それはロストナンバーになってまだ間もない頃の話だった。 夜毎に忍び寄る魔女の悪夢。夢で魔女にキスされた場所が石に変わり果てていく恐怖。何をしても夢に現れる魔女を止めることができなかった。 そして、とうとう魔女のキスを唇に受けて、メルヒオールの意識は闇へと固められた。 次に気がついた時、メルヒオールは異世界に居た。 そこで聞かされた奇想天外な話の数々。世界群、0番世界、ロストナンバー、チャイ=ブレ、ナレッジキューブ。すぐに理解できるはずもなく、しかし、生活するには先立つものがない。そうなれば、まずは依頼を受けるしかない。 覚醒して以来、眠ることがトラウマになってしまったメルヒオールは不眠により体力の落ちた体に鞭打ってロストレイルに乗車していた。 メルヒオールは壱番世界に依頼でやってきていた。幸い依頼は簡単に済ませることができ、帰りのロストレイルの発車時刻はまだまだ先。特にすることもなかったメルヒオールは訪れた町を散策してみることにしたのだった。 ちらほらと雪の降る日が沈んだ静かな町並みの中、メルヒオールは気の向くまま歩いていた。 寒さは気にならない。寒い夜でも手が悴んで本が読めなくなるのを防ぐためだけに開発した温熱の魔法のおかげである。 人影もまばらな雪の降る町並みの散策は、メルヒオールの好む静かで落ち着いた時間であったはずだった。 しかし、今、気が付けばメルヒオールは虫取り網を顔に被せられていた。 「やっと見つけたわ、サンタクロース!」 それが美冬と名乗る少女とメルヒオールの出会いだった。 美冬はとても可愛らしい少女であった。彼女自身の可愛らしさに加え、身に着けた服が彼女の可愛らしさをさらに引き立てている。 服装には興味がないメルヒオールでさえも、センスのある着こなしをしていると思えたほどであった。 しかし、いくら可愛いとはいえ大人の顔に虫取り網を被せて良い理由にはならない。とはいえ、子供の悪戯に本気で腹を立てるのは大人気ない。 心に渦巻く不満を押し込めながらメルヒオールは、どうにか笑顔らしきものを作ることに成功した。 それから、美冬と一緒に近くの公園にあったベンチに腰を掛けて話をすることになった。 メルヒオールは体が石になっていない左側に美冬を座らせていた。子供の好奇心から色々と聞かれることが面倒臭かったからである。 「先に言っておくが、俺はサンタなんとかじゃないぞ」 「え、そうなの?」 メルヒオールは美冬を見ないように顔を背けていた。魔女のせいで女性というだけで苦手意識を覚えてしまうようになっている。 こんな子供にまでと思わないでもないが、そう感じてしまうのだから仕方ない。 「そうなると、おじさんはへんたい?」 美冬の悪気のない言葉は、メルヒオールの心を大きく抉った。顔を背けながらメルヒオールはショックを抑えるように深呼吸を繰り返した。 「まず俺は変態じゃない。さらに、おじさんでもない。お兄さんだ」 どうにか気持ちを落ち着けたメルヒオールが絞り出すような声で唸った。 「ううん。お兄ちゃんは近所のたかしお兄ちゃんよ。だから、へんたいのおじさんはお兄ちゃんじゃないの」 美冬は再び悪意のない言葉で、メルヒオールの心をさらに深く抉った。 「も、もうおじさんでいい。せめて変態だけは止めれくれ」 がくりと頭を項垂れたメルヒオールの心が折れた瞬間だった。 「で、おまえは何してんだ。子供は早く家に帰れ。親が心配するぞ」 相変わらず美冬を見ようとはしないメルヒオールであったが、美冬は特に気にしている様子もなかった。 「ううん。美冬、パパもママもいないもん」 淡々とした言葉に思わずメルヒオールは、美冬へと顔を向けていた。 「パパはずーっとお出かけしているし、ママはぱーとのおしごとでまだ帰ってこないもん」 「そういう意味か。驚かせるなよ」 ようやく自分を見てくれたメルヒオールに気がついた美冬は、嬉しそうににこっと笑った。 それを見たメルヒオールは思わず反射的に顔を反らしていた。 「おじさん、どうかしたの?」 「どうかってなんだ?」 「ずっと変な方みてるよ」 「寝違えて首が痛いんだよ。気にするな」 苦しいメルヒオールの言い訳を、美冬は素直に信じたようだった。 「何にしても子供が出歩いて良い時間じゃない。早く帰れ」 「美冬、帰らない。まだサンタクロースを捕まえてないもん」 美冬が手に持っていた靴下を持ち上げてみせる。 「それを何に使うんだ?」 「サンタクロースをつかまえるえさなの!」 「どんな変質者だ!?」 堂々と胸を張って靴下を餌と言い張った美冬に、メルヒオールは素晴らしい速さでツッコミを入れていた。 「美冬、へんしつしゃとへんたいはおなじだってお兄ちゃんから聞いた。サンタクロースはへんたいじゃないよ。へんたいはおじさんだよ」 「だから、変態違う!」 思わず言葉が崩れかかったメルヒオールであった。 「美冬みたいにかわいい子に声をかけてくる知らないおじさんはへんたいだって、お兄ちゃんは言ってたよ?」 一概に間違いではない。確かに、それくらい警戒心を持っていた方が美冬のためにはなるだろう。 (見てくれが可愛らしいのは確かだしな) だがしかし、訂正するべきところは訂正しなければならないとメルヒオールは折れかけている心に気合いを入れた。 「俺は変態じゃないし、そもそも俺に声を掛けてきたのはおまえだろう」 あ、そっか、と美冬は納得してくれたようだった。 「随分と、そのお兄ちゃんとやらを信頼してるんだな」 「おにいちゃん、美冬がひとりの時によくあそんでくれるんだよ」 その時のことを思い出しているのか、美冬は嬉しそうだった。 「おうちに連れていってくれて、ケーキとかジュースとかくれるんだ」 しかし、嬉しそうに話している美冬の内容に、メルヒオールは違和感を覚えた。 「かわいいお洋服とかくれるし、お写真もとってくれるんだよ」 「ん?」 美冬の話す内容が、だんだんとおかしな方向へ転がり出している。 「おにいちゃんはしんしなんだって。このお洋服を選んでくれたのもおにいちゃんなんだよ」 「それはどこかおかしくないか?」 「おにいちゃんのママって、色んなお洋服もってるの。夏とか冬とか色んな服を作って着てるんだって。美冬にも色んな服作ってくれるんだよ」 「親公認ならいい、のか?」 美冬の言っていることにはおかしな点は見当たらないはずなのに、メルヒオールは何故か嫌な予感がしていた。 「おにいちゃん、美冬のこと見ながら、あと10年かなってよくいってる」 「それ、やばいだろ!?」 ここに来てようやくメルヒオールの危機感に火がついた。 「ひかるげんじけいかくっていう、男の壮大なロマンなんだって」 「とりあえず、内容は知らないというか知りたくもないが、そのお兄ちゃんのことは今日すぐにでもおまえの母親に話せ」 「ママとお兄ちゃん仲良しだよ?」 「外堀が埋まってる?!」 「お兄ちゃん、しょうらいゆうぼうなぶっけんだから、今のうちからおさえときなさいってママ言ってる」 「どっちもどっちかよ!?」 メルヒオールの叫びが雪の降る公園に空しく響く。 「じゃあ、あれだ父親はどうした?」 気を取り直したメルヒオールは、唯一残された父親に望みを託してみた。 「パパはずーっとお出かけしてる。とれじゃーはんたーのおしごとなんだって」 「出稼ぎか。どれくらい家を離れているんだ?」 美冬は両手を使って指折り数え出したが、やがて数えきれなくなったのか諦めて数えるのを止めていた。 「ずーっと」 「そうか」 「ママ、パパのことよくもんくいってるの。かいしょーなしとか、ごくつぶしとか、美冬はパパみたいな人とケッコンしちゃダメなんだって」 美冬は、自分の喋っていることの意味を正確には理解していないのだろう。しかし、まだ幼い少女が口にするには寂しい現実だった。 「でも、美冬しってる。ママはパパのことだいすきだって。ママ、いつもパパの好きなもの冷蔵庫にいれてるもん。パパといるときのママ、楽しそう」 美冬は持っていた靴下をぎゅっと握り締めていた。 「だから、サンタクロースを捕まえてすごい宝物をおねがいするの。それをうちに隠せば、パパはうちにいるもん。どこかに宝物を探しに行ったりしないもん」 メルヒオールは美冬の話を黙って聞いていたが、話している間に眠くなってきたのか、美冬は頻繁に目を擦りだした。 それもそのはずメルヒオールの側は、温熱の魔法により暖められている。 さらに、もう日が落ちて長い時間が経っている。美冬くらいの子供であればそろそろ寝てもおかしくない時間である。 「こんなとこで寝るな。寝るなら帰ってから寝ろ」 嫌々するように美冬は首を横に振った。 「まだサンタクロース捕まえてないもん」 しかし、眠気には勝てないのか、うつらうつらと美冬の頭は船をこぎ出している。 「早く帰れ。何なら俺が送ってやるから」 「美冬のおうちにきても、どうぼうするものないよ」 「違うわ!」 どうにかしてメルヒオールは、眠りつつある美冬から自宅の場所を聞き出した。 しかし、そうこうしている間に美冬は隣に座っていたメルヒオールに凭れかかり、すっかり夢の国の住人になってしまっていた。 「やれやれ。言わんこっちゃない」 しかし、口調とは裏腹にメルヒオールは、すやすやと気持ち良さそうに眠ってしまった美冬に親近感が湧いていた。 研究を始めると倒れるまで没頭してしまう自分と重なって見えてしまう。 幼い頃、実家では夢中で本を読んでいる間に眠ってしまった場合、気が付くと家族の誰かいつも自分に毛布を掛けてくれていた。 この少女には、そういう存在がいるのだろうか。 「あのお兄ちゃんは論外だな」 真っ先に浮かんでしまった顔も知らないお兄ちゃんを、メルヒオールは即座に候補から消していた。 そして、石になっていない左腕と念動力で美冬を背負うと、メルヒオールは落さないように気をつけながら歩き出した。 美冬の持っていた虫取り網は念動力で引き寄せた後、左手で掴んで持っている。 (傍から見たら若い父親だな) 何度か念動力で美冬の体の位置を動かしていると、ふと浮かんだ思考にメルヒオールは苦笑してしまった。 しばらく歩くと美冬から聞いていた場所に辿り着いた。集合住宅の2階の1部屋が美冬の家らしい。 聞き出しておいた部屋番号の扉を見つけるとメルヒオールは扉に手を掛けるが、鍵が掛っていた。 (まあ、当たり前だよな) そして、メルヒオールは美冬を支えるために手を戻すと、念動力を扉越しに広げた。すると、かちりと音を立てて扉の向こう側から鍵が開いた。 そのまま念動力で扉を開けて、メルヒオールは美冬の自宅へとお邪魔した。家の中はそれなりに散らかってはいるが、それは汚らしいというよりも人の生活を感じさせてくれた。 転がっていたクッションに美冬の頭を乗せるように寝かせると、メルヒオールは毛布の一枚でも掛けてあげようと思ったが他人の家の中を物色するのも気が引ける。 メルヒオールは、温熱の魔法を記したメモ用紙を一枚取り出すと口に咥えて左手で破いた。 冷えていた部屋の中が、ふわりと暖められる。 それを確認して家を出て行こうとした時に、メルヒオールはポケットに入っていたチョコを取り出して美冬の横に置こうとした。 その時、チョコと一緒に入れておいたナレッジキューブがポケットから落ちてしまった。 チョコを美冬の横に置いた後、メルヒオールはナレッジキューブを拾いポケットに仕舞おうとしたが。 (これぐらいなら構わないよな) なけなしのナレッジキューブを握り締めると、メルヒオールは七色に透けるガラス玉へと変質させた。 子供の頃、お祭りで両親に買ってもらった子供騙しのガラス玉。しかし、幼い自分にとって、それは立派な宝物だった。 メルヒオールはチョコの横にガラス玉をそっと置くと、美冬の家を出ていった。 どこか懐かしくくすぐったいような暖かい想いがメルヒオールの心に灯っていた。 美冬のおかげか、故郷の元気な生徒たちの顔が思い出される。 もしかしたら、今日は悪夢を見ないでゆっくり眠れるかもしれないな。 何の根拠もないが、メルヒオールは漠然とそんなことを思っていた。
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