オープニング

 雨が降り出したようだ。
 風が強く吹けば軋みをあげる古びた社の中、荷見鷸は静かに目線を上げる。
 落陽と共に始まった集いも、今や深く粘りつくような夜の闇に包まれていた。眼下には暗闇を薄く照らし揺れるロウソクがある。木戸の格子からは潮の気配を含んだ夜気が流れこんできていた。社の瓦屋根が雨を遮ってくれているのだろう。雨粒は社の中にはまだ届いてはいないようだ。
 円座でロウソクを囲む人の影がいくつあるのか、鷸は把握していない。――否、記憶の限りでは確か、鷸たちを含めても十数人ほどだったはずだ。しかし、今、ロウソクの揺らぐ小さな炎が照らし出している人影は、どうも開始時のそれよりもいくつか増えているような気さえするのだ。
 時を報せるものなど無い。円座を組み座る者たちが順に怪異に纏わる小咄を落とす。ただその繰り返しがあるだけだ。語りが終われば揺らぐロウソクのひとつを吹き消す。そのたびに闇は色濃くなり、粘り気を増すのだ。
 雨脚は強くなってきている。鷸は持ち上げていた目線を再びロウソクに戻した。

 かつては漁村としてもそれなりに人の住む場所だったのだという。
 目を向ければ三方を杉や松といった木々で覆われた山に囲まれ、残る一方が海に面した土地となっている。総人口数は三千に届いたこともない、本当に小さな村だったらしい。
 新鮮な山の幸と海の幸とが食せ、海は海水浴場としても開かれていたのだという。が、それも客引きには至らないまま、村はどんどん寂れ、やがて年寄も住まない廃村と化してしまった。
 ――発端は、鷸の古い友人なる者からの招きを受けたことだった。
 廃村となったその土地には、じつは古くから得体の知れない怪異に纏わる噂を有しているのだという。村に近寄る者もなく、住まう者を絶やした原因は、その噂にこそあるのだと、まことしやかに伝えられてもいる。
 十数年に一度、海から何かが村を訪なう。それが果たして何であるのか。それを正しく知る者などひとりもいないのだ。”決して見てはならぬ”、その戒めのゆえに。
 それの姿を見た者は狂気の底に追いやられるのだという。しかし、それが来るのは十数年に一度。言ってしまえば、その日、その時間だけを過ぎてしまえば、あとは何という問題もないことなのではないか。
 那智・B・インゲルハイムは社の中、手近の柱に背を預け、皆の語りを聞くともなく聞いていた。
 いわく、今日がまさにその年、その日に当たるのだそうだ。海からの訪問者は浜を過ぎ村の中に足を進め、そして言い伝えによれば家々を一軒ずつ覗き込んでいくのだという。
 むろん、今となってはその伝えを真に受ける者も数少ない。けれどそんな曰くをもった廃村、その最奥に位置する社の中で行う百物語など、怪異を語り聞くのを趣味とする者たちからすれば理想的なことなのだろう。
 私のいた街でも、怖い話は好まれていたんだ。那智はそう言って、カフェで出会った鷸の誘いを快諾したのだ。
 百の怪異が語られ、百のロウソクが消された瞬間、怪異はかたちを成し闇に姿を浮かべるのだという。
 湊晨侘助は円座の中、あぐらで座り、顔もろくに窺い見る事のできない見知らぬ他人が語る怪異に聞き入っていた。
 雨脚は弱まるどころか一層強くなってきている。ロウソクの火が頼りなく揺らいでいた。
 侘助のいた世界でも同じような遊びがあった。おそらくはどの世界でも似たような趣向を持つ者はいるということなのだろう。
 周囲を取り囲むねっとりとした闇に懐かしさを覚えながら、侘助は語り手がロウソクをひとつ吹き消すのを見つめていた。
 侘助の隣、三ツ屋緑郎は満面に喜色を浮かべつつ、次の語り手が怪異を口にし始めたのに聞き入っていた。
 今語り始めたのは、声からすれば相応の齢のいった――鷸と同じ年ぐらいだろうと思われる男だ。顔はやはり窺い知れそうにない。もっとも、語り手の姿形になどそれほどの興味はない。興味深いのは次々と語られている怪異譚だ。
 夏と言えば怪談、幽霊屋敷。鷸からの誘いを受けたとき、緑郎は即答で了承した。行かないわけもない。まして、もしかしたら何かが起こるかもしれないのだ。――期待で胸が小さく高鳴る。
 ほのかは円座からわずかに離れたところで、ひとり静かに座っていた。
 鼻先をくすぐるのは潮の気配だ。雨が潮のそれを色濃くしているのだろうか。考えながらゆっくりと視線を持ち上げる。
 格子の向こう、照らすもののない漆黒がうねっているのが分かった。目を瞬かせ、ほのかはゆっくりと息を吐く。
 ――潮騒を聞きながら夜を過ごすなど、ずいぶんと久しぶりのことのような気がする。まして、この地に漂う空気は翳っていて、身体中にまとわりつくようだ。必然的に思い起こすのはほのかが生まれ育った、あの土地での記憶。
 
「さて、あなた方も何か話を聞かせてはくれないかな」
 鷸の隣――語りを終えロウソクを消した男の声がひっそりと告げる。
「ん? ああ、そうだね。せっかく参加しているんだ。俺たちもひとつ、怪異譚を披露するとしようじゃないか」
 昔からの馴染みのある友人の前にあるせいか、鷸の語調はどこか楽しげだ。
 ロウソクの残りはあと数本。夕刻から始まった会も、やがて終幕を迎えようとしているのだ。
 ロストナンバーたちは互いの気配を探りあう。
 やがて静かな沈黙をやぶり、ひとり目の語り手が口を開けた。 
 

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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>

荷見 鷸(casu4681)
那智・B・インゲルハイム(cyeu2251)
湊晨 侘助(cfnm6212)
三ツ屋 緑郎(ctwx8735)
ほのか(cetr4711)


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品目企画シナリオ 管理番号2061
クリエイター櫻井文規(wogu2578)
クリエイターコメントこのたびはご指名まことにありがとうございました。改めまして、当シナリオを担当させていただくこととなりました櫻井です。よろしくお願いします。

当シナリオでは皆さまそれぞれに怪異をひとつずつ語っていただくはこびとなります。
端的にまとめてくださるのでもかまいません。キーワード的なもの、あるいは類似したようなものをご指定くださるのでもかまいません。キーワード的なものをご指定いただいた場合には、櫻井が作中作ということで創作させていただきます。
ただし、丸投げは!それだけはご遠慮くださいね!
ということですので、プレイングにはその旨に関するご記載もお願いします。

…じつは、百物語はリアルにシナリオでやってみたいと思っていたものでした。機会を与えていただき、ありがとうございます。
はりきって書かせていただきます。

ただ、製作日数は長めにもたせていただきました。ご了承ください。

それではご参加ならびにプレイング、お待ちしております。

参加者
荷見 鷸(casu4681)コンダクター 男 64歳 無職
那智・B・インゲルハイム(cyeu2251)ツーリスト 男 34歳 探偵/殺人鬼?
湊晨 侘助(cfnm6212)ツーリスト 男 28歳 付喪神
三ツ屋 緑郎(ctwx8735)コンダクター 男 14歳 中学生モデル・役者
ほのか(cetr4711)ツーリスト 女 25歳 海神の花嫁

ノベル

 さて、と一息入れながら、鷸は火の点いていないタバコを指先でもてあそびながら視線を落とす。
 ロウソクが揺らめいている。潮の気配は雨の中でくねりながら踊っているようだ。
 どの話をしたものか。
 そもそも、百物語にロストナンバーたちを誘ったのは鷸自身なのだ。ならば最初の語り手を担うのもまた、相応たる役所だろう。
 民話や迷信、眉唾ものの都市伝説に至るまで、鷸の関心はあらゆる怪異譚に寄せられる。もっとも、怪談の類に限らず、あらゆる異端や異質に心惹かれる性質を持ち合わせている彼は、日頃の寡黙な鷸に似つかわしくなく、珍しく浮き足立っていた。
 しばしの静寂。数拍の間を置いた後、鷸はようやく灰色の双眸を闇の中で細く眇めた。
「このような話はどうかな。俺が郷里で聞いた話なのだがね」

 ◇


 <山精>

 あまり利用されることのない山小屋で、奇妙な人影が見受けられるのだという。そんな噂話がまことしやかに広がり始めていた。
 男は、そもそもにして元来の怪談好きな性分であったことも後押しして、友人と連れ立ちくだんの山小屋に足を向けた。
 むろん、浮浪者の類が山小屋に住み着いているのではという可能性もある。その場合には万が一山火事でも起こされたらという、実質的な問題も生じるのだ。
 いずれにせよ、確認はしなくてはならない。
 目指す山小屋はさほど高くもない山の頂近くにあるのだが、なにぶんにも足場が悪い。湿地であることも影響しているのか、比較的にぬかるみに足を取られがちだ。その上、勾配はそれなりにきついためもあって、山道を歩く者はあまり滅多に見られることもない。珍しい植物があるわけでもないのだ。年に数度、山の神を奉るための祭りが行われたりする、その程度の場所だ。
 すなわち、山道は文字通りの獣道で、伸び放題となっている草木や倒木によって塞がれ埋もれかけている。男は苦労を重ねようやく目指す頂近くにたどり着いた。
 雨露をしのぐためだけに作られた簡素な山小屋は、せいぜい六畳ぶんほどの広さしかない。手入れもろくにされていない畳敷きのそれにトタン屋根という作りは、風雨と夜気から身を防ぐための簡易的な逃げ場にすぎないのだ。
 窓ガラスから内部を覗いて見る。人が住んでいるような気配はまるで感じられない。念のためにドアも開け検めてみたが、湿気った空気が満ちているばかりだ。
 男は首をひねる。浮浪者が居着いているというわけではないようだ。ならば不審火による人災は今のところそれほど危惧しなくても大丈夫だろう。
 しかし。
 男は何かに袖を小さく引かれているかのような感覚にとらわれていた。何者かが確かにこの場にいるような気配。
 眉をしかめ、男は山小屋の周りを一周することにした。とはいえ、常であれば、ゆっくり廻っても三分もあれば終わってしまう程度の大きさしかない山小屋だ。伸び放題の草木を分けながら歩き進めても、数分の後には再び山小屋の入口近くにまでたどり着いてしまった。
 鍵のかかっていない入口の近くにまで着いたとき、男はふと足を止めた。
 ――先ほどまではいなかったはずの人影がそこにある。
 数十メートルほどの距離の先、人影――見れば枯れ枝のような老人だ。それがうずくまり、一心に何かをしている。
 その背には枝の詰まったリュックのようなものを背負っていた。焚き火でもするつもりなのかもしれない。
 見たことか。やはり浮浪者の類だったかと、男が老人に向かい近づこうとした矢先のこと。
 男の後ろにいた友人が男の動きを制する。見ればひどく青ざめた顔で、しきりにかぶりを振っていた。
 友人のその変容に、男もまたつられ表情をこわばらせる。友人は何を恐れているのか。男は視線を再び、今度は慎重に、未だうずくまっている老人に向けた。
 目を細め、老人の姿を食い入るように見つめる。そして数瞬の後、男は声にならない悲鳴をあげかけた。
 リュックだと思っていたそれは、木の枝を生やした木の瘤だった。
 老人だと思っていたそれは、枯れた枝のように細い体躯をもつ猿のようなものだった。否、それは猿とも違うものだったかもしれない。ただ、枝のような体に毛のようなものが疎らに生えているだけのそれは、見目にとても貧相な、得体の知れない何か――喩えるならば、山に潜むあやかしのような。
 あやかしは数十メートル離れた男の気配に気付くこともなく、ただ黙々と、背に伸びる木の瘤から伸びる枝を抜き取り、地面に突き立てている。
 あやかしの息遣いだと思われるものが耳を撫でる。気付けば、距離は少しずつ近付いてきていた。
 ――見つかってはいけない
 咄嗟に、男は後ずさった。黙々と同じ作業と続けるばかりのあやかしから目を離すことなく、一歩、二歩と確実に後退する。
 やがてあやかしとの距離を引き離した男は、あとは一目散に山道を駆け下りた。ぬかるみに足を取られ、伸び放題になっている枝につまずきながら。文字通り、転がるようにして。


 ◇


「町に戻った男はね」
 鷸は相変わらず、火の点いていないタバコを指先でもてあそんでいる。
 ひっそりと落とす声音は雨音にまぎれこみ、しかし消されることなく、円座を組む者たちの中に伝わっていく。
「山で目にしたあやかしのことを思い出して震えながら、ようやく気がついたんだ。共に山を下りてきたはずの友人の姿がないことに」
 そこで一度声を切り、小さく短い息を落とした。
「けれど、男は首をひねるんだ。さて、友人の姿を探そうにも、友人の顔が思い出せない。さて、誰であっただろう。どんな声だっただろう。名前はなんだっただろうか」
 否。――そもそも、男は誰かと連れ立って山に登ったのだっただろうか。
「記憶から消えた友人。さて、友人はあやかしに囚われたのだろうか。それとも、初めから男はひとりだったのだろうか」
 そんな友人など、男にはいたのだろうか。
 言を紡ぐのをやめて、鷸は一拍を置く。ついで、ロウソクの揺らぐ炎に息を吹きかけた。


 ◇


 鷸がロウソクを消したのを確かめると、緑郎がわずかな間をあけた後に声を落とした。
「ねえねえ、ところで今って何時ぐらいかな。僕、うっかりしちゃってさー。時計持ってくるの忘れちゃったよ」
 怪談を語る場に似つかわしくない、弾むような楽しげな声だ。
 ――二十三時過ぎだな
 円座を組む者の中の誰かが応える。緑郎は「ありがとう」と満面の笑みを浮かべた。
「そっか、もうそんな時間なんだ。まあ、信じてもらえるかどうかわかんないけど、こういう場だし、いいかな」
 頭を軽く掻く。
「じつは僕、現在進行系で呪われてるんだよね。しかもあと三十分ぐらいで死んじゃうんだよね」
 一息に言って、ロウソクの火に向かい可愛らしく首をかしげながら小さく舌を出した。
 ――呪い?
 やはり誰かが口を開ける。緑郎は声のした方に顔を向けて深くうなずく。
「僕、役者やってるんだけどさ。この間、新しい映画の撮影したんだよ」


 ◇


 <丑刻参>

 それは”流星の七ヶ丘”とタイトルづけられたホラー映画だった。
 呪われた演目を演じることにした小さな劇団を舞台とした、臨場感溢れるものだ。カメラワークにこだわりを持ったその映画の内容は、七日ごとにひとりが昏睡状態に陥り、四十九日後に昏睡中の七人全員が地獄に引き込まれる、というものだった。
 脚本自体はオリジナルだが、その話には元ネタとなるものがある。しかしその詳細は不明。すなわち、いわゆる都市伝説のようなものだ。
 けれど元ネタとなるものが存在する以上、撮影にあたってはそれにまつわる儀礼を踏むのが筋だ。まして、芸能に携わる者であればなおさら、そういった儀礼にはこだわりを持つ。
 吉日を選び、とある高名な神社に向かい、役者陣を含めたスタッフ全員がお祓いを受けた。通常であればこれでめでたく撮影開始というはこびになるのだが、しかし、異変はお祓いを受けたその直後にはもうすでに生じていたのだ。
 スタッフ七人の首に現れたそれは、脚本に書かれていたものと同じ、鎖の形をした痣だった。
 
 スタッフの中には腰が引けた者も数人いたが、しかし、撮影は行われた。当然だ、そのための手順も予算も組まれていたのだから。
 しかし、撮影が行われたその日、つまりお祓いを受けた当日から数えて七日。最初の異変は起きた。
 その日の朝早く、脚本家が自宅マンションの屋上から転落した。奇跡的に命こそとりとめたものの、意識の回復は見込めそうにない、との事だった。
 撮影現場はざわめきたった。何より、脚本はまだ完成していない。元ネタとなるものに大幅な脚色を付加させてさらなる恐怖を煽る展開に、と謳っていた脚本家が抜けたのだ。撮影は大幅なスケジュールの変更を強いられることとなった。
 共演者のひとりが緑郎に声をかけてきたのは、新たな脚本家が見つかった日の事だ。一人目の”事故”があった日の翌々日だった。
 ――なあ、知ってるか。あいつの首に出た痣、どんどん濃くなってるらしいぜ
 声を潜ませたその役者の首には、まだ薄くはあるが、鎖型の痣が浮かんでいた。
 ――おまえの首にもあるよな。お互い、気をつけようぜ
 言うものの、役者は呪いや祟りといった類いのものをまるで信じていないようだった。悪戯めいた笑みを満面に浮かべ、緑郎の肩を軽く叩く。
 その役者がスタジオから出た直後、暴走してきた車にはねられたのは、それからさらに数日の後。……脚本家の一件があった日からちょうど七日後の事だった。四肢がねじ曲がり、頭を強く打った状態で病院に運ばれた彼は、とてもではないが助かりそうには見えなかった。
 まるでベッドに縛り付ける鎖のようにも見える痣は、昏睡に至った彼の自由を奪う枷のようにも見えた。
 撮影現場は恐怖に包まれ始めていた。自分たちは呪われたのだと、まことしやかに囁きあうスタッフも現れだした。
 その中で、緑郎は新たに作られた脚本に目を通しながら、湧き上がる苛立ちを懸命に押さえ込んでいた。
 万が一にも、こんな事が原因で、撮影が中止にでもなったら。こんな、呪いごときで。そう考えると、彼の心は苛立つばかりだった。
 けれど、もうひとつ。緑郎を苛立たせる原因は、もうひとつあった。
 誰かが――何者かが、緑郎の近くにいる。
 姿さえ見せないそれは、けれど、常に緑郎の傍に付きまとい続けていた。その不確定なものの気配が、緑郎を追い立てていく。
 緑郎の苛立ちをよそに、”事故”はそれからも七日ごとに続いた。身体的な損害の度合いこそ差はあれど、いずれにせよ、事故に遭った全員が揃って昏睡に陥った。
 そして、お祓いの日から四十二日を過ぎ、六人目の犠牲者が出た、その日からだった。
 緑郎の周りに漂っていた気配は、ついに形を成したのだ。とはいえ、影や黒い塊のようにしか見えないそれは、緑郎の視界の端に映り込む程度にしか姿を見せようとはしない。ゆらゆらと大きく揺らぎながら、しかし、それは確実に緑郎の近くへと歩み寄って来ている。
 この頃には、映画の撮影は中止を決定していた。相次ぐ不慮の事故により、スポンサーが離れるなどしたせいでもあった。何より、四人目の犠牲者は監督だった。監督の事故が引き金となったのだ。
 影は緑郎が壱番世界を離れ0世界に移動した後もついてきていた。ターミナルのカフェにいても、どこにいても、影は緑郎の視界の端で揺れている。
 けれど近付こうとすればたちまち霧散してしまうそれは、やはり相変わらず得体の知れないもののままだ。


 ◇


「で、今日が七日目なんだよね」
 あぐらで座る足を組み換えながら、緑郎は小さく笑みを浮かべる。
 まがりなりにも、自分はロストナンバーだ。あらゆる超常的な現象や事象、存在や場所。様々なものを目にしてきた。今さら呪いや祟りだのを恐るつもりも毛頭ないのだが。
 ――しかし、迎え撃つにしろ、実体が無いのでは対処に困る。 
「それで、出来ればみんなの力を借りたいかなって思ってさ。こういう場に来る人たちってオカルトとか好きでしょ。呪いとかそういうの、詳しい人いないかなあ」
 言いながら、緑郎は首を撫でた。
 ロウソクの火が揺れている。そのほの暗い光が緑郎の首を照らしだそうとした、その瞬間。
 まるで寄せられ始めた視線から痣を隠すように、緑郎は静かにロウソクを吹き消した。


 ◇

 
「ところで、この集まりの場では、この座り方は必須のものなのかな」
 柱に背をあずけあぐらで座っていた那智は、あぐらの足をさすりながら口を開ける。
「どの話も、とても興味深くて面白いのだけれどもね。その、どうも私はこの座り方には不慣れでね」
 足が痺れてきたとは言わず、穏やかに笑んだまま、那智は困ったように肩をすくめた。
「こだわりはないよ。好きなように足を崩せばいい」
 鷸が言う。那智は声がした方に顔を向けて簡易的な礼の言葉を口にする。鷸の前のロウソクはすでに消えている。彼の顔は闇の中、ひどくぼんやりと浮かんでいるだけだ。
 鷸の友人だという男も彼の隣にいるはずだ。けれどその男の姿はロウソクに照らされることもなく、暗い影を描き静かに座っている。
「せっかくだし、次は私が話そうかな。順番も不定でいいのだよね?」
 那智の問いに、誰かが応と返した。那智は眼鏡の奥の双眸を細め、やはり背を柱にあずけたまま、腕を組む。
「私のいた街には怪談好きが多くてね。霊が出るという曰くのついた物件や土地は人気株なんだ。大体五十年以上前に起きた殺人事件の現場になった屋敷が特に人気でね。相場以上の高値がついてるよ」

 ◇

 <逢魔時>

 それまでも何度か街を訪れた事のあるサーカス団が、その年もまたやってきた。
 サーカス団が誇る一番の売りはアクロバットで、その派手さや華やかさは子どもから大人まで、あらゆる年齢層からの強い支持を得ていた。
 チケットは毎回飛ぶように売れ、ダフ屋は会場近くで相場の倍以上の額をふっかけていたほどだ。
 サーカス団が街を訪れると街の空気もまた華やいだものとなる。何しろ街はなにかと物騒で猟奇的な事件を多く抱えこんだ、うら暗い場所でもあったのだから。
 ――しかし、街のより所でもあったサーカス団は、その年、未曾有の惨劇に見舞われた。
 明け方早い時間。それは霧がひどく深い、まだ薄暗い時間帯のことだった。街はまだ夢の中にあった。サーカス団もまた、皆が眠りについていただろう。
 その霧を赤黒く染めたのは業火のような炎だった。炎は霧を焼き、空を焦がし、街の一郭に熱風を撒き散らした。その業火の中心にあったのはサーカス団の小屋だった。
 もちろん、団員は誰ひとりとして助かりはしなかった。アクロバットで人々を熱狂させた美しい女も、珍しい動物たちも、ユーモアにあふれた技を見せていたピエロも、人格者であった団長も、皆、炎の中で焼け死んだのだ。
 結局のところ、それはどうやら放火によるものであるという見識だった。時間も時間であり、また、深い霧もかかっていた。不審者を目撃したというような情報は何ひとつとして寄せられることはなく、事件は深い悲しみと絶望の内に釈然としない幕をおろす。

 否。幕はおりてなどいなかった。惨劇は、この炎によって幕を開けたのだ。
 
 その日をさかいにして、街には新たな闇が増えることとなる。まことしやかな噂が街を震撼させ始めたのだ。
 ”ピエロが血の涙を流しながら深夜の街を徘徊している””ピエロがナイフを手に追いかけ回してくる”。それはありがちな噂話だっただろう。けれど実際に、街には死因の猟奇的な痕跡を残す屍体が転がり出してもいたのだ。
 苦悶の表情で死んでいた者、両方の目玉を刃物で貫通されていた者。中には狙撃され死んだ者もいた。
 刃物による死体となればまだしも、狙撃による死亡ともなれば話は変わる。ピエロが怨恨を持ち死んだピエロの霊であるとすれば、銃殺などという真似をとるだろうか。
 そんな中、とある新聞記者が警察当局の関係者から新たに入手したという情報が、街を新たな恐怖の底に叩きこむこととなる。
 
 サーカス団は火事が生じるより前に、そのほとんどの者が別の手段により絶命していたのだという。
 すなわち、絞殺による死体や、両方の目玉をそれぞれ刃物で刺されていた死体。四肢や喉に銃痕のある死体。
 それらは、つまり、何者かが団員たちを殺害した後に火を放ったのだという、無残な事実を示すところとなるのだ。
 ――そして、さらなる恐怖。
 死体置き場に集められた黒焦げの死体はサーカス団員の人数分、きちんと揃っていたはずだった。けれど警官が目を離した後、この数はひとつ少なくなっていたのだという。
 つまり、死んでいたはずの団員が、ひとり、息を吹き返したか――あるいは団員たちの怨嗟を集め、復讐の念に憑かれた屍体となって、今も街を徘徊しているのかもしれない。

 
 ◇


「復讐の念に憑かれた屍体が街を徘徊し、自分たちを殺した犯人を捜しながら、無関係な者たちにも襲いかかり、生き血を啜る。これはもう、ただの怪物だよ。……ん? なんだか、怪異っていうものとはまた違う話になってしまったかな」
 そう言って小さく喉を鳴らす那智の声は穏やかなトーンのままだ。
 確かに死んでいたはずの軽業師。ならば彼の屍体はどこに消えたのか。――そもそも、なぜ、黒焦げになっていたはずの死体が軽業師のものだと知れたのか。
 那智はそれ以上を語らない。静かに動き、ロウソクを手にとって、その火を吹き消そうとして、ふと顔を上げて「そういえば」と続けた。
「百物語は完成すると怪異現象が起きると聞いたんだが」
 誰かが肯定する。それを聞いて、那智は小さくうなずいた。
「心霊体験というものをしたことがなくてね。聞けば、あれもなかなか楽しそうじゃないか。緑郎くんが語った呪いの顛末も気になるし。助手くんに持っていく土産話にもなるだろう。……どうだい、頑張ってみないか?」
 那智の声は一切の曇りがない。きっと心の底からそれを期待しているのだろう。あるいはそうじゃないのかもしれない。穏やかなままの笑顔からも、その心を窺うことはできそうにない。
 雨足が屋根を叩く。潮の気配はより濃密なものになっているような気がする。
 しばし、雨の音に耳を寄せた。その後、那智もまた皆に倣い、静かにロウソクを吹き消した。


 ◇


「そうやなあ。わぇは何を話そうかのう」
 侘助がのんびりと声を落とす。
 残っているロウソクはあと二本。侘助の前にあるものと、ほのかの前にあるものだ。時間もやがて日付変更をまたごうとしているらしい。丑三つ時と称するには未だ早い時間ではある。が、潮の気配は確かに少しずつ色濃いものとなっているし、雨足もまた強くなり始めている。つまり、もしも仮にこの場が得体の知れぬものに囲まれたとしても、強い雨が逃げ出すのを許しはしないのだ。
 もっとも、それに気付いている者がこの場にどれほどいるのかは分からない。ロストナンバーたちは気付いているのかもしれないが、それを検めるすべも、今はない。
 ゆったりとした面持ちのまま、侘助はしばし思案する。一般的に怪談と呼ばれるであろう話ならばいくつも知っている。ただ、その内のどれを話したものか。
「そうやなぁ。願掛けっちゅうもんは、まあ、どこにでもある話やな。それこそ世界中いたるところで見聞する話や。願の叶う石やらなんやら、あちこちにようさん散らばっとるもんやしな」


 ◇


 <覚>

 とある町の一郭に立つ樹は願を叶えてくれるのだという。それは町外れの古く寂れた神社の、さらにその裏山にあたる場所に立っていたようだ。
 願掛けという行為にありがちなものとして、その樹にもまた、願を叶えるための条件というものが存在していた。
 すなわち、深夜零時にたったひとりでその場に赴き、誰に見られる事もなく心の内の願を祈るのだという。そうすれば願は必ず叶う。そんな出どころも知れないような噂は、相当昔からまことしやかに言い継がれてきたものだった。
 その樹は神社の神木などではなかったが、噂による効果だろうか。そもそも、町ができた当時から立っていた樹だったらしい。その歴史も重んじられたのかもしれない。ともかく、その樹には古い注連縄が巻かれていた。
 古くは願掛けにまつわるもの以外にもいくつかの逸話を抱えていたらしいが、それらももはやなりを潜めている。今となってはただ、願掛けをすれば叶えてくれる、便利な呪具でしかなくなっていた。
 便利の良い噂だけがひとり歩きしすぎてしまったのかもしれない。ともかく、町の人々は失念していた。あるいは、それすら何者かによる作為であったのか。
 願を叶えるには往々にして対価を必要とするものだ。その願が大きければ大きいほど、求められる対価もまた大きくなっていくはずなのだ。が、言い継がれる噂には対価に関する触れはなかった。ゆえに人々は願が叶うのを祈るばかりで、礼を返すことにすら無頓着になっていた。

 とある少年が町に住んでいた。少年もまた噂は耳にしていたが、叶えたいと思う願もまだ用意できていなかった。だからだろう。少年にとって、この噂は、どこか遠い、胡散臭いものでしかなかったのだ。
 けれど、少年はある夏の夜、あまりの退屈さに、ふと小さな悪戯を抱く。肝試しがてらに、その樹を訪ねてみようと思い立ったのだ。
 家族に見つからないように家を抜け出し、深夜に眠る町の中、自転車をこいで神社を目指す。それだけでも充分、少年にとっては秘密の探検めいたものだった。
 学校に行ったら皆に自慢しよう。そう考えて境内を進み、ほどなくして、少年はくだんの樹の前に立った。
 懐中電灯で足元を照らす。円く落ちる光は妙に明るく、しかし、その円の外にある闇との差異は、どこか不吉なものを感じさせた。
 少年は樹を一周した後、思い切ってその樹の様相をよくよく調べてみることにした。
 古い松の木だ。樹皮はところどころが剥がれ、木肌がむき出しになっている。
 懐中電灯を持たない片手で木肌を撫でているうちに、少年はやがて樹の根の近くに小さなうろがあるのを見つけた。
 小動物が寝ぐらにしているうろかもしれない。大きさ的にリスや猫や、せいぜいその程度のものが出入りできる程度のものだ。
 しばしの間うろを照らし出した後、少年はふと、そのうろに顔を近付けてみた。好奇心ゆえのものだった。眠る小動物見たさであったのかもしれない。
 夜風が松の枝葉を揺らしている。その風の声の中、少年は確かに聴いたのだ。何かが小さく唸るような音を。
 怪訝に思いながらも、しかし、少年は恐怖よりも好奇心が勝ってしまった。彼は地に這いつくばるようにして、うろに顔を寄せる。耳を澄まし、懐中電灯でうろの中を照らし出す。
 そしてほどなく、少年は転げるようにしてその場を走り去った。
 彼は聴いてしまったのだ。うろの奥から響く、ありとあらゆる欲望の塊を。それが呻く音を。――見えない何かが細長い腕をうろから出し、今しも外に抜け出ようとしているのを。
 

 ◇


「その後、少年は家族ごと町を出て行ってしもうたそうや。気付いてしもたんやろうな。積もりつもった強欲が、近いうちにうろから溢れてしまうんやないかってな」
 その後、くだんの樹が、町が、どうなってしまったのかは知れない。侘助はそれきり口を閉ざし、再び安穏とした微笑みを満面にのせた。
「……ひとの欲が集まると、ろくな事にはならないわ……」
 口を開けたのはほのかだった。ほのかは皆が語る怪異を耳先に触れながら、どこか愉しげに、どこか懐かしげに、満ちていく潮の気配に身をゆだねていたのだ。
「せやね」
 侘助は首をすくめる。そうして、また一本、ロウソクの火が消えた。

 
 ◇


 タバコを指先で弄びながら、鷸は口を閉ざし、思案していた。
 ――さて、そういえば。
 この会で円座を組んでいる者は、果たして何人いただろうか。ロストナンバーたちを外せば、あと何人が場を共にしているのだろう。
 否、そもそもにして、自分たちはなぜこの場にいるのだろう。いつからここにいたのだろう。
 ロウソクは、何本あっただろうか。


 ◇


「わたしの故郷は……海辺の小さな村、だったわ……」
 残る最後のロウソクの火を見つめながら、ほのかは静かに口を開けた。
 あまり好ましい記憶のない出自の土地は、しかし、失ってみればやはり郷愁の念は少なからず心のどこかに宿るものだ。不思議な感覚だと、ほのかは薄く頬をゆるめる。
 漂う潮の気配。粘りつくような夜の空気。懐かしい、その不快感。
 目を持ち上げて格子の向こうを見やる。夜が揺れていた。


 ◇


 <般若>

 ある男が村を出た。兵役による招集がかかったためだ。家族たちと交わされる別離の言葉。なごり惜しむ声。そして再会を誓約し、男はやがて戦地に立った。
 だが、男は生来腰が引けやすい性分であった。弓矢や刀剣で死んでいく同胞たちの屍が積み上がるのにたじろぎ、あるとき、槍で腕を刺されたことで、男は恐怖心に心身を狂わせてしまう。
 戦地から逃げ出した彼は行く先々で厄介者扱いされた。腹をみたす食物すらままならず、沢の水を飲み、どうにか長らえている毎日だった。そんな生活の中、槍で突かれた腕の具合が良くなるはずもない。雨風に身をさらし続けたこともあり、男はやがてどこかの山道で熱を出し、意識を失った。
 気がつくと男はひとりの女に介抱されていた。
 初めのうちこそ女の容色を意識する余裕すら持てずにいたが、容態が安定してくるにしたがって、男は自分を介抱してくれている女の容色の美しさに気がついた。
 情欲すら引き起こすほどの容色を持つ若い女が、なぜ人里を離れひとり山中で暮らしているのか。考えれば奇妙な話のはずなのだが、男はまるで気にしなかった。己の内に沸き立つ情欲にのみ従った。
 戦乱もいずれ遠からず終わるだろう。それまでここで身を潜めていればよいと、女もまた、男にすり寄り甘言した。
  
 けれど、その蜜月は長くは続かず、ある時終息を迎えることとなる。
 女は喜色を満面に浮かべ、男に告げたのだ。ややこが出来た、と。
 そこで、男はようやく我に戻る。思い出したのだ。故郷で男の生還を待っているはずの許嫁の顔を。
 けれど男は生来腰が引けやすい性分であった。子を宿したと喜色する女を前に、よもや自分には婚姻を約束した相手がいるなどと、赤子の父になる事など出来ぬなどと、直に言えようはずもない。
 数日の後、朝早く。男は女を起こさぬように配慮しながら床を抜けた。そしてそのまま逃げ出したのだ。戦地から尻を巻き逃げ出したあの日と同じく。

 里に下りてみれば戦乱はとうに終わっていた。人々は荒れた田畑の修復に専念していた。男は戦乱から生還出来たつわものとしてもてはやされる。故郷に戻った男は、そのまま無事に許嫁との祝言を終えた。
 平穏な日々が続く。
 妻はあの女に比べれば地味な見目ではあったが、かいがいしく男に尽くした。男もまた妻を愛し、田畑での作業に汗を流した。
 歳月を経て、田畑も落ち着き、そろそろ子をなそうかという話を妻とし始めた矢先の事。旅の行商が不穏な話を村に運んできた。
 いわく、山をいくつか越えた遠くの村で変死が生じたのだという。
 何の前触れもなく、外傷も病症もない。文字通りに眠るように冷たくなっているのだそうだ。
 行商は語る。それとまったく同じ状況で見つかる死体が、まるで一本の街道を伝いたどるかのように続き見つかっているのだ、と。
 その街道は男の住む村にも通じている。行商は用を済ませるとそそくさと村を去った。死体はすぐ隣の村でも見つかった。気味がわるい。何の呪いかは知らないが、巻き込まれてはかなわん、そう言って。

 その夜。男は夢を見た。あの女の夢だった。
 寒い、寒い。助けてくれ、抱いてくれ。そう言ってすがる女の体は氷のように冷たかった。男は女を突き飛ばし、お前など知らぬ。消えてしまえ。そう言って唾を吐きかけた。
 その夢から醒め、男は隣で眠る妻の体を抱き寄せる。夢の中の女のあの冷たさが、手の中に残っていたからだ。ぬくもりを得て落ち着こうとした男は、けれど、妻の体もまた氷のように冷たく硬くなっているのに気がついた。
 飛び起き、妻を揺すり起こそうと試みる。けれど妻はそのまま、眠りから戻ることはなかった。

 妻の葬儀を終え、憔悴しきった男は、気がつくと再びあの夢の中にいた。女はやはりそこにいた。
 男は女に詰め寄った。お前が妻を殺したのかと。すると女は艶然と笑みを浮かべ、かぶりを振る。いいえ、殺したのは私ではない。
 
 私には呪われた力があった。ゆえに里を離され山中に隔離されていた。
 私は憑いた相手の命を一時的に凍らせる事が出来る。仮死にするのだ。けれどそれは素人の目には死体と見紛うほどのもの。
 私のように、ひとり捨て置かれ、誰からも顧みられず、必要とされぬ者ならば、時が経てば勝手に息を吹き返すだろう。
 顧みられるゆえに葬られる。
 捨て置かれぬがゆえに死ぬ。
 
 女は男を指し、笑う。
 あなたが彼女を殺したのだ。


 ◇


「……これは、わたしがその男の霊から聞いた話よ……」
 仮死で見つかった体はいずれも流行病の可能性もあるとして、即日の内に火葬された。むろん、男の妻もまた。
「彼はね、気が触れて、……崖から身投げをしたの」
 自らの体に藁を巻き、藁に火をつけて。生きたまま全身を焼き、崖から眼下の海に身を投げたのだ。
 男は業火に身を焼かれながら何度も死ぬ。熱い熱い、助けてくれ。そう喚きながら何度も何度も。
「彼を焼くあの炎は……もしかすると、女の愛なのかもしれない。恨みなのかもしれない。……わたしは思うのよ」
 地獄とは彼岸にあるのではない。案外、此岸にあるものなのかもしれない、と。
 言って、ほのかはロウソクを手にした。揺らめく炎に目を落とし、ゆっくりと、独り言のように続ける。
「わたしには、彼女の気持ちが分かる気がするの。……それが、恐ろしくもあるわ」


 ◇


 最後のロウソクがじじじと音を立てて消えた。


 ◇


 静寂が訪う。
 闇が視界を覆う。
 雨音はいまだ続いているはずだ。けれど、社の中にあるのは静寂だけなのだ。
 誰ひとりとして口を開けず。物音すら立てず。ただ、潮の気配だけが社の中に満ちていた。
 打ち上げられた魚が腐敗し、放つ臭気のような。闇の中、ロストナンバーたちはそれぞれに眉をしかめる。

「ところで」
 鷸の声が静寂を破った。ロウソクに点いていたものよりも小さな火がともり、鷸の顔を淡く照らす。鷸はタバコに火を点け、煙を吐き出した後、再びゆったりと口を開けた。
「俺の友だちは、本当にきみだったか」
 
 雷鳴が近くでとどろいた。何かの嗤う声が、その中に巻き込まれ消えたような気がした。


 ◇



 おう、おう、おう。
 次もまた来ておくれよ。待っているよ、カカカカ カカカ

クリエイターコメント大変にお待たせしてしまいました。百物語ノベル、お手元にお届けさせていただきます。

申しました通り、百物語ノベルは私的にもやってみたいと思っていたものでした。その構成なども脳内ではきちんとかたちをなしてもいました。今回こうして偶然にも機会をいただけたことで、それを脳内ではなく、正しくかたちとすることができました。
重ね重ね、ありがとうございました。

怪談とはオチや理由のない、不定形なものであると考えています。ゆえに、ノベルにも特にオチなどつけずにおくことにしました。
個人的にはとても楽しく、本当に楽しく書かせていただきました。読み手である皆様にも少しでもお楽しみいただけましたらさいわいです。
なお、章ごとの小題は石燕の「今昔画図続百鬼・雨」より拝借しております。

それでは、またのご縁、こころよりお待ちしております。
公開日時2012-08-20(月) 21:30

 

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