ターミナルは季節を知らない。故に仮住まいから出ても肌を撫でる風は、特に冷たくも暑くもないというほどだった。 今日、物好き屋とノラ・グースはゆったりとした足取りで0世界を散策することにしていた。 並んで歩くと言うよりは、ノラが物好き屋の半歩後ろを歩き追いかけるような形で、二人は散策を開始する。 「これから建てるおうちの味見を兼ねて、探険なのです!」 (“下見”って言いたかったんだろうなぁ) ノラはいつも可愛い言い間違いをするので、物好き屋もことさらに訂正しない。今回も脳内で訂正して済ませてみた。 「リーダー……? リーダー!」 「なに、ノラ」 表情を崩さずに心の中でだけ「相変わらずだな」とその可愛さをとどめていた物好き屋は、いつの間にか自分の前に回って自分を見つめていたノラに気がついて。 「素敵なお家の味見ができるといいのです!」 「……うん、そうだね」 いつか自分は彼の側を、その家を去ってしまうだろうけれど――物好き屋は心中を悟られぬようにそっと、ノラの頭に手を乗せた。 *-*-* ターミナルには様々な建物がある。 図書館を始めとして駅舎、商店街、画廊街、住宅街……二人は徒歩で、あるいはトラムを利用してターミナル中を動きまわる。トラムに乗っての移動もあるとはいえ、乗り換えて歩いて乗り換えて歩いてでは疲労が蓄積されぬわけはなく。 「リーダー、つかれたですー」 「……一休みしようか?」 ノラが音を上げたものだから、物好き屋は休息を提案した。するとノラの瞳が今までとは段違いに輝いて。その瞳を見てしまってはしかたがないなと思わずにはいられない。商店街の奥まった所にあった、『ミスチヴァス』という名のレストランで昼食を兼ねた休息を取ることにした。 「ノラはオレンジジュースがいいのです!」 「飲み物は分かったけれど、お昼ごはんは何にするの?」 こうして二人で食事をするのは何度目だろう。数えてなどいないから正確な数なんてわかるはずはないが、随分と長い時間一緒にいたことは確かである。 「ここのオレンジジュース、おいしいのですー。きっとしぼりたてなのです!」 嬉しそうにオレンジジュースを飲むノラを見ている物好き屋の表情は、自然と柔らかくなる。 この表情を曇らせたくない、物好き屋はあらためて強く思った。 *-*-* 「リーダーぁ」 「うん」 二人が同じく見上げているのは大きなお屋敷。けれども外から見てもわかるほどにその屋敷は古ぼけていて、長年使用されたものの人が住まなくなって傷み始めた、そんな建物。廃屋と言う名がふさわしいそれは、二人の興味をそそった。 「チェンバーなのですー?」 「そうかもしれない」 そっと、物好き屋がドアノブに手を掛ける。うっすらと誇りが積もっていて、少しザラリとした。そのまま扉を引き開けると、ぶわりと中の空気が流れ出る。閉め切られた部屋特有のもわっとした空気が二人の鼻をくすぐり、この屋敷は本当に無人なのだと実感させる。 「おっきいおうちなのですー」 緊張感なく、むしろわくわくした様子で開いた扉の中に飛び込んでいくノラ。1.2歩屋敷に踏み入って、きょろきょろとあたりを見回して。 「でも誰もいないみたいなのです、埃が煙たいです」 ノラが喜び勇んで飛び込んだ拍子に舞い上がった埃。埃に襲われた彼は目を閉じてけほけほと可愛く咳き込んで。その様子を見ていた物好き屋は彼らしいと思いながらも小さくため息をついて。 「静かに歩けば埃もそんなに飛ばないから」 「はいなのですー」 けほけほけほ、咳き込みながらも可愛い声が返ってくる。物好き屋もその声を追って屋敷内へ足を踏み入れた。 (無人……か) ゆっくり足を進めながら、室内を見渡す。 古ぼけた絨毯に色あせたカーテン。飾られている絵画は額縁のヘリにうっすらと埃が張っている。物好き屋は絵画へと近づいてすっとヘリについた埃を指で拭った。 (埃は思ってたよりも少ない、前まで誰かが住んでたんだろうね) 傷み気味の絨毯の敷かれた廊下に出て、別の部屋の扉に手を掛ける。ギギィ……扉は少し重かった。手をかけて開くとそんな音がしたものだから、油が切れて久しいのだろう。 部屋の中にはベッドが置かれていて、小さいが客間のようだった。どれだけの時間そのままにされているのだろうか。もしかしたら客が泊まることなどなかったのかもしれない。綺麗に敷かれたシーツはベッドの形で固まったようになり、そして黄ばんでいる。 「……」 物好き屋が手を触れると、パリッという感触がした。そうとう長い間敷かれたままになっていたに違いない。 単に家主がものぐさだったのか、あるいは客間に泊まるような友人さえいなかったのか、真実はわからない。 (結構痛んでる……それこそ『十分生きた』ってくらいに) ベッドの足にもサイドテーブルにもよく見れば細かな傷がついていて、塗装もややはげている部分があった。それが調度品の過ごしてきた時代を感じさせる。 (十分生きた、か……) 自分の思った言葉に引っかかった自分の心。いや、自分の心にそれがあったから、その言葉が出てきたのかもしれない。物好き屋は親近感に似た何かを抱きつつあった。 「ノラね、おうちを持つのは初めてなので、おうちが出来るの楽しみなのですっ」 と、静かに歩けばいいと教えたのにやはり興奮気味なのか、はしゃいではけほけほと咳き込んでいるノラが追いかけてきた。 「ベッドなのですー!」 「……あ」 ベッドを見つけたノラは、物好き屋が止める暇もなく、バッとベッドへダイブして。 トスッ、ギシッ、バキッ。 そんな音が同時に聞こえて、ダイブしたノラはうつ伏せ状態のまま固まってしまった。 最初の「トスッ」はベッドがノラを受け止めた音。「ボフッ」とか「ファサッ」でなかったのは、痛んだスプリングと古ぼけたシーツのせいだろう。 次の「ギシッ」はベッドがきしんだ音。普通のベッドでも軋む音はするだろうが、今回は相手が悪かった。古ぼけたベッドであるからして、その音は一際大きく響いたのだ。 そして最後の「バキッ」であるが……普通に寝たのなら、ノラくらいの体重でこうなることはなかったのだろう。だが飛び込んだこととベッドが古いという諸々の悪条件が重なった結果。どうやら脚が一本折れ曲がったらしい。うつ伏せになったノラの身体が少し傾いているのはベッド自身が傾いてしまった、そういうわけだ。 「……ノラ?」 だから止めようと思ったのに。物好き屋はため息を付いて、うつ伏せのまま固まったノラの頭にポンと手を乗せる。 「リィダァー……ベッド、柔らかくないですシーツかび臭いですノラがベッド壊してしまったですか? どうすればいいですか?」 焦っているのかノラは息継ぎも忘れて言い募る。 「大丈夫だよ。このベッドは十分古かったのだから仕方がないよ。もし怒られたら、僕も謝ってあげるから」 「リーダー! ごめんなさいなのですー!」 ひしっと抱きついてきたノラを抱きとめて。物好き屋はぽんぽんとその背中を叩いた。 *-*-* しばらくして落ち着いたノラは再び屋敷のあちこちを眺め始めた。懲りたのか、物好き屋のアドバイス通りゆっくり歩き、下手に物に手を触れないようにしているようだ。だが好奇心は隠し切れないようで、目をキラキラさせて屋敷中を動き回っている。 「住むなら、ここみたいに大きなおうちがいいのです、博物館の皆さんと一緒に住めるのです」 ノラの無邪気な言葉。物好き屋の心に少しだけ染みて痛い。 物好き屋ははしゃぐノラを置いて屋敷内の探索を再開することにした。屋敷内に居ることがわかっていればまずははぐれることはないだろう。 「……」 誇りをかぶったキッチン。高そうな五枚セットのスープ皿や五客セットのカップなどはあるが、使われた形跡がない。うっすら古ぼけてはいるが使用感がないのだ。もしかしたら客間同様使われたことがないのかもしれない。それとは別にしまわれている普段使いと思われる食器やカトラリーは、一人分しかなかった。こちらは年季が入っていて、大切に使っていたのだろうと推察される。 洗面所には小さな洗濯機と少しばかりの洗濯を干す道具。どう見ても一人分だ。 ここに住んでいた人は一人暮らしだったのだろうか。それも、相当孤独な――。 物好き屋はそのまま足を進めて、一番奥の部屋の扉へとたどり着いた。ここまで見てきた中で家主の寝室らしきものはなかったが、ここがそうなのだろう。客間もいくつかあり、庭もあるこんな広い屋敷にひとりで住んでいた孤独な人物。 (独り、か……) 独りでどのくらいの時間を過ごしたのだろうか。 独りは哀しいだろうか。寂しいだろうか。 もし自分が独りだったら――? 物好き屋は考える。もし自分が家主の立場だったらどうするか。考えながら、そっと扉を開けた。 客間よりも広いその部屋は、書斎を兼ねているようで二間続きだった。本棚には天井までぎっしり本が詰め込まれている。相当古いものなのだろう、それは並んだ背表紙の劣化具合からもわかる。 机を見れば綺麗に整えられていた。机の隅に積まれた一番上には、元は白かったと思われる封筒と便箋が置かれている。今は黄ばんでしまっているが……。 唯一乱れているといえるのは蓋が開いたインク壺。中のインクは当然ながらもう乾燥してしまっている。 「……」 続き部屋の寝室へと移動する。室内を見回すと、確かに客間よりは生活感のようなものがあった。ベッドの上の布団はまだふかふかしていそうだし、サイドテーブルの花瓶には花が活けられていた――ただしすでに枯れてはいるが。 室内は整然と整えられていて、バタバタとした形跡もない。クローゼットの中身もそのままだった。不意の死では無さそうだ。 まるでどこか、覚悟を決めていたような。 (依頼先で、って事も考えられるけど) 死を決意して出ていったようにも思える。 真実はわからない。もしかしたら誰かが綺麗にこの部屋を片付けたのかもしれない。……花瓶だけ忘れて? 物好き屋はもう一度書斎へと戻る。誰かがこの部屋も片付けたのだとしたら……インク壺の蓋だけ忘れた? 本棚の前に立ち、壁いっぱいの本を見上げる。本が好きな人だったのだろう。 そっと、手を伸ばして適当に一冊抜き取る。 パサッ。 何かが落ちる音がして、少しばかり焦った。注意深く扱ったつもりなのに、本のページを落としてしまったのかと。 だが視線を落としてみれば違った。それはまだ白味を残した封筒だ。物好き屋はそれを拾って表に返した。 『この封筒を見つけた誰かへ』 宛名を見て息を呑む。これは、もしや……。 中を見ていいものかと一瞬の逡巡。だが迷いは一瞬。 封がされていなかったから、そっと封筒に手を入れて中の便箋に触れる。 それはただの興味本位からではない。誰にも言わぬ理由があってのことだ。物好き屋はゆっくりと便箋を開いて文字を目で追う。 それは、遺書だった。 特定の相手に当てられたものではない。こうして沢山の蔵書の中の一冊に隠されていたものだ。 遺書を宛てる特定の相手がいない孤独な家主の、心の内を描いた手紙。 「……どうあっても、何も残さずに逝ける人はいないか……」 遺された食器とカトラリー、遺された花瓶の花、遺された蔵書、遺された手紙――故人を構成するものはこんなにも遺っていて。すべてを処分することは恐らく難しいのだろう。 大きなため息をひとつ、ついて。 自分も十分生きた。だからノラも誰も悲しませず、かつ多くを残さずに逝く手段を知りたい。物好き屋はそれを求め、この屋敷を探索したとも言える。だが、物好き屋の理想を満たす手段というのはなかなかに難しいようだ。 *-*-* 「リーダァー……?」 呼ばれて振り返りながら、物好き屋はそっと家主の遺書を自然な動作で本の間に再び挟んだ。何事もなかったかのような顔を作って。 「ノラ? どうしたの?」 「大きなお庭があったのですー。草がぼーぼーだったけど、綺麗にしたら素敵なお庭に戻ると思うのですー」 ノラは本を手に何かを読んでいる物好き屋の背中をしばらく眺めていた。なんだか少し近寄りがたく、今は話しかけてはいけないように感じてしまって。けれどもその背中をじっと見ているうちにこみ上げてきたのは不安感で。気がつくと思わず、そっと呼んでしまっていた。 だから振り返った物好き屋がたとえ繕ったものであってもいつもと同じ顔をしたから、ちょっぴり安心して。ノラも何事もなかったかのようにはしゃぎながら物好き屋に駆け寄ったのだ。 「庭……ね」 「庭には蜜柑の木の苗を植えるのです、蜜柑がおいしく実るまで育てるのですー♪」 ノラは猫にしては珍しく蜜柑に目がなくて。変わっているけれど可愛い、そう感じる。 「……蜜柑なら、ナレッジキューブとかで生み出せばいいんじゃないの」 わざわざ苗から植えて実がなるまで待つことない。だいたいどのくらい時間がかかるかわかっているのだろうか、そういった意味で物好き屋は「すぐに食べたいならナレッジキューブとかで生み出せばいい」と言ったのだが。 ノラにはノラなりの思惑がある。にこり、笑顔を浮かべたノラはまっすぐに物好き屋の瞳を見つめて。 「実った蜜柑はリーダーと一緒に頂くのです」 「それって何年……」 「……それまで、どこにもいっちゃやなのです」 ぴくり、ノラのその言葉に物好き屋は反応して目を見開いた。この言葉にはどんな意味が込められているのだろうか。深い意味はあるのだろうか。まさか、物好き屋の思惑に気がついているのだろうか。自分の遺書は気付かれないように【夢現鏡】でしたためた。あそこの主人は客の秘密を漏らすような人でないことは物好き屋もわかっている。 暫くの間遺書は持っていたけれど、ヴォロスでその遺書は彼女に保管を頼んだのだ。保管を頼むまでの間に匂いで気づかれてしまった? 「……何処にもいかないよ」 たっぷり時間をかけてからそう答える。それにノラは何も答えず、ただにこりと笑んだままで。 すこしばかりそのまま、時間が過ぎた。 ともすれば泣きたくなるような痛みを伴う時間だった。失う痛み、遺していく痛み。 降参したとでもいうように先に沈黙を破ったのは物好き屋だった。 「帰りに蜜柑、買って帰ろうか」 「!」 その言葉にぴょこん、とノラは反応して。 「はいなのです!」 今度は満面の笑顔を浮かべて、元気に返事をした。 遺す者と遺される者――それぞれ痛みはある。 それを減じる方法は、あるのだろうか。 【了】
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