相沢優は硬くきつく拳を握りしめたまま、医務室から出てきた。 たったいまロバート・エルトダウンを思い切り殴った手が、じんじんと痛んでいる。 情けなくて、悔しくて、腹立たしくて、哀しくて、やるせなくて。 それは相手に向ける以上に、自分自身に対して湧き上がる『怒り』なのかもしれない。 何もできなかった。 どうすることもできなかった。 どうにかしたいと必死に伸ばした手は、届かなかった。 起きてしまったことはもう覆せない。取り戻せない、巻き戻せない、やり直せない。 どうして、という想いが後から後から噴き出してくる。 その想いが、かつて胸に刺さった『棘』をも刺激する。 自分の内側に吹き荒れる感情をコントロールすこともできず、誰に声を掛けるでもなく、誰に声を掛けられるでもなく、ひたすらある場所に向かって早足で歩く。 一直線に、脇目もふらず、優はヴァン・A・ルルーの執務室を目指していた。 * 自身の中にどうしようもなく《真実への欲求》があるとしたら、そう名乗らなくとも探偵なんです * 荒々しくノックして、返事があるかないかのうちに、優は勢いよく司書室の扉を開け放った。「こんにちは、ヴァンさん。本を返しに来ました」「おや」 書棚の前にいた赤いクマのぬいぐるみは、さりげなく振り返り、そして小さく首を傾げる。「いらっしゃい、優さん」 ホッとするような、いつもどおりの彼がそこに居た。「ヴァンさん」「はい?」 思わず手を伸ばし、もっふりとした彼を両腕でしっかりと抱き締めた。 彼の肩に顔を埋めれば、頬に触れるカールモヘアの心地よさとぬくもりが刺々しい心をやわらかく包んでくれる。 ふ…、と、肩の力が抜けた。 力が抜けた状態で視点を変えると、本と本と書籍と本でみっしりと詰まっていたガラス扉の書棚の中に、優はあるものを見つけた。 ティーセットや紅茶の缶に囲まれ、優雅に座っているのは、自分がかつてロンドン土産としてルルーへプレゼントしたホームズコスチュームのベアだ。 大事にしてくれている、のだ。 深呼吸をひとつ。 そして。 抱き締めていた腕を解き、一歩引いて、それからハードカバーの装丁が美しい本を一冊カバンから取り出し、差し出す。「ずいぶんと長く借りてしまっていてすみません」「いえ、本当にいいんですよ。本は逃げませんし、私も逃げませんから」 何気なく告げた言葉なのだと思う。 けれど、逃げない、というその台詞に優の心が揺らぐ。「本当に?」「はい?」「本当に、ヴァンさんは逃げませんか?」「ええ」 しっかりと、彼は頷きで返してくれる。 その姿を見つめながら、思う。 ルルーから借りていたのは、推理小説だった。 美しいロジックを展開する、全ての謎を鮮やかに解き明かす《探偵》の物語―― その虚構世界で、かの存在は読み手の自分に問いかけてくる。 探偵とはなんであるのか、と。「……最近、ずっと考えていたことがあって。ヴァンさん、少し話をさせてもらっても良いですか?」「ええ、もちろん」 そこで彼は何かを思いついたように、ぽむっと手を叩く。「良かったら、私の家に来ませんか? つい先程、書棚が満杯になってしまったところなんです。時間があるのでしたら、お茶もいかがです?」 今度はルルーから、優へと手が差し伸べられた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>相沢優(ctcn6216)ヴァン・A・ルルー(ctsx2665)=========
「……ここがヴァンさんの……」 ルルーの私邸を訪れるのは初めてだ。 窓辺に置かれたアンティークテーブルに着き、優はひとり、家主の趣味を反映したのだろう、壱番世界のヴィクトリア朝を模したティーサロンを思わせるこの場所をぐるりと見渡す。 ターミナルを問わずカフェ巡りもしてきたし、クリスタルパレスの常連でもあり、時には庭園での茶会にも招かれた。 だが、この場所にはなぜかそういった場所とは違う感覚を抱く。 それが、もしかすると他者のプライベートな空間に招かれるということなのかもしれない。 「お待たせしました、優さん。お茶請けはエル・エウレカのブルーベリータルトにしてみたのですが」 そう言って、奥からティーセットとタルトをトレイに載せたルルーが姿を現した。 その一瞬、不意に優は、かつてこの場所で衝撃の光景を目にしたという《彼女》の話を思い出す。 今日のように、クマ司書に手を差し伸べられ、この場所に招かれた彼女たち。 4人で他愛のない話をしている最中、キッチンからやってきたのは、抜けるような白い肌に背を流れて足下にまとわりつく銀の髪を持つ、ダークブルーのタキシードをまとった180センチを超えた青年で―― 「……優さん?」 「あ、すみません」 赤いクマのぬいぐるみ司書が不思議そうに首を傾げるのへ、あわてて自分の幻視を振り払う。 「優さんにはいつも美味しい差し入れを頂いてますから」 目の前でサーブされる紅茶は、とろりとした甘いハチミツ色をしている。 「ありがとうございます、ヴァンさん」 「どうぞ」 そう言いながら向かいに座ったクマ司書を、優は別の感慨で眺める。 「考えてみたら、ヴァンさんとこうして話をしているって少し不思議ですよね。俺がロストナンバーでなかったら、そもそもこうしてここにいられない」 「私が世界司書でなかったら、……そうですね、ただのロストナンバーだったとしたら、もしかすると優さんとこうしてお茶をする機会も得られなかったかもしれません」 ルルーは、紅茶に口をつけながら、フフ…とわずかに笑みをこぼす。 「すべてはタイミング。すべてを《確率》で考えると、世界は驚くほどの奇跡で満ちていると思いませんか?」 「確率……奇跡……」 連なる言葉を、優は口の中で繰り返す。 確率。 そして、奇跡。 「私が覚醒する確率、優さんが覚醒する確率、私がロストメモリーを選択する確率、優さんと私がターミナルで同じ時を刻む確率、あなたが私と話をしようと思えるような関係を構築する確率、そして何よりも、あなたが生まれるという確率」 指折り数えながらすべての確率を上乗せ計算していけば、いまこうして過ごす時間にすら天文学的数値が関わってくるということだ。 「……なんだか、すごい目が回りそうです」 「ただ、どれほど低い確率も、起きてしまえば《100%》なんですが」 「ソレを考えるのは、ヴァンさんがギャンブラーだからですか?」 「ギャンブラーは《確率》を意識します。でも同時に、確率や理屈を飛び越えた世界に生きているとも言えます。ソレをヒトは《運》と呼ぶのかもしれませんが」 確率が低いからと言って、勝負を挑まずに終わるのはギャンブラーではない。 安全圏に居続けるものをギャンブラーとは呼ばない。 「少なくとも私はそう思ってますよ」 「それじゃあ、イカサマは?」 「確率を上げるためにあらゆる手を尽くさずに終わるものもまたギャンブラーとは言い難い、ということにしておきましょうか」 またしても、フフ、とルルーは謎めいた笑みを浮かべた。 ふと、彼の言わんとしていることに優は気づく。 「どんなに低い確率でも、望んで挑んで良いって事ですか?」 「どんなに低い確率でも、挑まなければ、確率も可能性もゼロだということですね」 その言葉が、優の口を、心を、少しずつ開かせる。 なんて伝えたら良いのか、どこから話せば良いのか、どう考えたら良いのか、そういった、思考の迷路にも似た感覚を解きほぐしてくれる。 「……トレインウォーの発動が、ありましたよね? 壱番世界、俺の護りたい世界で」 「ええ」 「俺……何もできなかったんです。大事な友人が助けを求めていたのに」 優はじっと自分の両手を見つめる。 「ロバートさんらしいって思う……あの人らしいって思う自分はちゃんといるんです」 だけど、でも。 「俺はすべてを守りたかった。助けたかった。すべてがもう動きはじめていて、ソレを止める役目にはつけなかったんだとしても、何ひとつ諦めたくなかったんです」 両手を握りしめ、堅く目を閉じる。 「どうにかしたくて、どうしても何とかしたくて、仲間と頭痛くなるくらい相談もして……探偵としてできることを考え続けて」 だけど、でも。 「……どうしてって、思う俺がいるんです」 相談してほしかった、信じてほしかった、すべて自分で決めてしまう前に、もっともっとその前にできることがあったはずなのだ。 ロバートにはロバートの考えがあったのだと分かる。 求めるモノがあったのだろうと分かる。 分かる、けれどでも、ソレを優の感情は納得していない。 「たったひとりで考えて、たったひとりだから行き詰まって、煮詰まりながら出した答えじゃなくって、もっと別の、もっと最善の策が絶対あったって思えて……救いはすぐ目の前に、自分が考えてるよりずっとカンタンにあって、ソレに気づけてないだけで……」 彼を殴った拳はまた微かに赤く、じりじりとした痛みを思い出させた。 伸ばしても届かなかった手、掴めなかった手、叶えられずに終わった手が、痛みとなって優自身を責めているように思えた。 またしても間に合わなかった、またしても心を救えなかった、またしても、またしても、またしても、自分は相手の心の拠り所にはなれなかったという―― 「……あ」 唐突に、気づく。 ルルーの黒い瞳に見つめられながら、自分の中で答えに気づく。 「そうか」 これは、この悔しさややるせなさは、かつての《傷》が、心に突き刺さったままの《後悔と喪失の棘》が、疼くせいだ。 すべてを自分ひとりで抱え込んで、すべてを自分ひとりで考えて、すべてを自分ひとりで決めて、誰にも助けを求めないまま、誰からの助けも救いも自身に許さないまま、ブルーインブルーへ行ってしまった少女、絶望してしまった神父。 大切な少女、大切な友人の喪失の危機に、自分は結局何もできなかった。 あの時の彼女に、あの時の彼に、ロバートを重ね見て、だからこんなにも、こんなにも、こんなにも、自分の無力さが悔しいのだ。 「ヴァンさんは以前、俺のことを探偵だと言ってくれたけど、でも本当に……」 ぎしりと心が軋んだ音を立てる。 チカラになれなかった苦しさで揺れ続けていた感情に、探偵として請われた解決に至れなかったことが、さらにそこへ拍車を掛けていたことにすら辿り着く。 心のどこかにあった違和感が、言葉に変わる。 「……俺は、探偵ですか? 探偵って、なんですか?」 インヤンガイの螺旋飯店で行われたミステリーナイト、その時、自分は確かに探偵バッチを受け取った。 けれど、本当に自分は探偵だったのか。 他に出会った人たちの、たとえば珊瑚色の髪をしたあの音楽家のように自分は事件にあたっているだろうか。 彼らのようだったなら、友人達を救う真実に辿り着くこともできたのだろうか。 「俺は、護るために、助けるために、真実を知りたい。でも真実を知ったとしても、それが隠されたままであるべきものならば、真実の箱の蓋を再び閉じても構わないって考えてるんです」 ひとつひとつ、思いを噛みしめるように、告げていく。 「仮に、もしその真実が明るみにされることで苦しむ人がいるなら、悲しむ人がいるなら、口を閉ざして構わない」 ひとつひとつ、自分の内側にあるものを見つめながら、言葉で繋いでいく。 「では……そうですね、そんな優さんが考える《理想の探偵》とはどんな方でしょう?」 ルルーは小さく首を傾げて問いかける。 「理想の探偵……」 その問いかけに、優は想いを、記憶を、巡らせていく。 探偵と名乗る人々、仲の良い友人達、そしてこれまでに関わった事件の数々からその答えを見つけだし、そっと掬い上げる。 「あの、……ブルーインブルーで、彫刻に満ちた白亜の館に仲間を迎えに行ったことがあったんですが」 傷を受けた状態で囚われたロストナンバーと、庭園で死んでいた奥方、いくつもの謎と、奇妙な状況。 「アドの報告にあったものですね?」 「その事件の終わりに、ふたりの探偵が《真実の箱》の蓋を閉じる選択をしました」 モノクルの穏やかな壮年の紳士と、ウサギのぬいぐるみを抱いたハニーブロンドの髪が波打つ少女、あのふたりの姿が網膜に蘇る。 最初に考えていた《事件の景色》とはまるで違う方向になっていった真実の行方を追いかけながら、あの時、優は《探偵》の在り方を見たのかもしれない。 「本当に優しい選択だと俺は感じて……俺にとっての《理想の探偵》が誰かと問われたら、そのふたりだと答えます」 そう返した優に、ルルーは興味深げに目を細める。 そして、 「ではもうひとつ、私から質問を良いでしょうか?」 「はい」 改まって、彼は優をまっすぐに見つめる。 「優さんの想いは、どれほどに低い確率でもすべてを守りたいという願いは、ロバート卿の事件の後、潰えてしまいましたか?」 静かに、真摯に、彼は問う。 「いえ、すべてを守りたいという想いはまだここに」 ここに、ある。 静かに、真摯に、優は自分の胸を押さえ、はっきりと告げる。 「俺は壱番世界を護る為に《真実》が知りたかったし、誰かを護る為に《答え》を得たかった。俺の原点はそこに在るんです」 ロストナンバーの時は無限に続く、と思われるかもしれない。 けれど、永遠不変なものなどきっと、どんな異世界にも存在していないのだ。 人は変わる、心も変わる、状況だって時には自身のあずかり知らぬところで刻々と変わっていく。 だから、後悔しないために、手を伸ばす。行動する。求めることをやめずに進む。進んでいくことを諦めたくない。 「さて、先程の優さんからの質問ですが」 ルルーは、告げる。 「探偵とは、……そうですね、だれも謎だとは感じていないことにすら《謎》を見出し、知りたいと望んで手を伸ばしてしまう生き物ではないでしょうか?」 謎を謎のままにしておけない。 そして、解き明かすことにあらゆる手を尽くす。 「ですから、やはり優さんもまた《探偵》なのだと私は思いますよ」 「……解き明かすことに、あらゆる手を……」 気づけば、ルルーとの対話を通し、自分の中で何かが変わりつつあることを感じ始めていた。 医務室を飛び出したときに吹き荒れていた感情が、別のところへ辿り着くのを感じている。 「ヴァンさん、話を聞いてくれてありがとうございました」 深く頭を下げて礼を言えば、目の前のギャンブラーは嬉しそうに目を細めて、笑った。 途中からすっかり飲むことを忘れていた紅茶に、そっと手を伸ばす。 少し冷めてしまっているけれど、ホッとする。 宝石のような紫がうつくしいブルーベリータルトも、やわらかなカスタードクリームと絡み合って、ほんとうに美味しい。 ここは、ルルーが用意してくれた茶会の席なのだと言うことを思い出す。 「そうだ。ヴァンさん、今度また推理談義のお茶会をしませんか? 女王のタルト事件みたいに、またあの円形劇場で」 「ええ、ぜひ」 「約束、してくれます?」 「もちろん、お約束しましょう。優さんが素敵なご友人と来てくださるのを楽しみにしたいと思います」 ティーカップは空になり、白い皿からタルトも消えた。 そして優の心の中からも、冷たく刺さった錘が消える。 「では、いってきます!」 大切な友人を救うため、大切な壱番世界を護るため、トレインウォーへ。 すべてに感謝して、すべての《確率》に微笑みかける幸運の女神を思い描いて、優は再び自分の意思で走り出す。 * 後日。 ルルーから、約束を守ったのだろう、赤い封蝋がなされた招待状が優をはじめとした数人の手元に届く。 円形劇場を舞台に、なにゆえにスズメはコマドリを殺害するに至ったのか、《彼女》の動機を巡る虚構の茶会が開かれることとなるのだが、ソレはまた別のお話。 END
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