あの方を放置することは病を野放しにするのと等しい――ファミリーが恐れるファミリー、悪意そのものである《鉄仮面の囚人》の生存が確認されてから、ターミナルはざわりと落ち着かない。 世界司書ヴァン・A・ルルーが館長の命のもと、ロストナンバーたちに向けて情報収集を呼びかけたことは記憶に新しい。 同時に、先だって理事会の承認を得、ターミナルに組織された自警団によって、かの囚人の捜査並びに関係者に対しての事情聴取が行われたことを知るモノも少なくないはずだ。 不穏な気配は至る所に広がっている。 不審の種が芽吹く音すらも、鋭敏な聴覚になら届いていただろう。 * 君に《運命の音》は聞こえるか? * 結論から言えば、《ネモの湖畔》を訪れたムジカ・アンジェロと由良久秀がエイドリアンに会うことは叶わなかった。 かつてこの場所を、『生きている者は誰もいない』と評した男がいたが、ガラスに描いた水彩画の如く静寂と透明感に満ちたチェンバーはいままさにその言葉を肌で感じ取れる有様だ。 訪れたときにはいつも耳にした、繊細なヴァイオリンの旋律もなければ、美しい歌姫の声も聞こえてこない。 完全な沈黙。 静止した世界。 ただし、屋敷で応対してくれた使用人からは、一通の封書と、そしてエイドリアンが好んで用いる蓄音機をふとつ託された。「これは?」 問いかけるムジカに、使用人は微かに目を伏せ、頭を振って答える。「旦那様から、詳しいお話はたまわっておりません。ただ、アンジェロ様と由良様がいらしたのなら、こちらを渡せとの仰せでしたので」 エイドリアンからの言づては特にないという。 ただ、これをふたりが来たら渡してほしいとだけ聞いていると。 封書には、手紙の代わりに二人分のオペラ《オセロ》の公演チケット、そしてツーリストである由良のためにと壱番世界行きの乗車チケットが収められている。 小箱のひとつは、いまだ空のまま。 小箱のもうひとつは、ブルーサファイアの輝きを放ち、旋律を取り込んでいることを知らせていた。「……どういうことだと思う、由良?」「分かっていて聞くな。行けってことだろう」 エイドリアンからふたりへと託された、これは《蒐集依頼》と解釈できるだろう。 行くべきか、行かざるべきか――悩む必要などどこにもない。 蓄音機に収めるほどの『旋律』とは一体なんであるのか、その謎を求めるように、ムジカと由良は揃って壱番世界に向かうことを決めていた。 * あなたのその愛を、私は何で計れば良いのかしら? * その英国のオペラハウスは、19世紀から世襲制で繋がってきた希有な劇場だった。 凛とした佇まいは、見るモノを中世の幻想に誘うのだろう。「200年近くも前の話ですよ」 曾祖父から聞いた話だと告げる年若い劇場支配人は、そうして目を細めて、オペラ座の天井を振り仰いだ。 つられて視線を向ければ、大ホールを見下ろす豪奢なシャンデリアが煌めきながら光を降り注ぎ、無人のロイヤルボックスの際立たせているのが分かる。「かつてこのオペラ座で、ひとりの歌姫が姿を消したんです。ある公演でプリマドンナが怪我をし、代わりにと主役に大抜擢されてから、ずっとトップで居続けた方なんですが」 しかし、彼女は突如失踪する。 忽然と、まるでファントムにでも攫われたかのように、すべてを置き去りにして、消えてしまった。「たおやかで若く美しく、才能あふれた彼女には“音楽の天使がついている”と言われていたとか」 実際には音楽家のパトロンがいたのだろう、と彼は笑った。「彼女のファンは多かった?」 ムジカの問いに、支配人はこくりと頷く。「伝え聞いた話ですけど、それはそれは。だからでしょうかね、彼女の周りではいくつか怪奇現象も起きていたそうですよ。火の玉をみたとか、壁から人の話し声が聞こえてきたとか、それ以外に脅迫状の類いも来ていたらしいですしね」「……それでよく歌う気になれるな」 気が知れないと告げる由良に、彼はやんわりと微笑んだ。「ある音楽家と恋仲になったという話も伝わっていますし、その方に捧げたかったのかもしれませんが……さて、本当はどうだったのか」 真実は、数百年の時の中に埋もれ、いまだ明確な姿を為していない。「以来このオペラ座では、《オセロ》の公演初日前夜に劇場を巡り、《歌姫》を探すのが習わしとなっているんです。おふたりもソレを目当てでいらしたのでしょう?」 ここは、ヴォロスでもなければ、ブルーインブルーでもない。 魔法も存在しなければ、海魔もいない。 では、歌姫はどこに消えたというのか。 歌姫の周りでは何が起きていたというのか。 そしてその歌姫は一体誰であり、自分たちは一体ここで何を蒐集すれば良いというのか。 とにもかくにも、探索し、そして最後に公演を見届けることが仕事となるのだろうか。 思案するように、沈黙したムジカの耳に、ふと、聞き覚えのある旋律が届く。「あれはまさか……」 劇場支配人は嬉しそうに笑った。「エイドリアン・エルトダウン氏を知っていらっしゃるんですか? 知る人ぞ知る、かの作曲家の作品も今日の公演で聞くことができますから、楽しみになさっていてください」 思いがけない……いや、どこかで予想していたのかも知れない、その名を聞き、改めてムジカと由良は、自分たちに託された蓄音機を思う。 既に収められている旋律、アレは確か《ネモの湖畔》で聞いた彼の妻の歌声ではなかったか――?=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良 久秀(cfvw5302)エイドリアン・エルトダウン(cwvc3640)=========
緑の目をした怪物は、ヒトの心をなぶりものにし、餌食とするのです。 * 「いくつか聞きたいことがあるんだが、構わないかな?」 ムジカは劇場支配人に向けて、微かに首を傾げてみせる。 「私で分かることでしたら」 「歌姫について、彼女が好んで歌っていた曲とかはあるかな? それ以外でも、分かる限りで逸話があれば知りたいんだが」 「逸話ですね」 この手の質問には慣れているのか、彼はにこやかに頷くと、するりとジャケットの内ポケットから一冊の古く傷みきった手帳を取り出した。 垣間見えたそのページにはみっしりと書き込みが為されている。 「本当はこれを諳んじるくらいにならなければいけないんですが、許してください」 そうして彼の口から綴られていくのは、200年近い時を超えてなお語り継がれる《歌姫の物語》だった。 「彼女は特に、切ない痛みや絶望、哀しい狂気の表現に長けていました。彼女が演じた《ハムレット》のオフィーリア役は格別、繊細で美しい想いと透明感が類を見なかった。フランスまで足を運んだ甲斐があったと、そう、曾祖父の日記には残されています」 純真であるが故に壊れてしまった《少女》の存在は痛切な棘として観客たちの記憶と心に突き刺さり、生涯忘れ得ぬ公演となったらしい。 「実は、その役が彼女の出世作でもありまして。本来のオフィーリア役が怪我を負い、結果、ただのコーラスガールだった彼女が大抜擢を受けたのですが、数多の反対を捩じ伏せて押し切ったその成果は絶大でした」 「へえ……それで、抜擢の理由は?」 「彼女の天性の才能に惚れ込んだ音楽家からの推薦だったとか。いささか強引ではありましたが、その口添えがあったおかげで、フランスのみならず、オペラ界として得がたい才能を早々に世へ広めることができたのです」 「ふむ」 思案するように、ムジカは顎に指を添え、ロイヤルボックスへと移す。 歌姫がエイドリアン・エルトダウンの細君マリーであるならば、《音楽の天使》はエイドリアンその人であろう。 しかし厳格な彼が、例え才能を見出していたとして、ゴリ押しする真似を果たしてするだろうか。 「まるでオペラ座の怪人だな」 ぐるりと思考を巡らせるムジカの隣で、ぼそりと由良が呟く。 「そう、まさに《オペラ座の怪人》そのものなんです! しかし、クリスティーヌはラウルによってこの世界へ戻ってきましたが、彼女が帰ってくることはなかった」 「《オペラ座の怪人》が発表されたのは1901年だったと思うが?」 「ええ。失踪事件から数十年を経て、ようやくその物語は世に出ました。ですから、関連づけたのは後世の人間であり、当時はもちろん、こんな比喩は使われていませんでした」 「ふん……で、音楽家の恋人とやらはどうした? 彼は歌姫の公演にはよく来ていたのか? オセロの公演当日も?」 「ええと……少々お待ちください」 支配人は曾祖父の日記帳を繰り、ページを前後させながら、記述を探っていく。 「……招待状は渡っていたようですが、どうやら当日は来ていないようです。歌姫が目当てだとしたら、失踪してしまった以上来る意味がなくなったのかもしれません」 「もうひとつ。歌姫を公演前夜に探すのは、失踪以降に目撃された事があるからか?」 「いえ、そのような記録はないですね。本当に消えてしまったんです。以来その姿を見たものはいない、ということになっています」 由良の質問のひとつひとつに、支配人は丁寧に答える。 「エイドリアン卿が作曲を依頼された経緯については伝わっているのか?」 「ああ、卿は曾祖父と交流がありまして、この劇場の後援者でもありましたから。曾祖父が先代から劇場を引き継いだ際に楽曲の提供をしてくださったのです」 歌姫の恋人であったから、あるいは彼女に想いを寄せていたから、というワケではないらしい。 一通りの問いが落ち着いたところを見計らい、ムジカが言葉を差し入れる。 「彼女の、当時の控室は残っているのかな?」 「もちろん、失踪当時のままに」 支配人の案内を受け、ふたりは揃って舞台裏へと踏み込んでいく。 「ところで最初に聞きそびれていたんだが」 「はい、なんでしょう、由良さま?」 「歌姫の名は?」 「ああ」 にこやかに、そしてどこか誇らしげに、支配人は答える。 「歌姫の名はマリー・セヴェール。この世ならざる声に誰もが恋をした《天上の美》を体現なさる方です」 * 何故私を選ばないのか、その理由を教えてくれ。 * 歌姫の控え室を訪れる際には、心ない者たちが荒らしたりしないように、歴代の支配人が調査に立ち会うのが慣例らしい。 彼の視線を受けながら、由良はカメラを構え、数回シャッターを切る。 ファインダー越しに覗いた《歌姫の控え室》は、200年近い時を経て尚、その美しさを保ち続けている。 まるで繰り返し公演を続けてきた舞台装置そのもの、現実感の希薄なこの違和感は覚えのあるものだ。 「ずいぶんと難しい顔をしているじゃないか、由良」 「劇場と聞けば、連想するのはひとつだ」 「ああ」 その言葉に、くつりと、笑みでムジカは喉を震わせる。 「鏡の裏か、壁の間か、……それらしいところはいくらでもあるからね」 「シャンデリアの上か、ロイヤルボックスの椅子の下か、こういったことを仕掛ける酔狂な奴らはいくらでもいるだろ」 彼女は忽然と姿を消した――そのトリックの見解はおそらく、互いにそう違ってはいないはずだ。 「あとは、公演初日を控えていながら失踪する理由かな?」 「……怪我でもしたか? 周りで奇妙な出来事が起きていたんだろう? 警告だったとしたら、それを無視すれば実力行使に出もする」 「ふむ……もしかすると襲われたのかもしれない。窮地に立たされた彼女は、音楽の天使に手を引かれ、逃げ出した」 「そういやオペラ座の怪人は姿を見せず、だがどこにでも現れるんだったな」 言いながら鏡台に近づくと、由良はそろりと指を這わせる。 「ああ、なるほど」 笑いながら、ムジカもまた反対側から鏡台に触れていく。 「その鏡台を調べられる方も多かったですよ」 でも何も変わったところはなかったという支配人の言葉に、ムジカは微笑んで答える。 「こういう場合にはちょっとしたコツがあるんだ」 「……」 何度経験しただろうか。 はじめから答えを知っており、そうするのが当然であるかのように、鏡台を縁取る花々を模った装飾の、その両側にふたり揃って手をかければ、指先の感覚が自分の考えの正しさを知らせてくれる。 ――がこん。 鏡は彼らの前で上にスライドし、隠し通路への口を開いた。 「え……まさか、そんな」 「やはりな。……怪奇現象もこれで説明がつくだろう。明かりを手に、裏側を動き回れば火の玉富間違える奴だって当然出てくる」 「それじゃあ、これから少々歩き回らせてもらうよ」 ぽかんと口を開けたまま固まった支配人に見送られながら、ムジカは土足をわびて鏡台に足を掛け、由良も共に鏡の向こう側へと身を滑らせた。 * あなたは私を見ているのかしら? * 鏡の裏側に広がる光景は、廃墟となった音楽都市での一幕を思い出させる。 音楽の天使によって刻まれたのだろう五線譜と、途切れ途切れながらも残された旋律と、秘密。 エイドリアンの遣いで訪れたあの場所で、自分たちは《音楽の天使》の最終楽章と出会った。 「もしかすると、ここにも世に出ることの叶わなかった楽譜があるのかもしれないな」 「俺たちへの依頼は、本当にただオセロの公演を蒐集するだけか?」 「どうかな……ただ、この劇場へ招かれた時点で、おれたちは秘密に踏み込むことを許されたのだとは思うけれどね」 ネモの湖畔で二人静かに過ごしてきた彼らにまつわるものが、おそらくここにはあるのだろうか。 「そういえば、由良。オセロの筋書きは?」 「一応頭に入れた……だが、わからん。理解できない」 移動するロストレイルの中で読んでいたのは見ている。だが、筋書きは分かっても、登場人物の心情そのものを理解できたとは言えないらしい。 「だが、一応考えはした」 珍しく、由良が自ら語る。 既に恋仲であったマリーが、エイドリアンの背景も知っていたとしたらどうだろうか、と。 「今回の演目だからな。彼女はオセロの筋書に自らを重ね思う所があったのか? 恋人の心が前妻に残っているという疑念に捕われたのか」 エイドリアンは妻と死別している。 かの演出家にして思想家である男の言葉を真実とするならば、その《前妻》は自殺――ソレも湖畔に漂い、まるでミレーが描くオフィーリアのごとき《最期》を迎えている。 自分を見初めてくれた《音楽の天使》は、本当に自分を愛しているのだろうか。 音楽の天使が心からの愛を注ぎ、曲を捧げるのは、本当に自分で間違いないのだろうか。 例えその事実がなくとも、戯曲《オセロ》と同じように彼女の中でエイドリアンへの疑念がふくれあがっていたとしたら――? 「疑惑の種を一体誰が植え付けたかという謎が出てくるがな」 「彼女にレッスンを行っていたのは卿だと、おれは思っているんだ。《オセロ》をなぞるなら、ふたりを陥れようとしたモノがいたのかもしれない」 そのムジカの言葉が、ふと途切れる。 どうしたのかと、由良が彼に問うことはない。 ふたりの目の前に、錆付いた鉄の扉が立ちふさがっていた。 迷いなく手を掛ける。 扉は悲鳴じみた軋んだ音を立てながら、それでもゆっくりと押し開かれ―― 「ここは……」 ふたりの目の前にほのかな明かりを伴って浮かび上がるのは、褪せてはいるが繊細な壁紙に数多の楽譜を収めた書棚、そうして現在では『ピリオド・ヴィンテージ』と称されるプレイエル・ピアノが置かれた音楽室だった。 「……ここで、ふたりはレッスンをしていたのか」 どこか《ネモの湖畔》に通じる静謐さと上品さを感じ取り、そっとムジカはピアノへ歩み寄る。 長い年月を経ているはずだが、鍵盤ブタにも埃はさほど積もっている様子はない。 「おれ達の前に誰かがここへ来ているということか」 「……ムジカ、《疑惑の種》だ」 背後にいたはずの由良の手には、どこから見つけたのか一枚の写真が握られていた。 「それは?」 「書棚の裏に落ちていた」 螺旋飯店で見た肖像画と一致する――どことなくベンジャミンを彷彿とさせるソレは、エイドリアン・エルトダウンの前妻に他ならない。 そしてその裏に綴られているのは、 『恋人と定めた男が真実愛しているものが誰か、君は知っているかね?』 「なるほど・イアーゴが仕掛けた《ハンカチ》の代わりがコレということか」 「だろうな」 変色した写真の裏には、さらにびっしりと言葉が書き連ねられている。 『あの男は、君を見ているのではない。君に妻を重ね見ているに過ぎないのだよ。さあ、偽りの愛から解き放たれ、私の手を取りなさい』 『君が歌を捧げるべきは私のはずだ、愛しい人。偽りの愛に惑わされてはいけない』 『何故私の愛を受け入れない、君こそがプリマドンナにふさわしいと幾度も劇場に進言し続けた私ではなく、何故不誠実な男の手を取るのだ』 『私は君を見ていた、君だけを見続けている、君の才能を本当に理解し、開花させられるのは私だけなのだよ、愛しい人』 『さあ、その証拠を見せてあげよう』 『愛を騙る男の真実をみせてやろう、愛しい君よ』 そこにあるのは、《愛》という免罪符を振りかざしながら吹き込まれていく猛毒の棘、執拗に追い詰めることを目的とした凶器だ。 「歌姫に向けて花を贈り続けていたのは、この男か? 脅迫状の送り主も……」 「いつしか歌姫はあの《柳の歌》を、作曲家に向けて歌いはじめていたのかもしれない。緑の目の怪物に、彼女の心が食い破られかけていたのかも」 歌姫マリー・セヴェールは、哀しい狂気と絶望を表現するとき、最も高い評価を得ていたという。 この《進言》によって彼女の奏でるデズデモーナの旋律がより一層美しく、切なく、鬼気迫るほどに昇華されていったとしたら。 突き刺さるほどに強く強く、想いは闇の底へと引き摺られていく。 「舞台には立てないほどに、彼女の心は変調をきたした?」 オセロの公演前夜、この送り主が彼女に一体何をしたのかは分からない、だが、彼女を見ていたエイドリアンは、おそらく彼女の手を取って―― 「ん?」 ムジカの視線が譜面代を超え、ピアノの内部へと注がれる。 そこには、幾分厚みのある茶封筒が置かれていた。 《これを君たちへ託す》 封筒に宛名はない。ただその一言だけが添えられているだけだ。 それでもムジカには、そして由良にも、誰がどのような意図でそうしたのかは理解できていた。 「支配人に交渉しなければいけないな」 「ああ」 * 私にはあの人の姿が見えるの。あの人はいまでもあなたの傍らにいて、あなたを捉えて放さないのだわ……っ! * 眼下に広がる観客席、頭上に輝くシャンデリア、舞台上に組まれた豪奢なセット、そして開演を待ち侘びる数多の人々の前で、《歌姫失踪の謎》を抱え続けた《オセロ》の幕は上がる。 「緑の目をした怪物、だったか」 「嫉妬はすべてを狂わせる。他人の領域を土足で踏み荒らすことすら正当化できるんだよ」 周囲の反対を押し切って一緒になることを誓ったオセロとデズデモーナ、ふたりにもたらされた奸計は、幸福になるはずの運命を狂わせ、破滅に向かわせる。 定められた筋書きの通りに、けっして救い出されることなく、物語は進行していくのだ。 それはまるで、エイドリアンとマリー、ふたりが辿った道筋でもあるかのようだ。 エイドリアンが指定していたというロイヤルボックスで、由良はムジカと共にソレを眺めていた。 夫妻が来るかもしれない、そんな淡い期待を抱いていたムジカを笑うことはできない。 自分もまた、彼らに出会えたらと、どこかで願っていたからだ。 しかし、他の誰かが訪れることもなく、舞台の上で《悲劇の幕》は予定調和の内に滞りなく降ろされた。 割れんばかりの拍手が劇場に響き渡り、カーテンコールとして再び幕が上がったとき、役者たちとともに中央に佇んでいたのは、やや緊張した面持ちの劇場支配人だった。 「本日はご来場、誠にありがとうございます。今宵、当劇場は200周年を迎えました。変わらぬ時を刻むことができる幸福に感謝し、かつてこの劇場を心から愛し、慈しんでくださった音楽家エイドリアン・エルトダウン氏の幻の楽曲を皆様と共に堪能したく……」 支配人の手には、指揮棒が握られていた。 彼もまた《音楽家》であったのだと、その時初めて知るものもいたかもしれない。 振り上げられ、振り下ろされる、彼の動きに合わせて、《曲》が音の洪水となってホールを盛大に包み込む。 胸を打つ、熱情を込めた悲愴なほど美しい月光のごとき序曲。 コーラスがそこへ重なる。 一気に盛り上がった音が、ふ…っと息を潜めるように緩やかな旋律へとリズムを変えた瞬間―― ムジカの手の中で、歌姫の声を閉じ込めていた蓄音機が反応した。 紡がれる、天上の美と讃えられた歌姫の旋律。 エイドリアン・エルトダウン作曲の美しいオーケストラに合わせて、失踪した《マリー・セヴェール》が200年近い時を経て、現代の舞台へと舞い戻る。 見れば、由良の手の中で沈黙していた音匣がブルーサファイアの輝きを宿していた。 200年の時を超えてようやく果たされた約束の旋律を、その身に取り込んでいるのだろう。 「……本当ならオセロ初演のあの日、ここでマリーに捧げられるはずだった曲だ」 もしも、公演初日を無事に終えたマリーがその舞台でこの曲を聞くことができていたのなら、緑の目の怪物が彼女の仲で牙を剥くことはなかったのかもしれない。 彼らを取り巻くすべての《悲劇》は、無かったことになったかもしれない。 だが、ソレはもう何ひとつ叶わないのだ。 「……もう、戻ってくることはないんだな」 「ああ、おそらくね」 初めて《ネモの湖畔》を訪れたときから、その幻想性と静寂さ、そしてエイドリアン・エルトダウンが抱く芸術的感性によって構築された世界に惹かれていた。 夫妻のいない湖畔には最早どのような価値も見いだせない自分たちにとって、この公演はエイドリアンからの別れの挨拶なのかもしれない。 「……まだ、おれにはあなたたちに贈りたい音楽があるんだ」 ヴォロスの楽園の音楽、ブルーインブルーで出会った人魚姫の歌、インヤンガイの迦陵頻伽の歌……それだけではない、もっと沢山の、自分が出会い、おそらくはエイドリアンが心惹かれるだろう《音楽》を聴かせたかった。 彼の呟きに、口にこそ出さないが、由良も同じ想いで頷く。 ムジカの言う音楽に添える写真ならばいくらでも、と。 「……メールを、出してみようか」 返ってこないかもしれない、届かないかもしれない、それでも想いを途切れたままにはできずに、ムジカはノートを手に取った。 * マリー・セヴェール、この曲を、妻となる君へ贈る。 周囲が如何なる言葉を投げつけようとも、私は変わらぬ愛を君に誓う。 * 後日。 由良とムジカのトラベラーズノートに、一通のエアメールが届く。 返ってくることはないと思っていた人物からの思いがけない《招待状》によって、ふたりは蓄音機を手にロストレイルへと乗り込むこととなるのだが、ソレはまた別のお話。 END
このライターへメールを送る