春を喜ぶかのように、桜が目覚めた。 やわらかな風に優しく撫でられ、目覚めを促された蕾はほのかに頬を染めて。 静かにそのからだをひらく。 「今年もまた、花の季節が参りましたね……」 花といえば桜、そう連想される世界で生きてきた夢幻の宮は、香房【夢現鏡】の裏手の庭で一本の桜の木を見上げていた。 今朝方、花の咲き具合を見て樹の下に緋毛氈を敷いておいた。ぽかぽかと暖かくなってくる昼近くになると、緋毛氈の上に桜色の花びらがいくつか舞い落ちていて、まるで桜の褥のようだ、なんて思ったりもして。 つい、心が揺れた。 今日だけは、今日だけは――誘惑に抗えずに、店の扉を開くのをやめた。今日は一日休業だ。 緋毛氈に腰を下ろし、シャランと音を立てる飾り天冠を取り外して丁寧に置く。そして。 ころん、と緋毛氈の上に仰向けに寝転んだ。 はしたないとはわかっていたけれど、どうしても桜の褥の誘惑には勝てなかった。 裏庭は外とは高めの塀で遮られているため、余程のことがない限りはこの姿が見られることはないと思うが……いや、ここはターミナル。多種多様の人種が存在するのだから、塀の上を通過する者がいても不思議はない。今は、深くは考えないことにする。 さらっ…… 風に髪が流され、花びらが舞う。（ああ――……） 心に染み入るこの風景。 桜が、降る――。 思いを馳せるは過去か、未来か。 しばし、目を閉じて、桜の歌に耳を傾ける。 そうだ――。「独り占めは、よくありませんよね……」 感じたのは追憶か寂寥か。 夢幻の宮はぽつり、呟いて微笑んだ。「この美しい風景を、皆様におすそ分けいたしましょう――」 そして、貴方は招かれた。 静かな、桜の下に。＝＝＝＝＝＝「桜音茶話」とタイトルのつくものは同じ内容となっております。個別タイトルは区別のためであり、内容に違いはありません。 同一PCさんでの複数ご参加はご遠慮くださいますようお願いいたします。 一つの抽選に漏れてしまったので、別のへエントリー、は大丈夫です。 去年ご参加くださった方も、大丈夫です。＝＝＝＝＝＝
桜の花は、一年前と変わりなく咲いている――。 緋毛氈の上に座り、咲き誇る桜の花を眺めるニワトコ。それは一年前と同じで、でも、違う。 隣には、彼女がいるのは同じで。けれども、彼女に向ける思いは異なっているのだ。 最初はお店の入口で、御簾の上げ方に戸惑うくらいだったのに、今では当たり前のように店内へと足を進める自分がいる。彼女の作ったおひさまの香りが、ニワトコを導いてくれるのだ。 おひさまの香りはニワトコに話しかけてくれるようだ。 『いらせられませ』 『お待ちしておりました』 『早くお会いしたいです』 『ニワトコ様、お慕いしております――』 硬かった彼女、夢幻の宮の態度や口調、表情も時を経るごとにだんだんと柔らかいものになっていって、そして。 （霞子さんがぼくだけにしか見せない表情が、あるんだ） 彼女自身がそう言ったわけではないけれど、なんとなく肌で感じるというか、彼女を見ていれば、彼女を見つめ続けてきたニワトコにはわかるのだ。お茶を入れ、お重の準備をしている彼女の横顔を眺めながらそんなことを考えると、自然にこころがぽかぽかしてきて、表情が緩む。 「……？ どうかいたしましたか？」 ふと、視線に気がついた夢幻の宮が、やんわりとして笑顔で見つめてくるものだから、ニワトコの笑顔の比率も増して言葉も自然に紡ぎ出される。 「霞子さんといっしょに時を重ねてきたんだなって思って」 その言葉に、彼女は愛おしそうに目を細めて「そうでございますね」と頷いて。彼女も嬉しそうだったから、ニワトコの心も暖かくなって、名状しがたい気持ちが溢れ出てくるようだ。 「霞子さんは……ぼくのおひさまみたいだなって思ったんだ」 「えっ……」 サラリと漏れた言葉。ニワトコの言葉だからこそ、その裏には何もない。まごうことなき真意である。それがわかっている夢幻の宮だから、頬にさっと朱がさして。 「赤くなった霞子さんも、かわいいよ」 「ニ、ニワトコ様……それ以上は……」 ますます赤くなる顔を袖で隠すようにしてそむける夢幻の宮。 「どうしたの？」 少しだけ、意地悪をしてみる。何もわかっていないふりで、彼女の顔を追いかけて。 だって彼女の反応がかわいいから。彼女が愛おしいから。 「顔を見せてよ」 そっと顔を隠している彼女の腕をとって、彼女を捕まえる。 潤んだ瞳、蒸気した頬、上目遣いで責めるように自分を見つめる彼女がとても愛らしい。 「今日のニワトコ様、少し意地悪でございます……」 「ごめんね、でも……」 ぼくのおひさまをひとりじめしているって実感が、ちょっとだけほしかったんだ。 ＊-＊-＊ すうっと息を吸い込む。昼夜の区別すら無い０世界だけれど、こうして桜が咲くとやはり春だなぁと思う。 胸いっぱいに春の匂いを吸い込んで、先ほど触れた彼女のぬくもりを思い出す。 機嫌を直して取り皿にお重の中身をよそってくれる彼女を見つつ、思う。 （大切なひとのぬくもりがあって。またこうやってふたりで桜の木の下、いられることがとても嬉しいし、しあわせ） どの季節にもいいところがあるけれど、やはり春は好きだと思う。愛しい人といれば尚更だ。 「ニワトコ様、どうぞ」 差し出されたお皿には、菜の花の炒めものや卵焼き、人参とごぼうを使った煮物など、見目にも鮮やかな料理が並んでいる。 彼女はニワトコが味がわからないからといって、適当な扱いなんてしない。むしろ味の分からないニワトコにも楽しめるよう、食感の異なる料理を色々と用意してくれる。 「卵焼きはほんのり甘目にしてみました。炒めものは塩と胡椒の味付けに少しだけ醤油を垂らして、少々しょっぱい系の味付けに。煮物はピリ辛の煮付けになっております」 丁寧に説明をしてくれて、ニワトコが『体験』した味と照らしあわせやすくしてくれた。細やかな心遣いが嬉しいとともに思い出すのは前のお花見の時に食べたもの。 （あとでその味を体験したっけ） ……彼女の思いも共に。 ゆっくりとフォークを使って一つ一つていねいに食べていくニワトコ。彼女はそんな彼をじっと見つめている。味がわからないと知っていても、やはり反応が気になるのだろう。 （味はわからなくても、込められた思いは届くよ……） だから、ニワトコは満面の笑みを浮かべる。 「……美味しい」 そう微笑めば、彼女はホッとしたように息をついて。ニワトコに向けてくれたのは笑顔。その笑顔がとても可愛かったから。 「ぼくこの卵焼き、好きだよ。口の中でふわっと溶けるみたいで。ほんのり甘いのを想像すると、なんだかあの時のくちづけを思い出すんだ」 「……！ そうでございますか……。また、作りますね……今度」 照れた彼女はリンゴみたいで、きっと甘くみずみずしいのだろう。 結んだ約束は近いうちに実現される。それがわかっているから、ニワトコも「約束だよ」と微笑んだ。 「ええ、約束、です」 彼女が出した右手の小指。真似するように小指を取り出すと、彼女がニワトコの小指に指を絡めてくる。 「指きりげんまん、でございます」 幼子のするような約束の儀式ではあるが、きっと、この二人にはふさわしい約束の方法だ。 小指から伝わる熱が、愛しい、愛しいと叫んでいるのが伝わってしまわないだろうか。少しだけどきどきしながら「ゆびきりげんまん」と返したニワトコ。 気のせいでなかったら、彼女の小指の熱も、愛しい愛しいと叫んでいたような気がする。 ＊-＊-＊ お重の中身を分けあって、お腹もくちくなって、風に乗って桜の花びらがはらはらと舞うのを二人で見つめる。 黙っていても、居心地の良い空間というのはそうそうあるものではない。こうしてふたりでいるだけで安らげる、そのことに感謝する。 「ニワトコ様、ニワトコ様」 そっと、甘い声で彼女がニワトコを呼んだ。ニワトコは「なぁに？」と首を傾げながらも、自分を蠱惑的に招く彼女の白い指先に吸い寄せられていく。 「よろしければ……その、ここに……」 恥じらうように小さな声で彼女が示したのは、自分の膝のあたり。 「え？」 彼女の意図がわからなくて首を傾げると、夢幻の宮はしびれを切らしたようにニワトコの腕を引いた。 「わぁっ！？」 予期していなかった彼女の行動に、ニワトコの上半身が傾く。傾きはじめた上半身はニワトコにも制御できず、そのまま傾いで――。 ぽふっ。 「！？」 「……！？」 彼女の本来の意図とは違っただろうが、ニワトコを受け止めたのは夢幻の宮の胸元だった。 それでもいつものように十二単や和服だったら感触も違っただろう。だが幸か不幸か、今日の彼女は桜色のワンピースをまとっていた。 『お花見ですし、ニワトコ様と一緒ですから特別です』 出迎えた彼女を見て驚いたニワトコに、恥じらいながらそういった彼女のことを覚えている。 （や、柔らかい……それに、どきどきって音が聞こえる……） 「あ、の……」 思い出し、そしてその感触に浸っていた彼の耳に弱々しく遠慮がちな彼女の声が降ってくる。 「霞子さん、どきどきしてるね」 「それは……はい、当然でございまする……」 「それにすごい、あたたかい……」 もぞ、と顔を半分うずめるように動かして、彼女の鼓動を聞きながら視線を庭へと移せば、いたずらな風が桜を散らして花びらの雨が振っている最中だった。ニワトコはそっと彼女の背中に手を回した。ぴくっと彼女の身体が震えたのがわかったが、逃がさない、無意識にそんな気持ちが浮かんできて、きゅっと彼女を捕らえる。 「……」 彼女はもとより逃げようとしていなかった。ただ、その行動に驚いただけで、触れたところから感じる気持ちと熱に鼓動が早くなっていく。早くなっていく鼓動を聞かれていると思うと恥ずかしさが募り、更に鼓動が駆ける。 「霞子さん」 「……はい」 「今年も一緒に桜が見られて良かった」 「私もでございます」 夢幻の宮はそっと、自分の胸に顔を埋めるニワトコの肩に腕を置いて、背中を抱くように手を伸ばした。その優しい手つきから愛しくて愛しくてたまらない、そんな気持ちが伝わってくるから、ニワトコは自然、笑顔になって。 「来年もまたその次の年もずっと、一緒にお花見しようね」 「……ええ。もちろんでございます」 それは、ここで、かもしれないし、もしかしたら、別の場所かもしれないけれど。 「桜や花が咲かない場所だったら……ぼくの花でお花見しようか？」 「それは……楽しみでございまするね」 くすくすと彼女は笑う。冗談のつもりではなかったけれど、彼女が笑ってくれるなら、それでいいかもと思えてくる。 「また、共に春を迎えたく思います」 「ふたりでまた春を迎えたいね」 「「！？」」 二人の声が重なって、花の散る中に響いた。驚いて顔を上げたニワトコと、目を見開いた夢幻の宮の視線が絡まる。 「なんだ……」 「同じ事をを考えていたのですね」 嬉しいような、ホッとしたような不思議な感覚で互いを見つめる。 同じコトを考えていたとわかると、不思議と愛しさが募って募って抑えきれなくなりそうで。 好き、愛しい、愛してる……どの言葉もふさわしくて、でもどの言葉もしっくり来ない気がして。 この募る想いはどんな言葉で表せばいいのだろう？ 百年先も一緒に春を迎えよう？ ――違う。 そうだ、たしかこういう時は……。 ゆっくりと自分の力で上体を支え、ニワトコは座ったまま彼女ににじり寄る。近づいてくる視線に彼女は何か予感じみたものを感じたのだろうか、そのまま視線を動かさずに潤んだ瞳でニワトコを見つめて。 膝がぶつかる。ニワトコは上体を傾けて、彼女にゆっくりと顔を近づける。自然に目を細めて、そして――。 氷の花の咲く草原で合わせた唇。 ひとが愛を伝える仕草は、ニワトコには新鮮で。 使いどころが間違っていないといいけど……そんな思いはすぐに消えた。 そっと、唇と唇を合わせる。 彼女が瞳を閉じたのを確認して、自分も細めた瞳を閉じて。 支えるように彼女の肩に手をおいて、角度を変えて二度、三度くちづけて。 ついばむように、しっとり熱を感じるように。 薄く開けた瞳に映った彼女の蒸気したとろんとした顔がとても妖艶でだったから、愛しさを伝えるためにまた、くちづけて。 そっと唇の隙間に差し入れられた舌に最初は驚いたけれど、違和感は感じなかった。 「ん、……ふぅ……」 口内を撫でるように、絡めるように舌を動かして。時折漏れる吐息は桜色に染まっているであろう互いの頬を更に赤く染める。 数を重ねるくちづけとは違って、唇をあわせている時間が長いから、どこで息継ぎをすればいいんだろう、頭の隅にそんな疑問が浮かぶ。 「あ、んふ……」 銀の糸をひくようにして離した唇。熱を持った互いの瞳が一歩進んだ関係を照れたように見つめていて。と……。 くらり…… ニワトコの視界が揺らいだ。少しだけ頭痛がする。 「ニワトコ様！？」 慌てた彼女がニワトコの身体を抱きしめた感触は覚えていた。 ＊-＊-＊ 「……あれ？」 目が覚めるとニワトコの顔を覗きこむようにして夢幻の宮が見下ろしていた。頭の下には柔らかい感触。あとで気がついたことだがそれは彼女の太ももで、膝枕という状態だった。 「ニワトコ様！？ よかった、お目覚めになって……。 「霞子さん、どうしたの……？」 彼女が泣きそうな顔をしているから、ニワトコはそっと手を持ち上げて彼女の頬に触れた。そして自分の記憶をまさぐる。 そうだ、くちづけの後、頭がクラクラして……」 「その、くちづけの時に……」 困ったように彼女が告げるには、長いくちづけの際にニワトコは息継ぎをしていなかったのではないか、というのだ。確かに、長いくちづけの時にどうやって息をすればよかったのかわからなかった。 「申し訳ありません……すこし、調子に乗ってしまったようです……」 「そんな、謝らないでよ。ぼくだって、うれしかった、から」 そう、彼女を今までよりも身近に感じられたようで。ひとが愛を伝える仕草をもっと教えてもらえて嬉しかった。彼女が謝るのなら、拒まなかった自分にも責任はある。 「そうだ。謝る代わりにもう一度……だめかな？」 「まぁ」 ニワトコのおねだりに目を見開いた彼女は笑って。 「駄目なことなどございません」 そっと、唇を近づけて瞳を閉じたのだった。 桜の咲き誇る庭で。 【了】
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