壱番世界にある大型図書館と同じように、世界図書館には関係者以外立ち入り禁止の場所がある。修繕の必要な書物が一時的に集められる部屋や、異世界より持ち帰った物の保管部屋、反省部屋、日々なんらかの形で使われている部屋の他、物置になっていたり、中には何の部屋かもわからないまま閉ざされ続ける部屋もある。 窓から温かな日差しが差し込む廊下をリベルが歩いてる。威勢よく靴を鳴らして歩く廊下にはリベルの足音しか響かない、はずだった。ふと、リベルは何か聞こえたような気がして足を止め、あたりを見渡す。しんとした廊下と等間隔に続く木漏れ日は、いつもと変わらない風景だ。 気のせいかと思った時、また、リベルの耳に微かな音が届く。ざわざわとした、小さな物が動く様な音が聞こえ、リベルは耳を澄まし、音のする方へと歩き出す。ゆっくりと歩き音がだんだんとはっきりしてきた頃、その音が誰かの、女性が声を殺しすすり泣いているようだと気がつくと、リベルは一つの扉の前にたどり着いた。何の部屋かを確認したリベルがドアノブに手をかけると、ぴたりと声が聞こえなくなる。不思議に思い、リベルが扉をあけようとするが、扉には鍵がかかっている。「誰か、いるのですか」 扉越しに声をかけてみるが返事はない。リベルはポケットから鍵を取り出し部屋の中へと足を踏み入れるが、やはり誰もいなかった。そもそも、鍵がかかっている時点で中に人がいないはずだ。鍵をかけて部屋の中に籠る、というのはサボリか悪戯相談かと考えられるが、どちらにせよ廊下に声が漏れ聞こえるような事はしないだろう。「気のせい? ……そういえば、何か報告があったような」 首を傾げ、リベルは先日聞いた不思議な話を思い出しながら鍵をかける。扉には【竜刻保管室】のプレートが付いていた。 シャカシャカ、シャカシャカと何かを振る様な音が聞こえ、シドは足を止めた。リベルを含め数人が女のすすり泣く声を聞いた、という話が司書達に通達されたのを思い出し、シドはふむ、と顎に手を当てて考え込む。確かリベルが言っていたのは【竜刻保管室】だし他の者たちもその辺りだったと言っていた。しかし、シドが今いるのは【竜刻保管室】のある階より一つ下の廊下だし、何より今の音を女のすすり泣く声だと聞くのは、無理がある。とはいえ、報告もあり実際聞こえてしまった異音を放っておく事もできず、シドは音の聞こえる方へと歩き出すと、シャカシャカという音に加え、トトトン、トトトン、という音も聞こえ出した。「なんだか、聞き覚えのある音だが……あぁ、太鼓のような音だな」 シドはリベルの報告と同じ行動を繰り返すかの様にドアノブに手を伸ばし、音が止まるのを確認すると鍵のかかっている扉を開け室内を見回る。異世界より持ち帰った品々を保管する【物品保管室】には武器や日常品を始め、触れてしまうとちょっと面倒な事になる曰く付きの品々が並んでいるが、やはり、誰もいない。「ふぅむ、ここまで来ると手の込んだ悪戯、じゃぁないな」 扉に鍵をかけ、シドは足早に歩き出した。 女のすすり泣く声とは別に異音が聞こえる、という不思議な出来事の次に起きたのは、誰もいない筈の部屋に影が走る、という物だった。今の所、怪我や紛失といった被害はないものの、気味が悪い事に変わりはなく、こういった現象が苦手な司書達は精神的にぐったりとし始めている。 リベルとシド初め、実際に音を聞き、影を見た数人の司書達が話し合っていると、悲鳴を轟かせながらエミリエが駆け込んできた。涙をぼろぼろと零し自分の後ろを指差すエミリエは口をパクパクと動かして 「か、影が、影が」 と、繰り返し呟いた。余程驚いたのか、その場所や姿かたちを伝えようとするエミリエだが、その両手はただせわしなく動いているだけで何もわからない。どうどう、と馬でも扱うようにエミリエの背を撫で、落ち着かせていたシドは、エミリエの足元に落ちていた一冊の本に目が留まり、それを拾い上げる。「エミリエが影を見たのは【第十三書庫室】みたいだな」「……エミリエが何の要件でその書庫に行っていたのかは別として、これで三つの部屋で異変が起きている事は明白ですね」 女のすすり泣く声が聞こえる【竜刻保管室】 異音が聞こえる【物品保管室】 影が現れる【第十三書庫室】 実害はありませんが、と前置きをし、リベルは言葉を続ける。 「今後も害がないとは限りません。各部屋の調査をしましょう。担当はいつもどおり、AMIDAで決めます」 司書達の中にも、得手不得手や興味のある物事は存在する。この様に、いつもの業務と違う事が発生する場合は、基本、第一発見者や関わった者に一任されるが、今回は多数の司書が関わっている。そして、今回のような不思議な現象に興味を持つ司書も複数いるのだが、誰が行くかを決めるのに揉めないよう、かつ、迅速に決められ、全ての司書が公平になるよう、AMIDAが実行されるのだ。 AMIDAによって選別された司書は、いかな理由があろうともこの仕事を全うせねばならない。のだが。『聞いてない聞いてない! なにそれ聞いてない! ていうかなんで夜になる日に調査させんだよ!』「いえ、AMIDAの前に説明しました」『平気なヤツがいけばいいじゃないかー! やだー! おっさん怖いの嫌いーーー!』 不運にもAMIDAによって選ばれたアドの看板にはヤダヤダ行きたくないという言葉がびっしりと連なっている。「お前さん魔術師じゃなかったか?」『関係ねぇし! 理解不能意味不明な存在は無理!』 シドの言葉にアドの看板には大きく字が浮かぶが、その文字は指先で摘んだ筆先で書いたかのように震えていた。あの看板は持っている人の恐怖も伝えるらしい。 同じく選ばれた無名の司書もまた恐怖で身体をぷるぷると震わせ、へっぴり腰でエミリエに縋り付き泣きながら訴えかける。「ねぇねぇ、エミリエたんの悪戯なんでしょ、ねぇ、そうだといってお願いだからそうだといってぇぇぇ」『そ、そうだ! いまなら一緒に正座するから! 反省部屋にもはいったげるから!』「エミリエ楽しくないイタズラしないよー」「いやゃぁぁぁ! ルルーさんルルーさん! ルルーさんだって嫌で……」 最後の砦、とAMIDAによって選ばれた三人目ヴァン・A・ルルーに同意を得ようと縋るが、もっふりとした丸い手が祈るように胸元に添えられ、プラスチックの瞳が意志を持っているかのようにキラキラと輝いている。「ミステリー……」 どうみても全力で楽しんでいるの事がわかり、無名の司書とアドの身体がくず折れた。『ろ、ロストナンバーの同行を、希望する!』「……必要ですか?」『必要! 超必要! 見に行って俺たちが帰らなかったら、二度手間! 一度で済ませる! 合理的!』 リベルに向けられた看板の字は大きく、アドの叫びを伝えているがその文字は震えたままだ。小さなアドの身体を両手で掴み、コクコクと頷く無名の司書も交え、体全体をぷるぷると震わせる二人にリベルはそうですねぇ、と声を漏らす。「確かに、一度で済ませ方が合理的です。よろしい、特別にロストナンバーの同行を許可しましょう。ただし、司書も同行、関係のない部屋には入らない、備品破損は各自実費で弁償、以上が条件です」 かくして、司書以外が訪れる事の滅多にない、世界図書館奥地への道は、開かれた。 「私達が調査するのは、影が現れるという【第十三書庫室】になります。内部は非常に広く、複雑に入り組んでいるところもありますから、迷子にならない対策が必要かもしれません」 そう説明する赤いクマは、何故か妙に嬉しそうだった。 蕩々と語る声すらも、気のせいか少し弾んで聞こえる。「書庫は密室ではありませんし、入り込もうと思えば誰でも…とは少々言い難いながらも不可能ではありません。しかし、影の正体を見極められたモノは今のところはいないのですよ。私の知る限り、司書たちの誰か…ということはなさそうです」 夜闇に沈む世界図書館で怪奇現象の謎を追う――果たしてコレはどんな解決を見るのか。 超常現象なのか、イタズラなのか、あるいはもっと不可解な《何か》なのか。 様々な可能性を検討し、推理しながら調査するのは、考えようによってはちょっと面白いかもしれない。 普段は踏み込めない場所へ行けるのだから、探検隊気分も味わえそうだ。 そう思うと、心が躍り、弾む。 が、不意に、「ああ、ひとつ言い忘れていました」 ルルーはもっふりした手を叩き、小さく首を傾げて見せた。「蔵書は実に多種多様で、滅多に表に出ることのない、あるいは表に出すことが禁じられている魔術書も数多くありまして。中には願いを叶えてくれるモノもあるのですが、……まあ、調査の際には十二分にご注意くださいね」 なぜだろうか。 口元に手を当てて告げるクマ司書に、この瞬間、とても不吉なフラグを立てられた気がした。「さあ、この謎をともに解いてみませんか?」 差し伸べられたその手を、さて、自分は本当に取っていいのだろうか――?!注意!『戦慄世界図書館』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『戦慄世界図書館』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
「ここが《影》の目撃証言が得られた第十三書庫室です」 演出のためだろう、空に掲げられた月の光が、天窓から斜めに差し込む扉の前で、ルルーは今回の同行者たちを振り返った。 「中は複雑に入り組んでいますから、気をつけてくださいね?」 そうして彼は小さな両手で重い扉を開け放つ。 曰く、禁書や魔術書が多く所蔵された第十三書庫室には、不審な影が現れるという―― 「本! すげぇ、本ばっかりだ!」 嬉しそうに最初に声を上げたのは、理星だ。 少々薄暗い書庫室内は、天井から下がる磨りガラスのシャンデリアによって橙色に染め上げられている。 どうやら階下に向けて吹き抜けとなっているらしく、部屋に入ってすぐに設えた螺旋階段が下へ下へと続いていた。 ちらりと手すりから身を乗り出せば、無数の本からなる深海を覗き込むような錯覚に陥る。 「こんなにたくさんの本に囲まれるなんてすげぇ」 「……ほう」 はしゃぐ理星の隣で、グラフェン・サートウもまた興味深げに目を細めた。 写本家たる彼には、視界に入るすべてのモノが宝、そして宝が詰まったこの書庫そのものが絶景に映る。 「世界図書館の書庫と言うから、さぞかし様々な言語の本があるとは思ったが……すべて手に取っていきたくなるな」 「うわわ、本ばっかり!」 理星と一緒になって手すりから身を乗り出しながら、藤枝竜は何度も瞬きを繰り返す。 「ここが怪奇現象の現場になっちゃってるって、スゴイ分かるかも」 「幽霊のロストナンバーくらい、普通にいそうだよね」 カーキ色の上下に、ライト付ヘルメットと鳥籠を括り付けた大きめのリュックといった壱番世界の特番でみる探検隊ルックで望むのは、参加者最年少の三ツ屋緑郎だ。 「……どれだけの禁書と魔術書が隠されてるんだろうって思うよね」 そうして、誰とはなしに呟く。 ソレに、どれだけの秘密も、と。 「では、行きましょうか」 ルルーに促され、4人はゆっくりと階段を下り始めた。 グラフェンはそのおりに、扉のドアの部分へ糸の端をそっと結びつけておく。 「あのあの、何してるんですか?」 案内人たるルルーの手をしっかりと握りながら、竜が不思議そうに首を傾げた。 「ああ、迷宮と言えばこれだと思ったのでな。お守り程度にこういったことをしてみたのだ」 「“迷宮といえば”……?」 「アリアドネの糸だよね? ミノタウロスの話、僕も読んだんだ」 ピンと来ずに首を傾げる竜の後ろから、さらりと緑郎の声があがる。その瞳は、遠くなりつつある階段の始まりへ向けられていた。 つられて彼の視線を追いかければ、歩く度にするすると解けていったためだろう、糸紡ぎの軌跡が橙の明かりの下にぼんやりと浮かび上がっている。 「壱番世界の書物によるものだ。神話に類するのだろうな。諸説多く、実に興味深い内容だった」 「それってスゴイ話?」 迷宮と糸とミノタウロスが繋がらず、ますます竜は首を傾げる。 「生け贄に選ばれた男が迷宮の攻略方法として王女に託された糸玉を迷宮の入り口に縛りつけ、帰りにはその糸を辿って脱出できた、という神話なんですよ」 ルルーが腕の中から答えると、 「「……へえ」」 竜とともに、先頭を行く理星もまた一緒になって感嘆の溜息をつき、そしてグラフェンを見やった。 「迷子になったら頼むぜ?」 無邪気で何気ないその台詞が、のちにどこへ懸かるのか、今はまだ知るよしもない。 「着いた! すげえ! なあ、これって読んでいい?」 最後の一段を終えた途端、理星がパァッと笑顔で瞳を輝かせ、画集らしき大型書籍が連なる一角へと弾む足取りへ飛び込んでいく。 「うわわ、だ、大丈夫かな」 竜はそんな彼の後ろ姿をハラハラと見守っていた。 「あ、大丈夫、……そう、かな? あ、こけそ、あ、ああっ」 背にした美しい羽根がどこかしらにぶつかるのではないかと心配でしかたなくなり、目が離せない。 実際にはなんの問題もなく理星は本の水底を突き進んでいるのだけれど、気になってしまって仕方ない。 「竜さんはお気遣いの方なんですねぇ」 「え?」 クマのぬいぐるみが、自分を見上げ、しみじみと、かつ微笑ましげに呟いた。 「理星さんはどうやらあの一角に落ち着くようですよ?」 いわれ、視線を戻せば、一抱え以上はありそうな大きな本を広げ、床に頬杖をついて寝転がる理星の姿が目に入る。 ゆったりとしたばた足がまるで子供のような仕草だ。 薄暗い書庫室内で、開いた本の中から色とりどりの光の粒子が舞い上がり、弾け、時に氾濫している。 よほど面白いらしく、あっという間に『本』の世界に引き込まれた理星の周りには無邪気でほのぼのとした雰囲気が取り巻いて、どことなく、彼自身がお伽噺のワンシーンを紡ぎ出しているかのようだった。 「本はすべて鎖で繋がれているのだな?」 「ええ。盗難防止であり持出禁止の書物が多く存在していますから」 グラフェンが見ているのは、理星の楽しげな姿ではなく、彼の手にした本が細い鉄鎖で本棚に繋がれている様であるらしい。 「それじゃ僕も探検開始しちゃおっかな」 緑郎がするりとポケットから取り出したのは、矢印の形をした蛍光色の付箋だ。ソレを貼り付けながら、ひとり、どんどん奥へと進んでいく。 緑郎隊員は孤高の冒険家を目指すらしい。 「さて、竜さんはどうします?」 「私は、とにかく怪しげな所をとことん隅々までみていこうかなって。きっと見つけられるって気がするし」 「ほう、《影》がどういったモノであるのか、なにがしかの考えがあるのだろう?」 グラフェンの声が頭上から降ってくる。 「ええと、ですね、一番に浮かんだのは影型のツーリストさんかなって。壁も通り抜けられちゃうんだったら、いろんな所に出てもおかしくないし」 懸命に答える竜に、彼はゆるく口元を引き上げた。 「なるほど、影は変幻自在の存在だ」 「しかも神出鬼没なんですもん!」 常識も非常識も日常も非日常も混ざり合うのがターミナルだ。 「本当にただの小動物である可能性もなくはないと思うのだが。光の当たり方によっては小さな鼠でも大きな獣の姿となるだろう、当然目撃者の勘違いも考えられる、――が、それだけで図書館司書たちが容易に驚かされるものだとは思えないな。あるいは」 「……あるいは?」 「あまり清掃は行き届いていないようだ。埃による静電気現象という可能性もなくはない」 あれ、と思う。 気難しげな外見からは想像しにくいけれど、彼の声はどこか弾んでいる。 好奇心にうずく表情がちらりとそこに窺えた。 「解くべき謎があり、解くべく挑むものがいる、これぞミステリーです」 「ルルーさんも嬉しそう」 「ふむ、我輩も始めるとしようか……ところでそのまえにひとつ、いいだろうか?」 「はい、なんでしょう?」 「ずっと気になっていたんだが、貴殿が手にしているその書物は一体どういった類いなのだ」 常にルルーが携帯している壱番世界のペーパーバッグを模した紫の書物に、グラフェンはひそかなる興味を抱いていた。 「ああ、この【導きの書】ですか?」 「中を見ても?」 「ええ。構いませんが、しかし、面白味はないと思いますよ?」 そうして、差し出された紙面に目を落とし、いかんともしがたい溜息をついた。 「導きの書は、その持ち主以外には中身が読めないんです。例え司書同士であっても」 「本という体裁でありながら“読めない”ものが存在しているというのか」 「ええ」 ルルーはこくりと頷き、写本家グラフェンを見上げて微笑む。 「なるほど、我輩の好奇心がひとつ満たされた」 「それはなによりです」 「新たな解明を我輩も楽しみにしている。では、また後ほど」 「ええ、後ほど」 「また後で会いましょうね、サートウさん!」 にこやかに仲間を送り出し、床に落ちていくアリアドネの糸を視線で追って、竜もまた進むことを決意する。 「んー、それにしても本ばっかり」 うっかり炎を出して燃やしてしまったらどうしよう、という不安を消すように、赤いクマの右手をしっかりと握って歩き出した。 グラフェンは書物ひとつひとつに関心を寄せながら、一方で何かに呼ばれるかのごとく、本の迷宮を進む。 「ほう」 影の正体は気になる。 わざわざ曰く付きだと断っているのだから、むしろ何もない方が不自然だろう。 それが引き起こされる理由は知りたい。 だが、それを探るのと同じくらいに、あるいはそれ以上に興味を引かれるのがこの書庫室だ。 触れたい、見知らぬ言語で溢れた書物たちと邂逅を果たしたいという欲求が内側から湧き上がってきて止めどなく溢れてくるような気がする。 本は、本という体裁を取っている、ただそれだけで十分に素晴らしい存在だ。 しかし、写本家としての視点で見るならば、ひとつひとつを紐解き、何が書かれているのかを知り、その価値と面白味に浸りながら作業したい、とも思う。 かつていた世界において、数多の魔術書をこの手で写した。 正確無比なる仕事への矜持。 未知なる言語と思想と体系に触れる瞬間の、恍惚とした知識欲の充足。 それらをいまだ追い求められる幸福とともに、グラフェンはあらゆるモノを記憶すべく室内を眺めていく。 その目が、ある箇所でひたりと止まった。 比較的背の低い書棚に囲まれた空間に、ぽつんと置き去りされている本がそこにある。 あまりの無造作な置き方に、むしろ厳重な封印でも施されているのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。 鎖の切れた漆黒の書には中心に大きな宝石がひとつ嵌め込まれ、その周囲は金糸の刺繍で縁取られていた。 一体誰が、こんな場所までこの本を連れ出してきたのか。 こみ上げる知的好奇心のままにソレを手にした、途端、視界の端で《影》がゆらりと揺れるのを捉える。 ゆらゆらと、こちらを伺うように、試すように、ひっそりと揺らめくソレは、ありきたりな小動物の気配ではない。 「貴様、何を狙っている?」 しかし影は、何をするでもなく、何を訴えるでもなく、するりと逃げるように引いていく。 牽制と取るべきだろうか。 それにしてはあまりにも自己主張が弱い気もする。 グラフェンは糸とトランクを手に、影を追い始めた。 「……禁書、……禁書、か」 緑郎は、正体不明の《影》の所在を探りながらも、その視線はずらりと並び続ける背表紙をなぞっていた。 できるなら英語。 できるなら、真っ当に出版されたモノであるよりも、手帳や手記に近く古い年代のモノを。 指とタイトルを読み上げていく声が、深海をさすらっていく。 確信犯的に仲間達をはぐれるようにして奥へ踏み込んでいけば、いつしか視界からは吹き抜けの天井が消えていた。 上も下も右も左も、よくぞここまで詰め込めたといいたくなるほどの本で溢れている。 資料庫としての機能も持ち合わせているのなら、なにがしかの手掛かりは得られそうな気がした。 チャイ=ブレについて、セクタンとの関係について、ファミリーについて、契約について。 世界図書館には謎も秘密も多すぎる。 以前ファミリーのゴタゴタに乗じてこの組織の根幹に関わる部分に手を伸ばしてみたけれど――結局、明確な答えはなにひとつ手にできなかった。 前館長は《パーマネントトラベラー》として異世界をあてどなく旅し続け、ひみつを握っているはずのアリッサの父親は今も仮死状態のまま【赤の城】で眠っている。 レディ・カリスやロバート卿に直接聞いても答えは出ず、他のファミリーに接触をしてみたところで答えをそのまま得ることは叶わないことくらい理解できる。 加えて、世界樹旅団との関係だ。 本当に彼らを敵と見なして攻撃対象に据えていいのか、その根拠をどこに置くのか、自分が自分の意思で戦うことを決められるほど正確で明確なモノなどなにひとつないというのに。 知りたいのに、近づけない、近づかせてもらえない、このどうしようもない距離感が、たぶん不安と不信を増長させる。 緑郎は、表だってこの考えを叫んだりはしない。 けれど、内側に飼っている想いの為に、チャンスがあるのならそれを掴みたいと望んでここにいる。 「……今はまだ、八方塞がりだけどさ」 呟いたその視線が落ちた先に、長く伸びた影を見た。 影、だ。 「え」 反射的に振り返る、その眼が捕らえたモノは―― 「なあ、何してんだ?」 ひょこりと、本棚の隙間から顔を覗かせた理星だった。 「……あれ、さっきまで本読んでなかった?」 「読んだ、すっげぇ面白かった! でも続きがねぇんじゃ読みようがないだろ? だから依頼の方、開始」 「そっか」 せっかくだから一緒に、という彼の言葉を、緑郎は彼に負けぬ無邪気な笑みを作り、了承した。 「あれ、なんかイイニオイ?」 竜の食欲を刺激するのは甘いお菓子ではなく、香草とともに焼く肉の香りだ。 引き寄せられるようにふらふらとニオイのする方へ歩いて行けば、比較的背の低い本棚がほぼ90度の角度で互い違いになりながら並ぶエリアに入り込んでいた。 「おいしそうだよ、ルルーさん!」 「なるほど、魅力的ですねぇ」 思わずそれぞれ手にとって、一冊一冊を改めていく。 「……あ、ねえ、これって」 見たこともない紙幣が一枚、挟まっている。透かしの入った百合のような植物をモチーフにしたデザインが繊細で可愛らしい。見知らぬ国の見知らぬ通貨。きっと誰かのへそくりだ。 「なんかカワイイ」 「《悪魔の発生とその背景、召喚に至るまで》というタイトルではありますけどね」 「誰も手に取らないかなって思って隠してたのに、奥さんにタイトルが気に入らないとか、道楽も大概にしてとか言われちゃって売り払われちゃった、とか想像すると楽しくないです?」 「ホンモノの召喚師だったかもしれませんよ?」 クスクスと笑いあう、そんなふたりを、ぐわんっと突然闇が襲った。 瞬間的ブラックアウト。 「うわ、わ!?」 不意打ちに驚いて、思わず竜の中から炎が上がった。 反射的なその光によって、覆い被さってきた影らしきものが一気に飛び退き、不定形に流動して物陰へと走り出す。 「まちなさーい! 不法侵入ですよー! そんなことしたら故郷のお袋さんが泣いちゃいますよぉ! 諦めて出てくれば何も怖いことはありませんよぉ!」 立て籠もり犯への呼びかけめいた台詞を叫びながら、竜は《影》を追った。 明かりローラー作戦発動だ。 ぼむぼむぼむっと、立て続けに炎を広い空に向けて吐き出しては、橙色に沈んでいた書庫内から闇という闇を払っていく。 影は逃げる、逃げる、逃げる。 竜は追い、追いかけ、追い続ける。 書庫室といいながら、少女が全速力で駆け抜けられるほどの広さを有しているのがいけない。 「……え」 車は急に止まれない、という標語が壱番世界の日本にはあるらしい。 だが、竜は車じゃない。 本来なら鮮やかにクイックターンのひとつも決められたはずの足に、何かが引っかかった。 いや、何かに引っかけられた。 「――っ!?」 ものの見事にバランスを崩した少女は、声にならない悲鳴を上げながら、勢いそのままに本棚へ体当たりを喰らわせる。 一瞬、突っ込んでいく身体を何かが後ろから止めようと掴んでくれた、気がしたが、しかし、留まることはできなかった。 「なあ、なあ、おーい、なんか言いてぇことがあんなら出てきてみろよ? 俺たち、悪いことしねぇよ? なあ」 屈んだり、覗き込んだり、背伸びしてみたり、見回してみたり。理星は淡く燐光を放つ羽根を落としながら、気配を探り、見回す。 点々と続く淡い光の道筋を、緑郎は不思議そうに振り返った。 「あれは?」 「光に興味持ってこっちに寄ってこねぇかなって、そんな感じ」 「もしかして、小動物的なの期待してる?」 鳥籠を指にぶら下げながら、緑郎が見上げる。 「ん? あ、や、なんでもアリだとは思ってんだ。俺には難しいことは全然わかんねぇけど、でも、ひとりぼっちじゃねぇならいいな、とか」 「ひとりぼっち?」 「そ、ひとりぼっち。アレってよくねぇじゃん。だからさ、淋しくって出てきてんなら、淋しくねぇよって教えてやりたいし」 「だけど、淋しくって脅かして人来なくなったら、本末転倒じゃないのかな?」 「ソレで余計に淋しさが募ったりしてな」 「……あれ?」 緑郎の伸ばした手が、その指先が、違和感を捉えたらしい。 「ここだけ、冷たい」 目をつけた背表紙に懸かる、途端――鈍く重い音を立てて、壁に接していた本棚の一部が奥へと引っ込むのを見た。 本と本の間にぽかりと開いた正方形の口は思いのほか大きい。 「隠し通路や隠し部屋はよく聞くけど、コレは隠し棚とかいうのかな?」 「すげぇな。色々飛び出してくんだから」 「とりあえず、何かを意図的に隠してるってことだよね。……うーん、なんか、むずかしい、かな?」 背伸びして、覗き込んで、懸命に中へ腕を差し入れて、それでも緑郎の手は微妙に空を掻き、届かないようだ。 だとすれば、理星がやるべきことはひとつだ。 「よっ」 「う、わっ」 背後から緑郎の脇に両手を差し入れ、ひょいっと持ち上げる。けっして小柄とは言えない彼を無造作に。 少年の身体は驚くほど軽く、簡単に床から引き離された。 「なんか見えるんだろ? 俺も気になるじゃん。……どうだ?」 「あ、ちょっと待って、もうちょっと……っ」 そのまま腕の力で穴の中に上半身を潜り込ませ、暗闇の中を手探りで進み、 「んー、あ、ありがとう、掴めたよ!」 「了解!」 そうして理星に再び抱えられる形で這い出てきた彼の手には、ひどく古びた手製とおぼしき一冊の書物があった。 「なんだろ?」 「ここに納められてるってことは、禁書の類いじゃね?」 「……『虚無の詩篇』……詩集?」 著者名は掠れているが、かろうじてディラックと読めた。 「この人って、確か壱番世界の13世紀の錬金術師じゃなかったかな。オカルト大好きな王様のお抱え錬金術師」 「じゃあ、やっぱり魔術書じゃねぇの?」 どこか無造作に、けれどその実、ひどく繊細な手つきで、理星が緑郎の横から詩篇のページを繰る。 そこには百を超える詩が延々と綴られていた。 錬金術師の肩書きとともに綴られているのは、自分たちのよく知る《ディラックの空》を題材としたものだ。 世界図書館の立ち上げは19世紀と聞いているが、その遙か昔から幻視するモノはいたという事実がそこにある。 と、あるページのところで、はらり…と紙が落ちてきた。拾い上げてみればソレは手紙の一部のようで。 「ベイフルック家に所蔵されている『虚無の詩篇』を読ませてくれって内容みたいだけど」 インクが滲み、掠れ、分かりづらいが、わずかに、そう、前館長の名が書かれているような気がする。 エドマンドがベイフルック家にこの本を求めてやってきた、そこから、《世界図書館》の歴史は始まったのかもしれない。 額を付き合わせるようにして読解を試みる彼らの視界が、不意に陰った。 「――っ」 考えるより先に、理星は動いていた。 緑郎の頭上を容易く越えて、空を薙いだ剣は、獲物を捕らえた手応えを確かに伝えてくる。 勝負は一瞬だった。 真っ二つに裂かれて地に落ちたのは、牙を剥いてのたうつモンスターだ。影ではなく、当影でありようのない実体。 ソレは数秒ほど床に留まり、そして消えた。 「……今のが影の正体だったりしないよね? そんなのあっさりすぎる」 「今のはたぶんベツモノじゃね? なんか盛大にいろんなモンを開け放った気配もしてる」 その言葉に被り、ぼんっと小さな爆発音らしきものが聞こえてきた。 次いで悲鳴じみた何かも。 ふたりは顔を見合わせ、頷き、走り出す。 「うわわ、わ、あ、ああっ」 未分類という分類がなされていた一角は現在、本という本が開き、溢れ、ヒヨコらしきモノが列をなして歩き、得体の知れないゲル状の何かが這い出し、ピチャピチャと得体の知れない水音が続く惨事に見舞われていた。 「ずいぶんと派手にやっているようだが、大丈夫か?」 「あ、サートウさん!」 少女の声に頷きを返し、そして周囲を睥睨。 本からあふれ出した凍える冷気が、氷壁を形成しながら辺りを浸食していく様は美しくもあるが、危険だ。。 「ただ開くだけで封印が解かれるモノも多いらしい」 冷静に、グラフェンは自ら携帯しているトランクから本を一冊取り出す。 今最も必要な呪文を、ソレが書き写されているページを、指先が記憶する通りに迷うことなく開き、詠唱。 文字は音になり、音は力となり、力は光となり、紡がれ、広がり、百を超える数多の書物たちをひとつひとつ包み込み、あふれ出た混沌そのものを光の中に閉じ込め、閉ざし、鎖で繋がれた棚へと戻していく。 ソレは幻想の封印。 「……キレイ」 瞬きも忘れて見入る竜の呟きに、そっとグラフェンは目を細めた。 そこへ、 「うわ、スゴイ有様だね」 「ここからあふれてきたモンだったんだな」 網の中でごそごそ蠢くモノをサンタクロースよろしく担いで現れた緑郎と、その後ろを護る理星の登場だ。 「あ! 緑郎さん、理星さん! うわわ、すみません」 「影は捕まえられたのか?」 「影は見かけたけど、捕まえられてないよ。その本から出てきた奴らは捕まえたけどさ」 そういった差し出された網の中身は、緑郎が手を離すと同時に本の中へと吸い込まれていった。 「そっちはどう?」 「我輩は遠巻きに眺めてくるモノを見たのみだ。追っ手はみたが見失った」 「アッチこっちに出てるし、やっぱりツーリストさんなのですかねぇ?」 「古いモノには魂が宿るっていうじゃん。魔術書なんかそれ自体チカラを持ってるわけだし、自我が生まれて動き回っても不思議ないだろ」 「幽霊でも僕は構わないよ。それより巨大な蟲系が飛び出してくる方がもっと怖いんじゃないのかな?」 「はっ、やめて、緑郎さん! 私、それ想像したくないっ」 涙目で耳を塞ぐ竜は、すぐさま恐ろしい想像を打ち消すような自説を口にした。 「あ、開くと映像が再生される仕掛けの本だったりして!」 「……ふむ。ここには閲覧場所も一応は用意されているのか……ならば」 テーブルの前に立ち、グラフェンは持参していた方眼紙をトランクから取り出し、広げた。 「専門ではないのだがね」 言いながら、そこへペンを走らせ始める。 描き出されるのは、記憶した柱の位置や壁の厚さ、書棚の配置から割り出した迷宮の見取り図だ。 「目撃地点は、こことここ、それからここ、で間違いないな?」 さらに、今度は彼らから得た情報を書き込んでいけば――散漫で曖昧なモノが、ひとつの形に集約される。 誰の目にも明らかに、ソレは形を為していく。 「なんでしょう、これってなんだかすごく意味があるっぽいです」 「ここには近づくな、っていう警告の可能性も考えられるけどさ、じゃあ何があるんだって話?」 「襲ってきたのは魔術書から出ていた奴らじゃん? 司書たちが見た影も俺たちが見かけたのも、こっち見てるだけじゃなかったか?」 「え、でも私、思いっきり足引っかけられたよ?」 「だが、そのおかげで興味深いモノを見つけもした。空になった本棚の裏面に文字が刻まれていたんだがな」 脳裏で再生される映像に、つい先程目にした文字が浮かび上がってくる。 「“白と黒を引き裂く事なかれ”」 「どういう意味だか全然わかんねぇけど、意味ありげだってのは分かる」 ではその真意は何か。 だが、議題はそちらへ移る間もなく、緑郎が別方向の台詞を口にする。 「あのさ、推理の途中で悪いんだけど、ちょっといい」 「なぁに?」 「僕、迷子対策に矢印の付箋を貼ってったんだよね。その向きが変わってる」 橙の光の中でぼんやりと浮かび上がる矢印たちは、確かに少し前までこの場所を指し示していたはずなのだと彼は言う。 そしてまた、グラフェンも変化に気づく。 「我輩の糸も、どうやら細工を施されたようだ」 閃きが、ひとつのロジックを構築する。 「諸君、逆は考えられないだろうか? 《影》は、我々を導きたがっているのだと」 曰く、第十三書庫室の中心には《閉じた匣》があるという。 影の目撃情報は円を描き、迷宮の出口を閉めるはずのグラフェンの糸、そして緑郎の付箋の矢印は、ある場所へ彼らと導く標へと変えられていた。 それがここ。 目の前に聳える《本棚》――ただ本が納められ、繋がれているだけではない、ひとつの棚そのものが鎖という鎖で雁字搦めに封印された代物だった。 「おそらくは封印を解かねば見えてこない類いだろう」 「んじゃ、さ、やってみっか」 理星の構えた剣に、グラフェンの詠唱が重なる。 断ち切るべきは、可視の鎖、不可視のチカラ。 その途中でふと、理星は気づく。 この封印は、おそらく一度は破られているのだと。 誰かの施した術に小さな傷と綻びを見つけて、そこに理星は己の切っ先を突き立てた。 カシャン…… 微かな、ガラスの割れるような音が響く。 本棚という存在そのものが揺らぎ、揺れて――その姿を《扉》へと変えた。 あるはずのない隠し扉が、4名を迎え入れるために現れる。 10メートル四方程の空間に3階分はありそうな丸天井、魔方陣とも星図ともつかない文様が一面に描かれた壁と床。 壮麗なる秘密の部屋。 そこには、本が一冊だけ置かれていた。 絡まり合う薔薇をモチーフとしたアイアンイーゼルがふたつ、けれど本が置かれているのはその片方だけだ。 宝石を嵌め込まれた純白の表紙に金糸の刺繍が美しい一冊の本が意味することを、グラフェンはすでに理解している。 ゆえに、為すべきことを為す為に、懐から取り出したモノをイーゼルに乗せた。 対になる、白と黒。 「あ」 振り返った竜が大きく目を見張る。 彼女の視線の先にあるモノを誰もが認め、そして、自らもまたソレを追う。 部屋の前に佇んでいた人型の影がゆらりと揺れて、ゆっくりとこちらへと歩み寄り。 純白の書へと漆黒の手を伸ばし。 純白の書からも白い手が差し伸べられて。 白と黒の影が繋がり。 絡み合い。 そして、 ――消えた。 後にはもう、何もない。 なんの気配も残らない。 「……んーっと、アレか、これで一件落着ってとこか?」 「今回の騒動ってさ、誰かがここから一冊を持ち出して、そのままにしていたのが原因ってことだよねぇ」 その犯人を今度は追及すべきだろうか。 そう顔を見合わせる一同の前で、不意に竜が声を上げた。 「そういえば、ルルーさんとはぐれちゃったんですけど、どなたか見かけました?」 だが、彼らは揃って首を横に振る。 同時に、ふとある可能性が脳裏を過ぎった。 糸も付箋もこの場所を指している。 見取り図はあるが、案内人となれるのはグラフェンひとり。 故に、はぐれた彼は出口を見失い、下手をすればそのまま迷宮の住人になってしまうかもしれない。 蒼くなった竜を宥めながら、怪奇現象探検ツアー一行は、今度は迷子のクマの捜索を開始する。 それから、小一時間ほど経った頃だろうか。 てんやわんやの末に、一行は、月光が差し込む閲覧スペースで身動きせずに迎えを待つクマを見つけるのに至るのだが。 そして後日、今度は【第十三書庫室】に銀の髪の幽霊が出没するという噂が流布することにもなるのだが。 ソレはまた別のお話。 END
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