黒葛一夜は買い物を済ませてアルバイト先の探偵事務所へと足を向けながら、上に載せた林檎が転げないようにそっと手で押さえた。 今日は林檎がお買い得で少し多めに買い込んだ、これでアップルパイを作ろうか、タルトタタンがいいかと可愛い妹が喜ぶ姿だけを思ってうっとりと構想を練る。 パンにしてもいいか、アップルシナモンティーはと考えを進めていると前方に見慣れた人影を見つけ、先生と声をかけて駆け寄った。 「すみません、もうお帰りでしたか。お待たせしてしまって」 「いや、私も今帰ったところだよ」 買い物に行っていたのかいと一夜が抱える袋を一瞥したのは、彼の雇い主であるこの探偵事務所の探偵、那智・B・インゲルハイムだ。 一夜は慌てて鍵を開けながら、那智が連れているもう一人に目をやる。 「お客さんでしたか」 「正式な依頼人ではないからな……、そう呼ぶのかどうか」 軽く肩を竦めた那智の言葉に、客は客だろと嫌そうに答えたのはどこか陰鬱な印象を受ける由良久秀。お客さん扱いはしなくていいのかなと首を傾げながらドアを開け、どうぞと促した。 「とりあえず紅茶でも淹れましょうか」 「そうだね、頼むよ」 「はい、すぐに」 俺はまだ家事が残ってますから碌に構えませんけどと言い添えて、一夜は一先ずキッチンに向かった。 とある場所にある探偵事務所。夕方に程近い時間帯、家主の那智は、助手兼家政夫たる一夜が淹れた紅茶を優雅に嗜んでいた。ゆったりとした落ち着いた時間を過ごすには相応しいとカップを傾けているところに、 「どうでもいいが、扱いに差を感じるのは俺だけか……」 一応俺は客じゃないのかと沈鬱な目つきと低い声で尋ねてくるのは、向かいのソファに浅く腰掛けている由良。ちらりと一瞥した那智は、おかしなことを言うと唇の端を持ち上げた。 「助手くんが淹れた紅茶に不満でもあるのかい?」 「俺が言ってんのは中身じゃない、外身だ」 分かってて言ってるんだろうと目を据わらせる由良に、何の話をしているのだろうかと片方の眉を上げる。 仕種のいちいちが腹立たしいと思わず拳を震わせる由良が飲むのは、那智と同じく一夜の入れた紅茶だ。ただその手に持っているのは、何故か湯呑みだった。 那智が持つのは普段から使っている壱番世界の某有名陶器店の、白磁のティーカップ。紅茶の色を引き立てる美しいそれと違い、持ち手もなく分厚い素焼きの湯飲みに紅茶では扱いに差を感じたとしても仕方のない話だろう。 依頼人ではないのだから適当な扱いで構わないと言った那智の言葉を忠実に守った一夜は、残る家事をこなすべく生憎と今この場にはいない。そうすると文句をつける先が那智になるのは当然の成り行きだろうが、知った事ではない。というのが正直なところだ。 しかしそれを口にしないだけの理性は備えているので、にっこりと微笑んだだけで特に答えもせず再び紅茶のカップを傾けたのだが。 ただでさえ据わって見える目つきを更に悪くして由良が口を開きかけ、察して那智が視線を逸らした時。 「うわあぁぁああああぁぁああぁぁっ!!」 絹を裂くというには、幾らか低い悲鳴が響き渡った。 か弱い淑女の悲鳴ほどではなくとも多少は気になってカップを置き、同じく湯飲みを置いた由良と一緒に声がしたほうへと足を向ける。 二人とも特に急ぐ様子も見えないのは、声の主が誰かを分かっているからだ。今この事務所にいるのは三人きり。不本意ながら二人でお茶を飲んでいたのだから残すは一人、紅茶を淹れた後は家事に勤しんでいた一夜だけだ。 とりあえず二人ともに声を辿って足を向けた先は、ベランダだった。そこで頭を抱えている姿を見つけ、何かあったのかと由良が声をかけると蒼白な顔色をした一夜が縋るような目を向けてきた。 「何か……、何かどころじゃありませんっ! 先生、大変です、ここに干してあった妹の下着が盗まれてます──! 探してください、犯人を! そして今すぐ取り返してくださいっ」 ああでもこんなところに迂闊に干していた俺も馬鹿だったんだと叫ぶ一夜の声を聞きながら、那智もさすがにそれは一大事だと僅かに眉を動かした。野郎の下着であれば紛失したところでどうという事はないが、また年端も行かない幼い少女の下着が盗まれたとなれば由々しき事態だ。 普段の那智であれば気乗りしない依頼には取り掛かるまでにやたらと時間がかかるのだが、今回はさすがにそうも言っていられない。何しろ普段は穏やかで人当たりのいい一夜も、妹が絡むと人が変わる。早急に解決しないと、妹大事で我を忘れかけている一夜までが犯罪者になりかねない。 「もし犯人が男だったら、俺が必ずこの手で殺してやる──!」 可愛い妹を変態の手から必ず守り通してみせると意気込んでいる一夜に、多分に呆れて黙ったまま事の次第を眺めていた由良がはっと鼻先で笑った。 「あんたの妹って、確か十才かそこらのガキだろ? そんなガキの下着を、誰が好き好んで盗むんだよ」 馬鹿馬鹿しいと肩を竦めた由良は、厄介事に巻き込まれるのは御免だとばかりに踵を返しかけたのだが。実際に出て行く前にがしっと一夜に腕を捕まえられ、ちょっと待ってくださいよと低い声で顔を近づけられている。 「現に下着はなくなってるんです、行方不明なんですよ……! 俺が干し忘れたとでも言うんですか、俺にとっても妹にとってもいっそそのほうがいいとは思いますけど有り得ないんです、確かにこの手で干したんですから! ああっ、あんなに可愛くて小さくて保護欲をそそる愛らしさ全開とはいえ、変質者に付き纏われる事になるなんて──! おぞましくも汚らわしい変質者はまだこの辺にいるに違いないのに、何を呑気に構えてるんですか!」 聞いてるんですかもっと真面目に取り組んでくださいと襟首を捕まえ、がくがくと揺さ振りつつ詰め寄っている一夜の相手は由良に任せ、那智はベランダに残る遺留品を確認する。 さっきまで一夜が履いていたベランダ用の履物が一足、他には洗濯バサミが二つ三つ落ちている。ただ由良を揺さ振っている一夜のエプロンから同じ物が零れているところを見れば、洗濯を干した時、若しくはついさっき一夜が落とした物と見て間違いないだろう。 さっき降った雨のせいかしっとりと濡れているベランダは足跡も残りやすいが、残念な事に不審者と思しき足跡はない。手摺に視線を転じても、踏み越えたような跡もなければ捕まった手の跡も見当たらなかった。 「外からベランダへと侵入した形跡はなし、か」 「という事は、出かけている間に誰かが事務所に入ってきたと……!?」 一体誰がと未だに捕まえたままの由良の首を軽く締め上げながら怒り心頭に発する一夜に、苦しい離せともがいてようやく逃れた由良が、咳き込みながら馬鹿馬鹿しいと吐き捨てた。 「あんたが言う変態の仕業として、下着だけが目当てだったなら外から手を伸ばせば届くだろう。それをわざわざ事務所に侵入して、ガキの下着だけ盗っていこうなんて考える奴がどこにいるんだよ」 他に金目の物が盗まれてるわけじゃないんだろうと肩を竦める由良の言葉は尤もだが、一夜には既に聞く耳はない。そうだ写真! とまたしても由良を捕まえ、撮ってくださいとベランダを指した。 「はーあー?」 「そんな気の抜けた返事をしている場合じゃないです! デジカメくらい持ってるでしょう、ほら、現場写真です。早く撮ってくださいっ」 「どうして俺がそんな事、」 「アナタはカメラマンでしょう、ここにいるんだからちょっとくらい役に立ってください!」 「知るかよ、やりたいなら探偵にやらせればいいだろうが!」 俺を巻き込むなと由良は腕を振り解いたが、妹大事で色んな物が見えなくなっている一夜にとっては些細な抵抗でしかない。さっきより強く襟首を捕まえて顔を寄せ、由良さんと低い声で怖い笑顔を向けている。 「先生は犯人探しで忙しいんです、手を煩わせるわけにはいかないでしょう? カメラ。持ってますね? カメラマンですよね? 写真。撮ってくださいね?」 いいですか言いましたよお願いしましたよと額をぶつけそうな勢いで言い聞かせるように頼んだ一夜の迫力に負けて、くそうどうして俺がとぼやきながらも由良は渋々とデジカメを取り出した。 那智はその様子をじっと眺めていたが、先生と不安そうに呼ばれて顎先に軽く手を当てた。情報を整理すべく、第一発見者に質問を重ねる。 「洗濯物を干したのは、いつ頃だったかな」 「午前中に洗い終わったので、買物に行く前に干して出かけました」 「戻ってきたのは?」 「さっき、先生とここの前で会いましたよね。あの時です」 「鍵は」 「勿論、かけていきました。先生はお出かけでしたから」 いい天気だったからついベランダに干しっぱなしでと悔いたように拳を作る一夜に、やる気なく写真を撮っていた由良が、どんな大事件なんだかとぼやいているのが聞こえる。 「たかがガキの下着じゃねぇか、なくなったなら新しいのを買ってやればすむ話だろ」 「冗談じゃない! 可愛い妹の下着がどこかの変質者の手にあるなんて、こんな度し難い状況が他にありますか!?」 絶対に見つけ出して取り返す、ついでに犯人は社会復帰できないようにしてやると拳を震わせる一夜を何だか遠く眺め、由良は緩く頭を振ってどうでもよさそうにカメラに向き直った。 那智はその由良の背中をじーっと見下ろし、犯人は、と口を開いた。 「さっきも言ったように、外からベランダに入ったのではない。しかし助手くんが買物から戻るまで、事務所には鍵がかかっていた。抉じ開けられたなら気づいているはずだが、」 確かめるようにちらりと窺うと、そんな形跡はありませんでしたと鍵を開けた一夜が頭を振るのを確認し、一つ頷く。 「助手くんが戻って、ようやく鍵は開けられた。それ以降、事務所内に入れたのは今ここにいる三人だけ。私と助手くんを除いて、犯行に及びそうな人物は……」 簡単な引き算だなと背中を見据えたまま続けると、由良が頬を引き攣らせて見上げてきた。 「ちょっと待て、今明らかに俺を犯人扱いしなかったか!?」 冗談じゃねぇぞと立ち上がって抗議してくる由良に、那智はそんなに怒鳴らないでくれとにっこりと笑った。 「私はただ、状況を整理したに過ぎないのだから」 「何だ、その悪意ある状況整理は!! どうして俺がガキの下着を盗まなきゃならねぇんだ!?」 するわけねぇだろと主張してくる由良に、那智は眼鏡の奥で目を細めた。 「人の嗜好はそれぞれだ。愛らしい幼女しか愛でられないという奇特な人種も、最近は増えているそうだね?」 「俺に同意を求めるな、そして人をロリコンみたいに言うな!」 不名誉極まりないと怒鳴りつけてくる由良に、乱暴はよしてくれと手を払って少し距離を取る。 「私としても、他人の趣味をどうこう言う気はない。例えば病気にしか思えなくても、近寄りたくないほど理解できずとも、犯罪者にならない限りは自由だと思うがね」 犯罪者にならない限りはと強調すると、由良が誰が犯罪者だと噛みついてくる。 「勝手に人をロリコン扱いするな、距離を取るな!! 俺のどこがロリコンに見えるんだ、そんな趣味は生まれてこの方持った覚えはねぇ!」 詰め寄ってくる由良から一定の距離を保ちつつ、別に趣味そのものを責めているわけではないと軽く眼鏡を押し上げて那智は続ける。 「だが単なる幼女趣味は他人様を巻き込まない分には問題ないが、下着泥棒となるとれっきとした犯罪だ。現時点でも到底許せる事ではないが、せめても下着を返すなら少しばかり情状酌量の余地も生まれるかもしれない」 「だから俺はやってない! そもそも事務所に通されてから悲鳴を聞いてここに来るまで、他でもないあんたの目の前にいただろうが!」 「人は自分の趣味の為ならば、時に驚くべき能力を発揮するという」 そんな事もあるんだろうと尤もぶって頷くと、あるわけないだろうと頭を掻き毟るようにして反論される。 「大体どうやってどんな能力を発揮すれば、あんたの前にいながら下着を盗めるんだよ!」 「ああ。罪の意識に耐えかねて、ついに自白したか」 「今のどこを取ったらそうなるんだ!? あんた今暇だろ、暇なんだな? けど暇ってだけで俺を陥れる事に心血を注いでんじゃねぇ!」 そんなくだらねぇ理由でロリコンの烙印なんぞ背負って堪るかと怒鳴りつける由良は、けれどそこで那智から視線を変えて言葉を止めた。それを辿るように振り返った先では、いつの間にか包丁を構えた一夜が恐ろしい笑顔を浮かべて由良を見据えている。 そういえば先日丁寧に研いでいたなと思い出す包丁は、簡単に人の腹を貫きそうな鋭利さを備えている。殺る気だな、と特に止める気もなく心中に呟いていると、一夜が口を開いた。 「妹の下着を盗んだ変態は、お前か……!」 「あんた、今の話の何を聞いてた!? 俺にできるわけがないだろ!?」 「煩い黙れ変態ロリコン、今すぐ盗んだ下着を返せ……!」 完全に据わった目で詰め寄る一夜に、ふざけんなよと由良もさすがに切れたような声を出す。 「俺じゃねぇって言ってんだろが、誰がロリコンだ!」 「いい加減に白状して、素直に返したほうが身の為だと思うが?」 「うるせぇ、黙れ元凶! 何ならテメェから片付けても、」 いいんだぞと由良が脅すように声を低めた時、あーもーさっきの雨は散々だったわねぇといきなり甲高い声が三人の間に割り込んできた。思わず全員でそちらを見ると、許可もなく勝手にドアを開け放ったお隣のご夫人が、両腕に大量の荷物を持ってずかずかと中に入ってくるところだった。 「あたしもせっかく朝から張り切って干してたのに、急に降るなんて詐欺よねぇ。天気予報も言ってなかったじゃない? お向かいさんに降ってるわよーって言われて慌てて取り込んだんだけどね、ぱっと見たら嫌だ、ここも干したままじゃない? 声もかけたんだけどお留守だったみたいだし。せっかくいい天気と思って干して出かけたのに、急な雨って嫌よねえ! 洗い直すのも可哀想だし、お節介かとも思ったけど一緒に取り込んでおいたのよう。だのにまぁ、五分くらいでやんじゃって。あんなに頑張ったのに失礼しちゃうわよねぇ!」 聞いてもいないのにつらつらと説明してくれるご婦人は、持っていた荷物──どうやら取り込んでくれた洗濯物──を下ろし、大儀そうに肩を回している。呆気に取られて反応できずにいる那智や由良と違い、呆然としたままも一夜がありがとうございますと頭を下げると、やあだと手をぱたぱたと揺らしたご婦人は嬉しそうに笑った。 「お礼なんていいのよ、この間うちの猫ちゃん探してくれたじゃない? 困った時はお互い様って言うでしょう!」 暇だったから家のと一緒にアイロンもかけておいたから、いいのよ、気にしないで、あら包丁を持ったままなんてお料理の最中だった? 邪魔してごめんなさいねぇ、じゃあここに置いたから。また困った事があったら頼むわねぇ等々、マシンガンのように捲くし立ててたご婦人は、何だか楽しそうに笑いながら賑やかに退場された。 ぱたりとドアが閉じられると、事務所内にはしんとした静寂が訪れた。 事件は呆気なく解決した。隣のおばちゃんという本物の探偵よりよっぽど頼りになる探偵が見事に久秀の冤罪を晴らしてくれたので、ついさっきまでロリコンの汚名を着せて詰め寄ってきていた二人を睨むように見据えると、ふらりと一夜が足を踏み出した。ご婦人が置いていった洗濯物まで近寄っていって確認すると、あー、と魂が抜けたような声を出した。 「そーいえば、洗濯物一式なくなってましたねぇ……」 妹の下着だけじゃなかったと、片手に包丁を持ったまま、もう片方の手で頭をかいた一夜が僅かに申し訳なさそうに呟いた。 おばちゃんが去った時以上に何とも言えない空気が、静かーに場に満ちる。 言い訳できるならしてみやがれと久秀が完全に据わった目で睨むと、那智が指先で眼鏡を押し上げて口を開いた。 「──さて、すっかり紅茶が冷めてしまったようだ」 「おい待てこら」 「あっ、すみません、すぐに淹れ直しますね。由良さんも飲まれますか?」 「飲むに決まってるけど他に言うことねぇのか、あんたら!」 「そうだ、折角だからお客さん用のティーカップで淹れ直しましょうね」 「そもそもそこは最初からそうしとくもんだろ!? そうじゃなくてもっと別に、」 「しかし、常日頃から善行は積んでおくものだな。雨を察して洗濯物を取り込んでもらった挙句、畳む手間まで省いてもらえるとは」 「本当ですよねー! お礼に後で林檎でもお届けしておきます、今日はちょっと安かったんですよ」 「ああ、それがいい。やはりそういったことは、きちんとしておかないとな」 口を挟む暇もなくつらつらと会話して戻っていく背中を追いかけた久秀は、意地でも振り返ろうとしない二人にちょっと待てと声を荒げる。 「きちんとしたいなら、とりあえず俺に謝るのが先じゃねぇのかーっ!!」 納得いかねぇ! と卓袱台でも引っ繰り返しそうな絶叫が響き渡ったが、探偵事務所は今日も平和に幕を下ろしそうだ。
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