「シャンヴァラーラへ向かってもらいたい」 赤眼の世界司書、贖ノ森 火城はそう言ってチケットを取り出した。「夜の女神ドミナ・ノクスは正式に世界図書館の受け入れを決めた。彼女らの御座す天恒宮(てんこうぐう)と直接つながった無人の【箱庭】に駅が建設される。駅には、女神の化身やシャンヴァラーラに住まう協力者たちのいずれかが常駐し、ロストナンバーたちへの依頼や協力要請が行われることになるだろう」 火城の説明によると、女神の化身とは、彼女が自分の持つ神威の欠片を封じて創った、彼女の意思を反映させる人形のようなものであるらしい。能力的には、女神本来の力の百分の一も持っておらず、駅を離れると土塊に戻ってしまうそうだが、『アンテナ』と呼ばれる情報収集器官を有しており、世界全体を見通すことが可能なため、いつでもシャンヴァラーラの最新状況を知ることが出来るようだ。「協力者というのは、実を言うと帝国にも華望月にもいる。彼らは元々ロストナンバーでな、ドミナ・ノクスがシャンヴァラーラへ帰還する際、彼女とともに世界に帰属することを望んだものたちだ。彼らは帝国側と華望月側に分かれて、自分たちが最善と思う方法で世界の安定のために働いている」 駅が建設される無人の【箱庭】は、元々は彼らが秘密裏に会うための場所なのだそうだ。 元ロストナンバーは全部で十人。 様々な姿、様々な能力、様々な技術を持った、出身世界も種族も年齢も性別も思想もばらばらな、しかし一様に強い意志と覚悟を持った人々であるといい、いずれは全員と相見えることになるだろう、と火城は言った。「元ロストナンバー同士の絆は深く、ドミナ・ノクスとのつながりも強く、何とかして世界に平和を、安定をという強い思いに変わりはないが、自らの思想、自らが十全と思う方法のために別々の道を選んだことからも判るように、最終的には敵同士として殺し合うことすら覚悟の上のようだ」 帝国が正しいのか、華望月が十全なのか、他に最善の方法があるのか、恐らく誰にも判らない。 この世界全体が行き着く先も、その正しさの証明も。 判らないからこそ、ドミナ・ノクスは、竜の青年がタグブレイクによってシャンヴァラーラへ飛ばされてきたのをきっかけに、これをよい機会と捉え、新しい視線、新しい風を内部へ入れることを決めたのだろう。「そんなわけで、あんたたちには、これから、帝国と華望月の双方で活動してもらうことになると思う。どちらが正しいか、どちらが最善か、それとも他にとるべき道を模索するのか、判断はそれぞれに委ねられる。――そのために何を見、何を聞き、何を知るべきであるのかも」 火城はそこで一旦言葉を切り、「あんたたちに今回行ってもらうのは帝国だ。帝国の首都にあるアルバリーリウム庭園で、現皇帝クルクス・オ・アダマースの実妹とその娘夫婦が催す茶会がある。それに参加して、情報収集と人脈作りをしてきてほしい」 そう言を継いだ。「元ロストナンバーのひとりで、クルクスの側近になっている男がいる。ロウ・アルジェントというその男が、ロストナンバーたちに帝国の現状を見せるべく企画したものだ。無論、帝国側ではロストナンバー云々は理解していないだろうが、毛色の変わった第三者の存在を報せることは無意味ではあるまい」 女神ドミナ・ノクスの願いはただひとつ、シャンヴァラーラの民の幸いのみ。 そのための、ロストナンバーたちの働きかけを、彼女は歓迎するという。 世界図書館が大々的に動くことはなくとも、彼女の思いに共鳴した人々が、ほんの少し、新しい風を吹き込んで、それが新たな流れになることは決して過剰な干渉ではないだろう。「茶会は帝国基準時間で十四時から行われる。それまではロウに市内を案内させてもいいだろうし、帝国についての情報を集めてもいいだろう。茶会には帝国内で強い発言力を持つ有力な人々も多く集まるから、ここで彼らの信頼を得られれば、後々行動しやすくなるかもしれないな」 火城は、もちろん普通に茶会を楽しんでくれてもいい、腕利きの、一流の菓子職人が腕によりをかけて茶菓子をつくるそうだから、とつないでから、ただし、と付け加えた。「正直、帝国の人々はまだあんたたちについてはほとんど何も知らない。今後のことも考えれば、あんたたちの立ち位置がはっきりしない間は、あまり派手な動きはしないほうがいいだろう。――帝国には、ヒトや神、神聖な存在の能力を吸収し奪い取り、彼らの神に捧げて強化するという技術も確立しているようだから、充分に気をつけてくれ」 では、健闘と旅の安全を祈る。 火城はそう締め括って、チケットをひとりひとりに手渡したのだった。
1.街角の横顔 街は、午前の活気で満ちている。 「……綺麗なところだね」 蓮見沢 理比古の言葉に、永光 瑞貴が頷く。 「俺、もっと未来的な、冷たい街並を想像してたんだけどさ。……ここは整然としてるけど、息苦しいって感じはしないなあ」 「ああ、それ、判るかも。街と緑が調和してる、ってこんな感じ?」 午前十時、白亜の巨城を中央に頂く帝都の一角である。 理比古と瑞貴は、ロウの案内で街に来ていた。 理比古は街の様子を見に、瑞貴は茶会用の衣装を手に入れに。 「え、アヤさんはその格好で行くのか?」 「ああ、うん、服のことをちょっと失念してて。たぶん浮くとは思うんだけど」 理比古はジーンズに七分丈のシャツ、上からノースリーブのパーカーといういつも通りの出で立ちだ。 大阪のオカンばりに世話焼きの、理比古が大事でたまらない側近が用意する衣装であるからどれも品質はよいものの、紳士淑女の集う茶会には少々ラフすぎるかもしれない。とはいえ、そもそも旧名家の出である理比古の所作は全体的に流麗で、立ち居振る舞いも美しい。 「でもさ、そういう格好をしてる人間への扱い方で、帝国上層部の人たちの気性とか心根も判るんじゃないかな、って」 何より、帝国の人々が、野蛮で独善的な好戦的民族でないのなら、汲み取ってくれるものもあるだろう、というのが理比古の考えだった。 「なるほど……それもひとつの手か。まあ、おれは帝国の礼服が気になるってのもあるし、ちょっと着飾ってみるけど」 「うん、瑞貴の衣装、楽しみ。きっと綺麗だと思うよ」 「褒めても何も出ないぜ?」 「あらら、それは残念」 他愛ない言葉を交わして笑い合っていると、 「済まん、待たせたな。手続きで少々手間取った」 整髪料で立たせた銀の短髪に明るい琥珀色の眼をした男が小走りに近づいてきた。 年の頃は三十代前半といったところだろうか。帝国では上位の武官であることを示す、裾の長い青の軍服がこの上もなく様になった、引き締まった長身痩躯の男だ。 彼がロウ・アルジェント、現皇帝クルクス・オ・アダマースの側近にして護衛官、夜女神ドミナ・ノクスの帰還とともにこのシャンヴァラーラへ帰属した元ロストナンバーである。 「あー、いや、そんなに待ってないから大丈夫。な、瑞貴」 「うん、街並とか見てるだけで結構あっという間に時間が過ぎたから」 「そうか、ならよかった」 並んで歩きながらの言葉にロウは頷き、それから街並をぐるりと見渡して、 「……美しいところだろう」 そう、目を細めて言った。 彼の口元に浮かぶ笑みに街への愛着を感じ、理比古は微笑む。 「うん、想像より生きた感じがして、驚いた。文明が進んでるから、もっと冷たいのかなって思ってたから」 事実、街は機能的に整いつつ、無機質な冷たさよりも、理知によって律された美と確かな活気によって彩られていて、ここだけ見れば、帝国が他の【箱庭】を力尽くで我がものにしているとは想像出来ないし、今が戦争中だとも思えない。 城を中心に整然と通った道と、幾何学的に配置された建物、一定の間隔で設置された樹木や広場や緑化公園、噴水などによってかたちづくられた街からは、壱番世界の24世紀程度の発達度合いと言いつつ、街並や建造物にどことなく古代ギリシャを思わせる様式美が伺える。 「ああ、アダマース帝家の理念なんだ。どんなに技術が発達しても、大地と緑から離れて人間は生きられない、っていう」 「ああ……うん、それ、何か判るかも。それであちこちに緑があるんだな……じゃあ俺、瑞貴が服を選んでる間に行ってみようかな」 ロウから細かい説明を受けた理比古が出かけて行き、瑞貴はロウに連れられて礼服などを売っている服屋へ足を運ぶ。 壱番世界で言えば高級ブティックといったところだろうか、陳列されている衣装はどれも恐ろしく高価そうだったが、ロウはこともなげに自分が払うから好きなのを選んでくれ、と言った。 この世界の金銭を持ち合わせていない瑞貴は、ありがたくその申し出を受ける。 「そういえば、さ」 ロウが差し出してくる衣装を試着しながら――男物も女物も混じっているのは、ロウが瑞貴の性別について悩んでいるからか、それとも別にどっちでも行けるだろうと踏んでいるからか――、瑞貴は、ふたりきりだしいい機会だ、と口を開いた。 「ロウは皇帝に侵略を思い止まって欲しいのか、帝国の繁栄を進めたいのか、どっちなんだ?」 「クルクスの目的は略奪や支配による帝国の繁栄じゃない。だから、その質問は俺には無意味だ」 「そう……なんだ?」 「ああ。事実、吸収した【箱庭】のインフラだのなんだのを整えているお陰で、財政的には侵攻を開始する前より今の方が厳しいんだ。まあ、幸い帝国民は真面目で勤勉だし、蓄えが百年二百年で尽きるようなことはないようだがな」 「え、じゃあ搾取とかそういうのは一切なし?」 「クルクスは公正だし、ちょっと馬鹿なんじゃないかってくらい民に対して誠実だ。彼は、帝国領となったからには、すべての【箱庭】の民に同じ生活をする権利があると考えている。……無論、どの【箱庭】にも税は納めてもらっているが、生活基準に応じての納税だからな。要するに、物欲を満たすための侵攻じゃないってことだ」 「ふーん……何か、ちょっと想像と違うな、皇帝」 「ああ、まあ、いつもしかめっ面したおっさんだけどな、実際にはいい奴だぞ、親父ギャグ的なものも好きだしな」 「え、なんか想像つかねぇ、それ。――ん、そういや、帝国の人たちって、帝国が他の【箱庭】を侵略して、そこの神さまの力を奪ってることを知ってるのか? 知ってるんだったら、それを正当と思ってるのか、不当と思ってるのか、どっちなんだろう?」 「不当とは思っていないだろうな。無理やり神を奪うことが正当とも思っていないだろうが」 「それって、どういう……」 「クルクスは、『そうするしかない』から力尽くで奪っている。民はすべてを聞かされているわけじゃないが、『そうしなくては危機にさらされるものがある』ことに気づいている。数百年に渡る帝家への信頼と、帝国の、恭順を選んだ民への扱いが公平であることから、『帝国は暴走しているわけではない』と理解してもいる」 「つまり……自分たちの行く末を、帝国に預けてもいいと思ってる?」 「ああ。元々の帝国民は、戦いを厭うことはないが、基本的には思索と芸術を愛する人々だ。若干ものの考え方は二元的だがな。彼らは、皇帝と帝国の在りようを、自分たちの尺度に当てはめて、十全ではないが最善だと信じている」 「だからこそ、戦うことは否定しないし拒否しないし、他の【箱庭】が自領に組み込まれた時は、同じ帝国民として受け入れる、ってことか」 「ああ」 「後は……神さまの力を奪うために戦争を始めた理由と目的は? っていうかそもそも、神さまの力を奪えるって、どうやって知ったんだ?」 「前者は、まだ話せるような段階じゃないな」 「何で?」 「いかに元同胞とはいえ、お互い顔見せの段階で、国家の根幹に関わるような話が出来ると思うか?」 「……いや」 「だろう。後者に関しては、『電気羊の欠伸』でクルクスの曾祖父さんが手に入れてきた技術が元だ。アダマース帝家は十代くらい前まではもう少し攻撃的で、懲りずに何度も『電気羊の欠伸』に侵攻を企んでたんだが、曾祖父さんの代からやり方を変えたみたいでな。それが功を奏して色んな技術を手に入れたらしい」 「ふーん……『電気羊の欠伸』ってそんなにすごいんだ」 「ああ。あそこには圧倒される」 「へえ、おれも一度行ってみたいな。じゃあ、これで最後。帝国の侵略行為を裏で糸引くものがいるかどうか、知りたいんだけど」 「それはない。これは、クルクスが自分の意志で始めた戦いだ……略奪や支配欲のために始められたことではないんだ」 「そう、なんだ……ん、ああ、これにしようかな、一番しっくり来る」 優美でユニセックスな長衣を選びながら、瑞貴は意識を思考の中に遊ばせていた。 世界の覇者たらんと一方的に侵略し、奪い、支配する帝国。 最初のイメージはそれだった。 しかし、ロウの話を聴いていると、どうも、何かが違う。 「……まあ、これから、もっと知っていくしかないんだろうな」 この世界との関わりは始まったばかりなのだ。 焦っても仕方がない、と、瑞貴は着替えに専念する。 2.白き神、ルーメン 午後十二時、神殿付近にて。 「なるほど……」 【白の書】のページを繰り、ミレーヌが呟く。 「何か判ったのですか、ミレーヌさん?」 アルティラスカは傍らの街路樹から記憶を読み取りながら尋ねた。 樹齢十年ほどのプラタナスに似たそれは、あまりたくさんの情報を持ってはいなかったが、しかし、帝国の民の営みや往来を断片的に留めている。 街路樹の記憶の中で、帝国に吸収された【箱庭】の人々は、決して不当な、不幸な扱いを受けてはいなかった。 無慈悲に、激烈に他の【箱庭】へ侵攻し、逆らうものは完膚なきまでに叩き潰しながら――【箱庭】を守る神を容赦なく奪いながら、帝国は恭順の意を示すものに対しては寛容だ。 他の樹木から得た記憶では、帝国は、自領となった【箱庭】の社会資本を整え、多くの税を使って彼らの生活を保障しているというし、【箱庭】内に残る反乱分子が見せしめに処刑された傍らでは、貧しい人々に仕事が与えられ、彼らを惨く扱うものもいないという情報もあった。 それゆえ、自【箱庭】の貴族や上級階層に虐げられてきた下級階層の人々の中には、むしろ帝国に感謝しているものも少なくないという。 「ええ、帝国が今のような技術を得たのは百年ほど昔だそうです。そもそも、他よりも突出して技術力の高い【箱庭】ではあったようなのですが、現皇帝の曽祖父が『電気羊の欠伸』から知識と技術を持ち帰り、その結果現在の帝国が確立されたようですね」 「そうなのですか。しかし、侵攻が開始されたのは二十年前なんですよね?」 「ええ。クルクスさんの父も、祖父も、曽祖父も、帝国を繁栄させ民を憩わすことに熱心で、他の【箱庭】に攻め入ろうなどとは考えたこともなかったようです。他の【箱庭】との関係も、クルクスさんが侵攻を開始するまではそれなりに良好だったようですし」 「では……何故、彼は侵攻を決めたのでしょう?」 「そこまでは、【白の書】には。ただ……クルクスさんが皇帝となった翌年、彼が三十二歳であった二十二年前に、強い力を持った【箱庭】の為政者たちが一堂に会する催しがあったそうなのですが、クルクスさんはそこで命に関わるほどの重傷を負い、以降、他の【箱庭】との親交を断っているようなのです」 「他の【箱庭】に命を狙われた、ということでしょうか。それで、反対に支配しようと……?」 「どうでしょう、相応しくも思いますが、復讐のためというには、あまりにも彼は理性的であるような気がします。何故クルクスさんが怪我をしたのか、その理由が判れば、まだ推測も立てられるのですが。その辺りは極秘事項でしょうから、今尋ねても、答えてもらえるかどうかは判りませんね」 ミレーヌの言葉に頷き、アルティラスカは、ギリシャの建築物を思わせる石造りの、白く荘厳な神殿を見上げる。 「ここに、帝国の神が祀られているのですね……」 「はい、ロウさんによると、光の属性を持つ神だそうです。聖名を、ルーメン・オ・アダマースと」 「それは、帝家と同じ……?」 「アダマース帝家は、ルーメンの直接の子孫を名乗っているようですね」 「ああ、強権を振るう国家ではよくあることと聞きます」 意見を交換しつつ長い階段を上がってゆき、壮麗な門をくぐれば、すぐに、美しい巨像によって飾られた神殿の入り口へ辿り着いた。躊躇いなく足を踏み入れると、ふたりを静謐な空気が包み込む。 「……強い力を感じます。私自身とよく似た神威を」 「何となく、判ります。たぶん、これを畏怖だとか畏敬と呼ぶのでしょう」 その神威の源は、すぐに見つかった。 神殿の最奥部、一際高い壇上に。 白い大理石で設えられたそれは、祭壇だろう。 その祭壇に、神殿内部に灯りの類が存在しない理由が一瞬で判るほど眩しい白光をまとった美麗な青年が、目を閉じて座している。 彼は、帝国民と同じ滑らかな白皙をしていたし、彼らとよく似た彫りの深い顔立ちだったが、まとう神々しい雰囲気と、人間を超越した、畏怖すら込み上げる美貌は、彼がヒトとは一線を画した存在だということを高らかに告げていた。 「これが……神。【箱庭】を護るもの」 神を見上げ、ミレーヌが呟く。 「幾つもの、神の気配……」 アルティラスカは目を凝らし、意識を研ぎ澄ましていた。 青年神ルーメンの中に、彼以外の神を強く感じる。 火の気であったり水の気であったり、闇や破壊の力であったりするそれは、つまるところ、この二十年間で帝国によって掻き集められ、ルーメンに捧げられた神の要素なのだろう。 「……けれど、彼に抗う意識、反発する力は、ない……?」 無理やり駆り集められ、力尽くでルーメンと同化させられたはずの神々は、ルーメンの神威の中に静かに寄り添って、些かも揺らぐ様子がなかった。 「そういう技術がある、ということでしょうか?」 「判りません。ですが……」 「どうなさいました」 「いえ、彼から、悪意も敵意も感じないからでしょうか。彼らはすべて、自分の意志で光に寄り添っている。そんな気がするのです」 自らが守護する【箱庭】を奪われ、侵略者のもとで望まぬものを護らされている……と言うには、彼らはあまりにも静けさに満ちていた。 それは、一体、何故なのだろうか。 「あなたは何を見ているのですか。何のために戦っていらっしゃるの?」 光神は何も応えなかった。 目を閉じて、揺らぎもせずに座すのみだ。 その姿に、アルティラスカは何故か、まるで殉教者のようだ、と、思った。 3.誰が神を殺すのか 午後一時。 アルバリーリウム庭園付近、人通りのない路地裏にて。 路地裏ですら整然としたそこで、白い壁にもたれながら、ディーナ・ティモネンはロウを待っていた。 わざわざふたりきりになる時間をつくったのは、ロストナンバーとしての彼に尋ねたいことがあったからだ。 「……待たせたな」 ほどなくして青の長衣に身を包んだロウが現れる。 「それで、話というのは、何だ?」 ディーナはサングラスの向こう側の彼をじっと見つめ、 「キミがいた頃も、0世界のバーで『神殺しの戯曲』は歌われていたのかな……どこの歌か知らないけど」 そう、歌うように言った。 ロウが鋭角的な視線でディーナを見遣る。 「聴いたことがないな……それは、何だ?」 「神が人を創ったから人は神を殺し、人が神を創ったから神が人を殺す。そして世界は隙間を埋めて、更に外へと広がっていく。親殺しこそ我らが定め、って」 「ふむ……続きを」 「ここにいるということは、キミは帝国の思想に共感しているのよね? だから……キミの考えを聞きたかった」 「帝国の、と言うよりはクルクスの、だけどな。まあ、同じようなものか」 「……ここからは私の予想だけど。どうしてシャンヴァラーラがこうなったのか、っていう」 「ああ」 「二柱の神が世界と人を創り、人は自分の望む小神の元へ集った。だから世界は分かたれた……世界樹の木の葉のように。小神の力を集めれば、それは必ず人の望んだかたちを備えている。小神の力を集めれば世界は集まり、小神の力がすべて集まれば、世界はひとつになる。そしてすべてを備えた内なる一柱の神は、世界を守る外なる二柱の神を合わせたほどの力を持つでしょうね?」 「……」 黙り込んだロウを見つめながらディーナは言を継ぐ。 「帝国は、キミたちは、卵の殻の外から世界を守り、嘆く優しい二柱の神に、永久の眠りを与えたいのかしら? 卵の殻を破って、新たな神の新たな世界を築きたいの?」 帝国は、世界を統一することで得た強大な力で至高なる神々を弑し、己が神を至高神として据え、世界の支配者になろうとしているのではないか。 それが、ディーナの立てた推測だった。 「何故、それを……」 ロウのぽつりとした呟きに、ディーナの眼差しが鋭くなる。 しかし、次の瞬間ロウはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。 「――なんてな」 「え?」 「深いところまで突っ込んで考えたようだが、残念ながらまず根本が違う。確かに、ひとつの神の元にすべての神を集めれば【箱庭】はひとつになるだろう。クルクスが目指しているのは【箱庭】の統一と、その向こう側にある危機の回避だ。それは間違いない」 「じゃあ、何が違うの?」 「夜女神ドミナ・ノクスと太陽神ウィル・ソールを滅ぼせばこの世界も死ぬ」 「!」 「シャンヴァラーラは創世神そのものなんだ。天地開闢の時、双神は、『何もない』ところへ我が身を埋めて礎を築き、そこにシャンヴァラーラの大地を作った。天恒宮で出会う双神は彼らの一部であってそのものではない。双神はこのシャンヴァラーラの守護神であると同時にシャンヴァラーラそのものでもある。その根源を滅ぼし破壊する愚を犯せるほど、お前が小神と称した守護者たちは強大ではない」 「……すべての神を集めたとしても?」 「ドミナ・ノクスの十分の一にも満たないだろうよ、規模で言えば。そして何より、地上人の大半は、創世神の実在を知らない。いや、違うな、すでに身罷って久しいと考えていると言う方が正しいか」 「それは、何故」 「数千年も前の伝承には、確かに創世神の記述がある。分裂以前の世界では信仰も盛んだったようだ。だが、世界の分裂と度重なる天災、拡大してゆく争いにも何も手を出して来ないんだ、ヒトという殻を被った生き物に、彼らがこの世界を外側から護っているなどという予測は立て難いだろう」 「待って、じゃあ……世界の分裂は内的要因ではないということなの」 「そうだろうな。ドミナ・ノクスも言っていただろう、何の兆候もなかったと。彼女らはシャンヴァラーラに対して全知でも全能でもいられないが、ヒトと神の偏りのために世界が分裂するとなればさすがに気づく」 「……そう……」 ディーナは顎に手を当てて考え込んだ。 予測は外れていたが、考えるべき材料は増えた。 どうやら、ディーナが思っていたよりも、事態は更に複雑であるらしい。 「質問は以上かな?」 「ええ、いまのところは」 「そうか、また質問が増えたら言ってくれ、俺が答えられる範囲なら答えよう。では、そろそろ茶会会場へ」 「ええ」 頷き、ディーナは衣装の裾を翻して踵を返した。 背中にロウの鋭い視線を感じつつ、会場へと歩を進める。 * * * * * 「あ、ロウさん」 裏通りから踏み出したロウを見つけ、理比古は彼に歩み寄った。 「ん、ああ、どうした。市内の見学は終わったのか」 「うん、子どもがいっぱいいて、つい無心で遊んじゃった」 「……そうか」 童顔を通り越した驚異の幼顔の、やることも無邪気な理比古だが、これでも実年齢は三十代半ばである。 「あのさ、ロウさんは何で帝国側にいるの?」 「ロウでいい」 「ああ、うん。ロウの理念は何なのかな、って思って」 「理念、か」 「うん」 「ドミナ・ノクスは俺たち元ロストナンバーにとって恩人だ。だから、それに報いたい。第一の理念はそれだろうな」 「第二は?」 「……クルクスを助けてやりたい」 「皇帝さんは、ロウの友達? 家族?」 「――……親友で、家族、かな。こんな胡散臭い俺を、信じてくれた」 ぽつり、としたそれに、理比古は頷く。 「あのさ、俺、公園で子どもたちを見てきたんだ。あそこでは、どの【箱庭】の子たちも笑顔だったから、俺は帝国が一方的な悪者だとは思えなかった。子ども同士が、文化や種族の違いを気にせず仲良く出来るっていうのは、大人が根本的にそうじゃなきゃ出来ないことだと思うから」 公園での子どもたちは、色彩も外見も様々だったが、違う【箱庭】の子どもを馬鹿にしたり、意地悪をしたりということはなかった。おもちゃを盗られた盗らないで他愛ない喧嘩はあったものの、それは普通のあり方だろうと理比古は思う。 「俺、どんなことでも、誰が悪いとか正しいっていうのはちょっと違うと思うんだ。だって、誰かにとって正しくても、誰かにとっては間違ってるってこと、あるでしょ」 帝国の大人たちは思慮深く誠実だという。 帝国に遊ぶ子どもたちには戦争特有の歪んだ影がない。 だとすれば、理比古には、帝国のやり方が正しいかどうかは判らないけれど、少なくとも彼らが信ずるものや理念とともにあると感じる。 「俺に出来ることなんて高が知れてるかもしれないけど。でも、折角こうして知り合えたんだから、出来ることがあるなら手伝いたいし、判り合いたい。そう思うのって、変かな?」 自分より拳ひとつ背の高い男を真っ直ぐに見つめて言うと、ロウは苦笑し、首を横に振った。 「……いや。素直にありがたいと思う」 「今すぐにどうこうなんて無理だろうけどね。何か出来ることがあったら言って」 「ああ。ありがとう、理比古」 アヤでいいよ、と笑ってから、理比古は庭園へ向かって歩き出した。 ――誠実でありたいと思うのだ。 己の周囲の人たちが、そういう風に自分を愛してくれるから。 4.白百合のお茶会 茶会は午後二時ぴったりに開始された。 帝妹ローザ・オ・アダマースと、その夫で帝国軍総帥ゼヴィラス、祭司長ディバル、司法省長官エルウィアとその夫の氷仁(キヨヒト)――元々は小さな【箱庭】の太守で、現在は帝国軍第一師団長を務めているという――など、帝国上層部の貴人たちが多く集う、物々しくも華やかな茶会である。 会場に一番乗りしていたディーナは、眩しさを軽減するための薄紫色の遮光眼鏡、深いスリットが入り、銀糸で精緻な縫い取りのされた灰銀のチャイナドレスに、同じデザインの刺繍のされた同色の長手袋、艶を消した上品な銀色の編み上げサンダルを身につけていた。 長い銀髪は高い位置で結い上げ、そこにおしべを除いたカサブランカを飾っていて、総じていえば、ミステリアスでどこか妖艶な雰囲気を醸し出している。 何か思うところがあるらしく、ロウの隣席に陣取った彼女は、彼と人々の会話を注意深く聞いているようだった。 そんなディーナの近くに寄ると恐ろしく浮いて見えるものの、 「初めまして、今日はお招きいただいてありがとうございます。蓮見沢理比古といいます、どうぞよろしく。あ、これ、お土産です。よかったら食べてください」 すでにすっかり『作法を完璧にすれば問題なし』と開き直った理比古が、ローザに、洋梨のタルト、家で採れた桃やトマトが入った大きな風呂敷包みを渡していた。 シンプルなドレスを身にまとったローザは、明るい雰囲気の知性的な美女で、ロウの話では四十八歳ということだったが、驚くほど若々しく、三十代前半にしか見えない。 「まあ……ありがとう、嬉しいわ。早速切り分けて、皆で頂きましょう。わたし、果物や野菜が大好きなのよ、とっても嬉しいわ」 ローザは、偉大な兄を持つ帝国一の貴婦人でありながら――ちなみに、クルクスには妻子がいない――飾らない、朗らかな女性だった。聞けば、三人の子どもがすでに独立しているらしく、夫のゼヴィラスとふたりで、使用人すら雇わずに暮らしているのだという。 「あ、本当ですか? そう言ってもらえると嬉しいな、それ、家人が作ったり、育てたりしたものなんです」 「そうなの……なら、尚更貴いわね、そんな素敵なものを、どうもありがとう」 その微笑ましいやり取りの後、全員が席につく。 「素晴らしい香りですね。こんなにいい茶葉はなかなか手に入らないのではありませんか?」 芳醇で清々しい香りを立ち昇らせる紅茶を前に、ミレーヌが目を細める。 「お目が高いですわね、ミレーヌさん。これはクルクス様がローザ様のために特別に栽培されている、帝国一上質な茶葉なのですわ」 司法省長官エルウィアが、我がことのように誇らしげに言うのへ、ミレーヌは微笑んだ。 「どうなさいましたの?」 「いえ、エルウィアさんは、クルクスさんやローザさんがとても好きでいらっしゃるんだな、と思ったら、少し羨ましくて」 「あら、嫌だわ、つい」 「すまないな、うちの嫁さんはあのおふたりに人生や魂を捧げているものだから」 「まあ、そういうあなただって、でしょう」 照れたのか、ほんの少し白皙を上気させたエルウィアが、ミレーヌの皿に焼き菓子と理比古持参のタルトを入れてくれる。微笑ましさにミレーヌはまた少し笑い、それから瀟洒な白磁のカップを手に取った。 鼻腔を抜けてゆく鮮烈な香りと、雑味の少ない深い味わいに感嘆しつつ、薄く焼かれたビスケットやラム酒漬けの果物が練り込まれた焼きケーキ、ふわふわのジェノワーズに生クリームや果物が飾り付けられたものなどを楽しむ。 (『どの国と』というのではなく、シャンヴァラーラという世界に対して平等に接することができればいいですね。……今のこれは、悪くない) 誰が正しいのか、何が正当なのか、今の段階ではまだ判らない。 判らないなら、客観的な視線で見つめることで見い出してゆけばいい、そんな風に思うミレーヌの隣では、理比古が、物理的におかしいくらいの量のスイーツを満面の笑顔で消費しながら、帝国軍総帥ゼヴィラスと、美しく装った瑞貴と談笑している。 瑞貴は、衣装がユニセックスだったのもあって、周囲から男装の姫君的な扱いを受けていたが、本人は慣れているのか諦めが入っているのか気にもしていない風だった。 「少し、見せていただいたのですが、帝国の繁栄は素晴らしいですね」 アルティラスカはゆったりとしたティータイムを楽しみながら、隣席のローザと会話を交わしていた。 「私、失礼ながら帝国のことにはあまり詳しくなくて。幾つかお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」 「ええ、もちろん」 「お兄様に関することなのですが……彼のお人柄や人望についてお教え願えますか」 「そうね、わたしにとってはよき兄でしかないから、なんとも言えないけれど、帝国の人たちには愛してもらっていると思うわ。兄の立体写真なんて、飛ぶように売れるらしいわよ、きっと魔除けね、あの顔だから」 「では……政治的手腕はどうでしょう?」 「帝国内なら、なかなかのものだと思うわ。帝国の人たちが不便な思いをしないように、というのが兄の行動理念だから。でも、対【箱庭】という意味ではあまり優秀とは言えないのじゃないかしら。だって、言葉で説き伏せることが出来ずに、結局こういう方法を取っているのだもの」 アルティラスカの問いに対して返って来たのは、帝国一の貴婦人にしては驚くほど歯に衣を着せぬ、恐ろしくさばさばした物言いだった。 「兄はね、顔で損をするタイプなのよ。いつでも苦虫を噛み潰したような怖い顔をしているけれど、あれで小さな動物や甘いお菓子が大好きだし、お酒を飲ませると脱ぎ出すし、本当は愉快な人なんだけど、頑固で不器用なものだから、色々と背負い込んで損をしているのね」 「……ローザ様、あの、あまり赤裸々に帝家の裏事情を話されては……」 「だってディバル、この方たちはロウのお友達なのでしょう? なら、そのくらいのこと、隠したって仕方ないじゃない」 唇を尖らせたローザの、少女のような仕草にアルティラスカは微笑んだ。 「ローザさんはお兄様のことが大好きでいらっしゃるのね。きっと、仲のよいご兄妹なのでしょうね」 アルティラスカが言うと、ローザははにかんだように笑い、それから少し、寂しげな表情になった。 「わたしにとって彼は、何十年経っても変わらないよき兄よ。兄が何をしようとしているのか、わたしは聞かされていないけれど、わたしは彼を信じるわ。わたしたちが今幸福であるように、彼にもそうであってほしい」 「ええ」 「だけど、何となく判るのよ」 「何が……ですか?」 「彼は、死ぬ気なの。命を捨てるつもりでいるのよ、すべてが終わった暁には」 「それは……」 次々と【箱庭】を陥落させ我が物としてゆく帝国の、強権を振るう冷酷非道な皇帝。 初めに事情を聞いた時、大抵のロストナンバーたちが思い浮かべたであろうそれとの齟齬に、アルティラスカはわずかに眉根を寄せていた。 ――恐らく、皇帝は私利私欲のために戦争を起こしているのではない。 帝国も華望月も、双方、邪まな思いで何かをしようとしたのではないし、今も、お互いに、我欲のためだけに戦っているわけではない。ただ、何か、決定的に食い違ってしまったものがあって、そこから歩み寄ることも判り合うことも出来ないまま、泥沼の戦いを続けている。 そんな気がした。 (ドミナ・ノクス……あなたは、世界がどう動くことを望みますか) 自分もかつては同じ立場だったため、アルティラスカには夜女神の哀しみと虚しさ、歯痒さがよく判る。外側の神として『容器』を守ることしか出来ない己への無力感ならば、アルティラスカも味わい続けてきた。 彼女は護るために戦い、結果、自分の護った世界から放逐されてしまいはしたが、それでもアルティラスカに後悔はないのだ。 同胞たるドミナ・ノクスにもそうあって欲しい、そのために何か出来ることがあるのなら力を貸そう、そう思いつつアルティラスカは再び茶会に向き合う。 「……ごめんなさい、こんなことを話してしまって」 「いいえ、お気持ちは判ります。大切な方の死の気配に黙っていられる人間はいませんもの」 「ええ……ありがとう」 アルティラスカが微笑むと、ローザは気を取り直したように穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。 と、先ほどまで茶会に参加しつつ雑用にも従事していたロウが懐を押さえて立ち上がり、人々に詫びつつ席を立った。 どうやら皇帝その人から呼び出されたものであるらしい。 それを見送りながら、アルティラスカはこれからなすべきことについて思いを馳せる。 ――活気あるお茶会は、まだ続いている。
このライターへメールを送る