「ヴォロスの果てにある壮大な草の海へ、音楽を糧に咲く花を観に行かないか」 神楽・プリギエーラはそう言って地図を広げた。 神楽の指差すそれは、山と森丘と草原が描かれたひどくシンプルなものだ。 ウィリディス=マレ地方、と片隅に書かれていることから判るように、ヴォロス全土を書き記した地図ではないらしく――あの広大な竜刻の大地をすべて描ききれる地図がどれほどの規模になるのか、想像もつかないが――、図面は草原をいっぱいに描いたところで途切れている。「もっとも、それが本当の果てなのかどうかは知らん。何せヴォロスは広いからな、この草原の向こう側に何もないかどうかなんて、誰にも判らないわけだ」 そこで言葉を切り、肩を竦める。「とはいえ、その辺りが人の踏み込むことの出来る地域の端に位置することに変わりはない。ウィリディス=マレは、広大な森とどこまでも続く鮮やかな草の海、そして美しい花が楽しめる、鮮烈にして優美なる悠久の地だ」 神楽が言うには、そのウィリディス=マレ地方を調査して来て欲しい、と知り合いの世界司書に頼まれたのだそうだ。「出発点は山の麓にある街になる。この辺りは珍しい薬草や香料、有用な効能を持った虫などがとれるというので、麓町には各地からのキャラバンが数多く滞在している」 そもそもヴォロスには、かなりの辺境を除き、ヒトの生活圏内には大抵キャラバンの往来がある。 各地の品がキャラバンによって運ばれ、手広く商われるわけだが、このキャラバンが利用する《キャラバンの路》によって、広大なヴォロスは結ばれているといっても過言ではない。「ヴォロスの人々は、何らかの事情があって地域間を移動する時に、このキャラバンを利用するんだ。よほどの手練れでもなければ、ひとり旅には常に危険が付きまとうからな」 凶暴な野生動物、モンスター、盗賊。 夜の冷たさ、災害、自然の厳しさ、そんなものが旅人の行く手を阻むのだ。 それゆえ、ヴォロスの旅人は、キャラバンに身を寄せ、労働力や金銭などを提供することで、安全に目的地に着くという方法を取るのだそうだ。「キャラバンの方でも、護衛や労働力、それに金銭はどれもありがたいようだから、まあ、持ちつ持たれつといったところだろう。ウィリディス=マレも、美しい地ではあるが、完璧に穏やかな、安全な場所かというとそうでもないようだから」 今のところ、強大なモンスターの報告はないが、危険な獣や小規模なモンスターが皆無と言うわけでもなく、よって、この地を旅するキャラバンには、大々的に同行者を募っているものも少なくないという。「要するに、そのうちの一隊に間借りして、あちこち観てまわろうというわけだ」 神楽は、キャラバンの当たりもつけているらしい。「【最果ての流転 アルカトゥーナ】。そういう名前の一団だ。貴重で有用な薬草と香辛料とを扱う、三十人ほどで構成されたキャラバンだが、メンバーのほとんどは同じ氏族で、なんというか……まあ、アットホームな集団だ。皆、親切だし彼らの出してくれる酒も飯も美味い。以前、ロストナンバーの何人かはこのキャラバンとともに砕ける月や永遠に芽吹く砂海を観に行った。今回は、その縁が元で向こうから声をかけてくれたんだ」 そのキャラバンとともに、山をふたつ超えて森丘を行き、草原を十日ほど旅をして、ウィリディス=マレ地方の最奥部、《喜びに花ひらく緑海》ヴィヴィティエーラと呼ばれる場所まで行くのだ、と説明してから、ロストナンバーたちの表情に気づいたのか神楽は少し笑った。「ああ、アルカトゥーナたちのことか? 彼らは何千年も前から世界中を行き来し続ける巡礼の一族なのだそうだ。商いはその過程で身につけたものなのだろうな。世界各地の秘境や神域、聖域を訪ねて回ることが彼らの生きる意味で、意義で、喜びなのだと聞いた」 彼らは商いも巧みだし、旅慣れてもいるが、荒事の得意な人々ではなく、扱う商品がどれも高価なのもあって、大掛かりな移動の際にはいつも腕の立つ旅人を招き入れるのだそうだ。「まあ、戦闘が不得意でも、道中の家事や諸々の採取を手伝ってくれてもいい。知り合いの世界司書、贖ノ森というんだが、そいつが言うには獰猛な獣やモンスターが現れるかもしれないというのは導きの書にも出ているらしいから注意は必要だろう。何、いざとなれば私の影竜が何とかする、要するに興味のあるものが来てくれればいい」 そこで誰かが、冒頭の言葉を思い出し、音楽を糧に咲くとはどういうことか、と尋ねると、「ああ、それがヴィヴィティエーラの見せる不思議なんだ。アルカトゥーナの人々も、それを観るついでに諸々の資源を集めに行くようなものなんだとか」 そこだけで見られる不思議な現象なのだ、という答えが返った。「原理は判らない。魔法の、竜刻の産物なのかどうかもはっきりはしていない。ただ、《喜びに花ひらく緑海》ヴィヴィティエーラは、十年に一度、幻のように、どこまでも続く花園を出現させる」 青々と、どこまでも続く無限のごとき緑海。 陽光に緑がきらめき、風と鳥が遊び、獣たちが走る広大なそこに、一夜にしてあらわれる花々の園。そこには、やわらかな緑銀の葉と茎を持つ、シエラリジェルという名の植物が一面に揺れている。 しかし、花はまだ蕾のままなのだそうだ。 そこに音楽を――音や歌や旋律を聴かせると、シエラリジェルは、音楽と、音楽を紡いだ者の心を反映して花ひらくのだという。 それは涙せずにはいられないほど鮮やかで、美しく、胸に迫るのだという。 ヴィヴィティエーラは、それを永遠に繰り返す幻想の地なのだ。「必要なら、私が演奏してもいい。とっておきの曲を披露しよう」 そして、ちょうど今が、シエラリジェル開花の周期に当たるのだ、と付け加え、「かの開花に居合わせたものは、己が内の喜び、幸いをいや増すことが出来るとも聴く。自分が幸いであることの喜びを、再確認するのも悪くない」 神楽は、その奇跡を観に行かないか、と、チケットを取り出しながら、再度ロストナンバーたちを誘ったのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>相沢 優(ctcn6216)氏家 ミチル(cdte4998)オペラ=E・レアード(cdup5616)エレニア・アンデルセン(chmr3870)ほのか(cetr4711)ニワトコ(cauv4259)=========
1.青空の下から 麓町は、にぎやかに活き活きと旅人たちを包み込む。 空は快晴、清々しいまでの青だ。 「やあ、君たちが今回の同行者か。話は神楽から聴いている、よろしく頼むよ」 笑顔で迎えたのは、灰色の髪に青紫の目の、四十代前半から半ばと思われる背の高い男だった。無駄な肉をすべて削ぎ落とした鋭い風貌をしているが、笑うと思いのほか愛嬌があり、その笑顔からは愛情深さが滲む。 「僕はロタ、巡礼のアルカトゥーナ氏族を率いる百二十五代目の族長だ。どうか気楽に、寛いでいってくれ。家族のように思ってくれても構わない」 彼はそう言って、総勢で三十二名のキャラバン隊員をひとりずつ紹介した。 族長のロタを初め、彼の妻のルネ、息子のリンゼ、その妻のカノン、その両親、その兄弟夫妻、その更に血縁……と、ざっと聞いただけでも、彼らがどこかで血のつながりを持っていることが判る。 子どもがいないのは、アルカトゥーナ氏族の人々が巡礼の旅に加われるのは成人してから、十八歳以上だからだという。 ひと通りの自己紹介が終わると、今度は旅人たちがめいめいに名乗り、挨拶を交わしてすぐに出発となった。 十数頭の馬や羊、彼らの曳く数台の幌馬車とともに門を出て、少し行けばすぐに山の入り口だ。 山といってもそれほど険しいものではなく、何百年何千年も昔の先達が踏み固めてつくった山道は、馬車が通るのにも充分な広さがある。油断は禁物だが、常に緊張を強いられる旅にはならないようだ。 「どんな光景が待ってるんだろう……楽しみだな」 動きやすい出で立ちで、頑丈なトレッキング・シューズの具合を確かめるように地面を踏みしめながら、相沢 優がなだらかな山道を見上げる。 「そうだね、ぼくはみんなで行けるのが、すごく嬉しいよ。わくわくする」 ニワトコはにこにこと楽しそうだ。 普段とあまり変わりのない格好だが、そもそも樹木である彼にとって土や木々は親しい隣人であり友人だ。山の、栄養豊富な土の感触が心地よいらしく、いつも通り裸足で歩いている。 「そうね……わくわく、とは、こういうことなのね……」 ほのかは、静かに、おっとりと眼を細め、 「故郷では、旅らしい旅をしたことなどなかったから……わたしも、とても楽しみ」 市女笠を白い指先で押し上げて空を見上げた。 「ほのかさん、その旅装束、お手製ですか?」 「ええ、優さん。異境に思いを馳せつつつくってみたの……」 「ほのかさんって本当に器用なんですね……! うん、とても似合ってると思います」 「そうかしら……ありがとう」 優が感嘆する通り、今日のほのかは、先述の市女笠のほか、いつもの白いそれではなく若草色の小袖に細帯を締め、布の手甲と脚半で動きやすさを確保して、足元には草鞋、そして旅のおともに杖を携えていた。長く美しい、輝くような髪は後ろでひとまとめにしてあって、それがほのかの凛としたたたずまいによく似合っているのだ。 「『故郷では、仕事柄旅をすることが多かったからね、よくキャラバンといっしょにあちこち行ったものだよ。だから、懐かしくてねぇ』」 パペットを通し、少年の声で会話しつつ、エレニア・アンデルセンはどこか楽しげだ。 人を魅了する、美しく力ある言葉を持つ伝言師は、自らの声と言葉で語ると他者を縛りつけてしまいかねないため、彼女はこうやって、パペットのエレクを通じて自らの思いを発するのである。 「『こうやって、旅に同行させてもらえて嬉しいよ。故郷じゃ、街から街へ移動するときなんかは、声真似やパペット芸で路銀を稼いだものだけど……』」 エレニアの、やわらかい青の眼がぐるりと一行を見渡す。 「『今回は、みんなの身の回りのお世話なんか、できたらいいな。そしたら、みんなの役に立てて、みんなと仲良くなれるものね』……です」 最後だけ、ごくごく小さな、自分の声で付け加えると、族長の妻ルネが豪快に笑い、親愛の情をこめてエレニアの背を叩いた。 「頼りにしてるわ。でも、エレニアも、私たちを頼っていいんだからね?」 「『うん』……はい」 エレニアは、はにかんだ笑みとともに頷く。 「この豊かさは、いったいどこからくるのか……」 オペラ=E・レアードは、壮大にして雄大なヴォロスの光景に見入り、魅入られながら、ゆったりとした調子で歩を進めていた。 「秘境と呼ばれる荘厳な地で、神秘的な光景を目にすることが許されるというのなら、それは本当に喜ばしいことに違いない」 どこか中性的な、男装の麗人とも取れる出で立ちのオペラだが、本性は神の歓びを謳う巨大なパイプオルガンである。いつも通りのテイルコート姿であっても、旅に支障はない。 「ホントっス! どんな花が咲くのか、今から楽しみで仕方ないっス! ごはんも交流も楽しみだし……不肖氏家ミチル、粉骨砕身の覚悟で働くッスよ!」 外見に似合わぬ、豊かで人を惹きつける声が印象的な少女、氏家ミチルがガッツポーズを取る。丈夫な長袖上下と軍手、帽子と運動靴という出で立ちの彼女は、黙っていれば活発そうな、表情の豊かさが愛くるしい美少女である。……黙っていれば。 「あっ、俺も! オペラさんミチルさん、頑張りましょうね!」 前方を歩く優が力こぶをつくるジェスチャーをしてから手を振った。 優とオペラ、ミチルは、以前世界樹旅団を相手に執り行われた運動会の川下りにおける『ロストレイル固め』仲間である。オペラにとっては苦い思い出のひとつだが、優とミチルとともに旅が出来ることそのものは喜びだ。 「……そうだな。私も旅に貢献できるよう努めねば」 生真面目に頷く彼女の頭上を、小さな金の鈴を震わせたような、可憐で繊細な声で囀りながら、空と同じかそれ以上に青い翼を持つ鳥が飛んでいく。 「わあ、綺麗な鳥さんッスね! ヴォロスって、いろいろお世話になったッスけど、ほんと豊かな世界で、毎度びっくりさせられるッス」 ミチルは、急な落石や襲撃に備えて、年配のアルカトゥーナたちを乗せた幌馬車付近を歩いている。 「リドさんユカさん、何かあったらいつでも声をかけてほしいッス! 先生ほどうまくは出来ないかもそれないッスけど、頑張るッスから!」 彼女の呼びかけに、温厚な顔立ちの老夫婦が穏やかに笑って頷いた。ふたりの、ミチルを見る眼は、可愛くて仕方ない孫へ向けるそれだ。 リドとユカの夫婦は、ミチルが『可憐な姫』と呼んで追い回す変態先生が、以前このキャラバンの旅に参加した際、とても世話になったとかで、その縁もあって彼女にとても親切にしてくれる。 「……信頼を裏切らないよう、精いっぱい働くッス」 決意めいた独白。 それを聴きつけて、ロタがかすかに笑った。 「そんなに力を入れなくても構わない。旅は助け合いで、人と人の触れ合いは喜びだ。誰もが誰かの世話になって生きているのなら、誰もがお互いの失敗を許し合える、そういうものじゃないかな」 肩の力を抜いて楽しめばいいのだという族長の言葉に、ミチルも笑う。 「そうッスね。旅は道連れ世は情け、っていう、いい言葉もあるくらいッス。どーんと構えて楽しむッス」 「まったくだ。我々アルカトゥーナが何千年も旅を続けているのだって、その真理を味わい尽くしたいからにほかならない」 どこかで、鹿が高い声で鳴いている。 自然は厳しくも自由だ。 その、自由で明るい世界を、青空とあおい木々に見守られながら、一行は進んで行く。 2.森は豊かに謳い奏で 穏やかに、旅の日々は過ぎている。 キャラバンの人々とも、すぐに打ち解けて親しくなった。 自然に触れ、緑と接する旅は楽しい。 「アルカトゥーナの、キャラバンの人たちって、ずっと旅をして生きているんだよね?」 ニリンソウの、きれいな葉を摘み取りながらニワトコは問うた。 ルネは、小さな清流の傍らに生える、ワサビの葉と花茎を採取していたが、その手を止めて顔を上げ、頷いた。 「旅に、終わりや果てってあるのかな? ぼくも、故郷から遠く離れて、歩けるところまで歩いて行こうって思っているんだけど、時々、その先には何があるのかなって考えちゃうんだ」 「そうね、終わらせたいと思えば、いつかは終わるのかもね。ニワトコ、あなたはどこに行きたいの?」 問われて、ニワトコは考える。 故郷を喪って、ひとりだけ異界へと流れ着いた。 心に傷を残したまま、今日も歩き続けている。 どんなに虚しく無力に思えたとしても、すべての命には意味があるのだと、お前の足は広い世界を見るためにあるのだと、教えられたから。ならば自分の命は、たくさんのものごとを見聞きするためにあるのだろうと、そこに意味を見出して。 歩いて歩いて、辿り着いた先に何があるのか、答えを求めながら、ニワトコは今日も明日も旅を続けるのだ、きっと。 ニワトコは、朴訥に首を傾げた。 「どこまでも。行けるところまで行って、目の前に広がるすべての景色を記憶に留めたい。いろんなものを見て、聴いて、知らなかったことをたくさん知りたいんだ」 「なら、終わらないんじゃないかな。私たちアルカトゥーナは、心が立ち止まったと感じたら、そこを終焉の地に決めるの。旅の輪を離れ、最期の呼吸を埋める場所を定めるんだよ。それまでは、足腰が砕けたって前へ進み続ける。……違うな、進みたいって思うんだ」 「……ぼくも、そうだ。うん、そうだね。ぼくが、どこまで行きたいって思うか、なんだろうな」 そして、今、ニワトコの心は、前へ進みたいと囁き続けている。 答えを得られる日は遠くとも、旅を続けるうちに、何の変哲もない道の真ん中で、あるとき唐突に悟るのかもしれない。 その瞬間はきっと、とてつもなく美しく光って見えるに違いない。 「あっ、ルネさん、あそこにあるの、ネマガリタケじゃないかな」 「本当だ。これは、みんな喜ぶね……今日は、久しぶりにお米を炊こうか」 斜めに突き出た笹のようなものを、ふたりがかりで掘り起こし、採集する。 「大漁だね。たくさん食べられて、みんな嬉しいかな」 「そうね、ニワトコに感謝すると思うよ」 ニワトコはにこにこ笑った。 彼には、みんなが感じているような『おいしい』は、本当を言うとよく判らないけれど、みんなの『おいしい』顔を見ていると、自分も楽しい、嬉しい気持ちになる。だから、『おいしい』ものが、ニワトコは好きだ。 「おいしいものがたくさんあるから、山も森も、すてきだね。ぼく、もっとたくさん、いろんなものを集めるよ」 独特の快香が食欲をそそる山ウド、ほろ苦さがくせになるクサソテツ、山菜らしい風味が楽しいアザミ、ぬめりと歯触りを楽しむオオバギボウシなど、鮮やかな緑色の、命の芽吹きを丁寧に採集する。 「ルネさん、かごがいっぱいになってきちゃったし、ぼくたちも一度、戻ろうか」 「そうね、それに、下ごしらえもしないとね」 「下ごしらえか……それって、どんなことをするの?」 「そうだね、じゃあ、手伝ってくれる?」 「うん、もちろん!」 ニワトコはにこにこ笑った。 自分の知らないことを知り、経験のないことをするのは楽しい。このわくわくが、自分の旅を支えているのかもしれない、とも思う。 親子のように肩を並べ、大きなかごを抱えてベースキャンプへと戻る。 * * * エレニアは、ほのかとミチルの三人で採集作業に精を出していた。 この辺りには、山菜や薬草のほか、木の実が豊富に実っていて、目にも美しい。ヴォロス固有種と思しき変わった色合いのもののほか、壱番世界基準のものとは旬が違うのか、採集時期が別のはずのものまでが大量に見られる。 「モミジイチゴ、エビガライチゴ、クサイチゴ、モミジイチゴ、ベニバナイチゴ……ウワミズザクラにヤマモモまで。嬉しい贈りものね……」 ほのかが、輝くように瑞々しい、高貴ですらある芳香を持つ果実たちを丁寧に摘み取り、かごに入れていく。エレニアもまた、果実を潰してしまわないよう注意しながらひとつひとつ摘み取っていった。 「『鳥や森の動物たちが食べるかもしれないから、少しずつ分けてもらうようにしなきゃ、だねぇ?』」 「そうね、わたしたちは通りすがりにすぎないのだもの、ここで生きるものたちの糧を根こそぎ奪うようなことがあってはいけないわ」 森の実り、恵みは誰のものでもない。 人間は、誰のものでもないから自分たちが独り占めしてもいいのだと勘違いしがちだが、実際にはその逆なのだ。自然という大いなる存在の持ち物であるからこそ、その自然にはぐくまれたもの同士、互いに気遣って分け合わねばならない。 「『恵みと実りに感謝を。同じ大地に生きるきょうだいたちに気遣いを。……だね』」 と、そこへ、 「ほのかさん、菜の花あったッスよ! 正確には菜の花っぽい花なんスけど、それほど大きな違いはないと思うッス!」 あおあおとした緑に、目にもまぶしいほどの黄色のつぼみをつけた花を手に、ミチルが意気揚々と走ってくる。朗らかで元気いっぱいのミチルが持つと、これほど様になる花もない、とエレニアは思った。 「あら……ありがとう、ミチルさん。嬉しいわ」 「『わあ、見ているだけで元気になる黄色だね! これを、どうするの?』」 エレニアが問うと、ほのかは菜の花を受け取りながら微笑んだ。 「これも、食べられるのよ」 「『そうなんだ! どんな味がするんだろう……』」 「そうッスね、ほんと春の味ッスよ。春のエネルギーを分けてもらう、って感じッスかね?」 「『へええ……ごはんどきが楽しみだなぁ』」 果実と菜の花、セリやミツバやクレソンに酷似した山菜を引き続き採取しながらベースキャンプへ戻る道すがら、幅二メートルほどの小川に行き当たった。見やれば、青っぽい背の、スマートな魚がたくさん、優美に泳いでいる。 「……魚があると、食事が豪華になるわね」 「そうッスね。ロタさんがウサギと山鳥を仕留めてきてたッスけど、魚があったらまた別のおいしいものができるッスよね」 と、いうことで、野獣のごとき動体視力と運動神経でもって、ミチルが魚釣りではなく魚獲りを始める。 その巧みさたるや鮭を獲る熊も真っ青なレベルで、彼女の手がサッと翻るたび、ばしゃん、という小気味いい音が響き、次の瞬間には、イワナやアマゴに似たきれいな魚が、草の上でびちびちと跳ねているのだった。 さらに、ほのかが幽体離脱して魚に憑依し、次々と岸へ上がらせるという離れ業をやってのけると、収穫物はとても賑やかになった。 「これだけあればみんなでおなかいっぱい食べられるッスね! 自分、みなさんの料理がすごく楽しみッス!」 時を同じくしてミチルのおなかが鳴った。 「気が早くて申し訳ないッス」 デヘヘと笑うミチルに、ほのぼのとした笑みが浮かぶ。 大量の収穫物を抱えて戻るさなか、ベースキャンプまであと少し、という位置まで近づいたところで、ばさり、と大きな羽音がして、風が巻き起こる。見れば、腕に赤茶色の樹皮を抱えたオペラが地上へ舞い降りるところだった。 「オペラさん。何を採って来たんスか?」 「肉桂だ、シナモンともいう。これは、身体を温める効能があって重宝されるらしいのだが、この辺りでは高い位置にしか生育していなくて、私がその役目を請け負った」 「へえ、ホントっス、いい匂いがする!」 「その他、上のほうから周囲を伺ってきたが、怪しい影はないようだ」 オペラは、採集のほか、偵察までこなしてきたようだ。 「そうッスね、自分の感覚にも引っかかってこないッス。でも、ここから先は平原ッスから、油断は禁物ッスね」 「ああ、それは私も思う。神楽が影竜を出して警戒に当たらせてくれているし、私も何かあればすぐに動くことは可能だ。有事の際は、ミチルにも動いてもらうことになると思う」 「承知の上ッス。存分に働かせていただくッス」 「『僕も、《声》での攻撃が出来るから、何かあったら働くよ!』」 美味なるごはんへの期待をふくらませつつ、一同、ベースキャンプへと戻る。 3.おいしい湯気 ベースキャンプの厨房となった幌馬車後方では、食欲を刺激する匂いが充満していた。 「よし、どっちもいい出来だ」 優は、蒸し野菜と、山鳥の香草焼きを仕上げてご満悦だ。 ふわりと立ちのぼる、独特の、食欲を増進させる香りに、ほのかが調理の手を止めて眼を細めた。 「……いい匂いね。ハーブというの、私の故郷ではなかなか見かけなかったけれど……」 「きみの故郷で言うなら、生姜や山椒辺りがハーブの分類に入るだろうな」 厨房スペースにいるのに、なぜか料理にと持ち込まれたワインをちびちび飲んでいるだけ、という神楽が余計な知識を披露し、 「神楽さん、手伝いに来たんじゃなかったんですか?」 アルカトゥーナの料理番、イオカに苦笑されている。 「私が手伝って失敗作を量産するよりは、腕に覚えのある人たちにつくってもらったほうがいいに決まっている」 料理番の青年は応えず、肩をすくめただけだったが、 「……ほのかさん、それは?」 ほのかが手にした薄紅色の物体に首を傾げた。 「これは、桜の塩漬けよ。今回は花の旅だというから、それにちなんで、以前観桜の宴に加わったとき、集めてつくっておいたものを持って来たの。とてもいい香りがするのよ」 水に持参した昆布を入れ、ほんの少し沸騰させてだしをつくる。 酒を加えて沸騰させただしに川魚と桜の塩漬けを加え、ひと煮立ちさせる。その煮汁で菜の花をさっと温め、煮えた川魚に添えて上から煮汁をかければ、川魚の桜蒸しの出来上がりである。 「いい匂い。すごく、上品な香りですね……これは、川魚と桜の塩漬けのおかげ、かな」 胸いっぱいに香りを吸い込む優へ、ほのかは頷いてみせる。 「お好みで酢醤油をかけて食べてもらおうと思うの」 それからほのかは、次の料理に取りかかった。 「珍しいですね、ほのかさんが洋食寄りだなんて」 「ふふ、そうかもしれないわね。でも、せっかくたくさんの香草があるのだから、試してみたくて。この、オリーブオイルというものの風味にも興味があるの」 下ごしらえをした魚の腹に、刻んだローズマリー、フェンネル、ディル、タイムを詰める。表面に片栗粉をまぶし、フライパンにオリーブオイルを引き、みじん切りにしたにんにくを入れて熱したところへ、魚を入れてこんがり焼きあげる。 これまた、食欲をそそるいい匂いが周囲に漂った。 オペラは、それらを後目に、イオカのほか、ルネとカノンが手際よく料理を仕上げていくのを感心しつつ見ていた。もちろん、ただ見ているわけではない。料理という行為には慣れていないため指示を仰ぎつつではあるが、しっかり手伝っている。 「普段、アルカトゥーナの人々はこういうものを食べているのだろうか?」 ヒトの食べるものには興味がある。 そこには、営みと文化があるからだ。 「実を言うと、これしか食べないとか、こればかり食べるというものはないんだよ、我々には」 ルネは、ニワトコが見つけたネマガリタケなる山菜の皮をむき、それを再び皮に包んで焚火に放り込んでいる。川魚の煮汁とともに炊いた米に混ぜて食すのだという。 山菜はさっとゆでて擦った胡麻と醤(ひしお)で味付けし、おひたしに。山ウドは皮をむき短冊切りにして柑橘の汁と醤でシンプルな味付けがされた。 しかし、聴けば、別の地域では小麦や雑穀の粉でパンを焼くし、別の地域へ行けば雑穀で粥を炊き、また別の地域では麺を打つこともあるのだという。 「……ああ、そうか、常にあちこち旅しているから」 「そう。その地域で一番扱いやすくて馴染むものを食べる、それだけのことなんだ」 オペラはウサギ肉と野菜の汁を煮込みながら頷く。 それは、聖地巡礼に生きるアルカトゥーナの人々が培ってきた知恵であり、彼らの文化なのだ。 「偉大な先達によって、何千年もの時間をかけて整えられたのが、その場所その場所でいただける食事、ということなのだな」 「はは、そう言われると気恥ずかしくなるけれどね。それは結局、どんな場所でも快適に生きようとする人間のしたたかさなんだろうね」 話す間に米が炊き上がり、汁が温まり、焼かれた魚が皿に盛られていく。 季節のご馳走とでもいうべき、山菜の新芽のおひたしが大皿に盛りつけられ、米や汁が椀に入れられて配られる。 オペラが採って来た肉桂の皮は薬研で粉にされ、豆乳で淹れた甘いお茶の香りづけに使われている。熱い豆乳茶をふうふうやって胃を温め、食欲を増進させるのだそうだ。 全員でいただきますをして、命に感謝しながらオペラはおひたしに箸をつける。壱番世界でいうところの、西洋人の姿かたちをしているオペラだが、あるじが日本人なのもあって箸の扱いは得意なほうだ。 アルカトゥーナでは、地域によって使う食器が違うそうだが、今回の参加者に和文化圏の人々が多いのもあって――エレニアは世界中を旅しているおかげで異文化へのなじみが早く、すぐに箸の使いかたをマスターしていた――、箸での食事というものに不自由さはなかった。 わいわいと、賑やかな食事が始まると、ミチルはリドとユカのそばに移動した。ふたりと和やかに会話しながら、遠い位置にあるおかずを取り分けて、ふたりの前に置く。お礼を言われて照れくさそうに笑っている。 リドもユカもとても嬉しそうだ。反対に、リドがウサギ肉の焼き物をミチルの皿に入れてやり、ユカは豆乳茶のお代わりを注いだ。 優とほのかの腕前をアルカトゥーナの人々が褒めたたえ、エレニアはたくさん集めたキイチゴを潰してつくった濃厚なジュースを配り歩いては感謝され、ニワトコはそれらを見ながらにこにこ笑っている。 頑丈な木皿のうえに、山盛りになっていた料理の数々は、あっという間にその量を減らしていった。 「ヒトの幸いに、きらびやかな富も難しい言葉も必要ないと、そういうことなのですね……」 素に戻り、こっそりつぶやく。 主(しゅ)と呼ばれた、絶対的に偉大な存在が、人の世にあれと願ったのはこういうものなのかもしれない、とオペラは思った。 4.夜のひととき 優のトラベルギアが防鏡壁をつくりだし、賊の武器を弾き飛ばす。 衝撃に怯んだ賊の懐へ、猫科猛獣のしなやかさでするりと入り込むと、滑らかな動きで手首を捕らえひねって相手のバランスを崩し、体勢が崩れたところを狙って足を払い投げ飛ばす。 優が、素早くスマートに賊を制してゆく中、野獣や悪魔のごとき動きと破壊力でもって暴れ回り、賊を翻弄し恐怖させているのがミチルだ。見かけは可愛らしい美少女が、自分の二倍くらい体重のありそうな男を軽々と抱え上げ放り投げる様子に、賊は震えあがっていた。 あっという間に、襲撃者たちから戦力と戦意が失われていく。 とどめになったのも、ミチルの、見かけによらぬ大音声だった。 独特の音韻のある、魅力的な、とてつもなく力強い声が、 「背骨引っこ抜かれる前に帰れッ!」 猛獣の咆哮よろしく、月明かりに照らされた平原いっぱいに響き渡る。 彼女ならやりかねないと思ったのか、賊は飛び上がり、悲鳴を上げて逃げて行った。 「まったく……人さまのものを奪ってラクしようだなんて、太いやつらッス。命を観に行く旅だから、殺したり傷つけたりはしなかったッスけど、出来ることなら性根を叩き直してやりたいッス」 ぷんすこと憤るミチルの背後では、身を寄せ合っていたアルカトゥーナの人々が、ホッと息を吐いていた。 「ま、みんな無事だったんだし、いいんじゃないですかね」 ギアを収め、優は言う。 「そうッスね。物騒なことに腹を立てるより、きれいなものを見る期待感に胸をふくらませるほうが楽しいッスしね」 おりしも、今宵は満月の夜。 平原に降り注ぐ月光は、べっこうあめのようにとろりとやわらかく、どこか甘い。 「……あのお月さまを見ていると、妙におなかが空いてくるッス」 「あはは、なんか判るかも、それ。ほのかさんがキイチゴでつくってくれた寒天寄せがそろそろ食べごろだから、切ってもらう、とか?」 当のほのかは、持参した桜の塩漬けを湯に入れ、桜茶、桜湯とも呼ばれる飲み物をつくって皆に配っていた。 「優さんミチルさんもどうぞ。お疲れさま」 「ありがとうございます。わ、いい匂い」 「あー、水分と塩分が心地よく染み渡るッス……」 戦闘や緊張で失われた水分塩分を適度に補給する。 オペラとエレニアが、旅の間にイオカが焼いたベリーの素朴なケーキを切り分けて配り、ニワトコはギアのカンテラで周囲を照らしながら、にこにこと桜湯をすすっている。 安堵の、穏やかな空気が漂い、同時に何人かが欠伸をする。 無粋な襲撃者たちは、セオリーに則って深夜に訪れたので、それも当然かもしれない。 「興奮冷めやらぬと言ったところだが、ヴィヴィティエーラまであと一日ほどだ、身体は休めておくにこしたことはない」 神楽が“パラディーゾ”なる弦楽器を取り出し、弓を弦に当てる。 静かな音楽がゆったりと流れ出して、更に人々の眠りを誘った。 ひとり、またひとりと――その中には、むろん、ロストナンバーたちも入っている――、おやすみの挨拶とともにテントへともぐってゆく。 そんな中、優は、座をこっそりと抜け出してひと気のない場所へ向かった。 ベースキャンプの裏にある小山の、ちょうど影になる、小さなせせらぎのほとりだ。 「さて、そろそろ本番だぞ……」 つぶやき、脳裏に教わった歌詞を思い描くと、息を吸う。 「あーあー、マイクのテスト中。……うん、よし」 どこにマイクがと突っ込むものもいない中、 「Ti-irra,Hu-ura,A-ne.Ni-ara,Ka-nara……」 アルカトゥーナ氏族に昔から伝わるという、古い旧い伝承歌を唇に載せる。 うたを糧に花を咲かせる秘境の旅に際して、優は、ひとつの決意を抱いていた。 その、幸いをいや増してくれるという花を、自分の歌によって開かせよう、と。 しかしながら、優は音痴なのだ。時間をかけて練習した数曲はともかく、他は、人に聴かせられるレベルではない。おまけに、どんな歌をうたうかも迷っていた。 そこで、ヴォロスもしくはキャラバンに伝わるきれいな歌を教わって、練習しようと思い立ったのである。そして、その相手をしてくれたのが、族長の息子リンゼとその妻カノンだったのだ。 ふたりに根気強く教えてもらい、練習を聴いてもらい、アドバイスをもらったおかげで、優の歌はずいぶん上達していた。向上心ある彼は、まだ現状には満足せず、『本番』までこうして秘密の特訓を続けるつもりでいる。 「Yi-sui,O-shia-ra,U-rei-a.Fi-ri,O-ri,Ra-ra……」 独特の、どこか懐かしいような、やわらかく滑らかな、昔々に使われていた言葉の歌をゆったりと紡ぐ。それは、可愛いわが子に聴かせる子守唄だったのだそうだ。 このやさしい歌を紡ぐとき、花はいったいどんな顔を見せてくれるのだろうか。 その、神秘のときを心待ちにしながら、優はひとり、練習に励む。 5.咲き乱れ、咲き誇る 森を抜けた瞬間、目の前には光あふれる花園が広がった。 《喜びに花ひらく緑海》という名にふさわしく、そこはどこまでも続く植物の海だった。ヴィヴィティエーラを埋め尽くす、いまだ蕾のままのシエラリジェルは、何かとてつもないエネルギーを孕んで『そのとき』を待っている。 「すごい……」 優が息を呑み、 「なんて豊かな土なんだろう。ここには、いのちの力が満ちているね」 大地に触れたニワトコはおっとりと笑い、 「このすべてが、音楽によって咲くのね……」 そのさまを想像してほのかは目を細め、 「『太陽も空も大地も緑も、内側から光を放つように輝いているね』」 エレニアはまぶしげに笑い、 「なんと鮮やかな光景だろう。ここで奏でる音楽は、確かに天上のものとなるに違いない」 オペラは感嘆の息を吐き、 「……早く、花を見てみたいッス」 ミチルはそのときを夢見るように瞬いた。 それぞれ、自分の思う位置に陣取り、めいめいに歌を捧げる。 オペラがギアのベルを巨大化させると、それを合図に神楽が“パラディーゾ”に弦を当てる。ベルが、周囲に荘厳な音を鳴り響かせる。 「……私の足で、この美しい海を踏みつぶすのは畏れ多い」 オペラが本体には戻らぬままパイプオルガンの荘厳なメロディを響かせた。アルカトゥーナの人々も笛や弦楽器を取り出して構え、いつの間にか、くだんの子守唄を奏で始めている。 優はオーロラのように寄せては返す音のヴェールに酔いながら息を吸い、口を開いた。 『Ti-irra,Hu-ura,A-ne.Ni-ara,Ka-nara. (幸せであれ、いとしい子よ。お前が、いつも笑顔であるように) Yi-sui,O-shia-ra,U-rei-a. (掌の光、天の恵み、美しい贈りもの) Fi-ri,O-ri,Ra-ra. (稀なる望み、大いなる許し、温かい慈雨) Au-la,Lu-la,Li-ula. (今宵も喜びを抱いて、鶏鳴を待っている) Guen-siela,O-roura,O-roure,De-e-na. (苦しみは空の向こう、天のかなたへ(私が運んでしまおう)) Wou-tie,I-lla,Le-riri,Lu-rara…… (今は眠りなさい、あの美しい夜明けまで(私が、お前の眠りを護るから))』 美しい旋律に、何人もの声と言葉が重なり、響き合う。 その、一瞬あと。 ――それは劇的な訪れだった。 蕾が、淡い光を放ちながら開いてゆく。 人々はそれを、歌いながら見守った。 まるで、見えざる神の手に撫でられ促されたとでも言うように、花が一斉に咲き乱れていく。 「蝶? 鳥? それとも……光の帳?」 「絹の翼? レースの翅? それとも、貴石の羽毛?」 もしくはそれらすべてを内包したかのような。 花は、世の中の優しく美しいものを体現したかのように咲き誇った。大人の拳ほどもある花が、清冽な芳香をほとばしらせる。 ゆったりとたわむ花弁は翼や羽や翅のようでもあり、貴婦人のドレスのようでもある。極寒の地に舞う極光に金の階を投げかけたようでもある。 基調は、白絹に銀の縫い取り、金の刺繍。 そこに、黎明の薄紅や薄暮の紫、快晴の青、雨の薄緑、太陽の黄色、夕暮れの朱、夕闇の藍。そんな、自然がつくりあげたすべての美しい色を、少しずつ添えてシエラリジェルは咲いている。 ひとつとして同じ色ではなかった。 すべてが違う色でありながら、色彩が完全に調和した光景がそこにはあった。 「……すごいな」 優は、どうにかうたい上げられたことに安堵しつつ、息を呑んで開花を見守った。今まで、いろいろな場所を見てきたけれど、いまだかつてないと言える。 「ああ……咲いてくれたのか」 嬉しくなって、優は微笑む。 やわらかい花弁がかすかな風に揺れた。 ふと、たくさんの声に呼ばれたような気がして振り返る。 しかし、そこには誰もいない。ただ、花が揺れているだけだ。 「……うん、そうだな」 けれど優には判っていた。 あの呼び声の主たちが、己が喜びなのだと。 「俺は、幸せだよ」 小さく飛び跳ねるセクタンを撫で、優は笑った。 護りたい人たちがいる。壱番世界にも、0世界にも、他の世界にも、護りたい、幸せになってほしい人たちがたくさんいる。それは時に苦しみをもたらすけれど、それでも彼らといっしょにいたいと思えるから。 ニワトコは、自分が涙をこぼしていることにようやく気づいた。 貴婦人の舞のような優雅さでシエラリジェルが開いた時、無意識にこぼれたものであるらしい。 「……そうか、ぼくは、嬉しいんだ」 心の深いところがあたたかくなったような、そんな気持ちだ。 それは、花が、皆に見守られ、やさしい音楽の中、望まれて咲くことが出来たのを見たから。 ひとりぼっちはとても淋しい。 ひとりではない花たちに安堵するくらい、ひとりぼっちは淋しい。 「ぼくも、ひとりじゃない」 つぶやいてみて、胸をおさえる。 不思議と温かいような気がしたからだ。 ニワトコはひとりではない。それが、自分にとっての幸いだと思う。 「こんなふうに、たくさんの喜びや幸いを見つけてみたいな。――そのために、ぼくは歩き続けているのかもしれない」 それは探し求める真実にも似て、ニワトコの胸にスッと染み入った。 ほのかは、皆とは少し違う位置で開花を迎えていた。 彼女が歌ったのは、今様と呼ばれる声楽の一種だ。和讃や雅楽などの影響から興った様式の歌で、七五調四句のものが代表的である。 ほのかの歌で、花は仄かな紅に色づき、開いた。 美しいそれを万感の思いで見つめ、ふっと笑みを刷く。 「ふふ……ただの流行り歌と言えばそれまで、だけれど……」 以前、この歌で彼女を慰めてくれた人物がいたのだ。生者ではなく霊魂だったが、故郷での、誰かに気遣われるなどという経験は、後にも先にもあれだけだ。 「わたしは、ずっと……願っていたの」 ほのかは、花へと語りかける。 誰かに欲される存在になりたい、誰かの役に立ちたい、喜ばれたい、情けをかけられたい、と。そのどれも、故郷ではついぞ叶わなかったけれど、今では、ロストナンバーという新しい同胞が、彼女の願いを叶えてくれる。 ここにいていいと許される幸せ。 精魂込めてつくった食事を食べてもらえる幸せ。 誰かとともに花を愛でる幸せ。 「……そうね」 旅の仲間たちと目が合った。 「わたしは今、幸せよ……」 ほのかは、穏やかに微笑む。 エレニアの目の前で、一輪だけ、まだ開いていない花がある。 「私を……待ってくれてるの……?」 自分の声で、歌で、どんな花が咲くのか、切実に知りたいと思う。 けれど、エレニアの持つ本当の声は、人を魅了し縛りつけてしまうから、誰かを真似た声で歌うしかないかと思っていた。しかし、エレニアは今、皆から少し離れた位置にいる。 そして、彼女を待つように揺れる一輪のシエラリジェル。 「……うん」 エレニアは頷き、息を吸った。 少し、周囲に気を遣いながら、しかし、はっきりと、故郷の歌を花にうたう。 それは、誰もが聞き惚れただろうほどに美しく、同時にどこかせつなげでもあった。あまりにも魅力的であるがゆえに、誰にも聞かせることのできない声と歌、そのものがなしい矛盾を物語る。 残り一輪のシエラリジェルは、彼女の歌に歓喜するように、艶やかな赤紫の花を誇らしげに開かせた。 「ああ……」 エレニアは安堵の呼気を吐く。 胸が震える。 「きれい。なんて、きれい」 エレニアの声を糧に開いた花は、息を呑むほど美しい。 「……大丈夫。私、また、前を向いて歩いて行ける」 我が声を捧げた花の美しさが、エレニアに喜びをもたらす。 「私の歌はいかがでしたか、喜びの花よ」 オペラは、赤をまとって咲いた花に微笑みかける。 いまだベルは鳴り響き、神楽たちは音楽を奏で続けている。 躍動するエネルギーが、美しいものを目にした弾むような喜びが、ヴィヴィティエーラ全体に満ちているのが判る。 「私の幸い、か」 それを思うとき脳裏に浮かぶのは、花と同じ赤の色を持つあるじの姿だ。 怠惰で生活能力のない、しかし仕事に関しては真面目な彼のあとをついていく。放っておけば人間的な生活から遠ざかる彼の世話をたどたどしく焼く。そんな日常とともにあったことそのものが、オペラの喜びだ。 「……やはり、私は還りとうございます」 今もまた充実している、それは確かだ。 しかし、やはり、彼がいないと、物足りない。 「……いつか必ず、貴方のもとへ」 それは、静かだが力強い、彼女の決意であり確認だった。 ミチルは、零れ落ちていく涙を止めるすべを知らなかった。 皆で花を咲かせたことにも感動したが、開いた花の美しさは、ミチルの心を打ってやまない。 「命は、終わるッス……必ず。だけど……」 終焉はいずれ来る。 けれど、助け合い、響き合い、新たに芽吹き、続いてゆく。 その循環が美しく、いとおしい。 「大ばあちゃん」 命の循環を思うとき、記憶をよぎるのは曾祖母だ。 お節介が鬱陶しいときもあったけれど、エネルギッシュで愛嬌のある彼女が大好きだった。彼女は、ミチルが学校から帰る少し前に心不全で亡くなった。 もっと早ければ、ああしていれば、どうすれば。その後悔や自責は、今でもある。 けれど、花が、そうじゃないと教えてくれる。 花に、曾祖母の笑顔と笑い声が重なる。 「また会えたね――いや、違う、ずっとそばにいてくれたのか」 ミチルに流れる血と魂は、確かに彼女から連なるもの。 ならばそれは不朽不滅と同じなのだと、ミチルは静かに悟った。 薄絹を折り重ねるような音楽がやわらかく響いている。 花は燦然と輝いて旅人たちに微笑みかける。 幸いに胸を打たれながら、よろこびを謳うひとときはまだ、続いている。
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