブルのセットが十二ばかりある。 客の入りは半分ほどで、めいめいに茶を啜ったり甘味に舌鼓を打ったり、サンドウィッチを頬張りながら持ち込んだ雑誌を読み耽ったりしているようだ。 声をかけて来たのは、そのうちのひとつに腰掛けていた朱金の髪の人物だった。 名を神楽・プリギエーラという、驚くほど性別のはっきりしない人物は、店員ではないと言いつつも冷たい水の入ったグラスや手拭などを慣れた様子で持って来て、「よくここが判ったな」 いっそ感心したように言って、席を勧めた。「ターミナルに田舎もくそもないが、辺鄙な、というのはこういう場所を言うんじゃないかと思う」 神楽が言うには、ここは初め、友人のロストナンバーが、趣味で集めた植物や鉱物を展示する目的で始めた場所だったのだが、知り合いの世界司書が料理好きの料理上手だったため、いつの間にかお茶や菓子、料理を提供するカフェになっていたのだそうだ。 神楽はというと、ここで、望まれるままに音楽を演奏しているのだという。 つまりここは、ティータイムやランチやディナーを楽しみ、不思議な景色や音楽も楽しむことのできる、ちょっとした隠れ家的な空間なのだった。「店長は新しい植物だか鉱物を探すために外へ出て不在だが、料理番は『導きの書』が何も言わない限り大抵はここに詰めているから、茶や飯がほしければ頼めばいい。何、顔は怖いが存外家庭的で面倒見のいい男だ、どんどん無茶振りをしてやればいい」 どこまで本気なのか判らない淡々とした口調で神楽が言うと、植物がカーテンのようになって隠されていた厨房から、怖い顔で悪かったな、と件の世界司書が顔を出した。 名を贖ノ森火城という、赤眼の、刃のような雰囲気を持った男だが、神楽の言う通り、眼差しは理知的で静かだ。「……ん、新しい客か。ちょうどいい、新作のスイーツが出来たんだ、食べていかないか。もちろん、もっと腹にたまるものがいいと言うなら、肉でも魚でも準備するが」 火城は、特にメニューはないから好きなもの食べたいものを言ってくれ、なんとかする、と締め括り、また厨房へと引っ込んだ。 それを見送って、神楽が不思議な形状の弦楽器、“パラディーゾ”を掲げてみせる。「音楽が必要なら言ってくれ、歌でも旋律でも、きみの望みのように奏でよう。――もちろん、きみがうたってくれるのも、歓迎だ」 そうこうしているうちに、厨房からいい匂いが漂い始める。「さあ、どうしようか?」 楽しげな、神楽の問いかけ。 選択は幾つもある。 ゆったりした時間に身を、心を委ねてみるのも悪くはないだろう。
ふと気づくと五日経っていた。 研究に没頭すると時間の経過を忘れるのは悪い癖だと思いつつ外へ出たはいいのだが、数日間、ろくに食事を摂っていなかったのもあってメルヒオールはふらふらだ。 「この辺りで……なんか、食い物の店……」 もともと学者肌の、寝食を忘れて没頭するタイプの研究者である。 肉体的な訓練とは無縁だから、有り余るような体力を持つわけもないし、栄養を補給しなくても生きていける、霞を食べて生きていける仙人のたぐいでもない。 もう少し気をつけなきゃ駄目か、などと、人生において何度目になるか判らない、堂々巡りに近いことを思いつつ、足を引きずるようにして曲がった先で、緑にあふれたカフェが目に入った。ツタを編んだような文字で書かれた瀟洒な看板には、彩音茶房『エル・エウレカ』とある。 「……ちょうどいい」 これ以上歩くのは無理だと思い始めたところだったので、ホッとして店内に足を踏み入れる。 珍しい、不可思議な植物や鉱物に覆い尽くされた庭を突っ切って中へ入ると、そこはまたたくさんの緑にあふれていた。椅子とテーブルのセットがいくつかある、小ぢんまりとした空間が広がっていて、常連らしくくつろいだ何人かの客が、めいめいに茶を飲んだり菓子をつまんだり食事に舌鼓を打ったりしている。 「いらっしゃい。何にしようか」 灰髪に赤眼の、強面の男が注文を取りに来る。 「ん? おまえ、確か……」 「ああ、世界司書だ。こういうのが好きなもので、時間のある時はここで料理人のまねごとをしている」 「ははあ、なるほど。時間の有効活用ということだな。さておき、あまりああしてほしいこうしてほしいというのはないんだ、何でもいいから食べるものを見繕ってくれないか」 非常に適当な注文をする。 味音痴というわけではないのだが、飲食に関して特にこだわりがないのだ。 「判った。……空腹か?」 「まあ、そうだな。数日、まともな食事をしていないから、感覚的にはもうよく判らないってのが実情だ」 「数日間も? 何か、そんな依頼でも……?」 鋭く見えた男の眼が気遣いの色彩を孕んだのを見て取って、メルヒオールは微苦笑とともに首を横に振る。 「あ、いや。俺は研究者なんだが、そっちに没頭しすぎてな。故郷で、同じような理由で食べるのを忘れていて、あの時はめまいを起こしたんだったか、ともかく書類に埋もれて倒れているのを友人に発見されてからは、一応、最低限は気にするようにしていたんだけどな」 今回はギリギリで間に合った、というところか。 ぼそりとしたつぶやきになるほどとうなずき、料理人の男が厨房へと引っ込む。あたたかい、いい匂いが漂ってきて、確かに自分は今空腹で、身体が食事を欲しているのだと実感する。 「さて……」 あまりにも適当な注文だったが、どんなものが出てくるのだろかとちょっとした好奇心とともに想像しながらも、メルヒオールはテーブルいっぱいに研究書やノート、レポート用紙、書類を広げる。眼は書物の文字をめまぐるしく追い、手は恐ろしい速さで文字を書き連ねていく。 「白のイデー、黒のアイオーン、赤のカルマ、青のダルマ……一を十に連ね、十を百に連ね、百を万に、万を億に……」 同じ研究者にしか判らないだろう単語をつぶやきながら思考を組み立て、再構築し、継ぎ足して引き、更に組み立てる。 「ああ、そうか。この理論はこっちで実証されているのか。ということは……」 自分がなぜここにいるのかすっかり失念し、研究室と同じくらい没頭し始めていたところで、 「なるほど、あんたが何日も食事をしない理由がわかったような気がする」 トレイを手にした料理人が、少々呆れた風情で声を上げた。 「ん、すまん。癖みたいなもんだな。研究者というのはある意味業深い」 メルヒオールは苦笑して紙束を退け、スペースをつくった。 「で……これは?」 目の前におかれたトレイの中で、ほかほかと湯気が立ち上る。 「野菜だけのコンソメで炊いた粥と、生クリームを入れて丁寧に仕上げたスクランブルエッグ、温野菜に絹ごし豆腐を裏ごししてつくった和風ソースをかけたサラダだ。何日もちゃんと食っていないとなると胃が弱っているだろうから、消化しやすいものにしておいた」 「なるほど、気遣いをありがとう。ではいただくかな」 添えられた匙を手に、粥をひと口啜る。 とろりとした触感の米粒が、クリアなコンソメの味を伴って、舌から咽喉へとゆっくり滑り落ちてゆく。 「ふむ、これは滋味深いな。細胞のひとつひとつに染み渡るようだ。野菜だけでとったコンソメというのがあるのか……趣深い。だが……そうだな、大地の力を目いっぱい吸収して育つのが野菜だ、その程度の力は携えているか」 半身が石化しているため、左手しか使えないメルヒオールだが、手つきは流麗で特に不自由もなく、また粗相をすることもなかった。慣れた動きで粥を啜り、こぼすことなくスクランブルエッグや温野菜を食べている。 「滑らかだな、これ。フライパンで焼くものじゃないのか、こういうのは」 「いや、直接火にかけるのではなく、卵液を湯煎にすることでこの滑らかさが出る」 「なるほど、手が込んでいるんだな、初めて知った。料理というのも奥深いな、やればやるほど興味が湧くという意味では、俺の研究となんら変わりないものなのかもしれん」 とろりと優しく滋味深い玉子を口に運び、ふと思いついて男を見やる。 「? どうした?」 「いや、何か持ち帰れるものをつくってもらえないか? 研究をしながらつまめるようなものや、日持ちがして栄養価の高いものがいい。手元に食べるものがあれば、しばらくなんとかなるだろう。食事を忘れてダウン、なんてことにはならない気がする」 男はそれを快諾し、十分もすると厨房から大きなバスケットを抱えてきた。 「……予想より多いな」 「日持ちのする、身体にいいものをあれもこれもと詰め込んだらこんな量になった」 中には、硬く焼きしめた『リーンな』パンがいくつかと、はちみつと白ワインで煮詰めた洋ナシのコンフィチュール、ピリリと辛く滋味深いしょうがのジャム、こっくりと甘いキャラメルのスプレッド、パプリカと玉ねぎのマリネ、にんにくの利いたレバーペースト、アンチョビとバジルのペーストなどなどが詰め込まれている。 「ほう、これはうまそうだ。ありがとう、活用させてもらう」 これなら、研究の片手間に、パンに好きなものを塗って食べるだけでいい。 いいものを用立ててもらったと相好を崩すメルヒオールに、男は肩をすくめた。 「まあ、それでも足りないものはある。身体を壊す前に、また飯を食いに来てくれ」 自覚のあるメルヒオールは苦笑して頷く。 「ああ、そうさせてもらう」 彼の至上命題は研究の完成であり行き着くところまで行くことだ。 しかし、こういうのも、生徒たちと過ごす時間を思い出して悪くない、と思った。
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