ここはターミナルの一角、飲食店が軒を連ねるエリアの外れ。 華やかなパティスリーやオープンカフェ、どこか懐かしい定食屋に賑やかなスポーツバー……様々な業態の店がひしめきあう大通りから角を二つ三つ曲がり、心地よい街の喧騒もどこか遠くに感じられる裏路地に足を踏み入れふらりと歩けば、ターミナル外周の壁は意外とすぐに現れる。そんなところにひっそりと在るのが、カーサ＆カフェバル『アガピス・ピアティカ』。 濃い緑色のオーニングが目を引く入り口には扉が無い。 中には六席ほどのカウンターと、手前でほとんどオープンカフェになっている二人掛けのテーブルが二つ。それから奥の大きな食器棚には、様々なテーブルウェアの類に値札がつけて並べられているようだ。オーナーの趣味だろうか、壱番世界の北欧食器や日本の塗り箸などが節操無く並んでいる光景はどこかシュールに感じられる。コーヒー豆の香りにつられて一歩足を踏み入れれば、ほどなくあなたを迎える声が聞こえるだろう。「あ……いらっしゃいませ。お食事ですか、お買い物ですか？」 店の奥からほのかに甘やかな香りを漂わせて現れた声の主はレイラ・マーブル、このバルで働くツーリストの少女だ。店の制服と思しき七分袖のカットソーに生成りの前掛け、その上に肩からふしぎな色合いのストールを羽織るという少し変わった出で立ちをしている。 あなたの姿を捉える銀の瞳がやわらかく細められる。どうやら歓迎されているようだ。「チラシをご覧になられた方ですか？ どうぞごゆっくりご覧になってください、今なら全部お値引きさせていただきますよ」 見れば、ランチやカフェの日替わりメニューを掲示している黒板に重ねて『閉店セールにつき全品30～50%OFF』と書かれたチラシが張られているではないか。事情を問えば、レイラは申し訳なさそうに眉を下げる。「わたし、もうすぐブルーインブルーに帰属するんです」 その為店を辞める旨をオーナーに伝えたところ、オーナーも不在がちで不定期にしか店を開けていなかったこともあり、それならいっそ閉めてしまおうということになったらしい。「食器の在庫は少しずつ減っていくと思いますけど、メニューは変わらずお出ししますね。わたしが作ってる機織物も遠慮無くおっしゃってください」 ブルーインブルーの製法で機織の手習いをしているというレイラが、奥の食器棚に飾られた布製のコースターやランチマットを指して控えめに笑う。「いつまで居られるかまだ分かりませんけれど、今日はどうかゆっくりしていってくださいね」 ごゆっくり、と一礼し、レイラはメニューを出してカウンターに引っ込んだ。 お茶を楽しむのもいいし、食器棚の品物をあれこれ冷やかすのも楽しそうだ。時間が止まったようなこの場所で、穏やかなひとときをどうぞ。
お茶会。それは博物館のメンバーが皆で集まり、お茶とお菓子と、それ以外の何かを共有する、とても大事なイベントごと。もうすぐ開かれる次のお茶会、その一切を任されたノラ・グースは、買い出しリストを片手に背筋をぴんと伸ばして目的の品物たちを探し歩く。 「お茶会なのです、お買い物ーなのです！」 おいしいお菓子に香り高いお茶は当たり前、どうせなら器も新しくして皆をあっと言わせたい。きっと今度のお茶会は、色んな意味で忘れられないものになるのだから。そう思いながらあちこちの店をきょろきょろと覗くノラが目を留めたのは、『閉店セールにつき全品30～50%OFF』と書かれた白いチラシ。気に入ったものがあるかどうかが一番の問題だけれど、それでもたくさん買うのなら高いより安いほうがいい。 「賢いノラは節約上手なのです、このお店に入ってみるのですー」 濃い緑色のオーニングが作る影に、一歩足を踏み入れる。ノラの鼻をくすぐったのは、焼きたてのお菓子の匂いと、甘い花の香。店番のレイラがノラの姿を見つけ、にこやかに応対した。 「いらっしゃいませ、恋する食器棚のお店へようこそ」 「こんにちはなのですー、ノラは素敵なティーカップを買いにきたのですー」 「はい、こんにちは。おいくつご入用でしょうか？」 「ひー、ふー、みー……」 集まるメンバーの顔を一人一人思い浮かべ、ノラは指折り数える。本当は両手の指で足りるはずなのだけれど、一人だけ例外が。 「全部で二十個くらい要るのです。幽霊はたまーにいーっぱい増えるのです、増えたぶんも用意しないとかわいそうなのですー」 「あら、大変。じゃあお菓子もたくさん用意しないといけませんね」 「そうなのですー、ノラのお茶会はぱーふぇくとでなくては、なのです」 お茶会を開くために素敵なカップを探しているのだとノラが告げれば、レイラは奥の食器棚から趣きのあるカップを次々と取り出してくる。ミルクティーならたっぷり入るこっち、ストレートティーを楽しむならやっぱり壱番世界英国製のこれでなくちゃ、ガラスのカップも洒落ているかも……一緒になってカップ選びに余念が無いノラだが、時折ふと手は止まり、瞳はどこか遠くを見る。どうかしたのかと聞くのも野暮な気がして、レイラは少し考えながら言葉を選ぶ。 「ノラさんは、お茶会が楽しみなんですね」 「もちろん、楽しみなのですー。お茶会は、一回一回がめもりあるーなのです」 「あら、それじゃうんと楽しまなくちゃ」 いつもお茶会を楽しんでいた博物館のメンバー。ターミナルに集まった面々なのだから、皆それぞれに目指す世界や行く先がある。 「博物館は来る者拒まず、去る者追わずが暗黙のルールなのです。でも……」 あのメンバー全員で集まってお茶会をするのは、次が最後かもしれないと思っていた。でも、帰属した先が分かっているのならまた会いに行ける。 「そしたら、また皆さんでお茶会出来るのです、いっぱいお話出来るのです」 「でも、しばらくは寂しくなりますね」 「ノラはちっとも寂しくはないのですー、ほんとです」 ノラはえっへんと胸を張り、白い磁器のカップを手にとって、紙箱の埃をふっと吹き飛ばす。 「同じ時間を過ごすことが楽しい、遊園地で見つけたまほーの言葉なのです」 寂しいとは言わない。また会えるから。また会おうと思えるから。 「ノラはやっぱりわがままなのですが、皆さんと一緒が楽しいのです。皆さんが帰っても、また皆さんで同じ時間を過ごしたいのです」 ノラは知っている。自分はきっと、最後までこの街で、博物館で、皆を見送る側にいることを。 「いつかはリーダーも、どこかの世界に帰っちゃうかもしれないのです。でもノラのおうちはターミナルの博物館なのです」 博物館は来る者拒まず、去る者追わず。皆、分かっているから口にしない。 「ノラは、いい子なのです。去る者追わずなのです」 「本当に、寂しくないですか？」 「寂しくなんかないのです。ノラはいい子ですー」 皆、博物館が家ではない。帰るべき場所、帰りたい場所が、別にある。それを引き止めてしまうのは、悪い子のすること。ノラは、いい子でいたい。いたいけど。 「ノラはいい子だから、皆さんに会えるうちはいっぱい、いーっぱい会いに行くのです。でも、もし……本当にお別れしなきゃいけなくなった時は」 ぽっ、と、ノラの手に淡い紫色の火が灯る。それは操るべき対象のいないこの場では意味を成さないし、たとえばどんなに、どんなに寂しさが募ったとしても、『皆さん』をこれで、ずっと会える何かにしてしまうのは、うんと悪い子のすること。ノラはよく知っている。 「その時だけは、ノラは、泣いてもいいですか？ 少しだけ悪い子になっても、ノラは怒られませんか？」 答えは、すぐに返ってこない。その代わり、伏せた瞳の先に、湯気がひと筋。ことんと置かれた小さなカップから、ほんのりみかんの香りが漂う。 「ノラさんは、とってもいい子ですね」 「ほんとなのです？」 目を細めて頷いたレイラの指先が、目の前のあたたかいカップを取るように促す。ノラが熱さを確かめるようにそろりそろりと指先と鼻を近づけてみると、薄くスライスしたみかんの輪切りが蓋になって、その下には熱い紅茶が淹れられているようだった。 「おみかん、いい匂いーなのです……あっ」 「可愛いでしょう？」 口をつけるためにそっとみかんの輪切りを持ち上げると、満ちた紅茶がカップに猫のシルエットを描いている。みかんの果汁でほんのり薄まった紅茶の色は、さながらノラの毛色のようだ。 「お茶会が終わったら、このカップをプレゼントするのも素敵かなぁって思ったの。そうしたら、後で会いに行っても同じカップでお茶会が出来るでしょう？」 「さすがなのですー、素敵なアイデアなのですー」 会えない時間も、同じカップで共有出来るものがきっと、ある。 「ノラさんは、会いに行く側なんですよね。わたしは……博物館の人たちじゃないけど、ここの人たちには会いに来てもらう側だから」 「？」 「嘘でもいいから、あなたのいないターミナルは寂しいよって言ってくれたら、わたしきっと嬉しいと思うの。博物館の人たちはどうかしら」 寂しい気持ち、それは、そこに確かに居た証。 「博物館の皆さんは大人なのですー、もちろんノラもりっぱな大人なのです。大人は寂しいなんていわないのです」 「……ノラさんは、いい子ですね」 ノラはみかんの紅茶が淹れられたのと同じ、空っぽのカップをひとつ手に取る。ただ、ちょっと変わったいびつなでこぼこがカップの内側にあるようにしか見えないが、中身を入れればさっきのように、猫がしゃんと座る姿が浮かび上がるのは、ノラには何とも不思議な気がした。 からっぽのときは、わからない。何かが納まって、誰かが寄り添って、初めてわかる、まるで心のかたちのよう。 「そうです、ノラはいい子なのですー」 からっぽを満たそう、熱い紅茶とたくさんの大好きで。住む場所が離れても、それはきっとなくならないし、冷めたりしない。お茶会を開こうと思える限り。
このライターへメールを送る
