無名の司書の『導きの書』が、音を立てて落ちた。図書館ホールに鈍い音が響く。「どうしたんだい?」 青ざめて片膝をついた司書を、通りがかったモリーオ・ノルドが助け起こす。「《迷宮》が……、同時に、ななつ、も。どうしよう……」 震える声で、司書は言った。フライジングのオウ大陸全土に《迷宮》が複数、発生したらしい。放置すれば迷宮は広がり続け、善意の人々に被害をもたらしてしまう。 たしかに、予兆はあった。先般、フライジングへの調査に赴いたジュリエッタ・凛・アヴェルリーノの報告によれば、《迷鳥》の卵は、駆除が追い付かぬほど多く発見されているという。それも、ヴァイエン侯爵領だけではなく、オウ大陸に点在するさまざまな地域に。「それは……。きみひとりでは手に余るだろうね。対処するための依頼を出すのなら、手伝おう。どうもきみはこのところ、オーバーワーク気味のようだし」「ほんと? モリーオさん、やさしい……」 無名の司書は、じんわりと涙を浮かべる。「じゃあ、お言葉に甘えて。あたし、ひとつ担当するから、あとむっつ、よろしく」「……ちょっと待った。なんでそういう割り振りになるかな?」「それだとモリーオがオーバーワークになるぞ。俺も手を貸そうか?」 贖ノ森火城が、苦笑しながら歩みよる。「ありがとう、火城さん。頼もしい~」「忙しいの? 私も手伝うよ?」 紫上緋穂も駆け寄ってくる。「ありがとう! 緋穂たんだって忙しいのに忙しいのに忙しいのに!」「よかったら、あたしもやるわよ?」 ルティ・シディがのんびりと声を発し、無名の司書はしゃくりあげた。 「ルティたーん! うれじい愛してる〜!」 同僚たちの配慮に、司書は胸の前で両手を組む。灯緒がゆっくりと近づいた。「フライジングに異変が起こったそうだな」「灯緒さぁぁぁぁ~ん。灯緒さんだって朱昏で大変なのにありがとうありがとう愛してる~!」「……いや? ……ああ、……うん」 まだ何も言っていないのに、というか状況確認に来ただけだったのに、灯緒はがっつり抱きつかれて、手伝うはめになった。『オレは手伝わねぇぞ?』 アドは、スルーします的看板を掲げ、走り去ろうとした。んが、無名の司書にあるまじきものすごい俊敏さで首を引っ掴まれてしまった。「ありがとうアドさん!」『手伝わないつってんだろーが!?』 * 火城が受け持った《迷宮》は、ホウ大陸の一角にあるヴァイエン侯爵領内に発生していた。 ヴァイエン侯爵領内の片隅にひっそりとたたずむ、夏のさなかとて陽の差し込まぬような、昏(くら)い森の奥である。 いつもひんやりと肌寒く、獣や鳥、虫のほかには何もいないはずなのにどこからともなく奇妙な――彼らの立てるものとは思えない――音が聞こえ、常に何者かの粘りつくような視線を感じる。そんな薄気味悪い場所として、ヴァイエン侯爵領の人々にも恐れられ、ドゥンケルハイト、すなわち闇の森と呼ばれて忌避されている。 火城の呼びかけを受けて集まった八人は、ドゥンケルハイト森をまっすぐに進んだのち、《迷宮》の入り口に立っていた。「火城の予言によれば、ここにいる《迷鳥》は、とにかく何でも燃やすらしい」 戦闘要員というよりナビゲーターや補助要員として参加している神楽・プリギエーラが、預かって来た情報を皆に説明する。「何でも? 石や金属でも?」「物質以外のものも、燃やすかもしれない」 説明しながら、神楽は、黒々とした闇のわだかまる《迷宮》の奥をじっと見つめている。スピリチュアルのたぐいに属するさまざまなものと近しい巫子であるから、おそらくこの世ならざる何かを感じているのだろう。 何が見えるのかと問えば、「緋(あか)い火だ。地を舐めるかのような業火だ。『お前を赦さない』と呻く地の獄からの声だ」 巫子からは、ひどく不吉な答えが返った。 背筋が妙に寒いのは、錯覚だろうか。「……それは、いったい」 しかし神楽は、それには答えなかった。「この《迷宮》と付随して発生するモンスター、そして《迷鳥》は火と闇の属性を持っている。火は肉体を焦がし、闇は心と魂を捕らえ蝕むだろう。飲み込まれないよう、侵蝕されないように気をつけろ。――とはいえ、万が一飲み込まれ変質してしまったら、私の影竜がひと飲みにして止めてやるから心配は要らない」 別の意味で心配になるようなことを淡々と言い、「奥の奥の奥に《迷鳥》がいる。緋い火をまとった、黒い巨(おお)きな鷲だ。ことの次第によってはさらに巨きくなるかもしれない無窮の黒だ」 神楽は、昏い《迷宮》の向こう側を指さした。「まるで見えてるみたいだな」「妙なことに、恐ろしいほどよく視える。それだけ油断ならぬ相手ということかもしれない」「火と……闇、か。純粋な戦闘としてもなかなか厄介そうだな。そのうえ、物理的な攻撃だけじゃないような印象だし。こっちの言葉を理解したり、説得に応じたりっていうのはないのか?」「我々と同じ意識、意思のようなものは伝わってこない。説得が可能なようには思えないな。どうしても、というのなら止めはしないが」 結局戦いか、と誰かが自嘲気味に言うのへ、軽く頷いてみせる。「《迷宮》を放置することは出来ない。そのためには《迷鳥》を斃すしかない」「《迷鳥》を斃せば《迷宮》やモンスターも消えるんだったか」「そうらしい」 神楽は、《迷鳥》には物理攻撃も魔法攻撃も効くこと、効きはするがその大きさもあってダメージを積み重ねるしか倒すすべはないこと、《迷鳥》は今のところ全長五メートルほどで、普通の火を操っての攻撃しかしてこないが、とある要素によってはどんどん巨大化し、また特殊な攻撃を放ってくる可能性があることなどを説明した。「『要素』とは何なのか、判るものには判るだろう。おそらくそれは非常に自動的で、理解できたから止められるというものではない。重要なのは、その要素がアレを育て、また強くしてしまうのだとして、きみたちが何を思いどう戦うか、ということだ」 その言葉とともに、健闘を祈る、と締めくくる。 丸投げかよ、と嘆く暇も、旅人たちには与えられない。 黒々と口を開けて待つ、不吉なダンジョンへと、彼らは誘われてゆく。!お願い!オリジナルワールドシナリオ群『春の迷宮』は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。
1.虚ろな洞 踏み込んだ途端、旅人たちは骨まで沁みる冷気と不快な湿度に見舞われることとなった。いかなる能力を持っていようとも、いかなる強靭な肉体の持ち主であろうとも、その冷気と湿度からは逃れられず、人々はめいめいに顔をしかめる。 まるで、この迷宮そのものが、囚人を苛む処刑具だとでもいうかのようだ。 「進むだけで体力を奪われそうだね」 蓮見沢 理比古が苦笑した。 「一昨年の冬に、おいしいものを探しにダンジョン探索をしたんだけど、あのときみたいに楽しそうじゃないなあ」 そこがどこであっても変わらず、透徹したやわらかな笑みをまといつつ、理比古の灰眼は辺りを注意深く観察している。神楽に全員の身体能力底上げを頼み、しっかりと準備をしているところからもそれが伺える。 しかし、決して過剰な緊張はしていない。あるがままに受け止め、受け入れる覚悟と器を、理比古という人間は持っている。 「……大物だな、あんた」 木賊 連治は、黒々とした天井を見上げ、うっそりと目を細める。 彼は、茶色の革手袋をしていた。それに何の意味があるのか、それがいかに替えの利かないものであるのかを知るものは、連治以外にはいない。 「そうかな。やらなきゃいけないことに変わりはないわけだし、どっしり構えてたほうが精神衛生上よくない?」 「それは……そうかもしれねえが。しかし、ぞっとしねえ場所だな」 連治はこの迷宮の持つ性質に気づいていた。 重い重い、地の獄へ連なるその要素は、今の連治をかたちづくる最たるものといって過言ではない。ソレへの願望を抱えるがゆえか、責め立てる声に、その声を孕む迷宮に惧れつつも惹かれる。その自分を自覚してもいる。 連治は革手袋を装着した拳を握り締め、ゆっくりと開く。その掌を見つめる。 「……燃えちまわねえように、重々気をつけねえとな」 ぽつりとつぶやき、ぐるりとこうべを巡らせる。 迷宮内部では、出どころの判らない火がチラチラと燃えている。その影には、明らかに火の揺らめきによって発生したものではない、不自然な動きの闇がわだかまっている。 それらをひどく不可解だと、そしてうそ寒さを感じると思いつつ、 「おい、大丈夫か。アキっつったな……何だ、体調でも悪いのか」 連治が声をかけたのはアキ・ニエメラだ。 陽気な強化増幅兵士は、いつもとは違ってやけにつらそうな様子だった。足運びや身のこなしに問題があるほどではないのだが、どことなく疲れたような空気を漂わせている。 「ん? あー、まあ、大丈夫だ」 言いつつ顔色はよくないし、頭痛でもするのか片手で顔の半面を覆い、眉をしかめたり目をつぶったりしている。 「大丈夫ってツラじゃねえだろ。俺たちはこれから戦いに行くんだぜ? 足を引っ張られるのはごめんだからな」 辛辣な口調だが、根底には気遣いの色がある。 わざときつい言いかたで本心を引き出そうとするような節、損な性分を感じ取り、アキはかすかに笑った。 「……あんたってお人好しだな」 「はあ? そんなんじゃねえよ」 顔をしかめる連治へ肩をすくめてみせ、 「……あっちこっちから怨嗟の声が響いて頭がガンガンする」 アキは黒い天井を見上げた。 集中すれば他者の深層意識すら覗けてしまう、強い精神感応力を持つ身としてはあまり嬉しい場所ではない。 「怨嗟?」 「ここで死んだ連中の、じゃねぇかな。テレパスに特化してると時々あるんだよ、アンテナみてぇになって、負の感情を集めちまうの」 「ねえアキ、迷鳥の意思とか意識は? それが判れば、対処もしやすくならないかな」 理比古の問いに、アキは顔をしかめながら意識を集中させた。 四方八方から苦しい死にたくない喰われたくない痛い熱い苦しい辛い憎い憎いと感情の残滓が押し寄せてアキの頭をゴツゴツと殴りつけていくが、どうにか能力をコントロールしつつ必要な情報を探る。 これだけ強烈な迷宮をつくりだすのだ、さぞかし強い欲求、もしくは渇望や飢えに衝き動かされているのだろうと思いきや、 「……何も感じねぇ。迷鳥の存在自体は判るが、その内部にあるべき思考がどこからも見つからねぇ。なんだ、この、虚ろな黒は……?」 そこに迷鳥自身の感情、情動は存在しないのだった。 迷宮と迷鳥が突きつけてくる重苦しい要素は、迷鳥の意思によるものではなく、ただの自動的な何かにすぎないのだろうか。 ひどい頭痛に顔をしかめるアキの傍らでは、一二 千志が不機嫌そうな表情で歩みを進めている。 傍から見れば、怒りのオーラを漂わせた声をかけづらい雰囲気といったところなのだが、実を言うと、千志の内面では苦悩の欠片がチリチリと渦巻いているところだった。 「赦さない、か……」 つぶやきはあまりに小さく、迷宮の冷たい石壁に吸い込まれて消えるのみだ。 「……そんなこと、もうずっと前から知ってる」 理想のために、多くの同胞をこの手にかけた。 その連なりが、結果、ともに生きたい、救いたい、幸せであってほしいと願っていた親友を殺す皮肉につながった。 能力者への差別から病院をたらいまわしにされ、亡くなった両親の、その死の遠因をつくったのもまた自分だ。 己が生は、あまたの死と、屍と、怨嗟と憎悪の上に打ち立てられた漆黒の塔だ。 千志はそれを自覚している。 何度も何度も、現実でも夢でも聞いた。「ゆるさない」、その重々しい言葉を。 自分がゆるされる日など、永遠に来ないことも知っている。 要素が何なのか、千志には容易く予想がついた。 火は、闇は、おそらく千志を飲み込み、鋭く惨く灼くだろう。 その痛みを想像し、千志はガントレット型のギアに包まれた手を握り締めた。 「……だからって、放っておけるかよ」 苦痛を、弾劾を恐れて背を向けたら、それこそ千志の魂は死んでしまう。 それは、千志にとって何よりも耐え難いことなのだ。 「薄気味ワリーとこだな……」 夕凪はげんなりと息を吐いた。 周囲から迫ってくる何もかもが、彼に嫌な予感ばかりを運んでくる。 回れ右をして帰りたい、そんな欲求が込み上げるものの、今さら出来るはずもないことは判っている。 しかし、億劫だし不快だし苦痛だ。 ゆえに、夕凪はむっつりと不機嫌だった。 「なあ、迷鳥の特殊能力だけど」 不快さを振り払うように夕凪は声を上げる。 「ああ」 応えてくれたのは連治だった。 「そもそも駆除し損ねた迷鳥がつくってる迷鳥なんだから、殺されかけた恨みつらみその他で、意思も意識も燃え尽きちまって、許さねーとかぶっ殺すとかそういう感情の残滓だけ残ってるんじゃねーの?」 イメージするなら、それは自他を燃やし尽くす炎だ。 他人を憎み恨んでいる、憎まれ恨まれている自覚のあるものが危険なのではないか、と自説を述べると、連治はそうだな、と考え込むそぶりをみせた。 「私も、憎悪や怒り、恨みなどの負の感情を『要素』と呼ぶのではないかと思っていました」 ラス・アイシュメルが同意を示した。 ラスは、それらすべてによって己がかたちづくられていることを知っている。 「迷鳥の放ってくる特殊攻撃とは、自分が負の感情を持つ、もしくは自分へ負の感情を持つ存在が具現化され、襲いかかってくるようなものではないか、と」 それが本当なら、ラスには、迷鳥の餌にならない要素が何ひとつとしてない。彼自身、それを自覚している。 「ラス君は、そうなったとき、自分は迷鳥に食べられてしまうと思う?」 理比古に問われ、ラスはかすかな笑みを浮かべた。 そこに自嘲が含まれていることに、聡い理比古ならば気づいただろう。 「そうですね……それもまた、ひとつの運命なのかもしれません」 自分を苦しめ、狂わせ続ける、ひどく凝り固まり荒ぶる復讐心が、食われてなくなるとしたらそれもありだろう、と、ラスは半ば開き直っている。 「……俺はごめんだ。俺の持ってるものを、何でそいつにくれてやらなきゃいけない?」 連治が顔をしかめる。 千志は注意深く辺りを観察しながら、夕凪やラスの言葉を反芻しているようだ。 「物質以外のものも燃やす。そして、神楽の言葉……俺も、迷鳥の攻撃とは負の感情に反応するものだと思うが、それはただの『負』だけなのか?」 迷宮を進むものたちは、すでに理解しつつある。 誰もが内面に持っている、どろどろと濁りわだかまる黒く重い何か。 それが、攻撃の基準となり、また、餌ともなるのだと。 「しっかし、どうしたもんかね、コレ。魔力、足りるといいけど」 テリガン・ウルグナズは、無償契約のしすぎで枯渇した魔力を心配しつつ、言葉の意味を考えていた。 「『お前を赦さない』、か……」 それを思い起こすたび、脳裏をよぎるのはひび割れた十字架の冷たさだ。 喪われてゆく体温と、鈍く冷たい絶望だ。 「そういう風に思えるのは、何もお前だけの特権ってわけじゃねぇんだぜ」 糾弾者、罰するもの、裁くもの。 テリガンにとって、そういったモノはひどく疎ましく不快な存在だった。 「正しさがひとつじゃない以上、どこにも正統性なんかねぇんだから」 そこには、断罪者の傲慢への激烈な怒りがある。 アキが声をかけた。 「……怒りに呑まれんなよ、テリガン」 「どういうこと?」 「迷鳥にはおそらく、攻撃しようなんて意思はねぇんだ。正しいとか正しくないとか、そんな観点から特殊能力を使ってくるわけでもねぇ」 「奴らは奴らなりに、ただ己の営みを行ってる。それだけ、ってことか?」 千志の言葉に閃くものがあって、 「自動的……?」 つぶやくと、アキは頷いた。 「要するに、労力の無駄、ってコト?」 「たぶんな」 自分のことをどうとも思っていない相手に、怒りや憎悪を向けたところで何の反応もなければ意味もない。むしろそれは己の隙を大きくするうえ、自分が疲弊し、余計な力を使うだけだ。 無論、怒りとは自分で制御できるものばかりではない。 理解していたからと言って、押し留められるわけでもないことは、皆が自覚していることだろう。 「……行こう。まずは、迷宮を踏破するしかない」 連治に促され、一行はさらに奥へ奥へと進む。 進むごとに、闇は一層、濃くなってゆく。 2.火と闇の茨獄 「連治さん、そこ、危ない!」 理比古の鋭い警告と、トラベルギアの一閃は同時だった。 小太刀が水の力を孕み、唐突に湧きあがった炎へと殺到する。ぴしゃん、と軽やかな音を立て、水が炎を消し去る。同時に、清い香りが鼻腔をくすぐった。 「ごめん、濡れた?」 「……いや、助かった」 理比古は細かい場所によく気づき――くだんの迷宮でも、いろいろなものに気づくからこそ『被害』を増大させたわけだ――、罠や、モンスターの潜む場所を的確に見つけては皆を助けた。 「てめえらにかまけてる暇はねえ」 ぞろりと湧いて出た、いかなる獣とも取れない形状の、気味の悪いモンスターを、連治の握る詩銃の弾丸が撃ち砕く。火をまとったモンスターに水の力を帯びたそれは覿面で、迷宮に付随して発生した、生命ならぬ生命は軋むような不快な鳴き声を上げながら消滅する。 迷宮を進むごとに、モンスターの数は多くなった。 それらはぞろぞろと現れ、すがるように集まってくる。 「餓鬼、みたい」 小太刀に水をまとわせ、斬り払いながら理比古がつぶやく。 その灰眼には憐みがあった。 「……迷宮自体が、おそろしい飢えによってかたちづくられてるのかもしれねえな」 一発ずつしか水の弾丸を放てない詩銃では不便だ、と、ギアを理比古の小太刀に変え、水の力をまとわせて一気に薙ぎ払えば、持ち主からは不思議そうな瞬きが返った。 「あれ……?」 「……気にすんな」 内密に、の意味を込めて人差し指を口の前に持っていけば、理比古はくすりと笑って頷いた。 「次の角から先、モンスターの大群が待ち構えてる。南側には闇、西側には火の罠があるから、東のルートをまっすぐに進むほうがいい」 アキは、四方八方から押し寄せる怨嗟の声にグロッキー気味で、時おり息を荒らげることすらあるほどだったが、苦しみつつもESP能力を最大限に発揮して、罠を見つけたりモンスターの接近を知らせたり、同行面子間の意思疎通を取り持ったりしていた。 常の彼にしてみれば屈辱的なほどに動けず、誰よりも先陣を切るべき強化兵士が……と歯噛みもしたが、あふれ返り流れ込む怨嗟はテレパス制御の主導権すら握り、アキを苛み続ける。 『赦さない!』 「ッ!」 あまりに激烈なそれに、後頭部を強打されたような衝撃があり、たまらず膝が折れる。 どうにか耐え、無様に倒れることはなかったが、隙が生まれたことは事実で、そこへモンスターが殺到する。アキが、低く舌打ちをして体勢を立て直そうとするよりも、 「おい、無理すんな。本番まで先は長いんだからな」 千志の生み出した影の刃が、モンスターたちを貫き、引き裂くほうが早かった。その直後、大股で歩み寄った千志が、アキの腕を取り、立たせて支える。 「悪ぃ」 「……まあ、俺たちだって、あんたにルートを教えてもらってるわけだし」 事実、アキのESP能力は、モンスターよりも厄介な、炎と闇のトラップを回避するのに役立っているし、最短ルートを検索しているのも彼だ。 だからお互い様なのだと千志が言外に言う間に、 「前からモンスター二十体前後、来るぜ」 夕凪がぼそりと警告の声を発する。 「ひと息に叩きます。皆さん、離れていてください」 ラスが、掲げた手の甲へと鉄杭を叩き込むと、その傷はすべて殺到したモンスターに移される。もんどりうったそれらに、理比古と連治の水刃、千志の影刃、そして夕凪の念動がとどめを刺した。 次の角を曲がったところで、 「……ここは、超えるしかねぇみてぇだ。他に迂回ルートはねぇ」 炎がうねり渦巻く回廊へと差し掛かる。 蛇の舌のようにのたくる炎から熱風が吹きつけ、頬をちりちりさせる。 「うわー、派手だなァ」 テリガンは半ば感心すらしていた。 同行者たちに契約書を渡してみたものの、残念ながら契約してくれる人がいなかったので、またしても魔力は自前である。 「このスーツ、防火仕様だしなんとかなるカナー。ってか、悪魔の自己再生能力舐めんなよ!」 気合とともに、火の輪くぐりの猛獣の心境で飛び込んで行く。 じりじりと焦がされ、顔をしかめつつ一気に走り抜ける。 そんな中、 (見ているぞ。お前を見ているぞ……お前の、――を) 誰かの声が聞こえたような気がして、思わず周囲を見渡すも、そこにあるのは呼吸さえも焼かれそうな火と、叩きつけるような熱風だけだ。テリガンは首を傾げながら、スーツが火勢に負ける前に、と全力で走った。 めいめいに、自前の能力やギアの力を使って炎の回廊を抜けたところで、次ににじり寄って来たのは闇だった。 それは、触れるだけで骨の髄まで凍る寒さをもたらした。 あれに取り込まれ内面まで侵されてしまったら、おそらく自分を保ってはいられまい。 「面倒クサッ!」 ぼやきつつ、テリガンはショットガンをぶっ放す。 物理的に撃退できないかを試してみたのだが、闇は弾丸などものともせず、ずるずると這い寄ってくる。ただの揺らめく闇なのに、それは、見ているだけで奇妙な悪寒を与え、自分の根源にある不可解な恐怖心を刺激するのだ。 「やめろ、近寄んな触んな、ぶっ殺すぞ!」 そもそも触れられることに強い拒否感を持つ夕凪は、毛を逆立てる猫さながらに拒絶をあらわにしていたが、闇の進行は止まらない。 「――ッ!!」 触手めいた動きを見せる闇に足首を掴まれ、転倒させられる。 思いきり背中を打って、夕凪は呻いた。 「くそッ、気安く近寄んじゃねーよ、さっさと消え、――!?」 その眼が途中で凍る。 そこには何もなかったが、宙を見つめる目に、彼にしか測れぬ『何か』が映ったことは明白だ。 同じく、何もない場所を見て息を飲み、その隙を突かれて闇に囚われかけた理比古や連治、千志もまた、ひたひたと忍び寄る、虚ろの悪意を感じ取っていた。 盛大に転倒し、腰を打ったおかげで我に返った理比古は、 「……なるほど、これは効くなあ」 あいたたた、と呻きつつ、微苦笑をこぼしている。 連治は深いため息をつき、千志は割れるくらい強く奥歯を噛みしめていた。 「こいつに捕まると、しばらく行動不能になるみてえだな……厄介な話だ」 連治が、闇に掴まれた手首から感覚が消えていることを確認するその前で、 ぞわぞわと気味の悪い動きを見せ、闇が膨らむ。膨らんだそれは、意思を持つ生き物のように、再度人々へと襲いかかろうとしたが、 「“浄化歌布の三、ノビレ・タリズマーノの聖冠”」 謳うような神楽の声と、パラディーゾの音色とともに、清く光る幕が彼らを覆い、闇の浸食を防いだ。同時に、どこかから放たれた光る矢が闇の一角を貫く。耳障りな音を立てて灼けたそれが、ざっと退いていくと、冷ややかな圧迫感が消え、身体に自由が戻った。 「今のは……?」 眉をひそめ、夕凪がつぶやくも、答えるものはいない。 「それより、早く進もうぜ。ラスとアキが先行してる」 実は、誰も見ていないところからロザリオの力で光を撃ち出し、闇を祓った当人であるテリガンは、すでにずいぶん先へと進んでいるふたりを追って走り出した。 前方からアキの警告が飛ぶ。 「気をつけろ、近いぞ!」 ――精神感応の力を持たぬ人々も、何かを感じ取りつつあった。 そう、その先にわだかまる、虚ろで冷たい暗闇を。 それが、己へもたらすであろう、何かに。 3.内なる糾弾 最奥へ辿り着いたところで、モンスターは追ってこなくなった。 理由など、誰かに問うまでもない。 「……大きい……!」 それはとてつもなく広い、黒い石でできた空間だ。 迷宮の真ん中、最奥、ひとつしか出口のない行き止まり。 その中央に、緋の炎をまとった鷲が黒々とわだかまっている。 足元に、埋もれるほど無数の石片が見えた。そう思い目を凝らせば、それは砕かれ焼け焦げた骨の集まりなのだった。 迷鳥は身の丈十メートルを超えていた。じっと見つめれば、迷鳥が少しずつ『成長』を続けていることも判っただろう。 「……育ったな、ずいぶん」 神楽がぽつりとつぶやき、パラディーゾを構える。 不釣り合いなほどに美しい音楽が部屋を満たし、人々の身体へしみこんでゆく。同時に、身体が少し軽くなり、疲労が和らいだ。身体能力の増幅と、今までに蓄積されたダメージの回復をしてくれたらしい。 が、 「先に謝っておく」 「え、何を」 「……重ねがけは、あとで大きな反動になって返ってくる」 「え、どのくらいの」 「だいたい三日寝込むくらいの筋肉痛だな」 おおよそ、神楽の持ち込む依頼やしでかすものごとが常においてそうであるように、今回もまた碌でもない結果をもたらす運命なのだった。 「……うん、まあ、そういうこともあるよね」 今はそれどころではないと意識を切り替え、理比古は他の面子と同じく迷鳥と対峙する。 迷鳥の足元で暗闇が渦巻いている。 それを見つめているだけで、引きずり込まれるような錯覚に陥る。 そして、闇も火も、徐々に規模を増しているように見えた。否、事実、その通りなのだった。 「気をつけろ、理比古」 アキの声が遠くに聞こえる。 そう思った瞬間、闇が、火が、おそろしい勢いで膨らんだ。 それらは混ざり合い、熱波と冷気を同時に孕みながら、ひと息に皆を飲み込んでしまう。緋と黒に包み込まれ、自分以外の誰も、何も見えなくなる。 同時に、わんわんと反響しながら、ひとつの言葉が突きつけられる。 『生まれたこと、生きていること自体がお前の罪だ』 聞き覚えのある声が、重なり合いながら己を糾弾する。 何度も何度も、繰り返し、言葉が理比古を貫く。 それは物理的な力さえ伴っていて、理比古は吹き飛ばされ、受け身を取る間もなく地面に叩きつけられた。 「いッ、つ……」 顔をしかめ、したたかに打った場所をさすりつつ、理比古の表情に絶望はない。少し哀しげな微苦笑があるだけだ。 神楽の説明を聞いた時から察していた。 「……うん。よく言われたから、知ってる」 神楽の言葉はたくさんのものごとを暗示していた。 お前を赦さない、という声。 地の獄という言葉。 地獄とは、罪人が責めを受け罰せられる場所だ。 つまり、この迷宮は、罪を犯したもの、もしくは自分は罪を犯したと思っているものが踏み込むと迷鳥を巨大化させるのだ。そして、キィワードに反応した迷鳥によって、芯から灼かれるのだろう。 ごぉう、と火が渦巻いた。 「だとしたら、俺に、なすすべはないんだよなあ」 それは、あっという間に理比古を包み込む。炎熱が激痛とともに四肢を焦がす。 「覚悟? 諦め? どうなのかな」 燃える指先を見つめつつ、理比古の眼は穏やかなままだ。 「今でもずっと苦しいよ。あの人たちはきっと、今も俺を憎んでいるのだろうから」 炎が、唸りながら理比古を舐めまわす。 ああ、このままだと骨になっちゃうかな。 かすかに笑い、理比古は緋と黒に塗りつぶされた天を仰いだ。 『お前は人殺しだ。汚い裏切り者、殺人者!』 声が頭蓋骨の中で反響する。 連治はもう、とうに、闇に髄まで侵されていた。 たぷん、たぷん、と、間の抜けた水音のように、闇が耳元で震える。 連治が闇を受け入れたのは、そのほうが楽だったからだ。そして、罪を犯した自分がそうなるのは当然で仕方のないことだと、お前はそうなるべきなのだと、罪悪感が彼から抵抗の意志を削ぐからだ。 しかし、緋い火が近づくと、連治は我に返った。 火が、お前を喰らってやる、罪人にはそれが相応しい、と言葉なく喚きながら連治を取り巻くと、彼はそれから逃げようと足掻いた。 闇に囚われ身動きもままならない身で、這いずってでも火から遠ざかろうと無様にもがく。普段の、優雅な所作と華やかな立ち居振る舞いを知るものが見たら目を瞠るだろう、ひどく怯えた姿だった。 殺人を犯したことを誰よりも悔い、罪の重さに恐怖しているのは連治自身なのだ。 炎は、連治に、あのときのことを否応なく思い出させ、突きつける。 罪に怯える臆病さと罪悪感、その双方が連治から抵抗の意志を奪っていく。 それはほとんど条件反射のようなものだった。 わんわんと響く弾劾の声に歯噛みし、四肢を焦がす炎に呻き、闇の冷たさに喘ぎながら、連治は革手袋に覆われた手で地面を掻いた。 もがきながら誰かの名を呼んだ気がするが、定かではない。 『お前が多くの人生を終わらせた。誰も望んではいなかったのに!』 闇がアキを覆い尽くす。 罪を暴き立てる声は炎となってアキの全身を燃やした。 眼球を焼かれたのか、何も見えない。そこにはただ暗闇だけがある。 「……罪とは何だ? それは主観か、客観か?」 痛みに慣れきった強化兵士は、己が燃えることには何の感慨もなく、じっと佇んでいる。 人を殺すことは罪であるはずだ。 ならば、兵士は戦えば闘うほど罪を犯すことになる。 しかし、それは彼らの仕事でもあるのだ。兵士は、戦わねば日々の糧を得られない。己を存続させることが出来ないのだ。 「殺さずに済むならそれに越したことはねぇ。でも、生きるためには殺すしかねぇ。――袋小路の、どん詰まりだ」 炎が、闇が、裁くものの声でアキの罪を糾弾する。 しかしアキは、もはや見えぬはずの眼で、鋭く迷鳥を見据えるばかりだ。 『裏切り者、人殺し! おまえを一生憎み続けてやる!』 千志を糾弾するのは、親友の声であり、今までに殺した人々の怨嗟であり、千志自身の罪悪感であり、己への憎悪でもあった。 炎が千志を舐めまわす。 いっそ愛撫のような丁寧さで、身体の隅々まで燃やしていく。 同時に這い寄る闇が、千志の四肢を凍りつかせていく。 炎と闇、双方に咽喉を塞がれ、吸い込む大気はすべて、熱風か冷気になった。 内側から外側から灼かれ凍てつかされ、とてつもない苦痛に意識が乱れる。 しかし、意識の根底は悲壮に冴えている。 「そんなこと、前から知ってる」 赦しや救いが欲しかった。 赦してほしかったし、救われたかった。 けれど、自分が赦されず、救われないことももう、理解している。 「……今さらだ」 灼かれて傷んだ咽喉からは、かすれた自嘲の声がこぼれ落ちるだけだ。 『僕は、俺は、私は死んだ、お前に殺されたのに、どうしてお前は生きている!』 夕凪の全身を炎が嬲る。 咽喉の奥まで灼かれて息が出来ない。 弾劾の声が夕凪を殴りつけ、斬り裂き、吹き飛ばす。 熱くて痛くて苦しくて、何もできない。抵抗どころか、身動きすらも。 ――研究施設にいたころ、比較的仲のいい被験者がいた。 しかし、夕凪がよけいなことを言ったために外の世界へのあこがれと渇望を募らせ、ある日脱走を企てて、結局失敗した。研究者たちは、こんな失敗作に器は要らないと言い、彼を脳だけで生かすという惨い罰を課した。 夕凪が暴走したあの日、被験者も研究者も施設で働く人々も、すべてが狂死した。 すべては夕凪がやったのだ。 それらの死を招いたのは自分だった。 自分の身体をいじくりまわした連中も、戸籍を持たないものがどんな目に遭おうとも、それは結局モノと同じだからどうでもいいと思っている戸籍所有の市民たちも、死んだところで――自分が殺したところで感慨はない。 てめーらだって同じようなことをおれにしたじゃねーか、と、吐き捨てるだけだ。 しかし、それを罪と糾弾されることへの心構えは夕凪にはなく、彼は火からも闇からも逃れられず、嬲られ続けるだけだった。 苦しみのあまり地面を掻き毟った指が黒く炭化していく。 悲鳴は声にも言葉にもならない。 焼け焦げ崩れかけた耳の奥に、甘露を啜り、その甘さに舌なめずりをするような音が聞こえた気がした。 『失敗作として生まれたこと、それがお前の罪だ』 冷ややかな声がラスを断罪する。 眼球を焼き焦がされて何も見えない。今は傷も回復しない。 見えないのに、ラスには、目の前に『彼ら』がいることが判った。 『彼ら』、ラスをつくり、殺し続けた、復讐相手の神々だ。 「そこに……いるのかあァッ!」 闇に凍らされ動きを制限された手と、炎に焦がされ激痛を訴える咽喉を奮い立たせ、呪言を紡ぐ。 迷宮に満ちる怨嗟をエネルギーに変えて、『彼ら』に叩きつけるが、それは倍の威力になってラスへと跳ね返り、彼をずたずたに引き裂いた。 我を忘れ、ここがどこなのか、自分が何をすべきなのかさえも見失って、喰らった傷をフェイタル・スカーで相手へ移す。 嘲笑とともに神は消えたが、すぐに次の神が顕れ、ラスを散々に打ち据え侮辱の言葉を投げかける。そのたびにラスは怒り憤り憎悪して、次々と攻撃を叩きつけた。 神々ではない何かが歓喜する空気をどこかで感じる。 この行為が迷鳥をさらに育ててしまうことを、迷鳥に養分を与えてしまうことを、頭の中の冷静な部分が指摘し警告するが、一度あふれてしまった感情は止められなかった。 「なんで、何でだよ……どうして!」 息が上がる。 焼かれ傷ついた身体はあっという間に疲弊して、すぐに体力の限界が来た。 ――神々が嗤っている。 「くそッ……くそ、殺してやる! 欠片ひとつ残さず、滅ぼしてやる……ッ!」 呪いの言葉を吐きながら、ラスは膝をついた。 身体が重くて、立っていられない。 あっ、と思った時にはもう、倒れていた。 頬に触れる地面の感覚だけが、ひんやりと涼しかった。 伸ばした手は、何にも届かない。 『救うことも出来なかったあなたに、いったい誰を糾弾する権利があると?』 テリガンが突きつけられたのは、大罪を犯し、堕天して悪魔に転じた天使としての罪ではなかった。 迷鳥が、それぞれの犯した罪を罰する攻撃を放ってくるだろうことは予測がついていた。それゆえに、全知全能なる神の傲慢によって、好意を寄せる女性を喪ったテリガンは憤りをあらわにしたのだ。 神を撃ち殺し、悪魔へと堕ちた。 テリガンはそれを悔いてはいないし、何度同じ場面を迎えたとしても、まったく同じことをするだろう。 ――彼自身はそれを罪だと認識したことさえなかった。 しかし、おそらく、彼の内面の奥底で、それは静かに育っていたのだ。 神の傲慢は許し難い。 だが、神の傲慢を止めもせず、止めることも出来ず、好いた人を護ることも出来ず、すべてが終わったあとに復讐を果たした、ただそれだけのテリガンは、無垢で潔白だろうか? 神は、悪魔よりも残酷な手法でたくさんのニンゲンを殺す。 試練だ、運命だ、天罰だ! と、もっともらしい言葉を並べて。 「まるで、今のお前じゃないか。迷宮の奥で、裁判官でも気取ったつもりかよ」 吐き捨てる言葉はどこか弱い。 おそらく、そうではない。 「テメェが命を弄んだ罪は誰が裁く?」 それもまた、おそらく違う。 神楽が、アキが言っていた。 すべては自動で、迷鳥それそのものは虚ろだと。 迷鳥に意志はなく、それは喰らうだけだ。 在りかたそのものは歪んでいようとも、迷鳥は己が生を営んでいる。それだけだ。 ――渦巻いた炎が、テリガンを包み込む。 炎はテリガンを責めていた。 防火仕様のスーツすら灼き尽くすほど激しく。 「オイラは……責められるべきだった? 無力を? 何もできなかったことを?」 そんなはずはない、と、否定する声は弱い。 炎はそれすら罪だと嗤った。 誰しも、大なり小なり、罪を犯している。 契約の名のもとに理不尽を突きつけたことが、テリガンにもある。 そのすべてが迷鳥の糧だと気づいても、もう遅い。 「……ッ!」 視界が緋に染まり、全身が激痛で埋まる。 Scharlachrot Strafe。 それは、緋の罰。 いくつもの罪が炎と闇に変わり、自覚のあるなしに関わらず、罪人たちを責め立てる。皆が苦痛と苦悩にのたうち、地面を掻き毟り、砕けるほどの強さで奥歯を噛みしめる。 その甘露を啜り、迷鳥はさらに大きくなる。 ――しかし、それだけで終わるはずもない。 彼らが覚醒した意味、旅を続けた中で見たたくさんの真実。 結局のところ、それらが、彼らを助けた。 4.罪火と踊れ 「……それでいい」 最初の透徹は千志の唇からこぼれた。 つぶやくと同時に炎熱は消えた。 焼け爛れたはずの身体は、どこも損なわれてはいない。 ただ、じんわりとした熱さと、気だるさがあるだけだ。 「おい、しっかりしろ」 千志は、傍らに転がる夕凪へ声をかけ、その身体を引っ張り起こした。 呻き、夕凪がどうにか立ち上がる。 「くそッ……やってくれるじゃねーか。拠りどころなんざねーけど、おれと関係ねー奴の餌になるなんてまっぴらごめんだぜ」 毒づく夕凪を支え、ゆらめく火から遠ざけようとした時、迷鳥と目が合った。 錯覚ではなかったはずだ。 それは何も語らない。ただ、千志を見透かすように、虚ろな双眸で貫いていただけだ。 しかし、それで十分だった。 「……そうとも」 唇が、ほんのわずか、笑みを刻む。 前は赦されたかった。 しかし今は、赦されないままでいいと思う。 すべてを背負い、己が志、想いに従って進む。 千志はその道を選ぶことが出来る。 自分が進むことで、もしかしたら、誰かが犯そうとする罪を代わりに背負うことが出来るかもしれない。誰かを、罪への道から救うことが出来るかもしれない。 「だからこそ」 拳が力強く握りしめられる。 「この罪を、鳥ごときに糧にされて、たまるかよ」 瞬間、千志の周囲で影が蠢き、無数の刃となった。 吹っ飛んできたテリガンに激突されて、ラスはハッと我に返った。 視界は戻っていたが、全身が激痛で埋め尽くされている。 身体がふらついて、うまく動かせない。 それでも立ち上がろうと――あいつらを殺さなくてはと、地面を掴む勢いで手をついた時、十字痣の上の、ファンシーな絆創膏が目に入った。 汚れてくたびれ、べろべろになったそれは、実を言うとラスの宝物だ。赤眼の強面司書の顔が浮かぶ。――彼は、静かに笑っている。 それで、ラスはすとんと落ち着いた。 「大丈夫ですか、テリガンさん?」 呻きながら転がる悪魔へ声をかけたのち、絆創膏ごと手を握り締める。 「そうだ……忘れるところだった」 自分を惨く扱った神々は憎い。殺してやりたい。 しかし、それだけでは疲れるし、どうしていいか判らなくなってしまう。 「ボクは休みたい。休みたいって気持ちを覚えたし、休んでいいっていってくれる人と出会った。――憎しみは消えない。だけど、他のものだっていっしょに抱えていいんだって教わった」 こみ上げる感情の中には、確かに、歓喜や安堵と言っていいものが含まれている。 「見くびるなよ……今のボクは、復讐だけじゃないんだ!」 叫び、すっくと立つ。 その瞬間、痛みは消えた。 迷鳥がたじろぐように上体を揺らし、火が、闇が、怖じたようにその勢いを弱めた。 闇に侵蝕され、火に灼かれて珍しく疲弊しながらも、アキはずっと考えていた。そして、ずっと、「だからこそ」と思い続けていた。 兵士は罪の連続体だ。 生きるために、護るために、罪を犯し続けるしかないのだ。 それは寒々しい絶望だろうか? 否、と、アキは拳を握る。 おりしも、彼を包み込み苛んでいた緋と黒の幕が揺らぎ、ほんのわずか、力を弱めた。誰かが断罪の火を退けたのだという確信を覚える。 「そうとも……それは結局、原罪そのものだ。突き詰めれば、この迷鳥の火から逃れられる奴なんざいねぇ」 生きるために喰らう。 死にたくないから殺す。 護りたくて傷つけ、手に入れたいから壊す。 それは罪だ。 紛うことなき、否定できない罪だ。 だが、それを犯さずに生きられる命など、未だかつて、なかった。 ならば、今この時において、生きるため、護るために戦う以上の貴いことがあるだろうか? 「罪を否定も、罰を拒絶もしねぇ。いつかはきっと償う日が来るだろう、だけどそれは、今ここでお前に灼き尽くされて貪り食われることじゃねぇ!」 鋭く、高らかに断じる。 その瞬間、火は、闇は、慌てふためくように包囲を解き、アキを自由にした。 身体から、痛みと傷が拭い去られるように消える。 アキの鋭い声は連治に届いていた。 闇に凍らされ、炎の焦がされて朦朧とした意識をそれが貫いていく。 同時に、連治の脳裏を、ひとりの女の顔がよぎった。 「……神田」 連治は目を見開く。 苦痛に茫洋としていた眼差しに光が戻り、それとともに激しい怒りが差した。 「そうだ」 そうだった。 「勘違いすんじゃねえよ」 四方八方からの声に埋もれて見失いかけていた。 「俺を罰していいのはあいつと、あの世界だけだ……お前じゃねえ、ここじゃねえ!」 激怒が連治に力を与える。 力は連治を冷静にし、フラットにする。 連治は革手袋を――『彼女』を殺した殺人の証拠を握り締め、己の罪を再確認した。 「これは俺のものだ。俺が償うべき、俺の罪だ」 覚悟はした。 何度も己と向き合い、確認してきたはずだ。 「勝手に、てめえの糧に変えるんじゃねえよ!」 今までの己の苦悩ごと否定された気分になる。這い上がる苛立ちが、連治をむしろ強くする。 彼は詩銃を構え、空に向けて一発、撃った。 高らかな銃声が、嚆矢のごとくに響き渡る。 銃声は、一個の彫像のように佇む理比古にも届いていた。 理比古は、ずいぶん前から、芯まで灼かれながら、自分が燃えてはいないことに気づいていたし、彼の内面はとても静かだった。 「俺の存在そのものが罪だったとして、あの人たちがあの時あそこにいてくれたのは、俺のことをほんの少しでも赦していてくれたからなんだろうか」 先日、朱昏で過去の幻を見た。 熱を出して寝込んだ自分をひっそりと気遣う義兄たちの姿は、自分の願望などではなく真実だったと、なぜか理比古は断言できる。 「うん……そうだ。俺は、灼かれてもいい」 愛情の反対は無関心、とよく言われる。 だとしたら、怒りや憎しみという感情であっても、それを向けてもらえた自分は幸せであるに違いない。最近、心の底からそう思う。 「灼くなら灼いていい。この罪は、俺をかたちづくる根源だから」 骨の髄まで炭になっても後悔しない。 「俺は胸を張って言うよ。これが俺だからって」 静かに、やわらかく、しかし凛ときっぱりと。 それは、ロストナンバーとなって数年、多様な世界を歩き、経験を積んだことで得た気づきだった。 「きみが罪を突きつけるなら、俺は向き合うよ」 穏やかな微笑みが、理比古の唇を彩る。 花がほころぶようなそれに、緋と黒の牢獄は悲鳴を上げ、軋み、そして、甲高い音を立てて砕け散った。 そうして、人々は完全に自由を取り戻す。 特殊攻撃シャルラハロート・シュトラーフェを打ち破られ、身の丈十五メートルにもなった迷鳥が、身の毛もよだつ叫びを上げる。その時ばかりは双眸が燃え、巨大な翼が盛大に羽ばたく。風が彼らの髪を嬲り、全身を叩いたが、もはや怯むものはいない。 ――最終決戦だ。 「すべて、還す。あるべきところへ!」 連治が詩銃を構え、再度撃つ。 それは光る雨を呼び、迷鳥を清らかな水の幕へと包み込んだ。 怪物さながらの咆哮を上げた迷鳥が、光と水の結界を振りほどこうともがくが、 「させねぇ……お前はもう、そこにいろ」 アキの持つ特殊ESP『静止』が、迷鳥から自由を奪い、その場に釘付けにした。連治の放った結界が、迷鳥を先端から浄化していく。迷鳥の断末魔が、空間中に響き渡る。 よほど苦しかったのか、恐ろしい力で暴れた迷鳥が結界を引きちぎる。 暴れ出そうとするそいつへ、千志の影刃が四方八方から襲いかかり、少しずつ削っていく。影刃は、羽ばたく小鳥の姿をしていた。 「てめえがどれだけ巨大になろうと、俺の意志を妨げさせやしねぇ」 きっぱりと断じる千志には、理比古や連治やアキ、ラスが得たのと同じ気づきがあった。 「罪は、そこで終わるための枷じゃねぇんだ。次へ進む意志になるなら、俺はもう、それを畏れも悔いもしねぇよ」 無数に召喚された、こまかな影の刃が、舞い飛ぶ小鳥となって迷鳥を千々に斬り刻む。 ラスは、その時ばかりは憎しみではなく、己が内に満ちる強い確信をエネルギーに変換し、黒い獣をつくりだして迷鳥へとぶつけた。獣は活き活きと力強く咆哮し、迷鳥へと襲いかかり、その背へと食らいついて噛み千切る。 「ボクはもう、憎しみや怨嗟以外でも力に変えられる。世界には、ヒトにはエネルギーが満ちていて、それはボクをいつでも助けてくれるって、ようやく判ったよ」 ラスの唇には、微笑みすら浮かんでいた。 どうにか自分を取り戻した夕凪は、散々、やりたい放題やってくれた迷鳥を口汚く罵りつつ、念動力でもって迷鳥の翼を掴み、引き裂いた。 片翼を喪った迷鳥の巨体が揺らぐ。 そこへ、理比古のギアから湧き上がった青白い炎が、まるで茨のように絡みつき、迷鳥を灼きながら締め上げる。 耳障りな絶叫を上げ、暴れる迷鳥の力にも、びくともしない。 「さあ……終わらせよう。哀しむ人を、ひとりでも減らそう」 理比古の視線の先では、テリガンが、ロザリオに宿る光を弾丸に変え、銃へとこめている。 「誰もが罪を犯して生きてる。誰もが罪人で、その罪に苦しんでる。もしかしたら、お前もそうなのかもしれない。そうじゃなくたって、オイラに誰かの罪を責める資格はないんだ……それはいつか、刃になってオイラに返るから。――だからオイラは、お前の罪を糾弾するよりも、誰かを助けるため、護るためにお前を撃つことにするよ」 掲げられたライフルが、迷鳥の眉間へと狙いを定める。 ――そして、銃声。 光る弾丸は狙い過たず迷鳥を貫き、その頭部を粉々に撃ち砕いた。 翼と頭部を喪った迷鳥は、しばらくの間びくびくと奇妙に痙攣していたが、やがてゆっくりと倒れてゆき、盛大な地響きとともに動かなくなった。 「やった、か?」 連治が周囲を見渡す。 ほぼ同時に、迷宮が少しずつ薄れ始めた。 安堵と疲労が、一同をゆっくりと満たす。 「あとは、筋肉痛とおつきあいするだけ、かな」 「しかし、三日寝込む筋肉痛ってどんなんだ……」 やれやれ、と、理比古が自分の肩を揉み、千志が溜息をつく中、迷宮は森の姿を取り戻してゆく。
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