その列車は、雲を割り、星のあいだを泳ぐように現れた。 深夜のヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅に、音もなく停車する。駅舎には誰もいない。月光がその輪郭を静かに切り取るだけだ。 サンタ・ルチーア駅は、ロンドン・ヴィクトリア駅を始点とする、ベニス・シンプロン・オリエント急行の終点である。もし何も知らぬものが見たならば、この豪華列車はオリエント・エキスプレスの車両だと誤解したかもしれない。 だが、オリエント急行が青列車(ル・トラン・ブルー)であるのに対し、これは赤列車(ル・トラン・ルージュ)とでもいおうか。天鵞絨のような深い艶のある赤に、繊細な金の装飾が印象的である。 乗客が次々と、ホームに降り立つ。 全員の降車を見届けると同時に、かがやく線路が宙に伸びる。サンタ・ルチーア駅のものであるはずがないその線路に沿い、列車はふたたび、秋の夜空に吸い込まれていった。 乗客のひとりは、深紅のドレスが目を惹く、美貌の貴婦人である。そのそばには、日傘を手にしたブルネットの髪の少女と、執事であるらしい壮年の男性と、そして、さまざまな――実にさまざまな、どこか異形のにおいをまとった人々がいた。カルネヴァーレの季節はまだ遠いというのに、幻想的な服装や容姿のものも多い。 人目を避けるようにして、彼らは月あかりの街を歩く。まるで、夜の眷属ででもあるかのように。 謎めいた彼らが、謎めいた列車でヴェネツィアに来た目的は――観光である。 ……そう、ただの観光客なのだ。 少なくとも、この1週間だけは。 † † † 世界樹旅団を相手取ったモフトピアでのトレインウォーにひとまずの決着がついた――いや、まだ課題は山積みであるし、状況は予断を許さないが、それでも突然の襲撃による動揺と、激しい戦争の緊張は一段落した、そんな時期のことである。 ウィリアム・マクケインは、レディ・カリスの《赤の城》に呼び出された。「ロバート卿から、ヴェネツィア観光のご招待をいただいたことは聞いていて?」「はい、アリッサお嬢様より……、いえ、館長より伺っております。先般のロストレイル襲撃にてロストナンバーたちが見舞われた災厄を憂い、トレインウォーでの健闘と成果をねぎらいたいというご意向のようで」「あのときはディナーの予定にお応えできなくて、とても失礼なことをしてしまったわ。お詫びかたがた、館長と一緒にご招待を受けるつもりなの」 さいわい、襲撃時にも会戦時にも死亡者は出なかった。重傷となったロストナンバーたちは退院しており、囚われたものも2名を除き、救出に成功した。世界樹旅団側についたと報告されたヌマブチと三日月灰人については、彼らなりの思惑を持っての行動であろうから、一概に「裏切り」とは断じ得ないというのが、居合わせたロストナンバーたちの見解であった。「生きてさえいれば、解決策は見つかるはずよ。わたしたちは、休むべきときには休んでおかなければ。おとめ座号の修理も終わったことだし、できるだけ大勢のロストナンバーをお誘いするつもりなの」「それはよろしいことかと思いますが、しかし」 休養のための招待に応じることが、いったい自分にどう関わってくるというのか。困惑するウィリアムに、「あなたも館長の旅行に同行しなさい。どこへ行くにも付き添って頂戴」 異例の指示が下される。「ですが私は、それはできない身で」 ロストメモリーであるウィリアムは、世界司書と同様に、特別の場合を除き、異世界間の移動を許されていない。 その反応は当然予期していたようで、レディ・カリスはおごそかに告げる。「館長職にある人物の異世界間移動は、それが公的なものであれ私的なものであれ、常に何らかの危険を伴います。したがって、1週間以上に及ぶ館長の視察・外遊には原則として、信頼のおける執事等の同伴を義務付けることを、理事会にて決定しました」 「主旨は理解いたしましたが、今回は、私が出向く必要はないのでは? 後見人のカリス様が同行なさるのであれば……」 「ウィリアム。わたしは静かに過ごしたいの」 カリスは白い指先をそっと額に当て、ため息をつく。「どうせ館長は、旅先ではいつものイタズラ娘に戻って、気の合うロストナンバーたちとはしゃぎ回るでしょう? あまり羽目を外さないよう、お目付け役がほしいのよ」 「……理解いたしました」 † † † 水平線の藍色が少しずつ薄れ、淡い水色に溶けて、天と地が交わった。 黄からオレンジに変わり始めた境界から、ゆっくりと朝日が昇る。 強い潮風が頬を打つ。 きちんと整えた金髪が吹き散らされたことに苦笑しながら、ロバート・エルトダウンは、自分以外の誰かの気配に振り返った。「やあウィリアム。僕がここにいると、よくわかったね」「見晴らしのよい場所におられるのではと、思ったものですから」 ウィリアムは慇懃に腰を落とし、言葉少なに告げる。「アリッサ様とカリス様は、到着後すぐ、ホテル・ダニエリ本館にチェックインなさいました。他の皆様も、ご用意いただいたお宿に落ち着かれたご様子です。朝食後はそれぞれ観光に向かわれるようで」「それは良かった。ロストレイルが無事に到着して、ほっとしたよ。いつぞやは、ディナーの時間を過ぎてもいっこうにおとめ座号が現れる気配がないので、城の窓からずっと夜空を見上げていたのでね。事情を知るまでは少し切ない気持ちだった」「その節のお詫びと、ご招待のお礼をと、おふたりは仰ってますが」「格式ばった挨拶は、最終日の会食の席でかまわないよと伝えてくれたまえ」 四方に広がるヴェネツィア全景を、ロバートは見やる。「ごらん、この風景は、どこかを彷彿とさせないかい?」「……ブルーインブルー、でしょうか?」「ジャンクヘブンのような、きな臭さはないけれどもね。この街が、東地中海最強の海軍国家であり通商国家であった時代は、すでに遠い」 ――それでも、ヴェネツィアの統治階級であった大商人たちは、自分の利害と国の利害が一致することを知っていた。そして、共和国の存続期間としては壱番世界最長の「千年」を生き延びた。「ヴェネツィア共和国にとっての大いなる戦いは、商船の航行をおびやかす海賊が相手だったが、さて」 世界図書館は……、いや違うな、僕は、これからどうしたものかね、と、つぶやくロバートの声は、ウィリアムの耳には届かない。「ご招待に応じられた皆様と、お過ごしにはならないのですか?」「彼らにあまり気を遣わせるのもどうかと思ってね。それに、今日のところは、ここから海を見ていたい気もする。君は、アリッサのところへ戻りたまえ」「では、そのように」 陽が昇るにつれ、眼下のサン・マルコ広場に、人影と歓声が増えていく。 ロバート卿は潮風に吹かれるままに、まだその場を動かずにいた。
ACT.1■翼ある獅子の迷宮 (遅い……) ウィリアムは、サン・マルコ広場北側にある時計塔の前で、アリッサを待っていた。ここを起点に、すぐそばのサン・マルコ大聖堂と、パラッツオ・デュカーレを見学したいと言われたからである。そのあとは、徒歩で街なかに気ままに分け入りたいのだと。 もし、同様のルートを辿りたいと申し出るものがいれば、彼らと共に観光をしたいという館長のご希望を、ウィリアムは了承した。 しかーし。 「それから、それからね、みんなとムラーノ島のガラス工房でアクセサリーの制作体験をしたいのっ!」と目を潤ませた件については、謹んで却下させていただいた。 ――くれぐれも、悪目立ちや派手な粗相などはさせないように。招待くださったロバート卿にも、ご迷惑がかかるのですから。 ムラーノ島にある博物館には、とても貴重なヴェネツィアン・グラスの逸品が多数展示されているわ。あたりまえのことだけど、グラスというのは、割れるものなのよ。 そう釘を刺したレディ・カリスが、どういう光景を脳裏に描いたか、察してあまりある。ヴェネツィアンガラスの工房が建ち並ぶムラーノ島へはヴァポレット(水上バス)で渡ることになるわけだが、その道中にさえ何が起こるか、考えただけで頭が痛い。 そして、アリッサお嬢様は、のっけから身支度に手間取っているようだ。リリイに何着か旅行用の服を発注したらしく、どの服を着ようか、迷っているのだと思われる。広い世間にはお嬢様のファッションに助言できる執事もいると聞くが、あいにくウィリアムはエドモンド前館長付きの期間が長いため、そういう融通はきかないのだった。 「おっまたせぇー、ウィリアムぅ。ちょっと支度に時間がかかっちゃったぁ」 広場の鳩がさざ波のような羽音をたて、いっせいに飛び立った。 ようやく、ブルネットの髪をなびかせて、アリッサが現れ…………。 ……。……。……。 ……いや。 「……どなたかな?」 「なにいってるの! あなたお嬢様の顔も忘れたの? そんな執事はクビよクビ!」 ブルネットのロングヘアのかつらをつけ、アリッサふうの衣装を着て、一番乗りで駆けつけた少女は、我らが一一一たんであった。アリッサコスプレ用の衣装やパラソルはすべてお手製のようでパチモン感満載、いやその、アグレッシブで自由奔放な造型と縫い目が味わい深い。 「わっ。私がふたり……?」 続いて登場した本物のアリッサは、活動的な明るいブルーのパンツスタイルで、髪はポニーテールにまとめている。まったくもって少しも似ていないわけだが、一の演技を受け、両手を口に当てて大げさに驚いてみせた。 「ヒメちゃんとアリッサ、瞳の色がちょっと似てるんだよね」 その隣で、エレナは小首を傾げる。ふわりとかぶった旅行仕様のレースの帽子と、髪をまとめた白いリボンは、相棒のうさぬい、びゃっくんとお揃いであった。 「そうなんですよ。完璧な変装だったのに見破られてしまうなんて不覚ッ」 一は腰を落として声を潜め、エレナに囁いた。 (何とかしてアリッサさんをムラーノ島のガラス工房に行かせてあげたいんだけど、協力してくれます?) (もちろん。アリッサ、出発間際まで忙しそうだったもの) モフトピアの会戦直後、突然ヴァネッサに呼び出されてインヤンガイの花街へのロストナンバー派遣を依頼され、その対応をしていたことは記憶に新しい。アリッサは「ヴァネッサおばさまにも困っちゃうわよね……。でも、信頼できるひとたちが引き受けてくれたの。みんなすごく頑張ってくれたから、今はゆっくり休んでほしいな」と、依頼の結末を見届けたうえで旅路についたのだ。 (あたしも手を貸すわよ。アリッサを逃がせばいいのよね) ふたりの間にひょいと、イテュセイが割って入った。一つ目の少女は、銀河の輝きを放つ瞳をいたずらっぽく煌めかせ、「それにしても、ビルも災難よねー」と、まるで自分は関係ないのよんとばかりに、ウィリアムの背をぽふっと叩く。 (どうしよう) 時計塔に出向いてはみたものの、ディガーは困惑していた。 アリッサにとっては久しぶりの休みのようだし、少々羽目を外してもいいような気はする。アリッサを解放しようと企む少女たちに協力するのは、やぶさかではない。とはいえ、ダイナミックな目くらましは不得手であるし……。 とりあえずディガーは、「あ、あれ、なんだろう?」とあらぬ方向を指さしてみた。 しかし、ウィリアムからは「飛行機だな」と、非常に冷静な答が返ってくるではないか。 「……え!?」 適当に指した空に何かが存在したことに、ディガーのほうが驚いた。 見上げればたしかに、サン・マルコ広場上空を、ふたり乗りらしき飛行機が遊覧している。 どうやらパイロットはフォッカーで、同乗者はツィーダのようだった。 「広い空にゃ! 綺麗な海にゃ! 飛ばすにはいられないのはわかってたから、へそくり全部持ってきたのにゃ!」 「空って、こんなに気持ちいいもんなんだね」 今はふたりともご機嫌であるが、空港で首尾よく飛行機を借り、飛び立つまでには、こう、いろいろ苦労があった。 マルコ・ポーロ国際空港を含め、ロバート卿が各方面に根回し済みなのと、フォッカーが全へそくりを投下したおかげで、レンタル手続きは問題なかったが、「身長制限」なる落とし穴が存在したのだ。 あやうく断られるところを、ツィーダがそっと差し出したシークレットシューズが役立った。ツィーダさん、こんなこともあろうかと用意してきたんである。フォッカーは、そんな、そんなもの、いら……な……、、、、くっ……(この間約30秒)と悩んだが、ひじょーに悲しげな表情をしつつも、結 局 借 り た のだった。 「後で空港でお土産買うにゃー。妹には真珠のアクセサリーがいいかにゃ」 「お土産か……。ボクは、こないだ心配かけちゃったあの子に……」 「何かあげるのかにゃ?」 「そうだなぁ。お酒がいいかな?」 「ん? あれ、フォッカーかなぁ。飛行機乗りたいって列車の中で叫んでたし。おーい、フォッカー!」 聖マルコの象徴、翼のあるライオンの像のそばに立ち、飛行機を見上げ、キース・サバインが手を振っている。 キースは、早朝から魚市場と野菜市場を回っていたようで、新鮮な食材を山のように買い込んでいた。ホテルで食事ができることはわかっているが、やはり、地元の食材で地元の料理を作りたいと思ったのだ。 地元ならではのお菓子も買った。アーモンド入りのスブレヘテ、ドライフルーツ入りのザレッティなど。珍しいお茶があれば、それも手にいれたいところだが、珈琲文化に席巻されているヴェネィアでは難しいかもしれない。 手を振るキースに気付いたように、飛行機はゆるりと旋回した。 ディガーもまた、その動きに合わせて、周囲を見回してみる。 『世界で一番美しい広場』とナポレオンが評したサン・マルコ広場には、白大理石造りの、複雑で精緻なつくりの建物が連なっている。 広場から細い街路に分け入れば、迷路のように張り巡らされた小運河に幻惑され、古い街並みを堪能することができる。 ヴェネツィア全体が、優雅な廃墟でもあるのだ。この街はいつか海に沈む運命であり、壱番世界の人々は懸命に、その日を少しでも遅らせようと努力を重ねているのだと聞いた。 (やっぱり、掘っちゃ、まずいよね) 空気を読んで、ディガーは旅行中、本能であるところの掘削欲を封印することにした。 「アッサリはあたしが見ててあげるから、セッカクだしビルも羽伸ばしなさいよ!」 イテュセイはウィリアムの目を覗き込む。ひとつめっ子の目力が起こす目眩に、ウィリアムは足元をふらつかせた。しかし果敢に踏みとどまる。『アッサリ』に突っ込まないあたり、余裕はないようだが。 「そういうわけには……、おや?」 何か物理的な違和感に、ウィリアムは怪訝そうに眉を寄せ、自分の背中と腰を見た。 なんとデフォルトセクタンが一匹、お尻のあたりにべったり張り付いているではないか。ちなみにアリッサのホリディはフォックスフォームのままである。となると、このセクタンは誰に属している個体なのだろう? 「かわいい……。この子、ヒメちゃんのセクタン?」 エレナお嬢様は確信犯で華麗なボケを披露し、一は一で「そうなんですよー、ウィリアムっていうんです。愛称ビル。ほーらビルちゃん、こっちいらっしゃーい」とセクタンを引っぺがす。 謎のセクタンは、え、あの、ちがいます、とでも言いたげに体をぷるぷるさせた。 「そうか。いい名前だ」 ウィリアムは、一をコンダクターと信じきっている。が、誰が彼を責められようか。 一は、セクタンをぐにーーーーっと引っ張って伸ばしながら、「誰のセクタンでもいいけど、協力して?」と詰め寄り、セクタンは蒼白になって、身体を前後に揺らした。 ……承諾したらしい。 「これは世界司書のエミリエさんから聞いたことなので、確実なのです」 いつものようにいつのまにか、いつものようにいつのまにか(エンドレス)そこにいたシーアールシーゼロは、ウィリアムをビシっと指さした。 「世界図書館の『しんのボス』はウィリアムさんだそうなのです。その風貌と風格は紛れも無い『ラスボス』のものなのだと……!」 「何か、誤解があるようだが」 「ウィリアムさんに詳細を聞きたいのですー。そのためにおとめ座に乗ってヴェネツィアまで来てしまったのです!」 「誤解だ」 「ゼロは口が堅いのです。秘密厳守なのです。ご安心くださいなのです」 (今日はウィリアムさんについて行くのです。この機に48のウィリアム必殺技を見せていただくのですー!) さすがゼロたん。今日も斜め上方向に全力でいらっしゃる。 「うわぁーー! すごいすごい! この建物が『サン・マルコ大聖堂』なの? すごいね、お姉ちゃん!」 カルム・ライズンは、大きな赤い瞳を好奇心で輝かせ、元気いっぱいにはしゃいでいた。すべすべの白い翼が、はたはたと揺れている。 かつて、ヴェネツィア共和国の主教会であったサン・マルコ大聖堂は、5つの円蓋を持つビザンティン・ロマネスク様式の壮麗な建物である。建物の軸は縦横が同じ長さのギリシャ十字架形。あらゆるところに金箔が使われているため『黄金のバシリカ』の別名を持っている。 そういったことを、カルムは知る由もない。ただただ、素直に感動しては、写真を撮っている。 「あらあら、カルムったら」 時計塔前に集まった彼らは、そのまま揃って観光に出発した。義弟の楽しげな様子に、シャニア・ライズンは、さわやかに笑う。 「そうね。滅多にない機会ですもの。悔いがないよう、思いっきり楽しみましょうね」 大人なシャニアはウィリアムの受難を察したようで、 「館長は、ロストレイル襲撃の報を受けた時から随分と肩に力が入っていたでしょうし、たまには自由にさせてあげても良いんじゃないかしら……?」 と、やんわり言い、アリッサにも「でも、あまりウィリアムさんを困らせ過ぎてはダメですよ?」と、穏やかな笑顔を向けた。 「北欧行きは旅団にジャマされちまったけど、やったね、べねちあ1週間タダ旅行! さっすがロバート卿、お大尽!」 大聖堂の壁面には、ガラスモザイクが施されている。デジカメを手に、鹿毛ヒナタもまた、写真撮影に余念がない。 もっとも彼は、こういった有名どころの建造物よりは、名もなき人々の古い家が密集する街並みや狭い路地、セピア色の橋や細い運河、ガイドブックには載っていない小さな教会の佇まいにこそ興味を惹かれるのだが。時が醸成した煤けた空気感は、絵心をそそるというものだ。 アカデミア美術館などを巡ったり、さまざまな教会の祭壇画なども見て回りたいが、それは明日以降の楽しみにとっておくつもりだ。何しろ、時間はたっぷりある。 大聖堂を堪能した後、南隣に建つデュカーレ宮殿へと、一行は移動した。白とピンクの大理石を組み合わせた明るい色調の壁が、紺碧の海と空に鮮やかに映える。 この建物は、歴代のヴェネツィア総督の政庁と宮殿を兼ねていた。総督の居室や執務室は、ヴェネツィア派の画家が描いた壁画や天井画で彩られている。 歴代総督の肖像画と、「大評議会の間」のティントレットの大壁画『天国』を堪能したあとで、外にでた。 路地を曲がり、街なかへ移動しようとして、アリッサがはたと足を止める。 ジェラートを売る店の前で、鰍と真遠歌を見つけたのだ。 「よう」 「来てくれたんだね。もう身体は大丈夫なの?」 「ぼちぼちな。ターミナルで自宅謹慎してたんだが、こいつに引っ張りだされて」 と、鰍は、仮面をつけた鬼子に顎をしゃくる。 彼らはひと足先に、ゴンドラでカナル・グランデ(大運河)を遊覧してきたそうだ。 「足場の不安定さがとてもふしぎで、でも……、楽しかったです」と、真遠歌はぽつりと言う。船頭さんの歌がすばらしくて聞き惚れた、とも。 鰍はちょうど、真遠歌にジェラートをひとつ、買って渡したところだった。 「これ……、じぇらーとというのですか? かき氷とは違うのですね」 初めての食べ物を、おずおずと、真遠歌は口に運ぶ。 「冷たくて、凄く、美味しいです」 「そっか」 鰍はもうひとつジェラートを買い求め、アリッサへと無造作に突き出した。 「あんたにも。ありがとうな」 会戦での謝意を述べる鰍に、アリッサは、ううん、と、首を横に振る。 「私は何も、してないよ?」 「それでもだ。礼くらい言わせてくれ」 ほら、食えよ、と、渡されたジェラートを、アリッサは満面の笑顔で受け取った。 アリッサ&ウィリアムと愉快な仲間たち一行がムラーノ島に向かうまでには、もう一悶着あった。 エレナは、カルム、シャニアとともに、ヴェネツィアの伝統的な焼き菓子「バイコリ」や、ドーナツ風のフリッテッレを買ったり、土産物屋を覗き、華やかなガラス細工のビーズアクセサリーに歓声をあげたり、高い棚にある品物を見るため、さりげなくウィリアムに抱き上げてもらうというお嬢様オーラを発動しならがも、一やイテュセイ、ディガーと目配せし合い、アリッサを逃がす機会を伺っていた。 好機は、水上バス乗り場付近で訪れた。 まず、イテュセイがウィリアムの目を覗き込んでぐるぐるさせる。 エレナが、びゃっくんをアリッサに錬成し、目くらましをかける。 ディガーが、「あっ、そこにアリッサが!」と指さす。 一が、本物のアリッサの背を押し、水上バスに乗せる。 アリッサを追おうとするウィリアムの足元に、セクタンがもぐり込み、転ばせる……! という、完璧(?)な作戦であったが、セクタンはウィリアムの足の下でむにゅ〜〜〜と伸びただけで作戦終了と相成った。 「でもね、ウィル。アリッサは頑張ってるから。息抜きしなくちゃ、息の仕方忘れちゃうでしょ?」 結局ウィリアムは、エレナにそう言われ、皆の懇願に折れるかたちで、ガラス工房へ行くことを承諾した。 一行を乗せた水上バスは、サン・マルコ広場を後にして、逆S字型に伸びる大運河を往く。 その工房でのアクセサリー作りは、『ミッレフィオーリ(千の花)』という伝統的な花柄のガラスを使用するものがメインであったが、希望すれば、吹きガラスでの制作も可能であるようだった。 カルムとシャニアはさっそく、鮮やかな空の色のガラスを選び、お揃いのペンダントを作り始める。 真遠歌が見守る中、鰍は手先の器用さを発揮して、ペンダントをみっつ、完成させた。自分のものと、真遠歌のものと、そして、もうひとりに渡すものを。 ヒナタは、こういう体験は二度目であるらしい。なかなか手慣れた作業をこなし、ヘッドが羊の頭蓋骨で持ち手が頚椎になっているマドラーを作りあげた。ペン立てに挿せば、良い飾りにもなるだろう。 不器用さを自覚しながらも参加したディガーは、「これ……、何の形?」と、自問自答考してしまうオブジェを作ってしまった。強いて言えば「ディラックの空で4回転半するワーム」であろうか。 イテュセイは何人もに増殖し、ひとり工場制手工業を小芝居で展開している。 「……手が、手が痛い……。だけどノルマが……」などといいながらゴホゴホ咳き込み、「いつか独立して故郷に錦を飾るのよ……」と、オチがわからない演技をしつつ、縄文土器ふう謎ガラスを量産した。これは皆のお土産にするのだそうな。 シーアールシーゼロは、「ウィリアムメテオを放つウィリアムさんを作るのです!」と意気軒昂であり、アリッサまでが、「楽しそう! 私も作る!」と言い放った。 呆然とするウィリアムをどうフォローしたものかわからぬまま、鰍はとりあえず、 「あんたも大変だな」 とだけ、つぶやいた。 ACT.2■足の向くまま気の向くまま 「水の多い街だねー。潮風の匂いもするよ~」 マグロ・マーシュランドは、思い切り深呼吸をした。 「……おぉー! 建物の間に川が流れてるっ! それにお船! お船がいっぱ~い!!」 運河を行き交うヴァポレットやゴンドラに、マグロはテンションマックス、大興奮だった。 「なかなかイカした街じゃない」 姉のフカ・マーシュランドもご満悦だ。 「あちこちに水路があったり、海が近くにあったり。私らには凄く住み易そうな場所ね」 「もしかしたら、僕達のような魚種族も住んでいたりしてねっ。帰属したロストナンバーとか~」 「それも悪くないわね」 水棲獣人族であるところのマグロやフカは、ここではまさしく水を得た魚。ふたりとも到着するなり体調も完璧になったようで、そのお肌はいつにもましてぷっるぷるのつっやつやのぴっかぴかである。 「さてさて、水上都市だね……。おや、水の都にふさわしいひとたちがいる。なかなかファンタジックだ」 マグロとフカが広場に佇む光景の非日常感に、紫雲霞月は穏やかに微笑んだ。彼の旅装は、いつもどおりの、ゆったりした和装であった。 「ひとくちに水の都と言っても、世界が違うと、こうも違うものなのかな?」 「あら、あんたも水の国出身なのね」 「ああ、何ていうのか、こういう、壱番世界だと西洋……、だったかな、故郷はこういう雰囲気ではないものだから、珍しくてね。いろんな建築を見て回ろうと思って」 「そうなんだ。立派な建物がたくさん水のそばにあって、すごいよね!」 「ちょうど、絵の題材を探しているところなのだよ」 「絵描きさんなの?」 マグロが目を丸くする。 「そういうわけではないが、絵画魔術は使えるよ」 「じゃあ、あとで僕とお姉ちゃんを描いてくれる?」 「それは面白そうだね」 旅は道連れ、と、3名は歩き出す。 (ここが、壱番世界のヴェネツィアか) “流星の”ライフォースは、サン・マルコ広場のど真ん中で、手持ちの地図を広げる。 これからどこに向かおうか。近場には、どんな有名な見所があるのだろう。 ふむ、この『ドゥオーモ』とやらと『ビットリオ・エマヌエーレ2世アーケード』と『スフォルツァ城』というところが近いようだ。 さて、どの道を行こうか。旅は道連れといっている3人と同行させてもらおうか。 マグロとフカ、霞月に話しかけようとしつつ、しかしライフォースはまだ気づかない。 自分の持っている地図が「ミラノ全図」であることに……! バールの立ち飲み席で、パンフレット片手に、ロウ ユエは、観光プラン構築に余念がない。 「次はコレール美術館に行ってみようかな。それとも、サン・ジョルジョ・マジョーレ教会がいいかな」 何しろ1週間もあるのだ。ゆっくり回っても悠々と観光できる。 「ゴンドラは……、どうしようか」 そのひとり言を聞きつけ、夕凪がひょいと手元を覗き込む。 「ゴンドラは日が落ちてからのがいいんじゃね? って、観光ってやったことねーから、何すりゃいいのかわかんないんだけどさ。って、その印なに?」 「ん? ああ、これか」 パンフレットに大きく付けられた丸印に、ロウは苦笑する。 「ここに来るのを知合いに話したら、嬉々としてこれを渡されたんだが……、しっかりマーク付きなのは、土産をよろしくということだろうな」 「なるほどね」 「ま、自分のを買うついでもあるから、かまわないけどね」 「とりあえず俺は、興味のあるところから回ってきたよ」 そう声を掛けたのは坂上健だった。分厚いガイドブックを持ち、準備万端。今しがた、アカデミア橋からペギー・グッゲンハイム美術館、そしてリアルト橋を徒歩観光してきたそうだ。 「ヴェネツィアって見所が集中してるから、やっぱ、歩いてみるのがいいんじゃないかな。中世美術にも興味あるし、島巡りもしたいけど、それは明日以降に回すぜ」 建造物に関心を持っている健は、オウルフォームのミネルヴァの眼を用い、立体的に観察したという。 「まぁ、地震大国とは耐久性の違いはあるけどさ。力点とか考えながら見てると結構面白いぜ」 「へぇえ〜?」 夕凪は、わかったようなわからないような顔をする。 「ってか普通考えるんじゃねぇの、そういうの?」 「やー、俺は町ン中ぶらついて食い歩きしたり飯食ったり食ったり海に飛び込んだり(?)したいかなーって」 「そういや、歩いたら腹減った」 「俺、地理わかんないけど、美味い店とかは把握完了してんだ」 店員や地元の人々に対し、読心などをいろいろと駆使した甲斐があり、今の夕凪は誰よりも、知る人ぞ知るグルメ情報に詳しくなっている。 「順番に制覇してーけどさ、ガキひとりじゃ入りにくいだろ? 一緒にいかねーか?」 かくしてこちらも、同行3名の道行きとなった。 青海要は、アリッサたちについて行こうとして、全力で迷子になっていた。 しかし、気持ちの切り替えが早いのが要たんのいいところ。 迷子になったついでに、自分のお気に入りの場所を探すべく、お散歩に繰り出したのだった。 「サン・マルコ広場って海の見える広場って聞いてたけど、ほんとねー!」 テンション高く広場を巡り、サン・マルコ大聖堂に突入しようとしたところ。 「なぁ、おめぇ、これが何か知ってるかい?」 と、祇十に問われた。 「サン・マルコ大聖堂よ。隣がドゥカーレ宮殿だって。すごい綺麗よねー!」 「そっか。俺は南蛮のもんはさっぱりなんだ」 ヴェネツィア到着直後から、祇十はずっとそわそわと落ち着きがなかった。 とにかく、じっとしていられないのである。一瞬たりともひとところに留まるのが勿体ないとでもいうように、あちらこちらを小走りで見学していた。見るもの聞くもの物珍しくて仕方がないようである。 「じゃあ、向かいのあれは?」 「んと、たしか博物館。コッレール博物館……、だったかしら?」 小首を傾げる要の頭の上で、セクタンの富士さんもボーっと首(?)を傾げた。 「あの……。すみません……」 セルゲイ・フィードリッツが、控えめな口調で、要に声を掛ける。 「どうしたの?」 首を傾げた状態のままで、要は振り向いた。 「その……。あるひとの機嫌が悪くて……。『壱番世界なんて大嫌い。ホテルから一歩も出ない!』」って仰ってて……」 「壱番世界が嫌いなのに、旅行にきちゃったの?」 「マフ様に無理矢理連れて来られたんです。だから、とても不機嫌で……」 「その『マフ様』はどこにいるの?」 「それが、わからないんです。はぐれちゃって……」 「そうなの? 困ったわね」 「どうしたらご機嫌を治してくれるかなぁ……」 「お土産とか買ったらどうかしら? 女性だったら、ヴェネツィアンガラスのアクセサリーとか」 「女の人じゃないんです。女の人の格好をした男の人……っていうか」 「それはやっぱり、アクセサリーじゃないかしら!」 何故か自信たっぷりに要は胸を張り、セルゲイはこっくりと頷いたのだった。 ロイ・ベイロード、レナ・フォルトゥス、ダルタニア、ギルバルド・ガイアグランデ・アーデルハイド。 以上4名、すなわち【勇者ロイ一行】は、地図を手に困惑していた。 なぜならば、この日のためにレナが用意していた地図は「イタリア全図」であったのだ。 しかもレナさんたら、堂々と地図の一部を指さして、ここへ行きましょう! そして『サッカー』というスポーツを観賞しましょう! と、仰ったのである。 「レナさん……。そこは、ミラノです。少々、遠くありませんか??」 ダルタニアはおずおずと言いにくそうだ。ミラノ、何故か大人気。 「わしは、どこでも構わんぞ」 ギルバルドは鷹揚に言う。 「ギル……、貴様は、全く何も考えていないんだな」 ロイはため息をついた。 「とりあえず、比較的近いところから観光しましょう。他の都市は、船で遠距離から眺めるとか、どうでしょうか」 ダルタニアが折衷案を出す。 「いいわ。見れるところから見に行きましょうね」 レナはあっさりと了承した。大物である。 「船をチャーターか。まぁ、それも悪くはないな」 ロイは賛同したが、ギルバルドが抗う。 「なに? 船で海へ繰り出すだと? 沈むのは御免被る!」 「はあ……」 勇者ロイ、更なるため息。 「こんなことなら、アリッサのところについて行くんだった……」 とはいえ、ヴェネツィアからミラノまでは、船とかロストレイルとかに乗らなくても、特急で3時間の距離ではある。自腹になってしまうけれど。 勇者ロイ一行がどんな選択をしたのかは、まだ誰も知らない。 ACT.3■ゴンドラ・セレナーデ 腕を組む。振り払う。また組む。また振り払う。 「ねーえ、パパぁ。ヘル、お願いがあるのぉ」 「ざけんな、離れろ」 「いいじゃなぁいー」 「うっとおしいことすんじゃねぇよ、このアマ」 リアルト橋沿いの商店街を歩きながら、ヘルウェンディ・ブルックリンとファルファレロ・ロッソは、先ほどからそのようなことを繰り返していた。波乱万丈の人生を歩む年の近い親子は、よく似たシャープな容貌とも相まって、なかなかに人目を惹いている。 「カンノーロが食べたい。買ってよ」 「ありゃシチリア発祥の菓子だろうが」 「ヴェネツィアでも売ってるじゃない。ほら、おいしそう。ねー、買ってよぉ」 「るせぇ」 「なによケチ。……わぁ、ヴェネチアンガラスの指輪。きれいな青。あれも買って」 「ガキに貢ぐ趣味はねえよ」 邪険にあしらわれ、むぅ、と、ヘルウェンディは頬を膨らます。 (だってあの指輪、あんたがママに贈ったヤツに似てるんだもの) そっぽを向いた娘に辟易し、ファルファレロは渋々、ドライフルーツ入りのカンノーロを買ってやった。 「指輪はぁ?」 「断固拒否する。もうちょっとイイ女になってからだ」 「サン・マルコ広場にも行きたい。処刑台があった柱の間を通り抜けちゃダメってジンクスがあるのよね」 ヘルウェンディが言っているのは、海に面したサン・マルコ小広場のことだ。2本の柱の頂上には、サン・マルコの獅子の彫像と聖テオドーロの彫像がある。中世にはこの柱の間に死刑執行台を設置したのだそうだ。 「ふぅん」 「あ、ミニコンサート。カフェの前で演奏してるのね」 カフェ・フローリアンに負けず劣らずの老舗、グラン・カフェ・クアドリ前では、小さな演奏会が催されていた。美しい調べに、ヘルウェンディは立ち止まるが、ファルファレロは退屈そうに欠伸をし、「なんだ、大道芸かよ。どっかでドンパチやってないのかよ」などと悪態をつく。 「ねえ教えて。ママともこうやって歩いた?」 「さぁな」 腕を絡めてくる娘を振り払うのも面倒になり、されるがままになりながら、ファルファレロは気のない返事をした。 † † † アルウィン・ランズウィックと一緒に乗ったゴンドラからサン・マルコ小広場を臨み、イェンス・カルヴィネンは手を振った。 先般、氷の女王の城へともに赴いた、ヘルウェンディのすがたが見えたからである。彼女にはお兄さんがいたのか、よく似た兄妹だ、と、イェンスは美しい誤解をした。 知り合いではないアルウィンも「こんちやー」と両手を振り、挨拶をする。 血縁がないどころか出身世界さえ違うというのに、この作家と仔狼は、とても仲の良い親子に見えた。 アルウィンには何もかもが珍しいようで、ずっと、店頭に並べられたお菓子を「あれ何?」「これ何?」と勢い込んで質問しどおしだった。素朴な焼き菓子をいくつか買ってもらったあとも、前のめりに興奮し広場の鳩たちを指さして「ああああれ何?」と言ってしまったくらいである。 あらかじめ調べてきたイェンスは、「その昔、キプロスから総督の奥方に贈られた鳩の、末裔だそうだよ」と、にこやかに答える。 レッツォニコ宮殿。黄金の館(カ・ドーロ)。ペサロ宮殿。ヴェンドラミン・カレルシ宮殿。運河沿いに並ぶ建物の横を、ゴンドラは進む。 アルウィンはゴンドリエーレにも無邪気に話しかけ、焼き菓子を分けたりなどしていた。覚醒して一人ぼっちかと思ったけど、皆に会えて良かった。楽しい、楽しい! と、全身で叫んでいるのが伝わってくる。 その笑顔がうれしくて、イェンスは微笑ましげに目を細める。 彼らはこれから、ヴェネツィアンレースの島、ブラーノ島へ行くのだ。イェンスは思う。玩具のように可愛らしい家々を眺め、レース刺繍を楽しみ、彼女に合うものを買おう、と。 † † † サン・マルコ大聖堂の、広場を挟んでちょうど正面に、コッレール博物館はある。 トレインウォーで知り合ったジョヴァンニ・コルレオーネとMarcello・Kirschは、アリッサ一行と入れ違いでドゥカーレ宮殿を見学してから、この博物館を訪れた。メッシーナ作の「ピエタ」やカルパッチョ作の「ヴェネツィアの二人の婦人」などの絵画や、ガレー船の模型、古地図や中世の硬貨など、見所は多い。海洋都市を好むMarcelloはヴェネツィアの地理を把握しており、観光は流れるようにスムーズだった。 「新婚旅行は、ヴェネチアじゃった」 博物館を出てゴンドラに乗りながら、ジョヴァンニは愛妻を偲ぶ。 「そうなんだ。奥さんて、どんなひとだった?」 「薔薇がとても好きで……。体が弱くてね……。あまり遠出はできなかった」 聞きながらMarcelloは、ジョヴァンニに、亡き祖父の面影を見ていた。 (外見とかじゃなく、中身が似てるんだな。一見、優しいんだけど、芯は強いところがそっくりだ) などと考えていたところ。 「で、これが孫じゃ」 と、孫娘の写真を見せられた。 「きれいだね」と、思ったままを答える。 「じゃろうて。妻と娘によく似た美人でおまけに気立ても良いときた。どうじゃ嫁に」 見合いを勧められ、絶句するMarcelloに、ジョヴァンニは、 「土産にヴェネチアンガラスのペンダントを買おうと思うが、選んでもらえんかね?」と、畳み掛けるのだった。 † † † 夕暮れどきの空が、青から茜に変わっていく。 ヴァイオリンの音色が、カナル・グランデにゆったりと響き、ゴンドリエーレの歌声と混じりあう。 運河沿いの小さな教会で、クラシックミニコンサートが行われているらしい。 ヴァイオリン奏者は、音成梓だった。 梓は、声楽の勉強でイタリアに留学したことがある。久しぶりに現地のコンサートを見てうれしくなり、可能であれば自分もヴァイオリンで参加したいと申し出て、受け入れられたのだ。 運河の水面が、静かに揺らめいた。誰かの拍手のように。 † † † ムラーノ島のガラス産業の中心にして、ガラス工房がぎっしりと立ち並ぶフォンダメンタ・デイ・ヴェトライ(ガラス職人通り)。 アリッサたちがムラーノ島から帰還するのと入れ違いに、テオドール・アンスランとレヴィ・エルウッドも、この通り沿いのガラス工房を訪れた。 テオドールとレヴィはあずかり知らぬことだったが、アリッサ一行に、芸樹的な、あまりにも芸樹的なワザを見せられた後とあって、工房のマエストロはしばし、遠い目をして放心状態だった。 だが、物作りに強い興味のあるテオドールは、その器用さと真面目さでマエストロの好感度抜群であったし、鉱石同様に美しいガラスに目を輝かせるレヴィもまた、工房スタッフから熱心に話しかけられた。 マエストロの熟練の技をじっくり見学した甲斐あって、テオドールは、初回とは思えないほど見事なヴェネツィアン・レッドのワイングラスを完成させた。 対岸通りのフォンダメンタ・マニンのショールームで、テオドールは、茶器やワイングラスなどを、レヴィは、ヴェネツィアンビーズやガラス製の装身具や小物などを、自分と友人用のお土産として購入した。 島のリストランテでピザやパスタ、アドリア海の魚介類を使った料理を堪能し、ティラミスやジェラートに舌鼓を打った後、大運河をゴンドラで遊覧することになったのだ。 夕暮れの茜いろが、いっそう強くなる。 一日の終わりを惜しむように、陽はまだ上空にあるけれど。 † † † 美しい海が 感傷をさそう きみの優しいささやきが 夢の中へといざなう 「帰れソレントへ」をコンドラで熱唱しているのは、なんと、虎部隆だった。同乗の日和坂綾が、「いやぁん、隆サイコ~! 女性ファン増えるよ〜」と、朗らかに手を叩く。 「ぼっち旅寂しいから、どうしようって思ってたんだ。要ちゃんにも聞いてほしいけど、はぐれちゃったね」 「アリッサんとこに行ったのかもな。ま、そのうちばったり会えるんじゃないか?」 日中の彼らの行動はまるっと、虎部隊長と日和坂隊員の、ヴェネツィア縦断ほとんど食い倒れツアーであった。 ドゥカーレ宮殿を見学したあと、オステリアとバールに繰り出して、クモ蟹のサラダとイカ墨のパスタを食べまくり、さらに綾は、運河沿いの店先で売っている、素朴な田舎風焼き菓子をそれはそれはたくさん買い込んだのだ。 そんなに大量に買ってどうすんだ、という虎部隊長のツッコミには、 「だって自分で食べるし、隆も食べるでしょ? 要ちゃんにもあげなくちゃだし、ラファエルさんたちにも、お土産にしたいし」 とのことであった。まあしかし、隊長は引率係というよりは、友人として一緒に楽しんだのであるが。 隆は隆で、予想外の強い日射しに辟易し、「サングラスぐらい持って来ればよかった……」などと言っていたが、結局、通りすがりの店で買った。今かけているサングラスがそれである。ブランド物ではないのに、やけにハイセンスなデザインなのがさすがイタリア〜ン。 ちなみに隆の旅の哲学は、「あえてボディランゲージと絵でコミュニケーションするのが醍醐味!」「『チャオ』だけ覚えときゃ何とかなる!」であるそうな。 ゴンドラから降りたあとも、ふたりはまだ食べ足りず、量り売りのピザを買おうとして入った店で、運良く要と遭遇したということである。 ACT.4■鐘楼のロード・ペンタクル 虚空はずっと、旅慣れた蓮見沢理比古に連れ回されていた。俺はシノビだからといくら固辞しても、アヤは許してくれない。 言うまでもなく、理比古は、数百年の歴史を持つ名門蓮見沢家の現当主である。セレブオーラ放出にかけては、たとえレディ・カリスを前にしてもひけはとるまいと思われる。 まるで家の近所を散歩するように市場を一巡りしたあと、理比古は、ヴェネツィアの伝統菓子ヴラネッリと、淹れたての珈琲を虚空に持たせて、ここに来たのだ。 すなわち、サン・マルコ広場にそびえ立つ、大鐘楼の展望台へ。 「ここは行かなきゃ損だよ」というのが、理比古の言い分である。ここからの絶景を、虚空に見せてあげたいのだと。 しかし理比古は、察していたのだろう。そこに、ロバート卿がいるであろうことを。 マフ・タークスは、浮遊散歩としゃれこんでいた。 見晴らしのいい場所を巡り、四方に広がるヴェネツィア全景を視界に納めようと思ったのだ。 上空から見ると、ヴェネツィアという街が魚のかたちをしているのがわかり、面白い。 そして、ひときわ目立つ広場が、サン・マルコ広場だ。 どうも、鐘楼の上には、誰かが立っているような―― コンタリーニ・デル・ボーヴォロ階段に登り、ディーナ・ティモネンは街の全景を見晴るかす。 迷宮のような街で迷子になる前に、その全貌を掴もうと思ったのだ。 (ロバート卿は、何で私たちを招待してくれるんだろう。200年生きた、憂鬱? 主流から外れ、世界が色褪せて……。珠玉がそう見えなくなったら、人生は苦しいかもしれない) そんなことを思いながら、ディーナはふと、大鐘楼を見た。 (見当たらなければ、それで良いけどね) そんな心持ちで、仲津トオルは鐘楼に昇る。 鐘楼に、少女の歌声が流れる。 ヴェネツィアは彼女の故郷だ。しかし実家は売られ、もう帰れない。 昔よく遊んだこの場所で、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは、せめてもと、歌う。 (物事にはいつか終りがある。我が家もしかり。それは分かっておるのじゃが……。この都が商人の都から観光地へと形を変えたように、ロストナンバーとなったこの身にも、何かができるじゃろうか?) 故郷を思うイタリア語の歌を。 誰かが、その声に気づくまで。 リーリス・キャロンは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼に立っていた。 長い金髪がなびく。 (壱番世界、楽しみにしてたのに。街中が敬虔すぎてつまんない。神族は塵族なんて気にしないのに) 目を細めた先に見えるのは、サン・マルコ広場の大鐘楼。 美しい街並を愉しんだあと、テディベアに贈るカメオを、ドアマンは買った。 サン・マルコ大聖堂を見た後、まっすぐに広場の鐘楼へと行く。 タイタスにどこか似たロバート卿に、壱番世界の小説「ゴーメン・ガースト」を進呈するために。 「こんにちは、ロバート卿。ここからの風景はとっても綺麗だと思って、来てみたの。会えてよかった」 鐘楼に昇ったティリクティアは、自然な仕草で挨拶をした。 眼下に広がる光景を見やり、ふと【医務室】で視た未来予知を思い出す。 (けれど、未来は変えられた。セルリーズは助けられた。だから、今度も自分の信じた道を覚悟してすすむ。応えは自分の中にしかなくて、進むことでしか、何も変えられないから) 「途中で、お菓子買ってきたの。良かったら一緒に食べない?」 「これは……。皆さん」 次々と現れたロストナンバーたちに、ロバートが心持ち目を見開いたとき。 トラベラーズノートに、エルエム・メールからの連絡が届いた。 『エルだよ! ねー、ロバートさんどこにいるの? いないとつまんないよ』 「久しぶりですね、シンデレラ」 『一緒に遊びたいから、そっちいってもいい?』 「喜んで。だけど、ここは少々手狭になったようだ。カフェ・フローリアンで待ち合わせをしましょうか」 ACT.5■黄昏のカフェ・フローリアン ゲーテ。パイロン。プルースト。ディケンズ。 名だたる芸術家が訪れた由緒ある店は、『カフェ』と呼ぶのもおそれおおいほどに、華麗な内装と重厚な雰囲気があり、近寄りがたいオーラを放っている。 カフェ・フローリアン中央のテーブルには、いつも結い上げている髪をさらりと下ろし、シルクのブラウスと黒のタイトスカート、赤革のブーツという、旅行仕様のレディ・カリスがいた。 紅茶を好むカリスであるが、発祥地に敬意を表してか、飲んでいるのはカフェ・ラテである。 「あの……、カリスさま」 「もう少し、おくつろぎになっては?」 退院してさほど経っていないフットマンふたりも、旅先とあって、いつもの蛙と魚の意匠が刺繍されたスワローテイルではなく、簡素なスーツに着替えている。そうしていればどちらも、壱番世界に暮らす、普通の礼儀正しい青年に見えた。 「おかしなことをいうのね。わたしは十分、くつろいでいてよ?」 「……ですが」 フットマンたちは気まずそうに顔を見合わせる。 なんとなれば。カフェ・フローリアンの店内にいるのは彼らだけだったからだ。 数多くのロストナンバーたちがヴェネツィア旅行への招待に応じ、往路のロストレイルはとてもにぎやかであったのに、今もサン・マルコ広場には、旅人たちの笑い声が響いているというのに。 つまり……、レディ・カリスは、ひとりきりでお茶を飲んでいたのである。 ものすっっっっっごく離れた席の、カフェのパラソルの下には、モフトピアで失敗した勧誘紙芝居の反省会というか円卓会議というかを白熱しながらやらかし中の、チャイ=ブレ信仰集団「みちびきの鐘」の面々が、いることはいる。 なんでヴェネツィアくんだりまで来てそんなことをしてるんだかあまり関わり合いになりたくありませんよ的な異様なオーラを醸し出しており、それを横目に、三ツ屋緑郎が食事などをしながら、面倒くさそうに適当に相づちをうつ姿が見受けられた。緑郎は成り行きで高僧扱いされているので、放置したら自分に被害が来そうなため、そうそう邪険にもできないのである。 とりあえずフットマンは、彼らに気づかないふりをした。 † † † ロバート卿と、彼を探し当てた旅人たちは、サン・マルコ広場の鐘楼から降り、カフェ・フローリアンに向かった。 「ロバートさんだ。お返事ありがとー!」 駆け寄ってきたエルエムが、無邪気に飛びついて、ロバートと腕を組む。 歩きながらリーリスも、ロバートの手を取った。 「鐘楼なんてまだ低いわ。そんなところから見てるだけなんてつまんない。もっと上から見下ろさない?」 「上から……かい?」 「常識だけじゃ世界なんて見えないよ?」 「なるほど」 「ロード・ペンタクル。ホワイトタワーをブッ壊した面子にオレが入ってるコト、喋ってももう時効だよな?」 「かまいませんよ」 「なぁ、お前さんが愛したこの世界、オレ様もわりと気に入ってるんだぜ」 「それは……、うれしいですね。ありがとうございます」 ロバートは、まるで最愛の女性を褒められた初心な男のごとく、いとも無防備な笑顔をみせた。 「いやぁ、礼を言われるようなこたぁ、何も」 むしろ、マフのほうが面食らったほどに。 「諸々への覚悟も必要だが、最善と思う道を行かれるが宜しい。『人間』として魂に恥じることなき道を。 そして助力を請うことは恥ではないと、胸に留めて頂ければ」 ドアマンが静かに言う。ロバートは無言で頷いた。 「ところで、トラベルギアの支給を決めたのって、チャイ=ブレ? それとも世界図書館?」 トオルの、雑談というには直裁な問いに、ロバートは面白そうに笑う。 「その質問は、どういう意図かな?」 「ギアって武器じゃないですか。世界樹旅団が現れるまでは落とし子からの自衛目的かなーと思ってたんですけど、戦争の可能性も含まれていたのかなーと」 「どちらにせよ、トラベルギアがなければ、僕たちは身を守れないのではないかい?」 「うーん、というか、この先どうなるんでしょうねー」 「世界が同じに見えなくても……。世界が輝いて見えるお手伝いは、出来ると思う。あなたが手を伸ばしてくれるなら、いくらでも」 ――私たちの伸ばす手を、あなたは掴んでくれますか? そう言ったのは、ディーナだった。 鐘楼を振り返り、ロバートは答える。 「僕はとうに手を伸ばしているよ。この世界を滅びから救うために。けれど」 ――忘れないでほしい。選択権はいつも、きみたちの手の中にあることを。 † † † 右手をリーリスと繋ぎ、左腕はエルエムが組み、ドアマンにエスコートされ、虚空にガードされ、マフと理比古とトオル、ディーナ、ジュリエッタ、ティレクティアと談笑しながら現れたロバートを見て、カリスは手にしたカップを下ろし、ヴェネツィアンレースのハンカチで口元を押さえる。 「人気者でいらっしゃること」 「貴女ほどでは、ありませんけれどね」 † † † サン・マルコ広場に、どよめきと歓声が起こった。 潮が満ち、ヴェネツィア名物の、アクア・アルタが発生したのだ。 広場全体が、わずかながら水に沈んでいる。 「地面から水が出てきた! 凄い~!! 僕、此処に住みたいっ!!」 「ちょっと! 定期的な水分補給機能完備って……! 此処、どんだけ水棲獣人族をプッシュしてんのよっ! 絶っ対ここ、私らの仲間が住んでいるでしょう!?」 マグロとフカが大喜びで叫ぶ。 広場に張られた水に、夕陽に照らされたサン・マルコ大聖堂が、逆さまに映り込んでいる。 異世界さながらの美しい眺めに、旅人たちは、今、自分のいる場所を忘れた。 これが、ロストナンバーたちのヴェネツィア旅行、初日のできごとである。 旅はまだ、始まったばかりだ。 おそらくは明日以降も、さまざまな思い出が積み重ねられるに違いない。
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