メルヒオールは、魔法が日常的に存在する土地で生まれた。 そこでは魔法を学ぶため、人々の大半は魔法学校に通うのが通例だ。 十代のメルヒオールも、魔法学校の学生だった。それが当たり前、何の疑いもなく進んだ道だったから、彼は別に学校や教師に反抗しようという気などなかった。 ただ、どうしようもなくやる気がなかっただけで。 生来ものぐさなタチだったのだ。身だしなみも適当で、しょっちゅう指導されたが、なかなか改善しないまま。何より授業中の気の抜け方がハンパではない。常に眠たそう、というかむしろ寝てる、いやいや目は開いているらしい、起きているのか眠っているのか、まさか死んではいないだろうな本当に大丈夫か、と教師連中が戦々恐々としたとかしないとか。 最終的には『ヤツの特技は目を開けたまま眠ることだ』とかいう噂まで立った。 実のところ、彼は眠っていたことなど一度もないのだ。やる気はないが、不真面目でもない。授業中眠るのはよくないことだろうと思い、一応聞いてはいるのだが、内容は右から左へ抜けていく。無意味なことこの上ない。 けれどそんなことにも頓着せず、心外な噂を立てられても否定するのも面倒くさく、日々のらりくらりと過ごしていた。友達はいるが群れることはない。血気盛んな同級生たちが教師と衝突するのをぼんやりと眺めている。そんな少年。 ――先に声をかけてきたのは彼女の方だ。いわく、『ちょいと評判の無気力坊やに興味があったのさ』。 それは放課後の廊下でのこと。 教室を出て帰宅しようとしていたメルヒオールに、ふいに降りかかった一声。 「ちょいとそこのあんた、手伝いな」 彼は通りすぎようとした。自分にかけられた声だと気づかなかったのだ。 「待て! こら、メルヒオール!」 「………?」 名を呼ばれ、ようやく振り向く。 「……俺?」 そこには背の低い老婆がいた。両手に紙束を抱え、ふん、とあごをそらして「お前以外の誰がいるんだい」とのたまう。 顔は知っていた――メルヒオールが直接学んだことはないが、たしかこの学校でも一・二を争う高齢の教師である。 名前は知らない。メルヒオールの知る限り、彼女は常に『お婆さん先生』と呼ばれていた。もちろんメルヒオールは、今までいちいち名前を知ろうとしなかった。 「これをあたしの研究室に運ぶのを手伝いな」 彼女は重ねて言う。 メルヒオールは眠たげな目で、彼女を見返した。 「……なんで俺が?」 「暇なんだろうあんた。否定しても無駄だよ」 「まあ否定はしないけど。でも俺がやる必要もないだろ」 「目の前に重い荷物で困っている女がいる。男としてやることは決まってるだろ」 すまし顔でそんなことを言う彼女に、メルヒオールはぼやく。 「困ってるように見えねえ……」 「ごちゃごちゃとうるさいね、いいから手伝いな、ほら!」 有無を言わさず、紙束を押しつけられた。つい受け取ってしまったメルヒオールは、ぎょっとした。 「何だよこの重さ!」 「おやおや、紙ってのは重いんだよ。知らなかったのかい坊や」 お婆さん先生はぴんと眉尻を跳ね上げる。ふふん、と楽しげに彼女は笑んだ。 「ま、いい経験さね。ついておいで」 「ちょ、ま、」 「若人はつべこべ言わず歩きな! どうせ運動不足なんだろう?」 老婆は意気揚々とメルヒオールの前を歩きだす。 なんだこの理不尽さ。 メルヒオールは唖然とした。しかし文句を言ったところでどうにもなりそうもない。 ――手伝った方が早いか。 渋々それを認める。ため息をついて、彼は彼女の背を追った。 前を行く教師の足取りが軽そうに見えれば見えるほど、自分の肩にどよんと重い何かがのっかる気がしたが――考えたくなくて、彼は無視した。 その日から、彼女との交流は始まった。 ……始めさせられた、と言った方が、絶対正しいと思うのだけれど。 「おそようメルヒオール。今日も覇気がないねえ」 「うるせえ」 「なんだいつれないね。ところであたしゃあんたの特技を見たことがなくってね、今ここで見せておくれよ例の『目を開けたまま眠る』っていうの――」 「できるかンなこと! そもそも俺は授業中眠ってねえ!」 「おやそうなのかい。残念だ」 「残念なのかよ……あんたほんとに教師か」 「特技ってのは大事だよ。例え授業をさぼるのに使っていたってね――しかしもったいない。どうだい、今からでも特訓してみないかい、目を開けたまま眠れるように」 「するかッ!」 彼女はいつもメルヒオールをからかい、いつも軽快に笑った。 しわの多い顔の、意地悪なのに明るい笑顔は、どうにもメルヒオールの調子を狂わせた。そもそも自分がむきになって色々言い返すことは珍しい。古い友人が相手でもない限り、そんなことはなかったのに。 なぜだったのだろう? 答えは出ない。ただ、彼女は“そういう人間”だったのだ。多くの人々にとって――そして、メルヒオールにとっても。 『お婆さん先生』の専攻魔法は、紙を用いる術であるらしい。 いつの間にか彼女の研究室に呼びつけられることの多くなったメルヒオールは、これまたいつの間にか、その研究を手伝わされるはめになっていた。 「紙の命はたった一度きりさ。あんた、それをお忘れでないよ」 それが彼女の口癖。 実際、彼女は紙をとても大切に扱った。メルヒオールは毎日毎日それを見ていた。まるで親の価値観を教えこまれたかのように、メルヒオールは紙を邪険に扱えなくなった。 それを見た彼女は、えたりと笑った。 「あんた、素質あるよ。あたしの助手に丁度いい」 「……婆さんに呪いかけられたような気分だっての」 「そう捨てたもんじゃないさ。――頑張っていれば、いずれご褒美をあげるよ」 「なんだよそれ……」 ほとんど無理やりだ。手伝うことに納得できたわけじゃない。楽しいわけもない。 ――楽しい、わけではないのに。 彼女の“研究”から、次第にメルヒオールは離れられなくなった。 引きずりこまれるように彼女の論文を読むことに没頭した。彼女のやろうとしていることに興味を持ち、彼女の言葉にまともに耳を傾けるようになった。手伝わされた実験の結果をまとめ、眺めている内に、次から次へとやりたいことが生まれた。 (楽しい、とはちょっと違うか……?) 初めての感覚に、メルヒオールは自問する。 今の気持ちに一番近い言葉はなんだろう? (……“面白い”、か?) それも何だか納得できない。少し苛立って、自分を引きずりこんでくれた張本人を横目で見やる。 「できたよ坊や。これはあんたにやろう」 紙に彼女特性の特殊なインクで何かを書きつけていた教師は、メルヒオールの眼前にそれを突きつけた。 『女難祓い』 「……なんだよこれ」 「読んで字のごとく。あんたには女難の相が出てるからねえ、お札だよ」 メルヒオールは険悪な目で彼女をにらむ。 意地の悪い顔はにんまりと笑って、 「今の内にあたしで女に慣れておくんだね。大体あんたは女に対するエチケットがなさすぎるんだよ。そのままじゃあいつか痛い目に遭うよ」 「だからってなんで婆さんなんかと」 「人生の先達、熟れた女。これ以上勉強になる相手がいるかい?」 「……熟しすぎだろ」 スパン! と彼女はメルヒオールの顔面に札を叩きつけた。 「いいかい坊や! あんたはあたしがきっちり教育してやるから安心しな!」 両手を腰に当てて偉そうにふんぞり返りながら、そう宣言する―― そしてその言葉の通り。 彼女の『教育』は怒涛のようにメルヒオールに襲いかかった。 元々体力のある方ではない少年に、容赦のないハードスケジュール。普通だったらさっさと逃げ出すレベルの酷使だ。だがさすがは人生“熟れすぎ”老女、メルヒオールの中にも一応存在した反骨心や興味を巧みにつつき、彼を研究に走らせ続けた。 「おやおや坊や、若いのにもうバテたのかい? 情けないねえ」 「うるせえ婆さん! あんたこそ年寄りの冷や水ってんだよ、大人しくしてたらどうなんだッ!」 「そんなこと言うんじゃ例の実験に噛ませてあげないよ?」 「………っ!!」 「あんた何気にあの実験すごい楽しみにしてたろう。ほらほら、あれを成功させたかったらきっちりコレ終わらせな!」 「この……っ!」 思い切り毒づこうとして、はたと思い至る。 呪いをこめて相手の名前を呼びたいのに、名前が分からない。最近他の教師たちに探りを入れてみたりもしたが、全員が全員彼女の名前を知らないのだ。ありえないことに! 「――どうしてあんたは名前がないんだっ!!」 噛みつくような顔でメルヒオールは怒鳴った。 応える彼女は涼しい顔で。 「大切だからに決まってるだろう? 知ってるだろ、あたしゃ相手の名前を紙に書くだけで呪いをかけられる。自分がそうなんだから、自分の名前を守って当然だろう」 あんたは何であたしの名前を知りたいんだい――悪戯に問われて、メルヒオールはつまった。 見抜かれている。本気ではなくとも、悪意をこめてその名前を呼んでやろうと考えたことを。 けれど、それを責めるわけでもない―― ただ楽しげな彼女の表情に、メルヒオールは盛大にため息をついた。 「――何もこんな、毎日全力でやらなくてもって言いたいんだっつの」 訴えるように言いつのる。 「俺の卒業はまだ先だし、これからも付き合うから――もうちょっと余裕を」 「馬鹿だね坊や」 彼女はぴしゃりと斬り捨てた。「そこが甘ちゃんなんだよ」重ねて冷たく言い放ち、メルヒオールを見すえる。 「言いからあたしの言うことを聞いておきな。黙ってついてくるんだよ、絶対にあんたの損にはならないし、無駄にはさせない」 そして、最後に、なぜか、 ――柔らかく微笑んで。 いつか分かるだろう、と。そう言った。 いつまでも続くように思えたそんな日々が急に終わりを告げたのは、それから一年も経たないある日のこと。 「……なんの、冗談だよ」 殺しても死なないと信じていた。あれほど活力にあふれていた彼女が、この世を去った―― メルヒオールは彼女の家に招かれた。 ベッドに静かに横たわる彼女。目を閉じた表情は、安心しきったかのように満足げで。 その顔を、メルヒオールは知っていた。彼女の酷使に負けず、十二分な結果を出した彼に、いつも彼女が見せた表情―― 「……なんだよ。結局あんたは」 最後の最後までそんな顔で。 ずるいだろ。メルヒオールは小さな声でつぶやく。 涙は零れない。 ただ、心のどこかにぽっかりと冷たい穴が空いたのを、彼はたしかに感じた。 こんなに空虚な日々は初めてだった。 学校は相変わらず活気にあふれ、時間は止まることなく過ぎ去っていく。それは変わりがないのに。 研究資料をめくってみても、頭に入ってこない。 『ちゃんとおやり』と怒鳴る声がない。 ため息をついて本を閉じる。そんな毎日。 「手紙だよ、メルヒオール」 ある日家人に渡されたのは一通の封筒だった。 差出人はなかった。 だが、『坊やへ』と書かれたその流麗な字は、いやというほど見慣れた“彼女”のもの。 弾かれたように封を開いた。 出てきたのは一本の古い鍵と地図、そして一枚の紙―― 『ご褒美』 メルヒオールは地図を頼りにその塔を探し出し、登った。 個人が持つには高すぎる塔だ。しかも足で登るしかない。ぐるぐると螺旋状に設えられた階段は、必要以上に過酷だ。 最上階に辿りつくころには心身ともに疲れ果て、部屋にあった椅子に崩れるように座った。 その彼の丁度目の前にあった机に、一枚の紙。 『いい運動になったろう?』 その書き置きを見て、メルヒオールは盛大に引きつった。 「あのババア……」 毒づく。心の底から呪いをこめて。 もうこの世にいないなんて関係ない。どうせこの先もあの無駄に元気な婆さんの声は、しつこく自分にまとわりついてくるに違いないのだ。―― (ああ、そうか) あの婆さんは、今でもたしかに『ここ』にいる。 心の中で欠けていたピースが、カチリとはまった。 「―――」 メルヒオールは思い切り、伸びをした。解放されたような気持ちとともに。 無数の本がぎっしりと並んでいる部屋を見上げ、 「受け継いでやるさ、婆さん」 そうして彼はほんの少しだけ、笑った。 ――おや、初めて見る顔だねえ。 親愛なる“先生”が、どこかで嬉しそうに微笑んだ、気がした。
このライターへメールを送る