インヤンガイで事件に巻き込まれてからターミナルに戻らず行方知れずになっていた御面屋がどこにいるのか発覚した。 封箱地区にある料理店や屋台などが賑やかな通りの奥の奥、小さな店を開けて彼は現地人のように暮らしながら、現在のインヤンガイの勢力情報を集めるという。 御面屋はある事件で大切な女性の死を食い止めることができず、目の前で死なれてしまった。その死亡事件についていくつかの不明点があることから、出来れば自分の手で解決したいと考えているのだろう。「復讐、でもするつもりなのかもしれん」 ロストナンバーたちに御面屋について報告した黒猫にゃんこ――黒は渋い顔をした。「どうやら御面屋は自分の持つ面の価値を使って、かなり危険なところから情報を引き出しているらしい」 御面屋の面は人の心に作用する。 それは五大マフィアの一つ美龍会の秘儀で、他組織からしてみれば喉から手が出るほどにほしいものだ。 しかし、美龍会とてそんな勝手をする御面屋を組織の威厳にかけて、御面屋を放置したままにするはずもない。「このままだと御面屋は……俺の予言の書では死ぬとは出ていない。ただし、あいつに災いが降りかかるとは出た。インヤンガイの情勢についても御面屋が持っている情報が気になる。出来れば協力的に……とはいかんだろうな。一人でこんなことしてるんだ。だからお前たちにはまず御面屋から彼の手に入れているインヤンガイの情勢、五大マフィアやその他の勢力、また今まで何が起こったのかといった情報を引き出してきてほしい」 インヤンガイはここ最近事件が多い。 マフィアにしても、他組織にしてもいつ衝突すると限らないのだが、今のところそれらすべての情報をまとめている報告書がない。インヤンガイでの依頼を受けたいと考えるロストナンバーたちのなかにはそうした情勢が分からず二の足を踏む者が多くいた。「べ、べつに俺が仕事してないわけじゃないぞ! いや、最近、仕事が忙しくて……えー、ごふごふ。この機会にインヤンガイにいる御面屋から、まぁいろいろと入手してどういう状況なのか客観的にまとめたいと思うわけだ」 黒は咳払いして続けた。「御面屋からどうやって情報を引き出すかは任せる。そして最終的にはあいつにはターミナルに帰るように促す。このままだと余計な火種になりかねん、いいな!」 黒に言われて訪れた店はこじんまりとしたもので、暖簾が出ているが薄暗い。 戸がガラリッと開いて作務衣姿の男が出てた。「おや、お客さんかい? こいつは……驚いたぁ、いやぁ、来るころとは思っておりましたよ、さぁ、こんなしみったれた店ですがあがってください」「その声、もしかして御面屋?」「面がないと全然印象が違うな」 訪れたロストナンバーのそれぞれの感想に御面屋、今はもう面をつけていない男は平凡さのなかにどこか蔭のある容貌に笑みを作った。 店のなかはターミナルにある御面屋とほぼ同じだが、店を開けていないのか、台には白い布がかかっている。 御面屋はここにロストナンバーがどうして来たのはだいたい察しているのだろう、店の奥にある畳張りの部屋に案内された。ちゃぶ台ぐらいしかないが、そこに白い着物を身に着けた少女がいた。年齢からいって十一か、そこらへんの娘だ。「悪いね、ちょいとおつかいに行ってきてくれないかい? お客さんに出すお菓子がなくてね。あと残ったお金でお前さんの好きなものを買ってくるといいよ。寄り道はしちゃいかんよ、いいね? なんかありゃあ、すぐに連絡するんだよ?」 再三しつこいぐらにい御面屋は娘に言い含める。差し出されたお金を少女は受け取るとロストナンバーたちの横を通ってタッと駆けて出ていってしまった。「ここに住むようになって世話になっている近所の子でねぇ、今朝も飯を作りにきてくれたんですよ。さて、あの娘が帰ってくる前にお話しを伺いましょうか」 ちゃぶ台を挟んで腰かけた御面屋はロストナンバーを見た。「あっしがここで知り得たことは僅かでしょうねぇ。交換条件として、そちらが知ってる今のことも聞かせちゃもらえませんか? そうやって知ってることをつなぎ合わせれば見えてくることもあるかもしれませんしねぇ」
インヤンガイに向かうロストレイル室内。 僅かな時間の隙間を埋めるように瀬崎 耀司は人畜無害な微笑を浮かべて同行者に積極的に話しかけた。 「やあ。きみと同席するのは二回目だね。前回はあまり話す機会もなくて残念だったよ。改めて、僕は瀬崎です」 「ヒイラギといいます」 ヒイラギは目を細め、耀司の差し出した手と握手を交わした。 「きみとは初めましてだね。僕は瀬崎という。よろしく」 「よろしくなのねー、瀬崎っち! ボクはマスカダインなのね!」 マスカダイン・F・ 羽空も耀司の温和な笑みに、にこぉと笑い返して握手を交わす三人の間には終始和やかな雰囲気が流れた。 ヒイラギはちらりと窓から暗く淀んだ空を見つめる。 シロガネが自分は要らないのだと言いながら罪悪感に沈んで自ら命を断ったのはその事件に直接関わった者としては辛いものがあった。なによりあのとき自分が下手を打ったという責任も感じていた。 主人もインヤンガイの依頼で同行者が行方不明になったことを気にしていたが、自分はどうしてもシロガネを殺した真犯人を知りたいという欲を止められずここまで来てしまっていた。 ほの暗い通路は鼻につく湿った悪臭を漂わせていた。 御面屋が店の奥に導くのとは反対に外へと少女が駆けていく背をマスカダインは交互に見ているとぱん! 顔の前で両手を合わせた。 「ごめんなのね! ボク、あの子についていこうと思うのね! 小さい子がひとりでいるってのが気が気じゃなくて~!」 「そうですね、治安も悪いですし、気を付けてください」 マスカダインが少女のあとを追うのを耀司はにこやかに見送るとヒイラギの背中を押した。 「さぁ行きましょう。目的を果たさないといけませんし」 「そうですね」 耀司の穏やかな声に誘われてヒイラギは暗い店内に進んだ。 「まってまってなのー!」 マスカダインの声に少女は足を止めた。 息を切らして追いついたマスカダインはにこりと微笑む。 「お兄さんキミと似た人に会ったことある気がするの! でも別の人だね。はじめまして! ボク道化師のお兄さん! お兄さんもこの街のおいしいお菓子とかいろいろ知りたいの! 教えて教えて!」 少女は無視して背を向けようとしたのをぱしっとマスカダインは手をとる。 「道化師☆交渉力ならお買い物も早く済むしね! お手手繋いで迷子にならないようにいっしょに歩くのね〜♪」 少女は何も言わず、マスカダインがしたいように任せて歩き出した。 インヤンガイでは珍しいだろう畳部屋にはちゃぶ台が中央に置かれただけの殺風景なものだが男が三人も入れば窮屈に思えるほどに狭い。 熱いお茶と煎餅が出されると耀司はヒイラギに伺うような視線を向けてお茶をすすめた。 「どうぞ」 「ありがとうございます。お茶だけいただきます。可愛らしいお嬢さんですね、被っていた面は……どうされました?」 「ここで面をつけてちゃ、目立ちすぎますからねぇ、はずしてるんですよ、盗まれたりはしないでしょうし、どうせ、ありゃあ、あっし以外には意味のないただの御面ですからねぇ」 「そうですか。では、まず、ここの情勢については明るくないので、最近の五大組織について教えていただけますか?」 「へい、かまいませんよ」 五大非合法組織、または五大マフィアと言われているがそれぞれ専門分野が異なる裏組織。 鳳凰連合のボスであるフォンは元英雄だが、国の裏切りによって身を落とし、残った仲間を率いて現在の武力組織を形成した。軍人崩れゆえの結束の強さと戦闘能力の高さは他組織の追随を許さぬ巨大組織に成長した。 暴力団組織の美龍会のボスはエバ・ヒ・ヨウファ。昔かたぎの気質で土地との密着が強く、人々から信頼を寄せられている。エバ本人は孤児院などの慈善事業に熱心で若者たちに慕われている。幹部のなかにはアヤカシと呼ばれる面をつけることで心身に人ではありえない能力を宿すことのできる強さが存在したが、現在は面を作れるシロガネの死亡によって組織が揺らいでいる。 総会屋ヴェルシーナのボスはハワード・アデル。政治、弁護士といった法律関係に強く、裏組織のトラブル解決役の立場ゆえ武力放棄宣言することで他組織とのバランスを図っていた。以前「死銃」と言われる狙った相手を必ず殺すと言われる謎の銃事件に部下が巻き込まれ、そのあと妻である理沙子はハワードの死に別れた妻のアイリーンに暗房に誘拐された。結果理沙子は両足を失って歩けない身体となり、さらにそのあと一人娘であるキサには世界計の欠片が宿っていることが発覚した。キサは敵と感じたものの力を奪う、また与える能力から母親を襲ったアイリーンを消滅させた。その力の大きさからインヤンガイにいるのは危険と判断した世界図書館に欠片がとれるまで保護下に置かれている。 武器売買から武器類・機械類に強い黒耀重工のボスは神曲煉火。属している人間のほとんどは傭兵、肉体を改造したロボット兵士。つい最近ヴェルシーナを煉火の息子が襲撃する事件が起こり、旅人が逆に黒耀のアジトを襲撃して煉火を殺害した。現在、黒耀重工がまとめている土地の主導権を巡っての争いが勃発。経済的にも黒耀重工が支えていた部分は大きく、他の街まで悪影響を与えている。 暁闇のボスはウィーロウ。元は他の街から流れてきた少数派の民族が結束した集団だ。組織そのものは依頼があれば何でもこなす万屋家業。この組織の者は総じて手先が器用で、術方面にも明るい者が多い。 「暁闇は最近世界図書館にいろいろと依頼をしているそうで、あっしよりみなさんのほうが詳しいんじゃないんですか?」 御面屋の言葉に耀司は肩を竦めた。 「僕は最近インヤンガイの依頼を受けてないので、ヒイラギさんは?」 「主が、一度お会いしたそうです。ハオ家の屋敷を探索する際に……ウィーロウ本人は自分のことを学者と言っていたそうです。専門は霊力全般、個人の事情で術関係が多い暗房について今一番研究中と聞きました」 ウィーロウの依頼は、呪術に長けた一族であるハオ家の屋敷探索であった。 ハオ家は政府にも影響力のある呪術者の一族だったが、ここ数年は術者が産まれずに衰弱の一手を辿り、インヤンガイでいくつかの事件を起こした。その際に鳳凰連合に属していた者の死体を利用したことがフォンの逆鱗を触れ、旅人の協力の元、潰された。 「大部分は美龍会が押収、残っていた禁呪と書物は暁闇が回収したんですよね?」 「そいつは違いますぜ、鳳凰連合が押収したんですよ。美龍会はハオ家の傍系ですが仲たがいして分裂しております。アヤカシといわれる面をかぶって力を得られるのも元を正せばハオ家の術の一つだったんですがね。禁呪は石の形で、胎内に埋め込むことで発動しやす。それと同じもんで呪石があります、こいつを埋め込むと生命活動を止めた者を再び活動させられる、いわばゾンビ化にさせるモンでさ、まぁ、代価はあるようですがね」 「では、ハオ家の残した呪術は鳳凰連合、残りは……禁呪類とその詳細を記した書、今は失われた古術などはウィーロウの手に渡ったということですね」 「あっしの知る限り、美龍会のエバさまはハオ家を蛇蝎のごとく嫌悪しておられましたし、エバさまには術関係の才能がまったくないのでその手のモンがあっても無意味なんですよ」 「お話を聞いていて気になったんですが、マフィアはなぜ御面作りの技術を欲するんですか? それは誰にでも使用できるものなんですか?」 「肉体に作用するモンは相性があって使える人とそうでない人がはっきりとわかれてますねぇ。あっしは精神に作用するモンしか作れませんが、こいつはみなさんの知ってのとおり誰でも被れば作用しやす」 「つまり」耀司は唇に笑みを作った。 「御面をかぶることで心身に影響を及ぼす事ができるなら、対象を操ることもできる、というのはあるんですか?」 「おもしろいことをいいますねぇ、しっかし、操るっていうのはちょいと難しいですよ。あっしの面は見せるモンですからねぇ。もともとの持っている価値観、たとえばですよ、面を被ったやつにこいつを殺せ、なんて命令しても人殺しが悪いことだっていうのは常識だ。それを覆すのはどだい無理な話ってもんですよ。まぁ、せいぜい憎悪を与えるぐらいですよ」 「それも考えに方によっては怖いと思いますけど」 「そりゃそうだ! 相手の憎しみだけを抱えて生きるってのは、そりゃあ、つらい」 御面屋はからからと笑った。 「気になっていたんですが、面を作れるのは何人ほどいるんですか?」 「といいますと?」 「シロガネさんのような、御面を作れる人は美龍会に何人いたんでしょうか? 彼女のように実力のある面作り師を潰せば美龍会の力を削ぐことになりますよね」 「……おりませんよ」 御面屋はきっぱりと言った。 「面を作れるやつは、シロガネとイバラギの双子しかおりやせん」 「……彼女の死んだ事件を私なりに考えましたが、おかしい、と思うんです。証拠はないのですが、ある程度想像は出来ます。ウィーロウは情報を手に入れることに積極的で、彼女の失踪についても把握し、行方不明の茨姫があることも知っていた。あれは昔、美龍会から消えたとききました」 御面屋の顔は能面のように表情をなくし、舌で唇を舐めた。 「マフィア同士が戦争ごっこをしているとき、シロガネの姉であるイバラギが、屋敷からの移動中に殺されたとき消えちまったと聞きました。殺した奴が奪っていったとしか考えられませんが……あっしがインヤンガイから去ったときからだとしたら二十年ちょいと消えていたはずですよ」 「それでは行為的に誰かが隠していた、としか考えられませんね。それがもしかしたらウィーロウという可能性はありませんか?」 「そいつは無理ですよ、当時、ウィーロウは十三歳の子供だったはずですぜ。組織もなかったころです」 「ではウィーロウでなくても、誰かが奪った。そして、シロガネさんを呼び寄せるために使った、それをウィーロウが知っていた?」 シロガネの失踪には謎が多いが、姉への罪悪感を抱いていた彼女ならば姉の御面があると知れば自ら進んで危険な暗房に入ったとしても不思議ではない。 そもそも、暗房は見つけ次第に封鎖されるはずなのにシロガネはどうやってどうやって入ったのだろう? 心臓が悪くなるような沈黙が流れる。 「ただいまなのねー!」 マスカダインが声をあげて帰ってきた。その左手にはこの通りで買ってきたらしい怪しげな御菓子がはいった袋。もう片方の手にはしっかりと少女の手を握っていた。それを見た瞬間、御面屋はちゃぶ台を強く叩いた。 前触れもないことにヒイラギと耀司は目を瞬かせ、マスカダインもびくっと肩を震わせた。 「……っ、おかえり」 ゆるゆると笑う御面屋の声に少女はマスカダインの手から離れて御面屋の横に腰かけた。御面屋は少女の手を握って顔を渋くさせたがそれも一瞬のこと。 「なにかいいものはありやしたか?」 「う、うん。いろいろとあったのねー! やもりの串焼きとか! みんなの分を買ってきたよ!」 マスカダインものろのろと部屋にあがって勝利品をちゃぶ台に載せる。どうにも怪しげなものが並ぶのに耀司は興味深々に、ヒイラギは眼を細めるばかりだ。 御面屋は少女を見つめて笑いかけた。 「なにもなかったかい?」 こくんと少女は頷いた。 「きれいな飴だねぇ、ゆっくりとお食べ」 御面屋の目も、声も、すべて少女にのみ優しく向けられる。少女の顔は無表情でどこか人形めいていたが言われたように買ってきたばかりの飴をなめ始めた。 「さて、お茶をどうぞ。大変だったでしょう」 「ううん。そんなことないよ! ありがとうなのねー! いただきまーす。んー、おいしい! その子、とってもいい子だったのね!」 マスカダインの言葉に御面屋はへぇと相槌を打つ。 「ところで知らない? この街で依頼中に行方不明になっている人がいてね、依頼書をさ見てボクが写したやつなんだけど読んでもらえる? あとこれがそのお兄さんが描いた似顔絵なんだけど」 「読ませていただきます」 御面屋は依頼書に目を通していく。 「情報……噂でもいいんだよね、彼にも待っている子がいるんだ、ちょっと胸にダイナマイト持ってるさ」 「ウィーロウとハオ家の探索中に行方不明に……すいやせんが、あっしはこの人の行方についちゃしりませんねぇ」 「ううん。だったらこれからも知ることがあったら教えてほしいんだよね」 マスカダインは微笑む。御面屋がインヤンガイに居たいというならば無理に連れ帰る気はさらさらなかった。 御面屋がこの土地にいる危険を知らずにいるわけではないはずだ。 「ただ、一人で全て抱え込もうとしないで、協力出来そうなことがあったらボクらにも言ってよ。世界群の問題は図書館の問題! この街の闇が気になるのはキミだけじゃない。世の中には、悪い奴と同じぐらい、お人好しもいるんだから」 「御面屋さん、私たちはあなたに災いが降りかかると予言を聞きました。それでも貴方がここにいるというならば、無理に連れ帰ることはしません」 ヒイラギも連れ帰るつもりは毛頭ない。 御面屋は先ほど見せられた依頼書からずっとなにかを考えるように黙っている。 「お二人とも、本当にそれでいいんですか? 僕は連れ帰ったほうがいいと思いますよ」 「なんでなのー?」 「五大マフィアの一角が潰れてバランスが失われている今、ここに彼が居つくことは世界に影響を与えかないと思うんですが」 やんわりと耀司は告げる。 「それに……先ほどの、シロガネさんの事件のことですが、ヒイラギさんが言った憶測があたっているとしたら、なぜ今更なんでしょう?」 「どういうことですか?」 「五大組織はそれぞれバランスを保って、平穏に過ごしていたはずですよね? それなのに、今、事が起きたのか。僕は聞いているとロストナンバーが関わらなければ今ほど甚大な歪みにはなっていなかったかもしれないのではと思うんです。あきらかにこの事件の犯人は積極的にロストナンバーがインヤンガイに関わり、その影響で世界がバランスを狂わせていくことを狙っているように思えるんです。そもそも事件の発生を見ると、旅団がインヤンガイに関わって、マフィアたちが僕たちの存在を認知しはじめてからですし」 からみあった糸が、ゆっくりと張りつめて、一本になる。 旅団が関わり、ロストナンバーの存在をマフィアたちは知って起こった一連の事件。 作者不明、目的も不明の狙った者を殺すことのできる死銃。死んだはずの女は愛を囁こうと戻った。罪悪感を抱えたシロガネはその沼に溺れて沈んだ。 その結果。 ヴァジーナは妻の負傷、娘は世界図書館に保護されたがハワード・アデルは精神に打撃を受けた。 美龍会は御面を作れるシロガネが死にアヤカシの力は失われた。前ほどの武力は存在しない。 黒耀重工は旅人によって滅んだ。それによって経済と土地のバランスが失われた。 暁闇はロストナンバーと関わることでハオ家の禁呪と、古術の知識を手に入れた。 鳳凰連合が沈黙を守るのは旅団の起こしたトラブルによっての経済的な打撃からまだ回復しきっていないからだ。 「つまり、いま、一番力を持っているのは、暁闇……彼はこうなることを狙って……」 ヒイラギは手に痺れを感じた。おかしいと思ったときにはマスカダインがぱたりと倒れる。 耀司も異変に気が付いたようだが、そのときにはなにもかも手遅れで畳に伏していた。 「あなたは」 御面屋は笑った。 「それだけ知れれば十分ですよ。ちょいと強めの薬ですが、なぁに死ぬことはありません」 「え、あ……御面屋さん?」 マスカダインが眉根を寄せた。 「不思議だったんですよ、どうして今更、マフィアが動くのかがねぇ。ずっとねぇ、平和だったんですよ、ちょいとしたトラブルはあっても、あっしはあいつが人並みに幸せなのをずっと見てきました」 傍らの少女の頭を撫でて御面屋は笑う。 「あっしたちは、いつもお前から奪ってばかりだねぇ、そうだろう、シロガネ、許しておくれ、ゆるしておくれ、あっしが間違えたばかりに、お前は」 少女は、シロガネは静かに微笑んだ。 「ゆるして、あげる。だから、はやく、たべさせて」 今まで沈黙を守っていたシロガネが静かに告げた言葉にひどくいやな予感をマスカダインは覚えて顔を歪めた。 御面屋は立ち上がると奥の戸をあけて取り出した鉈は不吉な赤黒に濡れ、死臭を纏っていた。 にぃとシロガネは微笑む。 「アタシを殺した、こいつらを、殺して、おまえさま、食べさせて、アタシを本物にしてちょうだい」 「ほんもの? ちがう、ちがうよ! だって本物のシロガネさんの魂は美龍会の、墨になるためにいるんだよ」 マスカダインの声に御面屋の動きが止まった。 「墨が……御面を作るための森羅万象の壺を手に入れば、今度こそ、お前を本物に出来る、なぁシロガネ、そうだろう? お前はあっしが欲した、今度こそ間違えないために、だが、違うんだ! お前の目は、お前の唇は、肌がッ! いくら殺しても本物にはならない、どうしても、違うッ、そうだ魂が……あの目が見せたお前にはならないッ!」 罪悪感に狂い、溺れた声が囁かれる。 御面屋は目の前でシロガネを失い、その精神に一生を忘れることのできない罪悪感と執着の黒い泥沼に落ち、目的のためなら手段を選ばせないほどに狂わせていた。 マスカダインの目は見た。 「あれって」 御面屋の頭上に浮かぶ陽炎のような真理数――現地人に受け入れられるか、世界に受け入れられるかしか発生しないはず。 以前、インヤンガイに受け入れられるためにわざと殺人鬼として世界に影響を与えた者がいたが。 インヤンガイが御面屋を受け入れ始めている。 ただし、それは狂気に駆られた、この世界に相応しい殺人鬼として。 「だめ、だめだよ! そんなの!」 マスカダインの悲鳴によろよろとヒイラギが立ち上がる。 「あいにく、薬の効きづらいからだ、なので……っ、」 シロガネは微笑みヒイラギを見る。 銀色の優しい瞳に心が吸い取られるような甘美さがヒイラギの動きを封じた。どすっ、と下腹部に重い衝撃が走ったのに見るとシロガネの片手がヒイラギを突き刺していた。 ヒイラギが崩れ落ちるのを愛しむようにシロガネの華奢な手が抱く。 覗き込まれる顔、間近にある瞳、囁く声に官能すら感じる唇 「おまえのほしいものは嘘かい、現実かい? 現実なんて悲しいだけ、だから誰もが欲に溺れるの。愛してほしかった? 求めてほしかった? かわいそうな、ヤナギ」 シロガネの目にヒイラギは失った片割れを見る。そんなはずないのに、抱えていた罪悪感が見せる欲望が心を支配していく。 「っ、」 意識が遠のくなかヒイラギは掠れた声を漏らそうとするのをシロガネは口づけで奪い取り、完全に意識を失くさせてから畳の上に捨てた。 「さぁ、アタシを本物にしてちょうだい、……さま」 シロガネが紡ぐ、優しい声に御面屋は彼女を抱きしめて暗い街のなかに消えた。 ヒイラギが目を覚ますと、視界いっぱいに耀司の顔があってぎょっとした。 「気が付いてよかった。ここは御面屋さんの店ですよ。あの人が去ってから数分も経ってませんから下手に動かないほうがいいですよ」 マスカダインは俯いて拳を握りしめているのにヒイラギは深いため息をついた。 「手当を、ありがとうございます。彼は、どうして」 「……ロストナンバーのせいで愛する人が殺されたという事実を改めて確認すれば、彼がロストナンバーに憎悪を抱くであろう事は想像の範疇だったはずです」 ヒイラギは押し黙る。 「止めようとしたときには痺れて出来ませんでしたが……司書の告げていた災いがふりかかるっていうのは、シロガネの存在だったわけですね」 せめて連れ帰るという選択を、多少乱暴な方法でも選択すれば変わっただろうか? そんな問いは心の奥深くに沈むだけ。 ヒイラギが目を伏せると、シロガネの目に見た――失ったはずの片割れと自分、主がいる罪悪感の欲が見せる幸福が責めるように浮かんだ。
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