「あんたなんか最低よ! ろくでなし女ったらし人非人冷血漢!」 いったいもう何度、こんなふうに叫んでは、実父の部屋を飛び出したことだろう。 走って走って、ようやくヘルウェンディ・ブルックリンは、画廊街に通じる小さな広場で立ち止まる。切らした息の白さに驚いて、夜空を見上げれば粉雪だ。 クリスマスが近いこの時期は、「冬」と「夜」が設けられている。それは知っていたはずなのに、コートを持ってこなかった。そんな余裕もなかった。くしゅん、と、くしゃみをひとつして、ヘルは自分の肩を抱きしめる。 親子喧嘩のきっかけは、いつもささいなことだ。実父にはおよそ、養父のような優しい思いやりなど微塵もない。手負いの獣のような眼で見据えられ、冷たい言葉を吐かれると、いろんな感情がないまぜになり、どうしていいのかわからなくなる。何しろあの男は、娘の心をえぐることにかけては天才的だ。 ふう、と、ため息が流れる先に、光を放つ青いモミの木があった。装飾のすべてが青で統一された、小ぶりのクリスマスツリー。 惜しげもなく巻きつけられた、ブルーカラーのビーズと青いリボンのガーラント。青いポインセチア。青いグラスボール。青い天使とトナカイのオーナメント。トップには青い星がきらきらと瞬いている。どうやら画家の誰かが、アトリエの前に備えたものらしい。 ヘルはしばらく、その青の前に立ち尽くす。 今はヘルの持ちものとなった青い指輪を、にぎりしめながら。 ――と。 「うかねえ顔だなお嬢さん。絶世の美少女が台無しだぜぇ?」 ごく近くで、聞き覚えのある誰かの声が響いた。反射的に後ずさる。 「はっはー! 俺だよ俺。つれないなぁ、ヘル?」 「……!」 流線型のバイクに跨がったまま、ウインクを投げてきたのは、カーサー・アストゥリカではないか。ほっ、と、緊張が解けた。 相変わらずのテンションの高さで、ともすれば軽薄な印象を受けるが、彼がすぐれた教師であることを、「生徒」経験のあるヘルはよく知っている。その独特の教えかたも、生徒の目線で気持ちを共有してくれることも。 「……びっくりした。音、しなかったんだもの」 「俺のバイクは消音機能があるんだぜ? 仕立屋の美人さんや画家さんを驚かせちゃ悪いだろ?」 旅人たちは通常、スポット間の移動には、縦横無尽に張り巡らされたトラムを利用している。トラムで行けない場所はないため、ターミナルは基本的に歩行者天国であるともいえる。 にも関わらず、カーサーはバイクを愛用している。運転技術が巧みであることと、見かけによらず繊細なハンドリングを行うことも、その後ろに乗せてもらったヘルは承知済みだった。入り組んだ細い路地裏を、ふわふわ群れをなして飛んでいる妖精タイプのロストナンバーに投げキッスしながら、彼女たちを怯えさせずに華麗に通り抜ける技巧に息を呑んだものだ。 「こんなところで、何してるの?」 「そりゃ、こっちの台詞」 青いクリスマスツリーとヘルを交互に見比べて、カーサーは肩を竦める。 「当ててみようか。親父さんと喧嘩したんだろ?」 「……どうして」 泣き腫らした目を見開くヘルに、ちっちっ、と、カーサーは人差し指を左右に振ってから、すっと自分のジャケットを脱ぎ、着せかける。 「それくらいわからねぇと教師返上ってモンだ。俺の生徒には、家庭の事情ってのを抱えてるヤツが秋のセクタンレベルで大量発生してるんでな」 ふわっ、と、ヘルの両肩があたたかくなった。 「……あ、ありが」 「せっかくのクリスマスだ。俺でよけりゃ気晴らしに付き合うぜ?」 お礼を言い切るまえに後部席を指さされ―― 「うん……」 「何だよ、遠慮すんなって。この前は普通に乗っただろうに」 ほんとうに何故だろう。ふたり乗りはこれが初めてではないのに。 ためらいがちに腰掛けて、しなやかな筋肉質の腰に手を回す。 「よし。しっかりつかまってろよ!」 ふたりを乗せたバイクは、聖夜の街を静かに疾走する。 *:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*: 「さぁて、ターミナルのお店巡り車上観光編といこうか」 ジ・グローブの前を通り過ぎ、シネマ・ヴェリテを横目に、バイクは突風のように画廊街を抜けた。 日々増築に次ぐ増築を重ねているこの世界は、それ自体が巨大な迷宮になっている。その全貌を地図にせよといわれても、誰にも描くことはできない。横道を曲がり、くねくねした五叉路を右に左に折れたあたりで、そろそろ現在地がわからなくなってきた。 夢現鏡という名の香房が見えたような気がする。彩音茶房『エル・エウレカ』は、今日も賑わっているようだ。古書店Pandora飴屋dolce石屋ペチード紅茶専門店Babylonカレーとスープの店とろとろ雑貨屋Primulaめるへんしょっぷ・なっつけーす癒しの箱庭亭フォーチュン・カフェにフォーチュン・グッズにブックハウス・カフェにカフェ・キャルロッテにマンマ・ビアンコに人外魔境食堂びっくり☆ドッキンにレンタルショップ【Z.M.A.(零世界マッドサイエンティスト協会)】にメランジェ・ブーランジュ。 アクア・ヴィテとトゥレーンとスナック止まり木。御面屋わすれもの屋トコヤミ屋竜卵屋。これらの店舗は並んでいるわけではまったくないのだが、この早さで駆け巡ると、総合商業施設か一大商店街のように思えてくるから不思議である。ちなみにクリスタル・パレスは氷の魔王に侵略され、開店休業中だった。地下ダンジョンから吹き出した猛吹雪に店の周りまで席巻されていて近づけない。 「――ごめん」 その寒さに、改めて気づく。 ヘルに上着を貸したせいで、カーサーは薄着になってしまっているのだ。 雪は、本降りになっている。 「大丈夫だ俺は紳士だ気にすんな、と、言いたいところだが」 カーサーは陽気に振り返り、ひょいとヘルの顔を覗き込む。 「しおらしいヘルにつけ込まない手はないよな。こんなチャンス、逃がす俺じゃないぜ!」 バイクの向きが変わった。 「確かに寒い! そしてもう夕食時だ! しかもここには親父さんと喧嘩した美少女一名! つまり今すぐ帰らなくてもいい! そして俺のアパートにはシチューの材料が揃っている! こんなこともあろうかとエプロンまで常備してある!」 「何よそれーーーー!」 「大丈夫だ俺は紳士だ可愛い生徒に裸エプロン希望なんて言わないぜ!」 「あっっっっったりまえでしょおーーーー!!!」 *:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*: そんなこんなで、気づいたときには、ヘルはエプロンをつけて、カーサーの部屋でビーフシチューなどをコトコト煮込んでいたのだった。心なしかいつもより手際よくできたような気がする。 「おーーーっ。いい匂いだな。可愛い娘がいつも料理作ってくれるなんて、心底親父さんがうらやましいぜ!」 「あのロクデナシは文句しか言わないけどね。……それより」 ペースを取り戻したヘルは、片手を腰に当て、きっ、と、室内を見回す。 若い男のひとり暮らしのこととて、カーサーの部屋は、実父の放蕩ぶりに慣れている少女であっても、少々眉をひそめたくなるくらいには散らかっていたのだった。 「少しは掃除したり片付けたりしなさいよ! こんな部屋で暮らしてるとロクデナシ人生まっしぐらよ」 「そうか! サンキュー! まかせたよ!」 「はぁ?」 「掃除したり片付けたりしてくれるんだろ? いい生徒を持って俺は幸せだ!」 「何よそれーーーー!」 「掃除機はそこらへんの雑誌を掘り起こせば出てくる。ハタキはたしか洗濯物の山にまぎれて……、あれ? キッチンの食器棚だったかな、それとも冷蔵庫」 「何で冷蔵庫の中にハタキがあるのよ」 「細かいことは気にするな!」 「するわよ!」 ぐっと親指を立てるカーサーをにらみながらも、ついつい片付けを始めてしまうヘルだった。 ……そして。 雑誌の山を整理して、見つけてしまったのだった。 まあその。お約束の。 「ちょっとッ。何このエロ本!?」 「おっとぉ、そいつは俺のシークレットだぜ」 カーサーの秘蔵の書に登場する女性陣は、どれも、豊満な肢体の持ち主だった。 「……ふん」 思わず不満の意を表明するヘルの肩を、カーサーがぽんと叩く。 「胸が残念なのは発展途上ってだけだから気にするな! ひとは成長するものさ」 「何よそれーーーー!!!」 *:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*: ビーフシチューはとても良い仕上がりだった。今まで作ってきた料理の中で一番かも知れない。 少し――ほんの少し、実父に見せたらどんな顔をするだろうと思ってしまい、そう思った自分が歯がゆかった。 いただきます、と、きっちり手を合わせてから、カーサーはそれは美味しそうにシチューを平らげていく。 食べながら語るのは、教師としてのさまざまなエピソードや、彼の姉のこと。絶妙のトーンで展開する面白おかしいあれこれに笑いころげていると、少しずつ心がほどけていった。 そして、ヘルも話す。 家族のことを。 実父と養父と実母。この、錯綜した関係を。 今度産まれてくる、妹か弟のことを。 「きょうだいができるのは嬉しいの……。でも」 「大好きなパパとママをとられちゃいそうで怖いか?」 「……わからない」 「まあなんだ、そろそろ、許してやるんだな」 何ということでもないように、カーサーはジャガイモを頬張る。 「……誰を? あの男を? そんなこと……」 「そうじゃない。ヘル自身をだよ」 「――私を?」 「誰かを許すなんて、本当はできないのかもしれない。それでも、自分を許すことはできるだろう?」 実父に、憎悪と慕情を同時に抱く自分を。 養父と母の間に産まれ、その愛を一身に集めるであろう無垢な幼子に――何の罪もないきょうだいが生誕することに、こうして傷ついている、自分自身を。 「あんたって……」 「ん?」 「なんでもない」 *:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*: 「ほれ、クリスマスプレゼント」 帰り際、ヘルは無造作にリボンつきの小箱を突き出された。 中には――青い石のスターピアス。 (いつの間に……) 目を見張り、笑みこぼれ――、 ヘルもまたプレゼントを渡す。 画廊街を走り抜けたとき、ふと思いついて一時停止してもらい、買っておいたのだ。 「はいこれ」 「おっ、何かな?」 「もっのすごいエロ本。マニアにはたまらない逸品よ」 「ひゅう、マジで!?」 「大興奮よ。鼻血必至。感謝してね」 わくわくしながらカーサーは包みを紐解く。 出てきたのは画集だった。 【アトリエ号外No.23 〜露出度低めな細身美少女大特集〜】 もちろんヘル自身の肖像画も載っている。カーサーは唖然とした。 「……? 容姿が絶品なお嬢さんばかりだが、なぜ露出度低めを特集するんだ。読者のニーズってもんを考えろ。号外編集者でてこーい!」 「着エロってやつよ。イイ男はこれがわからなきゃ」 言いおいて、ヘルは軽やかにスカートをひるがえした。 雪が降りしきる、この夜。 ささやかな感情が、誕生する。
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