「……しまった」 男は途方に暮れて呟いた。 目を凝らしても一メートル先も見えないほどに濃い夜闇。 寒々と冷え切った空気は静寂を孕み、時折気まぐれな風が木々の枝を揺らし、ざわざわと魔女が笑ったような音をたてる。 遠くから、ほー、ほーとフクロウの嘲りの声はまるで男が油断したら食ってやろうかと囁いているようだ。 なにもかも不気味だ。 これだったら夕方に知り合った猟師の忠告を聞いて、近くの村で一泊すればよかった。 仕事道具のリュートを無意識に撫でながら男は嘆息した。 この森を抜けなければ大きな街にはたどり着けない。前の街で仕事道具と命以外のすべてを掏られた男には灯りも、野宿の用意もなかった。 旅をして五年。 こんな間抜けでついてないことははじめてだ。いや、そもそもこの五年は運がよかった。最近儲けもよかったために完全に油断してしまっていた。 自分の間抜けさと迂闊さを呪いながら男は天を統べる十三の神、すべてに祈りを捧げた。この森をどうか無事に通りぬけ、ついでに次の街で当分のんびりできるほどのお金を稼げますように! 「ららら~、オイラは陽気な歌語り! ちょっと聞いておくれ、見ておくれ」 怖さを紛らわすためにも男は声高く歌い始めた。でなければ恐怖に足がすくんで一歩も進めなくなりそうだ。 猟師に狼や熊といった獣は大きな音には近づいて来ないと教えもらった。 「星の唄を聞きたいかい、空の話が聞きたいかい、それとも大地の話かい? 大地に生きる樹の姫の話をしようかね!」 男の陽気な声に、森の闇はますますその色を深めていく。 ああ、いやだ、いやだ。 真っ直ぐに進んでいるつもりだが、灯りがないので自分がどこに進んでいるかまるでわからず、タチの悪い病のように不安が心を支配していく。 空を見上げても、木々が手を伸ばして空と星を隠してしまっている。ああ、なんて最悪! 「ん、あれは灯りか?」 暗闇に、ぽっと輝く小さな太陽を見つけたとき男は心底安堵し、思わず泣きそうになった。十三の神に感謝して、一目散にそちらへと駆けた。 自分と同じような境遇の者がいるのはなんとも心強い。 うまくすれば今宵は一緒に、という流れで、このぺこぺこのおなかを満たしてくれる夕飯を提供してくれる可能性だってある。 「おい、あんた、おーい!」 太陽がますます大きくなり、その色が黄色からオレンジ色へ――焚火? と思ったが、どうも違うようだ。 これはしまった。 男は今更だが、別の可能性を考えなかった自分の愚かさに舌打ちした。森にいるのは自分みたいな大間抜けか。それとも人に見られては困る類の――人を呪い、殺してしまう魔の道に通じる者かのどちらかしかありえない。 目を凝らすと、そこにはいたのは恐ろしい賢者の老人でも、妖しげな魔道師でも、妖艶な魔女でもなかった。 若い、二十歳くらいの女性が立っていた。 驚くのは、澄んだ白肌、ふわふわと垂らした若草のような濃い緑色の髪、もったいないことに右目を隠しているが、左の目は森の奥深くにある泉のように美しい青色をしている。 きれいだ。 反射的に賞賛が頭に浮かび、すぐに気が付いた。 こんな見事な髪の色などありえない――今まで旅をして多くの人を見たが、髪の毛はたいてい黒、金、赤で、こんなすばらしい緑色はなかった。それに髪の毛を飾るのは蔓草を編んで作られたような白い花のついた花冠。 ドライアド。 男は恐怖に喉を鳴らした。 「あの」 「う、わぁ」 男は情けない声を上げ、その場に尻餅をついた。 「お、オイラは食べても、おいしくないぞ! それに美形でもないしよ」 「……うん?」 「そ、そりゃあなぁ、リュートはうまいし、歌もいろいろと知ってるが、あんたが気に入るようなもんはねぇ!」 唾を飛ばして叫ぶが、ドライアドは無垢な子供のような顔でじっと見つめてくるばかり。 ああ、魅入られちまう! 男はぎゅっと目を閉じた。 「み、見逃してくれ。オイラはまだまだ若いんだ!」 「あの」 穏やかな、まるで花の蕾が今から咲こうとするような声。 「どらいあいどってなぁに?」 「へ」 男は目をぱちりと開けて、相手をまじまじと見た。 「あんただろ、あんた」 「ぼく?」 ドライアドはきょとんと眼を瞬かせて自分を指差すと小首を傾げた。 「し、しらばっくれるなよ! そんなきれいで、花つけてて、それで、こんな森を、こんな時刻に彷徨ってるのはドライアドだろう」 「けど、あなたも彷徨っていたよ。あなたもドライアドなの?」 その言葉に男は頭を抱えたくなった。 「あのなぁ! 俺のどこがドライアドなんだよ!」 男は立ち上がると、果敢にドライアドに説教をはじめた。 「よし、そこに座れ」 「うん」 ドライアドが素直に腰かけたのに拍子抜けしてしまった。 よし、うまく逃げちまおう。 こいつはずいぶんと間抜けなドライアドにあたったもんだと男は苦笑い、リュートの音を鳴らした。リィン。 「ドライアドっていうのはな、森に住むニフンさ。その姿はいつもはかたい樹だっていうのに、おやおや不思議、自分の好みの男を見つけると、その姿を月の女神アィールの力を借りて若い娘に変えちまう! その姿、まっ白い肌は月光のよう、髪は朝露を浴びた葉のように濃い緑色、歩けば花の甘い香りがして男なんざころりといっちまう!」 リィン。 リュートが優しげな音を奏でる。 「へぇ」 たった一人の観客は一つしかない目を真ん丸にして男の話に釘付けになった。そうなると、ついつい歌語りの悪い癖が出た。 「野暮な木の手のせいで隠れてるが、今宵は月の美しい夜だ。だからドライアドと男の話をしよう」 「うん。聞きたい」 ねだられてしまったら、このままとんずらってわけにもいくまい。 男は自分が知るなかで一番悲劇的で、若い娘が好きな「イシュのドライアド」の物語を唄った。 若くて美しい東の領地主のイシュは森に入り、それは美しい娘と巡り合う。しかし、それは人ではない樹の精霊のドライアド。 リィン。リュートは鳴く。 激しい恋に落ちたドライアドはなんとしてもイシュを振りむかせようとする。しかし、イシュはドライアドの愛には一度も答えない。なぜならイシュは人間で、地位のある男。近々、近隣の領地の娘と結婚することがすでに決まっていたのだ。 リィン。リュートは鳴く。 けれどイシュも本当はドライアドのことを愛していた。だからドライアドが最後にもう一度だけ貴方と二人きりで会いたいと懇願するのを退けられなかった。 リィン。リュートは鳴く。 結婚前夜、イシュはドライアドに会いに行く。すると、ドライアドはイシュを誘惑し、その身にしがみつくと、突然、樹へと変わってしまった。イシュはドライアドのなかへと閉じ込められ、出てこれなくなってしまった。 叶わない愛に身を焦がしたドライアドはそうしてイシュの肉体と魂、それに心まで手に入れた。 リィイイン。リュートは鳴く。 その年、それはそれは美しい、白い花を咲かせた樹があった。まるで愛の成就を奪い取った女に見せつけるように。甘い香りはその土地いっぱいに広がった。 それからドライアドは愛する男がいれば誰にも渡さないために自分の樹のなかに閉じ込めてしまうようになった。 そう、男が死ぬまで……。 それが彼女たちの決して変わらぬ愛のかたち。 ぱちぱちぱち……ドライアドが拍手するのに男は胸を張った。 「わかったか、ドライアドってのが、なんなのかって!」 「うん。わかった」 ドライアド本人に、ドライアドのことを説明するとは不思議なものだと男は苦笑いした。 「そのイシュって人は結局、出てこれなかったの?」 「いいや、この歌には続きがある。イシュはドライアドを騙して、木の中から出たが、しかし、イシュが樹の中でたった一日過ごしただけだったのに、地上では百年の月日が経っていた。イシュは絶望して死んでしまう、それを知ったドライアドもまた嘆き悲しんで枯れちまったって話だ」 「悲しい話だね」 「悲劇なやつはみんな好きさ。とくに女の子が大好きな話だぜぇ……てか、これはお前の仲間のことだって、わかってるのか」 男の言葉にドライアドは目をぱちぱちさせたあと、小首を傾げて思案顔でぽつりと呟いた。 「ぼくはドライアドじゃないよ」 「へ?」 「ぼくなら、好きな人とは一緒に色んな世界を見て回りたいと思うよ」 そういうとドライアドは小さく欠伸をして、左目をこすりだした。心なしか眠たげだ。 「オイラの話はつまんなかったのか?」 多少、むっとした男は言った。 「ううん。楽しかった。けど、暗いところにいると眠くなっちゃうんだ」 にこりと微笑むその顔の可愛さに男はどきりとした。 「お前、そうやってオイラを誘惑しようとしてるんだろう」 「ゆうわく? けど、ぼく、男だよ。あなたも男でしょ?」 「……」 「どうかしたの?」 男が近くにあった樹に手をついて肩を落としているのにドライアド――ではないらしい不思議な青年がまた不思議そうに小首を傾げた。 「聞くなよ。聞かないでくれ! 男相手にときめいたなんてオイラ、知られたらやばい」 「ときめいた?」 「言うなっての!」 「うん。言わない……ぼくがドライアドじゃないこと、信じてくれる?」 「ああ、ああ、あんたは違うよ」 落ちこむべきか、喜ぶべきかすごく複雑だ。 「あなたはドライアドじゃないのに、どうしてここにいるの?」 「迷ったんだよ!」 やけくそに男が答えると青年が立ちあがり、こっちと歩き出すのに一緒について歩き出した。今更もう騙すこともないだろう。 「そのドライアドも言えばよかったのにね、一緒にいろんなものを、そのイシュさんと見たいくらい好きだったって、自分のなかに閉じ込める前に。それで二人でいろんなものを見て歩けばよかったのに」 「ドライアドは樹の精霊なんだ。自分の樹から遠くにはいけねぇんだよ。それに言っただろう。ニフンは長生きるが、人間はそんなにも長くは生きられないんだ」 「そっか。……寂しいね」 「そんな顔するなよ、じゃあ、この話はどうだ?」 青年が悲しげな顔をするのに今度はとびきりの喜劇を語った。 「英雄と魔女の激しい恋」「神々の間抜けな宴」「王妃の嫉妬を恐れる賢王様」と、思いつく限りの話を聞かせた。 青年はどの話も興味深そうに目を輝かせ、ときには腹を抱えて笑い、ときには花冠についた白花を揺らして憤った……ふいに足を止めた。 「ここを真っ直ぐにいけば、森を抜けられるよ」 「え、おい、お前さんは?」 青年は微笑んで首を横に振った。 「素敵な物語をありがとう。とっても楽しかった」 再び眠たげに欠伸をした青年がひらひらと手を振るのに男は歩き出そうとして動きをとめた。 「あんた、名前は?」 「ぼく? ぼくはニワトコ」 「そうか。案内、ありがとな」 今度こそ背を向けようとすると、ぐぅと腹が鳴った。 「おなかすいてたの?」 「う……仕方ねぇだろう、いっぱい話したし、歩いたから」 「あ、そっか。待って……はい、これ」 ニワトコはとことこと森の奥にいったと思うと、すぐにつやつやの林檎を一つもってきてくれた。それを男は受け取り、不思議そうにニワトコを見つめた。こいつなら植物から魔物、はては精霊からでも果実をもらってきそうだ。 「ありがとな」 男は林檎を齧りながら歩き出した。数キロ歩いたあと一度足を止めて再び振り返り、オレンジ色のランタンの灯りがまだあるのを確認した。 あれはやっぱりドライアドじゃないのか。けど、男だし、親切にしてくれた……一体なんなんだ。 「ニワトコか」 森の奥深くにいる不思議なニワトコ。それに遭遇した間抜けな歌語り――次の街でそれを歌ったら、いいかもな。 男は自分が体験した不思議な体験を思い出して、つい口元に笑みを浮かべた。 「お、森を抜けた」 銀砂をまいたような美しい空を見て男は呟いた。
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