その日、画廊街の片隅で、その映画館はいつも通りに開館時間を迎えた。 両開きの硝子戸に掛けていた『CLOSE』の札を『OPEN』へと裏返し、映画館に務める映写技師はふと、俯いていた顔を上げる。 煉瓦で造られた路の上、こちらを眺める四つの人影がある。 それは、この映画館において或る特定の日にだけ見られる光景だ。 ――だが。「……今日は、“シネマ・ヴェリテ”はやってないんだが」 集まった四人の客へ向け、男は困ったように笑ってみせた。 ◇「この映画館にまつわる、とある噂を聞いてのう」「ふむ」 ジョヴァンニ・コルレオーネの静けささえ窺わせる言葉を聞きながら、映写技師は穏やかに相槌を打つ。 四人は客の居ないロビーへと招き入れられ、待ち合いの椅子にそれぞれ腰掛ける。タリスの硝子玉のような青い瞳がせわしなく、好奇心に揺れて、壁に張られたポスターへと魅入っていた。「なんでも、シネマ・ヴェリテの六色とは違う、“幻の七色目のフィルム”があるとか」「大仰な話だ」 どこか確信の込められた物言いに、男は苦笑を返した。「この、名もなき映画館に、そんな浪漫があるように見えるかい?」「名もなき、ってのは」 メルヒオールが訝しげに目を細めて問う。「今じゃ“シネマ・ヴェリテ”と呼べば通じるだろう?」 かつてこの映画館は違う名を冠していた。 それが、特別営業の“シネマ・ヴェリテ”の名ばかりが独り歩きして、今では誰もかつての名を覚えてはいないのだと、映写技師は微笑みながら語った。「私としても、そちらの方が楽だからそれで済ませているんだが。時折昔の名は何だったかと、気になってしまうこともある」 開館当初から勤めているはずの映写技師さえも、忘れてしまった本当の名。想いを馳せるように目を細めて、男は話を本題へと戻した。「……そういえば、幻ではないが、七色目のフィルムになら心当たりがある」「みゃ?」 タリスの耳が、ぴこんと跳ね上がる。「以前私の手違いで、今までの色とは違うフィルムが一本出来上がってしまったんだ。……だいぶ昔のことだから、何処にあるか、よく覚えていないが」「そのフィルムの効能は?」「それは私にもわからない。一本しかない上に、まだ映像が刻まれていないから。……わざわざ来てくれたんだ、探してみるかい?」「探す!」 肩を持ち上げ、いざなうように手を広げた男へ、タリスが勢いよく手を上げて答えた。元より彼らはそのために来たのだ、断る理由もない。「シネマ・ヴェリテはやってくれないの?」 何処か残念そうな口ぶりで、バナーが問う。穏やかに、映写技師が応える。「今日はその日ではない、というのもあるが……ここには映写室がひとつしかないんだ。だから、シネマ・ヴェリテは原則一日一人、一日一本とさせてもらってる」 “真実の映画”はその性質上、自然と観客の内面に踏み込むことになる。他人に見せる事を嫌うものも多いだろうと、配慮しているようだ。「もし、他の誰かに見られても構わないというのであれば四人で上映する事も可能だが……まずは幻のフィルム探しだな。付いてきてくれ」 それとだけ言うと、ふらりと立ち上がり、男は映画館の奥へと彼らをいざなった。 ◇ ぱちん、と軽い音を立て、映画館奥の倉庫に光が燈る。「……ああ」 その直後、電灯を燈した張本人が何やら茫然とした声を上げた。倉庫の狭い入口に立ち尽くし、四人の視界を塞いで、片手で頭を抱える。「忘れていた」「何を?」 バナーの問いに振り返り、映写技師は入口を塞いでいた身体をずらす事で応える。 釣られて覗き込んだ四人の視界に飛び込んできたのは、惨状、としか呼びようのない光景。 歩く隙間もないほどにフィルム缶とフィルムとが散らばり、上映目録やパンフレットも整理などされず山と積まれている。壁際に並ぶ棚は変にすかすかだったりかと思えばビデオテープが敷き詰められていたりとこちらもまとまりがない。 まるで、空き巣に入られた後のような荒らされぶりだ。 困ったように眉を下げて、男は肩を竦める。「……こんな状態だったことを、だ」 倉庫内の整理は、見習いの女性技師に任せっきりなのだという。それがここ数日彼女は休暇を取っており、男一人では何から手を付けていいのかさえ分からない状態らしい。「かよわき女性に力仕事を任せるとは」「仕方ない。何しろ、私が手伝おうとすると、必死の形相で止められるんだ」 呆れたようにジョヴァンニが言うのへ、申し訳なさと疑問に首を傾げて、映写技師は猫のような足取りで倉庫内にするりと滑り込む。「この状態で済まないが、何か気になったフィルムがあれば私に聞いてくれ。既に誰かの映像が刻まれた“六色のフィルム”以外なら上映する事もできる」「幻のフィルムとやらも此処にあるのか」「……彼女が片付けていなければ、おそらく」 そう言うと、近くに落ちていた軍手を嵌めた。無造作にフィルムが放り込まれた段ボール箱をひとつ手に取り、壁際の棚へと向かう。「しばらく待っていてくれ。ここが片付いたら呼びに行くから」 どうやら本腰を入れて片付ける気になったらしき映写技師は、段ボール箱を棚の上に押し込もうと力を入れている。 その後ろ姿をしばらく四人は眺めていたが、やがて誰からともなく視線を交わし、彼の言葉通りに倉庫から退出しようとした。――その時。 どんがらがしゃーん。 ステレオタイプの擬音が派手に鳴り響き、思わず振り返った。 見れば、先程よりも惨状を増した倉庫の光景が広がっている。壁際の棚が一竿崩落し、並んでいたフィルムが盛大にぶちまけられたようだ。床の上にこんもりと山ができている。 そして、そこに居たはずの男の姿が消えていた。「……みゃ?」 首を傾げるタリスの声に応えるように、フィルムの山から唐突に腕が生えた。軍手の嵌められた手をひらひらと振って、その存在を主張する。もぞもぞと山が動いて、やがて天辺が崩れ、ひょこりと男が顔を出した。「……お恥かしいところをお見せした」 苦笑する映写技師の顔をしげしげと眺めた後、ジョヴァンニは背後の三人へ目をやる。 無垢なタリスと何を考えているやら判らないバナー、何処か映写技師にシンパシーを感じ――そして心から呆れているメルヒオール。異論が出なさそうなのを確認して、ジョヴァンニは一歩前へと進み出た。「わしらも手伝おう」 その申し出に、映写技師は目を丸くする。 そしてすぐに、申し訳ないような、居た堪れないような顔をつくるのだ。「……そうしてもらえると、正直助かる」 フィルムの山と、埃に埋もれながら。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ジョヴァンニ・コルレオーネ(ctnc6517)メルヒオール(cadf8794)タリス(cxvm7259)バナー(cptd2674)=========
好奇心旺盛なタリスの青い瞳が、床の上に散らばる五色のフィルムを見比べる。 「つかってないフィルムは色ごとに、はこにつめればいいのかにゃ?」 白、黒、青、赤、金と、様々な色の輝きに目を奪われつつ、爬虫類のものに似た指先を伸ばす。 「あ、待ってくれ」 しかし、それは映写技師の言葉によって制された。 「不用意に触れると君の“映像”が刻まれてしまう。それを扱うには特製の手袋が必要なんだ」 そう言って、自分の付けていた手袋を外すと、そのままタリスに手渡す。 「みゃ、おもい」 何の変哲もない革手袋は、しかし見た目以上の重みを持っていた。素直な感想が、無垢なAIの口から零れる。 「特製だからね。……では、五色のフィルムの仕分けは、君に任せてもいいかな」 「がんばる!」 微笑ましいふたりの様子を見届け、メルヒオールは近くの段ボールの山を獲物と見定めてしゃがみこんた。 とりあえずは仕舞う箱が無ければ話にならないだろうと、周りの段ボール箱を手当たり次第空にしていく。ついでにフィルムの色と名前を見比べて、技師の言う《幻》のフィルムがありはしないかと半信半疑で確かめていく。目を通したフィルムは己の左脇に山と積んで、載せきれなかった分が山から崩れ落ちるのも気に留めない。整理整頓を意識しない人間の悪い性だ――おそらくは、倉庫内のあちこちにあるフィルムの山も、同じようにしてできたのだろう。 普段の己と同じ行動を取っていることにも気付かず、映写技師がメルヒオールの後姿を微笑ましく見守る。 「フィルムはタイトルを見れば判るか?」 「或る程度の内容と世界くらいは」 「なら、空いた箱に分けて詰めていってくれ。俺じゃ判らん」 「了解した」 技師が彼の隣に座して、山から崩れたフィルムを手に取り、一瞥するだけで箱に分けて入れていく。 それを見届けて、メルヒオールが新しく開いた段ボールの中にも、乱雑に詰め込まれたフィルムの山。 「……前来た時に置いていったフィルム、その中に混ざってたりしないだろうな……」 溜息と共に、転がるフィルム缶のラベルテープをひとつひとつ調べてみる。“必ず、他人の目には触れないと約束する”――映写技師のその言葉を信じていない訳ではなかったが、こうも混沌とした様を見せつけられては、不安が芽生えるのも仕方ない、はずだ。 胡乱げな視線を受けながら、映写技師は肩を竦めて笑った。 「名の刻まれたフィルムは、ここではなく奥の保管庫に置いてある。私か、助手君でなければ入る事が出来ない」 「……そうか」 「これ」 二人でフィルムを選り分けていたメルヒオールと技師の頭上から、引き締められたバリトンボイスが降り注いだ。 ジョヴァンニのアイスブルーの瞳が、モノクル越しに彼らを見ている。 「分野ごとに分けるのは関心じゃが、手当たり次第入れていったのではまた何処に何が保管されているか判らなくなるじゃろう」 「……そうか?」 「そうとも。逐一箱を開けねばならん」 それでは手間が掛かるし、技師の粗忽さでは一旦取り出したフィルムを片付けるのも忘れてしまうだろうと、子を諭す親のような口ぶりでジョヴァンニは二人に言い聞かせた。 「なら、どうしようか」 「名ごとに整理して順に並べるのじゃ。面倒じゃが、後々必ず楽になるぞ」 必要なくなったパンフレットを切り開いて、仕切りの紙を作っては技師に手渡す。それらを素直に、並べ直したフィルムの間に挟んで行く彼を見ながら、ジョヴァンニはふと疑問を口にした。 「君はツーリストか?」 「ああ、確かそうだ」 何処か茫洋と、視線を眼前に据えたまま男は応えた。 「出身世界の話など、聞いても構わんかのう」 「壱番世界とそう変わりはなかった……ような、気がするな。なにぶん百年以上前の事だ、ほとんど忘れてしまった」 言葉通り、男はコンダクターとほとんど変わりのない容姿をしている。出身世界でも似たように、映画館で働いていたと、それだけは確かに覚えているのだそうだ。 「ふむ。ターミナルでも元の世界と同じ職に就きたいと思ったのじゃな」 「私にはこれしか出来ないからね」 映写技師はそれ以上、特に語る事もないと言ってわらった。 「では、助手の彼女を雇った経緯などは覚えているかね?」 「経緯というほどの事は……」 「初めに逢った時の思い出でも好かろう」 面倒見の良い好々爺は、柔和な風貌に笑みを湛えて問いを重ねる。 技師は首を傾げ、やがて埋もれていた記憶に行き当たったのか、おもむろに口を開いた。 「ある日いきなり押しかけてきて、今上映した映画の詳細を教えてください、と問い詰められた」 彼女のやけに熱心で、何処か必死さをも窺わせる様子が強く印象に残った、と。 「その時上映していたのは……ああ、あれだな」 ゆっくりと倉庫内を見回した男は、ふと目を止め、メルヒオールが念動力を駆使しどうにか丸めようと苦心していたポスターを指差した。 其処に描かれていたのは、長い黒髪の艶やかな日本の女性。ハリウッドテイストのポスターデザインの中、華やかで美しい花魁がこちらを振り向いていた。 壱番世界のものかとも見紛う雰囲気だが、ジョヴァンニはその映画に身覚えはなかった。 「どこで手に入れたのかと、語気も荒く問いただされた。……覚えていない、と答えたら、見てわかるほどに落ち込んでいたな」 凛と伸ばした背筋、大きな眼鏡の奥には探究心が爛々と輝いて、まるで真実を追求する雑誌記者のようだったと、懐かしそうに男は語る。 それから彼女は何かを追い求めるようにここへ通い詰めて、次第に、映画館を一人で切り盛りしていた技師の手伝いをしてくれるようになっていったのだという。 ごくごく自然な成り行きだ。 自然で、素朴な、彼らに相応しいエピソードであるように、ジョヴァンニには思えた。 「そうか。噂では、何かと頑張り屋で可愛いお嬢さんだとか」 「ああ、よく頑張ってくれている」 さり気なく水を向けたところで、朴念仁の鑑のような男は“頑張り屋”の言葉にしか反応を返さない。老いて尚潤沢さを喪わぬドン・ファンは苦笑し、首を横に振った。 「無粋な詮索で恐縮じゃが……一番身近な異性に、師弟以上の感情を抱いたりはせんのかね」 凪いだバリトンの声音が、湖水の瞳が、茫洋とした内面を見透かすように男へと向けられている。 男は虚を突かれたように目を丸くし、次いでほどけるように微笑んだ。 「彼女の事は、妹のように大切に思っているが……おそらくあなたの望む答えはこれではないんだろう?」 ジョヴァンニもまた、何も云わずに微笑みを返すのみだ。 「まぼろしのフィルム……どこにあるのかにゃー」 五色のフィルムを色別に分類しながら、タリスは時折段ボールの底や棚の下を覗き込んでは目的のものを探していた。 「フィルムがいっぱいしまってあるところの、おく?」 「……昔使って、そのあとずっと使ってないならその可能性は高そうだな」 自身の行動パターンを鑑みて、メルヒオールが唸るように同意した。彼自身も、過去の資料を掘り返そうとして山積みにされた羊皮紙の群れを漁る事が多かった。今はそれをする機会も少なくなっているのだが、と僅かの郷愁に頬を緩め、タリスの捜索を手助けするように念動を用いてフィルムの山を退けてやった。 「みゅ」 礼の代わりに一つ鳴いて、棚と棚の隙間に身を潜らせる。埃にまみれたその奥に、何やら光るものを見つけたのだ。好奇心のままにそれを追い求めて、鱗の指先を伸ばした。 「あと、ちょっと」 爬虫類の尾が、懸命さを伝えるように揺れる。 そして、伸ばしていた爪の先が光に触れた。 「とれた!」 喜びとともに手元に引き寄せた、それは何の変哲もないただのペンだった。 銀のボディはタリスの手の中で、からかうようにきらりと光る。 「外れだな」 微かにからかいを含んだメルヒオールの声が聴こえて、タリスは消沈した尾をぱたりと跳ね上げる。 「にゃ、次はあのたなのうえ! いすにのればとどく!」 そして、興味の対象を次へと移して駆けていく。その様を呆れて眺めながら、メルヒオールは考えるよりも先に「倒して散らかすなよ」と声をかけていた。ふとした弾みに出る、教師の性だ。 「ななつめのフィルム。どんな色、してるんだろ」 「今あるのが、赤、青、白、黒、金、だったか」 「それと、銀のフィルムとやらもあると聞いたぞ」 大人二人の言葉に合わせて、鉤爪の指をひとつひとつ曲げていく。青い瞳が燐光を伴い、不思議そうに揺れる。 「色がむっつ……いろんな色がまざってたりするのかにゃ?」 「七色――虹色のフィルム、ということかね?」 ジョヴァンニの穏やかな問い掛けに、振り返って首を傾げる。まだまだ狭いタリスの世界の中で、虹、という言葉には聞き覚えがあった。 大切な誰かから貰ったはずの、バケツと一本の筆。 七つの色が付いたそれを、彼を迎えに来てくれた誰かが「虹色」と呼んだ。 ――だから、その色はタリスにとって、特別だった。 何故だか懐かしくてたまらない、黒い色と同じほどに。 ◇ 弾むように歩くその背で、大きな尻尾がふらふらと踊る。 「地下とか、別室とか、あるのかなー」 四人が倉庫内を和気藹藹と片付けていた頃、バナーは一人、館内を探索していた。 映写室をひとつしか持たないとはいえ、この映画館は広い。何もフィルムが収められているのは倉庫だけではないだろうと考えてのことだった。 素直な冒険者は好奇心の赴くまま、目に付いた扉を開く。 奥は事務室になっているようだった。 足を踏み入れ、デスクの上を覗く。女性のものらしき文字でメモが残されている。『出したフィルムは必ず同じ所に戻しておいてください!』――どうやら、自分が居ない間の技師を危惧した助手からの忠告のようだった。全く以てそれを聞き届けた様子のない技師に、バナーでさえも苦笑を零す。 天井近く、棚の上にも目を向けて見るが、雑然と冊子らしきものが積まれているだけだった。その奥に何が隠されている様子もない。 「緑とか、紫のフィルムだったりするのかなー」 ぼんやりと呟かれる予想に応える者はなく、しかしバナーはどこか楽しそうに尻尾を揺らしてあちこちを見て回った。鍵のかかった部屋は諦め、それ以外には一応扉を開いて目を通す。地下や二階に通ずるような階段はない。 「……んー?」 ふと、バナーは小刻みに鼻をひくつかせた。 何とも言えぬ、穏やかな匂いがする。薬品のものとは違う自然な甘さを湛えた香りが、ふわりと廊下を包み込んで、彼の元へと届く。 ふらふらと、香りに誘われるままにバナーは踵を返す。廊下を曲がり、切れ掛かった白熱灯を視界に収めながら、点滅する光の下を歩いた。そして、匂いの一番強い部屋の扉を開ける。 狭く、暗い部屋の中にぽつんと、大きな機材が置かれていた。 古びた映写機、のようだった。 この映画館で現在使われているものとほとんど変わらない造りで、35mmフィルムの帯が複雑な軌道を描いて機械の中を巡っている。 暗闇の中、フィルムだけがぐるぐると音を立てて回る。まるで上映時の館内のように。 だが、何かが違う。 機械に敏いバナーには一目でわかる。それは映像を映し出すための機械ではない。 映像を投影するためのレンズは黒く塗りつぶされ、そもそも光を受け止めるスクリーンさえ存在しない。ただからからとフィルムが無為に回り続けるだけの、空虚ささえ感じさせる光景に、バナーはつぶらな瞳のまま首を傾げた。 リールとリールを繋ぐフィルムの帯が廻る、その下方に薄い壁が在った。壁と呼ぶよりは、淡く金に発光した、薄い膜にも見える。 よくよく注視してみれば、それは壁でも布でもなく、光か――或いは液体のような何かで出来ているようだった。フィルムの軌道はその壁を突き抜けるように走り、一度金の光に身を浸して廻っている。 光に透す前と後、微かにフィルムの色彩が変化しているように見えて、バナーは興味のままに顔を近づけてみた。廊下の外にまであふれていた甘い香りが、一層強くなる。 匂いの元はこれらしい、と感じ、彼はおもむろに手を伸ばした。 爪の先が、色幕に触れる。 瞬間、鮮やかな金の光が室内を照らし出す。 「うわ」 驚きに上げた声も、溢れる輝きの中に呑み込まれた。 脳裏を襲う金色のノイズ。 鮮やかに輝く色彩の中で、ぼやけて見える幾つもの映像。滝を落ちていく水のように止め処なく流れるそれが何かを判別するのも難しく、ただ氾濫する色彩と映像の中に、バナーは身を浸していた。 しかし、それも一瞬の事。 潮が引くようにあっさりと光は掻き消えて、バナーはその場に取り残された。映写機の色幕は変わらず金の色を燈している。 「……うーん」 今のは何だったんだろう、と素直な冒険者は首を傾げて、立ち上がると倉庫で待つ四人の元へ向かった。 これ以上彼の機材を弄り回して、壊してしまっては問題だ。機械の扱いに長けるバナーでさえも、慎重にならざるを得ない相手であるように思えた。 ◇ 「……これで最後、か」 立ち上がり、右肩の付け根――石と人の身体の狭間をほぐしながら、メルヒオールは充足感と倦怠感と共に呟く。 振り返った倉庫内は、四人の頑張りによって綺麗に片づけられていた。 足を踏み入れた時には歩く場所もなかった有様が、今では床に落ちているフィルムひとつない。 「みゃ! きれいになった」 ぴ、と手を上げて喜ぶタリスの傍で、映写技師もまた、静かに打ち震えていた。 「ありがとう、これで助手君に叱られずに済む」 「なに、礼を言われるほどの事はしておらん。彼女を喜ばせて差し上げなさい」 両手を握り締めて頭を下げてくる男へ、ジョヴァンニは苦笑と共に首を振っていらえる。温厚な紳士はあくまでも、女性の為に行動したまでだ、と控え目な物腰を崩さない。 「……しかし」 綺麗に片付いた倉庫内を見渡して、メルヒオールは首を捻る。 「結局、見つからなかったな。幻のフィルムとやら」 「そうじゃの。……ここではなかった、と言う事かね」 頷いて、倉庫の入り口に目を向けたジョヴァンニの行動を予測していたかのように、扉がひとりでに開いた。 背の低い影――バナーが、四人と合流する。 「おかえり!」 「見つけたか?」 パタパタと駆け寄るタリス、気だるげに声をかけるメルヒオール、穏やかに見守るジョヴァンニと、三者三様の出迎えを受け、バナーは軽く頷く事で応えた。 「幻のフィルムはなさそうだったよー。鍵のかかった部屋が一つあったから、あとはそこしか」 「五色のフィルムが保管された部屋だな。……確かにあそこなら、あるかもしれないが」 助手の居ない今、あの扉を開け放ってしまえば第二の惨事を引き起こすのが目に見えている。客との約束の為に他の客を招き入れるわけにもいかず、溜息と共に首を横に振った。 「申し訳ないが、七色目のフィルムはまたの機会、ということでも構わないだろうか」 恐る恐ると言った様子の申し出に、四人は顔を見合わせて、和やかに笑み交わした。そして、誰からともなく頷いてみせる。 「……ところで」 安堵する映写技師に、バナーがふと声をかけた。 「廊下の奥で、映写機みたいな機械を見つけたんだけど」 好奇心旺盛なリスの目が、技師を見上げている。男は一度空を見て何事かを考え、やがてああ、と得心したように笑った。 「あれは“シネマ・ヴェリテ”の五色のフィルムを創るには欠かせないものだ。扱いが難しくてね、フィルムは私と助手君にしか制作できないようになっている」 「ふうん」 映写機に通す事で、映像のないフィルムを創り上げる。 奇妙な話だ、と首を傾げながら、バナーは相槌を打った。 「さて、上映と行こう。どのフィルムを見るかはもう決めたかい?」 四人の顔を見回して、男が問う。 ジョヴァンニと、タリスが一歩進み出て、テーブルの上の五色にそれぞれ手を伸ばした。老いて柔らかな質感を持った指先が、《金》のフィルムを。小さな鱗を備えた手が、《黒》のフィルムを。 メルヒオールはしばし考え込み、左手で髪を掻き混ぜると、懐に仕舞い込んでいた一巻のフィルムを取り出した。バナーもまた、何処で見つけてきたのか、短編映画らしきフィルムを携えている。 男は笑い、それら一つ一つを受け取ると、映写室に消えていった。 そして、四人の観客を残して、客席が暗転する。 ◆ 《 a tiny waltz 》 映像よりも先に、ジョヴァンニの耳に届いて来たのは柔らかなピアノの音色だった。なめらかに、静かに、ワルツが場に沁み込むように流れる。 スクリーンを打つのは、華やかな金色のノイズ。ワルツのリズムに乗せて、ちらちらと、ひらひらと、雨のようにおどる。 沢山の招待客の中、ワルツの音色に合わせて踊る老夫婦の姿が在る。 白銀の髪を丁寧に撫でつけ、湖水の瞳を愛おしげに細める夫の姿はまさしく、今のジョヴァンニと相違ないものだ。――では、妻の方は。 カメラが踊るように、円を描いて移り変わる。 僅かに色褪せた金の髪、夢みるように美しい瞳。 艶やかな紫黒のドレスの胸元にもまた、夫と同じ白薔薇の花が咲く。 客席に座るジョヴァンニはそれを目に留めて、わずかに目を瞠った。 「――ルクレツィア」 黒薔薇の似合う妻は、長い時を経て白薔薇の似合う女に変わっていた。 ジョヴァンニの手に添えられた妻の手は、しなやかさを残していながらも柔らかい。まるで白薔薇の花弁に似た、繊細な質感。微笑む頬には皺が浮かび、重ねた年月を感じさせる、それさえも愛おしく、美しい。 ふたり、微笑みあいながら優雅なステップを踏む。 それを見守る娘夫婦と、その孫娘や招待客の姿。彼らの金婚式を祝うパーティなのだろうと、その日を終ぞ迎える事の出来なかったジョヴァンニは感慨と共にそれを理解する。 やがて、曲が一旦の区切りを迎えた。 拍手が波のように沁み渡る。 ピアノの演奏者が立ち上がり、席を辞すのと共に、孫娘が母の手に導かれて演奏席へと近付いた。愛らしいワンピースをくるりと翻して、招待客へとお辞儀をする。 たどたどしくも可愛らしい、ピアノの音色が零れるように流れ始めた。 演奏する孫娘をいとおしむように見つめて、祖父母は再び手を取り合って踊る。彼らを真似るように、娘夫婦もまた、どちらからともなく手を取った。 「わしの望みは妻と共に齢を重ねる事じゃった」 銀幕の映像に魅入り、独り言めいて呟かれた言葉を、三人の客が聞いていたかは定かではない。 「美しく成長した娘を、彼女が選んだ凛々しい婿を、その間に誕生した孫を。わしが得た自慢の家族の今を、早逝した妻に見せたかった」 語るジョヴァンニの言葉に合わせて、スクリーンがドロテアと、その家族を映し出す。両親の優雅なステップを真似て踊る夫婦と、真摯にピアノと向き合う孫娘。三人とも、ジョヴァンニの得た掛け替えのない宝物だ。 「みな……ルクレツィアがくれたものじゃ」 それゆえに、《希求》のフィルムは彼女を映しだした。 彼女だけではない。彼女を取り囲む、自分を、娘夫婦を、孫を、たくさんの招待客を。年老いた妻がジョヴァンニの生活の中に溶け込んでいる、それ以外に何ら今と変わりない、そんな光景を。 湖水の瞳が、愛情を湛えて柔らかく細められる。さざ波にも似た皺が、その目元を飾った。 「老いてなお……いや、だからこそ」 自分と同じように、夫婦よく似た美しさで年を重ねた妻を、彼女の踏むステップを、静かに追いかける。たどたどしくも優しいピアノの音色が、金色のノイズとなって二人を彩る。 「君は世界一の美人じゃよ、ルクレツィア」 それは、幾度目とも知れぬ愛の告白。 ◆ 金色のノイズを侵食するように、漆黒が画面を埋め尽くす。 蝕み、穿ち、染め上げて、銀幕は瞬間的に映し出す絵を転換した。 ――初めて目にした“ここ”は、賑やかな場所だった。 赤、青、黄色、様々な色が輝いて、けれど彼はそれらの名前を知らなかった。目に溢れる光が、色が、誰かの手で描き出されたものだと言うことさえも。 鮮やかな色で造られた街を、活き活きと歩く様々な住人たち。 彼はそれを眺めているのが好きだった。 しかし、時間の流れは残酷だ。 ひとつ、またひとつと、毀れるように、はがれるように色が失われていく。色が消える度、住人や街並みも少しずつ削ぎ落とされるようにして姿を消していった。削られた色の空白を埋めるように、黒いノイズが散り踊る。 彼はずっと、それを眺めていた。 ただの『管理人』であった彼にそれを止める術はなく、消えていく色を、消されていく街並みを、茫然と眺めるしか出来なかった。 気が付けば、あんなにも溢れていた色は何一つ、その場所に残されてはいなかった。 ただ空虚な、何もない白だけが残る。真っ黒な彼を拒絶するように世界を染めて、街は姿を消した。 ぽっかりと胸に空いた穴。 まるでこの世界のように、真っ白だ、と彼は思った。 ――そして、それを『淋しさ』と呼ぶのだと、彼は誰に言われるでもなく理解し始める。 何もなくなった世界。 時折白い空から落ちてくる黒いノイズを掴んで、食べて、噛み締めて、その度に彼は希う。 『ここから、出して』 茫然と呟いた、それは心からの悲痛な願い。 心を持たないはずのAIが、ありったけの想いで叫んだ言葉。 ありったけの勇気で伸ばした手を、掴み上げてくれた手があった。 黒い毛皮に覆われた、優しくて大きな手。 その先にあるはずの顔は、黒いノイズに覆い尽くされて、見えなかった。 そして、彼は“ここ”から解き放たれる。 エンドロールの隣で、銀幕はあざやかな世界を映し出す。 タリスは青い瞳を大きく開いて、スクリーンに映る一つ一つに魅せられていた。 誰が描いたのかも判らない、色とりどりの絵が、壁に残されている。タリスが誰から貰ったかも判らない七色の筆を用い、壁の絵を真似て青い鳥を描けば、それは壁から立ち上がり、羽をもがかせて飛び出して行った。 白と、鮮やかな色の世界に、たった二人だけの黒が動く。 タリスと、彼を連れ出してくれた大切な“誰か”の色が。 「……どうしてぼくは、あのひとのこと、わすれちゃったんだろう」 鮮やかな世界と、漆黒のノイズの合間に、声が響く。 幼いタリスの、無垢な声が。 ( Where are you ? ) 《 I'm Here. 》 ◆ 漆黒のノイズは途切れ、次いで映像はモノクロの世界を映し出す。 擦り切れたフィルムの傷が、灰色のノイズになって画面を埋める。 五色のフィルムが創り出すノイズとは違う、まさしくスクリーンに開いた裂傷のようで、しかしそれもまた古びた映像に味を与えていた。無声の映像を彩る穏やかなBGMにもまた雑音が混じり、時折メルヒオールの耳を掠める。 灰色の空の下、現代的な建物と、日常の風景が銀幕を飾る。 少女たちが行き交う正門。広大な学園。鐘楼を抱いた教会。メルヒオールの勤めていたものとはまた違う、しかし何処となく懐かしさを感じさせる光景だった。 髪を同じほどに切り揃えた、黒髪の女生徒たちが教室内に行儀よく並んで座っている。居並ぶ生徒たちの目に、活発な笑顔に、つい己の教え子たちの姿を重ね視てしまう。 そんな中で、ふとメルヒオールは、映像の違和感に気が付いた。 映像は教室を映し出しておきながら、教壇とを一度も捉えていなかった。黒板を食い入るように見つめ、ノートをとる真剣な生徒たちの姿を克明に映し出しながらも、それを教える教師の姿は決して画面には映らない。 ――もしも、あの場に自分が立っていたら。 果たして何を語って聞かせただろうか、と考えている自分にふと気付いて、苦笑を零す。己はそんなに熱心に教師業をしていただろうか。こうして故郷から離れた今、何もかも懐かしく見えてしまうのは仕方ない事なのかもしれないが、何処か気恥かしさを覚えた。 賑やかに、真摯に授業を受ける少女たちの姿は、彼の故郷での日々によく似ている。 だが、それは彼女たちではない。 メルヒオールの受け持っていた生徒たちとは、まったく違う。 《希求》のフィルムの映像を胸に浮かべながら、やはり、帰るならあの場所がいい、と、誰に誓うでもなくそう思った。 ◆ 赤褐色の映像の中で、駆け回る様々な姿の獣人たち。 飛び交う銃弾と怒声、交わされる笑顔、それらはバナーの目を引くに充分すぎるほど、活き活きとしていた。 スカンク、アルマジロ、或いは巨躯のクマが立ち上がり、拳銃を手にとって荒野を往く。バッジを胸に閃かせる保安官は大きなプレーリードッグだ。げっ歯類、すなわちバナーとは種族的にそう遠くない存在。 映像は切り替わり、がたがたと揺れながらカメラが荒野を走る。舗装されていない道を走る車の視点だ。 やがて車は止まって、降りてきた数人のスカンクが眼前の酒場へなだれ込む。突然銃を向けられて、居合わせた保安官や若者たちもまたそれを迎撃するために銃を抜く。 強盗団の一人が何事かを叫ぶが、何故かその言葉だけ字幕は出ない。――翻訳するのも躊躇われるほどのスラングであったと、保安官らの反応でぼんやりと把握する。 獲物を仕留めそこなった銃弾は酒樽を撃ち抜き、血飛沫の如く飛び散るワインがスカンクの顔面を襲った。その隙を狙い、バッファローのマスターが投げつけた皿が後頭部に直撃して、荒くれは沈み込む。 そこからは、早送りのようだった。 あれよと言う間に撃退されたスカンク団が酒場を飛び出し、転がるようにして車へ乗り込むと、エンジンを唸らせて逃げ出して行く。 酒場の面々はそれを見届けて、肩を叩き笑いあった。 赤褐色の夕陽が、走り去る車を照らしている。 「こう言う世界もあるんだねー」 機会があれば旅をしてみたいと、好奇心旺盛な冒険者は素直な感想を口にした。 ◇ 客席に、照明が燈る。 全てのフィルムを上映し終え、白い光を投影していたスクリーンも、ただの味気ない幕へと姿を変える。視線を外さず、静かに余韻に浸っていた四人へ、映写室の方角から声が掛かった。 「どうだった?」 感想を促すような言葉をかけておきながら、微笑む映写技師は映写室の窓から彼らを招くように手を振る。四人は顔を見合わせて、素直に男の招きに応じる事にした。 映写室の中は狭く、大きな映写機とその他機材が雑多に置かれているだけの、殺風景な場所だった。 「《幻》のフィルムは見つからなかったが、君たちの選んだ映像を繋ぎ合わせて、新しいフィルムを作ってみた」 そう言って、男は今しがた上映を終えたばかりのフィルムをリールから勢いよく引き出す。 しゅる、絹のリボンがほどけるのにも似た音が響いて、長い帯が宙を舞う。金、黒、灰、赤褐色、そして数多の色によって紡ぎ出されたフィルムが窓から差す光に照らし出される。 それは、虹と呼ぶにはいびつな、しかし美しい色彩のグラデーション。 映写技師はするするとフィルムを巻き戻し、四人にそれを差し出す。 「君たちの選び、創り出した映像だ。――みたくなったら、いつでも遊びに来てくれて構わない」 微笑むその瞳の奥には、四人への感謝のいろが輝いていた。
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