壱番世界で繰り広げられたトレインウォー。 強大にして絶大なる力をふるうワーム《赤の王》、過去の記憶から再生された敵の数々、仲間の救出、そしてダイアナとディラックとの対峙。 かつてない規模で行われたその戦闘で失われたものは大きく、同時に、失われることがほぼ定められていたはずの命が繋がれる奇跡もまた起きていた。 ヘンリー・ベイフルック――ラビット・ホールから0世界へと辿り着いた《始まりの男》。 アリッサの父親にして、異世界に様々な館を残しながらもファミリーによって記録を抹消された禁忌の存在、そしてディラックの依代として選ばれた彼が、100年を超える長い《夢》からようやく目覚めたのだ。 赤の城に誂えられた一室、アリッサとレディ・カリスが見守る中、彼はゆっくりとベッドに沈んでいた身体を起こす。「……ここは……」 まだ夢の中にいるかのように、ぼんやりとした呟きがこぼれて落ちた。「僕はいったい……なにが……」「パパ!」「!?」 思わず跳ねるように抱きついたアリッサへ、ヘンリーは驚きながら瞬きを繰り返す。「もしかして……アリッサかい? あの小さかったアリッサ?」「そうよ。今は18歳なんだから」「18歳……そうか、もうそんな年齢になったのか。さあ、もっと良く顔を見せてくれ」 少女を抱き返してから、慈しみを込めてそのカオを見つめる。「ヘンリー」 親子の対面を見守っていたカリスもまた、そっと彼の名を呼ぶ。 名を呼ばれ、彼は再び数回の瞬きを繰り返した。 そうして、「君は……、エヴァ?」 記憶の中にいる少女の面影を、彼は確かに見出した。「エヴァ、あの頃よりもさらに綺麗になったね」 さらりと何気なく、どこか懐かしげに、目を細めて彼は微笑む。「そうだ、ここはどこだろう? 家じゃないみたいだけどジェーンは? エディは? ロバートは? 僕はとにかく話さなきゃいけないことがあるんだ」 次々と出てくる疑問符に、アリッサとエヴァは互いの顔を見合わせる。 そう、ヘンリーの《時間》は、本当の意味で100年以上もの間止まったままだったのだ。 ベイフルック邸の地下室で深い眠りについてから、彼のあずかり知らぬところでターミナルは、世界図書館は、そしてファミリーは大きく変化した。 それらの何ひとつ、彼は知らない。「パパ……パパ、あのね」「ヘンリー、あなたが眠っていた間の話をしなければならないの」 それは一言ではけして終わらない出来事ばかりだ。 それでも短い言葉のなかで、18歳となった愛娘との邂逅、いつの間にか自分の年齢を超えてしまった可愛い義妹との再会、世界図書館を追われた親友の消息と愛する妻の死、それから今のターミナルの状況を、彼は黙って受け止めた。 そして、わずかな沈黙の後、「そうか……ロストナンバーのみんながそこまで……」 噛みしめるように、そっと呟く。「よく頑張ったね、アリッサ。そしてエヴァ、君はずっとアリッサを守ってくれていた。僕の分も、ジェーンの分も、そしてエディの分まで……ありがとう。本当に、ありがとう、エヴァ」 穏やかな感謝の眼差しを受けて、カリスは微かに頭を振った。「お礼を言ってもらえるようなことは何もしていないわ」「いや、君がいてくれたから、アリッサはいまこうしていられるんだろう?」 だから、ありがとう。 そう言って、もう一度ヘンリーは笑った。「それでもやっぱり、僕には何が起きたのか分からないんだ。眠れる森の姫君もきっと僕と同じ気持ちだったんじゃないかな」 ああ、でも彼女は自分が眠っている間はお城の時もずっと止まっていたんだっけ。 そういってから、ふと首を傾げた。「アリッサ、エヴァ、みんなと話をすることはできないかな? 彼らから見た《世界》と《変化》を、僕は聞きたい」 ロストナンバーから話が聞きたいというその願いは、アリッサとレディ・カリスによってすぐに叶えられることとなる。 ソレは、ほんの数刻の後。 赤の城が誇る色鮮やかなローズガーデンに、特別な茶会の席は用意された。「来てくれて本当にありがとう。君の話を、僕に聞かせてくれるかい?」
オウルフォームのセクタンがゆるりと弧を描く蒼い空のもと、赤の城の庭園で茶会の席は開かれる。 色鮮やかに咲き誇る花々に囲まれたそこへ持ち込まれたのは、20人掛けを可能とする長テーブルだった。 等間隔に薔薇のアレンジメントにケーキとスコーンを載せた2段のティースタンド、サンドイッチや焼き菓子の皿が色鮮やかにテーブルを飾る。 戯れる少女と動物たちの姿が描かれたボーンチャイナのティーカップに、ティーポットやカトラリーといった銀食器の煌めき、白のテーブルクロスまでもが目にまぶしい。 そして、 「ようこそ、不思議の国のお茶会へ」 美しい赤の女王と可愛らしいアリス、そのふたりにはさまれて、長く夢の中にいた《建築家》が嬉しそうに両手を広げて、客人達を出迎えた。 7人の旅人は、執事に案内されるままに各々の席へと順について行く。 「あんたがアリッサの親父さんか。……想像してたのと、ちょっと違うな。いや、ある意味思った通りと言うべきなのか」 ひと抱え以上ある風呂敷包みとともにやってきた虚空は、迎えてくれたヘンリーをしみじみと眺める。 「はじめまして、だな。俺は虚空、よろしく頼む、そしてあんたもいろいろお疲れさん」 「「きみのことはアリッサから聞いているよ。ロバートのお見舞いにも来てくれたんだって?」 「まあ、その話はおいおい、な。ソレよりも、まずは眠れる森の美女ならぬ建築家が目覚めた祝いだよな」 客人であるはずなのに、彼は席には着かず、使用人に交ざって包みを開いていく。 「すごい!」 はじめに歓声を上げたのはアリッサだった。 金柑と白あんのタルト、薩摩芋プディング、黒ゴマのブラマンジェ、抹茶のシフォンケーキと、次々紹介されていくスイーツに、ヘンリーの目が丸くなる。 「これは?」 「あんたには珍しいかと思って、いわゆる和スイーツってヤツをいろいろ作ってみたんだ。というワケで茶会の準備させてもらうな」 包みはもうひとつあり、そこから出てくるのは極上の玉露と自家製ほうじ茶だ。もてなしの準備は一ミリたりとも隙がなく、ぬかりない。 彼に続き、自己紹介が自由に始まる。 「あっしはワイテ・マーセイレ。占い師をしているヨ」 ローブに身を包んだ竜人の手は、鮮やかにカードをシャッフルしてみせる。 「占い師ということは、きみのその手にあるのはタロット?」 「あっしにとっての《運命》は、いつでもここにあるってことだネ――目覚めた貴方の現在は、《世界》カ……すべては良い方向に向かっているようだけド、もしかして誰かと新しい事業ヲ?」 「すごいなぁ、そんなことが分かるんだ」 「ヘンリーさん、はじめましてでおはようでおめでとうなのですー。ゼロはゼロなのです」 シーアールシーゼロがぺこりと頭を下げれば、彼女の純白の髪がさらりと肩を滑り落ちる。 「はじめまして、一一一です」 一もゼロに倣ってぺこりとお辞儀をするが、その表情はゼロに比べていささかぎこちない。 「可愛らしいお嬢さんがふたりも参加してくれるなんて光栄だよ」 「一さん、そんなに緊張しなくって良いんだよ?」 「うう、ありがとう。でもなんというかやっぱり緊張しちゃう」 ロストナンバーになってから何度かこういった茶会の場に招かれているが、いまだにきちんとした作法も分からなければ、楽しみ方も分からないというのもあって、妙に緊張してしまう。 けれど、どこかで誰かの主催する《茶会》に招かれるたびに少しずつ、時には大きく、何かが変わっていくのを一は肌で感じていた。 「そうだ、お茶会なら、ゼロはドンガッシュさんもお誘いするとよいと思うのです。同じ業界の方なのですー」 「ドンガッシュ? 同じ業界ということは建築家なのかな?」 ヘンリーは少女の提案に心惹かれたらしい。 「はいなのです。壊れた図書館も頑張って建て直してくれたのです。旅団の人だったのですが、図書館とも仲良しになったのです。すごいのです」 「ナラゴニアとの戦いの中で芽生えた友情ってところかもね」 誰かの合いの手に、虚空も頷く。 「俺の主とも縁があったんだが、いい男だ。自分ができることを最大限にして誰かを護ろうって気概のある職人堅気なヤツだな」 「へえ、それはぜひ会ってみたいな!」 パァッと少年のようにカオが輝く。 「エヴァ、アリッサ、その人は誘ったらお茶会に来てくれるかな?」 「あなたが望むのなら声を掛けるわ、ヘンリー」 「お願いしたいな」 「やっぱりアリッサのオヤジさんって感じがするかもなぁ」 子供みたいにほころぶ笑みを、虚空は微笑ましく眺めていたが、傍に座る由良久秀は無言のまま眉間にしわを寄せ、坂上健はあからさまに不審げな表情を浮かべていた。 そして、ソレはすぐに行動で表される。 「ヘンリーさん? あんた、駅前広場であった時と微妙に口調とか雰囲気とか違くないか?」 探るように、試すように、坂上は唐突な問いを差し入れる。 「あんた……本物?」 テーブルに手をつき、ぐいっと身を乗り出してくるぶしつけなその行動を、ヘンリーは瞬きを繰り返しながら見つめる。 そして、彼から視線を逸らさず、坂上は言葉だけを今度はアリッサに向けて連ねていく。 「アリッサ、ウォスティ・ベルって死んでも何度も現れてるから、群体とか分裂可能な不定形生物とかじゃないかと思うんだ。世界樹の残党もまだヴォロスに居るんだし、連動して動く事は十分あると思う。皆に警戒促した方が良くないか?」 「どういうこと、坂上さん?」 アリッサが疑問符を浮かべる。 「可能性の問題。忠告だよ、アリッサ。ターミナルはもう、前みたいな平和で平穏な場所なんかじゃないんだ。敵の侵入を許してしまってる以上、本当に信頼できる相手なのかも疑っていかなきゃ。例えソレが身内であっても油断しちゃダメだ」 「……パパを警戒しているの?」 「わたしがニセモノに見えるということかな?」 ヘンリーは首を傾げ、問いかけに問いで返す。 和やかに始まったはずのお茶会が早くも不穏な空気になりつつある、と感じて眉を顰めたとしても不思議ではないかもしれない。 だが、そこで坂上はバッと頭を下げた。 「……悪い、ヘンリーさんの分かんない話して」 そして顔を上げたときにはもう、先程のアリッサへ忠告を発したときのような険はなくなっていた。 そんな彼の肩に、オウルフォームのセクタンが舞い降りる。 「俺はコンダクターの坂上健、こっちはポッポ。3年ロストナンバーしてる。ポッポ、もう遊びに行って良いぞ」 ほわんとした《やさしいお兄ちゃん》のような表情で、困ったような照れたような笑いを浮かべる。 「ロストナンバーになってなんか変わるかと思ったんだけどさ、3年経っても、俺個人はただ年喰っただけかなぁ。KIRINのまま毎年順調に振られて魔法使いに近づいてる」 「KIRIN? 魔法使い?」 「彼女いない歴イコール年齢、略してKIRIN。壱番世界の日本での言い伝えなんだけどさ、KIRINはある時期から魔法使いにジョブチェンジするんだ」 「なるほど、現在の壱番世界の日本ではそういう言語と文化が生まれているということかな?」 「日本語というのは、母音が強い独特の言語なんだそうですよ。僕もロストナンバーとなってから初めて調べて知りましたが、さすが言霊の国だと感嘆しきりです」 神妙な声が坂上の隣から差し込まれる。 「あなたが眠っている間にも、世界は変容していく。そして世界図書館は、今でも様々な世界の調査を進めているんです。そして、いくつもの世界が発見されて、この0世界と壱番世界の他に重点的に調査された世界が5つ、最後の一つは……確か、マイナス壱番世界と言ってね」 「そんな世界が?」 驚くヘンリーに、咄嗟にアリッサが口をはさむ。 「ないない、それは見つかってないよ! パパ、信じちゃダメ」 「長い間にそんなことがあったのかなって思ったんだけど、違うんだね?」 「少なくともそんな報告を私達は受けていないわ、ヘンリー」 だれが適当なことを言ったのかしら、とカリスは呟くが、他の面々は皆くすくすと笑ったり、きょとんとしていたりで、発言の主が分からない。 「いろいろな変化が楽しめそうだね。そうだ、キミたちがターミナルに来たのは最近なのかい?」 ヘンリーはソレをまた楽しそうに笑い、別のカタチの質問に変える。 「あっしは世界図書館に来てから2年とちょっとしか経ってないかナ」 ワイテが真っ先に答えを口にする。 「いや、あっしが保護されてターミナルに来た時は凄かったヨ。ターミナルに着いたと思ったら、大量のセクタンが列車に雪崩れ込んで来テ。これが0世界なりの歓迎方法かナ。って思ったネ」 色彩の洪水といったゼリー的感触に見舞われながら、大量のセクタンの渦に飲まれ、列車内を流されていったことがつい昨日のことのように思い出される。 「どんなルールかと思ったけど、まあ、インパクト絶大、すごかったヨ」 「セクタンのトレインジャックなのです! ゼロはゼロの運命のセクタンと出会えるかと思ったら違ったのです。ソレが残念だったのです!」 「君はもっと以前からターミナルに?」 「はいなのです。ゼロは健さんよりもワイテさんよりもずっとずっと前に覚醒していたのです。プリンとミルクとコーヒーがとってもとっても幸せだったのです。でも、そのあと長くまどろんで、もう一回目覚めたのは、真夏のビーチに誘われた時なのです。つまり3年前なのです」 「ビーチ?」 「私のプライベートビーチよ」 首を傾げるヘンリーへ、カリスが答える。 「そっか、ゼロさんが目覚めたのってあの時なんだ。……あれも、2年前になるんだね」 アリッサがみんなのためにと開放したチェンバーが、その後にカリスの怒りをかったという出来事も実はそう遠くない過去だ。 薔薇園で正座させられた時にはまさか、こんな日が来るとは考えてもいなかった。 ソレまでの200年、ターミナルは様々な意味で《停滞》していたということだろう。 動き出したのは3年前、なのだ。 「たった2年、それでもここまで大きく変化していったってことだな」 虚空はほうじ茶を配りながら、呟く。 「なにか記録に残せていると良いんですけど。でないととてももったいない」 ふわりとやわらかな声が挟み込まれる。 「……見たいなら、ある。こういうものでいいなら」 そういって由良が大型封筒から取り出し、茶会の席に広げたのは、まさしく《この2年間》の記録であり、過ぎた一瞬間を切り取ったもの――大量の写真だった。 赤の城で執り行われたクリスマスパーティや各節の宴の様子など、最初に目を惹くのは華々しいものばかりだった。 他にもロバートの招待による壱番世界のツアー写真も、懐かしさとともに目につくだろう。 「え、え、どうしたの、これ!?」 アリッサが写真の中から一枚取り上げ、驚きの声をあげる。 イスタンブールの地下宮殿を背景に、古びた帽子にサスペンダーつきのだぼだぼのスボン、そして汚れたシャツといういでたちの《少年》の傍らに、貴族然とした黒髪の乗馬服の《美青年》が佇んでいる写真だ。 「まあ……絵になってたからな」 抜き取るのを忘れていた由良は、決まり悪げに視線を逸らすが、ヘンリーはいたく気に入ったようだった。 「これがアリッサとエヴァなのかい? ふたりともすごいな。すごくステキだ」 「この桜……たしか、アリッサちゃんの新館長就任のお祝いだったよね?」 何百とある写真の中、一が手に取ったのは、赤の城を舞台とした花宴だった。 ナレッジキューブ製の満開の桜の木の下に集った人々の中には、ロバートやエイドリアン、リチャードにダイアナ、ヴァネッサの姿もあった。 そのほかにもたくさんの人、人、人。 「……人間関係も、そのまま出ているはずだ。同じ写真はもう二度と撮れはしないが」 ぼそりと呟く由良に、だれもが思う。 あとにもさきにも、理事で中核をなすファミリー全員が揃ったのはこの時だけであり、そしてもう二度と同じ光景をみることは叶わないのだ。 ここには、もう二度と帰らない人々が写っている。 「ヘンリー、あんたが眠っている間、……それもこの2~3年は戦争も事件も多かった」 由良が示したのは、マキシマム・トレイン・ウォーと名付けられた旅団との最終決戦だった。 写真は、煌びやかな想い出ばかりではない。 これこそが今のターミナルの変容の大元だ。 聳え立つホワイトタワーと崩壊し廃墟となったその後の姿、どこまでも広がる0世界のチェス盤が樹海と化した光景、炎上する家屋――ターミナルが戦場と化したと《旅団》との戦いは大きな犠牲をいくつも払った。 取り返しのつかない罪がいくつもこぼれていった。 「こんなにもたくさん……」 「旅団にも友人がいるのです。争いがなくなったことは喜ばしいことなのです」 切なげなヘンリーに、ゼロは安寧をもたらす笑みを向ける。 ワイテもまた、写真のひとつを手に取った。 辿る記憶は覚醒当時と同じく、やはり、ロストレイルそのものにまつわることが多い気がする。 「あっし、たまたま乗っていたロストレイルが世界樹旅団の襲撃にあってネー」 旅団との関わり、戦いの日々、それの本当の始まりがどこからだったのか、正確に知っている者はいるのだろうか。 それは分からないが、ワイテにとっての始まりは、ロストレイルの襲撃だ。 「そこで気になる子と会って、……アクアーリオ、だったかナ。その子を追いかけたり、その姉にインヤンガイで会ったり、ふたりを会わせたり、保護者がマンファージの事件に関わっていたから、その辺も大変だったりしたかナー」 でも、と彼は続ける。 「いろいろあったけど、途中で興味をなくしたんだけド」 「なぜ、興味をなくしてしまったのかな?」 そんなに深く関わっていながら不思議でたまらないと言いたげにぽつんと投げかけられた《質問》へ、ワイテは視線を向けることなく、手の中のカードを弄ぶ。 「あっしが興味を抱いたのは、《予言》の能力だっただケ。占い師としての当然の興味。だから、その子の言葉が気になって、その子の能力が気になって」 「でも、違った?」 「そウ。後からその子の力じゃないってわかったラ、急に興味が失せちゃったんだよネ」 求めていたモノではなかったから、心は離れた。 心が離れれば、自然と関わりの糸も細くなり、いつしか途切れるものだ。それもまた《運命》なのかもしれない。 「そういえばあっし、その襲撃の時に、同じロストレイルで顔を合わせてたんだよネ。マキシマムトレインウォーで死んじゃった牧師や、ブルーインブルーに出て行った女の子、それからその女の子のボーイフレンド……」 視界の端にメガネを掛けた穏やかそうな牧師が静かにほうじ茶をすすっているのを捉えながら、どこか遠くを見るように、ワイテは自身の中にある記憶を綴っていく。 「たぶん本来描いていた《未来》とは違えてしまった、運命の変わってしまったあの人達とあそこで乗り合わせたってというところで、やっぱりあの襲撃が色々と変わる契機だったのかナ」 カードをひとつ選ぶ。 出て行った少女の未来は――『ⅩⅦ 星』。新しい発見。希望が見える。 「ゼロは綾さんの念願成就を祈っているのです」 ワイテの結果を知ってか知らずか、ゼロが鎖で繋がれた燃える船や炎上する軍艦都市の写真を手に呟く。 「友達の願いが叶うというのはとても喜ばしいことなのです」 視界の端にいた牧師はいつのまにか赤いジャージを着た少女に変わり、ニッと笑って、スコーンにかぶりついていた。 けれどしっかりと彼女の姿を捉えようとすれば、ソレは幻のように曖昧となって認識できなくなってしまう。 「ブルーインブルーでもおっきな戦いがあったのです。どんどんどんどん大きくなってしまった戦争なのです。ゼロはまだ、本来ならブルーインブルーの皇帝になったかもしれないジェロームさんを倒してしまった是非の答えが見つかっていないのです」 ロストナンバーがあのようなカタチで異世界に介入して本当に良かったのか。 起きてしまった過去は変えられないが、志向し続けること荷見が生まれることもある。 それに、大きな事件のたび、ゼロの友人は、自身の《夢》や《願い》を抱き、ターミナルから去っていった事実も、変えられない。 「ゼロはひとつの世界が終わることにも関わったのです。竜星なのです。ゼロはゼロの過ちで罪を犯したけど、小竹さんが念願叶って竜になって、そして星を救ったのです。それは喜ばしいことなのです」 世界の安寧を、ゼロはつねに願う。 だからこそ、朱い月に見守られた猫と犬の世界が請われてしまう結果を招いた己の罪を認識し続ける。 それは彼女の中に初めて生まれた小さな《罅》であるのかもしれない。 「君の願いは?」 ヘンリーの微笑みに、ゼロは真顔で返す。 「全世界モフトピア計画なのです。もふもふは世界の宝なのです。夢とロマンと安寧がつまっているのです」 無意識の中で志向されていただろう《全世界がモフトピアのような楽園となること》が、この瞬間、ゼロの中で意識化される。 「そして、カリスさまとはいつかモフトピア依頼にご一緒して、うさ耳温泉にはいる約束なのです」 「その約束、覚えてくださっていたのね、ゼロさん」 「もちろんなのです」 こくり、とゼロは頷く。 「戦いといえば、ナラゴニアとの戦いで世界計が壊れてしまったっていうのも大きかったですね」 「砕けた世界計、元通りにしてやらねぇとな」 虚空のしみじみとした声に何人かが頷きを返す。 旅団との戦いによって、図書館も壊滅的なダメージを負ったのだ。その時砕けた世界計はいまだ本当の意味で完全な復元には至ってない。 「そうだ、世界計! 聞こうと思ってたんだ、アリッサ、カリスさん。世界計で全てが分かるなら、ツーリストの帰りたい奴ら返してやれるんじゃないのか?」 「そうかもね。ただ世界計についてはまだわからないことも多いの。なんとか解明できればと思っているから、世界計の破片収集の依頼が出たら協力してね?」 そうしてアリッサは全員を見渡してから、最後に坂上を真っ直ぐに見つめ、真剣みを帯びた瞳で告げる。 「あの破片が力を持っていることがわかって、破片を欲しがる人もいるみたい。でも、どんな危険があるかもわからないし、ひとつ残らず図書館のもとに戻るよう、坂上さんの手を借りたいの。お願いできる?」 「ああ」 短く首肯して見せてから、しかし、坂上の表情は曇っている。 わだかまりはまだ、彼の中に別のカタチで潜んでいるらしい。 「そうだ、あんたが目覚めるちょっと前にも本当に大きな戦いがあったんだ。壱番世界の東京でな」 わずかな沈黙で途切れた場に、虚空が言葉を入れた。 由良の写真から一枚、スカイツリーを写したモノを手に己の内にある物語を口にしていく。 「ダイアナの儀式によって、あんたの身体を依代にディラックが復活した。それによって引き起こされたトレイン・ウォーだ。目覚めた《赤の王》は強大だったが、そうなってしまった顛末がな……」 虚空が語るのは、だれよりも愛する世界と愛する人々を護りたいと望みながら、結局大切なモノを失ってしまった男の話だ。 『おまえのあるじと俺のあるじは違う。俺はあの方に二百年お仕えしてきたのだ。俺は絶対に、あの方を守らなくてはならない』 大切な弟を、ヘンリーを、執事を、壱番世界を、護ろうと己のみを危険にさらしたロバートを、執事のメガリスは救おうとした。 主の命にすら背き、独断で計画を変更、そうしてロストレイルから身を躍らせた彼の想いは、そのまま自分に重なる。 大切な者のために、あらゆる手段、最悪の選択すらも迷いなくできる、その危うさを重ね見る。 『たしかに僕はずっとロストナンバーへの絶望を拭い切れなくて、誰も信じることができなかった。誰かに助力を求めたくても、どうすれば応じてもらえるのかも、わからなかった』 医務室で満身創痍となりながら、まるで告解するように俯き話すロバートの姿に、もしかするといつか自分の大切な人が重なるのかもしれない。 「ロバートは無茶をする。あいつはなんていうか、危なっかしいな」 苦笑しつつも、その瞳は優しい。 「俺はロバートが好きだし心配だ。メガリスのこともあるし、放っておけねぇ。沢山のものを護ろうとしすぎて行き詰った、馬鹿で可愛い奴だと思う。まあ、実際はすげえ年上だけどな」 「彼は不器用なんだ。エディ……エドマンドと似ているかもしれないね。自分が護りたいものをみんなも一緒に護ってくれるってことを信じ切れず、頼れず、だから全部自分で決めて自分でやろうとしてしまうんだ」 そういって、ヘンリーは自分の右胸に手を当てた。 かつてロバートは桜咲く赤の城の花宴の席で、ロストナンバーに囲まれ、聞かれるままにエドマンドについて答えた言葉がある。 『僕こそエドマンドのいちばんの理解者ですよ。『ファミリー』の中で、壱番世界が今の形で存続しないことでもっとも打撃を被るのが僕なんですからね。その意味では、もっとエドマンドを支援してあげるべきだったと悔いています。けれど彼はどうにも秘密主義で人に協力を求めないものだから。もう少しうまいやり方がなかったのか……残念ですね』 その台詞を直に聴いたモノはここにはいない。 しかし、エドマンドに向けたロバートの言葉を、そのままヘンリーはロバートに向けて返しているかのようだった。 「……ヘンリー、あんたは」 ロバートに刺されたことを知っているのか。 ソレは言葉にならずに口の中で途絶えた問いかけだった。 しかし、ヘンリーは虚空のいわんとしていることを察し、そしてふわりと微笑んだ。 「彼は本当に不器用なんだ。エディと同じようにね。それを愛おしいと思いこそすれ、憎むことなどないよ」 「あなたは、ロバート・エルトダウンの罪を赦すんですか?」 一が思わず腰を浮かせ、口をはさむ。 それまでにもいけ好かない金貨野郎と言ってはきたが、やがてロバートへの感情が他人を利用するものへの疑心と嫌悪へと変化し、そして決定的な感情の決別となったのが、ベンジャミンと本人の口から《ヘンリー殺し》の犯人であると判明したときだった。 壱番世界を護るためなら近しい人すらも殺意をもって排除する、壱番世界を護るために異世界を犠牲にする必要があるならそれができてしまう、その精神性を糾弾したのは一だ。 けれど、《犠牲者》となった彼は、微笑んでいる。 「彼のアレは殺意なんかじゃなかったから」 「……殺そうと思ってあなたの胸を貫いた、それは殺意以外の何物でもないじゃないですか」 アリッサがいる、カリスがいる、他の皆もいる前で、分かっていながら、一は自分の言葉を、想いを止められず、話し出す。 「私は、……私は、ロストナンバーになったときからずっと、覚醒してからずっとずっと曖昧な不安を抱き続けていました」 一はティーカップを両手で包み込むようにし、微かに揺れる紅茶に視線を落として、ぽつりぽつりと話し始める。 「私はある人に会いました。あの人は、私のこの不安を孤独の寂しさだと言った」 ホワイトタワーの地下深く、たったひとりで100年を超える時を過ごした囚人は、あの瞬間、一の心のもっとも脆い場所に触れたのだ。 人を助けたい、人を救いたい、ヒーローになりたいと望みながら、かくあるべきという理想を求め、ゆえに人に頼ることができない己の弱さを、知ってしまった。 でも、その弱さに正面から向き合うことを、一はしなかった。 「私は、その人と話しながら、自分の弱さを認める代わりに、未知を暴く好奇心で心を満たしました……あの人のこと、この世界のこと、ファミリーのこと、隠された謎という謎ぜんぶを知りたいと闇雲に手を伸ばして」 探求心は暴走する。 「……いつしか、人の墓を暴くほどに、私は暴走していったんです。知らない方が良いこともあるって何度も言われたのに、すべてを知りたかった、すべてを知ったら、満たされる気がして……」 けれど、結果として自分の中に生まれたのは大きな矛盾だった。 誰かを助けたい自分と、だれも救うことのできない自分、その理想と現実のギャップにどうしようもなく苛まれていった。 あの人は、一の矛盾を見ていた。 正しくありたいと願いながら、己の欲を叶えたい、そのために手段を選ばなくなった自分を、あの人はちゃんと見ていた。 だから、問いかけたのだ。 シュレディンガーの閉じ箱を用いて、あの人はいくつもの問いと宿題を自分に残した。 「ダイアナさんはディラックに焦がれていました……私はあの人の真実を求めました……かつて、チャイ=ブレは淋しいから知識を求めるといったロストナンバーがいたと聞いたんですけど……私もソレと同じなんです」 ここでは由良だけが、一の記憶、一の感じた空気を共有できる。 円形劇場の奈落の下、同じ場所にいた彼だけが、あの時のシーンを共有しうる、だが彼に同意も否定も相づちも求めずに、一は続ける。 「私が正しかったら、グレイズさんを助けられたんでしょうか」 赤の王にともに呑まれた彼は、自らの意思で消滅することを選択した。 「私がもっと正しかったら、あの人を救えたんでしょうか」 悔いているけれど憎しみを捨てられない、だから罪を犯し続けるといって、あの人は姿を消した。 「助けたかった、助けられたかった、救うって言うことがなんなのか分からなくなって、正しいことがなんなのか分からなくなって、それでも、それでも……」 一は顔を上げる。 「誰かを助けられるヒーローに、私はなりたかった」 その瞳に確かな決意を滲ませて。 ヘンリーはその視線を確かに受け止める。 しかし、彼が、あるいはアリッサが、カリスが、他の誰かが何かを発するより先に、坂上は告げる。 「なんていうかさ、館長探して、カンダータと悶着があって、せっかく見つかった館長はファミリーの秘密主義で追放されて。同じような境遇の世界樹旅団と遭遇してチャイ=ブレが壱番世界を狙うでかいワームの一種だってとこまで分かって。でも世界図書館は相も変わらず秘密主義で、いつになって何をどこまでやれば信頼されるのかな、俺達? とかさ、考えたりもしてんだけど」 その口からは、またしても胸にわだかまった《不穏の種》ともいうべきものが言葉となって吐き出されていた。 「壱番世界を守るためなら、他の世界の人を、世界を……苦しめて良いと思ってるのか? 違うだろ、助けてほしいと頼めても、それ以上はやっちゃ駄目だろ、俺達!」 コレは糾弾であるのかもしれない。 ソレすらも、ヘンリーは受け止める。 坂上のソレとは微妙にカタチを違えるかもしれないが、由良の中にも《不信と疑惑の種》はある。 そもそもファミリーが理解できない。 罪も罰も正解も不正解もなく、曖昧な法の下では、ロストナンバーが引き起こしたいくつもの《事件》が公に見過ごされてきている。 出身世界が違うということは、そもそも根本から己とは違う物質で構成されていることで、それは当然異物同士ということで、コミュニケーションが成立すること自体が奇妙で歪んでいると考えたっていい。 どうしようもない忌避感、嫌悪感、不信感をぬぐい去ることなどできない。 不理解が当然だ。 なのに、ファミリーは期待する。 期待するばかりで傍観者になりきっていながら、勝手にこちらの言動に絶望する、その精神性がわからないのだ。 「……こんなモノと付き合って行こうと思った時点で、十分こっちの理解を超えているだろ」 カリスとともに降りたアーカイブ遺跡。そこで写したチャイ=ブレの写真は在るだけで一種異様な雰囲気を作り出していた。 触れることすら恐ろしいと感じる者もいるはずだ。 「で、結局あんたは何者なんだ? なにをしようしていた?」 そして、由良は遂に、探るような眼差しから、かつてファミリーから記録のすべてを抹消された《建築家》に向き合う。 「あんたの断片をあちこちで聞いたが、あんたが何をするのか分からない。俺は消失の運命は御免だ。世界図書館という足場を崩されちゃ困る」 正直に、ストレートに、放つ。 「現実を見ない夢想家か、強引に理想を現実に合わせる革命家か?」 由良の問いに、全員の視線がヘンリーへ向かう。 「アリッサさん、カリスさん、虚空さん、坂上さん、由良さん、一一さん、ゼロさん、ワイテさん、皆があなたの真意を知りたがっている気がします」 ひとりが、憶測ではなく、真実を、真意を求めて、始まりの男に問いかける。 ヘンリーは口元に浮かべていた笑みを消し、その瞳に強い意志を宿らせ、そうしてゆっくりと語り出す。 「わたしは……いや、僕は、すべてを守りたいんだ。そもそも僕が異世界中に館を建てたのは、異世界に放逐された同胞が惑わないように《ロストナンバーだけが惹きつけられる》特性を付加したかったからだよ」 だれもなにも知らない、ありとあらゆるものが自分とは異なる場所にたったひとりで転移する――その不安は計り知れない。 その苦しみから、己のチカラが暴走する者だっているだろう。 「たとえばそうなったとき、できる限り周囲に被害が及ばないように、というのも考えた」 そして、同時に、ヘンリーは仲間を探していた。 「由良くん、理想の革命家はいないよ。現状を無視して革命はできないけれど、現実ばかりを見ていても革命は起こせない」 先程までの、やわらかくふわふわとした雰囲気はもうどこにもない。 「あの存在に協力したモノだけが生き残れるようにするなんて……そんなのは絶対に許されない。それしか方法がないのならしかたないと、僕は諦めたくなかったからね」 「まあ、たしかにそうだよな。ロストナンバーだけが助かるだなんて……壱番世界がチャイ=ブレに飲まれるのに、自分たちコンダクターだけが助かって、他の友達や家族は見捨てることになるなんてのは耐えられねぇ」 「助からないよ」 虚空の言葉を、ヘンリーはごく短い言葉で否定した。 「助からないって、どういうことだ?」 「そのままの意味なんだ。壱番世界の住人は、コンダクターであっても例外なく吸収されるのだからね」 「“契約したものだけが助かる”と僕たちは聞いていますよ?」 戸惑うように別の声が上がる。 「パパ、どういうことなの?」 「ヘンリー?」 「アリッサは知らなくて当然かもしれない。でもエヴァ、君が覚えていないということは、記憶を封印されてしまったのかな」 チャイ=ブレとの契約について問われたとき、ファミリーは本当はだれひとり、その内容を正確には分かっていないのだと告白したのはいつのことだったのか。 しかし、100年の眠りについていたヘンリーだけは、その《忘却》から逃れ得ていた。 彼は、ひとりひとりの顔を順に見つめていき、重い口を開く。 「チャイ=ブレとの契約――ソレは図書館運営という形を取ってつかえるファミリーだけが、プラットフォーム化された吸収の運命から免れるって内容なんだ」 「え」 場の空気が、一瞬にして凍り付く。 真実の衝撃をどう受け止めるべきか戸惑っている者もいる。 「ロストナンバーは異世界を行き来できるのです。それでも無理なのです?」 きょとんとするゼロにも、彼は肯定で返す。 「無理だよ。たとえ覚醒しても、壱番世界人である限りチャイ=ブレの吸収からはだれも逃げられない」 そして、 「セクタンがなぜコンダクターの側を離れないのか、その理由を君たちは知っているかい?」 虚空を、坂上を、アリッサを、カリスを、それぞれがセクタンと共にあることを確認するように問いかける。 「たしか前館長はドラグレットのチカラを使い、ようやく自身のセクタンを封印したと聞きはしたが……そこに理由が在るのか?」 確認する虚空に、ヘンリーは頷いて見せた。 「あの子達はね、チャイ=ブレがつけた捕食対象者へのマーカーだからだよ」 「そんな」 坂上がぐらりときた眩暈を押さえるように、椅子偽を凭れさせ、空を仰ぐ。 セクタンのぽっぽが悠々と飛んでいる。 「虚空くん、君が守りたい存在も、だから、壱番世界人であるというただそれだけの理由で失われてしまうということなんだよ」 「そいつは……なら、助かる方法はないってことか?」 「別の世界に帰属するしかない。僕は、その事実を白日の下に晒そうとした。ファミリーだけが助かる契約なんて必要ない。僕はジェーンが生まれた場所を、僕の愛する家族や僕の愛する友人達、僕の愛する壱番世界すべてを救いたかったし、そのための方法を全員で考えたかった」 そこで、ようやくヘンリーは微笑んだ。 「だって、僕等はどこの世界の出身かなんて関係ない、今この瞬間おなじ《時》を共有しているんだよ。そこに在るというだけですべては平等で、そこに居るというだけですべてが繋がる同胞なんだから」 こちらの毒気が抜けるほど朗らかに、迷いなく、彼は告げる。 「プラットホーム化は、どこの世界にも起こりうる。なら、そこから逃れる方法をみんなで探した方がうんといい。可能性はいつだって無限にあるんだから」 そんな彼だから、チャイ=ブレの怒りに触れてすべての契約が白紙に戻ることを恐れ、ファミリーは彼を幽閉した。 「ゼロは、世界図書館の指導者はずっとずっとアリッサだと思っているのです」 不意に、ゼロが口を開く。 「多様な価値が混在し、個体の力の差も巨大、そんな地を長きに渡り安寧に収めているというのは驚嘆に値するのです」 そしてにっこりと、アリッサに笑いかけた。 「いろんな世界を行き来できるのも楽しいのです。だから大感謝なのです」 「ヘンリーさん、あなたの最初の一歩があったから、今日のこのよき日を迎えられたのだと思います」 ふつりと、一番端の席に座っていたロストナンバーもまた語り出す。 「私の人生も、ロストナンバーになってから始まったようなもので……抽象的ですみません……でも、本当にそう感じているのです」 控えめなその声は、まるで夢の中で聞く不可思議さを伴って、場に浸透していく。 「ここに来て初めて自分というものがわかったような気がするのです。たぶん、人はみなどの世界に住んでいたとしても自分の中に別の世界をもっていて、それが……このミルフィーユのように重なって世界群ができているのだと思います」 穏やかに、じんわりと、耳に馴染んでいく。 「普通の人は覚醒なんかしなくても、それに気付いていてそれぞれの人生を全うするのでしょうが、《真理》を知ってしまった我々は、天から降ってわいたモラトリアムをもてあましているのでしょう」 ヘンリーに語りかけているようで、その場にいる全員に、あるいはそこに居ない他のロストナンバー達にも向けられたモノなのかもしれない。 しずかに、丁寧に、その人の言葉は綴られていく。 ふくれあがった疑惑も不審も痛みも嘆きも苦しみも傷も、ありとあらゆる想いを包み込むように、やさしい声は続いていく。 「だから、我々の言う真理など……そこまで重いものでは無いのではないのでしょうか」 茶会の席に、不思議と穏やかな空気が生み出されていった。 「ありがとう」 ヘンリーは微笑み、そして、願う。 「もっと僕に物語を聞かせてほしいんだ。君たちの内側にある君たちの時間を、僕に共有させてくれないだろうか?」 写真はまだ何枚もある。 写真には写っていない物語もまたいくつもいくつも存在している。 図書館が設立されてから200年を経て、紡ぎ出されてきた《はてしない物語》のひとつひとつに彼は耳を傾けようとしている。 「そうだ、ゼロはアリッサにも聞いてみたかったのです」 「なにかしら?」 「世界図書館が世界群の総数を無限に近い有限とした根拠なのです。どうして有限だと定義できたのです?」 「もし無限なら、チャイ=ブレが『ひとつの世界』を吸収の対象に定めることができないはず、という論拠からよ。でも反論もあって、実はそうとも言い切れないかもしれないの」 「へえ……」 誰かが興味深そうに相づちを打つ。 「虚空くん、本当に美味しいよ。とくにこの金柑のタルトがすごい」 モフトピアに洋菓子のような館を建てた建築家は、無類の菓子好きであったらしく、どれもこれもを楽しんで食べていく。 「そんなに喜んでもらえたんなら、作ってきた甲斐もあったってもんだ」 心底嬉しそうに笑う虚空は、 「こうして出会えたのも縁だ。今度蓮見沢の家にアリッサと一緒に遊びに来てくれ。今日以上にもっといろんなをあんたにもアリッサにも食わせてやりたい」 「是非お願いしたいな。楽しみにしてるね」 手製のケーキを頬張り、プティガトーを堪能し、和と洋の甘味を味わいながら、茶会の席は始まった頃よりもずっと和やかなひと時となっていく。 100年の眠りから目覚め、そうして明かされた《真実》の重みを、その衝撃を、だれもが乗り越えたかのように。 「そういや、エドマンド前館長の処遇はどうなるんだ?」 雑談の中に紛れ込ませ、由良もまたアリッサを見る。 前館長が追放されたのは、そもそもが《ヘンリー殺害未遂》の罪状によるものだ。その犯人が別にいると分かった以上、必要ないはずである。 どう答えるつもりなのかと彼女を伺えば、アリッサはにっこりと、イタズラめいた色を滲ませてひとこと、 「ナイショ」 「……」 はぐらかされた。 だが、何らかの措置を考えていることは理解できる。 パーマネントトラベラーとして因果律の外に行ってしまった前館長を一体どうやって回収するのかは分からないが、ソレもきっと何か方法を見つけているのだろう。 「ねえ、由良さん」 「なんだ?」 「写真、撮ってくれる? 今日の記念に。私、みんなと過ごした《今日》を忘れたくないから」 そう願うアリッサは、何かを既に決めた者の表情だ。 由良は黙って傍らに置いていたカメラバックを手にする。 「みんな、由良さんが記念写真撮ってくれるよ!」 アーカイブ遺跡に降りたときの記憶が蘇る。滅多にないことだからと記念写真をせがまれた、あの時の光景。 「由良くんも一緒に入らないと」 「いや、俺は」 「三脚ならあるよ。ちゃんともってきてもらってるの」 写真とセンターに収まったアリッサとヘンリー父娘双方からの誘いに半ば引き摺られるようにして、由良は結局渋々とだが自分も収まる記念写真を撮影することとなる。 時が、色彩を変えて動き出していく。 「あ、ドンガッシュさんなのです! きてくれたのです?」 彼の訪問を皮切りに、10人で始まった茶会は、次第にひとりふたりと新たな訪問者を迎えて、賑やかさをましていった。 顔馴染みの者もいれば、新顔もいる。 そのだれもが己の物語を携え、思いを抱いて、集ってきた。 紅茶が提供され、新たにやってきた客人達をもてなすため、茶会の席を離れたカリスを見、とっさに一は彼女の後を追う。 「あの」 「どうしました?」 「あの……」 この茶会の席を通し、カリスに告げると決めたことがあった。 しかし、ソレを口にしようとすると、速く鳴りすぎる鼓動に胸が圧迫されて苦しくなる。 喉が詰まるような痛みすら感じながら、それでも一は、言葉に変える。 「……あの人は、生きています……別の仮面をつけて、ターミナルのどこかで」 「どういうことかしら?」 「死体は……偽物だったんです」 詳しい経過を、一は語ることができない。 けれど、知ってしまった事実をもうこれ以上伏せていたくなかった。 世界司書を狙った鉄仮面の殺人者――それが数ヶ月を経て再びターゲットを変えて現れ、あまつさえ多くの犠牲を払ったことを、一は知ってしまった。 あの時、あの瞬間、自分が彼を捕らえられていれば起きることのなかった事件だ。 コレは自分の罪。自分が定めた自分自身の罪。 だから、もう待つことを辞めた。 覚悟をしたのだ。 「あの人を捉えたいんです。でも、ただ捕まえることが最善とは思えません。だけど、放置すれば被害はどんどん広がってしまいます。だから」 だから、 「……私を、ロストメモリーにしてください……あの人を止めるために、あの人と勝負するために、最後のチャンスに賭けたいんです」 涙を堪え、肩を震わせながら、それでも一は必死の思いで願い出る。 「おねがいします!」 カリスは無言だった。 ほんの少しの間降りた沈黙の後、彼女はひとつ息をつく。 「……あなたの言いたいことはわかったけれど、今日のお茶会の趣旨ではないわね」 まあそれはいいわ、とカリスは言い、そして、迷い悩み打ち明けた少女に向けて、ゆっくりと、しかしきっぱりと返す。 「あなたの決心を疑うわけではないわ。相当に悩んだのでしょう。けれど、あの方と対峙する、その理由でロストメモリーになるってことを、わたくしはよしとできません」 半ば覚悟していた厳しい言葉だった。 「それであの方を捉えたとして、それでそのあとはどうするつもりなのかしら? ロストメモリーたちは皆、真理数「0」を得て、ここで生きていくことを選んでなるのです。貴方の行動は、どんな想いが基にあろうとも、結果としてその方達の決心を、選択を、貶めることになるのではないかしら」 「……」 一は唇を噛みしめる。 告げられた言葉はきつい。 けれど、そ…っと、一の両肩に置かれたカリスの手は温かく、優しかった。 「あの方のこと、教えてくれてありがとう、一一さん。そのあなたにひとつ、教えておきましょう」 「……なん、ですか?」 「あの方は、あなたがロストメモリーにならずとも必ずコンタクトを取ってくるでしょう。あの方がもっとも好む方法で」 カリスのソレはまるで、《導きの書》を繰り予言を告げる、彼ら《世界司書》のようだった。 「……ありがとうございます」 一はただ、ただ頭を下げる。 赤の城で執り行われた茶会での出来事は、開示された《真実》とともに人々の口にいくども上ることとなる。 そうしてアリッサを館長とした世界図書館に何度目かの大きな節目が訪れることとなるのだが、ソレはまた別のお話。 END
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