オープニング

 耳を澄ませば、儚く切ないピアノの旋律が届く。
 空を見上げれば、儚く美しいオーロラが波打つ。
 
 ガラスに描かれ、永遠に停止した絵画のようなチェンバー、《ネモの湖畔》を訪れたのはいつぶりだろうか。
 由良久秀は、ムジカ・アンジェロとともに、長く掛かった『依頼の遂行』のため、エイドリアン・エルトダウンの元を訪れていた。
 老執事によって案内されたのは、【カリスの招待状】を手に来た時と同じ、漆喰の天井を縁取る彫刻にも、床にも、窓枠にも、腰板にも、そしていま自分たちが座るソファセットにも、睡蓮が用いられた応接間だ。
 そこでふたりは、このチェンバーの主と対峙する。
「依頼の品がこれほどに遅くなってしまい、申し訳ありません」
 ムジカが先に頭を垂れ、続く由良は、持参した大型の封筒を差し出す。
「あなたが希望した『音楽の天使』が綴ったという最終楽章だ。あいにくと本物を持って帰ってくることはできなかったが」 
 この場所で、彼直々の依頼を受け、ブルーインブルーの廃墟の島へ出向いていったのもずいぶんと遠い。
 ホワイトタワーの崩壊とともにナラゴニア襲撃となり、気づけばクリスマスもとうに過ぎていた。
 本来ながらもっと早くに、彼の元を訪れるべきだったのだ。
 しかし、気難しい音楽家は、わずかに頭を振って、応える。
「いや、手に入れてもらえたのならソレで良い。礼を言おう」
 そうして彼は、大きく引き伸ばされた写真たちを目で追い始める。
 断崖絶壁に刻まれた音楽、岩に穿たれた穴を音符に、不規則ながら横に伸びていく傷痕を五線譜として読み解けば、かの音楽の天使が紡いだ《旋律》は蘇る。
 おそらくは今、エイドリアンの中にも、哀切と優越に満ちた最終楽章が流れているはずだ。
「……これは」
 写真は、やがて曲が持つ真実を告げる。
「それこそが、音楽の天使が望んだ結末だ」
 由良が短く答える。
 陽光を反射してオパールの輝きを放つウロコを持った巨大なウミヘビが、都市を再び呑み込んでいく様を克明に記録していた。
 ムジカの手を借り、俯瞰で目撃した音楽都市の姿がそこにある。
 いまもなお、自身の網膜に焼き付いている光景だった。
「良い写真だが……では、これはなんだね?」
 エイドリアンは眺めていた写真を数枚、こちらに向けて示す。
 2階の5番ボックス、ひしゃげたオルガンや浸水した廃墟、二重構造の壁に書斎、それらの合間にあり得ないモノが写り込んでいる。
「おれは、撮った覚えはないが」
「それじゃあ、由良は無意識にカメラを向けたって事かな?」
 あそこには、海魔以外と屍蝋化した死者以外には何もなかったはずだ。
 だが、いまこの写真の中には、女性らしき人影が写り込んでいる。
 別の写真では、暗闇に紛れてわかりにくいが、その人影が横たわるモノに何かを突き立てようとしているのが見て取れた。
 更に他の写真では、壁の向こう側へと、まるで幽霊のように消えてゆく姿が見受けられる。
 そしてその壁には、目を凝らせば、歪な楽譜が浮かび上がってくる。
「きみたちはあのオペラ座で、本物のファントムを捉えたのか、あるいはただの偶然か。この都市で何を本当に得てきたのだね?」
 音楽都市崩壊の《真実》を見届けたつもりが、もしかすると別の物語の観測者にもなっていたのかもしれない。
 そこに、また別の《音》が隠されている気さえし始める。
 あの日、あの時、あの《クローズド・サークル》の中で、何かが起き、自分たちは何を知っているのか。
 本来なら、ムジカは由良と楽譜を届け、可能ならば声楽家である奥方にこの楽譜を歌ってもらいたいと願い出ようと考えていた。
 だが、どうやらそれよりも先に解くべき謎ができたようだ。
 記憶が、ゆるやかに巻き戻っていく。
 そうしてあの日、あの場所で起きたこと、見聞きしたこと、感じた違和感を、鮮明に、あるいは茫洋と、あるいは疑りながら、自身の中に蘇らせて――


 すべてはまやかし、すべては夢、すべては虚構、すべては、そう、目覚めてしまえば消えゆくもの。
 この《牢獄》がどこに建てられているモノなのか、思い知るといい。
 この《夢》の代償に、震え、戦くがいい。


 あの日、最終楽章が刻まれた岩壁で見つけた《詩》は、音楽の天使が綴った物ではなかったのかもしれない。
「別のベクトルでのメッセージとして読み解く必要があるかな」
 どこか嬉しそうに呟くムジカの隣で、由良は不可解極まりない面持ちで普段から持ち歩いているカメラの機材バッグへ手を入れ、そして、
「……」
 そこから、小さな匣を取り出した。
「それ、どうしたの?」
「入っていたのを今見つけた。廃墟に行った時のまま、入りっぱなしになっていたらしい」
 掌に収まる立方体――エイドリアンが好む蓄音機は、あの日のあの場所での《音》を取り込んで、ブルーサファイアの輝きを放っていたのだった。



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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>

由良 久秀(cfvw5302)
ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)
エイドリアン・エルトダウン(cwvc3640)

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品目企画シナリオ 管理番号2501
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメントこの度はエイドリアン・エルトダウンからの依頼後について、ご指名くださり、誠にありがとうございます。
せっかくの後日談でございますから、少々方向性と趣向を変えた次第です。

由良さんの写真を元に、新たな謎に挑戦していただきたいと思います。
もちろん、写真として残っているモノには限りがあり、当然お互いに見ているモノもきっと違っているはず。
お二人それぞれ、見聞きし、解釈したモノも違って当然でございます。
同じモノを見ているようでも、その時の感情、意識の向け方によって、記憶は再構築され、食い違っていくかもしれません。
手にした写真、そして自身の『記憶』を頼りに、『写り込んでしまったモノ』について、推理という名の物語を構築してくださいませ、
蓄音機に閉じ込められている『音』もまた、ご自由に解釈いただければと思います。

なお、エイドリアンの奥方に関しては、会うには少々『調査』が必要かもしれない旨をひそやかにお伝えしておきます。

それでは、お二方が描き出した『音楽の天使』での一幕、秘された『真実』の解釈をお待ちしております。

参加者
由良 久秀(cfvw5302)ツーリスト 男 32歳 写真家/殺人鬼
ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)コンダクター 男 35歳 ミュージシャン

ノベル

「ただの陰影がそう見せているだけだと思ったが、違うのか?」
 不審げに、由良は改めて自身の写真に見入る。
 エイドリアンが指摘する通り、そこには確かに人影が映り込んでいる。
 だが、偶然の陰影がフィルムに焼き付けられることで、まったく別のカタチに変わってしまったという可能性を捨てきれない。
 だいたい、人間というのは点がみっつあればヒトの顔に錯覚するようないい加減な器官をしているのだ。
 ありもしないモノをあると錯覚することなど容易いだろう。
 自分は何も見なかったのか。
 自問する。
「生きた人間が、俺たちとつかず離れず行動を共にしていたとも思えない。なにも聞かず、何も見ず、俺たちが過ごしていたってことは……」
 そこで、ふ…っと由良は言葉を途切れさせた。
 いや、自分は見たのかもしれない。
 気づいていたのかもしれない。
「あの時……」
「あの時?」
「壁の向こう側に気づけたとき、いたかもしれない」
 壁の向こうへと消え去る『彼女』を見たから、だから、自分は壁に開けられた穴の向こう側に気づけたのではないのか。
 彼女の気配があったから、そこへ目を向けたのではないのか。
「だとしたら?」
 先を促すムジカの目に、好奇心が閃く。
 素人探偵のカオで、由良が見たモノに、由良が解釈しているモノに興味を示す。
「どんな状況だったとしても、出入り不可能だとは思わない。厳密には完全に外界と遮断されていたわけじゃないからな」
 クローズドサークルを根底から覆す呟きに、ムジカは目を細めた。
「じゃあ由良は、この影を普通の人間だと?」
「海魔が周遊する場所だ。避けられるのは元客か元経営者か、そいつらから情報が伝わった誰かだろう」
「幽霊を否定する?」
「考慮外だ」
 心霊現象は認めない、というスタンスで由良は苦虫を噛みつぶしたようなカオで答える。
 廃墟が浮上したのは数十年ぶり、ということだが、音楽都市そのものは200年を超える遙か昔に崩壊している。
「いまさら関係者もないだろうが、あそこは立ち入りが不可能とも思わないんでな。別のロストナンバーだったという可能性でもいいが。ああ、なんなら、廃墟まで死にに来た酔狂な輩ということにしてもいい」
「結構揺らぎが大きいな」
「可能性の話をしているんだろう?」
 むっすりと睨みつけて答えると、ムジカは笑みでソレを受け流し、
「この人物の特定というところはおれも気になっているからさ。ただ」
「ただ? ただ、なんだ?」
「《彼女》は本当にあの場所に実在できていたのか、おれは懐疑的かな」
「あんたは幽霊を肯定する気か? インヤンガイじゃないんだ、亡霊の概念なんぞない」
「幽霊をなんて定義するかにもよるけど」
 言って、ムジカはエイドリアンに言葉を向ける。
「そういえば、卿の前回の依頼はどういったタイミングで?」
 思いがけずかけられた問いに、彼は微かに目を細め、答える。
「ほとんどが海底に沈んだ状態で廃墟に向かってもらった。そういったフィールドが得意な者たちがいたのでな」
「その時にはどんな報告が?」
「金庫の中にしまわれていた楽譜だけは持ち帰ったが、それだけだ。きみたちが到達した《地下施設》には辿り着けずに終わっている。そこへ至る道を見つけられなかったようだ」
 もしかすると辿り着けはしても、ソレと思わなければ壁面に刻まれたモノが楽譜とは気づけないかもしれないが。
「誰かがいたという報告も聞いてはいない。死だけがそこにはあふれていたというが」
「確かにな」
 なかば反射的に由良は頷く。
 劇場のそこらじゅうが、奇妙なほどどうしようもなく死者であふれかえっていた。
「だとすると、劇場に立ち入れば必ず“彼女”が姿を現すと言うことでもないのかな」
「俺たちだって気づいていないんだ。言っておくが、写真にしか写らないツーリストというのも」
「エイドリアン卿、今回の廃墟浮上の件は他の誰かにも?」
 足掻く由良の言葉には耳も貸さず、ムジカはエイドリアンに話を振る。
「私が依頼したのは君だけだ。だが、まったく他者が知らぬと言うこともないだろう。チケットを自ら手配し、向かったものがいたとしても不思議ではない。が、あまり現実的ではないのではないかね?」
「ロストレイルの乗車記録でも調べるか?」
「ロマンが足りないな」
 またしても、あっさりと棄却する。
「あんた、何を考えている?」
「“可能性”を考えているんだ。この写真の人物についてね。案外おれ達はもう答えに手が届いているかもしれないけど」
 そして、もうひとつ、とムジカは続ける。
「都市を壊滅させるほどの、破滅の楽曲。ソレを果たしてただの人間に作れたのかな、という疑問もある。たとえば実に様々な奇跡的要因が重なって、あの海魔を操る地底の《魚人》が、かの音楽都市で《音楽の天使》となった説にも、まあ、多少の説得力を感じないこともないけれど」
 写真の人物を特定するはずの会話が、別の方向に流れはじめているのを感じる。
 だが、由良は早々に相手の思考を理解することは諦め、代わりに自身が写した手元の写真に視線を落とす。
 そこでふと、もっとも基本的な問いが浮かぶ。
「確認しておきたいんだが、そもそも、これは楽譜か?」
 写真の中の歪な五線譜と歪な音符らしきモノたちをいくらなぞってみても、自分の中に旋律は生まれてこない。
 そんな素養がないのだから仕方がないと言えば仕方がないが、やはりどこか懐疑的な自分もいる。
 壁に刻まれた《暗号》だと言われた方がまだしも信じられるというモノだ。
「本当に音楽になっているのか?」
「それは間違いのないところだ」
「……エイドリアン卿、ここでヴァイオリンを弾いても?」
「ああ」
 主の許可を得て、ムジカは傍らに置いていたケースを開く。
 中に収まっているのは、1722年製ストラディヴァリ――『ジュピター』。かつて赤の城のクリスマスパーティで、《天上の音楽》を弾いた際に使用した逸品だ。
 ソレを大切に取り出すと、流れるような所作で演奏の体勢に移る。
 弾きはじめる瞬間の、ごく僅かな沈黙。
 指先が、視線が、呼吸が、身体全体が、《世界》に入り込む瞬間の、神聖なる静寂。
 そして。
 ムジカは奏で始める。
 記録として残る写真、自分の中に留まる記憶、それらを繋ぎ合わせて、壁に刻まれた歪な楽譜に命を吹き込んでいく。
「……」
 由良は眉間にしわを寄せ無言のまま、ムジカの手の動きを見つめ、耳を傾ける。
「……」
 エイドリアンは顎に指を添え無言のまま、視界を閉ざし、演奏に耳を傾ける。
 それはまさしく《音楽》だった。
 深く静かに海底へと沈み込むような緩やかな音の連なりは、やがて海面へと向かって立ち上る泡沫のように繊細で儚げなものへと変わり、ついには音が絡み合いながらふわりと空へ舞い上がる――
 幻視するのは、うたかたの夢。
 生まれる心象風景は、煉瓦に囲まれ、閉ざされ、ガラスに隔てられながらも互いに手を伸ばす若い男女の姿。
 しかし、曲はそこで不意に途切れる。
 ムジカの手が止まったからだ。
「分かるのはここまでなんだけど、由良の疑問は解消された?」
 演奏を終えた彼は不思議な笑みを浮かべて、由良を見る。
「ああ。一応、これが音楽だってのは分かった。あんたが弾いたからな」
 何が言いたいのか分からないながらも、頷きだけは返す。
 ソレを確認すると、ムジカは、今度はエイドリアンへと向き直る。
 口調すらも改めて、問う。
「ブルーインブルーの音楽形態にこれは果たして合致するのか否か、あなたにお聞きしたいのですが」
 かの音楽家は一度目を閉じ、そして、ゆるりと首を横に振った。
「おそらくは……ブルーインブルーらしく似せてはいても別物だ。混ざり合っているが故に、僅かな違和感に留まっているのだろうが」
「それは時代の変遷と言った問題ではない?」
「《音楽の天使》が生きた時代の楽譜ならば、それなりに手に入れている。あの音楽都市が機能していた時代、あの場所から生まれた音楽は突出していた。世界に影響を与えるほどに」
「では、異世界から持ち込まれた可能性も……?」
「短い曲であるから断言はできないが。他のどの曲とも異質だが、最終楽章とはかなり近しい感触ではあるだろう」
 ふたりの音楽家は、音楽家であるが故に会話が進んでいく。
 写真とともに取り残された由良は、首を傾げるほかない。
「そんなに世界で違うモノか?」
 自分には分からない。
 ツーリストであるという以前に、音楽に疎い由良とっては、どれも聞き覚えのない、耳に馴染みのない曲ばかりだ。
 自分の出身世界と他の世界――たとえば壱番世界やブルーインブルーとの音楽体系の違いなど欠片も分からない。
「似ていることもあるけどね」
「この壁に刻まれている曲は、誰かとの合作である可能性も指摘できるだろう」
「卿がそう判断されたのなら間違いはないですね」
 ムジカの中では何かが既にもう組み経って終わっているのではないだろうか。
 ソレを確認するようなやりとりに、由良には見える。
「由良が見つけた壁に刻まれていた曲は、少なくとも海魔を操るようなものじゃないって事も一応照明してみたいと思うけど」
「あの曲の主題は愛の語らいであろうな」
「やはりそう捉えますか」
「このオペラ座に棲まう《天使》は、確実に誰かと交流を持っていたようだ」
 そこで、ムジカの表情がふと変わる。
「……ここで先程の“写真の人物はだれか”と話と繋がるのですが、おれは、“彼女”こそが、この音楽を天使にもたらしたのだと考えます」
 素人探偵は、そうして宣言する。
「物語をひとつ、構築させていただいても?」
 この《考証》は、かつてホワイトタワーの牢獄に繋がれていた男が披露して見せた、シュレディンガーの閉じ箱の論理、物語世界に閉じ込めた、真実を含まない虚構のロジック構築。

『諸君らは実に興味深く解釈し、私の提示した物語にひとつの意味を生み出し、ひとつの物語を完成させるに至ったのだ! 私の長く退屈な時間が今ほど癒やされたことはない!』

 嬉しそうに楽しそうに瞳をキラキラと輝かせて、100年以上もの間ホワイトタワーの地下に閉じ込められていた男の声が鼓膜の内側から蘇る。
 コレは、嗜好にして至高の思考遊戯。
「構わない。聞こう」
「ありがとうございます」
 まるで舞台俳優であるかのように恭しく頭を垂れ、
「由良の写真にうつりこんだ《女性》は、音楽の天使にとってのクリスティーヌ……そして彼女こそ、ブルーインブルーへ転移したロストナンバーであったとしたら――」
 ゆるやかに語り出す。

 図書館が設立される前、保護されることなく消失の運命に晒されたロストナンバーはきっと少なくない。
 そんな悲劇のひとつとして、クリスティーヌは音楽都市に突如姿を現す。
 あの時代、ディアスポラ現象に見舞われた彼女の出現を人々がどう捉えたか――ソレは分からない。
 ただ、帰属する世界を失い、戻る術も分からず、自分を知っているモノは誰ひとりいない、言葉も通じない、恐ろしい海魔が周遊する牢獄の島で、彼女はおそらく混乱し、絶望した。
 唐突な日常の消失だ。
 恐怖と孤独に苛まれ、怯え、震えもしただろう。
 そんな彼女に手を差し伸べるものがいた。
 ソレが、醜い姿ゆえに疎まれた《音楽の天使》――ファントムだ。
 劇場はふたりの音楽の才を認めはしていたが、存在そのものを許容はしていなかったとしたら、存在しているけれど存在していないものとして扱われ続けたとしたら。
 居場所のないふたりは、戯れに作られた《壁の内側》を通り、誰の視線も届かない裏側の世界で逢瀬を重ねていく。
 たとえ言葉は通じなくとも、《音楽》がふたりの心を引き寄せ合う。
 だが、コレは失われることがあらかじめ定められた出会いだった。
 クリスティーヌから彼女の世界を奪い去った《覚醒》は、彼女の存在をも消失へと導いていく。
 日に日に消えゆく彼女は、壁に詩を刻む。
 必死に彼女を忘れないよう、記憶に留めようと、天使もまた彼女の音楽を壁に刻む。
 消失の運命は止まらない。
 彼女は消える。
 一度は手にした幸福が、消える。

「“すべてはそう、覚醒(めざめ)てしまえば消えゆくモノ”」
 ソレはまるで、ロストナンバーそのものだ。
 忘却と消失。
 消滅の運命に晒されて、失われた存在。
 人が本当に死ぬのは、人々の記憶からその人が消え去った時だという。
「“この《牢獄》がどこに建てられているモノなのか”……だれもが明日もまた今日と同じであると無邪気に信じるが、俺達ロストナンバーは、そうでないことを知っているからな」
「そういうこと。そして、いつしか壁の歌の由来も忘れ、天使はただ劇場の人間への理由も判らない憎しみを募らせていったのだとしたら」
「それが、君の言う虚構の物語ということかね? 虚構を真実のひとつとして紡ぐと?」
「ただ、楽譜より受けた感銘、戯曲の解釈をこういった物語として披露した、そう取って頂いても構いません」
 最終楽章に込められていたのは、哀しみ、真実を知るモノの優越、夢見ることのできなかったモノの哀切、そして、消失と忘却への恐れ――
「なら、壁に刻まれたあの詩は、“彼女”が書いたモノと言うことか?」
 当たり前に日常を過ごしている劇場の人間達、あるいは自分たちのような存在に向けて、綴られた想いなのか。
 思い知るがいい、とあの詩は語る。
「そして、この《音匣》がおれ達の手元に残された」
 ブルーサファイアの輝きを放つ蓄音機を見つめる。
 そこには一体、何が閉じ込められているというのか。
「あんたは本当に何も聞いていないのか?」
「わからない」
 ムジカの耳を以てしても、あの時、あの場所で、いかなる音楽の残響も捉えることは叶わなかった。
 いや、そうとも言い切れない、かもしれない。
「ここに、何が閉じ込められていると思う?」
「機材を取り出したのは最終楽章の前だった。なら、録音されるのもあの場所だろう? ならその辺の音を拾ったんじゃないのか?」
 せいぜいがムジカの声のはずだと、至極当然のように由良は言う。
「いや、ただの環境音には反応しないようにできているのだ」
 だが、エイドリアンは、由良のそんな考えをさらりと否定した。
「じゃあ、何にだったら反応する?」
「無論、《音楽》だ。ソレも一定以上のレベルを超えなければ認識されず、この蓄音機に留まることもできない」
 言いながら、エイドリアンはムジカの手にある匣に触れる。
 途端。
 ソレまで沈黙していた匣が、音を解き放つ。
 はじめは、ムジカの声だった。
 由良も聞き、あの日あの場所で海魔が都市を呑み込む瞬間を目の当たりにした際の、あの崩壊をもたらす曲だ。
 だが、そこに別のモノが重なっている。
「これは……」
 ムジカの歌声から引き継がれ、細く高く繊細に。
 ごくわずかな耳鳴りのような違和感を伴いながら、それが次第に明確なる音の連なりとなり、紡がれ、旋律になっていく。
 魅了される。
 引き込まれる。
 どうしようもなく胸に穿たれる喪失の痛みすら、甘美に思えてくるほどの。
 意識どころか、自分という存在すらも遠いどこかへ連れ去られそうになるほどの。
 人の声ではあり得ない、高く高く澄み切った、壮麗にして優美な、陶酔をもたらすこれを、ヒトは《天使の囀り》と呼ぶのかもしれない。
 由良の中の《何か》が揺さぶられ、漣を起こす。
 湧き上がってくるのは、畏怖なのか、破壊衝動なのか、破滅願望なのか、殺意なのか、恐怖なのか、郷愁なのか――ただそのどれであっても、ひどく身を委ねたくなるほどの誘惑を湛えていることだけは確かだ。
 言葉が見つからない。
 言葉にできない。
 ただ無言で、蓄音機から流れる旋律が途切れてもなお、その余韻に浸った。
「音楽の天使は、世界が崩壊することで、ここではないどこか、ここにはいない誰か、永久に失われ思い出すことの叶わない《彼女》の元へいけると信じたんじゃないかな」
 ムジカは自身の唇を軽くなぞってから、
「《彼女》の残滓に、おれ達けは気づけたのかもしれない……消失の運命から免れているロストナンバーであるおれ達だけが」
「……結局、この人物をあんたは幽霊だと言いたいのか?」
 現実に引き戻されるようにして由良は顔を上げ、ムジカを見る。
 彼はただ笑う。
 そこからはどんな感情も読み取れなかった。
「良い時間だった。しかし、きみたちにどんな労いをかければよいのか、わからなくなるな」
 対してエイドリアンは、期待以上のモノを持ち帰ってきた由良達に、どこか惑うような表情で呟く。
「では、またここを訪れても? おれはあなたの音楽と、そしてこの景色に触れていたい」
 常にはないほどに素直に、己の願望をムジカは口にする。
 エイドリアンもまた、常にはないほど穏やかに数回頷いた。
「構わない。好きなときに来るといい」
「俺も、また湖畔を撮っても構わないか?」
「きみは約束を守ることを知っている。自由に散策すると良い。許可しよう」
 ソレは人を厭うエイドリアンからもたらされるとは思えなかった言葉であり、何にも代えがたい報酬の約束だった。


 そして。
 オーロラは閃く繊細な湖畔を散策することで、彼らはもうひとりの歌姫にまつわる謎解きに引き寄せられることとなるのだが、それはまた別のお話。


END

クリエイターコメント6度目、9度目まして、こんにちは。

この度は廃墟の音楽都市から持ち帰った《謎》の解明に当たってくださり、誠にありがとうございます。
《忘却と消失》とは何に掛かるモノなのか。
おふたかたの推理と思考、解釈が興味深く、結果、《物語》はこのようなカタチとなって再構築されました。
一度は失われた物語も、後生に残され、メッセージを受け取った者たちによってひとつの真実となり得るのだと思うのですが、いかがでしょう?
また、今回の依頼を通して得たエイドリアンからの報酬(?)が喜んでもらえるモノとなっていれば幸いです。

それではまた別の機会にお二方とお会いすることができますように。
公開日時2013-04-07(日) 20:50

 

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