木製のドアを開くと、静かなピアノの音と、酒の香気があふれ出てくる。「いらっしゃいませ」 カウンターの向こうにいたバーテンダーが言った。バーテンダーは初老の男性で、折り目正しい言葉とお辞儀で貴方を迎え入れた。南の国の生まれらしく、漆黒の肌が薄暗い店内の中で、彫像のように重々しい存在感をたたえている。 今のところ、客は貴方一人だけのようだ。 貴方はカウンターのスツールに腰掛けた。「カクテルをどうぞ。当店の商品は、カクテルのみですので」 すっ、と目の前にバーテンダーが差し出したのは、空っぽのグラスだった。 怪訝な表情で見返す貴方に、バーテンダーは説明する。「当店では、いらっしゃるお客様の『思い出』を酒に変え、供させていただいておるのです。お客様が想い出を語ると、ここにある酒びんの中に、ふさわしい酒が湧き出すのですよ」 貴方はバーテンダーの眼の動きを追って、その背後にあるガラス棚に並ぶ無数の酒瓶に眼をやった。 驚いたことに、目の前のグラスばかりか、その酒瓶すべてが空なのだった。透明なガラスの瓶たちは、店内の抑えた照明を受けて、様々な色の輝きを放っている。 バーテンダーは言葉を続けた。「たとえば、あるお方は『亡き恋人への鎮魂の思い』をカクテルに変えて欲しいとご注文なさいました。 その方の『喪失感』をホワイト・ラムに、『甘い記憶』をブランデーに。『後悔』をレモン・ジュースに変えて、『ラスト・キス』というカクテルをおつくりしました。 死者に捧げる白い花束と同じ色のカクテルでございます。 他人の血で汚れた人生を生き延びてきた別なお客様が自らの『懺悔』を注文された折には、『罪悪感』をガリアーノに、『孤独』をアマレットに、『憐憫』をクリームに変えて、『ゴールデン・トルピード』というカクテルをおつくりしました。（Ｔｏｒｐｒｄｏ：「魚雷、殺し屋、ギャング」の意） なお、ひとつだけご注意申し上げておきますが‥‥当店のカクテルには『嘘』は禁物でございます。お客様に語っていただく想い出の中に『嘘』がひとかけらでも混じってしまうと、カクテルはおつくりできませんので‥‥。 もちろん、当店もお客様の秘密は決して口外いたしません。いかがですか」 バーテンダーは、ひたりと視線を貴方に合わせる。 貴方はグラスに一瞬視線を落とし、またバーテンダーを見つめ返し、答えた。 これから語る自らの記憶をカクテルに変えて欲しいと。 「よろしゅうございます。さて、ではお聞かせください。貴方の思い出は、どんな美酒に生まれ変わるのでしょうかな‥‥？」 貴方の言葉を待つように、店の奥でピアノを奏でていた女性が演奏をふととめた。 貴方はひと呼吸して、語り始めた‥‥
「酒飲みに来て話させられんの、この店って」 メルヒオールはカウンターに左腕をのせて、鬱陶しそうに眉を顰めたが、やがてゆっくりと口を開いた。 ーー今日ぐらいは、あいつらのことを話してみっか。 今日は不思議にそんな気分だった。昨日見た夢のせいかもしれない。‥‥元の世界にいた頃の、ありふれたある一日の記憶を映す夢。 ーーただいま、と扉を開く。魔法学校の教師となってから、なかなか帰郷できずにいたので久々の実家だ。 「あらっ。帰って来たの？ 前もって連絡くれればいいのに。夕飯の食材、買い足しにいかなくっちゃあ」 台所で何か鍋を混ぜていた母親は振り向くや、一息に言う。続いて説教の波状攻撃。そのだらしない服装はなんだ、恋人は出来たの？ まだ？ やっぱり。だいたいあんたは昔から愛想が悪くてーー。 「まあ、座れ」 いつの間にか帰宅してきた父が、椅子を進めてくれた。そこへ座ろうとした途端、何かが叫びながらぶつかってきた。 「にーちゃんだあ！」 「メルぅぅ！」 「「あぃだだっ！ こらっオマエら！」」 メルヒオールの弟＆妹、リヒトとマヴリン。二卵性とはいえ双子の彼らは、行動パターンも激似である。メルヒオールの上に長兄と長姉がいるにもかかわらず、なぜか二人ともメルヒオールこそ自分達の格好の遊び相手と信じて疑わず、顔を見るや突進して来る。 立ちっぱなしの授業で痛めた腰が悪化したわい。バカどもめ。 悪態を叩いてもあんまり説得力はない。リヒトが足によじのぼり、マヴリンが耳元でねえねえ聞いて、あたちお花の呪文覚えたよと叫びまくっているのをそのままにしているのじゃムリはない。母親はうきうきと、 「夕食、あんたの好きな山鳥のベリーソース煮込みにしようかしら」 「にーちゃん湖にいこー」 「ちがーうお人形ごっこぉー」 「それともパールフィッシュのフライにする？」 「やまど‥‥あがっ！ マヴ、ちゃんと話聞いてっから髪引っ張るなっ」 「わかった、フライね」 母さん、喋るのは人一倍で、相手の話は聞かねーのな。 父にメル帰郷との知らせを受けた長姉フロラと、長兄ウルリヒがそれぞれの配偶者を伴って来訪し、ようやく家族は収拾する。双子達はメルヒオールから離れ、テーブルに皿を並べる。 姉のフロラときたら「母・小型版」といったところで、しかも若いだけに母よりパワフルだ。 フロラは家族全員が夕食の席に着くや、高らかに「家族会議よ」と宣言する。議題はもちろん、弟メルの結婚問題について。 だってあんたったら手紙じゃ返事よこさないし、せっかく帰って来たんだからいい機会だわと。 せめてもの緩衝材にと、女生徒をたらし込もうとしていた悪徳魔術師を撃退した手柄話もちらっと披露してみたのだが、 「お前、そこまで人様のお役に‥‥父さんもほんっと感心してたのよ。お前が人様の大事な子供さんにものを教える立場になるなんてねえ‥‥しかも、人助けまでできるようになったなんて」 母、涙ぐむ。父が黙って、蜂蜜酒をカップに注いでくれる。父なりの褒め言葉かもしれなかった。 「なんでそういう喜ばしい出来事があったんなら、それを手紙で書いてよこさないのよっ」姉、いきなり怒る。 「あんたは昔から、そういうどっか醒めたとこがあるから女の子ウケが‥‥リヒト、塩とって」 「ガキの頃からお前のこと追っかけてたリーズも、とうとう諦めてロイゼルと付き合ってるらしいぜ。母さん、フライおかわり」無口な兄がさりげなく姉に油を注ぐ。 てかどうなの、夕めしついでに家族会議って。 「これからはちゃんと手紙の返事、よこしなさいよね」 「はいはい」 久々に実家のベッドで眠って一夜明けたら、職場近くの下宿に戻らねばならない。いたずら好きの女生徒どもにしょっちゅう襲撃される、いわば紛争地域ではあるが。‥‥たまにだが、真面目な相談を持ちかけてくる生徒もいないわけじゃない。 おまけにメルが留守や居留守やらをすると、そいつらは詐欺にでもあったかのように文句をつけるのだ。意味わかんねぇ。 見送るフロラは忘れ物はないか、歯は磨いたかと見送りの最中も小言を並べていたのだが、ぽつりと言った。 「結婚‥‥ほんとはね、急がせるつもりはないのよ。ウルリヒもそう言ってるの。ただ、メルは研究に没頭しすぎてごはん食べるの忘れたりとか、自分の体で魔法薬実験したりとか、昔から無茶なとこあるから‥‥いつもそばに誰かがいれば安心よね、って、つい‥‥」 フロラはうつむいて、さっきと違う口調で続ける。が、しかし。 「だから、ステキな人と出会ったら考えてみてね。私達みたいな家族になれる相手かもって。‥‥ついでに言っとくけど、前髪うっとうしいから切りなさい」 「いい話のついでに命令すんな！！！」 ◆ 「ま、言うこときかないバカ息子でバカ兄で、バカ弟だったから、家族が心配してるかどうかはわかんねぇけど‥‥時々思うんだよな。なんとか生きてるって、家族に伝えるすべがあったらな、ってな」 そうしめくくったメルヒオールに、琥珀色の酒を湛えたグラスが差し出される。 「”アフィニティ”というカクテルでございます。お客様の”郷愁”をウイスキーに、”寂寥感”をドライ・ベルモットに。”慈愛”をスイート・ベルモットに。苦味酒は、”自責の念”からおつくり致しました」 口に運ぶ。重たいほどに甘い舌触りが、ふと‥‥故郷の地でいつも感じていた干草の香りを思い出させた。 自責の念だとか慈愛だとかって、俺の中にあったっけ？ 独り言のつもりだったが、ピアノ演奏の止んだ店内では結構響いた。バーテンダーはご託宣といった渋い口調で返した。 お客様は、もう会えないかもしれない家族に対して、言葉が足りなかった、もっと話せばよかったと思いを残しておいでです。 ‥‥確かにな、フロラを一発ぶん殴っておけばよかったとか、お袋に結婚なんて興味ねぇとはっきり言ってやればよかったとか。 ヘッ、ものは言い様ってヤツか。 ”慈愛”も、確かにお客様の中に見つけたものございますよ。なぜお客様の周囲には、決して愛想良く振舞うでもないのに人の輪が絶えないとお思いになりますか？ 知らねーよ。つか、さりげなく、愛想悪いって指摘しやがったなオヤジ。 「”アフィニティ”とは、『密接な関係』を意味する言葉でございます。家族は、自分を映す鏡とも申します。似ていないつもりでも、似ている。断ち切ろうとしても断ち切れるものではございません。まして、お客様とお客様のご家族であれば‥‥」 甘くこってりとしたカクテルは意外に強かった。メルヒールはつかの間、酔いに身をまかせて眼を閉じる。 夢を見た。 『夕飯、またパールフィッシュ？』 『メルが匂いにつられて帰ってくるかもしれないでしょ』 『‥‥犬か、あいつは。ま、ありえなくはないけど』 『ただいまー』 『マヴリンたら、またお花摘んできたの？』 『うん。おいのりするの。メル、はやくかえってきてねって』 『そうね。そこの水がめに挿しましょ』 一人を欠いた家族が夕食の前に静かに祈る夢。 大切な存在の無事を願う家族の祈りは、確かに孤独な魔術師に届いていた。 メルヒオールが眼を覚ますまで。
このライターへメールを送る
