雨が、降っています。それも土砂降りです。いきなり降ってきたものですから、私とニコさまは慌てて走りました。 ニコさまは私の手を引いて、私の走るペースに合わせてくださいました。冷たい雨で指先が冷えゆく中、触れた部分だけがとても暖かかったのです。 私たちは打ち捨てられた山小屋を見つけました。中を覗いてみれば、多少雨漏りはするものの雨風を凌ぐことは出来そうでした。 「ユリアナちゃん、ここを使わせてもらおう」 そう言ってニコさまは山小屋へ私を導き入れました。座ってて、というと山小屋の設備を確認しているようです。 そもそも私達がヴォロスを訪れたのは、雨期になっても雨がふらなくなっている地方の水不足解消のためでした。雨が降らない原因が、その地方の山中にある竜刻にあるというのです。その回収は世界司書様のおっしゃった通り、特に危険に見舞われることなく難なく出来ました。 しかしその反動なのか、竜刻に封印のタグを貼り付けてしばらくすると、雲行きがどんどん怪しくなり、見る間に土砂降りとなったのです。 「使えそうな毛布があったよ。一枚だけだけど」 ニコさまが戻って来ました。壁に寄りかかるようにして横座りをしていた私の隣に、当然のように腰を下ろします。 ……少しだけ、ぴくり、身体が震えました。 寒いわけではありません。きっと……心の中にわだかまりがあるからでしょう。 「風邪をひいたら大変だからね、ユリアナちゃん、これかけていて」 そっと、私に毛布をかけてくださるニコさま。 「僕が直接温めてあげてもいいんだけどね?」 いつもの調子のそんな軽口……けれども私は上手く笑えませんでした。 「ニコさまが風邪をひかれたら、私は悲しいですよ?」 そっと、毛布の半分を隣の彼にかけてあげるだけ……たったそれだけのことなのに、酷く緊張しています。 「ん、ありがとう」 そんな私に気がついているのかいないのか、ニコさまは笑って、そっと私に寄り添って毛布にくるまりました。 湿気を帯びた服が、互いの熱で暖まっていきます。濡れているせいか、普段のような乾いた服越しよりも互いの肌を、体温を感じられるようで少しばかり鼓動が早くなります。 私はそれ以降、口を開きませんでした。ニコさまも、窓の外の雨を見つめていました。 音は、さあさあと降る雨音のみ。まるで世界で二人だけとなったような、不思議な感覚が私達を包みます。 なんとなく、なんとなく。雨音を聞いていると、心の奥にしまったものが外に出たいと扉を叩いているようでした。 「ニコさまは……」 気がつくと私は、問いかけるように口を開いていました。こうなってはもう、思いを止めることはできません。 「……優しい嘘をおつきになるのですね」 優しい、けれども真綿で首を絞めるような、嘘。今でも私の首は、胸は締め付けられている。 「……ユリアナちゃん?」 彼が訝しげに身動ぎするのを感じます。 「あの花の絵は、本当はどうやって手に入れたのですか?」 「……!」 「あの絵には、サインが入っていました。『cantarella』と」 「サイ、ン……」 呟くような彼の声。それは気づかれて気まずいと言うよりも驚きの声色だということはわかっていました。ニコさまはサインの事を知らなかったのかもしれません。それでも一度心の扉から溢れだした私の言葉は止まりませんでした。 「あの日、偶然見てしまったのです……ニコさまがカンタレラ様と腕を組んで楽しそうに歩いているのを……」 「あ、あれは……」 困ったな、苦笑を浮かべて呟いて、ニコさまはごめん、と一言告げました。 「全部話すよ。まず、サインには気がついていなかった。本当に。彼女のいたずら心だろうと思うけれど」 小さく息を吐いて、彼は続けました。 「クリスマスプレゼントの交換会があっただろう? あれに遊び心で僕の『レンタル券』を送ったら、彼女に届いたんだ。お互い好きな相手がいる者同士、相手に送るプレゼントを買いに行くことになったんだ」 「……」 私は黙って言葉の続きを待ちました。その券が届いた相手に好きな人がいなかったら、どうなったことだろう……ニコさまは優しいし格好良いお方なので、私は心配に思いました。相手に想い人がいたとしても、こういう事態になったものですから……。 「あの絵は一目見て気に入ったんだ。どうしてもどうしてもユリアナちゃんに贈りたくなった。けれども、恥ずかしいからあまり言いたくなかったんだけど……手持ちが足りなくてね。彼女に助けてもらったんだ。諦められなかったから」 なんと、そういう事情だったなんて思いもよりませんでした。私はあの絵は彼女が描いたものなのか、彼女の所有物をニコさまが戴いたのか、などと色々と考えを巡らせていたのです。彼女が関わっていることには間違いがないと思っていましたが、そういう事情だとは思いもよりませんでした。いえ、冷静になれば考えついたかもしれません。だって、ニコさまですから。 「でも、隠し事は良くなかったね、ごめん」 私が黙っていると、私の瞳を覗きこむようにして銀色の双眸が悲しげにこちらを見ていました。 「ユリアナちゃんへのプレゼントだから、自分一人で手に入れたって見栄を張りたかった――そんな気持ちがなかったとはいえないし、本当のことを話すとユリアナちゃんを不快にさせるかもしれないっていう心配がなかったとも言わない。けれども、嘘が一番良くなかったね。本当に……ごめん」 銀の双眸が逃げます。私の視界は紅に染まりました。ニコさまが頭を下げたのです。 「……」 こういう事情だったのですね、私は心の中で小さなため息を付きました。最初から言ってくれれば――でも腰に手を回したことはヤキモチを焼くかもしれませんけれど――こんなに思い悩まずとも済みましたのに。 でも、きっと、これがこの方と付き合うということなのでしょう。 この方の、女性への興味と優しさが消えたらこの方はこの方でなくなってしまう。それは十分承知しているつもりです。 時折ヤキモチを焼くかもしれませんが、そんな私をも受け入れてくれるとこの方はおっしゃいました。 だから。 ……ちゅっ。 私は頭を下げている彼のつむじにそっとキスを落としました。彼が顔を上げて、驚いたようにこちらを見つめます。 「正直に話してくれて、ありがとうございます。少し、安心しました」 「よかった……って少しだけ?」 彼の追求を微笑むことで曖昧にして、私は彼の肩にこてんと頭を乗せました。 *-*-* 雨の音は未だ続いています。けれども少しばかり先ほどよりは弱くなってきた気がします。 私たちはあれからも、ぽつりぽつりと話を続けていました。すると、いつしか話題が『お互いに相手に望むこと』へと移っていったのです。 ニコさまはおっしゃいました。自分は『女性はまるっと受け入れる』スタンスなのだと。けれどもそんな彼にも、私に対する望みはあるようです。 「あえて言うなら……もっと僕に対して我がままになってほしい、かな?」 「我がままに、ですか? これ以上……?」 もう十分我がままで迷惑をかけていると私は思ってました。一人で誤解して、嫉妬して。困らせて――けれどもニコさまはもっと我がままになってほしいというのです。 「ユリアナちゃんの我がままならば、いくらでもきいてあげたいよ。今だって、全然我がままに感じないし」 私が思っていた程度では、我がままになっていないようです。私は、もっと我がままになっても、望んでもいいのでしょうか。 「つまり、遠慮しないで欲しいっていうこと。どんどん気持ちを、望みをぶつけてきてくれて構わないよ」 ニコさまはとんっと胸を叩いて微笑みました。そのほほ笑みは暖かくて、そして包容力があって、つい……甘えてしまいそうになります。 もっと頼ってほしい、そういう意味もあるのでしょうか。 「ユリアナちゃんは?」 「え?」 「僕に対して望むこと。良かったら聞かせて? ユリアナちゃんの望みなら、出来得る限り改善したいと思っているんだ」 「望むこと……」 口の中でぽつりと私は呟きました。言っていいのだろうか、嫌われやしないのか、そこまで考えて私は気がついたのです。 こんな不安を抱くということは、ニコさまを信じきれていないからなのではないか、と。問題は私にあるのではないかと。 「私、ニコさまを信じていないわけではないんです……。ニコさまが女性に優しいことも女性が好きな事もわかっています。私の事を特別だと言ってくださったことも嬉しくて……けれども、ニコさまがいつか私から離れていってしまわないかと、心の何処かでまだ心配しているのです」 「ユリアナちゃんから離れたりなんてしない」 即答でした。ニコさまは真剣な声色で、すぐに答えてくださいました。 「わかっているのです、わかっているのです、けれども、不安が拭えないのです」 こびりついた不安は、安定しない立場によるものだと私は気が付きました。 私たちはロストナンバーです。ロストナンバーである間は終わりを気にせずに過ごせるでしょう。けれどももしどこかに帰属したとしたら。私とニコさまでは時の流れが違います。いつか私は年老い、ニコさまは若いまま……異なる時間の流れに放り出された私たちは、老いと寿命に引き裂かれるでしょう。 そうなった時に、私は、今までニコさまが付き合ってこられた女性のように『過去の恋人の一人』となってしまうのが怖いのです。彼が過去の恋人との思い出を大事にしているということは、よくわかります。それでも……私は彼の『特別』で有りたいのです。これからも、この先も。 なんて我がままでしょう……見えぬ先まで彼を縛ろうとするなんて。こんなこと、とても彼には言えません。 「ユリアナちゃん……?」 心配そうに私を見るニコさまが歪んでいます。いつの間にか、私の瞳には涙がたまり、頬を伝って行きました。ニコさまはそっと、その涙を人差し指ですくってくれました。 「ニコさま……お願いです、どこに行っても、最後は必ず私のもとに帰ってくると約束してください……。私、ずっとずっと寂しかったのです。百五十年以上、ずっと……」 涙声での訴えを、ニコ様は真剣な瞳で聞いてくださっています。 「……ニコさまと、出会うまでずっと……」 瞼を閉じるとぽろり、雫が落ちました。 「ユリアナちゃんはかわいいね」 瞳を閉じた私の耳を、優しい声がくすぐりました。 ニコさまはそっと、その唇で私の涙をすくい取って、おでこに優しく口付けを落としてくださいました。 「約束なんてしなくても、僕はユリアナちゃんのもとに帰るよ。けれども約束したほうが安心だというならば――」 瞳を開けると、ニコ様の顔がとても近くにありました。 「――約束する」 唇に落とされるキスは誓いのキスでした。 ふんわりと、余韻を楽しみながら顔を見合わせて。潤んだ瞳でニコ様を見つめた私は、もう一つ心の中にくすぶっていた願いを口にしていました。 「証を、くださいませんか」 それは左手薬指にはめた指輪のことではないのです。私は『ニコさまの特別』であるという証を確かなものとしたかったのです。他の誰とも違う、私だけの証が、不安を払拭してしまうような……立場を確とする証が欲しかったのです。 安易な手段だといわれるかもしれません。けれども。今までの彼女達と『同じ』になりたかったのです。 もっと――ニコさまを知りたくて。近くで感じたくて。私だけのものにしたくて――だから。 「……いいの?」 彼は私の瞳から、その真意を悟ったようでした。 彼が私を大切に大切にしてくれていたことは、心から実感していました。けれども私は、もっと、もっと彼のものになりたかった。もっと、もっと彼を私だけのものにしたかった。 そっと頷くと、彼は真剣な表情で私の頬に触れ、そして唇を合わせました。 唇の隙間から侵入した舌を絡め合わせ、熱い吐息を合間に吐きながら、したたる雫など気にせずに互いの唇を貪り合います。 壁に押し付けられるようにして、貪り食われるようにして、永い永いキスを交わしました。 「ぁっ……」 彼の唇が首筋を伝い、チョーカーを超えて鎖骨のあたりで止まります。強く吸われる小さな痛みは頭の芯を蕩けさせるようで。残念ながらそこに咲いた花は鏡がないと見ることができません。 ちゅっちゅっと小刻みに落とされる彼の唇が、くすぐったいような気持いいような、複雑な感覚を私にもたらします。時折混ざる舌先での愛撫にぴくり、身体が反応してしまうのです。 そっと、彼の手が私の胸元に触れました。壊れ物を扱うように触れた手が、そっと双丘を撫でてゆきます。 「ふふ……」 「……くすぐったい?」 私が笑い声を漏らすと、顔を上げたニコさまはいたずらっ子のように尋ねてきました。こくん、と頷くと今度は耳たぶを甘咬みしながらさっきより強めに、けれども優しさは忘れずに胸を揉みあげていくのです。 「……ニコさまの、いじわ、る……」 甘い吐息を吐きつつやっとそれだけ口にすると、ニコさまは耳元で甘い声でささやいたのです。 「今だけは……いじわるにならせてよ……」 *-*-* いつの間にか、眠ってしまっていました。寝起きの身体には室内の空気が肌寒く、思わず毛布を肩まで引き上げました。隣を見ると、ニコさまはまだ眠っています。 私はニコさまを起こさぬようにしながらバッグから小さな箱を取り出し、それを開けました。そこにはニコさまの瞳と同じ色の銀色の指輪が入っています。 以前指輪を頂いた日から、私もなにかお返しをしたいと思っていて、先日買い求めたものでした。渡す機会を逸してずっと持ったままでしたが……ようやく渡せそうです。 「ああ、眠っちゃってた……どうかした?」 「あ、起こしてしまいましたか?」 身じろぎをして、ニコさまは私の手元を覗きこみました。「指輪?」と不思議そうに首を傾げるので、彼の左手をとってそっと掌に指輪をのせました。 「いつかのお返しに、と思いまして」 「え……これってプラチナ!?」 「ニコさまの瞳の色と同じで綺麗だなと思ったので……はめてくださいますよね?」 にこりと笑って言うと、ニコ様も嬉しそうに笑ってくださいました。 「もちろん! 肌身離さずつけるよ!」 「……そっちじゃないですよ?」 「え?」 自然にニコさまは右手に指輪をはめようとなさったので、私はさり気なく声をかけて首を傾げました。するとニコさまも不思議そうにしています。 「左手です。左手の薬指。おそろいにしませんか?」 私は自分の左手にはめた指輪を見せてさっきとは逆に首をかしげて見せます。すると、ニコさまが少し困ったような表情をみせたのがわかりました。けれどもその困惑はすぐに振り払われたようで、頭を数回振って「よし」というと、彼は思い切るようにして左手の薬指に指輪をはめてくださいました。 「これでおそろいだね?」 「おそろいですね」 左手を見せ合って微笑む私達を、窓から差し込んだ陽の光が照らしました。きらきらと指輪が輝きます。 「雨が上がったみたいだ。外に出てみよう」 立ち上がったニコさまの手をとって、私も立ち上がります。山小屋の外に出ると、雨上がりの草の匂いがふんわりと鼻孔をくすぐりました。 「あ……」 「……虹、ですね……綺麗」 私達の視線の先には、大きな大きな虹の橋がかかっていました。思わず綺麗とつぶやいて虹を見つめている私を、ニコさまは微笑みながら見守ってくれていました。 「そうだ」 なにか思いついたような彼の声に、私は頭にはてなマークを抱えたまま視線を移しました。すると彼はいたずらっぽく笑うのです。 「あの虹、くぐって帰ろうか?」 「……! 素敵ですね!」 思わぬ申し出に、私は手をパンと打ち合わせて喜びました。 彼の本性は竜です。他の世界では難しいかもしれませんが、ヴォロスならば本性に戻っても影響は少なそうです。以前も私は彼の背中に乗せてもらい、夕陽の中を飛びました。 「ユリアナちゃん、気をつけて乗ってね」 竜の姿になっても彼は優しいです。私を落とさないように、私が『特等席』に座るのを待ってくれています。 「じゃあ、行こうか」 ゆっくりゆっくり彼は空へ舞い上がり、私は風を受けて彼とともに空を飛びます。 大空を舞う――これは私だけの特典。ここは私だけの特等席。 私の、あなた。 【了】
このライターへメールを送る