● 「ちょっとあんたどうしたの。しっかりしなさい!」 最初、それがなんなのかヘルにはわからなかった。ターミナルを歩いていたら前方に何か黒っぽい塊が見えた。遠目にもそれがけっこうな大きさなのはわかったけれど、道の真ん中になんであんな大きさのものが置かれているのかしらと思った。 何だろう。迷惑な話だなぁと思いながらヘルが近づいていくと、そこにあったのは人だった。 人だ。 (え、何? 酔っぱらい?) 「もしもし? 生きてる?」 近づいて見ると、けっこう背が高い人だ。ひとまず、酒臭かったりはしない。となると病気だろうかと心配になったヘルはしゃがみ込む。 小さな耳のついたフードをすっぽり被っていて表情をよく伺えないけれど、どうやら若い男性のようだ。 (この年で道端で倒れてるなんてすごく悪いのかしら?) 意識を確認せねばとフードからはみだしている長い金髪を掻き分けて、ぺちぺち軽く頬を叩くとうっすらとそいつは目を開いた。 「……う」 「大丈夫? 具合が悪いの?」 そいつがのろのろと起きあがろうとするのをヘルは支えてやるが、ぐんにゃりとして力がまるで入らない。 「……おなかすいた」 「は?」 「ちからがでない……で、ない……」 「はぁ?」 そう言うとばたりとまた倒れこむ。 「ちょっと! こんなところで寝てたら危ないわよ!」 「もう動けない」 「ちょっともう!! 駄目だってば! 起きなさい!!」 何とか抱え起こそうとするが、力の入っていない人を抱え起こそうとするのは物凄く重い。このままではどうにも出来ないとヘルは声を張り上げて男に呼びかける。 「いいから起きて! 起きなさい!」 「無理ー……お腹すいた、すいた……」 「わかった! 家まで来たらゴハン食べさせてあげるから!」 「……本当?」 もそりとそいつが起きあがる。 「嘘なんてつかないわよ」 「でも、お家に、知らない人…………誘拐?」 「貴方ねぇ……道のど真ん中で行き倒れておいて誘拐も何もないでしょうが!」 その言い草にムッとしたヘルが睨み付けると男はフードの耳をつまんで下げた。 「おっかない、おっかない」 「おっかなくないから、いいからキリキリ歩く!」 ようやく、もそもそと動き始めたそいつの気が変わらない家にとヘルは急いで自分のアパートへと男を引っ張っていく。家はそう遠くなかったから、男が力つきる前になんとか部屋までたどり着いた。 男を支えながら部屋の鍵を開けるのは少々骨が折れたけれど、なんとかドアの奥へと男を押し込む。押し込むと言うと何だか感じがよくないが、とにかく押し込む。 小さなソファに男を座らせるというよりは寝かせると、ヘルはキッチンに立つ。 手だけ洗って冷蔵庫をのぞき込む。食材はそれなりに揃っているのだが、今はとりあえず手早くと思い、ウインナーとたまごをそこから取り出した。フライパンでウインナーを炒めて、そこにそのままたまごを落とし一気にかきまぜた。残っていたバターロールにナイフを入れてそれをそのまま挟んでやる。 小さなお皿に載せて小さなテーブルに置く。 「ほら、こっちに来て食べなさい。そこで転がったままなんて行儀悪いわよ!」 「ごはん! ごはん!!」 「まだ熱いから気をつけなさいよ」 「あつい、あつい」 勢いよく一気に口の中に詰め込んでしまいそうだと危惧したヘルが注意を促すと、男は神妙な顔で湯気を立てる即席ホットドッグもどきに息をふーふーと吹きかける。そして、程良く冷めたところを見計らって勢いよく食べ始めた。 「……っ!」 勢いが良すぎて喉を詰まらせたようだ。 「あぁもうほら牛乳!」 こうなるんじゃないだろうかとなんとなく予想していたヘルはすかさず牛乳を注いだカップを渡してやる。ごくごくと牛乳と一緒に口の中の食べ物を飲み込んで男は一息つく。 「死んじゃう、死んじゃう」 「落ち着いて食べないからよ。もう……どれだけお腹が空いていたのよ」 「えっと……すごく、すごく!」 そう言うと、男はヘルをじっと見つめてくる。ヘルは少々呆れて肩を竦めた。 「……まだ食べる?」 鍋に残っていたスープを温めなおして追加のバターロールと一緒に渡してやると、それもあっという間に食べ尽くされた。そこでようやく男は満足したのか、長い手足をうーんと伸ばした。 「ありがとう。えっと?」 「何?」 「誰?」 「今更……」 それはないでしょうと言いかけて、互いに名乗り合ってない事に気づく。 「ヘルウェンディ。ヘルウェンディ・ブルックリンよ」 「ヘル? よろしくヘル! ヘル!」 間髪入れずに勝手に名前を縮めて連呼される。 「……そうよ。で、貴方は?」 「カリシア」 「カリシアね」 「うん、カリシア!」 「さてと、カリシア? もうお腹はいっぱい?」 「うん」 「それならもう動けるでしょう。遅くなる前に帰りなさいよ」 「帰る?」 「そう」 「カリシア、帰るところない。宿無し、宿無し!」 「え?」 「寝るとこ、探す、探す」 「……」 カリシアはあっけらかんとしていて、何も苦に思っていない様子だ。だけど、それを聞いてしまったヘルのほうはそうもいかない。何の義理もないのだから、そのまま黙ってお帰りいただいて何も問題もないだろう。まだ若い女の子のヘルが知らない男の面倒を見なきゃいけない理由はない。何一つ。 だけど、相手は道で行き倒れているような人で、喋れば舌っ足らずの小さな子どものようで。 放り出しても彼は気にしないかもしれない。けれど、彼はまた行き倒れるかもしれない。 ………… 「ヘル?」 「あぁぁもうっ! とりあえず泊まっていきなさい!」 なし崩しにカリシアはヘルの家で過ごすことになった。その日だけでなくずっと。もちろん、ヘルはちゃんと自分の住処を探しなさいとカリシアに言ったのだけれど、カリシアは毎日自由気ままにフラフラしていた。 ある日の夕食。 「ヘルのごはんまずい、まずい」 「まずいなら食べなくていいわよ」 文句を言う割には手を休めることなく食べ続けている。毎日毎日、ヘルの何倍もよく食べる。 それでいてこの態度である。ヘルがムッとしていると、カリシアは勢いよくお皿をヘルに差し出した。 「おかわり」 「……」 図々しいし可愛くない。ヘルは、黙ってお皿を受け取ると野菜のみを大盛りにしてやる。 「えーサラダだけ! お肉、おかわり。お肉!」 「私のごはんまずいんでしょ。野菜は何も手加えてないから美味しくていいでしょう?」 「ヘルのごはんおいしい、おいしい」 慌ててごますりをはじめる姿にヘルは吹き出す。仕方ないわねとお肉も追加してやりながら、釘を差す。 「でも、野菜も食べなきゃだめよ」 「ヘル、ひどい。カリシアのおなか破裂したらヘルのせい」 「破裂出来るもんなら見てみたいわ」 「カリシアのおなか、破裂! 破裂!」 「はいはい」 そしてまた別の日。 「ヘルーおなかすいたーおやつーおやつー」 「はいはい。手を洗いなさい……ってなんで泥まみれなのよ! いやっ! そのまま歩き回らないで!!」 既に点々と泥の後が続いているのに気づいてヘルが悲鳴をあげる。それを聞いてカリシアはケラケラと笑ってみせる。 「ちょっと! 笑い事じゃないんだからね!」 「ヘルこわい、こわーい」 「こわーいじゃな……何よそのポーズ」 カリシアが両手の人差し指を立てて頭の上に並べていた。 「オニ! オニ!」 「オニ?」 「えっとね、肌が赤かったり青かったりして、頭ににょきっと角が生えてて金棒を振り回してるおっかないヤツ!」 図書館に行ってみたら、そういうものが出てくるお話の読み聞かせをやっていたのだとカリシアは言う。 「それでそれが?」 「オニのポーズ」 「で?」 ヘルはもう理解していたが、答えを促してみる。 「ヘルおっかない。オニみたい。オニ!」 「……今日のおやつ抜き!!」 「えぇぇー!? やだやだやだ!!」 とある晩のこと。 「もう……風邪引くわよ?」 「カリシアの服、ぽかぽか。風邪引かない」 「馬鹿は風邪を引くっていう言葉があるのよ」 「カリシアは馬鹿じゃないもん」 「何にもかけずにお腹出して寝てる子をお馬鹿さんっていうの!!」 「真っ暗!重い!」 ヘルに頭からドサッと重たい毛布を落とされてカリシアはしばらく文句を言っていたが、やがて気持ちよさそうに毛布にくるまってスヤスヤと気持ちよさそうな寝息を立て始めた。 「弟がいたらこんなかんじかしら?」 それにしたって手のかかる方だと思うけれど。 そうぼやきなからも、ヘルの口元は緩んでいる。 ヘル自身は気づいているのか気づいていないのかわからないけれど。カリシアの面倒を見ているヘルは嫌な気持ちはしていない。 一人じゃない毎日。 ● ――ヘル……―― 誰? 私を呼ぶのは? ――ヘル、貴方にあげるわ―― 指輪? 綺麗、素敵。ありがとうママ。 ――ヘルウェンディ……ウェンディ……―― 私、貴方を知らない。知らないけど知ってる。 貴方は……パパ? 私のお父さんなのよね? ねぇ、この指輪、ママに貰ったのよ。私にも似合うでしょ? ねぇ、何処行くの? ねぇってば!! ――どうしたんだい、ヘル? 今日はパパのお出迎えはなしかい?―― あ、パパ! おかえりなさい。仕事は終わったの? ――さあ、一緒に帰ろう。ヘル―― うん、帰りましょう。 あのね、パパ。今そこにね、そこにパパが……パパ? ――悪い娘。マフィアの娘―― 私はマフィアじゃない!! 悪い娘なんかじゃない!! ね、ママ、パパ。 ――お前のパパなんかじゃない―― ――私はそんな悪い娘なんて知らないわ―― ――俺の娘なんかじゃない。お前なんて知らない―― ――おまえなんていらない―― そんな、ねぇ、何を言っているの? どこにいくの? おいていかないで!! 「パパ!! ママ!!」 ヘルの叫びが真っ暗な部屋にこだました。 「……夢」 嫌な夢。 何かを求めるように天井に突き出されていた両手。強張るその腕はそろりと下ろしたが、鼓動はドキドキと早く、息苦しさを感じるようだ。 パパもママも、ヘルに優しい。あんな事は言わない。言わないけれど。大丈夫だと抱きしめてくれる両親はここにはいない。もうずっと会っていない。 気づけばヘルの瞳からじわりと涙が溢れ出していた。 「う……っく、つっ……」 「ヘル……?」 小さな異変に気づいたカリシアが寝床から毛布を引きずりながらやってきた。ヘルの頬を涙が伝うのを見て、カリシアはヘルの頭を優しく撫ではじめる。 「ヘルはいい子、いい子。泣かない、泣かない」 穏やかな眼差し、悪意のない瞳。 幼い子どもをあやすように優しく頭を撫でるのは大きな手のひら。いつもと変わらない調子でいてくれるその声。 ヘルはたまらずカリシアに抱きついて叫んだ。 「私だっていい子でいたかった、けど仕方ないじゃない! 私がいると皆が迷惑するんだから!」 堰を切ったように言葉が溢れ出す。言葉が、ヘルの中に押し込められていたものが溢れ出す。 「私の父親はろくでもないヤツで! 私が産まれる前にいなくなって! ずっとずっといなくって!」 「だから、ずっといないもんだと思っていた。最初からいないんだと。気にしてるだなんて素振り見せるのなんて嫌じゃない!!」 カリシアは変な茶々をいれたりせずに黙って話を聞いている。ヘルの頭を撫でる手を休めたりもしない。 「だけど、けど、だけど、父親なのよ。だって、私がここにいるんだもの。父親がいるの」 「父親の事なんて気にして欲しくないの。だけど、そんな事いったら気にするの。パパもママも気にするわ」 「消えないの。私がいる限り。私がここにいる限り、必ず。アイツがいること。私がアイツの娘な事」 ヘルはいやいやと言うように頭を振る。 「私がいなければ。私がいない方が」 「パパとママは神様に誓って夫婦なの。だけど、私とパパの間には何があるの?」 「マフィアの娘なんてお荷物じゃない! 私なんていない方がいいの!!」 ――いない方がいいの!!―― ドンっとヘルの拳がカリシアの胸を叩いた。きつく握りしめられた拳をカリシアはゆっくり解いてやりながたぽつりと言った。 「誰か言った?」 「え?」 「誰かが、そう言ったの?」 ヘルは弱々しくも首を横に振った。 そうだ、誰もそんな事をいっていない。 なんで両親はヘルを心配する。義務で? 違う。そんな人じゃない事はヘルが一番よく知っている。 そんな人じゃないから心配かけたくなかったんじゃないのか。迷惑かけたくなかったんじゃないのか。 でも、そんな人達が私を邪魔になんて思うわけない。迷惑だなんて思わなかったんだ。 ――私が、勝手に思い込んでただけ―― 「ヘル、カリシアがいたら迷惑?」 カリシアが駄目押しとばかりにヘルに尋ねた。 「迷惑よ」 ヘルは迷うことなくそう答えた。けれど、カリシアは怒りも悲しみもせずに続けた。 「いなくなった方がいい?」 「……ここにいたい間はいればいい」 それが、答えだ。 「ヘルはいい子。いい子のカリシアが言うんだから間違いないよ」 ヘルは何も言えなくなって黙ってカリシアの頭を撫でた。思いっきり髪がクシャクシャになるまで撫でた。 「……」 「カリシアもいい子? いい子?」 「……いい子はちゃんと泥を落としてから帰ってきなさい!」 ――帰ってきなさい―― ここは彼女の家。 ここは彼の帰る場所。
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