「メイヒさん、やっぱり無理しない方がいいんじゃないですか?」 「いえ、今日中に届けると連絡しているんですもの。きっと心待ちにしているわ」 「だからって、もう日が暮れちゃいますよ? だいたい、メイヒさん、最近ずっと例の事件で寝てなかったじゃないですか」 「でも、決めたことだもの」 「だったら、せめてその荷物、ぜんぶ俺に持たせてくださいよ」 「高杉くんこそ、犯人を取り押さえる時に腰を痛めているでしょう?」 流鏑馬明日が、ガタイが良くて人なつこい新人が歩いているのは車では入ることのできない山道であり、揃って抱える段ボールの箱は時効が成立した事件の、当時証拠品として押収された品々だった。 目指しているのは、断崖絶壁の上に佇む屋敷。 ふたりが所属する班は今日の夕方に大きなヤマを解決した。その足で、明日はこの仕事を引き受けたのである。 そんなことはもっと暇な部署に任せておけよ、という同僚の忠告めいた言葉もあるにはあったが、やれる人間がやればいいというのが明日の返答だった。 「……それに、私がここへ来たかったのよ」 「え、なんか言いました?」 きょとんとしたカオでこちらを振り返るのへ、軽く首を振って答える。 「なんでもないわ」 「そうですか? ……っと、あ、ああ、メイヒさん、アレじゃないですか、ほら、あれ!」 彼の声が、ぱぁっと明るくなったのが分かる。 つられるようにして顔を上げ、木々が生い茂る道の向こうに開けた空間と、そうしてひときわ異質な存在感を放って佇む古い漆塗りと思える屋敷が眼に入った。 潮の香りが、ふと鼻先を掠めた。 * 君が本当は誰を愛していたのか、知らなかったわけではない。 だからこそ、君は死を選んだのだろう? * 「メイヒさん、ここ、チャイムどこですかね?」 「呼び出しを目的としてるなら、あなたの目の前にあるわ」 「へ?」 扉につけられていたのは、チャイムなどという現代的な物ではなく、時代を感じさせるライオンを模ったノッカーだった。 「いかにもって感じですね」 ひとしきりそれを眺めてから、彼は徐にノッカーへ手を掛ける。 力加減が分からないのか、最初はおずおずと遠慮がちに、けれどすぐに思い切って、屋敷に来訪の音を響かせた。 ほどなくして、 「お待ちしておりました、捜査一課の流鏑馬様と高杉様ですね」 扉が奥へと引き込まれ、中から姿を現したのはスーツ姿の老執事だった。 「どうぞお入りください。蝶子お嬢様がお待ちです」 「わかりました」 誘われるままにエントランスホールへと足を踏み入れた瞬間、高杉は惚けたように天井を見上げたまま、呟く。 シャンデリアに照らされた大階段の先には壁一面の本棚、その中央には巨大な肖像画が掲げられ、階段下には甲冑の騎士が槍を携え佇んでいる。 「なんかすげえンですけど、俺たち場違いじゃないですかね?」 「さあ、どうかしら」 しかし、明日自身は、こういった館そのものに実はあまり物怖じしない。 なんとなれば、かつての赴任先には豪奢な館や気品あふれる屋敷が数多く存在し、そこで起きた事件を相棒とともに解決してきた経験があったから。 そんなやりとりをしている間に、その大階段からこちらへとやってくる女性の姿が視界に入る。 「ああ、来てくださったのね。ありがとう」 微笑み、自分たちを迎えてくれた彼女は、驚くほど透き通った白い肌をしていた。それがいっそう儚げで、切なげな陰りを落として見える。 「遅くなってしまい申し訳ありません。長らくお預かりしていた品物を返しに来ました。どこに運んだらいいかしら?」 「父の書庫に、といいたいところだけれど、それは及川にお願いするわ。刑事さんたちには、ここまでわざわざ運んで頂いたんだもの」 「いやいや、そんなの悪いんで俺らが最後まで運びますよ。ね、メイヒさん」 「ええ」 「でも……」 「事件を解決できなかったせめてもの罪滅ぼし、というのもおかしいけれど、やらせてほしいの」 「わかりましたわ。ではこちらへ」 一瞬驚いたカオをして、それから、彼女はゆっくりと頷いた。 「お嬢様」 「及川、あなたは刑事さんたちのためにお茶の準備をしてちょうだい。書庫に行ってくるわ。……では、こちらへ」 令嬢に案内されるまま、目の前の大階段を上り、ふたりは揃って2階を目指す。 その際、ひそりと明日に高杉は身を寄せ、小さく囁く。 「ナイスアシスト高杉、って褒めてください。現場、自分の目で見たかったんでしょ?」 「ナイスアシスト、高杉……これで良いかしら?」 「笑ったら絶対可愛いのに、でもそのクールに見えてマジボケなトコも可愛いですよね」 「あなたが何を言っているのか分からないわ」 「署の男性陣の総意を伝えてるだけですよ」 階段を上りきったのちは、長い廊下をいくつか曲がらなければならない。 所々に窓があり、時には潮騒とともに眼下に波打つ海が見えた。 日が暮れたあとの海は、吸い込まれそうなほどに暗く冷たい。 ざわりと反射的に肌が粟立つのを感じながら、明日はそっと視線を逸らした。 「こちらですわ」 蝶子の言葉とともに、重厚な木製の扉が押し開かれる。 「うわあ」 素直な高杉の口から、素直に感嘆の溜息が漏れた。 15年前の事件現場――館主が毒雑された《書庫》は、天井までそびえる本棚で壁のほとんどが占めている。 閉め切られたカーテンを、蝶子は開き、窓を開けた。 そこからも、潮騒と潮の香りがやってくる。 「もう、あれから15年が経ったなんて到底思えませんわ」 「結局犯人を見つけられずに時効を向かえてしまい、なんていったら良いのか……ごめんなさい」 深々と頭を下げる明日と、それに倣って同じく頭を下げる高杉に、彼女はゆるやかに頭を振った。 「どうか謝らないで。仕方のないことですもの。いまでもまだ時々ふと、“面白い本を見つけてきたんだ“なんて言いながら、帰ってくるような気がしてしまうけれど」 事件当時、彼女は5歳の誕生日を迎えたばかりの小さな少女だった。 屋敷で催された少女のための誕生パーティは、叔父と、それから叔母夫婦とその娘達も招き、父娘2人きりの生活の中では数少ない賑やかな時間となっていた。 けれど悲劇は、その夜に起きた。 パーティが終わった翌日、起きてこない父親を心配する蝶子の頼みで、親戚達は使用人達とともに屋敷中を探し回り―― この書庫で、遺体として発見された。 第一発見者は叔父と及川だった。 扉には内側から鍵が掛けられており、窓は開いていたが外は断崖絶壁、一見すると自殺と見えないこともなかった。 だが、遺体の傍に含んだはずの毒物は見当たらず、屋敷と関係者全員を調べて尚見つからず、動機の不明さとも相まって、単純に思えた事件はそのまま暗礁に乗り上げたのだ。 「父はどうして亡くならなければいけなかったのか……それが私の15年の謎でしたわ」 事件が時効を迎えたからだろうか。 蝶子はすべてを過去形で語る。 「あのあと叔父が私を引き取ってくださると……独身の自分なら気兼ねないだろうとも言ってくださって。けれど、結局今日までこの家に留まり続けたのも、もしかするとずっと答えを探していたせいかもしれませんわね」 彼女の言葉を聞きながら、明日は高杉とともに元あった場所へと段ボールの中身を戻していく。 現場が書庫だっただけに、押収された品物のほとんどが書物だ。 棚にはジャンルに分けて細かく分類表示されているため、タイトルからジャンルが分かれば、そう面倒な作業でもなかった。 「当時はこれらがぜんぶ床に散らばってたんでしたっけ」 高杉は着々と戻しながらも、感慨深げに呟く。 「人魚姫に不思議の国のアリス、それからポーにコナン・ドイルか……童話とかミステリーを原著でってのがすごい」 「“物語”を父はとても愛しておりましたの。私のために用意してくれたものも多くて」 「あなたのお父さんは遺伝の分野にも興味が?」 明日はその中でふと目についた1冊に首を傾げる。 「どうなのかしら? 興味を引かれるものなら際限なく手にしていたから、あるいは」 そこでふと蝶子は思いついたように質問してくる。 「そうだわ、刑事さんのお父様は、どんなご趣味が?」 「私の父は刑事だったの、でも物心つく頃にはもう。だから、そうして想い出を語れるあなたが羨ましいと思うわ」 「あら、私ったら」 「いえ、いいの……それよりこの部屋、出入り口は扉だけなのかしら。暖炉や本棚の裏とか、いかにも隠し通路がありそうなのに」 「謎の建築家が建てた、みたいな感じですね、メイヒさん」 「刑事さんでもミステリーを読まれますの?」 「俺はメイヒさんの影響で」 「私は、あるヒトの影響で」 今はもういない、けれどとても大切に想っていたヒトとの静かな時間が胸を過ぎる。 「そういえば、ここからも海が見えるのね」 「人魚姫のお話、読んだことがあって?」 「王子様に恋をして、けれど結局叶わず泡になって消えたお話ね」 声を捨て、家族を捨て、自由を捨てて、人間になった人魚姫。けれど、その恋は報われずに、海の泡となって終わる。 明日の心に刺さったままの、喪失の棘が疼く。 「お話はそこで終わりではないのよ? あの人魚姫は陽の光を浴びて空へ昇り、空気の精となった、そうして300年の間、人々を笑顔にできたのなら不死の魂と幸せを手に入れられるのだって」 フフ、と彼女は懐かしげに微笑んだ。 「だから父は、母を亡くしてすぐにここへ屋敷を建てたと話してくれたのですわ。あらゆる場所から海が望めるここに」 「……それって」 それは何かおかしくないだろうか。 他者の感傷に異議を唱えるのもオカシイかもしれないが、違和感を覚える。 妻として迎えたのなら人魚姫ではない。人魚姫と重ね見るのなら、それは悲恋が前提ではないのだろうか。 不意に、コツコツと控えめに扉がノックされた。 「お茶の準備が整いました、お嬢様」 「ありがとう。さあ、サロンの方へどうぞ。私が焼いたクッキーもご一緒に召し上がってね?」 * これを復讐というのなら、甘んじて受け入れよう。 真実はすべてこの部屋に隠す。 あの子が成人した時、それでも真実を秘していられるかは分からないが…… * ティーサロンに用意された茶会の席は、庶民を地でいく高杉にはあまりにも煌びやかだった。 執事が傍らに控えているという状況も落ち着かない。 だが席に着き、令嬢直々に焼いたからと勧められたクッキーを見た瞬間、彼は別の意味で絶句した。 「……」 彼に対し、むしろ明日はこれまで見た中でもっとも分かりやすく感激しているようだった。 「かわいいわ、とても」 「まあ、よかった! わかってくれるのね」 嬉しそうに笑いながら、蝶子は猫とも馬とも豚ともボロ雑巾ともつかないキャラクターのクッキーを自らも手にする。 「私、小さい頃からこの子がすごく気に入っていたんですの。叔父と一緒にクッキーを作って父にあげたこともあったわ」 そこで、ふと彼女は思い詰めた表情となり、そして、徐に告げた。 「ねえ、おふたりとも、今日はこのまま泊まってらして? 夜ももう遅いもの。ね? ほら、雨も降り出したわ。きっと嵐が来る」 「ですが」 「私がいてほしいの。ねえ、刑事さんたちはきっと幽霊が出るなんていっても信じてはくださらないでしょう?」 「へ? 幽霊!?」 素っ頓狂な声をあげた高杉に微苦笑を向けて、はずかしいのだけど、と蝶子は続けた。 20歳の誕生日を迎える数日前から、幽霊騒ぎは唐突に起きた。 書庫を中心に屋敷を徘徊する《旦那様》を見たという使用人の証言をはじめ、蝶子自身も薄闇の中、遠目だがいるはずのない父が書庫へ入っていくのを見た。 「例え幽霊でも、父が私に会いに来てくれているのなら不思議と怖くないのだけれど……」 「残念だけれどこの世に幽霊は存在しないわ。存在しない者が存在するとしたら、それは人間でしかあり得ない」 「では、この謎を解いてくださるかしら?」 「……ええ。そして、15年前の真相についても」 「え」 15年前、密室はいかにして作られたのか。 そして犯人と毒物はどこへ消えたのか。 小さな違和感に答えを嵌め込むように、明日はゆっくりと、かつてバラバラに砕かれてしまった真実に至るロジックを構築しはじめた。 Thinking time Start!
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