殺(や)らなければ殺られる。 だが焦りも恐怖もない。ただ自分の奥底から沸いてくるたとえようのない高揚感と、どうしようもない衝動に身を任せた。 目の前を覆う白い闇の中から伸ばされる黒く悪意に満ちた腕、そこから放たれる一撃をかわして自らも得物を振るう。 霧を裂くように。自分を襲う人の形をした影を両断するように。 空を切った。 ――仲間はどうしている? ――彼らは無事か? ――彼らは今どこにいる? 自分の意識が殺意と悪意に塗りつぶされそうになるのを感じながら抗うように何度も心の中で繰り返した。忘れてはいけない言葉のように。忘れてはならない言葉のように。 それが己を己に保ち冷静さを取り戻させるためのまじないだったのか。 影と対峙しながら、ふと、過ぎる疑念。この影に実体はなく、あるのは疑心暗鬼に囚われた自分の作り出す、ただの幻覚なのではないのかという……期待。 そんな心の間隙を影が見逃すべくもなく。 ――殺られる! 刹那、体の中に染み着いた、或いは刷り込まれた戦闘本能が自らの体をかしていた。 白い闇と黒い影、モノクロの世界を鮮やかな赤色が花吹雪のように舞った。 初めての手応え。 だが。 得物を投げ捨て頽れる影に手を伸ばす。 腕の中におさまる“影”に息を呑みぼやけた輪郭が明確な形をもって確信に変わった時、声が溢れた。 どうしようもない慟哭となって。「うああああああああああああああああああああああ!!!」 ■ ブルーインブルーのデルタ海域内にある濃霧の島。そこで怪異現象が起こったという。霧の中から謎の影が現れ、そこに訪れた者たちを次々に襲うというのだ。海賊か、海魔か、はたまた別の何かか。 コタロ・ムラタナは、それらの調査のため、歪、ベヘル・ボッラ、百田十三、古城蒔也と共に件の島を訪れた。 湿った空気が体に纏わりつきなんとも居心地の悪い島だ。元々霧の多い海域で視界は霞がかっていたが、それにも増してそこに横たわるのは薄気味深い霧である。 蒔也が、もう壊しちゃおうぜ、などととんでもないことを言い出すほどだった。 それは何の解決にもならない、と歪が冷静に釘を差す。霧に潜む人影が海魔などではなく意思の疎通の取れる相手であり、かつ海賊の類でもないなら、破壊などという一方的な殺戮は望むところではない。 冗談じゃん、と肩を竦める蒔也だったが本当に冗談だったのかどうか、その口ほどによく語るという目を見ても察することは出来なかったが。ただ、価値あるものほど破壊の快感が高い以上は、その価値を調査する前に破壊してしまっては大損かもしれない、くらいの事は考えているのかもしれないが。 先行きが不安になったのか俯くコタロの肩を十三がポンポンと元気づけるように叩いた。それで元気が出たような気もしてコタロが顔をあげたところにベヘルが、不可抗力って言葉もあるしね、と言った。それはまたどう解釈したものか。 それでもまだ、この時点では互いにそんなことを言い合えるだけの余裕があった。 だが、不用意などでは決してなかったが、濃霧に足を踏み入れた瞬間、何かが変わった。 呼吸をする毎に五感は曖昧となり。 足を進める毎に世界は模糊として。 調査のために訪れ、調査もままならないまま、気づけば数日が経っていた。いや、彼らにその数日という感覚があったかどうか。それは数時間であり数秒であり数ヶ月であり数分であった。 濃霧という白い闇が彼らをその意識ごと覆い尽くそうとしていた。 目を開けていても閉じてさえも視えるのは、その瞳に、心に、映るのは一様に乳白色の闇に浮かぶ黒い人影。 3歩先も見えぬ濃い霧に霞む影が何者であるかもわからないまま、剥き出しの殺意に殺意を返し、向けられる殺気に殺気で応える。 共に訪れた仲間さえも見失って――殺らなければ殺られる。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者> コタロ・ムラタナ(cxvf2951) 古城 蒔也(crhn3859) 歪(ceuc9913) ベヘル・ボッラ(cfsr2890) 百田 十三(cnxf4836)=========
本能は感情に流され、感情は理性に制される。理性を失えば感情は暴走し、感情の波が弱まれば本能が姿を現す。 ▼▼▼ 白い世界に身を投じてから仲間を見失うのに多くの時間は必要としなかった。否、むしろ蒔也は自ずからはぐれた節さえある。殺られる前に殺れ。誰か――或いは自分自身か――が命じていた。なんの冗談かと思った。それを言うなら『壊されてもいいから壊したい』だろ。 溢れ出すのは愛情という名の殺意で、ただ『愛して』あげたいという純粋な破壊衝動。感悦するままに。ここは自分に合っていた。言いしれぬ開放感に満たされる。 手を入れたポケットの中で、かさりと指先に触れるものがあった。この霧の中に突入する前、十三から渡された護法符とやらだ。何やら説明をしていたがよく聞いていなかった。ただ蒔也はそれを手の中でくしゃりと丸めて足元に捨てた。 さあ、始めようか。 この島に風はない。風があったなら霧は晴れているだろう。いや、それとも重たい霧が風の流れを遮っているのか。おかげで準備に少し手間取った。だが、それがどれほどの時間であったのか、もはや時の感覚の失われたこの白い世界の中では知りようもなく、興味すら湧かなかった。 ただ待ち焦がれた衝動は空腹が最高のスパイスとなるように、身体中を震わす悦楽を呼び覚ます 島のあちこちで無作為に無差別に起こる爆発という名のファンファーレ。それは戦場で兵どもを殺戮へと掻き立てる陣太鼓のように鳴り響いた。It's party time! ▼ 蒔也のあげた鬨の声にベヘルはおもむろに顔を空へ向けた。彼女が四方八方に飛ばしたトラベルギアが何の前触れもなく唐突にそこここでその音を拾ったからだ。 1つ、2つ、3つ…。 ベヘルは反射的に動き出していた。我ながら勘のようなものだけが行動の規範になっていることも、それに疑問を持ちながら抗う気持ちが沸いてこないことも不思議だったが、ただ己の命じるままに駆けだす。爆発音のしなかった場所へ。何の根拠もなかったが、この爆発を起こしている人間が同一人物だとしたら、その人間のいる場所では爆発は起こらないのでは、と思った。麻薬中毒者は思考が低下する一方で麻薬を得る為だけにはどこまでもずる賢く頭が働くという。まるでそうであるかのように判断力は大ざっぱで適当なのに、殺意を向ける相手を求めているのかその部分だけは妙にはっきりと確信していた。 それはまた、別の場所にいた歪も同じだったか、2人は期せずして蒔也の爆発に同じ場所を目指し始めたのだった。 一方。 爆発の音を聞いただけの者あれば、爆発に巻き込まれた者もあった。 ふわっと全身の毛が逆立つような気配に身を固くした瞬間、世界が爆ぜ、コタロは反射的にクロスブロックで顔を覆うようにしながら爆風に飛ばされていた。1度だけ自動発動し何からも対象者を守る十三の護法符が庇っていなければ完全に直撃を食らっていた。コタロ本人は護法符に助けられた自覚はなかったが。木に背中をしたたかぶつけながらもかろうじて踏みとどまる。痛みを堪えるように強く目を瞑ったのは一瞬で、即座に態勢を整え開かれた目は、自分に爆撃を仕掛けた者に対する怒りと殺意に彩られていた。相手が誰であるのかわからないが、何れこの白い世界に宿る影であろう。殺す。 彼はただ勘だけで走り出した。 そして最初に見つけた影にその拳を叩き込もうとした。 落ち着いて見れば、それは人影ではなかったと気づいたかもしれない。それほど彼は正常な判断力を失っていた。だからその影――ベヘルのスピーカー――から発される彼女の声も全く耳に入らなかったのである。 浮遊するスピーカーは隙をついてコタロの視界から外れ、再び呼びかけた。しかし相手の応答がないこと、スピーカー――いや影を求めてコタロが殺気を漲らせていることから、ベヘルはそれを仲間ではなく、霧の中に隠れた人影と判断した。 ベヘルは人影には近寄らず、音によって影の位置を正確に捉えながら、その人影に向けて音波をぶつける。音は蝸牛を強打し対象から平衡感覚を奪った。 人影の動きが鈍くなる。だが、濃い霧によって既に方向感覚を奪われていた人影は、経験と研ぎ澄まされた野生と反射だけでベヘルに向かって突撃しようとしてきた。 どうして自分の居場所がわかったのか、ベヘルは向けられる殺気に加減も出来ず、咄嗟可聴域を越えた大量の衝撃波を影に向けてぶつけていた。 影は襲い来る何かを感じたのか咄嗟に得物を構えていた。だがそれは空へ向けられている。 影が音の波に浚われ遠くへ飛ばされていくのを感じながらベヘルはホッと息を吐いた。 捉えるべきだったのか。正体を暴くべきだったのか。 不可抗力というやつだ。霧の中に潜む影が一体だけなら、今ので取り敢えず驚異は去ったことになる。 「ま、いっか」 仲間と合流して霧の謎を追おう。 そう思って一歩踏み出した時。 十三の護法符が突然飛び出し彼女の頭上を覆った。 「!?」 空から降ってきた一本のボウガンの矢を抱き抱えるようにして護法符が足下に落ちる。影の得物が空を向いていたのは、矢が迫り来る衝撃波の影響を受けないようにするためだったのか。やはりあの影は自分の位置を正確に把握していた。そんなことが出来るのはやはりこの霧の中に棲む影か。よもやあの影が仲間である可能性など考えなかった。ただ十三の護法符に「助かったな…」と呟いた。 そうして人心地吐いた時。 笛の音がした。1つ鳴ったかと思えば、そこここで笛が鳴り始めた。爆発音の次は笛の音か。 霧に潜む影が互いの位置を確認し合っているのだろうか。それとも情報交換しているのだろうか。何れにしても霧に潜む人影は先ほど弾き飛ばした一体だけではなかったということだ。 仲間とは相変わらず合流できないまま、周囲を見通せない状況に苛立ちは募る一方だったが、まだ、考える余力はあるらしい。ベヘルは笛の音をコピーすると、あちこちに飛ばしたスピーカーからその音を散布してみた。 これで影は混乱するに違いない。うまくすれば自分の意図する場所におびき寄せる事も出来るかもしれない。 音を鳴らすと間髪入れず爆発音が続くのも多少気になったが、ベヘルは、かくて最初の笛が鳴った方へと歩き出したのだった。 ▼ 一方、十三は蒔也の爆発が起こっても微動もせずただ一ヶ所に息を顰め時を数えていた。爆発は夏の夜に揺らぐ篝火、惑い近寄れば羽虫と等しく燃え散るだろう、囮に踊らされる義理もない。仲間の心配はあれど何れ強者、何かあれば上陸直後に放った飛鼠らが情報を携え戻ってくるはずである。故に彼はまるで蝶を待つ蜘蛛のような静けさでそこにあり続けた。 程なくして笛のような音が聞こえた。 それが連鎖反応のようにあちこちで鳴り響いても彼は動かなかった。ただ、その一つが意外と近くにあることを感じながら。 気配を察知する。距離はまだ少しあるか。 人影が半径1m以内に踏み込む瞬間を息を殺して待つ。霧も揺るがさず自身の気配は全て消して。しかし敵も強者であったか。 動きを封じる点穴を狙う。全くの無警戒で動いていたわけではないのだろうその影に紙一重でかわされた。先に召還していた式の幻虎が、間髪入れず影を追撃する。 影が後ろに退くと見て十三は幻虎と挟み撃ちにするつもりで走った。 だが、影は予想に反して頭上へ飛んだ。 その巨大な翼を広げたような姿に十三は目を見開く。山伏風のそのシルエットはまるで…。 「魑魅の類――カラス天狗かっ!?」 つまり、この霧と人を襲う人影の正体は、ディアスポラ現象によってブルーインブルーに転移してきたロストナンバーの所業ということか。 ならば話は早い。 「昔、同じ業を使う魍魎とやりあったことがある」 十三は好戦的に口の端をあげ印を結んだ。いつの間にか、ただ止めるだけのつもりが戦闘に呑まれていた。 魑魅――カラス天狗は山の怪。五行にして木。 樹上に立つ天狗が両手を広げる。雷鳴と共に光が走り天狗を覆った。雷を纏ったか。 「炎王招来急急如律令、天狗を焼き尽くせ!」 その言葉は殺意に染まっていた。殺したいという明確な衝動があったわけではない。相手を止め、そして捕まえる。ただそれだけのその筈であったのに。 一度戦いに身を投じれば理性が焦げ付くのは瞬く間で、知らぬ間に撒かれた殺意という種が芽吹き己れを支配するのも、また一瞬であったのだ。 ▼ 歪はふと足を止めた。そして再び歩き出す。一定の距離を保ちながら付いてくる葉擦れの音。世界には二つの音がある。自分に危害を加える音と、自分に危害を加えない音。たとえば風の音は自分に危害を加えるか。 刹那、足下で小さな爆発が起こった。 自分を尾行する「影」が動いたのだ。足を止め再び歩き出したことでこちらが尾行に気づいていることを悟ったのだろう、向こうから仕掛けてきた。 足を止めはしたが歪は振り返ることはせず2歩後ろへ下がった。小さな爆発を起こした空間を更に大きな爆発が包む。もし、振り返って後退りでもしていたらと未だ冷静な自分に息を吐いて歪は大剣を抜いた。 彼の周囲で起こる小爆発。影はそんな大剣でこの爆発をどう防ぐのかと楽しむように敢えて彼を避けているようだった。 或いはその場所へ誘導しているのかもしれない。 歪はふっと息を吐く。彼の握る大剣が霧に溶けた…ように見えて「影」は眉を顰めたかもしれない。或いは、面白いと目を細めたかもしれない。 「影」が何かを構えた。それが蒔也のサブマシンガンであったと歪が気づいたのは事が終わり人心地吐いた後のことである。とにもかくにも、ありったけの銃弾が叩き込まれた。だが歪はしばらくそこに佇んでいた。彼の周りに滞空している無数の刃が銃弾を切り裂き地に落とす。 結果的に生まれた弾幕に隠れるようにして歪はその場所を移した。これに乗じて影を討つか。地面を蹴ったとき突然、十三の護法符が飛び出し彼を庇った。 弾幕に隠れていたのは何も歪だけではなかったのだ。影の――蒔也の投下した小石から歪を守るようにして護法符が爆発した。その爆風に飛ばされながら、衝撃と痛みに歪は我を取り戻した。 この島には海魔も海賊も居なかった筈だ。攻撃を加えるべき相手はいない。自分から攻勢を仕掛ける理由もない。自分に言い聞かせる。 この島に訪れた時からそう言い聞かせていたはずなのに。 この霧のせいだろうか。 歪は、素早く蒔也から遠ざかった。 土を踏む音が爆発のあった場所を動いている。自分を仕留めたか確認しているのだろう。歪は息を殺して全神経を耳に集中しその音を追っていた。 護法符を歪と勘違いしてくれたのか、音が遠ざかっていくのを感じて漸く息を吐く。 感情を切り捨ててでも戦闘は避けると決めた。 ▼ 爆風に飛ばされ、よくわからない圧力に弾かれ、コタロは受け身をとるように地面に転がった。意味がわからなかった。しかしその意味を知ろうという気持ちにもならなかった。考えようとは思わなかった。状況を精査出来るほど心的余裕もなく、ただ己が殺せという要求を満たすためだけに動く野蛮な獣のようであった。 笛の音に誘われるまま。 一つの人影を見つけた。歓喜が包み込む。沸き上がる殺意に身を委ね得物を構えた。 濃い霧の中にあって影を認識出来る距離はどれほどのものだろう。トラベルギアのボウガンを放ちながら地面を蹴る。ギアは接敵向けの武器ではない。だが、コタロは一息に間合いを詰めた。 放たれた矢が影の左腕を縫い取る。いや、縫ったのは左腕の袖だけか。反射的に右へ避けることを見越して放っておいた矢が影を掠める。影が左の踵を返したからだ。 「っ!?」 影のあった場所をコタロの右ストレートが走る。空を切った拳にやや前のめりになりながらコタロは体勢を戻して左足を大きく前へ出した。蹴りも届かなかったのは影が応戦する素振りすらなく快走に転じていたからである。 追いかける。霧の中の疾走。距離が縮まらない。 ギアを影に向けて構えた。 刹那。 霧が突然更にその濃さを増したのか、雲の中に飛び込んだような、綿のクッションに埋もれたような感覚と共にコタロは影を見失った。人影どころか木々の影すら見えないほど濃密な煙に視界を奪われる。 闇雲に暴れたおかげか、それとも近くで起こった爆発の爆風が煙を吹き飛ばしてくれたおかげか、漸く外へ出た。 そこに人影を見つけた。 「今度こそ…」 ――殺す。 ▼ 最初に笛の音がした場所から距離にして100m以上離れていたが、その場所を蒔也は何の躊躇いもなく爆破した。 濃い霧に遮られ、見ることは叶わなかったが手応えはあった。 蒔也は今にもスキップを踏みだしたい気分でゆっくりとそちらへ歩き出した。 もし真相を知ったら彼はまことに不本意極まりなかったかもしれないが、彼が爆破したのは彼が捨てた十三の護法符だった。それを、蒔也らを探しにきた後続のロストナンバーの1人が偶然拾って持っていたのである。因果なことであったが、彼には知りようのないことでもあった。余談はさておき。 ちゃんと愛せたか、蒔也が確認しようと歩を進めていると、それを遮るように別の影が現れた。邪魔が入った、とは思わなかった。愛すべき対象が増えたと思った。 蒔也は足下の小石を蹴り上げる。それを掴もうと手を伸ばして掴みそこねた。目測を誤ったわけではない。まるで何か見えない手が小石を浚ったようなそんな感覚だ。 反射的に蒔也は地面を蹴っていた。 自分のいた場所の雑草や枝葉が切り裂かれたように舞い落ちるのをスローモーションのように見つめながら蒔也は近くの大木の影に身を潜めた。手のひらが震えていた。それは水面に投げた小石が作る波紋のように瞬く間に全身に広がっていく。恐怖からではない。なんて愛し甲斐のある影を見つけてしまったんだろう。 身を震わすほどの喜悦に酔っていた。 だから、耳元で囁きかける声に気づかなかった。いや、元より彼はそんな声に気づけるはずもない。彼の耳には大音量のクラシックが流れているのだから。 「どうやって、愛してあげよう…」 彼の心は既に目の前の影にしか向いていなかった。 一向にこちらの呼びかけに応じなかった影の呟きにベヘルは一瞬首を傾げて、しばし記憶を辿った。どこかで聞いたことのある音だ、と。 彼が自分を無視し続けた理由に思い至る。彼はずっとヘッドホンを付けていたのだ。 「聞こえてなかったのか」 しかし目の前の影が仲間の内の一人――蒔也であると知れたことは大いなる収穫であった。 蒔也とどうやら敵対しているらしい影の方は、こちらの声に応答しない。いや「うるさい」と吐き捨てられた声に聞き覚えはなかったから、仲間ではない=敵ということだろう。ベヘルは何の疑いもなくそう思った。 だから何の躊躇いもなく仕掛けた。 たとえば、影の放つ真空刃と彼女の放つ音波はどちらが速かったのだろう。 同じ時――。 結果的に自分の意図しない理由で蒔也が仕損じた影は、自分を助けにきた影と蒔也とベヘルの戦闘を見守るような形でそこに佇んでいた。 その影を見つけたのが、煙の中から漸く抜け出したコタロだった。 コタロは同じ轍を踏むまいとしてか影との間合いをかなりの至近まで詰めてからボウガンの矢を射放った。 矢が影の左腕を掠める。 影が声をあげながら応戦。大量の水が激流となってコタロを襲う。コタロは大振りの木の枝に捕まると大車輪さながら一転して樹上へあがった。 「今度こそ…」 ボウガンを放つ。 蒔也の小爆発を真空壁で防ぎながら、攻勢の機会を伺っていた影が仲間の危機に気づいて駆けだした。 「撫子っ!?」 知った名だった。けれど我を忘れたコタロにその声は届かなかった。 矢が空に向けて放たれていた。 それは空に弧を描き水を避けるようにタイムラグを作って撫子と呼ばれた影を襲うだろう。 撫子は矢に気づいた風もなく大量の水を吐き出していたホースから手を離して、ただ樹上の影を見上げていた。 「コタロ…さん?」 音にならないような声、或いは口の動き。それはコタロのところまで届きようもなく。 ただ。 霧が水によって一瞬、払われたようだった。世界も思考もクリアに。気づいたら動き出していた。その感情を何と呼ぶのかはわからない。ただ。 「!?」 コタロの背を自ら放ったボウガンの矢が貫いていた。 駆け出そうとした影を小爆発で止める。自分を無視されて不満顔で蒔也はその行く手を阻んだ。 影が今までにない殺気を放つ。 「まだ、わからないのか!!」 苛立ちと怒りと焦燥が殺意の端々に滲んでいたが蒔也はそれを意に介さなかった。 蒔也に向けて駆け出した影の足は止まる。おや、と蒔也は眉を顰めた。自分はまだ何もしていない。 影が腹を押さえ膝をつく。 口から血が溢れ出した。 真空刃と音波。そのスピードを比べたところで無意味だった。音が伝わるのは何も空気だけではない。地を這い骨伝導によって体内に伝播するのだ。 ベヘルの超音波が、怒りに無防備となった影の内蔵を破壊していた。 「良かった…」 そう呟いて、そう笑いかけてコタロは浅い息を吐きながら撫子と呼ばれた影に向かってくずおれた。 撫子がコタロの体を支えるようにして右肩を下に地面に横たえる。ボウガンの矢が刺さっていたのは左脇の腰の辺りだ。肩にかけていたバックパックから救急箱を取り出して、彼女はコタロに応急処置を施した。 安堵がコタロを包み込んだ。友人を殺さずに済んだとのだとホッとした。安心は感情の波を小さくした。退いていく血の気に意識は薄らぎ思考は停滞を始める。まさかそんな風になると誰が予測しただろう、やがて無意識は生存本能と防衛本能で満たされていく。 走馬燈のように流れる記憶。それはこの地に訪れた者たちが遺した記憶か、それとも今、自分が起こそうとしている悲劇か。殺らなければ殺られる。ただ死にたくないと抗った結果が友を自らの手にかけるのか。 再び霧が彼の脳裏にたちこめた。 目の前の人間を判別出来なくなり、その影を殺意の対象と認識し、生きるために殺せと何かが命じ始める。 まるで手は勝手に動き、影の首を締め上げた。 「コタロ、やめろ!! それは撫子だ!!」 安堵し感情が弱まったコタロは本能に流され、ただコタロを援けたいと願った撫子は感情に流され、対照的な2人のどちらの意識が途絶えるのが先だったのか。 影の絶叫に。 「コタロ…?」 ベヘルが一瞬その名に思考を停止する。そこに。 「ふっ…ふっはっはっはっ…はっはっはっはっはっはっ!!」 壊れていく愛すべき者たちへの蒔也の歓喜の声が重なった。 ▼ 戦闘を避け己を保つようにして歪は霧の発生源、或いはその手がかりを探すことにした。 この霧が自然のものでないなら、古代文明の遺物と考えるのが妥当なように思われる。かつてジャコビニが持っていたような機械がこの島にもあるかもしれない。 この島で何が起きたのか判るような人間、或いは場所があればこの霧の謎も自ずと明らかになるに違いない。 だから歪は、自分の中に沸き上がる殺意を自覚しながら殺気を帯びぬように細心の注意を払って目の前の影に声をかけた。その相手が現地人であれば、と思いながら。 「俺は敵じゃない」 籠もる殺意は消えぬまでも、その影は歪の声に応じてくれた。 「その声、もしかして歪か」と。 聞き知った声に驚く。まさかこんな場所で聞けるとは思っていなかった声だ。だが、その声は確かに自分の名を呼んだ。確信と共に猜疑は安堵にかわる。 「清闇か…どうしてここに?」 この島の探索に訪れたロストナンバーは5人だった。その中に彼はいない。 「お前らが消息を絶ったと聞いてな。無事でよかった」 「消息を…?」 そこで初めて歪は自分に時間感覚がなくなっていることに気づいた。この島に訪れたのはつい先ほどのようにも、随分昔のことのようにも感じている。それからハッとしたように。 「どうやらこの霧は…」 「ああ、大体わかっている。とはいえ、実は俺たちも仲間とはぐれてしまっていてな、2人しかいないんだ」 友人の向こうにもう1つ人の気配を感じていた。知らぬ者だが友人の仲間ならば同じロストナンバーであろう。それよりも気がかりがある。 「清闇?」 友人の微かな異変に歪はまるで詰問するような強い口調でその名を呼んだ。 「ん? ああ、大丈夫だ」 友人の安心させるような声音。だが、それ故に違和感は増し歪は怖い顔を清闇に向ける。 「俺がお前たちの護衛をしよう」 有無も言わせぬ態で。 「……」 困った風な友人の反応を感じ取ったが、歪はそれが最良であると確信していた。今、友人の清闇はその力の半分以上を失っている。その理由を問えばこの友人は教えてくれるだろうか。 だが歪は敢えて聞こうとはせず別のことを聞いた。 「ところで、彼は何をしているんだ?」 清闇の向こうでその影がうずくまっているのを感じていた。最初は怪我でもしているのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。 「ああ、死体を調べているらしい」 「死体?」 清闇はかいつまんで説明してみせた。 この島にはよく目を凝らしてみるといくつもの死体が転がっているらしい。白骨化したものから、最近のものまで。 ここへ訪れる時、話として聞いていた。霧の中に謎の人影があって訪れた者を襲う、と。つまり、この島には自分たちが訪れる以前にも訪れた者があるということだ。その者たちは一体どうしたのだろう。 自分たち同様消息を絶ったとして、それほど広くない島である。 島に潜む影に殺された、か。 ――何故。 「そう、その何故、を調べている」 清闇が言った。 「ヌマブチ曰く、ここの死体はおかしいんだって」 「?」 「人が人を殺す理由を考えると、たとえば、生きる為だとして、そうしたら食料調達もままならないような霧の深い小さな島だから、ただ殺すのではなく、そういうものを奪っていくのが自然だと思わないか?」 目の見えぬ歪には気づけなかったが、確かに言われてみればそのように感じる。 「だが死体の水も食料もそのままなんだ」 「……」 「されば影の目的とはなんでありましょう?」 ヌマブチと呼ばれた影がゆっくりと立ち上がった。 「なんなんだ?」 清闇が問う。快楽殺人者か。いや、違う。一度人影に襲われた者ならば気づけるのではないか。よくよく考えてみればこの島に上陸して歪は一度も、霧の中に潜むという影に襲われてはいない。歪が遭遇した影は1つしかなかったが、ただ自分を襲った影は霧の中に潜む影ではなく、共にこの島に訪れた蒔也だったのだ。 「ただ、殺意にまみれ殺すだけの鬼…」 ヌマブチの言葉の後を歪は繋いだ。 「疑心暗鬼、という名の鬼か」 この霧には幻覚作用があるのだろう人の中枢に入り込み麻薬のように浸食し、歓喜と恐怖と普段は理性で留めている禁忌を煽っているのだ。 ならば対処法は簡単だ。 自らを律し心を強く、強く保てばいい。聞こうとすれば聞こえるはずだ。見ようとすれば見えるはずだ。解ろうとすれば解るはずだ。 だが疲労や痛みは心を弱くする。空腹や睡眠不足は心を脆くする。弱くなった心は快楽で上書きするか、不安に呑まれて暴れ出すか。何れにせよ人は楽になりたがるものだ。このまま長引けば、同士討ちで全滅するしか道はないだろう。この島に散らばる屍こそがその証であった。自我が保てる内に、余力の残る内に、仲間と合流し霧を発生させている何かを破壊しなくては。 「発生源らしい場所は感じているんだが…」 という清闇の言葉に歪とヌマブチがその場所へ急行する。しかしエネルギーの滞留するその場所は少し違っていた。 雷光を纏った影の滑翔、火炎を纏った巨大な影がそれを迎え撃つ。 巨体であるが故の大振りを電光石火でかわしながら、雷光を纏った影はもう一つの影へと間合いを詰めた。 歪のトラベルギア――刃鐘の高音が両者の鼓膜を叩く。 三半規管を揺さぶられたか、一瞬動きの乱れた2つの影の間に歪は体を滑り込ませた。 「両者退け!!」 ヌマブチの大音声。それ以前に雷光の影は膝をついていた。金属音に弱かったらしい。 「歪?」 十三が半ば呆然と歪を見返した。我に返ったように。 「どういうことだ?」 十三の問いに答えたのは歪ではなく、ヌマブチの傍らにあった影――清闇だった。 「玖郎は仲間だ」 十三はそちらへと視線を移す。 玖郎、カラス天狗に似た影のことか。 「……」 思考が薄らぐたび激痛のつぼを衝き我に返る手段としていた。だが戦闘が始まった瞬間、そうすることを忘れてしまっていた。そうすることも考えられないほど思考が全て停止していたのか、といえばそれは少し違うだろう。何より、戦闘に関してはクリアだったからだ。そもそも容易に点穴を衝けるような歴然とした力量差のない相手に手加減など出来るわけがなかったのだ。そして霧に潜む影の正体を転移したロストナンバーと誤解した浅慮。その思考の浅さに気づけなかった時点で、思考が薄らいでいると気づけるべくもない。 「十三も」 自分をさして清闇が玖郎に向けて言った。 「すまない」 十三は素直に頭を下げた。 魑魅の類と誤解した。ロストナンバーではあったが、ディアスポラ現象によってどこかの世界から飛ばされてきた者ではなく、彼は自らの意思でパスポートを持ってここへ訪れた仲間の方であったのだ。 「いや、おれもおなじ」 玖郎もうなだれる。 「どうやら、ここは霧の発生源ではなかったようだな」 清闇が肩を竦めて言った。 「しかし、この様子では、他の者たちも…」 「ああ、その可能性は大いにある」 仲間と気づけずに戦闘を、いや殺し合いを。 「二手に分かれよう」 「だが、連絡手段が…」 「俺の火燕を連れて行け」 十三が言った。彼の偵察用の式がヌマブチの傍らをくるくると飛び回る。 「わかった」 「俺は清闇らを護衛し、このまま霧の発生源の捜索を進める」 歪が言った。 「ならば、俺たちは他の仲間を捜し、戦闘中ならやめさせよう」 「仲間たちの居場所に心当たりはあるのか?」 「それなら、おれがわかる…不思議なことだがさっきまでまったく耳にはいらなかった声がいまは聞こえるようになった」 鳥たちのざわめく声がと、玖郎は空を仰いだ。 「ならば、そちらは任せた」 かくて5人は二手に分かれたのだった。 ▼ 十三と玖郎が仲間たちの元へ駆けつけた時、戦闘は終わっていた。 倒れる影に慌てて駆け寄る。 「大丈夫か!?」 気を失っているらしい撫子に十三が気付けをするとけほけほと噎せながら撫子は意識を取り戻し、何かを探すようにきょろきょろと視線を巡らせた。 「コタロさんは!?」 「今、止血のツボを突いた。後は、本人次第か」 「私が…私が、手当をします」 コタロを撫子に任せて十三は少し離れた場所で倒れている人影に近づいた。傍らに立つ玖郎に様子を尋ねる。 「大丈夫そうだ」 玖郎の言葉通りに、倒れていた影――ティーロは上体を起こし玖郎の手を借りて立ち上がりながら十三に向かって尋ねた。 「撫子とコタロは…?」 自分のことよりも、そちらが気になるらしい。 「彼には止血を施した。気を失っていただけらしい彼女が今、応急処置をしている」 「そうか」 ティーロはゆっくり立ち上がるとのろのろと2人の方へ歩き出す。 十三は視線を申し訳なさそうに俯く彼女――ベヘルへと移した。 「不可抗力…?」 首を傾げてみせるベヘルに十三は何も言わなかった。自分とて、歪とヌマブチが割って入らなければ、殺さないまでもどこまで我を忘れたかわからない。 「ところで、もう一人…蒔也は?」 ベヘルはそれにゆっくりと視線を背後へ向けた。 彼女の無言が、彼は行ってしまったと伝えていた。 ▼ 獲物を求め、玩具を求め、徘徊する蒔也が歪らと出会うのは奇跡的な確率でも何でもなかったろう。 「先に行け…」 起こった爆発に歪が身構える。はっきりと影の正体はわかっていた。蒔也だ。相手は自分を認識しているのかどうか。 「だけど…」 清闇の逡巡。 「絶対、殺させはしない」 それは自分も含めて、誰も、だ。 「……」 清闇が後を歪に任せる。 爆発が歪を包み込んだ。 散った刃鐘がそれらを粉砕する。 手応えのなさに苛立ったのか蒔也自身が距離を詰めてきた。 否、清闇らを追うのか。 歪が反射的に駆け出した。 それを狙っていたのだろう、歪の足下でゼロ距離の爆発。 「っ!?」 見えぬが故に見えるものがあった。それが彼の生死を分かったが、完全に凌げたわけでもない。 蒔也の哄笑が続く爆発を予感させた。 ▼ 「撫子って、きみ?」 「え?」 「呼んでる」 ベヘルが言った。蒔也を追尾させていたスピーカーの一つに、ベヘルは蒔也と接触したヌマブチらを追尾させていたのだ。 「どういう…こと?」 「霧の発生源が見つかったらしい。きみの力が必要なんじゃないかな?」 「!?」 それで撫子は連れていたロボットフォームのセクタン――壱号を呼んだ。このメンバーで自分を呼ぶとしたら、そういうことだろう。 だがコタロが気となって戸惑うようにティーロを振り返った。 「でもぉ…」 「大丈夫だ。行って来い」 ティーロが笑って背中を押した。 「はい☆」 ティーロを信じて撫子は頷く。 「あれを追えばいい」 ベヘルがスピーカーで撫子を先導する。機械というなら彼女自身も多少扱うことが出来るがその場は撫子に譲ることにした。撫子が霧に消えるとベヘルはティーロを振り返って言った。 「強がり?」 彼の体が大丈夫とは思えなかったのだ。ちょっぴり手加減が出来なかったから。それにティーロはそっぽを向いて答えた。 「うるせぇー、治癒魔法はちょっと苦手なんだよ」 それでも自分の体よりコタロを治すのに注力していた。 撫子が姿を消してからどれほどの時間が流れたのか。 「来るぞ」 と、十三が言った。風が頬を撫でた。それが徐々に強さを増していく。 「うむ」 と玖郎が羽を広げた。 「加減が出来ぬゆえ、頼む」 「ああ」 飛翔する玖郎に「俺も手伝うよ」とティーロが前へ出る。 十三はコタロとベヘルを守るように結界を張った。 歪もその気配を感じていた。 蒔也は感じる気もないのか。 重く垂れ込めていた霧が彼らの生み出した強風によって吹き飛ばされた。 「霧が…晴れた…?」 その声を振り返る。 「コタロ! 気が付いたのか!!」 思わずティーロが歓喜の声をあげた。早く撫子に知らせてやらないと、とベヘルの肩を叩く。 島を覆っていた霧が晴れた。 青い空が見える。 だが霧に潜む疑心暗鬼が晴れてもなお蒔也は攻撃をやめない。 霧に意識を奪われていたのではなく、彼の意思、とでもいうのか。 「はい、おしまい」 圧倒的な力が子供から玩具をとりあえげるように蒔也を拾い上げた。 「!?」 「清闇…」 歪がその大きな影の気配を見上げる。何故だかなくなっていた彼の半分の気配を今はちゃんと感じ取ることが出来て安堵しながら。 さあ、帰ろう。 ■End■
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