オープニング

「ん……?」
 トラムを降りたジュリエッタ・凛・アヴェルリーノが目的地へ向かって歩き出すと、同じ方向へと歩いて行く人が何人もいた。ジュリエッタが向かっている先は商店街であるからして、同じ方向へ向かう人がいるのも不自然ではない。ただ、前方を歩く人物の後ろ姿に見覚えがあるような気がしただけだ。まあ、0世界にいる間に何処かですれ違ったことがあるかもしれないので、知り合いではなくとも見覚えがあることもあるかもしれない。


「……ん?」
 シュマイト・ハーケズヤは商店街を、目的の店へ向かって歩いていた。間もなくその店だ。だが、なんだかいつもと雰囲気が違う気がする。
「……ああ」
 なるほど、と一人で理解して頷く。彼女の記憶が確かならば、この辺に差し掛かるといつも件の店からいい香りが漂ってきていたのが今日はないのだ。閉店するというのは本当なのだ、少し寂しく感じる。


「あ」
 ユーウォンはその店の前に立っていた。今日は看板にしている屏風も出ていないし、外に香ってくる匂いも強くない(残り香は鼻孔をくすぐるけれども)
 そして店の入口は木戸で閉じられていた。
 ノックしてみようか、扉の向こうからは人の気配も物音もするから目的の人物はいるはずだ。木戸に手を伸ばしたその時、近づいてきていた人の気配が隣で止まったことに気がついて顔を上げた。
「ここに用事?」
「ああ。君もか」
 ユーウォンの隣で足を止めたのはシュマイト。どうやら目的地は同じらしい。
「さすがに店は開けていないようじゃな」
 二人の背後から投げかけられた声。すらりとした足ですたすたと歩いてきたのはジュリエッタ。
「皆、目的は同じようじゃのう」
 その言葉にユーウォンもシュマイトも頷いて。
 代表してユーウォンが木戸に手をかけた。


 *-*-*


 0世界の商店街の一角。香房【夢現鏡】は扱っているものの性質から、飲食店街とは離れた場所に位置している。
 香に始まりアロマオイルに至るまで、香りにまつわるものを扱っているこの店では、香りを求める他に望めば『他人の視点で過去を見る』という特殊な経験をすることが出来た。壱番世界の桜の時期になると合わせて咲き出す裏庭の桜は客を選ぶらしく、幸運にも何人かがそこで花見を楽しんだこともあった。
 だがそんなこの店も、閉店の時を迎えていた。店主であるツーリスト、夢幻の宮が故郷である夢浮橋へと帰属するのだ。
「夢幻の宮さん、これはこの箱でいいの?」
「はい。その緩衝材入りの箱へ……」
「この箱、おもしろいね。ビンの大きさとぴったりの仕切りがついてるんだね」
 ニワトコが戸棚から香りの入った小瓶を取り出し、仕切りのついた箱へと詰めながら関心したように言う。するとその様子をいとおしそうに眺めてから、夢幻の宮も作業へと戻る。
 ニワトコと夢幻の宮は婚姻を結んだ。ふたりは、共に帰属する。
「でもせっかくこんなにいっぱいいろいろな香りを集めたのに、全部はもっていけないだなんて残念だね」
「そうでございますねぇ……。けれども向こうにも香りはたくさんありますから」
 全部を持って行くと莫大な荷物になってしまう。そもそも持っていける荷物の量も限られているのだ。
「幸い、香料も道具も家具も引き取ってくださる方はほとんど決まりましたし……。でも、おひさまの香りだけは、いつでも作れるようにしておきまする」
「そうしてくれると嬉しいな。ぼくだけの特別な香り……うん」
 顔を上げたニワトコと夢幻の宮はしばしの間見つめ合って、そして微笑み合う。
「そうだ、前にもらった浴衣は忘れずに持って行きたいな」
「そうでございますね。あれも大切な想い出のひとかけらですから」
 こんな感じでまったりしながらなので、実はあまり片付けは進んでなかったりする。
「夢幻の宮、掃除用具ってこれで……って全然片付いてないように見えるのだけれど……」
 店の奥から箒とちりとり、はたきと固く絞った雑巾を抱えてきた華月は片付けの進んでいない様子を見て自分の見間違いではないかとまばたきをしたが、確かに先ほど見た時と片付けの状況は殆ど変わっていなかった。
「いくら置いていく荷物は引き取り手が取りに来てくれることになっているからって、さすがに最低限はまとめておかないといけないような気がするのだけれど……ねえ、お父様、お母様?」

 いたずらっぽく告げる華月にニワトコは「華月さんの言うとおりだね」とおおらかな笑顔を見せ、夢幻の宮は「そうでございました」と苦笑を浮かべる。


 トントントンッ。


「「「?」」」
 その時室内に響いたのは、店の入口である木戸を叩く音。三人は顔を見合わせる。
「どなたさまでございましょう……」
 夢幻の宮がするすると木戸に近づき、そっと扉を開くと――そこには見覚えのある顔がみっつ、並んでいた。


=========
!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>
ニワトコ(cauv4259)
夢幻の宮(cbwh3581)
華月(cade5246)
シュマイト・ハーケズヤ(cute5512)
ユーウォン(cxtf9831)
ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ(cppx6659)
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品目企画シナリオ 管理番号3125
クリエイター天音みゆ(weys1093)
クリエイターコメントオファーありがとうございます。
いよいよ帰属ですね!
ふたりの始まりの場所で0世界最後の思い出を作りましょう。


タイミングがタイミングだったので、ささやかなリンクのあるシナリオとさせていただきました。

時系列といたしましては

・0世界(夢現鏡)でお別れ会が開かれる
    ↓
・夢浮橋へ帰属するニワトコ様や夢幻の宮を夢浮橋まで見送りにロストレイルへと乗り込む(『咲く花の馨りは甘く柔らかく』の参加者も同じロストレイルへ乗り込む)
    ↓
・夢浮橋にて、見送りに来た仲間達とお別れ
    ↓
・華月様は『咲く花の馨りは甘く柔らかく』にて左大臣邸へ挨拶に
    ↓
・以後は『咲く花の馨りは甘く柔らかく』内で。


といった形をイメージしております。
少し例外的かもしれませんが、ご理解いただければと思います。


夢現鏡でのお別れ会は具体的プランは私の中にはありませんので、みなさんのプレイングを組み合わせて色々考えようと思います。
やりたいこと、伝えたいこと、思うことを書き込んでくだされば幸いです。

字数制限がありますのでどこまで描写できるか今の私にもちょっと予想がつかない部分がありますが、頂いたプレイングはできるだけ反映できるように頑張るつもりです。
どうぞよろしくお願いいたします。


なお、お店にある品で欲しいものがあれば、形見分けとはちょっと違いますけれど夢幻の宮からプレゼントさせていただきますので、ありそうだなーと思うもので欲しいものがあれば書き込んでみてください。
施術に使っていたふかふかのお布団とか、香道具とか、中古で良ければ和食器とか、文香の際にたくさん用意したレターセットや文箱、もちろんこんな香りがほしい、香がほしい、アロマオイルがほしいとかでも構いません。
私物がほしいとかでも出来る限り対応します。

参加者
ニワトコ(cauv4259)ツーリスト 男 19歳 樹木/庭師
ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ(cppx6659)コンダクター 女 16歳 女子大生
華月(cade5246)ツーリスト 女 16歳 土御門の華
ユーウォン(cxtf9831)ツーリスト 男 40歳 運び屋(お届け屋)
シュマイト・ハーケズヤ(cute5512)ツーリスト 女 19歳 発明家

ノベル

「わぁ、みんな、どうしたの?」
 扉の外にいた三人の顔ぶれを驚いたように見ながら、ニワトコは三人を招き入れる。
「申しわけありません、閉店準備中で散らかっており、お見苦しいところをお見せいたしまして……」
 三人が店内に足を踏み入れたのを確認した後、木戸を閉めながら夢幻の宮が恐縮する。といっても実はまだ全然片付け進んでいないのよ、華月が呆れたように、でもその中に愛情を滲ませて告げた。
「帰属すると聞いて顔を見にやって来たのだ。元より帰属の準備中であることは承知の上。わたし達は邪魔にならぬように手伝おう」
「そうそう、門出のお祝いにぱーっと騒ごうって思ってたんだけど、まずは片付けからかな? 手伝うよ!」
 シュマイト・ハーケズヤの言葉にユーウォンが同意を示して。そんな中、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノだけ様子が違った。
「ニワトコ殿も宮殿の手伝いに来られたのか?」
「うん、そうだよ。ぼくは自分の荷物はそんなに多くないから、もう用意はできてるし……」
「ん……?」
 にこにこと隅においてある荷物を指し示すニワトコ。あの中には夢幻の宮と京都に出かけた時の浴衣やクリスマスのプレゼント交換会で貰ったB級ホラーDVDと景色を織り込んだ布などが入っており、その傍にはトゥレーンでもらった鉢植えが置かれていた。ジュリエッタはそちらに視線をやり、そしてニワトコを見、夢幻の宮に視線をやった後。
「なるほど!」
 ぽん、と拳を掌に打ち付けて、非常に納得した表情を見せた。
「そなたが宮殿の婿じゃったのじゃな」
「うん。照れちゃうな、あらためてそう言われると」
「知らなかったのか」
 こそばゆそうに笑うニワトコの側で、シュマイトとユーウォン、華月は少し驚いた。まさかジュリエッタが夢幻の宮の相手がニワトコであると知らないとは思わなかったのだ。
 ジュリエッタとニワトコは何度か同じ依頼を受けたことがあり、知り合いである。彼女が夢幻の宮と仲がいいということをニワトコは知っていた。だからてっきり、自分が夢幻の宮の相手であるとジュリエッタも知っていると思っていたのだが……。
「そういえばわたくし、ジュリエッタ様の前でニワトコ様のお名前を出したことがあったでしょうか……」
 おっとりと首を傾げる夢幻の宮。彼女も、てっきりジュリエッタは知っているものだと思い込んでいたようだ。
「いやいや、こうして宮殿の婿に出会えて、それがニワトコ殿であって、二重に嬉しいのう。改めて見ると、いかにも雰囲気が優しさを感じさせる殿方じゃ。宮殿もこのような人柄に惹かれたのであろうか?」
「そ、それは……」
 ジュリエッタの言葉に、じっと夢幻の宮に視線が集まる。夢幻の宮は袖を口元に当てて赤らんだ顔を隠しているつもりのようだ。ニワトコに出会う前の、人形のような……どこか一線を引いた、冷たく固い雰囲気の彼女はもういない。
「お母様、私も聞きたいわ」

「「「お母様?」」」

 いたずらっぽく告げた華月の言葉に、ニワトコと夢幻の宮を覗いた三人が思わず口を開く。華月はそうなの、と微笑む。
「私も夢浮橋に帰属して、夢幻の宮達の養女になって、嫁ぐの」
「そっかぁ、だから『お母様』なんだね!」
「それは目出度いな」
「ほうほう。宮殿、嫁に行く娘御からのおねだりじゃぞ。是非教えてほしいのう」
 せっつかれて夢幻の宮は、助けを求めるように隣にいるニワトコを見上げるのだが……。
「ぼくも、聞きたいな」
 温かい笑顔で彼からもそう言われてしまえば、彼女が逃げる道はなくなる。困ったように瞳を伏せた夢幻の宮だったが、数瞬の後、決心したように視線を上げた。
「わたくしは……穏やかで優しいところにも勿論惹かれましたけれど……この方の苦しみや悲しみを半分引き受けてさし上げたいと思ったのです。そして、ニワトコ様を知るごとに、真っ直ぐな部分や熱い部分、芯の強さも惹かれてゆきました……」
 紅を引いた唇から紡がれる愛の告白を、全員が暖かく見守っている――否、夢幻の宮の言葉が進むごとにニワトコの顔が、だんだんと赤らんでいく。
「……今はもう、わたくしはニワトコ様なしではきっと、もう生きることが叶わぬ身体になってしまったのだと思いまする……」
 潤んだ瞳に見つめられ、紅色の唇が悩ましい吐息をつく。どくん、ニワトコの心臓が跳ねる。
「夢幻の宮さん……」
 そっと、白い手を取り、寒さを感じさせぬように包み込んで。
「ぼくもね、夢幻の宮さんがいないと、寂しくて悲しくてきっと、枯れちゃうと思うんだ」
 正直な気持ちを率直に伝える。
「あー……うん」
 シュマイトがどうしたものかと声を上げて。続いてジュリエッタも笑いながら。
「こちらから振った手前、どうしたものかのう」
 ふたりがわざと見せつけるためではなく、純粋に愛を口にしているだけだとわかっているからこそ、変に茶々を入れにくく、突っ込みにくい。
「おれはもう少し見ていたい気もするなぁ……なんか、こういうニワトコさん見るの、新鮮だよ」
「でもこのままにしておいたら、いつまで経っても片付かないから……」
 楽しそうなユーウォン。だが華月としては少し調子に乗りすぎたかしら、とも思う。このままでは元々滞りがちだった片付けが、いつまで経っても終わらない。他の三人はなんとなく止めに入ることが出来ないようだし、煽った手前やはり自分が言うしかないだろう。
「はいはい、お父様もお母様も、続きはふたりきりの時にしてほしいのだけれど」
「「!!」」
 華月がパンパンと手を叩く音に、ニワトコと夢幻の宮は弾かれたように絡んでいた視線を離し、自分達を見つめる仲間達を思い出したようだ。
「わ、わたくしっ……、お客様の、前でっ……」
「いや、いいものを見せてもらったよ。他人のノロケというのもたまには良い」
「ごちそうさま、じゃのう」
 慌てふためく夢幻の宮にシュマイトとジュリエッタは笑って見せて。
「そうか、こういう時はごちそうさまっていうんだね!」
 ユーウォンは納得したようで「ごちそうさま!」と声を上げて。
「み、皆様、そのようなっ……」
 恥ずかしさで慌てる夢幻の宮とは対照的に、「ごちそうさま」と言われる理由がわからないニワトコは「みんななにをたべたの?」ときょとんとしている。そんなほのぼのとした様子を眺めて、華月もまた自然と笑みが浮かんでくるのを感じていた。


 *


「シュマイト様、その棚のものはこの青い印のついた箱へ入れてくださいませ。ジュリエッタ様、そちらの引き出しのものはこの桐の箱へお願い致します。ユーウォン様、その箱はあちらへ運んで、重ねていただけますか? 緩衝材を入れてありますが割れ物ですので気をつけて……と申し上げるのは運び屋さんには失礼でしょうか」
「気にしないでいいよ! でも中身がなんであれ、おれは大切に運ぶから安心してね!」
 ようやく始まった片付け。帰属のお祝いをするのはこれが終わってから、ということで全員総出で夢現鏡の片付けをしているのだ。
「夢幻の宮さん、これはどこにおいたらいいかな?」
 店の奥の住居へと繋がる廊下から出てきたニワトコは、大きな荷物を持っていた。布団袋に入れられているそれは、施術の際に使われていたふかふかの布団である。
「それは後で緋穂様が取りに来てくださるので、この荷札を張ってくださいませ」
「へぇ、この布団は司書さんが引き取ってくれるんだね。ぼくもこれに寝て術を受けたこと、思い出すなぁ」
 片付けの邪魔にならないように布団を壁際へと置いたニワトコは、夢幻の宮の手から荷札を受け取って貼り付ける。
 そんな皆の様子を華月は掃除用具を手にしばし見つめていた。
(二人共、色々な思い出がこの場所に詰まっているのよね)
 長く過ごしたこの場所に、そしてこの場所のものひとつひとつに語りきれぬ思い出が詰まっているのだろう。けれども、一つ一つ回顧していては間に合わない。だからといって想い出に浸るなというのはあまりにも酷なので。
(私が頑張らないと)
 ひとつ気合を入れて。
「夢幻の宮、住居部分の荷物は片付け終わっているのよね? 私があちらを掃除しておくから、ここの片付けに集中してちょうだい?」
「あら……ありがとうございまする。それではお願いいたしますね」
「任せて」
 店舗部分の良い意味での雑音を背に、華月は廊下を住居部分へと歩いて行く。まずは裏庭に面した和室から。見た目にはそれほど散らかっていないので、窓を開けて換気をしつつ、固く絞った雑巾で畳を目にそって丁寧に拭いていく。
(ここに2人がいなくなったら、次は誰かがここに住むのかしら……。それとも……)
 ふと顔を上げると裏庭の桜の木が目に入った。きっとあと数ヶ月すれば今年もまた美しい花を咲かせるだろうが、その時ここに、かつての主はいない。
 夢幻の宮がここに店を構えることにしたのは、この桜の木があったからだという。いつからここにあるのかは誰も知らないが、壱番世界から植樹されたとも、ある日突然現れたとも言われているらしい。主人を追ってここまで来た……とも。
 壱番世界の梅のように、この桜も主人を求めて飛んで行くのだろうか。だとしたら、春にはまた出会えるかもしれない。
(夢幻の宮は、桜との別れは済ませたのかしら)
 きっと彼女のことだから、しっかり済ませてあるのだろう――畳を拭き終わって、華月は窓を閉めた。

 元々生活感のあまりなかったリビング。大きな家具はそのままにされていて、だが小物類は梱包されているのだろう、更に殺風景に見えた。キッチン部分と隣接している調香室はすでに掃除されたあとのようで、塵一つ落ちていない。華月は床を箒で掃き始めた。掃除機を使えないことはなかったが、やはりこちらのほうが落ち着く。
(私もターミナルはこれで最後。持っていくのはあのバックだけ)
 華月もニワトコ達とともにロストレイルに乗り、帰属のために夢浮橋へと向かう。自分の部屋の整理も手続きも全部済んでいた。必要な人にお別れも言って来た。もう、0世界には戻らない。
 たたたたっ……軽い足取りで雑巾がけをする。帰属して嫁いだら、もしかしたら掃除すらさせてもらえなくなるかもしれない。そう考えるとなんだか不思議な感じがした。
 流れ流れて辿り着いた0世界。ここが終着駅なのだと思った時もあった。けれども、華月は本当に辿り着くべき駅を、見つけた。
 0世界で知り合った人達、過ごした場所を思えば寂しくないわけがなく。寂しくないと言っては嘘になってしまう。
(けれど私は、自分の為に旅立つと決めたのだから)
 少しずつ閉じこもることをやめて、色々な人に出会い、そして周りだけでなく華月自身も変わった。出会いだけでなく別れもあった。いろいろな世界に冒険に出かけた。目の前を、鮮やかな映像として記憶が流れていく気がする。
 静かにそっと目を閉じ、立ち上がる。再び目を開けると目の前の映像は、消えていた。
 華月にとってここはまさにターミナル。中間地点。
 ここから旅立ち、進んでいくのだ。
 雑巾を手に部屋の中を見回す。
 綺麗になった部屋が、いってらっしゃいとささやいているようだった。 


 *


「そうか、キミらとは揃って別れとなるのか」
 乳鉢や乳棒、スポイトや試験管などを箱にしまいながらシュマイトはぽつりと呟いた。よくよく考えれば当然のことなのに、なぜか今の今まで認識していなかった。
「話し相手がいなくなると寂しくなるな」
 乳鉢に微かに残る香りが、シュマイトの鼻孔をくすぐる。この香りは意図してできるものではないのだろう。何度も何度も香を調香する過程でどうしても落としきれなかったかすかな残り香が混ざり合い、独特の香りを作り出しているのだ。
 ツンと痛みを感じたのは、香りのせいだろうか。
 生きる場所を見つけた事を喜びたいと思っても、決意を最大限に尊重したいと思っても、やはり友人との別れは純粋に心の弾むものではなくて。
 それでも。
「おめでとう」
 共に作業をしているふたりを視界に入れて述べる言葉は祝福の言葉。心は弾まぬが、祝いたい心は十二分にあるのだから。
「ありがとう、シュマイトさん」
「ありがとうございまする」
 揃って笑みを浮かべるふたりを見ていると、ふたりが幸せでいるのならば良いのだと思う。けれども心を重くしているのは自分が我儘だからだろうか。
 否。友人との別れに寂しさや悲しさを覚えることは自然なことだ。けして、心が弱いからではない。甘えがあるからではない。
「夢幻の宮、ここに入っているものも同じ箱で良いのか?」
「ああ、それは……」
 近づいてきた夢幻の宮が下の棚から引っ張りだしたのは、小ぶりのアタッシュケースだ。外側には革が張られているのだが、中はアルミで出来ているらしく思ったより軽いようだ。
 彼女がゆっくりとアタッシュケースを開けると、そこに出現したのは階段状になった台。その台には小さな瓶が並べられていて。
「これは?」
「フレグランスオルガンと申します。調香師が持ち歩く道具でございます」
 よく見ればこのアタッシュケースには調香用の道具も納められていて、これがあれば出先でも簡単な調香は行えるという。
「ほう、これは雰囲気がある道具だな」
 洋室に広げて飾るだけでも変わったインテリアになりそうだ。勿論それは、小瓶に納められた精油たちの望む使われ方ではないだろうが。
「これは持っていかないのか?」
「はい。香術寮に行けば手に入りますから。こちらの乳棒や乳鉢、壺、ビーカーやスポイト達も置いてゆくことになりますね」
 箱に詰められた調香の道具たちを撫でるように手をかざす夢幻の宮。長年大切にしていたのだろう、物を大切にする気持ちはシュマイトが機械を大切に思うものと似ている。
「不要であればこれら調香の道具を貰えないだろうか」
「構いませんが……」
「わたしは香自体は専門ではないが、こうした道具類は好きでね」
 調香道具を見つめるシュマイトが眦を下げた事に気がついて、夢幻の宮は彼女の言葉を待った。
「わたしの今後の発明にも役立つかもしれない」
「シュマイト様でしたら、きっと大切に扱ってくださるでしょうから……お好きなものをお持ちくださいませ」
「ありがとう」
 ガサガサガサガサっ……。
「わ、ごめん! テーブルにぶつかっちゃったよ!」
 たくさんの紙がこすれ合って落下する音と、ユーウォンの声が店内に響く。それにつられて視線を移せば、テーブルの上に積まれていた便箋や封筒、和紙などが床へ落ちて散ったのだと知れた。
「盛大にひろげてしもうたようじゃのう。手伝うぞ」
 近くにいたジュリエッタが素早く駆け寄って、落下物を拾うユーウォンを手伝い始める。
「そういえば」
 その様子を見てシュマイトは思い出した。この店では文香といって香りをつけた手紙を書くことも出来たことを。
「キミの所では手紙も書けたのだったか」
「はい。いろいろ選んでいただけるよう、様々な便箋・封筒を集めましたので……まだあんなに残っております」
「レターセットも1セットもらっておこうかな……恋文用に」
 ぼそりと小さな声で告げられた後半は、夢幻の宮の耳にだけそっと近づいて。彼女はその呟きに破顔した。
「是非に。お好きなものをお持ちくださいませ」
 照れくささは残るが、いつかあらためて手紙を書いてみよう――彼に。


 *


「この木、いい匂いがするね! あ、こっちのはまた違う匂いだ!」
 この包みの中身は何? ――そんなユーウォンの小さな疑問に夢幻の宮が答えてくれた。それを包んでいた布が開かれると、顔を出したのは木だった。色も形も違う、木というより木片というべきものもある。
「香木でございます。こちらを砕いて、香の原料として使用するのでございます」
「へぇ、これが香になるんだぁ」
「もちろん、他にも色々と混ぜ物はいたしますけれど」
 この店で出来上がった香や精油を目にすることはあってもその原材料を目にすることは殆ど無いものだから、ユーウォンは珍しいものに興味津々で。香の材料の入った瓶を一つ一つ取り出しては、梱包しながらではあるけれどじっとながめて蓋を開けてちょっぴり香りを嗅いで。
「香は材料を練って小分けにしたあと、何年も眠らせて熟成させてから使うのですよ」
「へぇ~、すぐには使えないんだ?」
「そうでございますねぇ……すぐに、よりはしばらく寝かせて材料をなじませてからのほうが、香り同士が混ざり合い、調和しあってより良い香りになるのでございます」
 夢幻の宮もそんなユーウォンに付き合って一つ一つ答えていくものだから、片付けの進みはスローペースではあるが、ふたりとも楽しそうなのでまあいいかと思ってしまう。
(なんか、お店の舞台裏見てるみたいだ!)
 お店の、普段は見ることのできない部分を見ているようでわくわくする。ついつい色々なものに目が行ってしまう。
「この箱の中は何? なんか粉みたいのが入ってるね」
 ユーウォンが手に取ったのは密封されたビニール袋。パンパンに入っているのは、白っぽい粉みたいなものだ。
「ああ、それならばわたくしにも分かるぞ」
「え? 本当?」
 近くで作業をしていたジュリエッタが、近づいてきてユーウォンの手の中を覗き込む。箱のなかにも同じ袋がいくつか入っていた。
「これは香を焚く時に香炉の中に入れる灰ではないかのう? 以前聞香をした時に香炉に入っていたのはこれじゃなかったか?」
「ふふ、ご名答にございまする」
 夢幻の宮が笑顔で頷く。そう、ユーウォンが手に取った袋は、香炉に敷く灰の入った袋であった。
「ジュリエッタさん、すごいや!」
「なぁに、目にしたことがあるものを当てただけのことじゃ。大したことはない」
 謙遜したジュリエッタではあるが、無邪気に褒められて悪い気分はしない。
「ユーウォン様、それではその箱にこちらの小箱を詰めていただけますか?」
「いいよ! 中身は何?」
「未使用の香炉でございます」
 店の在庫としておいてあった香炉らしい。箱がいっぱいになったら、新しい箱に詰めてくださいというお願いをユーウォンは快諾して早速作業にはいる。
「香炉といえば……宮殿」
「はい?」
 ジュリエッタは先ほど作業していた場所に戻り、夢幻の宮を手招きする。しずしずと移動してきた彼女に、ジュリエッタは以前の出来事を思い出すようにしながら声をかける。
「以前香聞きをしてもらったじゃろう? あれから心を落ち着かせたい時など、もらったり買ったりした香を焚いたりしているのじゃ」
「まあ、それはとても嬉しゅうございます。香りに興味を持っていただけたのでしたら、本当に」
「香の世界は奥深いと感じておるところじゃ」
 嬉しそうな夢幻の宮を見て、ジュリエッタも自然、笑顔になる。これからも色々知っていきたいのじゃ、と告げて。
「ところでここにあるのは、あの時使った香炉ではないか?」
 ジュリエッタが示したのは箱に入っていない香炉の並んだ棚。香道具を片付けていたジュリエッタだったが、ふと見覚えのある品を見つけて手を止めたのだ。
「ええ、あの時使用致しました香炉にございますね」
「やはり宮の香炉は趣深いのう。貰い手がついていないのであれば、記念にもらっていってよいかのう?」
「新品ではありませぬが、よろしいのですか?」
 遠慮がちに問う夢幻の宮。だが彼女にもわかっているはずだ。だからこれは形式的な問い。新旧よりもあの時の思い出宿る品だということが大切なのだから。
「ああ、これが良いのじゃ。宮の手入れが良いからじゃろう、とても綺麗な状態であるし、なおかつ使い込まれた品の良さも漂っておる」
「そう言っていただけると、わたくしも嬉しゅうございます。ぜひ、ジュリエッタ様にお持ちいただきたく思います」
 棚から手に取った香炉をジュリエッタへと差し出す夢幻の宮。受け取った時に触れた指先から、温かい友情が流れ込んだ気がした。


「む――……」
 店舗部分へと顔を出した華月は、呼びかけようとしていた人の名を口の中に留める。楽しげに談笑しながらではあるが、確実に片付けは進んでいるようだ。荷物を店舗部分へと運び出していたニワトコも、今はユーウォンとシュマイトと共に雑談しながら残りの品物を箱詰めしていた。
 この分ならば、程なく片付けも一段落つくだろう。
「よし」
 小さく頷いて、華月はさり気なく店舗部分を横切って外へ出た。買い出しに行ってこよう。きっと、これがこの世界での最後の買い物。


 *


(ひとつところに根付くというのは、他の場所からはさよならするということ……)
 わかっていたはずだけど、覚悟していたはずだけど、皆が訪ねてきてくれたのを見て、改めてそう思った。
 皆がロストナンバーでいる間は夢浮橋で会うことはできるけれど……それでも、いつかは。
 店内に並べられた小物類は箱にしまわれ、箱は店舗の隅に重ねられている。棚はすっかりカラで、たくさんある引き出しの中身もすでにカラだ。
 華月とニワトコの荷物の隣に、夢幻の宮が夢浮橋へ持っていく荷物も置かれた。
 この店の荷物は、大半は置いて行くことになる。
(ごめんね)
 置いて行かなくてはならない荷物の入った箱を見つめ、なんとなく心の中で詫びた。自分が謝るのも筋違いかもしれないけれど、でも。
(みんなをつれていけなくてごめんね)
 きっと、彼らは夢幻の宮との別れを惜しんでいると思うから。
(みんなの代わりにぼくが、ずっと霞子さんのそばにいるから)
 キシ……。
 小さな家鳴りが、ニワトコには返事のように聞こえた。


「あら、片付けは済んだみたいね」
 華月が夢現鏡に戻ってきた時、すでに片付けは済んでいたようで、テーブルを囲んで座った皆に夢幻の宮がお茶を配っているところだった。
「なにか食べ物があったほうがいいと思って、いろいろ買ってきたの」
「気が利くな」
「ちょうどおなかすいてたんだ!」
「広げるの、手伝うぞ」
 テーブルの上におにぎりと和菓子、そして簡単に食べられそうなおかずが何品か入った袋を置くと、皆がそれぞれ手分けしてあっという間に広げてくれた。
「お疲れ様でございます」
 夢幻の宮が華月の前にもお茶を置いてくれて、自然とみんなの輪の中に引き入れられた。
 以前は男性や集団が苦手だった華月だったが……もう、大体は大丈夫だった。こうして自然と輪の中に迎え入れられたことを嬉しく思う。
 箸やフォークを手に、それぞれが思い思いに料理に手を伸ばす。自然、話題にのぼるのは、ふたりと過ごした日々のこと。
「ニワトコ、植物であるキミとの会話は感性や認識の違いが実に新鮮かつ刺激的であり楽しかった」
「うん、ぼくも楽しかったよ。司書室棟の休憩室でお話したよね。考え方とか物の見方……いろいろなことに気づかせてもらったよ」
「失礼ながらキミが恋愛をするとは思っていなかったよ」
 シュマイトのストレートな思い。それはニワトコも同じで。
「ぼくも、特別な好きに出会えるなんて思わなかったよ」
 はにかむように、表情を緩める。彼を変えたのは、紛れも無く『出逢い』だ。出逢いのもたらす化学反応が、愛という名のモノを彼にいだかせたのだろう。
「人と出会うという事は偉大だね。心から思うよ」
「……うん。ぼくは夢幻の宮さんはもちろんだけど、シュマイトさんにも、ユーウォンさんにも、ジュリエッタさんにも、華月さんにも、他のみんなにも、出会えてよかったって思ってるよ」
 ぐるり、見回すニワトコと視線を合わせて、皆が頷く。誰もがこの出会いを大切なモノだと思っていることだろう。
「向こうでは漢字で名乗るのかね?」
「あ、考えてなかったよ」
 ニワトコが答えると、シュマイトは自分のトラベラーズノートを取り出し、スラスラと何かを書き付けた。
「一般的には『接骨木』と表記するらしいがあまり風情のある字面でない。『庭常』が良いかと思う。どうだろうか」
「素敵だと思いまする」
「ありがとう、シュマイトさん」
 新しい名前、そのプレゼントが嬉しくてこそばゆくて、ニワトコは忘れないように和紙に書き写し、そして荷物の中にしまった。
「夢幻の宮、キミには世話になったな」
「いえ……」
「以前キミに再現してもらったわたしの世界の香りに早く会いたいものだよ」
 シュマイトのその望みが実現するのは、彼女がロストナンバーであることをやめた時。つまり、二度と会うことが出来なくなるということ。それでも、彼女がどれほど故郷を恋しく思っているか夢幻の宮は知っている。だから。
「その時が早く訪れますよう……」
 そっと夢幻の宮が差し出した手に、シュマイトは自分の手を重ねる。強く握りしめ合って、言葉にならぬ思いを交わした。
「気の効いた助言の類は苦手であるし必要もなかろう。わたしはただ、キミらが末永く幸せでいられるようにと願っているよ」
「ありがとう」
「実効性は何らもないがキミらの今後に対してわたしができる事はそれしかない。祈るなどと言うとさすがに非科学的だがね」
 シュマイトらしい言葉に、皆が笑顔を漏らす。確かにシュマイトが祈ると言い出したら、逆に心配になるかもしれなかった。
「これは餞別だ」
 彼女が差し出したのは、錠前付きの箱。
「鍵はわたしの作った2本のみで複製は不可能だ。二人だけで共有したいものを入れると良い」
 一本ずつ鍵を手にし、ニワトコと夢幻の宮は顔を見合わせる。
「ありがとうございまする」
「何を入れようかな……ありがとうね」
 ふたりだけの大切なモノが、今後増えて、そしてこの箱の中に収められていくことだろう。
「おれもおれも! お祝いの品、もってきたんだ!」
 食べかけだったおにぎりを口の中に押し込んでごくんと飲み込み、ユーウォンが席を立った。片付けの邪魔にならないようにと置いておいた鞄を手に、戻ってくる。
「いろんな世界の種や球根なんだ。夢浮橋の気候にも合うやつを選んだんだよ」
 さっと華月とジュリエッタが食べ物類を寄せてテーブルに場所を作ってくれたので、ユーウォンはそこに品物を並べることにした。
 壱番世界のギボシは欧州で作出された葉の美しい品種。
 モフトピアのチューリップは原種系。オレンジの花弁と青の花芯が鮮やかに広がるのだ。
 ヴォロスからはオキナグサ。琥珀色の花芯の周りに紫の花弁が広がる。
 ブルーインブルーのハマナスは実が大きく、美味な栽培種だ。もちろん花も美しい。
 インヤンガイのヤイロドクダミはゴシキドクダミの近種で、カラフルで丈夫だという。
「それと、お店のエドヒガンの実から種を取ったんだ。すごく長生きな木なんでしょ、連れて行って、しっかりと根付かせてやってよ」
「すごい、こんなにたくさん集めるの、大変だったよね」
「喜んでくれることが一番のねぎらいだよ! あ、あと、これ」
 最後にユーウォンが取り出したのは、ヴォロスのお祭りで買った鉢植えだ。オシェルという花なのだが……ユーウォンいわくろくに世話をしていないのに枯れていないのが奇跡だとか。
「君に面倒みてもらった方が良いと思うんだ」
「ありがとう! ねえユーウォンさん、ぼくからもプレゼント、していいかな?」
 たくさんの植物を前に明るく笑んだニワトコは、荷物をおいてある場所から鉢植えを手に戻ってきた。
「これ、トゥレーンで貰った鉢植えなんだけど、貰ってくれないかな?」
「いいの? 大事なものじゃないの?」
「この子はね、お話を聞きたがるんだ。お話を聞かせてあげると色や咲き方が変わるんだよ。だから、これからはユーウォンさんが色んな所に行った話を聞かせてあげてほしいんだ」
 白い花が、揺れる。あなたが、これからお話を聞かせてくれるの?
「わかった! きちんと世話をして、色んな話を聞かせるよ!」
「よろしくね」
 一緒に色々なところに出かけた。楽しかったことはたくさん。その話を鉢植えにも聞かせてきたから、きっと鉢植えもユーウォンの事を受け入れてくれるだろう。
「私からは、これを」
 華月が差し出したのは、柔らかな布に包まれたもの。彼女がゆっくり包みを開くと、中から出てきた銀色が光を反射させる。
「これは……?」
「懐中時計にございますね」
 不思議そうなニワトコの隣で夢幻の宮が目を細めた。精緻な細工の銀色に、宝石がはめ込まれている。二つの懐中時計は片方が少し小さめだった。そちらを夢幻の宮に渡し、大きめの方をニワトコへと渡す。
「時計の本体は勿論、私は作れないから他の人にお願いしたけど、デザインは私が考えて、作ったの」
「すごいね! 模様も細かくて綺麗だね」
「両方の時計に使用している宝石はムーンストーン。永遠の愛という意味もある宝石よ」
 蓋を開くと秒針が、二つとも同じ速度で時を刻んでいる。これからも、二人一緒に時を刻んでいけるよう――。
「結婚おめでとう、お母様、お父様」
「ありがとう、華月さん!」
「ありがとうございまする……」
 隣にいる夢幻の宮がうっすらと涙を浮かべて、袖口でそれを拭いている。
 ゆっくり、ひとりひとりの顔を見ながら言葉を交わして、ニワトコは色々なことを思い出す。
 火に追われるように故郷を追われ時、一人ぼっちになってしまったと思った。けれども決してひとりではなかった。
 ユーウォンと一緒に出かけて、シュマイトと言葉をかわして新しいことに気がついて。一緒に依頼を受けたジュリエッタが、夢幻の宮と仲良しだと聞いてなんだか嬉しくなって、友だちだった華月は……なんだかくすぐったいけど今は家族。
 自分が変わるのに合わせて関係性も変わった。ううん、関係性が変わったから自分も変わった? どちらかはわからないけれど。
 今、旅立ちの時を向かえることが出来たのは、自分ひとりの力じゃないと思う。みんながいたから。
(ああ、ぼくたちはここから新しく旅立っていくんだな)
 なんだか胸がいっぱいになって……。
「みんな、ほんとうにありがとう」
 何度言っても言い足りない気がした。


 *


 ロストレイルに乗り込むと、夢浮橋の駅まではあっという間に感じた。ゆっくりと足を下ろす。
(ここが、これからぼく達が暮らす世界)
 今まで何度も来た場所ではあるけれど、ここはこれから「帰る場所」になる。
 そっと、今降りてきたロストレイルを見つめる。ロストレイルにも、もう乗ることはないのだ。
「はい、これで全部だよ」
「ありがとう」
 ユーウォンが下ろしてくれた荷物を受け取る。ニワトコは一度大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。肺の中の空気が夢浮橋のものに変わった。
「夢幻の宮さん、前にお店に行った時の香、大事に使ってるよ。……あの後、寂しいってどんなことなのか、一度体験したいなと思ったりしたけど、今ちょっとだけそれが分かったよ」
「そうでございますか。どんな感じでございますか?」
 荷物を受け取りつつ、夢幻の宮は問う。
「でも、思ったより晴れやかで……悪いものじゃないね!」
 この別れは悲しいものではない。旅立ちという別れは、ステップアップすることでもある。
「ユーウォンさん、これ、お願いしてもいいかな?」
 ニワトコが差し出したのは、パスホルダーとトラベラーズノート、トラベルギア。これを返すことで、本当にロストナンバーではなくなるのだ。
「うん、預かるよ」
「よろしくね」
 なんとなく、手放しがたい気もするけれど、もう、決めたことだ。
「ジュリエッタ様、シュマイト様、お願いできますか?」
「ああ」
「わかったのじゃ」
 夢幻の宮はシュマイトにパスホルダーとノートを、ジュリエッタにトラベルギアを預けた。
 このままターミナルに戻らない華月は、そっと別れの様子を見守っている。
「この世界でも色々なことを経験したのう……これが永久の別れではない。わたくしも、きっと宮殿達のように愛する者と結ばれ幸せになろうぞ、約束じゃ」
 ジュリエッタは夢幻の宮を抱きしめ、そして告げるのは。


「non ti dico addio ma arrivederci.」
 ――さよならは言いません、また会いましょう。 


 さよならじゃない、そう思うから。さよならとは言わない。
「夢幻の宮さん」
 彼女を見つめたニワトコは、そっと、唇を寄せて――。


 唇と唇が重ねられたその時、ふたりの頭上の真理数が点滅をやめてしっかりと浮かび上がった。



  【了】

クリエイターコメントこの度は、オファー・ご参加ありがとうございました。
ノベルお届けいたします!

帰属、おめでとうございます!
そして、お見送りありがとうございました!
なんだか書き始めから寂しくて寂しくて。
ああ、書き終わりたくないなぁと思ってしまいました。
けれどもこれから二人の新生活が始まっていくのかと思うと、終わりじゃないのだと思えて。

皆様に見送られて、ご縁が出来て、そして愛されて。
夢幻の宮も幸せです。
ありがとうございます。
そしてこれからも、よろしくお願い致します。

ありがとうございました。
公開日時2014-02-13(木) 00:00

 

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